新59『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし1

2014-09-30 13:52:46 | Weblog

59『美作の野は晴れて』第一部、冬の暮らし1

 当時の田舎での冬の暮らしは、全体としては淡々と過ぎていく。そこには都会のような光のショウもなければ、喧噪もモータリゼーションやファッションなどのにぎやかさもない。しかし、そこには、そこで住む人々の信仰にも似たひたむきな生き方があった。
 冬の小学校には、ビニール製の黒い長靴を履いて通っていた。その中には稲藁を入れて暖かくしていた。外は冷え冷えとし、霜や雪や氷やぬかるみを踏みしめての登校であったので、気疲れや体疲れのすることが多かった。
学校へは、ちょっとした山道を下ったり、田んぼの間の細い道を縫いながら行く。地面も寒い日には凍てついていて、危険であった。地面に水気が多く含まれる辺りでは、毛細管現象により大地の裂け目から水分が吸い上げられ、霜柱が成長していく。土を頭に被っていて、あたかも帽子をかぶっている訳だ。足で踏むと、ミシッミシッと歯ごたえ感のある鈍い音がする。それがなにやら面白い。
 登校の途中、一番危険な所は西下の「畑」(はた)地域を過ぎた辺り、約4メートル幅の田柄川の川越えをしないといけない。この川は川幅こそ狭いが、川底が深くえぐれていて、深く切り立っていた。そこには欄干のない木製の低い橋が架かっていた。その橋の付け根のあたりは積雪で盛り上がっており、その下には氷がつららとなってぶら下がっている。道を踏み外すと橋から転げ落ちることもありうる。落ちたらそこは濁流で、ひとたまりもない。だから、橋の上を歩いて通る時にはふざけたりしてはならない。落ち着いて、心を注意の意識で満たしてから、慎重に「石橋をたたく」ようにして真ん中を歩くようにしたものだ。
 小学校や農協に続く西中の大通りに出ると、そこからは車の轍や人々の足跡で雪が踏み固められていて、所々はアイスバーン(氷が張った舗装道路)のように凍っていた。牛や馬とおぼしき蹄の跡も残っているような時代であった。牛などはもともと暑いところに産した動物だそうだから、冬の寒さはからだに応えたに違いあるまい。
 「ハアフウ、ハアフウ」と白い鼻息を寒気になびかせながら人間に追われて歩いていったのであろう。 その往来であるが、低学年の頃には、車がとおっていないと見ると大胆不敵な心持ちとなって、氷が表面を覆っているところを選び、助走で勢いを付けて滑りながら歩いていた。今から思うと、ずいぶんと危険なことをしていたようである。
冬の学校では、石炭ストーブで暖を取って、勉強していた。その当番の日には学校にやや早く行く。教室に着くと、用務員さんがストーブを立ち上げてくれていた。石炭ストーブはキューポラ(小さな溶鉱炉)のような縦に長い形をしていた。前の日に用務員さんが掃除石炭の準備をしてくれている。当番に与えられた役目は、ストーブがあぶない方向に行かないかを見ることであった。
 火をつけるときには、丈夫にある鉄製の丈夫の蓋を開けてまきをくべ、下の灰の掛け出し口から新聞紙をくるめてその間に挟み入れる。それからマッチ棒を擦して火を付ける。まきは細いほど、皮が付いているほど小さな火種と絡んでうまく燃えつく。まきが燃えだしたらしめたもので、掛け出し口を閉めて、側面の空気の取り入れ口のみ開けておく。
 そこから火の勢いを見る。小窓から覗くと、あの黒々とした石炭が赤い炎を揺らめかせて燃えている。ストーブは教室の中央やや前にしつらえてあり、その丈夫側面から立ち上がった煙突はグンと窓側に伸び、ブリキでくりぬいた穴から外に通じていたようである。
 朝の授業の始まる頃には、じんじん冷えていた五体がじわじわぬくもってくる。やがて、その熱による暖かみ体に十分に沁み込む。誠にありがたい。それでも、席の位置によってはしばらくは寒いこともあるので、両手を腰掛けの上に敷いている座布団とおしりの間にすり込ませたり、こすり合わせたりしたものだ。
 寒さでつらいのは、凍てつく外界に、体育の時間か何かで、運動場に出たてのときである。はじめはブルブル体を震わせていた。足の先も寒いので、時々こすり併せるようにしていた。しかし、運動していて少したつと、そこは腕白盛りの子供のこと、凍てつく寒さもどこへやらとまではいかないが、そんな事にはお構いなく、風のように飛び回っている感があった。
 冬の間は寒く、「しばれる」という言葉がふさわしい。身が縮んでいるような気分がしていた。そんな日には暖をとればいい、熱いものを食べることで元気になろう。ということで、元気を出すには大地の栄養をいっぱい取り込んださつま芋を食べるのが手っ取り早い。蒸芋(ふかしいも)は母がよく作ってくれた。まずは、家からほぼ30メートルの坂の上、墓の北の畑の後ろに建てられている「きびや」と呼ばれる、主にまきやたきぎを蓄えている茅葺きの建物に向かう。それは、我が家が本家から離れて「分かれ家」となってからの、代々の墓所の裏手に位置している。
 その「きびや」の土台の下の地面には穴が掘ってあった。屋根の銭よりも内側に穴が掘られていて、そこには雨露が入らないように出来ている。その穴には乾いた籾殻が一杯入っていて、乾燥している。その中に手を入れて少し籾殻を掻き出すと、中から穴毎にさつま芋やじゃがいも(「きんかいも」と呼んでいた。)などが蓄えられていた。穴の中は冬場でも相当に暖かい、実にうまい具合にできている。私は、母の言いつけでそこに行き、その穴に入り込んで、バケツとか袋にさつまいもを詰め込んで家に帰ってくる。
 母は私からそれを受け取ると、かまどで飯炊き鍋に湯を沸かし、餅つきの時餅米を蒸すのと同様の仕掛けで芋を蒸(ふ)かしてくれた。本当は高温の鉄の窯(かま)でゆっくり、時間をかけて焼成するのが最上らしいが、家庭ではそういう訳にもいかない。
 私の役割は、かまどの火を燃やすことと、時折釜の蓋を開けて、蒸し具合を調べることだった。釜の中の水が少なくなって来る頃では、火を弱めて、余熱で蒸す。蓋を開けて、箸を芋に差し込んで、出来具合を確かめる。少し固さが残っている位の方が、余熱でもっとおいしくできあがる。火を止めて、蓋を過ごしずらし加減にすると、湯気とともに、いい臭いがしてくる。蒸芋ができあがったのだ。さっそく、あつあつの一本を母からもらって、おいしく食べていた。
 焼芋をつくるのは、落ち葉でたき火でするのと、籾殻を焼いてその中にくべるのと二つのやり方でしていた。たき火は、大人がいないとやってはならない。おじいさんにやってもらって、私はその手伝いをした。家の庭や畑の真ん中を使って柴や松ぼっくりを燃料に火を付け、火勢が盛りを過ぎた頃に芋をくべる。またあるときは、風呂焚きをしていて熱くなった灰の中に芋を埋めたりした。
「かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
北風 ピープー 吹いている」(作詞・作曲は巽聖)
 焼いたさつま芋の美味しさは、ほっかほか、あつあつのびっくり感、それでいてしっとり感、それにふんわり感もそこそこある。自然の風味と香りを引き出す魔法がそこにあるようで、その頃はそうして食べるのが最高だと思っていた。
 保存食の中では、やっぱり餅だろう。正月前に作った餅は種類も量も沢山あって、作りたてのうちに白粉(しろこ)をまぶしてから、風当たりのよい部屋に運んで乾燥させたものである。一番おいしく食べられるのは「あんころ餅」(中にあんこを詰めた餅)だが、餅つきのときのみで保存食としては作られなかった。残る一つは、まず白い普通の餅。二つ目はよもぎ入りの餅、そして三つ目は大豆や黒豆入りの餅だ。ほかに、食したことのない餅もある。因美線の県境から線路づたいに行くと、鳥取県智頭(ちず)にさしかかる。この辺りでは、今もトチの実を混ぜて餅にするらしい。その実は秋に熟し、3裂して赤褐色でつやのある種子を覗かせる。トチの木はかじると苦く、「さらして食べる」とある。私たちの地域では、水にさらして食べる習慣はなかった。智頭地方みたいに、いろりの前で「トチの実入りの餅」を食しているのは、こちらには伝わってこなかったのかもしれない。
 保存食としての餅の食べ方は、正月以外は、やはり焼いて食べるのが一番だろう。家の土間に七輪を置き、それに餅を載せて炭で焼いていく。片面が柔らかくなったら、裏返してもう片面を焼いていく。一遍に4、5個を載せて焼け具合を注意深く観察することを怠らないのが大切だ。と、ある時点で餅のてっぺんが持ち上がって裂け始める。さらに、もう少し時間が経つと、「プウッ、プウッ」と2段階くらいでふくれ始める。そうなってはいけないので、七輪の火の勢いを早めに弱めるのがよい。
 そのままふくれすぎると、中が空洞となっておいしさが損なわれるので、ふくらみ始めたら素早く七輪の周辺部へと箸を使うか、手づかみで移動させる。
 出来上がった餅は、さとう醤油に付けて食べると最高だ。あつあつの餅の一端を手で横に引っ張ってちぎり、「フウッ、フウッ」と息を吹きかけて冷ましながら、次から次へと口に運んで、2、3個ぐらいは平らげたものだ。
 冬場にとれる野菜は限られる。ネギや大根のように、秋の畑で大きくなったものをそのままにしておいて、早めに食べていくこともしていた。しかし、野ざらしにしておくと、どうしてもひからびたり、変色したりして、足が落ちてしまう。そこで、大方の大根は「きびや」や鶏小屋の軒先に架けて、そのまま「天日干し」にしていた。
 天日干しにしたものは漬け物にしたり、さらに細かく刻んで「干し大根」にすると、保存食となってよい。料理では、さっと湯がして切干し大根や酢の物にしたり、混ぜご飯の具にしてもよい。生で残った大根は、少しずつ畑に行って引き抜き、その時々の料理に使っていた。生でおろしてよし、そのまま包丁を入れて煮てよし、糸のようにスライスして甘酢漬けにしてもよい。もちろん、漬け物にするとこりっとした歯ごたえのよさと甘ずっぱさが口全体に広がる。夏場にとれた南瓜は、私にとって冬になっても幸せを運ぶ野菜だ。母はそれをてんぷらにしたり、ほかほかの煮物にしてくれた。
 南瓜は余り大きくないこぶりのものがいい。どっしりした臼型より太っただんご型のものがあれば、太った茄子のようにやや長いものもある。どちらかというと、丸く小さなものの方が身が引き締まっていて、甘さも格別だった。南瓜の煮物ができあがると、ほっくほっくした様になっている。南瓜の食べ方は、当時も今でも一般とは少し変わっていて、あつあつに煮えた南瓜を熱いご飯の上で押しつぶし、少しずつご飯と混ぜ合わせて食べていた。私にとっては、こうして食べるのがたまらない程おいしい。
 玉葱は、鶏小屋や「きびや」の軒先にたすき掛けにして吊してあり、カレーライスや煮物を作るときに使われていた。玉葱は、たまにお客さんが来て鶏肉を煮るときには不可欠の野菜で、とろけるような甘さを引き出していた。保存食の野菜ということでは、夏場に収穫して天日干しして作ったかんぴょうは、なんとなく気品の漂う食べ物である。なんとなく縁結びの紐みたいで、食べると縁起がいいというのも頷ける。ということで、おめでたいことが目当ての正月料理には、特に具材に重宝して使っていたようだ。
 おせち料理として他の具とともに重箱の片隅に添えられたりしていた。かんぴょうは薄味で甘く煮てもらう。こうすると、かんぴょう本来の上品な甘みがして、ときには「かんぴょう巻き」や「まきずし」にしてもらい、おいしく食べさせてもらっていた。冬の料理に欠かすことができないのは、やはりその代表格は根菜類ではないか。お隣の韓国では、根菜類を「医食同源」の観点から冬のおすすめ料理にしているらしい。
 当時の我が家では、最も一般的なそれはじゃがいもであった。大根に劣らず冬に食べる野菜の横綱格だと思う。こちらの意外においしい食べ方は、蒸して食べる方法だ。蒸してから皮をむいて、それに塩を少しふって食べるとじつにおいしい。もう一つのおいしい食べ方は、母が作ってくれるサラダだった。人参と一緒にゆでたじゃがいもをヘラを使ってすり潰し、それに塩とかで味付けしてあった。
 冬の魚取りは、寒い中での根気のいる作業である。こんな時には、魚も水面近くになかなか浮かんでこないので難渋した。水面に氷が張っているときは尚更、捕るるのが難しい。あれから何十年もたった今、人から「釣りに夢中になっていると、いやなことが忘れられた」というのを聞くと、「なるほどそうなのか」と合点がいく。
 手っ取り早いのは、狐尾池の小蝦を丸玉と呼ばれる大網ですくって採りに行くか、水のたまった田んぼにタニシやどじょうを拾いに行ったものだ。池に蝦をとりに出かけるときは、あらかじめ蝦を集める仕掛けをしておくことが多かった。蝦の食べ方としては、やはり他の最中たちと一緒にして似ることが多かった。ただ、量が多いときは、単独の鍋で母が煮ていた。にだってくると、味見してみた。蓋を開けると、甘辛いにおいとともに、赤く色が変わった蝦が鮮やかに眼に写った。
 タニシは家で「しょうやく」をしてから佃煮のごとく水分がなくなるまで煮詰めてから食べた。田舎では、「カラスガイ」と呼んでいた二枚貝が池にいて、そいつを朝方に取りに行く。岸から池の中に筋がついている先に踏み込むと、その貝がが面白いように取れた。小さい子供は放して、大きくて膨らんでいるものだけを竹製の「びく」に入れて、意気揚々持ち帰った。
 鮒は、大きいのもあれば、小さいのもいた。小さいのは、今から思えば、池に返してやればよいようなものだが、そうしてはいなかった。小さい鮒は、家に持ち帰ってから、何度も水で洗って泥を吐き出させてから、蝦や「どほうず」などと一緒に甘辛く煮ていた。大きい鮒はといえば、こちらは内臓を取り出してから、竹の串に次から次へと刺していく。串が何十本もできるくらいの豊漁の時もあった。それを家のかどに旧ごしらえで造った天井のない竈のようなもの(煉瓦や大きな石で回りを囲ったもの)で、後家内ように注意しながら、少しずつ焼いていくのだ。この焼く作業は最初は少しでやめておき、日を置いて少しずつこんがりと焼き上げていった。
 どじょうは池から水路を上って田んぼにまで行き、そこで土中に冬ごもりをする。そうした田んぼの水たまりのところの氷を取り除き、鍬(くわ)で柔らかい表土を掘り返すと、
そこは少し暖かいようで、どじょうが潜んでいたりする。土籠もりのどじょうを捕まえて家に帰ると、きれいな水を入れたバケツの中を一日くらいは泳がして泥分をはき出させる。
 同じ日本でも、北国ではそれをどじょう汁や蒲焼きにして食べるらしいが、僕の家では母が甘辛く煮てくれた。
 珍しいところでは、用水路や清水の湧き出しているところに川蟹がいた。蟹は慌てると縦にも歩くようだが、横に歩く蟹の動きを読んで素手で捕まえ、ビニール袋か何かに入れて家に持ち帰った。こちらは、母に料理してもらうというのではなく、私たち村の子供が夏には罠を張って採取した小鳥をたき火や風呂炊きで焼いて食べていたときのように、小蟹の甲羅を焼いて丸かじりにして食べていたように記憶している。

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新57『美作の野は晴れて』第一部、冬への備え1

2014-09-30 12:09:29 | Weblog

57『美作の野は晴れて』第一部、冬への備え1

 我が西下内には、川と呼べるほどのものは二つほどしかない。湧き水は内に幾つも見られるし、我が家を含め、3軒で共同の泉を井戸にしていた。東の田んぼに行くと、山や丘陵や谷や田んぼ、そして小川の川岸には、ガマとか、アシ、それにカヤなどが繁茂している。その中を、山形、西中の方から田柄川が流れている。川は大地に水を運んできて、生き物たちを育んでくれる。それでも、雨が多く降ったときには見掛けで、5、6メートルの濁流となって流れる。そこに落ちれば、子供だけでなく、大人だって命を落としかねない、危険な川に変貌する。
 美作の地に早々と季節は巡っていく。年によっては、稲の収穫の少ないときもあった。一番はいもち病で、夏の日照時間が少ないときが危ない。稲がこの病気にかかると、さやに米粒が入らない。日照りの夏が続くときは、稲は枯れてしまう。台風で稲がなぎ倒されたりして、水に浸かってもその後の稲の生育に影響を与える。いずれにしても、昔から農業というものは自然が相手、天候に大きく左右される。これを生業にするには、浮き沈みを覚悟してかかるしかない。その当時は、一反当たり籾袋が七俵を超えると豊作といってよく、これが五俵を下回ると不作の年といわれる。
 稲のできの善し悪しは、これに生計を頼っている多くの農家の屋台骨を脅かす。農家の家計は農協に丸抱えの状況であった。その口座には掛買いが貯まっていって、その借りを秋の米の収穫による入金で返すシステムとなっていた。なんのことはない、農協による農家経済の丸抱えである。これが年の暮れに赤字のようだと、新たな借金や融資で当面を凌ぐことにもなってしまう。
 このあたりで麦の栽培についても触れておこう。麦の藩種期は前年に稲作が終わって直ぐ、冬の到来の前に始まる。麦の種類には、大麦と小麦、裸麦にライ麦といろいろなものがある。我が家のは自家用で、おおかた大麦と裸麦である。ほかに小麦粉を取るために小麦を少々植えていた。大麦の場合でいうと、これから種を撒こうとする田んぼや畑には、予め苦土石灰を撒いておく。化学肥料も惜しみなく用いる。しかし、大地に与える肥料の基本となるのは有機肥料であった。当時の我が家では、麦は自家用で食べるだけであったから、コメの裏作ではなくて、大部分は畑で大麦などを栽培していた。
 種蒔きの時期の狙い目は、11月の中旬くらい。天候のよい日を見計らって麦の種を撒いていたように想い出される。畑に麦の種を植える場合には、前もって鍬を使って畝と谷をつくっておく。その上で、西の空が朱色に染まる夕暮れ時まで、日がな一日、みんなで谷の部分に麦の種を撒いては、その上を畝からの盛り土で埋めていく。
 一方、コメの収穫の終わった田んぼには、来年のための堆肥を撒いておいて、地力を回復させておく必要がある。それが、この辺りの農家が長年の間に培ってきた技術である。予め、父が耕耘機のトレーラー(荷台)で載せて田圃のそこかしこに運び、ところどころ山積みに卸されている。私たちは、その小さき山に「フォーク」と呼ばれる鉄製の鋭い何本ものくしの付いた農具を刺し込んですくい取る。手提げのまま、まだ堆肥を撒いていない場所まで運ぶ。それから、頃合いを見計らって左から右へ、または右から左へ大きく振って堆肥をばらまく。堆肥は熱を持っている。堆肥を田んぼにばらまくと、冷気に当たって湯気が立ち上る。そうするうちにも、陽はさらに西へと傾く。
「日がもう暮れるけん、はようやらんといけん」
とプレッシャーを受けながらの作業になることが多かった。
 堆肥は、軽いものばかりではない。稲藁(いなわら)にボテボテの牛の糞がくっついているものを持ち上げると、腕と腰にズシンと来る。その上、下は稲を刈り取った後なので、その切り株に足をとられないようにしなければならない。
 それでも、日が暮れる頃には、田んぼに植える部分にはどうにか稲藁堆肥を巻き終えたようだ。父はといえば、もう一枚の田んぼの端の方から耕耘機を入れて、耕し始めている。耕耘機の後ろで鋭い刃がきらめきながら回転し、耕耘機の動いた後には掘り返された土
と稲の切り株が続いていく。なるほど、機械技術はすばらしい。
 たかが、一日仕事というなかれ。日が暮れても仕事を続ける父を尻目に、母や祖父母と一緒に家路につく私は、全身全霊をつぎ込んだ後の脱力感で、足がふらついていた。当時の農家の子供達の大半は、休みの日はそうした労働に従事していたのだろう。しかし、今になって顧みると、骨格と筋肉の発達の度合いからみて、あの頃の労働は少し過酷であったのではないか、と考えられる。
「遠きやまに 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なしおえて
心軽く 安らえば
風は涼し このゆうべ
いざや楽しき まどいせん まどいせん」(ドボルザーク作曲、堀内敬三訳詞)
 薬草のことは、農事の合間にさまざまに教えられた。祖父や祖母から手ほどきを受けたものだ。薬草の種類はいろいろある。げんのしょうこ、せんぶり、どくだみ、おおばなどをめざして、田んぼの付近の野原の淵辺りに探しに行った。数ある薬草の中でも、どくだみは、やたらと腫れ物が出ていた私には有り難い。手みしたどくだみの葉を少し焼いたあと、患部に貼ってその上をテープで固定しておく。一日おいたら、母に頼んでガーゼを次のに取り替えてもらう。粘り強くそれを繰り返すうちに、腫れが熟して口が開き、周りから押すと、患部からたくさんの膿が出てきて、何とも不思議だ。
 せんぶりは小さい薬草で、西の田んぼに接する山際に生えて。葉は線形で対称をなしている。筋の入った白い花を目当てにして探すとよい。生でかじるとひどく苦い。こちらは煎じて薬とする。整腸剤であったのかどうかは知らない。何かの時にということではなく、日常普段に飲む番茶(ばんちゃ)に他の薬草と一緒に入れて湯立てる。煮汁は大変苦いので、母から勧められて腹痛のときだったか、何回かは呑んだが、最後まであまりに苦いので飲み干すことはしなかった。
 じねんじょ(山の芋)掘りのことも懐かしく思い出される。山芋のなかには空中の蔓に付けるものもあった。それを「かずら梨」と呼んでいたのかは知らない。やはり大きいのは土中にあるものである。
 備中鍬(みつご)では深く掘れないので、「ま鍬」と呼ばれる厚手の鍬を担いで出かける。その父が、たまに「おい、おとうちゃんはこれから山芋を堀りに行くけん、おまえも行くか」と誘ってくれるときがある。
「うん、行く」
 父の誘いに後に喜び勇んで、手には袋、ま鍬を肩に背負って、父の後に従う。
 父と一緒のときは、山道を歩いていくのに何か安心感があった。父の背中を意識しながらも、話しかけるのはよしておいた。その頃は、いつも寡黙な父であった。山は紅葉の盛り。葉が垂れ下がっている処もあって、刻々と煌めく木漏れ陽に照らされて美しい。手に取ってみると、葉にはたくさんの皺が刻まれている。きんもくせいが橙黄色の花を咲かせていて、蜜のような香りが漂う所を過ぎていく。
 山里の晩秋から冬にかけての自然の彩りに誘われて、いつしか山に分け入っていた。「ケーン、ケーン、クウクウクウッ」と、おそらくは雉(きじ)が鳴いていた時もあった。
 顔を回して耳と眼を総動員しているうちにふと父が立ち止まる。「むかご」(山芋の肉芽)を見つけたのだ。それは地面にもパラリと落ちている。これがあるということは、じねんじょがある。あたりの雑草や古木をかき分けるようにしているうちに、くさの蔓に行き当たる。父が、太い指で蔓をたぐるようにして根のありかを突き止める。
「ここに蔓があるじゃろう。ここに山芋があるけんな。ええか、狭うて危ないけんなあ。お父ちゃんが先に掘るからおまえは後にどいとけよ」
 父がま鍬を握って前へ出て、そのま鍬を頭上に振りかぶる。根は相当に深いので、太い幹が出てくるまで掘り進むしかない。掘るのは、傾斜の急なところで半身になりながら、ま鍬を使う。初めはかなり離れたところから掘り進んでいく。そうでないと、穴はV字状になるので、縦深く成長した芋を痛めてしまうことになる。
 しばらく経って、幹が太くなってくる。
「大けな山芋じゃなあ」
「ほう、こいつは深いところにあったなあ」
 一呼吸置いてから、私が差し出した袋の中に入れてから、
「泰司、今晩は、おかあちゃんにいうて芋汁にしてもらおうな」
 父がそう言いながら、嬉しそうに後ろに控えている私に目配せした。黒い顔に黄色い歯がむき出しになって、何やら凄(すご)みがあった。
「おとうちゃんは、顔が赤うなっとるな・・・・・。いつもとはちがうな。きょうのおとうちゃんはなんとのう、うれしいそうじゃなあ」
 穴の脇に陣取って、そんなことを考えていると、
「よし、今度はおまえが少しやってみい。ええか、よう足を踏ん張ってからやらんといけんぞお」
父に促されて、私がかわって鍬を振るう。
「ようーし、ぼくがやっちゃるけん」
 足場が決まると、狭いところなので用心深く鍬を振り上げ、それから全力で振りおろす。狭いところをめがけて鍬を正確に振り下ろさないといけないので、芋蔓を痛めないように神経をやたら使う。直ぐに汗だくになる。何度も鍬をうち下ろしていると、顔も首も腕も飛び散った泥にまみれる。
「よし、もうちょっとじゃ」
というところで、父と交代してもらう。
 じねんじよ掘りからの帰り路、太陽はもう西の山際に傾いていて、西の空が茜色に染まりつつあった。
「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む
ぎんぎんぎらぎら日が沈む
まっかっかっか 空の雲
みんなのお顔も まっかっか
ぎんぎんぎらぎら日が沈む」(作詞は葛原しげる、作曲は室崎琴月、編曲はおおたかしずる)
 その日は、父と一緒に働くことができた。働きぶりを、なんかこう父に認めてもらった気がした。そのむき出しの歯につられて嬉しくなって私も笑顔で答えたものだ。
 山芋を掘った穴は、きちんと土を埋めておく。あとで事故や山崩れの原因となるからだ。山芋の茎の付け根に付いていた球根状のムカゴは採取してポケットに入れておく。
 持って帰ると、さっそく祖父と祖母、それに母に見てもらった。収穫した芋は、バケツの中でよく水洗いしてから、今度はタワシを使って窪んだところに付いた泥を丁寧に取り除く。それでもとれないときは、冷水に浸して数時間そのままにしておく。それでもとれない泥やひげ根は鎌や包丁の先で少しだけえぐり取っていく。髭根は指でつまんでできるだけ引き抜いておく。皮を剥かない限り、全部の髭根を引き抜くのは無理だ。
 母の指示で、それから大鉢のすり鉢(スリコギ)に入れ、すりこぎ棒を「グルーリグルーリ」回して、その間にじねんじよは粘りを増していく。
 因みに、スリコギはメソポタミアのウル遺跡からも発掘されているのだそうだ。後は、私がその作業を繰り返しながら、兄か母がすり鉢が一杯になるまでお玉杓子で野菜の具の一杯入った味噌汁を注ぎ込んでいく。味噌汁が全体として赤身を帯びてくるのは、どういう訳かは知らない。全体として泡立っていて、いかにも山の幸がふんだんに入った山芋汁
の感があった。
「てきたでえ」
私が大きな声を張り上げると、
「どうれ、見せてみい。・・・・・おお、ごちそうじゃのう」
と言って、祖父が近寄ってきてすり鉢の中を覗き込む。
 この手伝いをしている傍らでは、竈に架けられた羽釜(はがま、つばがついている飯炊き用の釜)が泡を吐き出して煮立ってくる。「はじめチョロチョロ、中パッパ、赤子泣くとも蓋とるな」といわれるが、泡がひととおり吹き出した後は、燃焼中の薪を竈の奥から入り口付近へと引き出さないといけない。最後は火を完全に引いて15分ばかり蒸らすと、おいしいご飯(ママ)の出来上がりだ。
 さっそく、出来た暖かいご飯に、ほっかほかの芋汁をお玉杓子を使ってかけていただく。うまいものを食べるときには、人は夢中になる。なりふりかまってはいられない。どんぶりの端に口を付けて箸でまるごとズルズルと半ば呑み込むようにして食べる。あの「じねんじょ」のねばりが舌にからみついてくる。残っている髭根を吐き出しながら食べた。いまの人が蟹を食べているときのように黙々として夢中で中身を口に運ぶ。食べているうちに口の周りがむず痒くなる。他にはおかずはもう要らないほどのおいしさであった。
 山芋を掘るついでに持ち帰った「むかご」(山芋の肉芽)も入れて食べるので、それが時々歯に当たってコリコリする。こらちも噛むと、ズルッとくる。山口県の周南市の郷土料理に「山子ご飯」と炊込みご飯があって、山芋を親、むかごを子にして、米と干し椎茸を入れてご飯を炊く。出汁は、干し椎茸の戻し汁に塩、そして梅昆布茶を加えるのだそうだが、これで炊くと究極のおいしいご飯ができあがるというから、じねんじょ料理は幅も広い。
 今でも、その時の光景を克明に覚えているのは、私の一家6人がそろって元気でいた頃の記憶だからなのだろうか。
 あれから50年余りが経ち、ここ埼玉の片田舎においても、地元の農産物販売所には「ヤマト芋」とか「じねんじょ」が売り出されるときがある。値段は1キロ当たり2千円くらいもする。天然の山芋で作った「芋汁」(こちらでは「とろろ汁」と呼んでいる)をあつあつのご飯にかけて食べる習慣は、ここでも昔から根付いて久しい。
 美味しさの源はやっぱり「粘り」だと思う。そのことは、一度でも食べたことのある人にはわかる。長芋や「いちょういも」にはない粘りがある。こってりとした舌ざわりで、味わいが濃厚というか、深いこくがある。それを「ズルズル」と音をたてながら食べていると、口の周りがかゆくなることもある。饅頭のような形状をしたやまと芋(つくね芋)は関東の地で食べられているようであるが、私の子供の頃のみまさかでは天然に自生しているもののみならず、栽培されているという話も聞かなかった。
 粘りといえば、この関東での自然薯の別名である「ヤマト芋」とともに、代表格であるのは、納豆である。その納豆と似たものに「テンペ」がある。大豆といえば、大豆の発酵食品テンペが岡山市やその西部の矢掛町などで造られ、食されるようになっている。このこのテンペは元々インドネシアの産物で、向こうでは揚げ物や炒め物などにして400年前から食べられているようだ。そのテンペを日本で製造することを岡山県工業試験場が研究して、その成果がいまや岡山の地に根付いていることを最近のNHKテレビ『小泉武夫(NPO発酵文化推進機構理事長)の発酵漫遊記、謎のお宝発酵食、岡山の発酵食テンペ』(2015年2月19日の『ゆうどき』で放映)が伝えている。その製造方法は奥が深く、「テンペの父」と呼ばれる同試験場の野崎信行氏らの研究の御陰で確立されたとのことであり、番組では岡山市の女性たちが試験場の始動の下でテンペを製造している現場が紹介されていた。詳細は企業秘密らしいが、大豆を、納豆を造る時より低い30度くらいの温度で圧力釜で炊き、テンペ菌を加える。温度が高くなるとよくないので、部屋の温度を一定の温度に保つのが難しい。したがって、これを家庭でつくるとなると設備や環境の問題があり、無理なのかもしれない。岡山で売られているのは、豆腐一丁くらいのおおきさのものが270円くらいと少し高いような気もするが、なにしろ抗酸化力のある食べものとしては代表的なものであり、肉の代わりにしても差し支えないほどのボリュームがあって、食べながら血管が強くなるというすぐれもの食品であるとのこと。食べ方も幾つかが紹介されていて、テンペとひじきの炒め物なんかは、もちもち感、粘り気がたっぷりあって、まるで栗のようなえもいわれぬ味だとか、炊き込みご飯にしてもおいしく頂けるらしい。こちら関東でも健康食品の棚にあるらしいので、一度は食べてみたい健康食に違いない。

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新55『美作の野は晴れて』第一部、母の青春    

2014-09-30 10:04:59 | Weblog

55『美作の野は晴れて』第一部、母の青春  

 勝田郡奈義町の関本(せきもと)は、母の実家のあるところである。小学校を卒業するまでは、年に一度か二度くらいは行っていた。母と子供二人の旅となる。母にとってはご機嫌伺いを兼ねた里帰りなので、その日はこの関本地区の三穂神社の祭日か縁日に重なったのかもしれない。今も記憶にはっきり残っているのは、母方の祖母の勢喜(せき)がまだ元気でいて、実家に帰る母も、実母との久しぶりの語らいができるという張り合いがあったのではないだろうか。
 出発したのは、その日の前日の午後のこと。国道53号線まで歩いて出て、そこから午後に津山駅発の行方(ぎょうほう)行きの中国鉄道バスに乗る。それより奥の馬桑(まぐわ)行きのバスは、便数が少ない。そして、その日が来た。日頃の行いがよいのだろうか、その朝の日の出からよく晴れていた。遮る雲一つないほどの秋の日差しが地上に降り注いでいた。旅の用意をしてから家の庭に出ると、それは、狐尾池の水に弾け、その水面を眩しいほどに光らせているようだ。
 上村まで、足早に30分ばかり歩いて、行方(ぎょうほう)行きのバスに乗った。日本バラを通り、さらに滝本(たきもと)を過ぎると、北側が豊沢(とよさわ)、南側が広岡(ひろおか)が視界に入ってくる。車窓から見る景色に見入っていると、ここはもう奈義町で、母の故郷なのだ。広岡から南に向けては、現在立派な道(県道51号、美作奈義線)ができており、これに乗って南に下ると、勝田郡勝田町の役場、さらに英田郡美作町の役場のある(JR西日本の姫新線林野駅)辺りにつながっている。
 母の「定子」(さだこ)は、1928年(昭和3年)3月に、当時の勝田郡豊並村関本(かつたぐんとよなみむらせきもと)に在住の為季文蔵(ぶんぞう)、勢喜(せき)夫婦の四女として生まれた。一番の姉、二女、姉、それから兄、二男、弟の6人の兄弟姉妹がいた。だが、二女と二男が子供のときに亡くなり、大人に育ったのは5人だと聞いている。
 後年の、わたしへの母の手紙に履歴が載っている。
 「為季文蔵・勢喜 四女
定子(さだこ)
昭和三年(一九二八年)三月十五日出生
勝田郡豊並村関本八七三番地
豊並尋常高等小学校高等二年卒業
勝田郡奈義町青年学校三年卒業(今の日本原高等学校)
青年学校教師の推薦に依り豊並村行方郵便局勤務
昭和二十年八月十五日終戦詔勅豊並村役場で聞く。
 当時は戦争の最中で食糧不足物資不足でサマータイムで一時間早くから働く時代でした。学徒動員で女子も挺身隊に動員され、工場に働きに行った時代です。
 (豊並村)は、今の奈義町は豊田村、豊並村、北吉野村の三か村が戦後合併され出来た町です。勝北町も同時い新野、広戸、勝加茂の三か村が合併した町です。私たちの村では、当時は津山の美作女学校に行った人は小学六年卒業で四〇人程の生徒の内、村の富裕の家庭二人だけでした。
 戦争中でしたので尋常小学校卒業八年間勉強した後、看護婦さんに大勢出勤されました。軍需工場に行った人も有りました。残った私達が豊田村に有りました奈義青年学校に進学しました。男子生徒とは別々の勉強(男子は主として教練でした。)
 教室で裁縫生花のお茶普通の学科等習いましたが、軍人勅諭等も当時覚え竹槍訓練なぎなた等も訓練しました。日本原演習場で宿泊して兵隊さんに訓練を指導して貰ったこともあります。消火訓練もしました。軍人の留守家庭農家の農作業に勤労奉仕にも行きました。余り勉強は出来ませんでした。英語は絶対禁止の時代でABCだけ先生が内緒で教えてくださったのを覚えております。
 青年学校は毎日往復二里(8k)約三年余り通いました。バスが時々通るだけで交通は静かでしたので、帰りには学校の教科書または○雑誌等歩いて読み乍ら友達と横になって歩く事も度々でした。タクシーはお医者さんだけでした。帰った時休みの時は家で農作業をみんな手伝っておりました」(2000年5月5日の手紙より抜粋)。
 その頃の母の写真が2枚残っている。1枚は、田舎歌舞伎か何かの紅白粉姿で写したものである。いま1枚は、青年学校に通っていたときのものである。
 17歳になった母は、青年学校(現在の日本原高校の前身)教師の推薦があって豊並村行方(ぎょうほう)郵便局に勤めた。
「郵便局では局長さんとは時々出勤され、私を含めて事務員さん8人と郵便さん4人居りました。終戦の日郵便さん一人と女の友達二人で泊まりをしに家から夜の御飯をたべて帰って居りました時、8月15日午後6時頃、B29の飛行機が低く飛んでいたのを覚えております。(夜はよく電報が入っておりましたので)それを受けて郵便さんに渡し夜配達しておりました」(同)。
 この辺りになぜB29が来ていたのかは、この地は1908年(明治41年)から陸軍演習地となっていて、当時陸軍の部隊が駐屯していたことがあるのではないか。
 1942年(昭和17年)8月、ソロモン島での二度の海戦(特にガダルカナル島の争奪戦)で日本海軍がアメリカ軍に敗退し、日本側は多くの船舶と兵員を失った。1942年(昭和17年)4月には、東京に初めての空襲があった。太平洋上の米空母ホーネットから飛び立ったB25双発爆撃機の16機が飛来して、爆弾を落としていったのである。
1943年(昭和18年)2月には最南方のガダルカナルから日本軍が撤退を余儀なくされる。同年、ソロモン群島とニューギニアを中心に両軍の攻防が起こり、アメリカの空母が展開するに至る。1944年(昭和19年)にはマリアナ群島のサイパン島(7月、これより前の6月にアメリカ軍が上陸していた)、フィリピンのレイテ島の日本軍が陥落し、それからは米軍機の日本本土へのB29戦略爆撃機による空襲が頻繁になる。
 明くる1945年(昭和20年)の1月から2月にかけては、フィリピンのルソン島、硫黄島など日米の激戦が繰り広げられる。特に、2月19日~3月26にまでの硫黄島の戦いでは、日本の守備兵2万933名のうち2万129名までが戦死した。日本軍が玉砕した後は、アメリカ軍はこの島からB451戦闘機の護衛をつけてB29戦略爆撃機を昼間の本土爆撃に出撃できるようになったことがある。
 母の故郷へのB29戦略爆撃機の飛来のおよそ2箇月前、1945年(昭和20年)6月22日、海軍の「1式特攻」などの生産を行っている三菱重工水島航空機製作所が空襲されたのが、岡山県下への本格攻撃の最初とされる。続く28日から29日にかけての夜、B29編隊約143機による、朝まで正味およそ4時間にわたり岡山市への空襲があった。その時は、岡山の警報が遅れた。この時の攻撃目標は多方面に渡っていたようである。アメリカ空軍の当夜最大の攻撃目標は、三菱重工水島航空機製作所を壊滅させることであった。空襲前に撮影された米軍の写真には、「岡山工場から4マイル、高さ400フィートの山の南東の側に幅約30フィートの誘導路が通じ、そこから飛行場へいたる。トンネルの中には飛行機か、あるいは重要な施設が隠され、航空機製作工場の生産に連携していると思われる」(1マイルは約1609メートル、1フィートは約0.3メートル)との説明書きが加えられている。この偵察に基づき、この日8時半頃から堂製作所へのB29による1トン級爆弾の絨毯爆撃が3時間余も続き、完成前の飛行機数十機を含め、同製作所の格納庫及び工場はほぼ完全に破壊された。そのほか、岡山城に兵団が集結していて、そのことで爆撃があったのかどうかはわかっていない。さらに、攻撃目標は軍事施設以外にも向けられた。市内を焼き尽くすための焼夷弾が雨のように落ちてきて、夜が明けた時は市内はもう火の海だった。空襲警報が発令された時には市内はもう火の海であり、城の方からなお燃え盛るのを見ながら、市民は逃げ惑い、天満屋の地下ではガス中毒と火傷で180人もの人が命を失ったという。
 「田舎は、田植えに忙しい最中で、身の細る思いの二日目、六月二十九日午前二時過ぎ、岡山から四十キロ離れた弓削町なのに、ズドン、ズドンとにぶい腹に染みわたるような響が伝わってきました。小学四年の長女と、一歳半の長男を連れて、外に出て見ると、山あいの南はるかに、白いむくむくとした煙と、真っ赤な炎の上がるのを見て、ついにきた、主人や母はうまく逃げられたかしら、どうぞ、ご無事でいて下さい、と見守ったことです。B29四十二機が焼夷弾約六万個を投下したと、終戦後聞きました。」(渡邊千代子「食糧難から飽食の時代にー激動の昭和に生きて」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百人』岡山市、1990より引用)
 「その時分、西口に鉄道の労組の本部があったんですが、その建物に傷ついた人が次から次へと運ばれてくるんです。私も何かお手伝いができればと行きましたら、もう見るに見かねるようなお姿の人ばかり、三、四十人もおられたでしょうか。苦しそうにうめいて「水を、水を」というておられる人もありました。
 あんまり最後になった時に水をあげたら早くいけなくなるという事を小さい頃から聞いとりましたが、もう助からんという事がわかっておりますのにほっとくわけにはいきません。それで、そういう方にせめて末期のお水をと思い、口に入れてあげしました。そしたら、まあ、どうでしょう。物もいわれないようなのに目と心でお礼をいわれるお方、かすかな声で「ありがとう」といわれるお方、また、動きかねる手をやっと合わせられるお方など・・・・・。それを思うちゃ、今でも涙が出るんです。」(徳田裕子「戦争のみじめさ、平和のありがたさをーいつも奉仕の心を」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百人』岡山市、1990より引用)
 この日の空襲により、死者が1737名、罹災家屋約2万5千戸、罹災市民の数は約12万名を数えた(「岡山市史」)。

(続く)

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新54『美作の野は晴れて』第一部、村祭り2

2014-09-29 21:26:22 | Weblog

54『美作の野は晴れて』第一部、村祭り2

 やがて、祭りは神事の最高潮に入っていく。驚くべきは、御輿にも格の違いがあることである。山形の御輿を先頭に各の御輿は連なって、縦に連結して、今度はゆるやかな足取りで式の行われる神域へと進んでいく。そこに近くなると、周囲の見物側からのかけ声も大方消えて、御輿を中心とする各の一行はしずしずと本殿の中に進んでいったようである。
 その参道は、あの鎌倉の鶴岡八幡宮の参道を進んでいくのと趣が違う。かたや向こうに内陸、かたや海を背にしている。相当に異なるが、参道わきの松林が霊験あらたかな雰囲気を作り出しているのは共通している。神社には昔から秘事もつきまとう。新野の祭りをとりしきる、何人かの神主さんたちは予め決まっていて、私の親戚のおじいさんもその一人で、神主の役割を世襲していた。その意味では、片田舎の一地方の祭りには違いないが、由緒ある祭りの体裁が整っている。
 鎮守の奥まった所に社があって、その前が祭場ということになる。床几についた各の御輿は、そこで白装束の神主さんたちの神事を受ける。まずは「神迎え」といって豊穣の神の来臨を仰ぐ。神はどこからやってくるのか。既にそれぞれの御輿の中に宿っているとも考えられるが、ここの神事場にかれらを迎える神がいても、話としてはおかしくない。たぶん、その迎え役の神は、「高天原伝説」(現在の宮崎県)と同じように、天から降臨してくるのだろう。神が鎮座されると、さまざまな祝辞を奉る。つまり、神座に置かれた御輿7体の前で、総鎮守である山形八幡神社の宮司を筆頭に、神主らによる祝詞がその神々に奏上される。
 この席には、供物もある。その中で異彩を放ったいたのは、御神酒(おみき)である。正式には、酒の古語である「き」に「み」がまずつき、さらに「お」がついたのであるから、「御御酒」となった。これをひょうたんの形をしたお銚子に入れてある。「かしこくも」この地上に「降臨された神々」の神前へと進み、平べったい器に注いで捧げていた。その酒を神に給仕する女性がいたかどうかは、想い出せない。
 数人の神主さんたちは、白装束に身をめつつ、頭には白色の烏帽子を被っている。見物客の最前列まで進み出て、神事の有様を見ていると、体の中央に白い紙を束ねた竹など右へ左へと揺らしている。神主さんが白い飾りを右へ左へ振りつつ、口の中でなにやら呪文のような文句を唱えていたのは、たぶん、「はらいたまえ、きよえたまえ」のおはらい、つまりみそぎの行為である。風を起こして、さまざまな汚れを川から海へ、海から地の底へと追い払うことをしていたのだろう。ここで「祭る」とは、民族学者の柳田国男によると「まつらう」ことであり、その「まつらう」とは精進潔斎(しょうじんけっさい))をして、神に供物を捧げることである。さらにひもとけば、神に飲んでもらい、食べてもらう「祭る」とは、タミル語の最古の歌集サンガム(紀元前200年~紀元200年に成立した)にある「マツ」と同じ意味だといわれている。
 そこには西洋のような神との契約の考えは見つけられない。といっても、正式な契約の代表格とされるのはイスラム教の方であって、キリスト教は少し違うようだ。とはいえ、キリスト教の前に成立したユダヤ教では、ヤハウエが天地創造の、唯一絶対の神となっている。時代は、ラメセス2世(エジプト第19王朝、紀元前1270年頃即位)の後を継いだメルエンプタハが王の座にある頃だろうか、旧約聖書の「出エジプト記」にはこんな下りがある。映画の「ベンハー」にもこの場面が出てくる。
 『旧約聖書』に「あなたは他の神を拝んではならない」(第34章14節)とある。つまりは、シナイ山上でヤハウェがモーゼに迫ったのは、ユダヤの民がこの災難をくぐり抜けるためには、従来のユダヤの民が多神教であったのを改め、ヤハウェを唯一絶対とする一神教をとりなさい。これは、もはや命令である。他ならぬヤハウェ自身が、自分の他にも神がいる世界、神々の世界を認めている。いうなれば、神が人間を選んだのではなくて、人間の方が神を選んだことになっている。これがユダヤ教の成立の要諦に他ならない。
 これに比べて、日本の「八百万の神」(やおよろずのかみ)は西洋や中東のような絶対神ではない。太陽神が空腹になると凶作になることから生け贄を捧げる風習のあったインカ文明(こちらもモンゴロイド)とは、少し似ている。日本列島の自然とその移り変わりは、そこに住む人間に対して概して優しい存在であった。だから、この国には唯一の絶対者としての神が育たなかった。自然と調和する神と一心同体になることによって清らかな心と体を手に入れ、そのことによって幸せになれるという考えに基づく。
 一通りの神事が済んだあたりから、祭りは余興というか、その場に集う大衆に主役が移り、食べ物や玩具などの屋台がひときわ賑わいを見せる。私たちもまた遊んだ。午後の2時頃には早々、帰りの準備にとりかかる。御輿とともに、元来た道を帰るのである。西下の神社についたら、幟をはずして元の場所に戻し、帰途についた。
 家に帰ると、親戚のおじさんやおばさん、祖父安吉の妹である佐桑(勝田郡勝央町豊久田に嫁いだ)のおばあさんらが集まっていて、遅まきながら、客のみなさんに挨拶して回らないといけない。それが済んだら、子供はお客さんに給仕をしてまわる。ビールや酒を熱燗にしたものを持って行き、いちいち正座をして「泰司です」と挨拶してまわる。話がはずんでいるようだと、お銚子やビール瓶を捧げ持って、目が合ったりして、アルコールを差し上げる時を待たないといけない。
「どうぞ、おひとつ」
といって、酒徳利とビールを取り替え取り替えしながらアルコールを注いでいくうちに、「おう、泰ちゃんか。幟を担いで、御輿と一緒に神事場にいっとったんか」と言ってくれる人があれば、「泰司か、手が震えとるぞ。おまえ、「金玉」はちゃんとついとるんか。ちょっとみん間に、大きゅうなったなあ。お父ちゃんやお母ちゃんのいうことをちゃんときいとるか。いい子をしとるか。酒はそこへおいとけ」などと、赤くなった顔でいう人がいた。
 それでも「はい」とか「そうします」 とか、おべんちゃら(お世辞)を言って応対しないといけない。他にも、「勉強はちゃんとやっとるか」、「なんで顔が赤うなっとるんか」などと、なかなか、疲れる話があったりした。あるいは、「おばちゃんたちに言うてなあ。もっと酒を持ってこい」としかめ面で言う人もいた。こんなときは「すみません。直ぐに持ってきます」と言って、お辞儀を繰り返しつつ引き下がるしかない。
 概して、おじさん連中は威張っているので嫌だった。そこで出来るだけ早く挨拶を切り上げて、台所の近くの、普段はちゃぶ台の置いてある部屋へと移動する。祭り時、そこは膳を整える間になっていた。そこでは、おばさん達と話すと、「たいちゃん、久しぶりじゃなあ」などとあれこれと近況を聞かれたりして、かまってもらえる。これでやれやれ一息つける訳である。そうこうする間にも奥座敷では祖父を中心に酒盛りの最中であった。
 祖父は息子達や親戚縁者に囲まれて、ご機嫌で楽しそうだった。当時の普通の農家にとって、酒はまだ庶民にとっては高嶺の花で、どこかよそで「ふるまわれる」とき以外は口に入らなかったといってもいい。親戚やその知人でみえているみなさんも、話の合間には自慢話も出ているのであろうか、何となく、さわやかに活気付いているようであった。
 あれは、いつの祭りの時であったろうか。家での宴たけなわの頃、父の兄弟たちは互いに肩を組んでなにやら歌を歌っていた。それを見て、子供ながらに「いろいろあっても、おじいさんは幸せだな」と感じた。それからおよそ30数年、晩年の父も「父さんの今の望みは何かな」という僕の質問に対し、「そうじゃなあ」としばらく考えながら、やがて「毎日ビールを一本飲めるようになりたいなあ」と言っていた。
「なるほど....、そうかもしれないなあ。」
 私の溜息の中には、父の本音を引き出した喜びと、これまで何もしてあげられない自分のもどかしさが交錯していた。戦争から帰った父は自分の身に覚えのない借金を背負わされて、私が中学の頃までは返済のために働かねばならぬ立場にあった。あれは小学校の4、5年生のときだったろうか。じりじりとむし暑い日であったか、白昼に庭にいると、父がどこからか急ぎ足でやってきて、庭の端に置いてある、農薬の入った樽から、中のものを飲もうとしかけた、私の目にはそう見えた。瞬間、私の意識は氷ついた。最初の緊張が解けると、今度息が苦しくなった。瞬間的なことで、目をそらしていたなら、その一瞬の光景を見ることはなかったに違いない。父はなんとか思い留まったようだったが、私の頭の中は凍り付いて、働くのをやめた。その時の赤鬼のような形相は、いまでも私の瞼の裏に焼き付いて離れていない。
 今思うと、当時の大人は、ああいう楽しみがあったからこそ、人々は、日頃の苦しい労働に耐えることができていた。祭りは、年に一度の新野村全体の神事であるとともに、新野村民にとっては、お互いが共通の神の加護をうけていることを確認し、ともに収穫を喜び合うための社交の場であったのではないか。
 一応の挨拶や用事が済むと、女の人たちも私のような子供も食事をとってよろしいことになっていた。台所のそばの祖父母の部屋か、納戸部屋の端で、裏方のみなさんに混じって、私にも膳を一つ用意してもらっていた。子供でも、一人前に扱ってくれたのがうれしかった。
「そろそろ、おまえもたべたらいい」
とどのおじさんかから言われたら、しずしずと奥の間と表の間を出ていく。
 台所のそばの部屋に行くと、
「もう、泰ちゃんの分まで用意ができとるで」
「そのお膳の前にすわりんちゃい」
と親戚のおばさんの声がかかった。
 遠慮がちにお膳の前に正座すると、さしみも一人前に盛りつけられていた。内陸部ではさしみを食べられるのは年に3回くらいだったので、それだけでかしこまってしまう。
「さあ、ごちそうじゃろう。泰ちゃん、ぎょうさん(たくさん)たべんちゃい」
「さあ、はものお吸い物もあるで」
といって、別のおばさんが向こうから差し出してくれる。
「ありがとう」
と言って座蒲団に座って、
「それじゃあ、いただきまーす」
と言って、箸を取っておもむろに食べ始める。
 料理に口をつけてしばらくしてから、働いているおばさんに向かって、気になっていたことを聞いてみた。
「あのう、おばちゃん、この刺身たべさせてもろうてもええんかなあ」
「ええんよ。全部たべたらええんよ」
「そうそう、遠慮したらいけんで、泰ちゃん」
 これはうれしい、沢山あるなあ。おばさんたちの笑顔が心地よかった。
 鯖寿司も2切れくらいあった。そのほか普段の日では食べられない、お祭りのときだけのごちそうがふんだんにお膳に盛りつけてあった。なかでも、私はハモの汁物が好きで、せりを入れた醤油汁を飲み終えた後、骨切りの包丁を入れたハモの肉をたっぷり時間をかけて食べた。    
勝田郡(かつたぐん)内の勝加茂(しょうかも)郷や広戸(ひろど)郷においても、そうした起源を持つ祭りが勃興していたのかもしれない。それらは、このみまさかのあたりでは、「君が代」にある「さざれ石」を置いてある今の津山市西北にある総鎮守の中山神社(なかやまじんじゃ)を共通の氏親(うじおや)として仰ぎ見ていたのだと伝承されている。

(続く)
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新53『美作の野は晴れて』第一部、村祭り1

2014-09-29 09:55:00 | Weblog

53『美作の野は晴れて』第一部、村祭り1

 秋祭りは、日本全国に知られている大嘗祭(おおなめのまつり、後の新嘗祭(にいなめさい)の類とされている。この行事は、農耕民族としての日本人が行う行事であり、「神事」としての格式が備わったものとしては、早くは大和朝廷の支配の頃から始まったのだともされているが、朝廷の専売特許ということではなく、民衆による、古き時代からの営々と積み上げられてきた社会慣習なのだといえよう。
 ここで日本の歴史を少し遡ってみよう。大化の改新(645年)で、当時最有力の豪族であった蘇我氏に無実の罪を着せて権力を握った中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、後に代代わりで即位して「王」となった。日本史の出来事の年代を覚えるのは、みんな「蒸し米で祝う大化の改新」などと肯定的な理解であったが、最近の発掘でそれがくつがえって、「蘇我氏に朝廷権力を握ろうとする準備はなかった」のだという説が有力になっているといわれるが、それならば当時の教科書のその部分の記述は誤りだったとして訂正されているだろうか。
 しかし、彼の死後の熾烈な権力闘争(壬申の乱(じんしんのらん))を勝ち抜いた大海人皇子(おおままのおうじ)は、「王」位では満足しなかった。それまでの「王」の呼称で呼ばれるのをやめ、臣下に自分を「天皇」と呼ばせることに変更した。
 新たな象徴化がなされてからは、神と天皇に繋がる者とが毎秋収穫出来た新米を一緒に食べるのが習わしとなった。その風習そのものは、もちろん日本の発案ではない。古くは前漢(中国では「西漢」(シーハン)の司馬遷の『史記』に、歴代の皇帝が泰山(たいざん)で「封禅の五穀豊穣の儀式」を行ったことが記されている。このような風習は、その後朝鮮半島の国々を経て、七世紀中葉以後の日本に伝承された。大和朝廷でその形式と内容が取り入れられ、天皇の権威化に使われたのだろう。
 ついでながら、天皇の「皇」とは、「「最初の王」を意味するために自印(ハナの象形文字)を添えただけで、言葉としては王-皇は同系」(藤堂明保「言葉の系譜」新潮ポケットライブラリ)とされる。この点、宇宙全体を支配する唯一神に被せた名前である「帝」の字とは異なり、始めから人間に被せられる称号であった。いうなれば、「古代人は人間世界の偉大なる英雄をたたえて、それを王と名づけ、民族もしくは王朝の開祖である偉大な英雄をとくに皇と呼んだ」(同)のだとされる。ここには、天皇と中国道教の流れを汲む神道思想とが結びついて、祭事を司ろうとの考えがすでに用意されている。
 興味深いのは、この祭りが、みまさかの北東部、勝田郡新野郷の山形地域(現在の津山市新野山形)の「八幡神社」の神事として行われていることだ。この神社の主祭神とされているのは、応神天皇など三神と伝えられている。同時にそれは、いつの日か、外国から渡ってきた収穫祭が日本の大分県にある宇佐神宮(うさじんぐう)を宗旨とする土着の「八幡信仰」と結びついて、今日の日本各地の祭りの原型となって広まっていったことを窺わせる。ここに宇佐神宮とは、全国の八幡信仰を宗旨とする全国の八幡と名の付く神社の頂点に君臨する神社である。その主祭神は、両脇に応神天皇と神宮皇后(この両人については、実在の人物でないかもしれない)、その中央には比売大神(ひのおおかみ)であり、これらをまとめて「三神」という。その祭壇の中央の人物は、一説に邪馬台国の「卑弥呼」とも言われているが、いまだに定説はないようである。
 この神社の由来はまだ十分には明らかではない。「八幡」(はちまん)というのは、八方向に八つの色の旗を立てることから来ている。飛鳥時代の日本史を語る上では、「宇佐八幡宮神託」にまつわる事件がある。これは、宇佐神宮の神託が大和朝廷と深い関係にあることで知られる。その神託にかかわる事件とは、769年(天平神護5年)、僧の道鏡を次の天皇位に就かせようとした称天皇(孝謙天皇、女帝)が、同神宮に天皇の臣の和気清麻呂を遣わせて神意を確かめたところ、「王位継承は古来より定まっており、臣を君にすることはできない」との神託が下り、道教の天皇位継承ががならなかった事件を指す。
 この場合、同天皇が通常一番のより所とするはずの伊勢神宮を差し置いて、なぜ宇佐神宮の神託を求めたのか。その理由はまだ十分には明らかになっていない。少なくとも、そのような問題への決着を付けるために、宇佐神宮の神託を得ることが必須の条件であったことは想像に難くない。
 このような日本古来の伝統を引き継いでいる新野の秋祭りであるが、その始まりは「少なくとも室町の頃から」の行事だとされる。祭りの開催日は11月3日の勤労感謝の日(もとは旧暦9月29日)である。これは、神々に豊穣を感謝するものとして、日本中の類似の祭りにほぼ共通している。その日、新野の中、山形の地に鎮座する八幡(はちまん)神社を親神としてい新野村内の7つの町内から御輿を連ねてやってくる。
 祭りの目的は、つづめていうと豊穣の秋を祝うことにある。万一、その年の収穫がかんばしくなかった場合は、その次の年の豊穣を祈願する気持ちが尚更高まった筈だ。この日は、朝から俗に「神事場」(じんじば)と呼ばれていた「霊験あらたか」な方角から太鼓の音が聞こえてくる。それは、いつの頃からか、この土地の晩秋の風物詩となって受け継がれてきたものである。
「山形八幡神社の境内で きょうはお祭りがあります。皆さん、連れだって参加しましょう。青年団のみなさんと婦人会の皆さんにはよろしくお願いします。」
 その日は朝から晩まで祭り一色となる。我が家から15分ばかりその道を歩いて、鎮守が遠くに見える所に達する。そこかせは、太鼓の音とかが聞こえて来る。この「作北」(みまさか北部)の地で、一年を通して貧しさのため苦労ばかりが多くて、喜びが少なかった頃から祭りはあったのだろう。人々は、ひたすら働くことが常であった。それが義務であり、責任であり、美徳ともされていた。そんな遠い祖先の頃から、稲の取入れ後の秋祭りは代々のご先祖様、村人の大きな楽しみであったことだろう。
 その日は、新野村全体の神社の御輿が、新野山形の字稲塚野(それは、新嘗の祭場あるいは古代の地方官にちなんだ地名であると伝えられる。)八幡神社の鎮守の森に集まった。普段は、人々の往来が少ない、何の催し事もないようなところである。
 そこには、親神としての八幡神社(旧山形で現在の津山市新野山形)のほか、1186年(文治2年)に美作守護の梶原景影が駿河の国浅間神社から勧請したと伝えられる二松神社(旧久本、工門で現在の津山市新野東)をはじめ、天穂日神社(旧西中で現在の津山市西中)、天津神社(旧西上で現在の津山市西上)、天満神社(旧西下で現在の津山市西下)などの5つの神社、新野郷の旧6・村から沢山の御輿と氏子(うじこ)が集った。各々の御輿には、出立のとき「お霊移しの礼」により神霊が宿っていて、正午頃には稲塚野に神行してくることになっている。
 それらが集まる場所については、その周囲は松とかの林に囲まれ、中央に百メートル以上はあるような長く真っ直ぐな参道が続いていた。ここの標高は海抜355メートルとされる。ここは、たしかにそこは天声降臨にふさわしい場所として作られ、自然の雰囲気で演出された場所だといえるだろう。
 この村祭りはおそらく、江戸の中期までは遡ることのできる、由緒のある祭りなのではないか。それは正月と並ぶ僕の村の、そして新野の村の最大の行事の一つであった筈だ。それは、一年の実りを神様に感謝する催しである、といってよい。
 祭りの前日か、その前には、上村の魚屋さん夫婦が、生の魚を売りにきた。私たち子供は、魚屋さんを流尾で迎える日の朝は、何がなんだか分からないほどうれしくて、はしゃいでいた。タコもハモも、それからさしみとなる筈のまぐろやいかもあった。それはそれはすごいごちそうであった。
 普段、海の魚といえば「こうなごの煮干し」とか「塩さば」とかがほとんどすべてだった。私は、魚屋のおじさんが取り自動車の荷台をしつらえた調理台を仕切り、おばさんが手際よく調理していくのをじっと見ていた。常日頃から家の手伝いをして、ご褒美が秋祭りのごちそうでもあったろう。さしみといえば、その頃の50軒くらいの西下(にししも)内の普通の農家では、法事(法要)とか結婚式とかの慶弔事がないかぎり、それゆえ年に1~2度しかさしみを食べる機会はなかったのではないか。
 私たち村の子供は、午前中から西下神社に、を構成する流尾(ながれお、「ながりょお」と言っていた)、平井(ひらい)、笹尾(ささお)、そして中村(なかむら)の小から人が集まってくる。御輿(みこし)の担ぎ手たる白装束の兄さん達とともに、私の親戚である神主さん(「とみやのおっちゃん」)から「のりと」を受ける。それから、「八幡神社奉納」などと木綿布に書かれた幟(のぼり)旗を長い竹に巻いたものを背に担いで、村の若い衆八人くらいが担いだ御輿を先導していく。
 行き先の神事場は、西下神社から二キロメートルくらい北にある。幟を担ぐ子供は10人くらいだったろうか、なにしろ駄賃として150円とかの給金がもらえるので、「うぉーりゃーっ」という気分で喜んで肩越しの旗を風になびかせたものである。
「よっしゃあ、もっとやれ」
 若い人がそこかしこで騒いでいる。
「格好がいいのう。」
 お年寄りも目を細めて喝采を送ってくれる。
 少なくとも5、6本の旗が陽光にきらめきつつ、なびいている。その御輿を先導していく様はなかなかに美しい。
 御輿の造りは、それはそれはがっしりしている。重さは200キロを優にこえているような代物だ。ご神体が宿っているとされるので、大事に扱わないといけない。何かして壊れたり、それでなくとも不具合となれば、修理しないといけない。直す段になると、途方もないカネがかかるらしい。いやはや、触るのも怖いし、担ぐのは重くてもっと辛いというほかはない。こうなると、担ぐには担ぎ手が一致結束しての「正攻法」しかない。さながら、引っ越し業者が家にピアノを担いでいくようなものだ。そればかりではない。「輿」(こし)という字は、前後左右から手が差し出される構造となっている。それは、四人の手と肩で同時にその四本の柄(え)を持ち上げる必要がある。それはとても重たいものなので、万一担ぎ損ねると怪我をする危険が伴う。だから、「よっこいさーのー、せい」とかの気合いもろとも、四方から一遍に担ぎ上げるのである。
 の青年団の人たちが、白い祭りばんてん姿で御輿を担ぐ。山形の祭りの会場に行くのだ。道を1キロ半くらい北上するのであるが、8人掛かりで担いでも相当重いらしく、何度も途中で立ち止まり、大きくて頑丈にしつらえてある床几をたてて休んでいた。私たち幟持ちは、途中で何度も振り返り、後から来る輿を待つ。近づいてくるとまた歩き出すという具合で、でこぼこ道を進んでいった。
「村の鎮守の神さまの
今日はめでたいお祭り日
どんどんひゃららどんひゃらら
ぴーぴーひゃららぴーひゃらら
朝から聞こえる笛太鼓」(作詞と作曲不詳、編曲は源田俊一郎、なお、一部の歌詞に天皇崇拝の文句があったので、敗戦後は読み替えがなされた)
 この歌のように笛は聞こえてこなかったのが惜しい。境内に続く長い参道の中腹にある大鳥居の入り口に到着すると、どのかによって輿の鎮座する場所なり、順序が定められているようで、その順番まで待ってから、その場所へ移動した。神社の方角には白い幟(のぼり)がはためいて見えていた。
 私たちが担いできた幟(のぼり)は、神事場の鳥居をくぐって神事の行われる奥の院までの、屋台で人がごった返しているところの途中、大きな松の木が何本のあるところを定位置にしていた。旗を丸めるようにして、その木々の枝に持たせ架けた。それから、一段下の屋台の店が一杯並んでいるところに入っていった。人混みの中で、店のおじさんやおばさんたちの商いのやり合いの声が快く響く。
「今日は無礼講か」
 道の端の小高い丘に登ると、御輿が東の方からも山形の総鎮守に集まってくる様が見えた。
「ああ、あれは新野東の御輿じゃなあ」
 友達が言うので、私も相づちを打った。
「たしかに、うちらの(私たちの)御輿により新しいようじゃな」
 こうして各の御輿が集まってきても、親神である山形の八幡神社の御輿をやってこないうちは、祭場の中は「神域」となっていて、神の許しがないと入れない。そこで、早く着いたの御輿は、それぞれのやり方で時間を過ごしつつ、その許しが出されるのを待つしかない。そこで上を下にと体を揺すりながらも、練りを続ける。そのたびに、きらきらとした金色などの飾りが陽の光を受けてはためき、輝いて見える。これを幾つもの御輿が境内で集うのであるから、勇壮この上ない。一同に会した御輿の乱舞が始まる刻限になると、何が起こるかわからない。ややもすると興奮が昂じて、姫路の「喧嘩御輿」のような動きをすることにもなっている。
 一度なんかは、御輿の一つが相当に練り込まれ、あわや転倒かと危ぶむ位に傾いた。会場がどよめいたものの、なんとか体勢を持ち直して事なきを得た。なにしろ御輿は思いので、担いでいる人はへたをすると大怪我をしてしまいかねない。その御輿の勇壮華麗な練り合いがしばらく続いた後、疲れてくると、それぞれに専用の腰掛けに架けられ、一休みとなる。適当なところで休まないと体が持たないだろうし、暴れ過ぎて御輿をこわしてしまっては元も子もないからである。そうして、一休みした頃には、親神を体した八幡神社の御輿が稲塚野の前方にある鳥居前に到着したようであった。そして、頃合いを見計らってといおうか、八幡の御輿を先頭にして、全部落の御輿が南の鳥居の方からご神体の鎮座する境内の中心へと進へと進んでいくことになっていたようだ。八幡の親御輿の前に、そのまた先導役の2頭の獅子がいたかどうかは、私の心許ない記憶では判然としていない。
「きょうといけんなあ(危ないから)。子供は近くに寄るな」
どこからともなく複数の大人衆の罵声が何度となく飛んでいた。
「わっしょい、わっしょい」(朝鮮語の「(神様が)来られましたよ」
の意味に同じ)という叫び声が喘ぎの声に変わるまで続けるもあったようだ。
 その間に獅子舞の動きもたけなわになる。この風習は、インドから東南アジアを経て二本に伝わったとされている。いまでも、インドネシアのバリ島なんかでは、きらびやかな衣装を施した獅子舞が演ぜられる。日本列島の北陸より西では、獅子の衣は、それより東のように一人が被るのではなく、2人で被るものとされる。頭の被り物から尻尾に到るまで、すっぽり被っている衣には、なにやら卍(まんじ)形のような文様がついていた。
 獅子舞は、二人一組でやる。いったん前側にいる人が頭上に高く振りかぶってから、「スッテンテコテコテンテコテン」の太鼓の音とともに腹のあたりまで下ろす。足の運びは、ここまでが前進となる。その位置から「テンテコテンテンテンテコテン」の音ともに後ずさりする。何とも巧みな前進と後退との組み合わせというほかはない。あとはその繰り返しで延々と続く。今思い出しても、玄人はだしの手さばき、足さばきであったと、いっていい。
 そのおじさんが扮する「ライオン」に頭をさしのべて噛んでもらうと、1年間は無病息災とか。たまに父親が泣く小さい子供の頭を無理矢理に噛んでもらっていた。なにしろ、無料でしてもらって無病息災や厄除けから雨乞いに到るまで、幅広く御利益があるというのであるから、それではお願いということになるのだろう。
 年寄りの一人が巧みにばちで太鼓を打っている。「迎鼓」の朝鮮語による訓は「マツツリ」で、その「ツ」を一つ縮めると、「まつり」となる。したがって、太鼓をたたくことは取りも直さず神を迎える儀式ということになる。そんな獅子舞を大勢の老弱男女が二重、三重に囲で、見物は最高潮に達した。「いやあ、すごい人出じゃなあ。ぎょうさん(沢山)の店が出とるなあ。綿菓子も食いたいし、スルメの炙ったのも食いたいし。水鞠のきれいなのもあるじゃろうか。」そんなたあいもないことを考えながら、西下の輿に境内に進んでよろしいと総鎮守から許しが出るのを待っていた。

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新52『美作の野は晴れて』第一部、晩秋の輝き    

2014-09-27 21:06:21 | Weblog

52『美作の野は晴れて』第一部、晩秋の輝き  
 
 晩秋の11月にもなると、美作の野はすっかり紅葉に包まれる。とりわけ、「里古りて柿の木持たぬ家もなし」(芭蕉)とあるように、人家に近い処に「禅師丸」などの柿の赤い実が陽の光にまぶしく映えているさまは、深まる秋の風情を感じさせてくれる。そんな、みまさかの山野に吹く風、秋から冬にかけて降る村雨(むらさめ、にわか雨)にも、それまでにない冷たさが混じり合う。
「村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ」(寂蓮法師作の歌、『百人一首』、「まき」とは、ひのきや杉のような常緑樹の葉をいう)。
 その頃、この地においても様々な楓類が、樹幹から射し込むキラキラした木漏れ陽を受けて輝きを増す。楓は新芽のときは萌えような赤で、夏の梅雨どきに緑となり、最後に秋の深まりとともに赤黄色や焦げ茶色に変わる。この頃の森は実に色彩が豊かだ。朝夕の冷込みとともに、色づいた木々が山や野を綾取っていく。木々の葉は黄色く赤く、または淡い橙黄色に色づく。葉の形も春の頃の無垢な姿から厚ぼったく衣替えした夏を経て、晩秋の頃には丸形やぎざぎざ形の葉の裏には無数のしわが刻まれている。そんな紅葉が見頃の日であったか、社会科見学かで、旭川ダム(御津郡加茂川町、現在の岡山市)と勝山の「神場の滝」を見に行った。先生方の引率で、観光バスの運転手さんに運転してもらって、学年の2クラスで行ったのではないか。
 その辺りでは、旭川がおおむね北から南へと流れている。川の東側が久世(現在の真庭郡久世町)、西側が勝山(現在の真庭郡勝山町)となっている。「昭和の初期」までは、この川を筏(いかだ)や高瀬舟が下っていた。ここみまさかを通っていた、明治期の高瀬舟の在りし日の姿はこう伝えられている。
「明治になると、運送業も商売も自由になりました。それで高瀬舟の数もふえ十二年の吉井川だけででも作州の舟数は二百隻をこえていますが、ますます繁盛しました。しかし、川底をさらえ舟が安全に通行できるようにする補修工事の予算がほとんどないため、舟路が荒れました。そのため岩や石にぶつかり破船する事故が多発するようになったと記されているほどです。」(「美作の歴史を知る会編「みまさかの歴史絵物語(9)おかいこさまと自由民権」」)
 神庭の滝(かんばのたき)は、姫新線の中国勝山(ちゅうごくかつやま)の駅から5キロメートルほど北の方に行ったところにある。深い森に囲まれるこの辺りは、夏の盛りでも随分と涼しい。滝の入口には、「神庭瀑布」と書いた立て札がある。滝は豪壮、岩がごつごつしたところを、幾筋もの複雑な水の筋となって落ちている。滝の高さは110メートル、幅が20メートルあって、西日本で最大規模のものだといわれている。神がかりの名前は、この辺りの自然には冷厳な趣に由来があるのだろう。滝のあるところ周辺には、野生の猿の姿が棲息している。日本は「八百万の神」の国で、キリスト教やイスラム教のような絶対神、唯一神への信仰は重きをなしていない。この島国の伝統的な風土では、自然は人間にとって厳しく、険しいばかりではない、その懐には優しさがある。これに従えば、動物はおろか、木や滝なども神が宿るものとなる。
そのとき、滝を見に行ったのはおまけのようなもので、主題な目的地は旭川ダム(御津郡加茂川町、現在の岡山市)であったと考えれば、辻褄があう。ダムの事務所の人に、ダム全体が見渡せる堰堤の中央辺りに連れて行ってもらい、先生以下全員でこのダムの由来とかの説明を受けた。このこんくりーとの壁でもって大量の水がせき止められている。その向こうには、なんと、「これは湖なのでは」と見紛うほど大きな、大きな貯水池が広がっている。旭川ダムの下流に住む、とりわけ岡山市の人々にとっては、大いなる「水瓶」となってくれている。その後の1964年(昭和39年)9月26日、伊勢湾台風が潮岬(しおのみさき)に上陸し、紀伊半島にさしかかるときの大雨で旭川ダムが満タンになったことがある。その時は、「川下へ放水するのにね、「ボー、ボー」とサイレンを鳴らされるんだけど、それがストップされたら岡山市が大水になる」(小橋八重子「電話交換手から局長にー頭の打ちどうし」:岡山市文化的都市づくり編集チーム企画編集「さるすべりの花にー聞き書き岡山女性の百年」1990、岡山市発行に所収)くらいのすごい水かさであったらしい。
 貯水池の向こう岸、そして周りの山を見ると、陽に面した山肌は黄色く、紅く染まって、ところどころ焔が渦を巻いている。真紅に萌えて見えるところもある。それらの葉はやがて枯れたり、雨風(吹き降りが多かった)に晒されるうちに地面に落ちるのだ。その山の上には、高く澄み切った碧い空がある。そこには白い雲が幾筋もなびいて通り、その狭間から秋の陽が、さんさんとみまさかの野や山に注ぐ。その奥の谷が狭まったところには、湯原湖と、1955年(昭和30年)に完成の湯原ダムがあって、そこにも旭川の水が堰き止められている。その旭川下流に沿って、「砂湯」で有名な湯原温泉郷がひっそりとしたたたずまいにして、訪れる人々の心を魅せている。「名物砂場」と石柱が建てられているダム下の河床は、2005年に湯原町を含む9町村が合併してできた真庭市の人気スポットの一つとなっており、川の底から毎分60リットルの湯の湧き出ているところに露天風呂が造られており、旅人でも24時間無料で入れるとのことである(12月6日放送のテレビ「人生の楽園」)。その由来は古く、1438年(永享10年)、美作国塩湯郷の国人領主後藤豊前入道沙弥貞(ごとうぶぜんしゃみりょてい)が記した「掟書」(いわゆる「在地領主の置文」)には、「湯屋造営事」及び「湯旅人役銭事」と書いて、温泉支配に係る2箇条が盛り込まれている。
 この湯原からは、そこから西北へ「伯耆街道」、次いで「大山道」を辿って大山へと通じていた。こうした地理関係から、江戸期の湯原温泉郷は、旅の疲れを癒すかっこうの宿場町として静かな人気を博していたようである。さらにこの街道から北に向かって3キロメートルほどいくと、そこには大山火山系に連なる、西から東へ上蒜山、中蒜山、下蒜山の千メートル旧の山々が並んでおり、湯原湖から流れ出る旭川の源流もこの辺りにあるのではないか。この「蒜山三座」の麓には牛の放牧、それに敗戦後に盛んになった糖度の高い「蒜山大根」の栽培で知られる蒜山高原が広がっている。加えて、真庭市全体(上房郡北房町に、真庭郡の勝山町、落合町、湯原町、久世町、美甘村、川上村、八束村、中和村の5町4村が2005年に合併)としての中心は木材産業であり、古くからの「おひつ」や、「ワッパ」と呼ばれる弁当箱の製造のほか、様々な工夫を織り込んだ机や椅子、箪笥などの木製製品の一大産地となっている。
 美作の秋で圧巻となるのは、私の知る限りでは、やはり奥津渓谷の景観ではないか。その奥津に至るには、津山駅から中国鉄道バスが出ており、国道179号線をひたすら北へとたどる。大まかには吉井川に沿う道となっている。奥津町(英田郡)の役場を過ぎたあたりから、道の両側の視界が狭まってくる。両側の山の稜線が紅く色づいている。乗り合いのバスは、さらに北上して、「奥津渓」に分け入る。この間、一時間に少し足りないくらいか。この景勝地は3キロメートルくらいの長さがある。その途中では、花崗岩を主にして、奇岩や巨岩が渓谷を彩どっている。「岡山県指定文化財(天然記念物)」の石柱が建立されている側らには、幾千年以上の長きにわたる水の流れが固い岩を穿ってできた「甌穴群」を幾つか観ることができる。そこから、なおもしばらく北上して、奥津温泉街に至る。ここは「美作三湯」の一つで、吉井川伝いの奥津、川西、大釣の温泉群を総称している。この温泉を健康的な眺めとしているものに、女性たちが吉井川の河原から湧いているお湯で、ご婦人方がピチャピチャと足踏み洗濯する習慣がある。
 ここは、藤原審爾の小説 『秋津温泉』の書き出し部分に「「秋津温泉は単純泉だから、とりたてた薬効もなく、土地も辺鄙な山奥にあるので、あまり人に知られていない。湯宿も山峡のせまい土地へわずか一町たらずあるきりで、別府や伊東のように、温泉客めあての遊び場やバーなどもない。温泉町というはなやいだところが少なく、---山峡の谷間を拓いた町にしては広過ぎる表通り、その表通りの両側へ軒々を並べた宿という宿が、いちように広い格のある古びた庭と、厚みのある白壁の多い、棟の頑丈な家なので、---むかし城下町であったような、ものさびた落着きをもっている」とある。
 加うるに、この奥津温泉からさらに北へ7キロばかり山あいの道をたどったところに上斎原村がある。津山駅から奥津を通り過ぎて、都合1時間20分のバス旅とのことである。この村は、冬場はスキーで知られる。その隣はもう県境の人形峠にて、鳥取県の三朝町に近づいている。この辺りは、三国ヶ仙、人形仙、霧ヶ峰、三カ上山と千メートル級の山々に四方からすっぽり包まれている感がある。
「朝顔は 朝露負ひて 咲くといへど 夕影にこそ 咲きまさりけり (『万葉集』巻10ー2104)」
 桔梗(ききょう)は、昔は「朝顔」とも称されていた。野に咲く花では珍しい、ききょうがやさしい紫の花をほころばせる。こちらを見てくれているようで、それはそれは心を和ませてくれる。
 秋が深まるほどに、雨がだんだんに肌寒く感じられる。その頃、紅葉の美しさを作りだしている主役が登場してくる。
「秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓(かえで)や蔦は(つたわ)
山のふもとの 裾模様(すそもよう)」(『紅葉』、高野辰之作詞・岡野禎一作曲、中野義見編曲)
 「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり)かき数ふれば 七種(ななくさ)の花 萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花」(『万葉集』、山上憶良(やまのうえのおくら)、元は漢文であるので、訳を掲載。)
 空には青みがかった薄い雲が浮かんでいたり、鰯雲が連なっているとき、みまさかの野にそれらの草花が、風にゆっくりそよいでいる。みまさか一円の、その山々の紅葉が進むにつれ、葉っぱの色は、いろいろである。同じく楓といっている中にも、黄色いものがあれば、朱色から茶色、焦げ茶色までさまざまだ。中には微妙に色が混じり合っていて、まるで絵画のように美しいものもみかける。
 そこには、かびやきのこ、苔の類も色々と生えている。土の中にはミミズやあの手を触れると丸くなる「だんご虫」もいる。それらの小動物の仲間がそれらを食べて、分解して、排泄を繰り返すことで土を柔らかくする。そのことは、回り回ってこの森に棲む小動物たちの命の養分となっている。
 森や林の落ち葉の下には、昆虫の幼虫も棲んでいる。蝶の幼虫は秋に卵からかえり、木の上で生活していたものが初冬を迎えて木を降りてきて、落葉の間に潜り込んで暖かい住処とし、成虫となるまでを過ごす。
 晩秋、こうして大地に落ちた落ち葉は自然の懐に抱かれ、千変万化を遂げてしだいに土になっていくのではないか。葉にもまた限られた一生があるのだ。

 

(続く)

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新49『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩1(鮒とり)

2014-09-27 20:38:34 | Weblog

49『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩1(鮒とり)

 稲の取り入れ後の秋の行事に「鮒獲り」があった。京都嵯峨野では「おいあげ」と呼んでいるらしい。西下には、「狐尾」という名の3ヘクタールほどの溜池があって、その頃は隔年か3年に一回くらいだったろうか、そこで魚獲りの大会が挙行されるのだ。
 この美作の地には、沢山の溜池が造られている。それらの開削年代は、江戸期から大正時代にかけてが多い。香川の観音寺あたりでのような灌漑用の大きな溜池は、このあたりでは塩手池を除いてはないといっていい。それでも、とりわけ、江戸期に入ったみまさか一帯では津山藩の音頭で次から次へとため池がつくられた。私の家の近くの狐尾池は大正時代の開削であって、はっきりとは憶えていない。私が成人になる位までは、そこで西下の鮒獲りが定期的に営まれていたのではなかったか。
 その日は、秋の米の収穫の終わった秋深くにやってくる。およそ1キロメートルはあろうかと思われる池の周囲は、朝早くから大勢のにわか漁師で賑わった。100人以上の人が来ていただろう。その中には、中学の先生らしき人や、中学生や高校生の先輩も来ていた。他のの人も大勢いたようだ。「オオタケを漕ぐ」人は、入場券買わないといけない。入場券を得た大人達は、その針金の部分を麦藁帽子に結わえている。
「きょうはいい日和(ひより)ですなあ」
「おかげでなあ」
 出逢った二人は、互いに見つめ合っていた。お互いに年は60代から70代前半といったところか、日焼けした顔が麦わら帽子で西部劇風にやや斜めに表れるように脚色されているようであった。そこにあうんの呼吸があるようで、旧知の間柄なのかもしれない。お互いの白い歯がむき出しに笑っている。
「先週は『鎌ぞこ』に行きましたんじゃ」
「ほお、あんたも行きんさったか。わしゃあ、大町(広げると扇状になる竹網)をちょっとばかり漕いでから、田んぼの用事があったけん、はよう失礼して家に帰ったけん、あんたとお目にかかれんかったなあ」
 ここで「鎌ぞこ池」とは、私たちのの北隣の西中地域にある溜池である。狐尾池のほか、同じ町内にある塩手池(しおでいけ、市場)、亀座池(新野東)、大土路池(西中)などに比べると、規模がずいぶん小さい。西下(にししも)内の流尾地域でなく、その東方である畑、中野(なかの)両地域の水利を賄うために開削された溜池であって、その形は(石川)五右衛門風呂を浅くしたような丸くてずんぐりむっくりの「どんぶり型」をしている。鮒取り時には、七分方くらいは池の水が抜かれて、その「かまぞこ」型の窪みが現れるところから、その名がついたのかもしれない。
「さてさて、今年もようけい(沢山)人が集まりましたなあ。この狐尾池は仰山(ぎょうさん)人が集まるけん、まるで、わしら新野村の社交場ですケーのう」
「そうですのう」
 二人の隣には、いつのまにかさらに一人のご老人がやって来ていて、二人の会話に頷きつつ、にっこりほほえんでいる。元の二人はその人に目をやってから、右手を帽子に添えて軽く挨拶をしたかのようであった。それから、又向き直った。 
「それじゃ、それじゃ。あはははは。どれ、そろそろの理事さんの挨拶があるじゃろうけん、そろそろ向こう岸の持ち場に戻ります」
「まあ、今日は楽にやってつかあさい」
 そうして、ひとしきり白い歯をむき出しにして笑い合ってから、それぞれの持ち場に去って行った。それから、ふと気がついて、もっと後ろにいる、一緒にやってきた祖父の方を振り返ると、これまた旧知の間柄なのか、さらにもう一人のご老人と話をしているのが聞こえてきた。
「・・・・・そりゃあええ、今日は晴れとるし、ここはぎょうさん稚魚を放しとるんで、ようけい獲れるじゃろうなあ。おたくはうなぎも獲ってかえりんさるんかのう」
「そこが家ですけん、せがれが日が暮れるまでいて鰻を探しますんじゃ」
 そういう祖父も満足そうで、ニヤッと笑うと、顔に「ありがとうございます」という文字が書いてあるかのような表情を見せつつ、煙草をくゆらしながらいた。
 今日の漁の開始を前に、漁具の最終点検やら、隣に陣取っている者同士で談笑している姿がそこかしこで見られた。漁具の自慢話もあったりで、大人衆が誇らしげに見えたものである。そうした光景を観つつ、自分も大人になったら、「僕もあのようにたくましい男になりたい。格好よくなれるだろうか」と、無意識のうちに将来の自分の姿を重ねていたのかもしれない。
 「鮒獲り」は、西下では、の寄り合いと代表の理事によって仕切られていた。部落代表の挨拶が土手から拡声器で響いてくる。
「みなさーん、遠路はるばるの人もふくめて、今日はありがとうございます。おかげでいい日和りとなりました。さあて、みなさん、この池には鯉を○○匹はなっとりますう。1年以上経っとりますから、そこそこ大きゅうなっとる筈です。・・・・・そういうことですけん、今日はおおいに精出してつかあさい。」
 こんなとき、長い挨拶は歓迎されない。主催者にはそのことがわかっているので、声がうわずっている。それが済んで始めの合図が下るや、「ヨッシャーアッ」とか「オーーッ」という声がまず上がる。大人達が声を掛け合いながら、池の四方八方から中央へと進み出てくる。人々はおのおの、入場証のついた極細の針金を麦わら帽子など目立つところににセットしている。今日の入場料を支払い済みであることを示している。大人たちは、四方八方から「オオタケ」と呼ばれる扇状に広がった網を構えて池の中央部へと向かっていく。それがかち合う寸前のところで、そこかしこで、男達の太い腕によって引き揚げられる、私などは、その光景を、それはそれは息を呑むようにして見守っていたものだ。
 網の中に、鯉が躍り上がる。中には、網に二匹の鯉が一遍に入っていることも目にしたことがある。それはこの新野の村の男達の晴れ舞台、といっていい。壮観な眺めである。鯉たちはピチピチはねているが、巧みに腰に付けた駕籠の中に入れられていく。もしくは、編みを引き上げて、そのひとは岸へ上がり、岸に備え付けの「生け簀」に鯉をおろす、そしてまた、池へと入っていくのをみていた。
 女衆や子供は、始めの合図があって1時間くらいしてから、入っていいことになっていた。子供のなかにはいち早く池に入って、大人に叱られる者もいた。大抵の子供はそれを心得ていて、痛いくらいにそのルールを守っていたのだと思っている。
 2時間くらい経つと、おおかたの鯉は獲り尽くされ、あとは大きめの鮒や鰻や鯰をねらうこととなる。父の網に大きなうなぎが一匹、逆立ちというか、はすがいの形でかかっていた。うなぎといえば、いつでも食べられるわけではない、貴重であった。小学校に上がってからも、いつか病弱なときがあって、どこかに父に連れられて、国道を越えて勝加茂村に入った道筋をしばらく南にたどったところであっただろうか、うなぎの養殖場にうなぎを買いにいったことがあった。その頃の山間の村人にとっては、貴重なタンパク源であったのだ。
 大人たちの動きや喊声が一段落する頃、私のような子供と女衆の出番となる。鮒には、エラブナ、キンブナ、ギンブナ、ゲンゴロウブナ、ニゴロブナなどの種類があるそうだが、自分ではどれだか区別はついていなかった。大抵の子供は小さな網を持っていて、それを使って鮒の仲間や、どほうずや子蝦、タカハヤやメダカの類いを捜した。といっても、大人衆の邪魔になってはどやされるから、ひたすら浅瀬を中心に行ったり来たりで、辛抱強く漁を続けなければならない。
 総勢で百人はいるのでは、かと思うくらいの人間があくせく動き回るせいで、漁の開始から1時間もすれば池の中はどろどろの泥水になってしまう。水に溶けている酸素の欠乏で魚たちは呼吸が苦しくなり、あぷあぷ溺れて、湖面に口を出してくる。水面には魚の口が品評会みたいに沢山浮かんでいる。みんな、息が苦しいに違いない。池の水際の狭いところに、沢山の口が押し寄せる光景は、見方によると、異様でもある。女の人や私のような子供は、手網や米をとぐときの「そうき」や「手網」でそんな状態の魚をすばやくすくい獲るのだ。
 獲った鮒たちは、腰にぶら下げている「魚籠」の中に入れていく。釣りでも、大物釣りを狙うものだが、それは当たっている。その中には、7、8センチメートルから10センチメートルを超えるものもいた。こちらは元気がよくて、最後の力を振り絞るのか、両手で掴まないと、また水の中にこぼれ落ちてしまう。なんとか掴んで魚籠の中に入れ終えた時には、思わず「やった」と心の中で快哉(かいや)を叫んだものだ。
 やがて夜のとばりが落ち始める頃には、ほとんどの人は一日の漁を終えて家路につく。さすがに疲れる。しかし、ガス燈や懐中電灯をぶら下げて岸を歩く人もあった。それが、池を見渡せる我が家の庭から見て取れる。我が家のこの一日の収穫は、多い年は、鯉が3尾も底の深いバケツの中に収まっていることもあった。家に帰るや、いよいよ調理を開始。祖母と母は、鮒や川蝦などはそれらを水洗いし、大きさによって振り分けた。それからきれいな水を入れてあるバケツにかれらを移して、もう一度泥を吐かす。その上で、今度は家の中に持ち入って、鍋に入れ、調味料や薬味の山椒などを入れ、小さいものは煮込んでいく。白い川蝦は煮込むと、焚き具合が気になって鍋蓋を開き、中身が紅く色付いていくのを確認するのが常であった。これが、一度食べたらやみつきとなる位に、誠においしい味がすることを知っていることから、時には途中で2つ3つつまんでは味見していたに違いない。
 持ち帰った鮒や小魚は、母と祖母、兄と私の四人がかりで獲ったものだから、かなりの分量となっている。ちなみに、祖父は、魚を獲るのを観たことがない、静かに池の淵からやや離れた処に経って、人と話したり、時には「しんせい」と呼ばれる安価なたばこをくゆらしつつも、全体として涼しげに前に広がる風景を観察しているようなのであった。
 さて、家での作業に戻ると、まず大きなバケツに入れて泥を吐かせておく。しばらくすると、かれらを「そうき」に次から次へと採り上げて、はらわたや浮袋などの臓物をとって「しょうやく」しなければならない。「かど」に水の入った小さなバケツを置いて、とってきた魚を出刃包丁でさばいて、臓物をとり、水で濯いでおく。大漁だと、なかなか手間がかかる。それに、鮒でも大きいのが穫れていることがあって、其の時は念入りに包丁を入れていた。それが済むと、小刀で竹を削って作っておいた串に刺していくと、これが焼き鳥屋の仕掛けのような案配となる。
 こうした前処理が終わると、ようやく「あぶり」にとりかかれる。大量の魚の「しょうやく」をこなすために、我が家の2つの七輪だけでは足らない。その他に、傍らでは、庭に煉瓦を「コ」の字型に囲って、大きめの区画を作る。その中に、沢山の消炭を座敷のような案配になるよう入れている。そこにまずは炭に火を付ける。火の付け方は、「こより」状に丸めた新聞紙でこちらの方でも火を付ける。七輪は仕上用に使うことにしていた。大きめの区画に炭が焼けると、その「コ」の字に沿って魚の串を橋渡していく。団扇で風を送りながら頃合いをみてひっくりかえすというか、くるくると串を回してというか、炭の上で櫛に刺した魚を焼いていく。魚たちは、掌(てのひら)でくるくると裏返しにしながら焼くと、焦げにくいのだ。
 火の管理は、日頃の竈の管理や風呂焚きで手慣れていた。火勢が強くなるとそれにあおられてか、あれよあれよという間に魚が黒こげになっていくので、火箸で火を少し「コ」の字の開いた方へ掻き出してやらねばならない。それとは逆に、火の様子を見つめていると、弱くなる時がある。その時は、まんべんに焼けなくなってしまうから、新しい炭を火箸で掴んで火勢の衰えた処へくべたり、側面の口から団扇で風を送ってやる。新しくくべた炭が熾(おこ)ってきている時には、時折、「シューッ」と小さな火柱が上がる。チリッチリチリと鳴り出したら七輪の上に金網をしき、次から次へと焼いていく。火の勢いが強くなっているときには、こちらの額も熱々で、魚の脂の入り混じった煙がもくもくとあがってくるので、目の方も沁みて痛くなっている。あれやこれやで忙しい上に、作業中は片時も持ち場を離れる訳にはいかないのだから、楽な仕事ではなかった。
 どうやらこうやらで、七輪での焼きの仕上げを含めて、夜の8時くらいまでには一応全部を焼き上げたようだ。串焼きの鮒については、この夜の作業の後も、又日を改めて、もう一度七輪にかけて焼くことになっていた。途中で天井から吊して天日で乾燥させ、それからまた焼くことで臭みがだんだんに抜けてゆくのであった。都合2回の焼きが済むと、やや大きめの亀(陶器)に酢入りの醤油に付けて入れ、保存食にしていた。これと似たような話が、私とほぼ同世代の中原丈雄さんの随想「やっぱり塩鯖」のさわりの部分に記されていて、そこには「・・・しかも僕の出身は熊本の人吉という、鹿児島と宮崎の県境ぐらいのちょうど山の中で、名かなというとずっと川魚だったんです、親父が釣り好きで川に釣りに行っちゃあ、釣ってきたものを串にさして火鉢で乾燥させて、家の中に吊していました。非常食にね。食べるときは番茶で煮て、お茶で煮ると川魚の臭みがなくなって骨まで柔らかくなるんですよ」(東洋水産さんのパンフレット「おさかなぶっく」2015春号に所収)と、先人の知恵を紹介しておられる。これをいま読ませてもらって、私の故郷でも栽培していた「番茶」で煮ると、臭みが抜けるだけでなく、骨まで食べられるようになるとは、一度も聞いたことがなく、今更ながらよいことを学んだ気がしている。
 天然の鰻(うなぎ)や鯰(なまず)は特別扱いで珍重した。父が40センチメートルを超えるような鰻を捕って帰ったこともあった。其の時は、父の赤銅色の顔が夕焼けに照らされていたように見えたものだ。その心は、西部劇で父親が漁に出て、その還りを留守を守る家族が待っていて、何十日か経った後、ついに獲物を馬の背にぶら下げた父親が我が家にしとめた獲物を持ち帰ってきたとき、母や祖父母、そして兄弟などと一緒にその父を迎えるのにどこか似ていたのではないか。
 池や沼に棲む鯰は「泥臭い」といわれていたが、我慢できないほどのことはない。うなぎよりさっぱりした味がして、これもおいしかった。これらの鰻や鯰の場合も同じように調理するのだが、こちらはいやが上にも力が入る。両方とも、父が2枚にしてから七輪(しちりん)にかけてあぶった。まずは炭に火を付ける。そして、「しょうやく」が済んだ鰻と鯰を金網に載せ、七輪の火を調節しながら、その金網の上に鰻や鯰をのせる。団扇で景気良くあおいで火力を増してやると、やがてじゅうじゅうと脂が出てくる。その脂がポタポタと炭の中に落ち始めるともう仕上げだ。焦げ付くと風味も落ちてしまうから、早めに器に移したものだ。
 鰻や鯰の食べ方は、名古屋辺りの三様の食べ方ほど凝ってはいないが、その中の「ひつまぶし」による食べ方とやや似ているようだ。どんぶりにまずご飯を中ほどまで入れてもらう。その上にぶつ切りの鰻なり鯰を入れる。さらにその上にほかほかのご飯を入れ、醤油を少々注ぎ、さらに自家製の番茶をたっぷりとかける。醤油がご飯になじむ頃、鰻の脂が小さな泡となって茶の湯の表面に浮かんでくる。それまで待つことが大事だった。一椀のご飯を食べる間だに具を少しだけ食べる。そして次のご飯を足してもう一度脂の汁に浸して食べる。こうすると3回くらいはおかわりが出来た。
「お母ちゃん、おかわり(ちょうだい)。」
「よしよし、いま注いでやるけんなあ(あげるからね)。ちょっとまっとれよ。」
 母が、ご飯の入った「おひつ」をたぐり寄せるようにして、お代わりの茶碗に盛りつけをしてくれる。
「泰司はよう(よく)食べるなあ、よっぽど鰻がすきなんじゃな。そうじゃ、わしのもたべてみい」
祖母が笑って、ちょうど余っていた鰻の一切れを私のどんぶりに入れてくれた。
「ありがとう、おばあちゃん。これでまた何杯もご飯が食べれるけん」と、自分の顔がうれしさと期待感で紅潮しているのを自然に意識しながら、腹一杯たべさせてもらえる幸せ感にも酔っていたのではなかったか。
 さっそく、それをどんぶりに入れて、ご飯に少し醤油をつぎ足してもらい、熱い自家栽培の番茶を注いでから、しばらく待つ。脂分が油の表面に浮かんできたら、できあがりとなる。それから、またご飯を汁ごと口にかき込んだものだ。ご飯をたくさんおかわりすることで叱られたり、たしなめられたりすることはなかった。感謝すべきは一度も欠かすことなく一日に3度のご飯が腹一杯に食べられることだった。いま想い出すと、そのときのありがたさが今更ながらこみ上げてくる。
 今ひとつの鮒取りで獲り上げた魚の食べ方として紹介したいのは、その日の晩ご飯のおかずとして、鮒とかの小魚を母が甘辛く煮てくれていた。山椒の葉や丸い小さな実も薬味で入れてあって、その分、こうばく香ばしくなっていたのかもしれない。これをあったかなご飯の上にかけて食べると、とてもおいしかった。人は、「今が旬」のおいしいものを食べると、えもいわれぬ幸福感に浸れるというが、私たちの山間の地でも、海の魚を食べるのは常でなかったものの、河や池、沼の魚たちは、おいしくいただいてきたのではないだろうか。熱々の煮物をいただくのも結構だが、魚の煮物は冷所で一晩寝かしておくと、煮こごりの状態になり、これをまた炊き立てのご飯にかけて食べるのも美味しかった。コラーゲンのようなつるつるのゼリーのようになった魚の油が、ご飯の上に載せるとご飯に沁みて、あたかも「たまごかけご飯」のようなあんばいになってくれる。

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新48『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋2(籾すりと麦植え)

2014-09-27 18:48:50 | Weblog

48『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋2(籾すりと麦植え)

 籾として収穫したものは、家に持ち帰って天日干しを繰り返した後、十分に乾燥したところで、好日を選んで、我が家の庭で籾すりの機械に掛ける。それは2日か3日にも渡る日作業を2度くらい繰り返すことによって、行われる。重要な農作業の工程である。現在は、多くの農家が農協の「ライスセンタ」なりにまるごと依頼して行ってもらっているようだ。当時は各農家で作業を行うのが主流であって、それが無理なときだけ、地域によってはの共同でしたり、農協に持ち込んでお金を出して依頼していた。
 その頃の我が家では、家族で籾すりを行っていた。家(うち)の精米は、おそらくはで共同所有している籾すり機械(精米機)が順番で回して使っていた。小学校の3、4年生くらいまでは、その機械は、長くて大きな荷車に載せ、南の笹尾地域の方角から大勢で引いて来てくれていた。おそらく、運搬を手伝ってくれたのは、前の順番の人の手助けであったのだろう。4年生頃からは、籾すり機もぐんとコンパクトなものに変わって、の大人衆が1トン積みのオート三輪で運んできてくれた。まことに有難い。
 私の家の前に急勾配の坂がある。そこを荷車で引き上げるときは子供も手伝った。何しろ、その機械は長さ2メートル、高さも人の身長くらいは優にありそうな代物であるから、長い長い荷車に一杯に乗っかっている。それを笹尾(ささお)とか、西下の別の地域から運んでくるのだから、何人もの人手が必要である。人力でみんなで前から引いたり、後ろから押したりして、ようやくにして、家の広い庭に着くと、それをむしろをしいた上に総掛かりで引っ張り降ろした。これで、設置が完了した。
 父が、さっそくベルトを介して、籾すり機械の動力を導入するローターに届く距離に発動機をセットする。発動機に燃料が充填されていて、籾すり機側にベルトを噛ませたら、いよいよ始動にとりかかる。父が発動機のハンドルを回してエンジンに助走を付ける。
「プスプスプス」と気のないような音で、なかなか自動回転につながらない。そのうちに、油のにおいが漂ってくる。やがて、脱穀の時と同じように、何回かクランクにつながるハンドルを回しているうちに、発動機が「ドムドムドム」と動きだす。父は、出力の具合を調整して、それが規則正しい動きを見せるまであれこれと発動機をいじって、調整する。動いているベルトにグリスをすりつけて滑りをよくすることもしていた。これだけの準備ができたら、「よっしゃあ」ということで、籾すり機の駆動部分にひっかけているベルトを引っ張ってきて、それを発動機にも噛ませる。すると、二つの機械が連結されて、籾すり機が「ゴオッ」という音をたてて、動きだす仕掛けになっている。
「さあ、今日の仕事の場の始まりだ」ということで、籾すり機が動き出すと、しばらくは負荷をかけないで、「空運転」を行う。機械の調子がよいのを見計らってから、運転レバーを開ける。機械に負荷がかかり出すと、籾溜まりから籾を掬ってきて、ホッパーから投じていく。この籾すり機というのは、籾をゴム・ロールを摺って、玄米と籾殻に分けて輩出させる機械である。実際の作業では、「シイナ」といって、籾すりされなかったもみや、実の入っていない殻だけの籾も、籾殻とは別の排出口から出てくる。そいつは、もう一度ホッパーに戻す作業してやらなればならない。
 籾すりの機械はなかなか複雑な構造になっていた。連日の日干しでその籾は適当な湿度(適正な水分値)に調整されていることが必要である。その乾燥された籾が機械の中を循環していくうちに、籾殻が剥がされることになる。中心部は見えないものの、どうやら二つのゴム・ロールの間をすり抜けるとき、籾殻が摺られる(つまり外面を覆っている殻が剥がされる)。玄米は、機械のき吐き出し口から放出される仕組みとなっている。
 この機械の吐出口の下に「千通し機」ないし「万通し機」を取り付けてある。その器具は「ビン線」(ステンレスの鉄線が斜めに沢山通っている、金属を平衡に張った台)を通して、籾すり機にかけられた玄米をくず米や小さ過ぎる米粒を最終的に選り分ける。粒の小さいものは、びん線の上を走る間にその糸下に落ちていく。糸の上を滑り落ちた米粒は下敷きの「むしろ」の上にどんどん溜まる。ちなみに、自分の中心的役割の前半部分は、その溜まってくる玄米をブリキの「そうき」ですくい取って、10升(1斗)枡に測って入れることであった。
 その10升(1斗)枡が一杯になると、私は仕事の後半の部分にとりかかる。それは、なかなかの力仕事だといわねばならない。その一升枡を両腕に抱えて玄米を、家の土間の奥の板間に運び込むのだ。その板間には、むしろが敷いて、戸を閉めて、端がむしろでせり出すようにしてあった。こうすると、際がせり出しているので、沢山の玄米が入れられるようにしてあった。これを運ぶには10升(1斗)ますを使った。ビンセンの前で、籾すりした玄米が流れ落ちてくるのを鉄製の「そうき」で掬っては入れ、掬っては入れて、そのますを満杯にする。ところが、玄米をすくい上げてはますに入れていくと、最後はどうしても凹凸が生じて、ますの隅々まで平等な高さにコメが行き渡らない。そこで、「ます掻き棒」を両手にとり、ますの上面に棒を渡してから、手前から向こうへとさっと移動させて、表面をならして平らにする。それだけのことをしてから、そのますを体全体で包み込むように抱き込んで立ち上がり、家の中のその置き場所へと運んだ。その1斗ます(容積は約18リットル)には15キロくらいの玄米が入っている上、「風袋」としてのますもなかなかに重い。全部で17キログラムの総量であったのではないか。
 籾すりの現場と板間との間は10メートルに満たない。その距離を移動する。途中、庭から縁を通ってその部屋に行くときには、段差というものがある。その段差には広い幅の板が渡してある。そこに「むしろ」を敷き、その上を上り下がりする。その時には、余分に負荷がかかる。その往復を機械の運転が止まるまで、延々と繰り返す。一往復するたびに「正」の字を一本ずつ描き込んで精米量を記録していく。そのときは脱穀のときほどにはかゆくない。とはいえ、だんだんに疲れて、だんだんと足取りがふらついてくる。だから、板を上るときにはことさら油断は禁物である。足腰にしっかりと力を入れておく。幸い、足は丈夫なので、助かる。
 昼の休みは僅かしかない。昼ご飯を済ませて一息入れると、早々と又田圃に出かける。午後になると、朝早くからの仕事の疲れが出て、さすがに作業のペースが幾分か落ちてしまう。それでも、機会の早さに合わせて働いていると、はや陽は傾き始めており、そろそろ今日の予定を済ませなければならない。此の分では、今日はもう当座の後片付けをして、おそらく明日も、この作業を続けることになると、父と母が話し合っていた。
「夕焼け小焼けの 赤とんぼ
追われて見たのは いつの日か
夕焼け小焼けの 赤とんぼ
とまっているよ 竿の先」(作詞は三木露風、作曲は山田こうさく)
 夕方には西の空がだんだん茜色に染まってくる。すると、カド(庭)のあたりもまた薄紅く幻想的な色に染まる。その中をトンボたちが乱舞している。シオカラトンボ、その雌のムギワラトンボたちだったと思う。北へ北へと長距離移動するウスバキトンボ(精霊トンボ、盆トンボの異名を持つ)もいたかもしれない。
 人の手が加えられている田んぼの畦には、ハッチョウトンボの雄が飛んでくる。亜大きさは2センチ足らずしかない。近くに、焦茶色とクリーム色のまだら模様の雌も見かける。
浅く掘られた水路にも、田んぼにつながる雑木林や棚池にもいて、それぞれの種類のトンボで群れを作っているようである。夕陽に染まっているので、本来持っている色ではなかったのかもしれない。時折は、水玉模様のアオモンイトトンボも飛び交っていた。
 人家のあるところでは、普段は狸や狐、いたち、うさぎといった中くらいの大きさの動物たちは見られない。それでも、狸が一度だけ我が家の庭に現れたことがある。
「しょう しょう しょうじょうじ
しょうじょうじの庭は
つつ月夜の みんなでてこいこいこい
おいらのともだちゃ ぽんぽこぽんのぽん」(野口雨情作詞、中山普平作曲。なお、証証時寺は千葉県木更津市内にある寺)
 秋は、自然の実りが隔年で変わっていく。その年の山の実りは、ことのほか多かった。きのこ取りはその最たるものであった。マツタケ、ヒラタケ、マイタケ、ホンシメジ、サクラシメジ、アミタケ(ズイタケ)、ハツタケ(アイタケ)、ヒラタケ、クロタケといろいろあった。キノコたちは松の柴の間から沢山帽子を出していた。きんもくせいが橙色の花弁を地面一杯に落としている沢の辺りにも行った。ツキヨタケやテングタケとぃった毒キノコは森の奥の涼しい所で光っていた。雑木林のなかをかき分けかき分け、右へ左へ縫うように歩きながら、それを夢中でびくに入れたものだ。
「泰司、どこまでいっとんたんじゃ、ようけいとれたか。」
「うん、裏の方から天王山(てんおうさん)の近くまでのぼってなあ、そこから西ん谷(西の田圃の奥にあった。)に降りて戻ってきたんじゃあ。」
もっと近づいてから、
「ほうれ、ようけいとれたで」
「どれどれ....。おうおう、ようけいとってきたなあ。えらい、えらい」
そして、祖母と母に披露してもらった。
「おじいさん、見てやりんさい。泰司がズイタケ(アミタケのこと)やら仰山採ってきたで。」
「どれ、見せてみい」
祖父がおもむろに近づいてくる。
かごの中を見せると、
「ほう、ようけい採ってきたのう・・・・いろいろあるがな」 
と祖父がほめてくれた。
 山の中に分け入ると、バリッ、バリッと足元ではぜる音がしている。あちこちにシイやコナラやクヌギといった木々から落ちたどんぐりが、豊作の年にはじつに多く地面に転がっている。我が家の後ろの山から分け入っていく。その雑木林で一番収穫の多いのはアミタケである。それは、松柴や落葉の間に沢山生えていた。傘の部分にぬめりがある。傘の裏側は漁師の網のように細かい穴が開いている。
 竹籠に入れて持ち帰ったきのこは、新聞紙の上に広げ、傘の部分に付着している柴なんかを剥がしたり、根っこの石鎚をとり除く。その作業のことを「しょうやく」と呼んでいた。なかなか根気のいる作業だ。それからそうき(ステンレス製の網容器)に入れて、冷水でもみ洗いを施す。こうして料理の具材となったアミタケは、混ぜご飯の具となっても、みそ汁に入れられても、おいしくいただける。味は淡泊ながら、柔らかい舌ざわりとズルズルという喉越しの感覚が残った。
 ニオウシメジは西の田圃の奥のひんやりした林の中に生えていた。西の田圃の奥まったところにある林に群生していた。これはなかなか上品な味がした。何が毒きのこであるかを教授された覚えはない。途中ではナツハゼの黒い実やぐいびの実を採って食べたりした。親や村の兄さんたちの後をついていきながら、自然と覚えていったのだと思う。
 一番の目当ての松茸はめったに採れなかった。森には、杉(最近では、クリプトメディア・ジャポニカと呼ばれる樹齢40~50年のものが輸出もされているらしい)や檜の類を植林してあり、その辺りには松茸は生えてこない。それでも池の西側の松林で村の友達と採ったことがある。松の葉は顔に触れると痛い。顔にかかる枝をはらいはらい進んでいくと、目の前に赤松の林が現れた。マツタケのある橋よはフワフワした土壌をしていた。鎌の先で根っこの柴の盛り上がったところを探していく。白い菌糸がたくさんあるようだと、その辺にあるかもしれない。
 そのまま、あきらめずに30分も探していると、やがて親指ほどのマツタケが2本見つかった。「やったあ」 と心の中で叫んでいる。小さな体に喜びの衝撃が走ったものだ。一つあるとその周辺にいくつもある。だから、ひととおり探り終えるまでは友達に聞かれるような大きな声はたてまいとした。
 一人が採れたと知ると、友達が嗅ぎつけてやってくる。
 すると、柴や小枝が地面を覆っていて、その上を白色の菌糸がふかふかに生えている辺りに、次のが見つかる。というわけで、みんなの目は光りを帯びてくる。期待感で心が膨らみ、気が焦る。
「すごいなあ、ここに小さいのがある」
「この辺にあるで、大人の秘密にしとるとこかもしれん」
「さあ探せ!」ということで夢中で鎌の先で表土を剥いだり、手で地面を引っ掻いていったものだ。
 辛いこともあった。あれはいつのことだったか、祖父と池に出かけた。生まれて間もない、まだ目が開いていない子犬4、5匹を捨てにいった。その前は、「しろ」という名を付けた犬を飼っていた。我が家の「しろ」が死んだ後、二代目は「エス」といった。「エス」に朝と晩のご飯をやる仕事は私の担当だった。糞の世話も初めの1年位は真面目に取り組んでいた。しかし、そのうち忘れがちになってきた。散歩も時々になっていく。犬小屋の周りが糞だらけにになっているのに、片付けてやらない。母はその一部始終を見ていたらしく、「おまえはいったい何をしようるんか」と、いつになく厳しく叱られたことがある。
 大きな籠を抱えて、祖父の後ろに付いて池に着いた。手提げ籠にはエスの生んだばかりの子供達が、みんなかわいい顔をしてい。父親はどこからかやってきた野生の犬であったろう。いま省みれば、かわいそうなことをした。犬の赤ちゃんたちはしばらく浮いていたが、やがて泡とともに沈んでいき始めた。彼らの目が見えていないことが、こちらにとってはせめてもの救いとなる。それからは、眺めているのが忍びなかった。私は、早々と踵を返して元来た道を戻っていく祖父を追いかけて、後ろを振り返り、また振り返り、後ろ髪を引かれるような思いで、足早やにその場を去ったのを覚えている。
 秋の取入れが終わると、ほっとする。これでしばらくしんどい目をしなくていい。これで、今年はもう危険な目に遭わないでいい。仕事から解放された安堵感ひとしおであったことは否めない。それからは、一家総掛かりで、稲作の済んだ田圃に素手で牛藁糞を撒いた。その後に父が牛や機械を使って耕し直して、今度は麦を植えることもあった。アンドレ・ジッドの小説『一粒の麦もし死なず』のあの麦である。
 麦の種の植え方は、まず鍬を使って田圃の中に沢山の畝を作る。鍬を使うときには、脚を踏ん張らってやらないと、勢いがついているので危ない。一通り畝を作ると、その上にそこの平たい鍬で、右左と交互に土を削りながら窪みを作っていく。それが済むと、その上に種をパラパラとまいて歩く。随分と根気の必要な作業である。もっとも、我が家で麦を植えるのは数ある田圃のごく一部、1枚か2ま枚のたんぼだけであり、我が家で消費する麦の大部分は畑作で栽培していた。
 脱穀の終わったばかりで田圃に入ると、田圃には「なる」と「はでやし」が残されている。これを、私の家の西の田圃、その中に「おおまち」と呼ばれる1反4畝くらいで、我が家で一番大きい田圃があった。その側抗面にブリキの屋根を造ってあるので、その保管場所まで運ばないといけない。西の田圃のさらに奥の傾斜地にある「中ん谷」の田圃からは200メートルはある。のため、そこまでの道のりを「なる」を両肩に1本ずつ、合わせて2本担いで行き来するのが母や私たち子供の仕事となる。私の肩はおじいさん似でなで肩のため、「なる」がうまいこと肩骨に定着してくれない。ともすれば、肩からずり落ちそうになる。それを腕で引き上げながら平衡間隔を保つのがコツだった。
 「はでやし」は、父が束ねたものを肩に担いだり、一輪車に載せて運んだ。中ん谷だけで10何往復くらいの仕事量がある。しまいには、肩が痛くて手ぬぐいを荷物との間にかませ、かませやっていた。実に大変な作業だった。
 それでも空便で田圃に向かう途中では、細い道の草花を観察したり、手でふれたり、途中の小さい池に垂れ下がったくぬぎの枝先に、丸いどんぐりが実っている。

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新47『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋(稲刈りと脱穀)

2014-09-26 20:49:31 | Weblog

47『美作の野は晴れて』第一部、実りの秋(稲刈りと脱穀)

 秋の収穫は10月の快晴の日から始まった。我が家の田んぼは、広いのから狭いのまで、ざっと数えて20枚以上になる。それらの田んぼの中には早稲(わせ)を植えているところもある。その場合、稲刈りはもっと早い時期から始めなければならない。特に、「西の田んぼ」が山間にあるのに比べ、「東の田んぼ」は国道53号線方面により近い、平原に出たところにあるので、見晴らしが効き、他家の作業の進み具合も視界に入ってくる。そこで、田んぼ道の往来でも大人衆は情報交換しているみたいだし、子供の「やあ、やってるね」、「うん、そっちもな」と挨拶を交わす場面も出て来る。
 我が家の田んぼに黄金色に育った稲、その稲たちの収穫の日を決めるには、その日からの天候が気になる。父は田んぼの見回りから帰ると、家族に近寄ってくる。
「天気がうっとうしいけー、刈り時は、もうちょっと後になるんじゃろうなあ。」と父。
祖母が「その話はもう聞いたっちゃ(聞いたよ)。今年はどの田んぼから始めるんじゃ。」と訊く。
「そんなら、うちはどないしなさるんか。」
と母が怪訝な表情で父に尋ねる。
「いや、それに、あそこはまだ日陰の方が熟れとらんけえなあ」と父が答える。
 やがて稲刈り日がやってくる。父は毎日のように田んぼを見て廻っていて、大体の日取りを決めている。あとは、天候次第で、一日中晴れていそうな日を選ぶ。きれいな夕焼け空が巡ってくると、明日は穏やかな晴れの日になる可能性が高い。その夜は「釜を磨いて夜が明けるのを待て」と昔から言われてきた。最終的に決めるには、天気予報も役立っていたに違いない。その日は学校があるではないか、と思われるかもしれないが、その日が「農繁休暇」の日でなくても、大抵は学校よりも家の事情を優先していた。
 その日の一連の作業は長くて、きつい。準備は夕食の後のよなべ仕事での「いいそう」作りであった。当日の朝は早かった。まず、自分の左利きの鎌を受け取って砥石を使って研いでから稲刈りに取りかかる。それと似た光景は、2014年夏に見た映画「舟を編む」にも出てくる。主人公の恋人になる人が料理人で、数ある包丁の一つを自宅の台所で砥石に乗せて研いでいるシーンがある。
 初めのうちは目の荒いもの、仕上げ用の細か目の砥石を用いる。人差指の腹で研ぎ具合を確かめてみる。これでいいとなると、安全のため刃の部分に稲藁で包み、ひと揃いを田圃に持っていく。
 一雨毎に、田んぼの周りの秋の装いが深まっていく。現場に着くと、稲の色合いは黄金色に染まっていた。まずは稲を刈り取る。刈り取るときには用心していたが、それでも体をねじり気味にしたり、疲れで頭の中がもうろうとしてくるうちに思わぬ怪我をすることがあった。このとき付いたものか、それとも薪つくりのときのものもあろうが、今でも右手の甲に2か所、左手の甲に2か所の鎌による傷跡が残っている。
 田んぼの刈り取った稲は束にする。それには、「いいそう」と呼ばれる藁製の結び紐を使う。いいそうは、夜なべ仕事で「いいそう」づくりをして、その前の日の夜までに準備を整えておく。私は、その「いいそう」をなうのが得意であった。「シュルシュルシュル」と上方向に稲藁を練り上げてから、先の部分に「キュッ」と結び目をつける。
 稲刈りになると、腰紐に吊した50本のいいそうから一本を取って地面に置く。その上に、刈り取った拳大の稲を一つかみずつ置いていく。それがある程度の太さに達すると、紐でクルクルと最後にひねって一束に結わえる。この作業では腰が痛くなるので、何度も腰のばしをしながら作業を続けたものだった。小学校の作文にこう書いている。
「ザザ、ザザッ
つぎつぎにかっていく
ようし
腕に浮かび出た力強い骨
ザザザッ ズシッ
とくいの二重切り
手に乗った重い稲の顔
それから数十秒
稲は いつのまにか ばかでかい束に化ける
加工工場そっくりだ
首をほどろどろ流れる
油のようなあせ
「泰司、どれだけかった?」
耳に伝わる大きな声
「50(束)刈ったでえー」」(当時の作文より)
 汗とごみが手にじっとりと塗りつぶされている。
 一枚の田圃の稲を刈り取ると、次は、これを乾燥させるために、日干しにする。「稲こぎ」(稲こき)の前にこれを行う。そのやり方は、日本全国、その土地によって、稲塚に積んだり、稲架(はさ)にかけたり、いろいろとあるみたい。県南では、それらと段取りが少し違っていて、刈った稲をその場にいったん置いて半乾きにしてから、「稲ぐろ」をつくるらしい。
 「一株を普通に握って、ざくっと刈るでしょう。それを穂を拡げるようにして株の方を重ねて置いていきます。稲の穂を乾燥さすように置くんですね。稲刈りが全部すんだら二、三日干して、ひっくり返しながら全体をよく乾かします。そして束にしてゆきます。古い藁を腰へ結んでその中から四、五本ずっと取ってはそれで結んでゆくんです。束を積み上げて、稲ぐろをつくります。穂が乾燥しやすいように穂が出るような形で積んでゆきます
」(関口麗子「親も子も働き通しー一灯の下で夜なべ、読書」:岡山市文化的都市づくり研究チーム企画編集「さるすべりり花にー聞き書き、岡山女性の百年」岡山市、1990)とある。
 我が家では、今住んでいる比企地方とほぼ同じで、その中間のようなやり方で稲を干していた。父が作った「はでやし」を藁で結んで三角柱の櫓を組んだところへ「なる」と呼ばれる長い孟宗竹を架けて作ったつるし台に持っていき、稲束の2つの足になるように広げて架ける。自分なりにこれを「股掛け」と呼んでいたものだ。「なる」に掛けられた稲が十分に乾いた頃、脱穀、その当時の村の言葉では「稲こぎ」の日がやってくる。それは学校が休みの日を見計らって行っていたようである。これと農作業の姿は諸外国ではどんな具合だろうか。近いところでは、ベトナムの農村の風景であり、ブリューゲルの絵に描き出された貧しくも勤勉な農民たちであり、さらに相当異なるが、スタインベックの「怒りの葡萄」の中に出てくる一家あげての棉花畑での労働などだ。
「明日は稲こぎをするけんなあ、泰司、手伝ってくれえなあ。」
「うん。わかった。」
 そうこうするうちに、一回目の脱穀の日がやってくる。稲刈りした田圃という田圃にしつらえている「おだ」には稲藁(いねわら)が掛けられて、天日干しにされている。それを外して脱穀機に運んで、脱穀して、「もみ」にするのだ。
 4反(40アール)分くらいの田圃の乾燥稲を脱穀して籾にする。このときは「なる」から稲の束を降ろして2つの束を作る。それらを前後に「さす」と呼ばれる丈夫な棒で引っ掛けて「おいしょ」と背負う。「もっこを担ぐ」要領でやる。一旦担いだら、稲の切り株に足とられないようにしながら、発動機の動力をベルトで繋いで伝えている脱穀機のある場所まで運ばないといけない。
 田んぼの中央で脱穀機が発動機と厚く大きな皮のベルトとつながれている。父が止めておいた発動機の車輪についたレバーを握って、太い右腕で時計回りに回し始める。
「スーッチョンスーッチョン。」
重油のにおいが辺りに充満する。ディーゼルエンジン(まず空気のみを暖め、そこに燃料を吹き付けて着火する爆発方式)であったのではないか。その光景を見ているだけで、緊張し、心の中はびっちりした、すし詰めの状態だった。
「ドムドムドムドム。」
 何度目かの手動の回転で発動機がうなり声を挙げて始める。頃合いを見計らって、父が脱穀機の回転軸にベルトを噛ませると、「ゴゴーッ」という音を立てて脱穀機が動き出す。さあ、仕事の始まりだ。父が、両脇をぎゅっと縮めるようにして、やや後ろ側にのけぞるようにして、まるで船を櫓でこぐような姿勢で、両の脚をしっかり踏ん張って、稲藁を脱穀機の口に噛ませていく。機械のベルトががうなりを上げて回っているので、漕ぎ手は、万が一にも回転するチェーンの中に手と腕を持っていかれては大怪我をする。それに、噛ませた稲藁とともに強く引っ張られるので、手や腕を機械のチェーンに巻き込まれないように、絶えず注意を祓わなければならないのだ。
 稲こぎの際には、母と祖母と兄、それに私の4人は、脱穀機まで稲藁を運ぶのが一番の役目となっている。稲藁のかけてある「なる」に行って、稲藁を束にし、それを方に担いで脱穀機に持って行く。これを、機械が止まるまでの間、何度でも繰り返す。父が脱穀機の口に稲藁を差し込む作業に支障があってはならない時間のロスを避ける為には、絶えず脱穀機のそばに積んだ稲藁の量を確保しておく必要がある。田んぼによっては、地面が十分に乾いておらず、ずっしり重い稲等を背負ったり、「さす」で二つ担いで歩くと、足をとられたりして辛い仕事である。子供にとってはかなりの重みが私の柳のような細身の肩に食い込んで、随分と骨の折れる。きつかったのはそればかりではない。脱穀はかゆいのが嫌だった。毛穴に細かい塵が突き刺さるような感覚に包まれる。
 もう一つの仕事は、その向こう側にの7、8メートルばかり離れたところに祖父がいて、こぎ終わって軽くなった稲藁を集めて、「積み藁」をこしらえていた。私は、頃合いを見て、祖父を手伝って稲藁(いねわら)の野積み(千葉ではポッチ)作業にも働いていた。私は、稲藁(いねわら)を3束か4束ずつ掴んでは祖父に手渡す。祖父はそれを編んで、藁積みを仕上げていく。積み上げの最後になると、天辺には筵(むしろ)や稲藁で通気性のいい帽子をかぶせた。雨がしみ通って稲藁が腐るのを避けるためである。段々と高さを増し、でき上がっていく藁積みの姿は、丸い家、たとえていえば蒙古族のパオのようなものである。後年気がついたのだが、印象派の画家モネの『積みわら』の絵(倉敷の大原美術館蔵)にも、たぶん麦わらだろうが、似たようなものが描かれている。祖父は一山仕上げると、ニッと歯をむき出しにして笑うのが常であった。祖父の表情は何を語りかけていたのだろう。
 そのうちに、上村の酒屋の方から「ウァーーン」と響いてくる。昼のサイレンだ。余韻も入れると10秒も続いただろうか。それが鳴り終わると、祖母が「昼になったけん、わしらももうひとがんばりして帰ろう」と言う。
 祖母とみよはまた、「定子ははよう帰れえ、飯の支度があるけんな」と母を促す。
 父が帰るように母に言わないときは、祖母が母をかばって言う。
「登。定子をかえらしちゃらにゃあいけんがな。はよう言うてやれえ」
 祖母は気を利かしているのだ。その後で母が遠慮がちにその場所を離れる。母が坂を上って家に帰っていく姿を見送りながら、残りの者は昼飯までにもうひと仕事するのであった。それから、祖父、祖母、そして子供の順で家に帰っていく。
 午後の労働は、昼飯から1時間後には始めていた。父は飯を掻き込むようにして食べるのも早かったが、休憩もそこそこに田圃に戻っていく。まるで、「はよう食べにゃあいけんがなあ」と言われているように感じる。もちろん、子供心に、父の人並みはずれた働きのおかげで家族が生きていけることは承知していて、だから、いささかも不平不満を口にしたことはなかった、と言っていい。
 父が止めておいた発動機の車輪(燃料コックディーゼルエンジンのクランク)を太い右腕で回し始める。「スーッチョン、スーッチョン・・・・・」。エンジンがかかりにくいときは、直るまでの間、畦に座って休憩したり、近くの場所にアキグミ(ぐいび)を取りにいったりして、時間を潰していた。そのうち「スタターン」と弾みが付いて、その後「トントントン」と機械全体がリズミカルな機械音をたてて動き出したら、さあ、作業再開だ。発動機の燃料は、重油ないし軽油を使っていたようだが、その油のにおいが辺りに充満してくる。その光景を見ているだけで、心の中は緊張ですし詰めの状態だった。その音は、やがて「ドムドムドムドム」と、発動機(ディーゼルエンジン)が軽やかで、規則的な音に変わっていく。「やあ、今度はうまくいったぞ、さあ、やろう」という具合である。
 その頃の発動機は、なにしろ年季が入ったものであったので、性能はさほどに高くない。調子は「千変万化」といってよい。このエンジンは、空気をぎゅっと圧縮して熱せられたところに、霧状にした燃料を吹きつけことで自然発火させる。強制的に点火する装置である点火プラグを必要としないので、その系統の故障である筈はない。実際の運転では、急に「プスプススコン」という拍子抜けの音がして、機械が止まることがよくあった。今振り返ると、よく故障していたのは燃料系統に空気が入っていたのではなかったか。こうなると、エンジンが止まるたびに、燃料コックのレバーを空気抜けの方向に合わせて空気を抜くことにより、シリンダーに燃料が送れるようにしないといけない。
 午後は、太陽がさらに照りつけるか、もしくは風が出てくる時もあった。始めのうちは、さあ、「これから夕方までの方が長いんだ。しっかりやらねば」という緊張感の方が勝っていて、自分をはげましつつ作業をしていたものである。子供にとってはやや過酷な労働であったのかもしれない。昼からは、途中で3回くらいは休むものの、あたりがほの暗くなる頃、午後の6時くらいまでは脱穀機が動いていたのではないか。
 長い午後の作業も、やがて大詰めを迎える。ようやく、その日の脱穀があらかた済む頃には、私らは、後片づけにとりかかる。筵(むしろ)を畳んでは、母か祖母が「とおみ」のなかに流し込む。中には籾(もみ)が含まれているので、それを上下に揺らして籾をより分けていた。落ち穂拾の仕事もあって、主に私と兄の役割だった。一粒たりとも粗末に扱ってはならない。一粒でも多くの収穫を得たいという気迫が伝わってくる。画集に、ミレーの「おち穂ひろい」があるが、あの絵を画集をじっとと見つめていると、それは我が家の田圃の中での私の姿なのである。その頃には、陽は西に傾いていた。やがてその太陽が一回り大きくなって西の森を茜色ににじませて沈むとき、「疲れたんでそろそろ帰りたい、とんびも家にかえりようるで」。そんなことを考えながら、父の顔を窺っていた。それでも、近くの山に陽がおちて、空が茜色に染まる頃まで、何枚かの田圃の中を歩き回って、落ち穂を拾って歩いた。祖母や母や兄と一緒にかなりの量がどれたので、この作業もしてみるもんだ、効果があるんだなと実感した。家族みんなで拾って集めた落ち穂を、最後に父が脱穀機にかけてから、その日の脱穀の作業は終わる。あのミレーの絵に描かれた農夫たちの気持ちにも、洋の東西、時代は違っても、同じ農民の気概が宿っていたのではなかったのか。
 落ち穂拾いが一通り済むと、それらを「とうみ」に入れて仕上げの脱穀に取りかかる。後片づけにも取りかかり、脱穀機の周りの「むしろ」を全て裏返しにして、こぼれ散った籾殻を脱穀機にかける。それらすべての作業が済む頃には、月が静かに輝き始める。晩秋の秋の日没は早い。籾の状態に脱穀した米は、家に持ち帰らないと行けない。最後にかますを家に運ぶ。母は一足先に、晩ご飯の仕度をしに、家に帰っていったのだろう。小学校2、3年生までは耕耘機は入ってなかったので、一輪車とか一俵ずつ背負って家まで帰っていた。祖父と祖母と母は取り立ての籾を入れた「かます」を一袋、「輿」に背負って、坂道を昇って、家路についていた、私たち子供も、一輪車で続いていた。ほとんどの「かます」は後で、全部を片付けてから、もう一度みんなで田圃に出かけて、荷車に乗せて、牛に引っ張ってもらって家まで運んでいた。そのときは、荷車のあと押しをしていた。
 このときばかりは、家族から子供も一人前の働きを求められた。労働が幾らきつくとも、他人の労働の成果を横取りするという意味での搾取は見あたらなかったのだから、家族の一員としてがんばるしかない。子供ながらに、懸命に働かないと生きていけない仕組みを学んだ。しかし、心のどこかにみんなどうしてこんなに働くのだろう、どうしてこんなにしんどい目をするんだろうか。どうして休むことをしないんじゃろうか。別に人生哲学という程のものではないが、子ども心に大人社会のあり方に疑問が沸々と浮かんできて、周りが全部囲まれてくるような気がしてきて、これでは逃げ場がない、となんだか空恐ろしくなることもあった。
 一反(10アール)につき「かます」に7、8俵もとれれば大変な収穫である。6俵が普通であった。陽光に満ちた沃えんの土地ではない。羨望の目で見られることもなかっただろう。しかし、かけがえのない大地からの恵みには違いなかった。当時は、田圃から採れるあの米のおかげで、私もまた家族に守られて生きていけたのである。家に持ち帰った籾は、それから何日も何日も、そのまた何日もかけて天日干しにする。乾燥機が導入されるのは、やっと中学の頃になってからのことである。それまでは、むしろを家のかどに何十枚をならべ、そこに薄く満弁に行き渡るように、「こもざら」のような道具で平たくのばしていく。
 筵(むしろ)の片面が乾燥したら、陽の高い内に裏返しにする必要がある。そこでいったん筵の中心部に丸く籾を集めてから、再び「コモザラ」という平たい道で平たくなめらかにしていく。作業に慣れてこないと、なかなかまんべんに広がって、いい形になってくれない。これなども、つづめて言えば当時の農作業の技術の一つに数えてよいのではないか。そうして乾燥させている間に曇り空になったら大変である。空模様がおかしいなあというときは大変だ。早めに片づけを準備しなくてはならないからだ。そのうちに、真っ昼間だというのに、あたりがだんだん暗くなってくる。うちにだんだんと曇り空が広がっていき、温度が下がり、雲の底から地上に達する黒い筋が何本も見えるようになる。それからほどなくして雨がポタポタ落ち始めるからだ。降り始めるまでの間に、まずむしろを畳み込み、ついでその両側をもって持ち上げ、家の中に急いで運びこまなければならない。そのときはまるで戦場のような忙しさであった。

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新46『美作の野は晴れて』第一部、運動会と学芸会

2014-09-26 20:46:33 | Weblog

46『美作の野は晴れて』第一部、運動会と学芸会

秋分の日を迎える頃には、台風の襲来や秋雨前線の停滞などがないかぎり、晴れる日が多い。空は碧く、風は涼しく、陽は明るくなって、いよいよ秋らしくなっていく。「秋、清爽」の頃合いだといえる。日の出の太陽は東から出てきて、西に沈む。これ以降の太陽は南半球に下がるため、日を経るにつれ昼間の明るい時間が短くなっていく。この時期には、「秋期大運動会」が開催される。その準備は1ヶ月位前、夏休みが明けたら直ぐに取りかかる。なぜなら、この運動会は自分たちだけではない、父兄やの皆さんに見てもらうことを念頭に置いているからにほかならない。
 朝早くの運動場には、もう柔らかな陽の光が差し込んでいる。運動場の片隅、日当たりのよい南側にある1年生の教室前の花壇には、コスモスの花が咲いている。長い茎の至るところに内輪が濃い黄色、外輪には白、ピンク、紅色などの花びらが光に照らし出されて、爽やかに輝いて見える。コスモスを際立たせているのは、花壇の枠からはみ出したり、何かの弾みか風のせいで横倒しになっている茎の先を改めてもたげ、そこでまた花を咲かせている。それを全体として観るからに、まさにひとむらを形成する雄々しさを持っている。地面近くでも、春に植えたマツバボタンが白に始まって赤、赤褐色やピンクといった色とりどりの花が、陽差しに向けて可愛げな花を向けている。運動場の観客席となる処では、早めに登校したクラスの仲間によってムシロやござが敷き詰められ、朝礼台の右手には本部、左手には来賓席のテントが既に張られている。入場門と退場門の紅白のリボンによる飾付けも済んで、準備万端整っているようである。
 全員が整列しての校長先生の訓辞が終わる頃には、各々の名の書かれたプラカードの前に、観客の皆さんがもうかなり座っている。最初の競技演目には、幾つもリレーが含まれていた。4年生までは紅白対抗リレーに出ていたようで、その後はクラスのトップの人の応援に廻った。応援団の旗振りにも加わったことがある。埃を巻き上げながら、目の前を疾走していく仲間に声をからしてエールを送のも一興である。学年別リレーでは頑張った。もっとリラックスすればよいのに、本番では体が固くなって動きもぎこちなくなる。小さい頃は無心で走り廻って遊んでいたのに、いざレースになると、体が縮こまってしまう。それも実力の内なのだろう。
 リレーには、部落対抗リレーもある。新野西、新野東、新野山形からそれぞれAチーム(児童]、Bチーム(父兄)が出て合計6チーム、それに先生方が加わって都合7チームであったように思われるが、自信はない。これは、走り競争というよりは交流試合のようなもので、走っている人の表情も破顔大笑といったところである。
 3年生くらいまでは、玉入れがあった。紅白に分かれて、高いところのかごに、それぞれ紅い玉、白い玉を投げ入れる。これがなかなか難しい。弾みをつけて、勢いよく投げ上げると、大抵は玉はかごの上を通りすぎてしまう。入れるためには、楕円を描くようにゆったり投げるのがよいのかもしれない。バレーボールのレシーブのような格好で投げ上げていた人もいて、この方が成功率が高いのかもしれない。
 印象深いものに、やぐらを仕立ての騎馬戦があった。駆け足入場で、消石灰(水酸化カルシウム)の白い粉でラインが引いてある手前に、双方が整列する。
「みんなが見ている」
「ここは格好いいとこ、みせにゃあいけん(見せなければならない)」
 先生の「用意」の合図で、その手前に立って3人で櫓を組む。クラス対抗なので、5、6騎ずつくらいが7、8メートルを隔て、向かい合う。騎馬の土台ができると、4人目がその上に乗っかる。上が乗っかると、下の騎馬が立ち上がる。
 上の乗る者は、鉢巻きをキリリと締めている。私は、下にいて馭者(ぎょしゃ)を支える立場だったので、なかば馬になった気分でいたのかもしれない。
 「始めえー!」の合図があると、味方の騎馬は片方に集合して、陣立てを行う。それから、そろそろと前進を始める。ばらばらで敵陣に向かうと、車掛かりで来られたり、囲まれたりするからだ。
 なにしろ、上に人を乗せているので、体力の消耗が激しい。それでも、だんだんスピードを上げて、全部で敵陣に突っ込んでいく。そのときは、騎馬を組んでいる3人のうち、先頭にいる一人が一番やばい。一回目の衝突では失敗。相手ともみ合う間にバランスを崩して、騎手が落馬した騎馬もある。地面に足や手が着いたり、上の者が鉢巻を奪われたら失格だ。失格になったら、その4人が白線の前まで戻って、しゃがんで試合の終わるのを待つ。
 そうこうするうちに、騎馬の数が少なくなっていく。上の者が「あっちをねらえ!」と指示を出す。下の者はその声に従い、相手方めがけてカーブを切ったり、突進したりを繰り返す。そのうち、今度は 「向こうをやっちゃれえ」と指示が変わる。供回りはその度に方向を変えつつ、上の者を支え続けなければならない。ゲームだとわかっているつもりでも、頭の中は、あの中世の騎士道に生きた『ドンキホーテ』のように空っぽな状態にな
っていた。下ではふんどしがほどけるように、やぐらが崩れそうになったりもした。人間、はじめに張り切りすぎると、あとで「ガタガタ」の体たらくになることを学んだ。
 2分くらいの試合時間が終わる頃には、日頃疲れを知らない筈の少年たちも体力を消耗して、足はよれよれ、息使いは「はあはあ、ぜえぜえ」の状態になっている。それにしても、先生はいいところで試合終了の笛を吹いてくれた。勝負の判定は、どちらの陣営が多く鉢巻を残しているかで決まる。
 小学校6年の時は、男子で組体操を父兄に披露した。裸足で、上半身裸であった。初めのうちは三人が扇形になったり、倒立して支えるようなことをやる。最後に、いよいよ下にマットを敷いての演目に膝立で行う「人間ピラミッド」があって、これがなかなかに難しい。一番下に3人が並んで四つん這いになる。私はその一人だった。その上に、2人が登って同じ姿勢を取る。最後の一人が3段目に乗って出来上がりとなる。難しい方の、しゃがんで3段組で態勢をつくり、最後に下から順に立ち上がるやり方は試みていなかったように思う。こちらの方は3段組どころかもっと段数を増やす誘惑が増して、そうなると大怪我をする心配も出てくる。
 この姿勢を取るこつは、膝は心持ち内側に力を入れてロックする感じにすると、地面をしっかり捕まえられてよい。上の方は、肩の関節を少しせばめて四角い枠をつくるようにすると、安定が増す。完成後、笛が鳴って櫓を解くときには、一番下の身としては、最後まで気を抜かず、細心の注意でいないと危ない。せっかく下からくみ上げても、重心のかかり具合とか、何か一つ狂うと「どうにかせにゃあいけん」と全員が焦っても崩れ落ちてしまい、もう一度やり直しとなってしまう。全部がうまくいって、観客の皆さんからは拍手がもらえたときは、自分たちのことが何やら誇らしく、うれしかった。
 女子も組体操のプログラムがある。みんなが裸足のブルーマ姿で、新体操で使うようなリボンと玉を携えていたのではないか。男子には力強さを、女子には優美さをといったところか。たおやかに舞う姿は、日頃の級友とは異なる優美さを感じた。
 フォーク・ダンスのときは女子と手を繋ぐのでなにやら照れくさかった。女の子の方がませていて、男子の動きの方がぎこちなかった。手を繋ぐとなにやらふんにゃりして柔らかいし、途中で右手を除しの背中に回して二人が回転するシーンでは、彼女の髪が頬に触れて、アーモンドのような甘い、清純な香りがしたものだ。
 いまでもテレビでダンスを男女で踊るシーンがあると、つい見とれてしまう。沖縄の人々のように直ぐに踊りを始める習慣が身近にあればいいと思う。あのときばかりはみんなが幸せで、かつまたその場に参加しているすべての人がさいわいな気分に浸れる。
 フォークダンスは、高学年になると、もっと複雑になっていったようだ。西洋のダンス曲があって、それに合わせて踊るのだ。曲目では、『オクラホマ・ミキサー』と『マントマイム』を踊った。「オクラホマ・ミキサー」の原曲は「藁の中の七面鳥」である。この曲が佳境に入ると、「藁の中の七面鳥 干草の中の七面鳥、転げてよじれて」となっていて、これがどうしてロマンチックなのかと驚く。よく覚えているのは、曲の後半部分の「タタンタタンタ、タタンタタ」というリズムに合わせて、踊るところだった。
 そのおりには、男女が交差して結んだ両手を前へ後ろへ大きく振りつつ進んでいく。それが終わると、やがて「タンタラターラ、ンタタ」で終わる。そのままの位置で、次の曲が始まるまで、暫し待つ。二つの曲を踊ったら、おしまいになった。そのときの気分は、「やれやれ」と「まだ踊れるのに」とが相半ばしていた。掌には、緊張のためか、女子と踊れたうれしさのためかわからないが、うっすら汗をかいていた。
 ほかにも、ムカデ競争や、男女が足をつないでのアベック競争、綱引き、借りてくる競争、・・・・・と、いろいろな競技がつぎから次へと、繰り広げられていく。その度に、天高き秋の空に喊声と拍手と喧噪が鳴り響く。借りてくる競争では、「よーい、どん」でスタートし、いざ札を取って開けると、人の名前が書かれているときもある。その人の処に行って「お願いします」と頭を下げ、二人で手をつないでを連れてコースを一周する。他のチームに遅れをとっても、ノートと鉛筆がもらえたのだと思う。
 運動会には、母が一年生の頃から六年生の最後の学年まで、たぶん観戦に来てくれたのだと思う。その日ばかりは父に頼んで、忙しいところを、時間を都合して来てくれたのだろう。母は兄の分と掛け持ちで見てくれた。母の姿を見つけると、なにやら観察されているということでシャキッとしたものである。そのうちどころか、曲が始まる前から手のひらには汗が出ていた。顔は少し引きつり加減であり、日本の足は震えてこそいないものの、ぎこちない、という体たらくであった。女の子の手を握ってスキップしたりする部分があるが、温かかったり、柔らかかったり、不思議な感覚にとらわれたものだ。
 あのときは、一種形容しがたい気分であった。はずかしいやら、照れくさいやら、それらの混合であったような気がする。内の女の子とゆるゆる、やあやあして遊んでいたこともあるので、手をつないだこともある。恥ずかしがり屋ではあるが、人一倍の好奇心もあった。自分のことを、奇妙な組み合わせの性格であるな、と思っていた。 フォークダンスのときに、モジモジ、テレテレして、仕方なさそうにしていたので、家に帰ってから母に注意されたこともある。このほかには母に叱られた経験は残っていない。元来不器用なので、そんな弱点が露呈したのである。
 運動会とは別に、勝田郡内の体育大会に選抜で行ったことがある。そのときは6年生のときだったろうか。会場は、勝央町の植月の小学校か中学校であった。校庭に集まってから先生に引率されてバスか何かを利用して行ったのではないか。勝加茂から工門を経て、下野田まで行くと、林野方面に行く大きな旧道に出る。それから北東に向かう。会場の勝田郡植月町の植月小学校の校舎と校庭はいまでも覚えている。「ここは新野より、平坦だなあ」というのが第一の印象だった。
 何に出るかは予め決まっていて、私は走り幅跳びに参加した。三崎君(仮の名)と二人で参加して、その彼が四メートル二〇センチくらいを跳んで優勝した。後日、彼の作文を読んで、あれが渾身の一跳びだったようだ。私の方は、三メートル八〇センチくらいではなかったか。がんばったのだが、距離は伸びずに、肩を落として帰ったような気がする。勝田郡内とはいえ、初めての土地であった。
 学芸会の方は、学年が上がる毎に、教科書か何かに題材を求めたものになっていったような気がする。一年生のときは、森の何とかさんの演題であったのだろうか。写真を見ると、みんな動物たちの仮面というか、手作りしていた。たぶん、画用紙に絵を描いてから頃合いの大きさに切り取り、「わっか」の部分にゴム輪を取り付けたものだろう。学芸会の跡でみんなで移してもらった写真らしく、私は額に付けたウサギさんの仮面の下から、満面の笑顔がこぼれていた。
 二年生、三年の演題はどうしても思い出せない。「花さかじいさん」だったかもしれないし、何かの創作劇だったのかもしれない。いずれにしても、台本があって、何度も何度も練習したり、小道具、大道具を作ったり、振り付けの歌を歌ったりで、先生の指導の下、
まるで現代のミュージカル劇のような感じで、楽しく取り組んでいたのではないか。
 あれは四年生か五年生の時であったか、『竹取物語』をクラスでやった。私の役柄は、おじいさんであった。その中のかぐや姫の『姫の告白』では、「おのが身はこの国の人にあらず。月の都の人なり。月に帰らねばならぬのに」と言って姫が悲しむので、どうしようもない。最後は、姫が月に昇って帰っていくのだった。
 六年生のときだったか、『ペルシァの市場にて』を学芸会で上演した。この『ペルシャの市場にて』は、イギリスの作曲家アルバート・ケテルビーが1920年に作曲したそうな。クラシックのその曲は、音楽への入門にはもってこいの名曲なのだそうである。
 私が受け持っていたのは、楽器と合唱のうち、アコーデオンを弾くことであった。これが大変だった。何しろ、この楽器はいすに座って、丸抱えしてからね左の手であのぶ厚いびらびらしたのをおもむろに広げたり、閉じたり、その右手では鍵盤を弾かないといけない。
 鍵盤を弾くのは、私のように楽譜が余り読めない者でも、何十回と練習しているうちに、課題曲を一通り、なんとか弾けるようになっていた。曲のテンポがゆるやかなことも幸いした。ところが、左手の方はこれが慣れるには大変だ。広げるのはじわじわと行い、一杯広げたときはもて余す位になってしまう。それでいて、今度は圧縮して中の空気を押し出す段になると、それはそれはもう重くて重くて・・・・・。何回も何回もくりかえしているうちに、腰は重いし、腕はだるいし、ただ鍵盤を弾く右手の指だけが曲の動きを追いかけているようであった。
 それでも、小太鼓のリズムに乗せて、ピッコロのメロディがひょっこりひょっこりと、だんだ近づいてくる。砂漠から近づいて来るかのようなキャラバン(隊商)が街の市場(スーク)に徐々に近づいてくるのは、なんだか愛嬌がある。
 その当時は知らなかったが、歌の内容も「アラーの名においてお恵みを」という「物乞いの歌」なのだそうで、ケテルビーはペルシャを訪れたことがなかったそうな。いわば想像の世界ということになる。イスラムの人は、施しを求める者には何かしらを与えるものらしい。ここでいうところの「アラー」は神の名前ではなく、神そのものであるといわれる。
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新41『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風1  

2014-09-26 20:41:05 | Weblog

41『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風1

 夏も8月の盆くらいになると、暑さがこころなしか和らいでくる。加茂川は吉井川の支流の一つ、我が家から歩いて40分くらいのところにある。概ね南北の方向に流れていて、この時期の堀坂(津山市)付近では川幅は数十メートルにもなることがある。
 その加茂川に、掘坂内外の子供達が楽しみにしているものがある。それは、8月の「井出落とし」(いでおとし)と呼んでいた。「井出」とは堰(せき)のことで、これで加茂川の支流の水を堰き止めて、周囲や下流にある田んぼに水を廻していた。その水が要らなくなると、それまで溜めていた堰の水を開放してその支流の自然な流れに任せてやる。これによって堰に至るまでの水路の水が減ってくるので、その長い水筋のあちこちに棲息するようになっている沢山の魚たちにとっては進退窮まるというか、おそらく驚天動地のことになるのだろう。西下の子供にとって夏の最大の楽しみであったのかもしれない。
 小学校の低学年までは、先輩達に連れられて6、7人で連れだって、小網と「びく」を持って出かけた。川の本流での釣りは許可証を持っていないと許されない。その辺りで魚がいるたまり場を狙って釣糸を放り込めば、「入れ食い」状態でいくらでも魚がくいついてくるのではないか。因美線の美作滝尾駅に続く道の川沿いに、暫くひとむらの木立が茂っている処がある。あの『寅さん』の映画でもこの山間の駅が出ていた。それを横切って降りていくと川岸の中州に出る。そこには川岸から水路を掘って、用水を引いてある。私たち、漁業組合の着行軒その土地の外の者でも、そこでなら魚取りをしてよい。
 用水に足を踏み込んで、手探りしていく。どうやら、岩穴の奥に魚が潜んでいるらしい。そこで、粘って葦なんかの棒を使って住み家をかき回してみる。魚がいたたまれなくなって川の中流に踊り出してくる筈だ。チョロチョロッと足早に逃げようとするので、そこを素手か小網で捕まえる。頭のでっかい魚とか、八つ目鰻、鯰、モツゴ、ネコギギ(「チョッカン」と名付けていた。)とかいろいろ獲れていた。
 ある年のこと、上流で鯰(なまず)を先輩の武(仮の名)ちゃんが取り逃がし、ちょろちょろと逃げだして、たまたまその支流で構えている私の網に取り込まれた。武ちゃんは大層悔しがった。私は「独りでに自分の網に入ってきたのじゃから」と心の中で呟いたけれども、喜ぶどころか、嫌な気分だった。なぜあのとき、快く彼に「僕のものじゃないから」といって譲ってあげなかったのかが悔やまれる。
 帰りは疲れと坂のため、自転車を押して帰った。びくの中は一杯で楽しかった。佐藤のうどん屋の近くに大イチョウの木があって、ぎんなんの実を小枝を使ってたたき落として集めていた。かなり集めたところで、持ち主のおじさんに見つかった。
「おまえらどこの者か、何をしているんじゃ」
 私たちは、「やられた」 とみんなで観念した。 こちらが無断で他人の家のものを取っていたのだから、どうしようもない。
「すみません。僕らは西下のもんじゃけえ。人の家のものとはしらんかったんじゃ。許してつかあさい。」
「なんじゃあ、西下のもんかあ。こらえちゃるけん、もうこれからはするなよ」と許してもらった。
「すみません、もうこれからはしません」とみんなで言ったのかどうなのか・・・・・。
 半刻ばかりの我々の「悪ガキ」の成果は巻き上げられたのだが、現場を押さえられたのだから、どうにもならなかった。私たちは、しょんぼりして魚だけで我慢した。
「井出落とし」でたくさんの魚を持ち帰ったときには、母や祖母がしょうやくを手伝ってくれた。後に知ったことだが、滋賀県の田舎では今でも「ふな(鮒)寿司」といって、1年間くらいその魚をぬか漬けにしておいて、おかずが少なくなる冬場などによく食べる週間があるそうだ。これは、発酵食品であり、乳酸菌が多量に含まれている。我が家では、焼いた上で干し魚としておいたり、酢醤油につけておいて食べていた。ともかく、貴重なタンパク源であった。
 普段の魚取りは、村のなかでも、小川が流れており、なかでも東の田圃で行った。釣りについては、渓流釣りとかはしたことはない。もっぱら、小川で釣りをした。田圃に撒く肥、つまり牛の糞と藁の混ざったものの山がある。帽子をめくって少し剥がすと、太さが2、3ミリメートルほどのシマミミズがたくさん生息している。それを缶詰の缶に詰める。
 こうして準備を整えてからいそいそと出かけていく。年齢の近い3人から4人で行くことが多かった。目的の川に着くと、荷物を置いて川釣りの場所を物色する。水がよどんでいてから底の見えない、しかも草が生い茂っている辺りがポイントに適している。
「いるか」
「ちょっと待って、まだよう見えん。」
そう言ってさらにかがみ込んで水中を観察する。じっと眼を凝らしているとメダカだけではなく、まだ小魚のモツゴや鮒の泳いでいる姿が見えてくる。
「おるおる。おるでーっ。いま、あそこの水溜まりの中へ入って行ったところじゃ」
「そろそろさおをたらそうか、泰ちゃん」
 勇介(仮の名)君が聞いている間に、気のはやい浩一(仮の名)君はもうその作業を始めている。
「うん、やろう」
と僕が気取られないように静かに答える。
「僕もやる」
 誠(仮の名)君もやる気満々のようだ。
 みんなで川の岸に並んで腰掛けた。手製の竹竿に釣り糸が固定されているのを確かめる。釣り針を釣り具セットの中からとりだしてその釣り糸に結わえ付ける。魚針にミミズを突き通して、それから川面に投げる。
 あとは時間の経過の中で辛抱強く待つだけだ。仕事にならないうちはひなたぼっこの錯覚すら覚える。ウキにいろがついていて、それが浮きつ沈むと鳴り出すと、魚がかかっている証拠だ。おもむろに引き上げると、鮒やクチボソ(モツゴ)がかかっていた。クチボソ(モツゴ)が肝臓ジストマの中間宿主とは知る由もなかった。イシドジョウや鯰も清流のよどんでいる所にいた。イシドジョウとは、関東ではみかけたことがない。縞模様のような筋が入ったドジョウのことである。
 狐尾池では、早朝に縁を歩き、土泥に残されている足跡をたどってカワヒガイ(カラスガイと呼んでいた。)を採った。泥に筋がついているので直ぐ居所がわかる。たまにじゅんさい採りもした。睡蓮の一種で池の浅瀬の湖面に薄緑色の葉が浮き出ている。そこから茎が紐のように下に長く伸びており、その紐状の茎をたぐり寄せ新芽の部分をつかみ取る。池で水泳したおりにはよく食べていた。
 池の上(かみ)や下(しも)の小川でシジミやゴカイを採った。しじみは清流の砂泥でないと棲まない。卵を生む種類としてはヤマトシジミだったのかもしれない。僕たち子供が採っていたシジミの親は自分と同じ形の子供を産むのだろうか。信じられないほど小さいシジミの子供でも殻を背負っていた。マシジミという種類の貝なのだろう。
 土をゴマフルイにかけると生まれたばかりのちっちゃいしじみも網にかかる。その子供は大きく育ってもらわないと困るので、また小川に帰した。誰におそわったということではないが、その頃はまだ自然の恵みを大事に扱うことを忘れなかった。
 魚の取り方にはいろんなものがある。せき止めたり分流を施すなりして、川の流れを制御できるところでは、バケツで水を汲み出した。魚も必死だったのか、この方法では漁は少なかった。いまから省みると、あそこまでやることはなかった。あのような自然体験を子供に伝承すべきではない。根こそぎ魚を捕獲するような真似をした自分があのとき正気であったとは思いたくない。ここ比企丘陵の武藏嵐山町の広報(2000年5月1日付け)を見ていると、こんな記事が見える。
「幼少のころの夏の思いでの一つに川遊びがある。近所の友達と一緒に手ぬぐいとバケツを持って川へ行き、足首ほどの浅瀬に入る。2人で手拭いの両端を持って広げ、川原に目を凝らし岸側に向かって、一気にすくい揚げる。すると、その水の引けた手拭いの中にはぴちぴちとした小魚が沢山とれる」と。
 魚の他にも、小川や溝にはさまざまな虫がいた。生物図鑑で見ると、渕と呼ばれる水がよどんで深みのあるところにはヤマサナエ、ヒメサナエ、流れの速い早瀬にはヘビトンボやチラカゲロウ、波静かな平瀬のあたりにはオナシカワゲラというようになっているが、どれとは言えないまでもかなりの種類を見たように思う。これが加茂川になると、ますます珍しい生き物たちを発見した。
 浅瀬に入って石ころをひっくり返すと、そこに小さな水溜まりが出現する。そこには、水生昆虫から川蟹、トンボの幼虫から巻き貝のような生き物までいた。川蝦の中には透き通るようなものもいた。これらの生き物がいるということはその河なり池が清流であることを意味していたのではないか。そういえば亀もいた。
 その川では遊びもした。どこからか笹の葉を取ってきて、それで「笹舟」を作っては上流から流した。その笹舟は、速い流れに乗って遠ざかっていった。流れがよどんでいるところで立ち止まったりするものの、棒か竿の先を使って流れている方へと出してやると、その流れに乗って、また勢いよく流れていく。さすがに加茂川の流れだと思った。
 川の魚を持って自転車の荷台に載せて帰ると、家族に誉めてもらえた。それがまた励みになった。台所の手伝いをして、魚が鍋の中でぐつぐつと香ばしい香りとともに煮立っていく様を見ていた。
 珍しいところでは、イナゴ(稲子)取りがあった。イナゴは夏の終わりには成虫となる。イナゴはイネの葉っぱを食いちぎるばかりではなく、青く膨らんだ米粒も食べる。カマキリとかの天敵はいるものの、なにぶん数が多い。たぶん、1反の田圃ともなれば、それこそ数千単位はいたのではないかと思われる。稲の穂がふくらみ始めた田圃に分け入ってみると、一つの稲穂に複数のイナゴがまとわりついて、あごをさかに動かし、かじりついていることもめずらしくない。
 晴れた秋の日には、我が村々の子供達は遊びがてらにイナゴとりにいそしむ。イネの茎を下から上へ指を立てに筒状にして引き上げるとイナゴが捕まる。バッタや「スイッョウン」(そう泣くから名付けていた。)のような俊敏さはないので、捕まえるのはさほどに手間はかからない。
 袋に入れて、採ってきたイナゴは、すかさず竹串に刺していく。家の庭に七輪を出して、炭に火を点け、その上に鉄の焼き用のあみを載せて、その上に串刺しにしたイナゴを焼いていく。「ジュウジュウ」と油が出てきて、辺りは香ばしい煙に包まれる。こんがりと焼き上げたところで、新しいものと交代させて、たくさん焼く。
 祖父の指導で薪割りをする。割木の割れ口がちょうど穴にさしかかっているときなど、蓑虫(みのむし)を発見することがある。そんな時は、その穴に手を突っ込んでつまみ出してから、軽く焼いて食べる。我が家だけではなく、西下の他の家でも食べていた。そのようにしたのは、本能からであったのかもしれない。
 食べられる昆虫をせっせと取ってくる。それを家族や友人が寄り集まって、せっせと食べていた訳だが、これがまたおいしい。当時はまだ食べ物が豊かではなく、こういうもので不足しがちな動物性タンパク源を補っていた。平たくいうと、その季節になると子供が本能的が行う狩りのようなものだったといえる。

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新38『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ1

2014-09-26 20:39:10 | Weblog
38『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ1

 津山の花火大会は、小学校時代に2、3回位は観に行ったことがある。津山市上之町でセロファン加工業を営んでいた叔父さんのところに、日帰りで行かせてもらったのではないか。当時の津山は、私にとってきらびやかな世界であった。家並みがすごく密集している。人がすごい大勢いる。そんな津山の中心部から少し離れたところ、市内川崎の地におじさんの家があった。前は工場で、その奥の方が住居であった。、
 母から「おばちゃんが、来てええよ、というてくれんちゃるから、泰司いってきたらええ」といわれ、はるばる上村まで歩き、そこから中鉄バスに乗った。
「8月18日(日)晴れ
午前10時半、兄と二人で、津山の親せきに行った。玉林でバスをおりた。行く手には、大きなセロァン工場と家がある。そこが、おじさんとこで、吉井川の北の田んぼの中にある。工場では、多くの人が働いている。家に入ろうとすると、二階からおばさんが、「ようきんちゃったなあ。早くあがりなさい」と、言われた。くつをぬいであがると、ホテルのように、へやがひとつずつにくぎられていて、とてもきれいだった。」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊より)
 そこでは、たいそうなごちそうがあった。刺身もそうだが、イワナや鮎や、それに海のえびの天麩羅(てんぷら)があったような気がする。それらの並べ方は洋風で、なんだかエキゾチックな気分に浸された。始めのうちは、緊張して、体も気分も縮こまっていたものである。
「泰ちゃん、ぎょうさんたべんちゃいよ(食べなさいよ)」
おばさんは遠慮しないようにと気を使ってくれた。
 一応「うん」と頷いておいて、それでも、 「こげなごちそうを食べていいんじゃろうんか」という思いから一呼吸の間を置く。箸を付けるときにはちらっと上目使いでおばさん達の様子を見たことを覚えている。
 夜になると花火が始まる。「スルスルスルスルー」 と漆黒の夜空に火の玉が昇ってゆく。上りきったところで、火の玉は一端消える。今津屋橋のその一つ北にある今井橋のあたりだ。それから数秒の間を置いて「ドーン」 という音がこだましてくる。打ち上げ場の吉井川河畔からやや距離があるので、程よく聞こえる。
 漆黒の夜空に花火の大輪が咲く。家が建て込んでいるためにそのままでは見物ができない。だから叔父さんの家の屋根に上がって見物した。一変に視界がひらけ、そこから観賞する花火は格別だった。今津屋橋の方まで、連れられていったこともあった。
 花火のフィナーレは、大がかりな仕掛け花火であった。下流の向かいの今井橋のところに「ナイアガラの滝」のような形をした花火がかかった。今から考えると、きっとあれは「水中花火」で水面ぎりぎりのところに仕掛けてあって、その場で咲いた花火が水面に映し出される効果を狙ったのではないか、まるで万華鏡のような鮮やかさと光の綱渡りの様が今でもまぶたに焼き付いて離れない。子供心にも、すごい人の波と、盛大な花火に、こんな美しい光景があるんだという思いであった。小さい胸が抱いた感激は、その色あざやかな光景とともに僕の身体にしまい込まれた。
 津山市内には2大社の祭りがある。徳守神社(津山市宮脇町)の祭りと大隅神社(津山市上之町)の祭礼がそれである。徳守神社は1603年(慶長8年)、津山城下の総鎮守として現在地に移設された。大隅神社は1620年(元和6年)3月、津山城の城門守護として現在地に移設された。開催日は両神社とも秋たけなわの10月となっている。徳守神社の御輿は勇壮華麗だと聞いていた。上之町の大隅神社の祭りの山車は、いつの日か何かの用事で中鉄バスに乗っていて、津山大橋にさしかかったところで山車が練り歩いているのに出くわしたことがある。
 5学年の夏、授業の一環で海水浴に連れて行ってもらった。小学校からバスに乗って鳥取へ向かう。その日は海水浴をして、鳥取砂丘を見て、東浜海岸の宿に泊まる。翌日は美しどころを案内してもらってから、二十世紀梨の梨園を訪れ、昼食を済ませてからバスで帰る。なかなかに盛り沢山の旅で、中でも日本海(韓国の人は「東海」と書いて、「トンヘ」と呼ぶ)を初めて眺めるうち、ここが「因幡の国の白うさぎ」の神話につながる舞台か、という古(いにしえ)の日本への思いも脳裏に浮んでいた。
 準備では、日程のしおりをつくったりした。その旅行の出発の日から数日前のことであったろうか、宿に持って行くお米を学校に持っていった。大きな袋が用意されていて、私たちは家から2合くらい入った巾着なりをその場で開けて、その袋の中に順番に注いでいった。このことは、なんのことはないように思われるかもしれない。
私も、自分の巾着のひもを緩め広げて、袋の中に米を投じた。その瞬間、私は目を見張った。私の前まで、袋には白いコメ(精白米)が投じられてきた。そこへ、私の持って行ったコメは玄米の色をしていたからである。投じたあとも、別の人が次から次へと持ってきたコメを投じていく。私は恥ずかしさに覚えながら、後退した。その場から早く立ち去りたかった。
 当時の私には、「百姓の子」でありながら、なんの知識もなかった。いわずもがな、私の持って行ったコメは水車でついた(「精米した」)コメであった。荒糠(あらぬか)を入れるので、水車の臼と杵でついたコメは胚芽がついている。そのため、色は白くなく、麻色をしている。なんら引け目を感じることではなかったのだ。
 バスは、学校から工門(くもん、当時の町役場のあるところ)に出て国道53号線を鳥取へ向かったのだろう。生まれて始めて見る鳥取の浜はだだ白く広かった。海に足を踏み入れたのか覚えがない。浜に流れ着いている生のワカメが茶色であることも、そのとき知った。
「われは海の子 しらなみの
さわぐいそべの まつばらに
けむりたなびく とまやこそ
わがなつかしき すみかなれ」(文部省唱歌「われは海の子」)
 東浜海水浴場は広い。池とかは比べものにならない。何しろ、向こうの彼方は日本海の水平線が見える。その向こうには何も見えない。だだ驚いた。浜辺に近いところで、隣合わせの仲間を確認しながら泳いだ。それでも、いつもとは違う環境なので、向こうから波がさあっと近づいてくる。すると、なにやらのみ込まれてしまうような気がして、その度に自分がいまいる深さを確かめた。泳ぎの達者な人にとっては、海の広さを満喫できる機会になったことだろう。
 鳥取砂丘にも連れて行ってもらった。砂漠学校の音楽の時間に習った月の砂漠はこんなところかと思った。らくだにも出会った。乗せてもらった人もいたようである。  
「月の砂漠を はるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました」(作詞は加藤まさを、作曲は佐々木すぐる)
 この歌を口ずさんだり、聞いたりしていると、なにやら自分が姫を連れて、遠い異国の、しかも砂漠を旅しているような錯覚を覚えた。砂漠など見たことも通ったことがない。ところが、はるか向こうに蜃気楼が揺れ動いて見える。この砂漠を俯瞰してみることができれば、オアシスもあって、そこには傘の格好をしたナツメヤシかバナナのような木が伸びている。古の砂漠の隊商たちも、道を迷った時など、そんな幻想を見ていたのかもしれない。足の裏では、「キュッキュッ」という砂の感触がある。風は少ししか吹いていない。向こうには、快晴の空と砂の交わるところに海が見える。その海はギリシァ物語に出てくるエーゲ海のように紺碧に青い。目の前には途方もない視野の広がりがある。なんとなく、心が拡がっていくようだ。
 夕方には、東浜の近くの宿に着いた。どんな旅館であったか、その外観は想い出せない。私たちの部屋は2階にあって、男子は隣あわせの部屋に、10人ずつくらいのすし詰め状態だったが、先生たちが決めたことなので不満はない。私も何かの担当を仰せつかっていて、1階の広間に行って明日の海水浴などの予定を聞いていただろう。
 夕食の前に風呂にグループごとに代わる代わるで入った。なかには大人びた体になっている学友もいて、洗い場で前を洗うときは隠すように石けんの泡のついた手ぬぐいでごしごしやっていた。大広間で行儀よくして箱膳に向かった。海の近くのことだから、多分ごちそうもあったのではないか。育ち盛りなのだから、ご飯のお代わりだけはお願いした筈だ。
 夕食が終わると、それぞれの部屋で話をしたり、とにかくのんびりして時を過ごした。女子の部屋では、先生に叱られない程度にあやとりとか、折り紙とかして、仲良く時を過ごしているだろうに、男子は足の動きを止められると、陸に上がった魚のようになってしまい、どうにもすることが余りない。部屋の片隅に行って、追って提出の沙汰となる今日一日の反省をノートに記したり、先生の呼びかけで班長や副班長になっている人が明日の予定の打合わせをしに、別の部屋に行くこともあっただろう。明日は、二十世紀梨の農園に立ち寄ってから、帰路に就く予定になっている。就寝時間は早く決められていて、まだ話足りないのに、消灯となる。それでも部屋の中では、ぎゅうぎゅう詰めで寝ているので、なかなか収まらない。そのうち、枕を投げての「合戦」が始まってしまった。そのうちに先生が駆けつけ、
「おまえら、何をしとるんじゃあー、はよう寝なさい」
とこっぴどく叱られた後、先生が大部屋を出ていくと、さすがにまた騒ぐわけにはいかないので、その夜は互い違いに入り乱れて眠た。
 翌日、旅館の朝は早い。食事を済ませ、旅館の人に見送られてバスは出発した。途中で景色のいいところに立ち寄ったようであるが、もう少しのところで記憶をたぐり寄せることができない。梨園に着いたときは、10時くらいではなかったか。「20世紀」と呼ばれる品種が実っていた。秋ではないのに、取ってよかったのか、詳しい事情はしらない。梨園の中は土が軟らかく、踏みしめたときの感触をいまでも憶えている。梨はその場で農家の人にとってもらって4個くらいいただいた。瑞々しくて、流れるような甘さが口の中に広がった。

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新37『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち3(勉強など)

2014-09-26 20:37:07 | Weblog

37『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち3(勉強など)

 夏のある日、西下のFOS(フォス)少年団と子供会で合同のキャンプに出かけたことがある。今の子供たちのようなキャンプ場がまずあって、そこに出かけるというのではなく、急ごしらえの場所を作って行った。
 FOS(フォス)少年団は、「友情、秩序、奉仕」の精神の下、1962年(昭和37年)に日本体育協会が設立した日本スポーツ少年団とは別のもので、1964年(昭和39年)、当時の岡山県の三木県知事が音頭をとって結成された。勝北町からは、日本原、大吉、西中、西下の4つの少年団が勝北支部を作って参加した。この少年団には小学校を卒業するまで入っていた。子供塊の方は、お兄さんたちのお誘いがあれば、その都度、中学生であっても行事に参加していたのではなかったか。
 キャンプの場所は、北端の我が家から300メートルばかり離れた町道沿いの松林の中だった。青年団のお兄さんたちが木々を刈り取って場所を造る。青年の人はてきぱきと仕事をこなしていく。まるで荒野を開墾しているみたいだ。
 およその縄張りが決まると、その周囲に溝を掘っていく。こうしておかないと、雨が降ると敷地内に水が入り込んで、冠水してしまう。一応の敷地が出来ると、そこにテントが張られた。これは大作業であって、子供も手伝って、どうにかこうにか立ち上がった。テントの4つの端は杭で地面としっかりつながれているので、安心してよい。
 キャンプでは、一日目の午後に土砂降りの雨に見舞われたことがある。その時の私は6年生であったようで、そのときのことを日記に次のように書いている。
「8月1日(土)、晴れ後ゆうだち
午前8時半、きょうは、子どもクラブのキャンプだ。ぼくはわり木を持って家を出た。まだ一人しか来ていない。だいぶんそろってから仕事にかかった。テントをはる仕事、木を切ったり、ほりおこしたりする仕事、それをとり除く仕事、青年の人の時計を見ると10時45分だ。しかけてから1時間30分ばかりたっている。額からあせが出る。太陽がいやと言うほど、ジリ、ジリ、ジリと照りつける。ぬぐってもとどめなくあせがふき出る。
 12時近くになって用意ができた。昼食に家に帰った。2時からキャンプ地に行った。3時間ぐらい遊んで5時頃夕飯の仕たくにかかった。中学生がライスカレーをする。ぼくらは、はんごうでコメをたく。たきつけて1分ほどたったころ、黒味がかった灰色の空が東から西へとみるみるうちに広がって行く。
 「ゴロ、ゴロゴロ」。かみなりがなったとたん「ジジャー」と雨がふり出した。ごはんをたきつけたままみんなテントに飛び込んだ。「ガャ、ガャ、ガャ」と、テントの中はやかましい。小さい子は、かみなりがなると、へんな声をあげる。青年の人は大そうどうである。テントの北の柱が、ぐらぐらゆれる。40分ほどでやっとやんだ。外へ出ていそいでごはんをたいた。6時半ごろ、ライスカレーを食べた。なかなかおいしかった」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊)
 夏の天気は変わりやすい。また、たたきつけるように降る大粒の雨になるかもしれないと考えると、テントの中にいても気持ちは落ち着かない。水は近くの家のおばあさんに頼んで使わせてもらった。そこの水は、山の地価から来る伏流水であった。その水は清いばかりでなく、実においしかった。いつもの水のおいしさよりも、何かが違う、名水とはそのようなものなのだろう。この地にどれだけの伏流水が脇出ところ、名水の源があるのだろうか。いつか時間をみつけて、それを探ってみたいと思う。
 家でご飯の炊き方は心得ていたが、飯ごうでの炊き方は教わっていない。飯ごうをつるすところは長めに穴が掘ってあって、両側に木で支えをしてから竿で飯ごうをつるす。そこへ、下からたき火をして飯盒ご飯を炊くことになっている。
 とはいうものの、飯盒炊きの大体のことはそれと似ているところもあって、どうにもならないほど迷うことはなかったといっていい。飯ごうの蓋から水がこぼれ落ちなくなったら、火を引いて余熱で仕上げる。その理屈はわかっていても、4つぐらいぶら下げている飯ごうに火がまんべんにゆき渡るように、途中で、竿を外して飯ごうの位置を入れ替えてやらねばならない。炊け方がまだなのを真ん中にして、できあがりつつあるのを端にもっていく。火の勢いも調整してやらねばならない。カレーと味噌汁の方は、別の竈で除しが賑やかに作っていた。楽しそうに井戸端会議をやっているので、そちらの方が余裕があるようだった。
 出来上がった飯ごう飯を逆さにして底を棒で何回もたたくのは、底付きを鍋底からはがすためと初めて教わった。こうすると、ご飯が底に付いて離れなくなるのを防ぐことができる。飯ごうのご飯を「へら」ですくい取り、食べたいとはやる心を抑えつつ、「フウフウ」と息を吹き付けてから食べたカレーライスのおいしかったこと、その時の珍しい経験をしたことの記憶は今も脈々と残っている。
 ご飯を食べ終わると、もとの水源に行って食器を洗った。たべつくしているので、残飯整理はほとんどなく、水場を汚すことはなかったようだ。水場を提供してくれたおばさんが出て来て、にっこり笑って、また家の中に入っていったようだ。10分も経つと、飯ごうも汁椀も、カレーを盛りつけていた大皿もみんなで洗い終わることができた。
 あたりは、蒸し暑い夏に戻っている。自由時間は、近くに探検に出ていく人達、テントの中でトランプなどで遊んだり、寝転んでマンガを読んだり、車座になって井戸端会議をしたりで、めいめいの時間を過ごしていた。青年の皆さんの話の輪に入っていると、何のことだったのか、夢を語っていた。当時の私に夢といっても、地に足のついたものは何もなかったので、みんなの話を聞いているばかりだった。
 夜は、道の半分が随分広くなったところがあって、そこは弧を描いたように丸く切り立っている。こちとらは、車が通っても大丈夫である。青年の皆さんによって、中心部に木が積まれてる。松の木の株なんかには油がついた、燃えやすい木もあっただろうし、沢山の燃えるもので小山が出来上がっている。やがて、とばりが降りる頃、たいまつに火が付けられ、「キャンプフアイヤー」が始まった。
 私たち子供は、その火をグルグル巻きして、手をつないだり、離したり。なにやらのすてきな歌に合わせてダンスをするなど、お兄さんたちの音頭とりでいろいろと遊んだ。公会堂の中の板間で遊んでいるときに比べて、仲間や青年の皆さんの顔が赤く照らし出されて、なにやら幻想的な感じがする。自分はいまどんなどころにいるんだろうと、普段とは違う周りの雰囲気に浸ってしまいかねない。
 その場にふさわしい歌があったのかどうか。というか、今はあらかた忘れてしまっているが、あれこれの歌の中から、のどかな鳴き声で人を和ませてくれそうな、カッコウの歌んなかを歌って、みんなで楽しい時を過ごしたのではないか。
 「静かな湖畔の森の影から、もうおきちゃいかがとカッコウが鳴く、カッコウ、カッコウ(4回の繰り返し)」(作詞者不明、外国曲)
 その日の宵(よい)、南に延びている道の右上方に、南の空がやや開けているところには、夏の星座が見えた。上からたて座、いて座、さそり座がうっすらとかかっていた。いて座には、「南斗六星」がうっすらと輝きを見せる。たて座からいて座にかけては銀河系の中心部らしく、天気がもう一つだったにもかかわらず、天の川の帯がやや太く、まだでこぼこや濃い陰影があるようで、あのあたりが銀河系の中心であるらしかった。その下のさそり座は、夏ならではの星座であるが、こちらは南の視界が低空まで開けた場所でないと見ることはできなかったろう。
 夜も9時くらいになると、早々テントに寝転がって寝ることになった。みんな普段より疲れているので、早く寝ることに依存はない。明日は早起きでラジオ体操、食事、後片付け、解散と忙しい。それなのに、蚊に悩まされた。蚊帳(かや)はなかった。香取線香の煙が立ち昇っていくのだが、なにしろテントは屋根だけのものなので、空間は広い。「こいつ」、「パシッ」とおっぱらったつもりでも、蚊はすぐに戻ってくる。しかし、なんとかそれにも慣れてきて、疲れが出て寝ることができた。
 それぞれの思いを刻んでの一日目が終わり、あっさらな二日目の朝が来る。6時よりずっと早起きしたから、水源に行って歯を磨き、ついでに水を仕入れてきて、さっそく朝ご飯仕度にとりかかる。手のあいている人は、キャンプファイヤ-のあったところでラジオ体操を行う。朝食は、ご飯にふりかけや梅干しをつけて、前の日の茄子の味噌汁の残りといった簡単なものではなかったか。追い立てられるようにご飯を済ませてから、後片付けにかかった。食器を洗ったり、テントを畳むのを手伝ったり、炊事場を埋め戻したり、ゴミを一つも残さないように拾って回ったりした。荷物を運んできた車に荷物を運ぶ。何から何まで後片付けをして、現場を現状復帰することで、仕事を最後までやり遂げることを学んだような気がしている。
 私が小さい頃には、での救助訓練はまだなかったのではないか。生活水準が変わると、人々の暮らし向きは徐々に変わっていくものだ。それに応じて人の心や考えも変わっていくのが常だと、今では考えている。そんな中、子供会活動で救助活動のことも習った。その中には、縄の結び形や手旗もあった。結び方は、なかなかのものであった。例えば、大きな木に対して、自分の体を固定して登るとき役立つ結び方とか、荷台に積んだ荷物を固定するときの結び方とか、いろんな種類があった。何度も真似しているうちに、あるときできるようになった。手旗はもともと海洋とか、見晴らしのよい遠隔地で行うのだと思っていた。だから、それを練習するときは、「一体、なんのために陸に住む僕らがせにゃあいけんのか」と思うことしばしばであった。「の」とか「フ」は簡単であるが、2つの動作を合成して初めて一字と成る場合が多く、とても難しい。手旗は教える者は教えられる者が逆の向きなので、頭の中が整理できずよくわからなかった。縄の結び方はいろいろあった。こちらはぐんとおもしろかった。家の仕事で役立った結び目もある。先輩たちが覚えているものを後輩たちに教える。後輩たちは、それを自分のものとして、生きていくために必要な技を、伝統を引き継いでいく。
 FOS少年団の活動も、西下の子供会の活動も、「平井」地域にある西下の公会堂で夕方から行われていたので、終わってあるいて帰るときは大変だった。直ぐ家がとなりの章子(仮の名)ちゃんを連れていたので、家まで大事に送り届ける責任がある。特に、大きな墓が帰り道の途中にあるので、その近くにさしかかると、男だからしっかりしないといけないという気負いと、それでも足ががたつくこともあり、その辺りは、早足で2人で通り過ぎたものである。
 大きな楽しみの二つ目は、夏祭りであった。上村にある真言宗の神前光寺の境内で一度だけ夏祭りに行ったことがある。そのときは何かの大祭であったのかもしれない。赤いアイスキャンデーを口一杯に頬張った想い出があるものの、その1回きりの経験しかない。
その参道には、アイス売りもあれば、饅頭やさんもあった。金魚すくいもあったような気がす。というのは、記憶によると、初めて金魚を見たのは、どうやら学校ではないし、遠くに出かけた時でもないからだ。今から振り返ると、プルンプルンして愛らしい「出目金」には目を見張った。その一方で、流線型でフナの体型に似た「和金型」や動態が丸く膨らんでいる「琉金型(りゅうきんがた)」、背びれがなく、胴体が筒型の「蘭鋳型」も見たのかもしれないが、記憶には残っていないので、断定はできない。

(続く)

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新35『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(手伝い)

2014-09-26 20:34:51 | Weblog

35『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち(手伝い)

 農繁期の農家の就寝は早い。今日の労働の疲れと明日の労働に備えるためだ。特に父は、「朝飯前」に田んぼに出かけて、田んぼの水を見たり、牛の餌用に草刈りをしたりで一仕事をして来る。それだから、10時が来る前に奥の間の寝床に就く。いち早く寝るときは蚊帳(かや)を張って、その中に潜り込むようにして寝ていた。我が家も近所の家も、当時の家周りの衛生状態はかんばしいものではなく、蚊や蠅(はえ)の棲息域は広くて、昼間は茂みとか深い所に潜んでいるらしい。夜ともなると、むし暑いので戸や窓を開け放しておく。すると、家の裏の茂みのあたりからなのか、家の囲いをくぐり抜けて、蚊が「雲霞の如く」集まってくるのである。もっとも、かもいをきちんとしめていても、農家のことだから、隙間は至るところにあって、そこから彼らが侵入してくるのはたやすい。
 夏の暑さは、まだ梅雨の時期にもう始まっている。暦では、6月21日頃の夏至からはもう「夏は来ぬ」と言われる。この時、北半球では日照時間が一年中で最も長くなる。日本のみまさかの辺りは、梅雨の時期と重なるので、その時間はさほどに長くは感じられない。
 この時期には、田の草取りがある。当時は、「虫を殺す」ことよりも、「虫を寄せ付けない」ことを大事にしていた。田植えの1ヶ月位前から田んぼの畦や田んぼ道の草刈りを徹底する。それで刈られた草は牛の餌となる。田植えを済ませてからは、田んぼの中の草取りをこまめにやる。放っておくとカメムシなど害虫のねぐらとなり、稲の若芽を食い散らかすからだ。
 夏休みには、子供も日がな一日、手や草取機で草を取るのを手伝う。この器械は、前に進める車の下に、鉄の切り歯が備えられていて、それを稲の列をままたぐようにして前に進めると、それが回って、ついでに草も取れるという訳だ。歯に草がまとわりつくので、たまってくると、取って地中に足で追い込む。これを稲と稲の間に置いて押すと、機械の二列の駒歯がグルッ、グルッと地面を噛むようにして廻る。数呼吸進んでは一、二呼吸の休みを入れる。駒歯に絡まる草がある程度になると、手で取り除いてから、足で地中に踏み込む。これで地中には空気が入る。
 7、8月になると、春先の3月に植えたじゃがいもが収穫のときを迎える。畑で「みつご」(3本の刃があることからそう呼んでいた)をうち下ろしてジャガイモを掘り起こすには技術が要った、蔓を刈り取った後に、芋の畝(うね)に横から掘っていくと、傷がつきにくい。「あがいそ」と呼ばれる場所にジャガイモ畑があった。そこは池のそばの擂り鉢状に傾斜した畑で、水はけがよく、栽培にて記していた。ほかにも、胡麻や蕎麦を栽培していた。収穫された蕎麦を食べた記憶はない。胡麻は自家栽培のものを食べていた。当時のまわりの農家では、家で栽培できるものはできるだけつくって、その分食費を節約していたのだと思う。
 夏の農作業は灼熱の太陽を浴びることが多々ある。そんな時には、休憩を取りながらやらないといけない。水分補給も忘れてはならない。お茶をやかんにもっていってあり、それを呑んでのどを潤していた。そのお茶は「番茶」といって、家の畑でその茶葉を栽培していた。発酵茶ではなく、それでいて緑茶のように茶葉を蒸したり、釜炒りにしたりはしていなかった。若い茶葉を優先してとってきては、直接頑丈な茶釜に湯をわかし、その中に入れて炊いたものを、自然に冷えるのを待って呑んでいた。小学校の3、4年生の頃までは、我が家に冷蔵庫はなかったように思っている。
 ついでながら、5、6年生の時であったか、「太陽を直接目で見てはいかんぞ、失明するから」と先生から教えられていた。そのときの理科の授業であったのを、ある日、家で実験してみた。じりじりと太陽の光が照りつけるとき、我が家の東側の「かど」(前庭)の日当たりがよいところに行って、虫眼鏡の小さいのがあったので、上の真ん中に黒い丸を描き何十秒か見守っていると、最初煙が出て来て、次にはじりじり黒くした部分にい穴が空くようにして焼けていった。その頃は、他の色に比べて、黒は光りを一番多く吸収するから、虫眼鏡で光りを集めてやれば、吸収する量も多くなって燃えやすくなることの理解とか、「黒」という言葉の成り立ちでは「黒とは光りを吸収するのではなく、光りを吸収してしまう色のことを「黒」というんだという道理までは、ちゃんとわかっていたのかどうかはあやしい。
 ともあれ、そういう大まかな理解は授けて貰っていたので、夏の本場の農作業の合間に、たまに深く被った帽子のひさし越しに垣間見ることはあったにしても、じっと眺めるのは遠慮しておいた。なにしろ、中心部の「核」の部分の温度は、摂氏で約1500万度もあるというのだから、まったくもって驚きだ。加うるに、農作業の途中には、雷が鳴ることもある。雷雲は急にやってくる。始めは空が部分的にくもり、いままで生暖かいかぜというか無風であったのいが、冷気がやってくる。そのうたに、全体として曇り出す。そうしたら、大変だ。蓑を着て作業することもあったが、雨足が強いと目にも雨が入ってきて作業にならない。雷鳴がとどろくようになると、輪くらいもおそれることになる。そんなときは、家族ですたこらさっさと家にたち帰るしかない。ほとんどは、換えるまでに、びしょ濡れになってしまう。
 家の軒先にいて、辺りの暗さの中に、狐尾池の上の森の辺りは黒く煙っている。
「ビカー」
 空を縦に切り裂いて稲光が走り、空の一部がが黄色くなって、大きな雷鳴が聞こえる。
少しおいて、「バリバリバーリバリ」と、爆弾が落ちたときのような音がする。
 「これは近いな」と固唾を呑んで見守っていると、雷は次から次へと繰り返し大音響をとどろかす。
 ここで「雷」というのは元々「かみなり(神なり)」、なすなわち「電」(いなずま)であって、「想像を絶した天地の陰陽の神秘なる交合」(藤堂保『言葉の系譜』新潮ポケットライブラリ)というのが、中国から伝わった本来の意味なのだとされる。
 その雷も30分くらいで、空を切り裂く稲光と派手な雷鳴は遠のいてゆく。それからも、家から見た南の空は時折赤く染まったりする。雨足はやがてゆるやかになり、墨を流したように黒かった空が徐々にあかるんでくる。
 そうするうちに、辺りがさらに明るくなる。家の前の空に、ちょうど虹がかかることがある。空の色はまだ真っ青にはならなくて、「雨過てんせい」の青磁のよな淡い青色をしていた。そこに色鮮やかな虹が橋をかけているのだが、それはそれは美しかった。なぜ、それにいろんな色があるのかは大人にも、学校でも教わらなかった。7色のスペクトルのうち、下から青色、その上に黄色くらいしか識別できなかったものの、全体としてアーチがかかっていて美しい形と色をしていた。
 深刻な水害があったときには、決まって日照時間が短くなっていた。その時間が短くなると、道ばかりでなく、田圃の中もぬかるんできて、カビの一種である「いもち病」が発生する。これにやられると、稲の穂先の部分は黄色になってきて、これを放置すると中に実が入らない。これは大変な収穫減少につながるため、これによる被害が我が家の田圃に広がるといけないので、父と母が連れだって農薬を散布するなど、騒ぎが収まるまでの間は、子供なりに心配でならなかったものである。夏が全体として寒くて、イネの生育の悪い年も何回かあったろう。ただ東北のように極端に日照が少なかったことはなかったのではないか。
 「7月28日(火)晴れ
 午前9時半、祖母と兄と僕は大小ちがったみつご(備中鍬)をかついで、池のそばの畑に行った。ぼくの三つごは小さくて軽い。頭の上から、はんどうをつけるように力いっぱいふりおろす。土がかたく少ししか掘れない。掘っているかいがないように思える。ひと畑終わって次にかかる時あまり暑いので、シャツに手をかけた。始めは軽くぬごうとしたが、ズッとつまってぬけない。やっとの思いで取ると、その勢いでよろめいた。すずしい風が、ぼくの体にあたった。何とも言えないいい気持ちだ。また元気を出して、兄と競争するようにしだした。二通り、四通り、みるみるうちにあとひと通りになった。今まで白味がかっていた土が、がらっと茶色になる。まるで製品を加工しているようだ。対語の追いこみだ。やっと終わったので、三人そろって家へ帰った。」(美作教祖勝田郡協議会教文部編「勝田の子・下」1964年刊)

(続く)

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新34『美作の野は晴れて』第一部、夏の野菜、果物と子供たち

2014-09-26 20:32:02 | Weblog

34『美作の野は晴れて』第一部、夏の野菜、果物と子供たち

 立夏は5月6日頃、この日から立秋の8月7日、8日頃までを暦上の「夏」と呼んでいる。5月の風は全体として薫るが、やがて南のほうから雨期が近づいてくる。ときには、その風が雨を運んでくる。湿気が多いところから、その中にもだんだんにむし暑くなってくる。気温が上がり、夏の気配が感じられるうち、やがて5月が来るや、昼の時間が一年中で最も長く感じられる夏至を迎える。このとき、日の出の太陽は一年中で一番北寄りの山野から昇って来る。早いときには午前4時くらいには、早、曙(あけぼの)の空にもなっている。
 夏の野に自生する果肉といえば、スモモくらいしか思い出せない。夏には、春に撒いた野菜が収穫のときを迎える。家を入った直ぐのところの土間の壁には、農協から配布された野菜の歳時記・カレンダーがかかっている。それを目をやると、種付けから肥料のまき時、収穫の時期なんなが図入りで、懇切丁寧に書いてある。野菜では胡瓜(きゅうり)、トマト、さつま芋、玉葱(たまねぎ)、南瓜(かぼちゃ)、大きなうり、へちま、とうがらし、ピーマン、茄子(なす)、大根(だいこん)、人参(にんじん)、ネギ、チシャ、菠薐草(ほうれん草)、かぶら、スイカ、マクワウリ等々、数え上げたらきりがない。
 圧巻なのは、茄子栽培のための堆肥づくりである。まず、2メートル四方位の苗床の外枠を父が作る。そのそばには、冬の間に、牛の納屋から下肥を運び出して、それを稲藁と段々重ねにして、祖父が東の庭に積み肥にしておいてくれている。それを少し崩してきて、丸フルイをかけると、牛糞と稲藁や籾殻の細かくちぎれたのが合わさって、柔らかな黒土ができる。こうして、土の厚い層で出来上がると、茄子の苗床が完成となる。それからは苗植えにとりかかる。水を漏斗を使って丁寧に撒く。その上に、農協の売店で買ってきた茄子苗を10センチ間隔位に、一本、また一本と直列に植えていく。
 碁盤の目のように植え終わると、直射日光を避けるためにビニールで覆っておく。ある程度の大きさに育つと、畑に持って行って植える。それから1か月くらい経つと、夏の盛りとなる。なすの木一本からは、繰り返し沢山のなすがとれる。全農(全国農業共同組合連合会)の現在のチラシによると、栃木県の壬生(みぶ)の農家の話では140~160個もとれるのだそうだ。生長も早い。紫の花が咲く。
 野菜栽培には、追い肥もしたようだ。トマトや唐辛子、茄子やジャガイモのように追肥をしてやらないとなかなか実がなってくれないものと、さつま芋や南瓜(かぼちゃ)や胡瓜のように旺盛な育ちをするものとがある。肥料にも、コメを精米した後の荒糠(あらぬか)から化学肥料までの比較的上等なものから、動物が排泄したもの、植物を積んで発酵させたものまで、いろいろある。野菜造りで主に使ったのは下肥という人間の糞尿で、夏の日差しの下では臭いことこの上ない程だった。水がないとボケなすになってしまうので、日照りの続くときは、バケツを天秤棒で担いで畑に行き、水を柄杓で振りかけたものだ。どうやら、田んぼの肥えは牛糞で、畑の肥は人間の糞尿でという区分けができていたのかもしれない。
 食べ方は、いろいろとあった。例えば、茄子の食べ方は千差万別にある。焼いたり蒸したりして皮を剥いでから醤油をたらして食べる。それには生姜を加えるともっと美味しくなる。ミョウガとかも加え、浅漬けのようにして食べると便利だし、みそ汁に入れても美味しい。油で揚げるのもよし。夏には簡単に調理できる、いわばうってつけの野菜として我が家の食卓を飾っていた。唐辛子は1542年(天文11年)頃、ポルトガルから伝わったとされる。我が家では、油を敷いて炒めて更に載せ、上から醤油をかけて、御飯のおかずにしていた。それに、普段はわさびがなかったので、唐辛子の辛いのと山椒、それに柚なんかを香辛料に使っていた。これだと、夏の食欲が細い時も、御飯がすすむ。
 これらに対して、ミズナ、キャベツ、ネギ、生姜、サヤエンドウなども育ってくる。これらのうち、ネギと生姜は油で炒めたものを味噌に練り込んでおくと、一週間位は長持ちして、胡瓜なんかの生野菜に添えて食べると、美味しくいただける。サヤエンドウは11月に種を撒いて翌年の初夏から梅雨にかけて収穫する。まだ柔らか、ふっくらしてきたものをもいで、軽く湯がして食べると美味しい。珍しいところでは、こんにゃく、そば、胡麻やらっきょうも家で少量ではあるが栽培していた。さつまいもとのつき合いはよく覚えている。収穫の畑ではまず芋の蔓を鎌で切って取り除いた。それから、「みつご」と呼ばれる鍬を使って掘り起こしていった。掘り起こしには見当を付けて用心深くしないと、根菜を傷つけてしまう。掘り出したさつまいもはかますに入れて余り間を置かずに人間や家畜の食用になるものと、種芋を含めて貯蔵するものとに分けられる。長期保存が必要なものは、「きびや」の庇の下に1.5メートル四方くらいの穴が掘られていて、その中におがくずにまぶして埋めておいた。
 さつまいもは焼き芋ばかりではなく、蒸して食べた。蒸した上に輪切りにして、日乾しにして食べたりした。ついでにいえば、生前の祖母が戦時中にどぶろくを作ってここに隠していたらしい。食糧の徴発にやって来た憲兵隊にそれを見つかってしまい、祖母の話では泣いて「つい、出来こごろで作りました。許してつかあさいなあ(許してください)」と懇願したものの、全部持ち帰られた話しを聞いたことがある。
 それから、きゅうりといえば緑の細いものばかりが市場に出回っているが、当時は「加賀太」という品種であったと思うが、もっと薄い緑色で太く長かった。きゅうりを薄切りにして塩もみしておくと、果肉が大変柔らかくなる。これに酢、煎り胡麻とサンショウの葉をすり込んで、最後に砂糖を少々いれてかき混ぜると酢の物の出来上がる。これをおかずにすると、食欲が進む。それだけをぶっかけて御飯を3杯くらいは掻き込めるようなおいしさだった。
 かんぴょうの元は、巻くわ瓜である。正式にはユウガオと日本では呼び習わしている。ひょうたんで知られるユウガオのような胴にくびれはない。中国の破蜜瓜(ハーミークァ)と違うのかはわからない。これを収穫して、家の土間にあぐらをかいてグルリグルリ廻しながら皮を剥いていく。出来上がると、竿タケに吊して天日干しにする。
 こんにち、有機農法が人気を博しているが、当時はすでに化学肥料が幾分か入っていた。窒素、リン酸、カリウムのなかでは直径2~3ミリメートルの粒状の窒素肥料が主体であったように覚えている。農薬の方は茄の苗やトマトなんかには使っていたものの、他の野菜についてはあまり記憶に残っていない。
 特別にうまいと思ったのは、まだ青々とした茎を付けている玉葱を煮たものである。これがたいそううまかった。かんぴょうは収穫の後、家の中庭で小刀の刃を二重にしたような皮むき器で長い帯状に剥いていった。似たようなものに、冬瓜(とうがん)がある。冬になっても水分が失われないことから、この名前がついたらしい。こちらは、我が家で栽培していたかどうかの記憶がない。
 この種の労働は大した力はかからず、また刃物扱いもゆっくりで危険も少なくてすみ、比較的楽しかった。漬け物つくりは冬場だったと思うが、例外は、白菜、それかららっきょうと梅干しなどであった。1年越しで畑で育っていたらっきょうを収穫するのは5月下旬から6月にかけてで、「みつご」を地面にうち下ろすと簡単に掘り起こせる。一つひとつ丁寧に皮を剥いていく。玉葱の皮を剥くときのように眼にしみることはないものの、細かい指先の作業のために数が多くなると結構根気がいる。きれいにすると水洗いをして乾かしておき、とうがらしと一緒に漬けていく。千葉の農家のようなサッカリンを入れたかどうかはしらない。
「おばあちゃん、らっきょうはもうたべれるじゃろうか。」
「まだじやなあ、この前漬けたばかりじゃけんなあ。あと2か月もすると、やや黄色いものになるけん、そしたら、たべられるようになるで。」
「泰司、もう食べてもええで。うまいで」
と味見しながら「うまい。でももうちょっとかなあ」と首を傾げる。
「まだ食べれんで。らっきょうは精がつくけんなあ。ぎょうさん食べると血が騒いでのぼせるでえ。漬かって食べれるようになっても、ほどほどにしとけや。」
 梅干しを漬けるときは大して手伝ったことはなく、祖母が作業を行うときにそばで見物していた。2年か3年に1回漬けたようだ。梅をいれる。その後に生姜を入れ、しその葉を揉んで入れる。最後に塩を手掴みでいれる。
 茄は、よく洗ってぬか漬けにした。米を精米するときには「荒突き」といって、胚芽の部分を残すぐらいのつき加減にしていた。米糠は農家にとってはただなので経済的な漬け方である。それでいて奥行きのある味がする。ぬか漬けの容器は小さな亀とか琺瑯製の蓋付きのものだった。亀のものでは食べるまでに何度も手を入れて、味が馴染むようにする。これをしないと、表面が白くなってしまう。「いい加減」につけ込んだものを食べると、えもいわれぬ香りがあって、味もほのかに甘くておいしい。
 簡易的に茄を切りにして塩揉みして密閉容器に入れておく方法もある。1日もして水分を絞り採ると、醤油をかけて食事のつまとする。夏場の野良仕事を手伝って家に帰ると、喉はカラカラに乾いていたから、ひんやりとしたこれで随分と食欲が高進した。
 白瓜は二つに開いて種を取る。酒粕のその名のとおり清酒の搾り粕なので、ビタミンなどを含んでおり栄養価が高い。上村から、国道の53号線を津山方面へと2キロメートルばかりすすんだところ、津山市奈良(なら)に地元の作り酒屋の藏元、加茂五葉がある。家からは、やや遠いので直接買いには行くことはなかったようである。新野東の店で買ってきて、白瓜のへこんだところに詰めてつけ込む。当時から奈良漬けと呼ばれていた。こちらはつけあがるまでにかなりの時間を要したようだ。甘い上にアルコールの匂いがぷーんとくる漬け物である。
 いずれの漬け物でもたくさん入れて辛くなりすぎたようだ。当時は塩分を控えめにしないといけないとは聞いたことがなかった。中でも白菜には付けてからまだ日の浅い、薄味のものがあって、それが唐辛子の辛さに引き立てられてしゃきっとした味になっているのを、好んで食べた。らっきょうと違って、こちらは早くたべたいと催促することはなかったといっていい。

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