◻️192の37『岡山の今昔』岡山人(20世紀、田中塊堂)

2019-10-31 23:41:45 | Weblog
192の37『岡山の今昔』岡山人(20世紀、田中塊堂)

 田中塊堂(たなかかいどう、1896-1976)は、書家。本名は英市という。やがて、大阪貿易語学校を卒業する。いつの頃からか、漢字やひらかなを書くのにはまる。漢字を川谷尚亭(かわたにしょうてい)に学ぶ。かなは、独学で古筆を習得する。
 以来、色々な書跡をたずね、また、古写経の調査・研究にあたる。やがて、その成果を「古写経綜鑒(そうかん)」「日本古写経現存目録」にまとめ、刊行に至る。続いて向かったのは、帝塚山(てづかやま)学院大教授、千草会を主宰というから、書道の本流を歩く。
 参考までに、その人となりについては、次のエピソードが伝わる。それによると、福島県の県道赤留塔寺線沿線に龍興寺という寺があり、国宝の「字蓮台法華経開結共」(全9 巻の内、第6巻が欠)が保存されているとのこと。その中身だが、かの「法華経」の経文の一文字を一仏と見立て、彩色を施した蓮華座の上に乗せる形で整然と書かれているという。
 そこで話は、その美しい装飾を施してある見事さといおうか、会津で二つある国宝の一つなのに、なぜ「新編会津風土記」にはこの法華経のことが記載されていないのかを解説して、当時帝塚山大学教授であった塊堂が、「それが逆に好事家の餌食から守ったのだ」というあたりからも、細部にまで拘る彼の美意識のようなものが彷彿としてくるではないか。

(続く)

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◻️96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

2019-10-26 11:17:57 | Weblog

96『岡山の今昔』備中高梁(江戸時代、領国支配)

 やがて江戸時代に入ると、領国支配は大きく変わる。毛利氏の勢力が削減されたのが最大眼目であったことは、いうまでもない。1617年(元和三年)、池田長幸(いけだながゆき)が鳥取城主から移封されて、石高6万5000石の松山城主となったのが江戸期の最初の大名入りであった。同年には、山崎家治が川上郡成羽藩3万石に封ぜられる。1639年(寛永16年)、

 その山崎氏の移封により、水谷勝隆(みずたにかつたか)が成羽藩5万石の主になるも、1642年(寛永19年)に松山藩の池田氏が断絶すると、それまで成羽藩主でもあった水谷勝隆(1597~1667)が、この備中松山の城主になるというめまぐるしさであった。

 さて、同藩は、その父、勝俊が、家康が関東に入国のさいにはすでによしみを通じており、案内の役を果たした。勝隆が跡を継いでからは、父の遺領をつぎ、常陸(現在の茨城県)、下野(現在の栃木県)のうちに3万2千石を領し、下館城にいた。大阪冬の陣では、活躍したという。

 1639年(寛永16年)には、両国から離れ、備中の川上(現在の岡山県内)、播磨のみなぎ(現在の兵庫県内)の両郡のうちに、5万石を領し、備中の成羽に移される。

 この勝隆の時の1651年(慶安4年)以来、同藩たびたび内検を行って以来、たびたびこれを行っていく。1693年(元禄6年)の頃のそれは、朱印高が5万石であったのに比べ、内検高は8万6000石にも膨らんだという。1657年(明暦3年)に彼が近くの奥万田町から移築した松連寺(しょうれんじ)は、珍しく石垣の上に立つ寺院であり、他の寺とともに、城および城下町の防衛戦の一つの役割を担っていた。

 1681年(天和元年)になると、二代目藩主の水谷勝宗(みずたにかつむね)が近世城郭に大改修し、城構えを整備した。ところが、1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、その勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。このために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり断絶・除封された。1695年(同8年)に、姫路藩主の本多中務大輔が幕府の命令で検地を実施した。

 その際には、「過去5年間の年貢収納高および石高を基礎に、幕府の内示高11万619石余に合致するように検地を実施した」(『角川地名大辞典・岡山県』)とあって、いかにも抜け目がない仕置きとなっている。その後しばらくは安藤・石川両氏の所領であったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして江戸中期から明治維新までは、徳川譜代の板倉氏の城下町としてあった。

(続く)

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◻️211の36『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐藤一章)

2019-10-23 22:13:21 | Weblog
211の36『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐藤一章)

 佐藤 一章(さとういっしょう、1905~1960)は、洋画家だ。小田郡矢掛町本堀の生まれ。本名は、章という。1924年(大正13年)に、東京美術学校西洋画科に入学する。1927年(昭和2年)には、満谷国四郎に弟子入り。「支那服の女」で光風会賞を受賞する。
 1924年(昭和4年齢)の第8回帝展で「女の像」が初入選する。薄暗がりの中、うつ向き加減に座っている女性には、何が込められているのだろうか。1929年(昭和4年)には、東京美術学校を卒業する。
 1930年(昭和5年)には、中国へ写生旅行に出かける。その時のことを、何かしら語っているだろうか。1934年(昭和9年)には、第15回帝展「公記字號」で特選を受賞する。
 1945年(昭和20年)、東京から岡山のどこかに疎開する。それにしても、文人たちが我が身を守ろうとするのには、どんないきさつがあったのだろうか。
 1947年には、日展審査員となる。翌年、地方展(岡山)開催に参加する。1950年(昭和25年)には、岡山大学教授、1953年(昭和28年)には、創設を提唱した岡山大学特設美術科主任教授となる。1959年(昭和34年)には、斎藤与里亡き後の東光会代表となる。
 代表作品としては、何が来るのであろうか。既述以外をざっと拾うと、「弟の像」(1932)、「漁夫」(1936)、「赤城」(1942)、指物師(1945)。戦後は、「アマリリス」(1946)、「春日」(1956)や「伊豆山風景」(1958)、それから「柿の木と丘」(1960)といったところか。
 それらの大概は、全くの私見ながら、画像の曖昧さが、なぜか心地よい。さらにほかにも、「後向」という絵は、粗末なベッドに後ろ向きで横たわる裸婦。したがって、顔の表情はわからないのだが、この絵を理解するには、その方がかえってよいのかもしれない。彼女は、全く生身の量感で今微睡んでいるかのよう。

(続く)

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◻️171の2『岡山の今昔』岡山人(18世紀、寂厳)

2019-10-22 22:15:24 | Weblog
171の2『岡山の今昔』岡山人(18世紀、寂厳)

 寂厳(じゃくげん、1702~)は、仏教の僧侶。備中足守藩士の子として生まれる。 9歳で吉備津宮(現在の吉備津神社)の社僧普賢院[ふげんいん](真言宗)の超染真浄に弟子入りする。11歳で出家する。
   19歳の時には、窪屋郡沖村(現在の倉敷市沖) の円福寺の住職となる。 26歳になると、円福寺で初めて悉曇学(しったんがく)の講義を行なう。
 ここに悉曇とは、梵語(ぼんご)、すなわち古代インドのサンスクリット語をいう。書も有名であり、良寛(りょうかん)、慈雲(じうん)とともに「桑門三筆」と称される。
  34歳で、地方畿内地方へ遊学し、1736年(36歳)にして、京都五智山蓮華寺の曇寂に入門して本格的に悉曇を学ぶ。1741年(寛保元年)には、備中連島(つらじま)の宝島寺(ほうとうじ、古義真言宗御室派)の住職となる。
 参考までに、この寺は、現行の地図の上では、 倉敷市連島(つらじま、つたじま)町にあり、高梁川との関わりで眺めると、わかりやすいのではないか。
 一説には、倉敷の町の北から流れてくる高梁川は、江戸時代初期までは、酒津(さかづ)あたりで大きく右に湾曲してから、瀬戸内海に注いでいた。
 より詳しくは、酒津北端にある八幡山の北側で東西に分かれ、それからは、それぞれ八幡山の東側と西側を流れて海に出ていた。東側の流れは、後の工事による現在の高梁川の流路に近く、西側の流れは、現在の柳井原貯水池にあたるとのこと。
 このうち西側の流れは、酒津の属していた窪屋郡(くぼやのこおり)と同郡西部にあった浅口郡との境界に程近い所にある港(津)という意味から、「境の津」と呼ばれる。それが、「さかづ」と言いならわされ、「坂津」それから「酒津」の字があてられたと考えられている。
 なお、これに関連して、倉敷の町というのは元は海の底であった。江戸初期は,今は緑の小山にみえる場所には、海に浮かぶ島島が並んでいたという。大平山(おおひらやま、161.9m)という頂上を持つ連島もその島の一つであった(他には、児島、乙島、柏島など)。宝島寺は、その連島の南側の山裾にあり,長い間すぐ近くまで瀬戸内海の波が押し寄せていたと思われる。

(続く)

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◻️268の1『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、高塚省吾)

2019-10-22 20:32:31 | Weblog
268の1『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、高塚省吾)

 振り返れば、高塚省吾(たかつかせいご、1930~2007)は、洋画家。岡山市の生まれ。東京芸術大学に入る。梅原龍三郎や林武にも教えを受ける。1953年に卒業する。新東宝撮影所美術課にはいる。その勤務のかたわら「8人の会」を結成する。そして、個展を開く。

 1955年(昭和30年)からは、映画美術やバレエの舞台美術、衣装のデザイン、台本の他、挿絵などの仕事。その頃の作では、「6つの意志」が有名だ。

 とはいえ、1970年(昭和45年始)頃までは、大概、裏方として働く。1970年代としては、春陽堂版江戸川乱歩全集の表紙絵を担当する。あれこれの生活上の苦心で、孤高をしのいだとのと思われよう。

 やがての 1976年(昭和51年賀状)には、「海」、その後の「薔薇」や「白と黒」などの作品を発表する。その頃には、風景も肉体も写実的な表現に移行していたという。新しい表現を獲得したらしい。

 1980年(昭和55年)には、「高塚省吾素描集、おんな」を出版する、それには、リアルで繊細な裸婦が数多く並んでいる。例を挙げれば、「白昼夢」「ガウンを羽織る女」などを観賞ありたい。それらは、生々しいリアリティーに満ちているにもかかわらず、「しどけなさ」やありきたりの「エロス」とも違う、女性の美に体現された、何か「崇高なもの」さえ感じさせる。ちなみに、本人の弁には、こう記される。

 「りんごを描くのと同じだよ」と答えていますが、正直に言いますと同じではありません。生身の女性の裸はやはりエロチックです。でもそれを意識の下に押し隠しながらりんごのように対処している矛盾が、描く方にも見る方にも面白いのだと思います。」(高塚省吾「絵の話」芸術新潮社、1996)
 このようにして、彼の描いた裸婦は、以来、カレンダーやポストカードともなり、世の中に広く親しまれていく。そういえば、大衆雑誌でも度々あったようなのだ。
 変わったところでは、1979年(昭和54年)に曹洞宗で受戒したという。これは実に大したもので、なかなかにできることではあるまい。道元禅の修行には、命の「覚悟」が要るように、聞いたことがあるからだ(たとえば、ビデオ「永平寺」)。

(続く)

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◻️353『岡山の今昔』岡山人(19世紀、徳兵衛)

2019-10-22 19:08:25 | Weblog
353『岡山の今昔』岡山人(19世紀、徳兵衛)

 徳兵衛(とくべい、?~?)は、備中出身の船乗り。この彼の名前を有名にしたのが、「北アメリカ州の話、備中国浅口郡勇崎村徳兵衛咄」(略して「徳兵衛漂流記」)の著者としてである。そうなったいきさつについては、森脇正之氏の「玉島風土記」(岡山文庫、1988)に、こうある。
 「嘉永三年(1850摂津国(兵庫県)大石村の栄力丸という一五○○石積み、十七人乗組みの船は、志摩国(三重県)大王崎沖で暴風雨にあい、太平洋を漂流すること五一日、アメリカ船に救助されて、(中略)。この間のことを乗組員の徳兵衛という人が、よく記憶していて、人々に物語りして聞かせました。」 

 次に、その本の一部が、解説付きで新聞に紹介されているので、二つ紹介しよう。

 「米牧畜事情、詳細に。日本最古の報告か。放牧や売買、解体も /岡山

 サンフランシスコ到着時について書かれた「漂流記」のページ。左から4行目に「山々うごき候」の記述が見られる=岡山県津山市の津山郷土博物館で、小林一彦撮影

 津山市で昨年見つかった、19世紀半ばの船乗りによる漂流体験の記録に、米サンフランシスコの牧畜の様子が詳しく記されていることが分かった。現地は当時、ゴールドラッシュで人口が急増し、食料需要が高まった時期。大量の牛馬が放牧されている様子だけでなく、家畜の管理・売買方法、肉屋での牛の解体・精肉処理なども詳細に触れられ、日本人による最古の米国畜産リポートの可能性がある。【小林一彦】」(毎日新聞、2016年10月1日付け、地方版)

 「米大統領選の記述発見 幕末の備中 4年ごとに「王」選ぶ 津山郷土博所蔵 /岡山
 岡山県津山市で見つかった「漂流記」の米国大統領選挙に触れた記述(ページ中央付近の2行)=同市山下の津山郷土博物館で
 2015年に津山市で見つかり、19世紀半ばの米国の様子を伝える日本人船乗りの漂流記に、米大統領選に関する記述があることが分かった。4年ごとに「王」を選んでいるなどと記され、米大統領選を紹介した県内最古の史料である可能性が高い。幕末の県内の町民が、世襲制とは異なるトップがいると知っていたことを裏付ける貴重なものだ。【小林一彦】」(毎日新聞、2017年8月20日付け、地方版)

 ここで後者に関連しては、大統領の人となりを紹介している、圧巻の箇所があるので、しばらく引用したい、
 「一、国王として代々相続する家、これあるにあらず、学問、才徳ある人を選出して王となし、四年目、丸三ヶ年にて相勤め、また才徳ある他人に譲り申し候。たとえば皇国にては大寺の住職の如し。さて王位に昇り候ても、権威を振るうこともこれなく、至って軽き暮らし方にて、往来には馬に乗り、ただ従者一両輩召し連れ候のみ。一国ばかりにあらず、それ以下大臣より県令、荘家に至るまで、みな三年その他に御座候。」(森脇、前掲書)

(続く)

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○○354『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(戦後インフレ)

2019-10-15 22:59:10 | Weblog

354『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(戦後インフレ)

 日本国内では、1946年(昭和21年)2月17日に金融緊急措置令、日本銀行券預入令が発せられた。これらで民間に出回っている貨幣をすべて金融機関に預けてもらうという、一種の預金封鎖の荒療治を行うことで、3月より新円に切り替えで新しい貨幣だけが世の中に出ていくような取組みがなされたことになる。

 かかる「新円への切り換え」の意義については、敗戦で国家の信用が崩れ、ヤミ経済とハイパーインフレーションが横行していたおり、旧円での預貯金をすべて封鎖し、一月あたり一人500円に限って新円として引き出すことができる、というのであつた。そして、これにより、市中の膨大な旧通貨(旧円)の価値が廃棄され、これにより、世の中の需要の源としての購買力が一挙にして縮小するという、いわば、大衆の犠牲をもってハイパーインフレーションを終息させるという荒療治がまかりとおった訳なのだ。

 これを銀行サイドから言うと、かれらはそれまでの「貸出債権を二分し、健全貸付債権を新勘定、不良債権を旧勘定に区分と区分し、旧勘定の不良債権の大部分を凍結した庶民の預金(第二封鎖預金)と資本金で引き当てた」(箭内昇「メガバンクの誤算」中公新書)ことになる。この銀行による不良債権の集中的処理は、時の政府がGHQ司令部の命令で銀行企業への戦時補償を打ち切ることがあったため、戦時下をくぐり抜けて不良債権の山を抱えていた中での銀行の再出発となっていく。

 1946年(昭和26年)2月、物価体系の端緒としての物価改定が行われた。公定価格を引き上げて闇価格に近づける政策であった。1947年(昭和22年)1月、復興金融公庫が第一回政府出資金40億円をもって設立された。これで、政府融資を盛んに行う体制がひとまず整ったことになる。ところが、同公庫の資本金が当初の100億円から1948年(昭和23年)末には1450億円まで増資されていたものの、政府は財政難から合計で250億円しか政府出資分を払い込むことができなかった。そのために結局、資金を復興金融債権を発行することによって賄うことにせざるをえなくなっていく。1946年(昭和21年)3月、財政法が公布された。この法律には、公債発行と借り入れ金の制限が盛り込まれた。同年7月、「流通秩序要綱」に基づく「安定帯新物価体系」による補給金制が敷かれた。同年12月、臨時金利調整法法の公布・施行があり、預金金利の上限を設定、と続いていく。
 ところで、復興金融公庫の復興金融債の発行高は、1946年度(昭和21年度)が30億円、1947年度が559億円、さらに1947年度には1091億円と鰻昇りに発行額が増やされた。ところが、その合計1680億円のうち75.4%が日本銀行引き受けの形で発行された。このため、生産回復の副産物として、この面からの貨幣の過剰発行によるインフレーションの加速が現実のものとなっていく。そこで、これについては、ドッジGHQ経済顧問が、価格差補給金と復金融資という竹馬の2本足切りを日本国へ勧告したからたまらない。この勧告に政府は従わざるをえなかったから、同公庫は1952年(昭和27年)1月には解散を余儀なくされていく。ちなみに、1949年(昭和24年)3月末で測った全ての金融機関の設備投資残高と、それに占める復興金融公庫の融資比率を見ると、つぎのような高率となっていた。石炭は338億7700万円のうち334億2400万円で98.1%、鉄鋼は28億2100万円のうち20億7100万円で73.4%、肥料は71億1300万円のうち45億5500万円で64.0%、電力は205億8000万円のうち191億2500万円で92.9%、海運は155億6900万円のうち130億7900万円で84.0%、繊維110億8800万円のうち49億7500万円で44.9%の計910億4800万円のうち772億2900万円で84.5%。以上の融資総計は1273億8000万円のうち943億4100万円で74.1%となっていた(出所は、宮下武平「財閥の再建」及び御園生等「日本の独占」至誠堂、1958より)。
 もっともこれは全額ではなく、設備投資資金以外も入れると、1949年3月の復興金融公庫の資金融資打ち切り時の融資残高は1319億円にものぼっていた。実にここまでやるか、の感想を拭えない。そのからくりについて、復興金融公庫はせっせと復金債権を発行し、日本銀行はこれをどんどん買い入れる。融資された企業はどんどん投資し、生産し、それをどんどん売ってもうけほ殖やしてきた訳である。しかも見過ごすことができないのは、このころから政界と官界と財界の癒着が本格化したことにある。室伏哲郎氏の著書に、こうある。
 「この復金融資を牛耳っていたのは、政治家と高級官僚だった。復金の最下部には事務局審査部があり、その上に復金役員会がある。だが、役員会をパスした融資申し込みも、さらに大蔵省銀行局長(事件当初は福田赳夫)を議長とする復金幹事会、およびその上の大臣クラスの委員会を通過しなければならなかった。一見民主的にお膳立てされた組織だが、じつは5000万円以上の「政治融資」には蔵相を委員長とする委員会の決定が必要で、その実質的な決定権は、その下の高級官僚で固めた幹事会にあり、ここが当然ながら、暗い取引の場となったのだった。49年3月までの復金融資残高は1319億円だが、その融資総額の80%以上はこの5000万円以上の大口だったのである。」(室伏哲郎「腐職の構造」岩波新書、1981」より)
 1948年(昭和23年)6月、ヤング(米国連邦制度理事会調査統計局次長)報告。その骨子は、「10月1日までに単なる軍事交換相場の改定にとどまることなく、単一かつ一般的な為替相場を設定すべきである」とするものであった。これについては、1970年(昭和45年)暮れに発表されるまで機密文書扱いのままであった。1948年(昭和23年)7月に新物価体系の発動で1ドル=270円とされる。同年8月、芦田内閣がヤング報告に盛られた経済安定10原則を決定するも、日本側としては、当時の経済状況では、その実施は時期尚早とみなし、重い腰を上げようとしなかった。ここに10原則とは、(1)生産、(2)割り当て配給、(3)食糧の供出、(4)公定価格、(5)賃金、(6)脱税防止、(7)租税制度、(8)財政収支の均衡、(9)貿易為替管理、(10)融資規制に関する安定計画となっている。1948年7月に新物価体系の発動で1ドル=270円となっていた為替相場に、変革の次期がやってきました。この年の「新新物価体系」に至っても、闇価格はまだ残存し、公定価格より相当高い水準のままであった。
 ここで、戦前の1934(昭和9年)~1936年(昭和11年)を1としたときの物価の動きは、卸売物価は1945年(昭和20年)3.5で前年比倍率は1.51であるのに対し、消費者物価は計数不明、1946年(昭和21年)は卸売物価が16.3で前年比倍率は4.64であるのに対し、消費者物価は50.6で前年比倍率は不明であった。1947年(昭和22年)は卸売物価が48.2で前年比倍率は2.96なのに対し、消費者物価は109.1で前年比倍率は2.16であった。1948年(昭和23年)は卸売物価が127.9で前年比倍率は2.66、消費者物価も189.0で前年比倍率は1.73といずれも加速上昇中である。1949年(昭和24年)になると、卸売物価が208.8で前年比倍率は1.63でやや増加のテンポが鈍ってきたのに対し、消費者物価は236.9で前年比倍率は1.25でまだ伸びが大きい。1950年(昭和25年)は卸売物価が246.8で前年比倍率は1.18、消費者物価も219.9で前年比倍率は0.93となり、いずれの指標も落ち着き始めている。そして1951年(昭和26年)は卸売物価が342.5で前年比倍率は1.39なのに対し、消費者物価の方も255.5で前年比倍率は1.16となって、おおむね落ち着きの傾向が強まっている(中村隆英「昭和経済史」経済セミナーブックス、1986より引用させていただいた)。
 これらの背景には、実物経済面でも、1948年(昭和23年)の終わりぐらいから、工業生産と農業生産が、前者は戦前水準のおよそ6割、農業生産もようやく回復してきたことが上げられるだろう。こうして世の中に物資が少しずつ増えてくるに従い、それまでヤミ価格を先頭に物価が止めどもなく上がってきていたのが、両者の間のひらきも縮まり始めたのである。

(続く)

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◻️176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)

2019-10-14 22:08:01 | Weblog

176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)

 
 広瀬臺山(ひろせたいざん、1751-1813)は南画家だ。津山藩士の三男、広瀬義平として津山藩大坂屋敷に生まれる。大坂在住の青年期に、池大雅門下の福原五岳に画法を学ぶ。

 1781年(安永8年)には、父の隠居に伴い家督を相続する。その翌年には、京都御留守居見習役となる。天明元年(1781)には、江戸定付となる。

 それからは、江戸藩邸での職務をこなすとともに、谷文晁、僧雲室、片桐蘭石、増山雪斎、大窪詩仏など、江戸市中の文化人と交流を深める。そして、すぐれた作品をつくる。

 1803年(享和3年)には、家督を息子に譲り、江戸の麻布長坂に住む。やがての1811年(文化8年)には、津山に帰る。

 画風は、さりげなく、自分の世界に誘うが如しか。その一つ、「蓬莱山水図」には、中空に浮かんでいるかのような、仙人が住むという山がさりげなく描かれている。また、「山静日長図」、「富岳真景図」、「遺琴贈帰図」、「山静日長図」など、多くの文人画を描いている。

(続く)

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◻️192の4の7『岡山の今昔』岡山人(19世紀、飯塚竹斎)

2019-10-14 21:21:44 | Weblog
192の4の7『岡山の今昔』岡山人(19世紀、飯塚竹斎)

 飯塚竹斎(いいづかちくさい、1796~1861)は、津山藩士の三男。父親の勤務地の江戸の生まれ。はじめは漢之丞と名乗る。
 幼い頃から画才を見せ、同藩藩士・小島石梁に手ほどきを受け、16歳の時に広瀬臺山に学ぶ。江戸で谷文晁にも学ぶ。
 23歳で、同藩士の飯塚家(百石)に養子に入る。養子となって間もなく、小姓組で藩主の近習勤めとなる。賞詞される働きぶりだったという。
 1819年(文政2年)には、参勤交代の供で江戸に出立するるしかし、藩の財政逼迫のため翌年津山に帰る。1824年(文政7年)には、文武不出精で行状不良が露見か。藩より、遊芸・遊山・諸猟は勿論酒宴へ出席することはならない、との申し渡しがあった。
 1841年(天保4年)、養父の隠居にともない家督を相続する。中奥組の支配に入る。1847年(弘化4年)には、中風の悪化により、息子への番代を願い出て、隠居の身となる。許されている。
 それからも、藩などから度々画を描く仕事が入る。そんな中でも趣のあるものとしては、例えば、「竹亀図」は、水面にかかったかのような竹の枝ぶりを、一匹の亀が、なんとなくであろうか、見上げているのだが。

(続く)

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◻️157『岡山の今昔』岡山人(15世紀、徹書記)

2019-10-14 19:57:07 | Weblog
157『岡山の今昔』岡山人(15世紀、徹書記)

 徹書記(とおるしょき、1381~1458)は、室町中期の僧侶だ、臨済宗。備中の小田郡の生まれ。幼いうちに、京都にある、臨済宗東福寺の栗棘菴に入る。
 この寺は、全国に所領を営み、働き手をもち、大所帯にて事務は多かったはずだ。「徹書記」と称するからには、その才能があったのではないか。やがて、「右筆」となる。同寺の幹部の仲間入りをしたのであろうか。
 そればかりでなく、いつの頃からなのか、和歌を能くしていたという。若くして、冷泉為秀に学んでいたとも伝わる。
 ところが、ある日、自宅の火災により二万数千首を焼失してしまう。それでも、怯まなかったという。
 しかも、革新的歌人として二条派と対立する。藤原定家に傾倒し、新古今集でのような夢幻的歌風を好む。
 一条兼良の信任を受ける。武家にある歌人との交友も行う。貴族と都の武家にも顔を知られたことだろう。こうなると、もはや本業が何なのかわからない。しかし、六代将軍足利義教の怒りに触れ、草庵領小田庄を没収されたという。
 家集「草根集」は一万一千余首を収める。歌論書ということては、「正徹物語」がある。そんな中から、秋の月を詠んだものから幾つか並べよう。
「窓の月にいとまありともむかはめやおのれにくらき文字の関守」
「むかしよりいく世の人かあかずしてながめすてけん故郷の月」
「白玉かなにぞととへば萩のうへの影はこたへずふるさとの月」
「秋やときはじめは雨をしぐれとも思はぬ月のはれくもり行く」

(続く)

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◻️232の12『岡山の今昔』岡山人(20世紀、東原方僊)

2019-10-13 22:13:17 | Weblog
232の12『岡山の今昔』岡山人(20世紀、東原方僊)

 東原方僊(ひがしはらほうせん、1886~1972)は、日本画家である。邑久郡(現在の瀬戸内市長船町福岡)の出身だ。
 早くから絵に馴染んだらしい。1909年(明治42年)には、京都に行く、そして、画壇の巨匠・竹内栖鳳に学ぶ。1915年(大正4年)の第9回文展において《花林檎》で初入選する。以来、意欲的に色んな場に出品を重ねる。
 そのうちに、「無審査」にて出品できることになったという。
 その間、京都在住の小野竹喬や池田遙邨らと「烏城会」を結成する。
 その作風としては、自然へのこだわりということでは大型でない動物や植物、とりわけ花鳥画を得意とする。花と鳥の組み合わせも多い。
 そんな中でも、「雀の図」には、かなりの数の雀が散らばる。それは、どこにでも見られる光景なのに、眺めていると、なぜか落ち着く。それというのも、彼らは、只今を夢中に生きているだけなのかもしれないが、生きることの大切さ、切なさを私たちに教えてくれているのではあるまいか。

(続く)

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♦️907『自然と人間の歴史・世界篇』米中の貿易戦争(先端技術)

2019-10-13 20:05:06 | Weblog

 907『自然と人間の歴史・世界篇』米中の貿易戦争(先端技術)

 この間の米中の貿易戦争は、ハイテク分野においても火花を飛ばしている、その大まかな流れを述べよう。

 5月15日、米商務省は、米国のテクノロジーを販売・移転するのに産業安全保障局(BIS)のライセンスが必要となるエンティティリストに華為(Huawei)を追加する。

 この企業は、中国の民間企業の中では、5Gと呼ばれる次世代通信技術、設備の分野で、世界展開しており、中国の「中国製造2025」や「一帯一路」でも大いに関係している。

 5月20日には、90日間の一時的な一般ライセンス(TGL)を発行する。これにより、Huaweiは8月19日まで輸出管理規則(EAR)で制限されない米国のテクノロジーを、個別のライセンスなしで入手可能となる。

 8月19日(米国東部夏時間)には、同省産業安全局(BIS)の「エンティティリスト」に中国Huawei(華為技術、ファーウェイ)の関連企業を46社追加したことを発表する。同時に、Huaweiを含むエンティティリスト対象の関連企業に対する「一時的一般許可証」について、有効期限を90日間延長することも発する。

 これにより、Huaweiと関連企業に対する事実上の輸出規制の範囲が広がる。一方、向こう90日間は既存製品の維持・管理に必要な取引(スマートフォンやタブレット端末に対するソフトウェア更新など)を引き続き行うことができる。


 その後、Googleが商務省と交渉している、との説あり。これによると、TGLのそれ以降の延長またはライセンスの免除だという。HuaweiがAndroidを入手できなくなれば、HuaweiはAndroidのオープンソース部分をフォークしたハイブリッド版のAndroidを開発することになる。ハイブリッド版はGoogle版と比べてバグが多くなるだろう。そうなると、Huaweiの端末がハッキングされる可能性が高まるとのこと。同社がこのような行動をとるのは、既存のHuawei端末を利用するGoogleユーザーのセキュリティを保護するためだと見られる。

 10月7日には、米国がエンティティリストに、新たに中国のビデオ監視および顔認識、人工知能技術を専門とするハイテク企業8社を含む28の組織が登録される。これには、監視カメラで世界大手の抗州の海康威視数字技術(ハイクビジョン) などが含まれる。

 アメリカは人権問題の観点からも、これに関連しそうな国外企業と国内の企業が協業したり、部品などの調達を禁止しており、今回は、新疆ウイグル自治区の住民たちに対し、先進技術を用いた監視によって抑圧、大量の恣意的な拘留などを強いるのに協力していたと判断したという。

 10月11日、トランプ米大統領は11日、米中が「第1段階」の通商合意に達したと発表する。国営新華社通信も、農業と知財保護、為替レート、金融サービスなどで進展したと報じる。前日から2日間の日程で行われていた両国の閣僚級通商協議が部分合意に達する。今回は、中国による米農産品の大規模購入のほか、一部の知的財産権、為替、金融サービスの問題などについて何らかの合意がなされた模様。これに伴い、米国は15日に予定していた対中制裁関税引き上げを見送る。

 これに伴い、アメリカは、15日に予定していた対中追加関税「第一~三弾」の税率5%分引き上げを延期すると表明する。

 

(続く)

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265の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、金重道明)

2019-10-13 10:12:53 | Weblog

265の7『岡山の今昔』岡山人(20世紀、金重道明)

 金重道明(かねしげみちあき、1934~1995)は、陶芸家。岡山県備前市伊部、金重陶陽の長男として生まれる。
 1956年(昭和31年)には、金沢美大工芸科を卒業する。それからは、生涯の道に踏み出したのであろうか、1957年(昭和32年)には、「朝日現代陶芸展」初入選を果たす。
 1958年(昭和33年)には、「日展」に入選する。1960年(昭和35年)には 渡米する。翌年2月に帰国する。
 1964年(昭和39年)には、「日本伝統工芸展」入選。4年後には、 日本工芸会正会員となる
 1971年には、第3回金重陶陽賞を受賞。日本橋高島屋にて、「第二回金重道明展」を開催する。1976年(昭和51年)には、東ドイツにて開催の「日本の陶磁名品展」に出品する。1980年(昭和55年)には、日本陶磁協会賞を受ける。
 1983年(昭和58年) には、米国スミソニアン美術館「備前の名陶その源流から現代まで」に出品する。1984年(昭和59年)には、 西ドイツ国内巡回開催の「土と炎 現代日本の伝統陶芸展」に出品する。そして迎えた1985年(昭和60年)には、岡山、福山天満屋、東京高島屋にて「作陶30年記念展」開催する。
 その作風には、全くの私見ながら、何かしらの深淵さが感じられ、それが人間以前を意味するものとも通じているのではないだろうか。外見としては、花入れ、鉢、酒呑、徳利などながら、これらにおいては、「哲学」までもが窺える。

(続く)

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◻️211の35『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大林千萬樹)

2019-10-12 13:20:41 | Weblog

211の35『岡山の今昔』岡山人(20世紀、大林千萬樹)

 大林千萬樹(おおばやしちまき、1887~1954)は、日本画家。現在の岡山市天瀬南町の生まれ。本名は、頼憲という。若くして東京に上り、富岡永洗に日本画を学ぶ。永洗の没後は、川合玉堂や鏑木清方に学ぶ。こうした中、主に、再興院展で活動していく。
 1923(大正12年)には、大阪毎日新聞社と東京日日新聞社の主催による日本美術展に「春蘭」が入選する。時代考証にもとづく濃密な美人画や、江戸や中国の粋な風俗画が人気を博す。たとえば、「元禄美人図」や「唐美人図」の物腰や表情には、思わず見とれてしまう。それから、変わったものでは、「紅粧」というのは、何やら目をきつくしている女性で、暗がりにて妖艶さが際立つ。
 関東大震災を機に東京を離れて奈良へ移る。その後、名古屋、さらに京都に住む。その後に体調を崩したことから、熱海にある平櫛田中の別荘で療養生活を送る。

(続く)

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◻️265の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、太田薫)

2019-10-12 12:18:41 | Weblog
265の6『岡山の今昔』岡山人(20世紀、太田薫)

 太田薫(おおたかおる、1912~1998)は、労働運動家で。思想的にはマルクス主義に近づいたものの、一線を画したのではないか。
 津山市の生まれ。旧制津山中学、旧制第六高等学校に通う。それから、大阪大学工学部に入る、卒業すると、大日本特許肥料を経て、宇部窒素(現在の宇部興産)に入る。
 順調なサラリーマン生活を歩み、課長となるも、時代が彼を放っておかなかった。経営陣から従業員組合を結成するよう命じられる。その後押しで、1946年(昭和21年)には、初代労働組合長となる。
 ところが、しばらくすると、会社側のあてが外れる。頭脳明晰で雄弁、行動力抜群が、労働者側に立つにいたる。
 1950年(昭和25年)には、上京して、仲間とともに合成化学産業労働組合連合会(合化労連)を結成するが(1979.2まで委員長)。そして、総評(日本労働組合総評議会)に組合(合化労連)が参加する。中央労働委員も務める。
    当時の日本共産党の路線を否定し、日本社会党を中心とした労働運動を目指す。
 1955年(昭和30年)には、左旋回を強める高野実総評事務局長に対抗し、国鉄の労働組合から岩井章が総評事務局長に立つ。岩井が就任すると同時に副議長となる。ダミ声でまくしたてる、それが「太田ラッパ」と呼ばれる。1958年(昭和33年)には、総評議長となる。
 それからは、太田と岩井がコンビで、革新を興していく。1960年(昭和35年)の三井三池・安保闘争を指揮する。
 1964年(昭和39年)の「春闘」では、池田勇人首相とのトップ会談で賃金引上げを認めさる。これ以降、経済闘争に力点を置いた春闘方式を定着させるのに成功する。1966年(昭和41年)に、同議長を辞任する。
 その活動の全盛期には、たとえば、こう評される。いわく、「総評議長の肩には四百五十万人の信頼と期待がずっしりとかかっている。彼はその呼び声にこたえ、全国を歩く。春闘、更にボーナス闘争と、その赴くところどこでもすぐ話し合いの場になる。」(「文藝春秋」昭和1964年5月号「日本の顔」より)
    そしての1979年(昭和54年)4月の東京都知事選挙に立候補するも、敗れる。

(続く)

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