♦️134『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学(ヨーロッパへ)

2018-05-09 09:17:47 | Weblog

134『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学(ヨーロッパへ)

 こうしてインドから伝わった方法を取り入れて、アラビア数学は発展していく。それから10世紀までの体系化については、多くの学者の業績の集成となっている。さしあたって9世紀頃までの主要な数学者の名前を拾うと、フワーリズミー(780~850)、キンディー(801~873)、フナイン・イブン・イスハーク(808~873)、サービト・イブン・クッラ(835~901)、バッターニー(853~929)らがいた。
 彼らがつくるアラビア数学の内容だが、分野としては、代数学が主であったという。また、当時のアラビア数学では記号を使った数式表記が発明されていなかったため、計算方法は全て言語によって説明されていたようだ。
 このようなアラビア数学がヨーロッパに伝えられるのは、後年ラテン語に翻訳されてからであって、その伝搬経路としては海路にせよ陸路にせよ、生活や交易するに便利な知識は学者だけのものではなかった筈であり、ヨーロッパの諸都市を中心に広がっていったのであろう。
ちなみに、前述の数学者吉田洋一の推測には、こうある。
 「九世紀の初めごろ、バグダットのカリフとフランク王との間に使節の交換があったことはさきにもちょっとのべておいた。容易に想像できるように、これは単に東の世界の主
と西の世界の主とが親善をとり結んだということにとどまるものではなく、実はこれによってキリスト教徒が聖地エルサレムに詣でる便宜をえるとともに、その代償としてイスラム教徒たちが地中海の港港に貿易の基地を確保するという政治的交渉をも意味するものであった。(中略)
インド数学はまたスペインにおける西カリフ国を通じてヨーロッパにはいってきた。
 サラセン人がスペインに征め入ったのは八世紀初めのことであるが、これから百余年の間は、スペインのキリスト教徒はイスラム教徒からきわめて寛大なとりあつかいをうけて、信教の自由も許され、また官職につく途さえも彼等にどざされない状態にあった。したがって征服者と被征服者との関係はいたって密接であって、若いキリスト教徒たちは争ってサラセンの学芸に親しもうとつとめたといわれる。」(吉田洋一「零の発見ー数学の生い立ち」1939、岩波新書)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆