226の1『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩、薩摩藩)
この時期には、全国の三百諸藩の藩政改革が盛んに行われた。長州藩では、天保期の初年、1830年(天保元年)に大規模な農民一揆が起こる。それは、翌年まで続き、防長二国の全域に広がった。この一揆が掲げたスローガンに「藩営専売の廃止」があり、藩が藍や櫨などの主要な産物の流通を独占したことに反対したのであった。これだと、農民としては、強制的に買い上げられるのであるから、利益は見込めなくなってしまう。こうした一揆はその後も藩内のそこかしこで頻発した。また、藩としての商業資本への借財も、「両に換算しておよそ二百万両、藩の年収の二十二倍」(松浦玲「藩政改革」:「幕藩体制の動揺」:日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970に所収)の厳しい財政状況であった、とされる。
長州藩においては、1831年(天保2年)、藩を揺るがす大一揆が勃発する。襲撃されたのは、村役人と特産物の買い占めで暴利をむさぼっていた商人達だった。長州藩は、財政再建策の一つとして産物会所を作り、彼らに特産物の売買を独占的に許したが、その改革案に民衆が抗議の一揆を起こしたのだ。藩から特権を与えられた商人と農民との間で利権を巡る争いが起き、これが領内全土に広がったのだ。この一揆は、一説には十万人を超える農民が参加した。一揆の鎮圧とその後の復興に莫大な資金を投入せざるをえない状況となった長州藩は再び財政難に陥る。
このようなとき、毛利敬親(もうりたかちか)は家督を継ぎ、十三代藩主となる。彼は、よいと思われる話があると、「そうせい」というのが口癖であったとか。たしかに「凡庸」な性格であったかもしれないが、それでいて、先取の気風があったのではないか。
長州藩は、この時大いなる決断をした。1838年(天保9年)、中級武士だった村田清風(むらたせいふう、1783~1855)を抜擢し、藩政改革を命じた。村田はこの時、56歳を数えていた。この頃の長州藩は多くの負債があり、就任した村田はこれを「8万貫の大敵」と呼んで、解消を目論む。その手段として、驚くことになんと村田清風を中心に、商人達に向かって借金の棒引きと要求したのであるが、それがなんとかうまくいったようだ。
1842年(天保14年)、村田は「三七ヵ年賦皆済仕法」を出した。これは、藩債については、元金の3%を37年にわたって返済すれば、皆済とする一方的な返済案だった。また、藩士の借財についても、藩がいったん全部肩代わりすることとし、同様の条件での返済をすることにした。
村田ら改革派は、下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。1840年(天保11年)には、流幣改正令を発布があり、下関越荷方を拡張する。
そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。越荷方の「越荷」とは、他国から入ってきた荷物のことである。これを扱うべく、藩が下関で商人などを束ね、運営する金融兼倉庫業を営む。具体的には、他国船の越荷を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売を行う。
しかし、この仕法は、藩士が多額の借金をしていた萩の商人らに反発を受ける。また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が減少したため、幕府当局からの横槍が入り退陣に追い込まれる。そこで、藩が専売していた特産物の売買を商人に認めるかわりに税を課すことで、藩としても収益を上げていく。
村田らはこれらの政策実行で、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、専売制の手直しを始めた。それに、藍の統制廃止や木綿の流通自由化に踏み出した。さらに藩内の豪商に対しては、責任を持たせて他藩の貨物や船舶相手の運賃稼ぎや資金の融通するという施策を行った。これらが効を奏する形で、藩の財政はしだいに好転を始めていく。
これらのうち蝋、米、塩は「三白」(さんぱく)と呼ばれた。「三白」のうち蝋は、櫨(はぜ)の実を原料とする。紙に劣らぬ産業にと育成策が取り組まれる。不毛の山野や畑の畦(あぜ)などの閑地を選んで櫨の植林を増やすようにと、農民を激励するとともに、「鯖山製蝋局」による統括体制が整えられていく。
そして迎えた1841年(天保13年)には、長州藩の積年の3万貫の負債を減らすことに成功した。また、清風の改革は財政再建だけでなく人材登用や教育の面でも効果をあげるが、逆風も吹き荒れていたらしい。中級以上の藩士を中心に改革に反対する勢力の台頭があった。それに持病の中風の悪化により、63歳の村田は、坪井九右衛門(つぼいくえもん)にその座を譲る。村田は、生家である三隅山荘に帰り、隠居した。それからも、人材の育成には熱心であったようで、三隅山荘に開いた私塾、尊聖堂は多くの子弟達で満ち溢れていたという。
薩摩藩においては、琉球国との関係があって、これがなかなかに複雑であった。1609年(慶長14年)、琉球王国を島津氏から攻略された。
17世紀の中頃には、その琉球では、砂糖の貢納制度が始まる。政府が自らの差は配達にて砂糖を取引することになったのだ。それというのも、薩摩藩に多額の借金を背負った琉球政府が生きていくためである。
1647年から、国内の農民に対して税収の一部を砂糖で支払わせて、その利益を借金の返済にあてていく。1662年(寛文6年)には琉球政府は「砂糖奉行」を置いて砂糖を増産に励む。その翌年には白砂糖・氷砂糖の製法を学ばせるため、中国福建省に担当者を派遣するのであった。
このような二重の仕組みにて、琉球の砂糖は薩摩藩にとって貴重な収入源となっていたのだが、中国からの輸入が増加し砂糖の値崩れする。
そこで仕方なくというか、1697年(元禄10年には、琉球における砂糖生産の制限を行うと同時に、直轄地である奄美大島での砂糖生産に切り替え、薩摩が直接に砂糖の生産に乗り出す。
稲作には向かない土地柄である奄美大島にとって、サトウキビはサツマイモとの間作が可能で、畑地で収穫も見込める。
それから時は、ながれてのことである。おりしも、18世紀後半の薩摩藩は財政危機を迎えていた。上方の商人からの借金や、幕府命令での木曽川改修工事の請け負いなどが重なり、経済運営は苦しかった。
ついては、財政赤字の穴埋めを狙って、1831年(天保2)年、薩摩藩は琉球に年貢米2800石分を砂糖で支払うことを命じる。また、奄美大島・徳之島・喜界島にいいて、砂糖の増産と砂糖の専売制度を始める。
その中では、農民に一定額の砂糖生産を割り当てて、強制的に買い上げる「定式買入糖」を採用する。それに臨時に増額される「買重糖」の、あわせて2種類の方式で生産を拡大する。
かくて、増産を成し遂げた農民には郷士格などの格式が与えられた。頑張った者には、それなりの褒美を遣わすというという、巧みさで農民たちを支配する。
幕末になると、薩摩の財政は支出の増大がひどくなっていく。頼みとしたのは、ここでも砂糖であった。島津斉彬(しまづなりあきら)によって西洋式の製糖技術を導入し、1865年(慶応元年)イには、ギリス人技術者を雇用しての白砂糖の製造が、奄美大島に導入される。これにちいては、3年後、台風の影響で設備が崩れて目論見は崩れてしまうのだが、積極的な増産への取り組みが続く。。
それから、できた砂糖の販売だが、薩摩藩の砂糖は大坂の薬種問屋を通さなかった。薩摩藩の大坂蔵屋敷に運び、そこでで入札が行われ、仲買に販売されたという。要するに、中間に入る業者を減らし直売することによって、利益を拡大しようとしたわけだ。
翻って、琉球という国は、その後も日本とは異なる独立国には違いなく、中国の清との著交換系は続けていた。薩摩の経済支配に組み込まれてからの琉球王国には、「在番奉行所」(御仮屋(うかりや))と呼ばれる薩摩藩からの出先が設けられていた。
その琉球の那覇の湊に、1853年(嘉永6年)旧暦5月、ペリー艦隊がやってきた。首里城に入ったペリーは、石炭貯蔵庫の設置などを要求した。その翌年の1854年(嘉永7年)、琉球国はアメリカとの修好条約を結んだ。
そればかりでなく、やり手の島津斉彬は、「奄美大島と沖縄の運天港を開港させ、フランスから軍艦と最新鋭の銃を、琉球を介して購入する計画を立て、両者間でこの取引は成立」(喜納大作・上里隆史「琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015年に改訂新版)したというのだが、斉彬の急死で計画が中止になったという。
これらの意味合いから、薩摩が大きく貢献しての明治維新には、薩摩の砂糖交易によるところの富かが大いなる支えとなったであろうことは、疑いあるまい。
(続く)
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