◻️168『岡山の今昔』岡山人(18世紀、池田徳右衛門)

2019-04-30 22:13:59 | Weblog

168『岡山の今昔』岡山人(18世紀、池田徳右衛門)

 1726年(享保11年)に勃発した山中一揆の指導者の一人、池田徳右衛門(いけだとくうえもん、?~1727)については、本人の筆による、1727年2月2日に記した書状が残っており、それにはこうある。

 まずは、「正月十二日五つ下刻(現在でいう9時・引用者)に出ス」とあって、本題の連絡文には、こうある。

 「急度申入候。然者此度山中/三触不残土居河原へ揃居/申筈のしかひぢや触下長田/上ハ白か天王之あい土居久見/不残相詰申候其村々大小之/百姓不残る召連此様子着/次第土居河原着到仕候/村々状着不残/牧徳右衛門/正月十二日五つ下刻に出ス」

 続けて、「正月十二日四つ上刻(現在でいう10時・引用者)に出ス」文面は、こうなっている。

 「村々状着中/早々送り可被申候/十二四つ上刻請取/中間/尚々いそぎいそぎ此様子着次第/御出会可被候土居河原相談有之
/山中之百姓中壹人も不残/土居河原小川久見村々二泊/申し候所二川下之百姓中御出/不被成所聞極弥不出候ハ々/山中之百姓中其者へ皆/罷り出候二申候日々それ迷惑二/奉存候村々状着衆中/急二百姓中召連可出会候/正月十二日/徳右衛門」」(山中一揆義民顕彰会「山中一揆」)

 この手紙を出す前日に、村人の状着に、土居河原に結集するよう促していたのが、期待通りにいかなかった。そこで、再度、結集を促す行動に出た訳なのだ。

 しかして、彼が、中心の一人となってのこの一揆の評価については、様々に記されているところだ。

 そのひとつ、『美国四民乱放記』には、徳右衛門(牧村、現在の湯原町)の人となり、その豪快にして繊細な人格は、かの島原の乱の首領天草四郎の孫に見立てている。ただし、この本の著者が本件に対し臨んでいる態度は、一揆の行動が正義によるものではなく、「津山ヲ蔑二致」したための「天罰」であったとして、批判しているところに特色がある。

 「徳右衛門ヲ大姓ニ定メ、家名ヲ改、アマノ四郎ノ左衛門佐藤原時貞ト名乗時貞語テ曰、誠ヤ川上不清時ハ、必其下濁ル。国不納時、民乱ルルトハ、古キ言葉ニ見タリ。見ヨ、見ヨ。七年ハ過間敷、郷士ドモハ己ト亡国有、諸ノ佞人ハ天ノ冥罰ヲ可請。我命ハ終トモ、一念ハ死替、生替、鬼トモ蛇トモ成テ、世々影向、恨ヲナサデ可置カト、血ノ泪ヲハラハラト、断責テ哀也。」

 加えるに、1727年5月2日(旧暦享保12年3月12日)、かれが死を迎えるときの様は、気丈夫な上に華々しい。「作陽乱聴記」には、次のこと(現代訳)が記されているという。

 「いよいよ徳右衛門の前に、槍が構えられた。と「しばらくまて」と磔上から声がかかった。「何か」と尋ねると「気楽に受け答えの声を掛けてやろう。突く時には声を掛けてこい」と、然らばとて「右より参るぞ」と言えば「合点」と答えて穂先を受けた。ついで「左より参るぞ」と言えば、「覚えたり」と答え、両脇に槍を受けたうえ「さらば止(とど)めに参るぞ」と言えば、気丈にもなお応答の声が聞き取れたのであった。」(山中一揆義民顕彰会「山中一揆」)

(続く)

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◻️160『岡山の今昔』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門)

2019-04-30 21:36:34 | Weblog

160『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門) 

 かくも果敢に闘われた元禄一揆(高倉騒動ともいう)の結末としては、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで農民に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年4月26日(元禄12年3月27日)、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束に向かう。

 そして、高倉村大庄屋にして働く者の側に立った三郎右衛門については、弟2人に加え、「世倅平右衛門」に対しても死罪が申し渡された、「むごい」というしかない冷酷極まる仕置きであった。想えばこの時期、すでに同藩には、民をいたわる、これと言えるほどの人物はいなかったものとみえる。

 その後については、しだいに「苔むして」といおうか、表面からの民衆運動はみられなくなる。しかしなお、額に汗して働く人々により、怯むことなくその勇気が語り継がれていく。

 なお、高倉神社(下高倉)本殿の脇には、かかる堀内三郎右衛門の妻の傳が、残った二子の無事成長を祈願した一対の石灯籠が立っているとのことだ。


(続く)

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◻️225『岡山の今昔』岡山人(20世紀、仁科芳雄)

2019-04-29 22:45:40 | Weblog

225『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、仁科芳雄)


 仁科芳雄(にしなよしお、1890~1951)は、浅口郡里庄村浜中のうまれ。家は農業と製塩業をしていて、裕福であったらしい。幼い時から勉強に励み、1918年には東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業、ヨーロッパに留学する。1921年に帰国し、理化学研究所で研究を進める。
 1941年。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを、陸軍が知り、理研に原爆の開発を依頼した。仁科に白羽の矢が立った。

 その約1年後、ミッドウェー海戦で大敗を喫した海軍も、「画期的な新兵器の開発」を打診する。仁科は原爆開発の可能性を検討するため、物理学者による懇談会を組織する。

 1943年には、陸軍へ報告書を提出する。その中で、核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。
 これに陸軍が反応した。「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。時の東条英機首相兼陸軍大臣は、研究開発を仁科研究室に命令する。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
 戦後は、1955年に仁科記念財団を設立する。1958年には、理化学研究所が再建される。そんなエネルギッシュな仁科なのだが、戦後にこんな文を記している。

 「現実の問題として戦争を絶滅することの困難は既知の通りである。これは国際間の正義とか誠意とか信頼とかの道徳的方法だけでは従来の埓を一歩もでることはできない。然し前述の一部科学者の理想とした様な、新しい原子力という大きな現実の重圧によっては、それが成功する可能性が生じたのである。否成功しなければ文化の破滅、人類の退歩を招来する危険があるから、何としてもこれを成功せしめねばならぬ。
 そこですぐわかることは、ここに一つのディレンマの存在することである。即ち一方原子爆弾の被害を除くために、その存在を許さぬことにすれば安心ではあるが、その恐るべき重圧がなくなる結果として戦争の勃発を見る可能性がある。戦争が起れば原子爆弾の登場は予期すべきであろう。これに反し戦争の惹起を防ぐ重圧を与えるために原子爆弾の存在を許すこととなれば、それを有効に管理しない限り、何時それが悪用せられ人類文化の破壊に導くかも知れないという惧おそれがある。そこで凡ては管理の問題にかかってくる。これを如何にすべきやというのが世界列強の重大問題であり、国際連合の一大関心事である。」(「原子力の管理」)
 と、いかにも現実主義者らしい物言いながら、そういうのであるならば、自身の戦前での行動に対し、もっと真摯な反省を表明して然るべきだろう。これは、昭和天皇(かれは、一度も自身の戦争責任を語ることをしなかった。少なくとも、かれはかかる一点に限っては、人として不誠実であったと言わざるを得ない)などにも共通していると感じられることなのだか、かくも簡単に戦前と戦後を使い分けてよいものであろうか。核時代における我が国の平和主義というのは、核兵器を根絶する志向性を持つものでなければならないし、またそうでなければ去り行きし私たちの同胞(世界と日本の、むこの人々)に申し訳が立たないと考えるのだが、いかがであろうか。

(続く)

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◻️226『岡山の今昔』岡山人(20世紀、武岡鶴代)

2019-04-29 21:23:04 | Weblog

226『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(20世紀、武岡鶴代)

 武岡鶴代(たけおかつるよ、1895~1966)は、当時の東南条郡林田(はいだ)村(現在の津山市川崎)の米屋の生まれだという。家は、かなり裕福であったのではないか。1916年(大正6年)には、東京音楽学校(現在の東京芸大)を卒業する。

 同学研究科に進み、その後は嘱託として学内に残り、後輩の指導にあたる。そのかたわら、ソプラノ歌手として演奏活動を行う。

 そして迎えた1926年(大正15年)、東京高等音楽院(現在の国立音楽大学)の設立にあたり、声楽指導と運営を担う。

 1929~1931年には、ドイツに留学する。ハンカ・ペツォルトとマルガレーテ・ネトケ=レーベに師事する。

 日本に戻ってからは、ドラマチック・ソプラノとして活躍する。1935年(大正10年) には、国立音楽学教授として、門下生の希望により鶴声会を発足させる。会員は門下生に限られるとのこと。この会の主旨は、音楽家のプロ養成所であり、会費はなしというから、かなり私的な集まりであったようだ。

 1936年(昭和11年)の定期公演でドビュッシーの「夜想曲」が演奏された時には、鶴声会合唱団という名で出演したという。当時のクラシック音楽が、戦争一色でなかったのなら、幸いだ。

 戦後、故郷の津山文化センターがなったおりには、ドイツのベーゼンドルファー社製のビアノを入れるのに尽力したと伝わる。教育者としての誉れ高く、音楽家に贈られる名誉ある賞「武岡鶴代賞」がある。

(続く)

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□155の2『岡山の今昔』岡山人(12世紀、妹尾兼康)

2019-04-24 21:50:49 | Weblog

□155の2『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(12世紀、妹尾兼康) 

 妹尾兼康(せのおかねやす、?~1183)は、平家方に与して最後まで戦った備中の武士であった。その彼の「本貫地」は、備中国都宇郡妹尾郷(現在の岡山市南区妹尾あたりか)であって、いつのころからか、このあたりの有力な武士となっていた。  

 頭角を現すのは、1156年(保元元年)に勃発した保元の乱において、平清盛に味方し源氏方と戦う。次いでの1177年(安元3年)には、鹿ヶ谷での謀反の会議が露見し囚われた大納言藤原成親の嫡男を、清盛の命で一時妹尾に幽閉する。1180年(治承4年)に奈良の僧侶らが蜂起したおりには、大和の国の検非違使に就任し、奈良に入ったところを、甲冑と弓を身に付けるのを禁じられていたことから、配下の60余人が討たれたといい、これがのちの「南都焼き討ち」の原因となる。

 そして迎えた1180年(寿永2年)、平家方として源氏方の源義仲と戦うも敗れ、一時転向を装う。その後、義仲に反旗を翻す。その彼の最後の戦いぶりについては、『源平盛衰記』にこうある。

 「敵近く攻め寄せければ、兼康又思ひ切り、深く山へ落ち入りけるが、眼(まなこ)に霧雨(ふ)りて進まれず。郎等宗俊を呼びて、「兼康は数千人の敵に向ひて戦ふにも、四方晴れて見ゆれども、小太郎を捨てて落ち行けば、涙にくれて道見えず、兼ては相構へて屋島に参りて、今一度君をも見奉り、木曾に仕へし事をも申さばやと思ひつれども、今は恩愛の中の悲しければ小太郎と一所にて討死せんと思ふは如何あるべき。」と云ふ。

 宗俊、「尤(もっと)もさこそ侍るべけれ、弓矢の家に生まれぬれば、人毎に無き跡までも名を惜しむ習ひなり、明日は人の申さん様は、兼康殿こそいつまでも命をいきんとて、山中に子を捨て落ち行きぬれといはれん事も口惜(くちお)しき御事なるべし、主を見奉らんと覚(おぼ)すも子の末の代を思召(おぼしめ)す故なり、小太郎殿亡び給ひなんには、何事も何かはし給ふべき、只返し合はせて、三人同心に一軍(ひといくさ)して、死出(しで)の山をも離れず御伴(おんとも)仕らん。」と云ひければ、兼康、「然るべし。」とて道より帰り、足病み居たる小太郎が許にゆき、(後略)」(『源平盛衰記』第三十三「兼康板蔵城戦ひの事」、文中に見える子の宗康は兼通、郎等は宗俊という名になっている。なお、彼の死の模様は「平家物語」の「妹尾最期」にも描かれている。)

 身動きできない息子の小太郎をおもんばかって死地に引き返し、奮戦むなしく討ち死にしたのは、誇りを重んじる武士の意地であったのだろうか。

(続く)

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□211の23『岡山の今昔』岡山人(20世紀、平櫛田中)

2019-04-24 20:48:45 | Weblog

□211の23『岡山の今昔』岡山人(20世紀、平櫛田中) 

 平櫛田中(ひらぐしでんちゅう、1872~1979)は、現在の岡山県井原市の生まれだ。本名を倬太郎(たくたろう)と言う。田中家から平櫛家に養子に入ったのち、田中(でんちゅう)といい慣わす。東京へ出て、伝統的な木彫技術と西洋の彫塑を学ぶ。
 それからは、作品づくりに精出す。大家となってからは、東京芸大で教えたりした。107歳でその生涯を閉じるまで、明治・大正・昭和の三代に渡って活躍した、近代日本彫刻の巨匠とされる。
 壮年期からのその作品の特徴は、観る者を引き込む緊張感と、本源的な温かみの感じられるところにあるという。 なかでも井原地方の古い伝承に基づく「転生」(東京芸術大学大学美術館蔵)や、「鏡獅子舞」、良寛上人(りようかんしょうにん)の木彫などが有名だ。

 最近の珍しいところでは、「何でも鑑定団」(2019.4.23放映)において出品のあった「神武天皇像」(仮称、木彫)が真品だと認定された模様だ。ここに「神武」とは、「日本書記」にも出てくる「初代天皇」と言われる人物をいうのだが、今日の歴史学においては実在性に乏しく、伝説上の話なら頷けよう。ともあれ、その凛とした表情には、作者の特別な思い入れが感じられる。そのスックとした立ち姿には、威風堂々さがひとしおであり、作者にとっては偉大な実在の人に写っていたのであろう。

 ここに獅子というのは、想像上の生き物にして、白いたてがみ、きりっと、見開いたまなこで、見る者の瞳に迫ってくる。日本画、日本人形でもおなじみの題材だ。これを歌舞伎の世界では「獅子の精」として上演してきた。そして、これを「十八番」の興行に仕上げたのが、六代目尾上菊五郎に他ならない。その筋書きによると、前半は、将軍さまお気にいりの初々しい女小姓「弥生」でいたのが、舞台の後半では、勇壮で力強い獅子の精になりかわるという。

(続く)

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○○549の11の1『自然と人間の歴史・日本篇』消費税と企業の内部留保

2019-04-13 10:17:52 | Weblog

549の11の1『自然と人間の歴史・日本篇』消費税と企業の内部留保

 本邦企業の内部留保が積み上がっていることについては、世間ではかなり知られるようになっている。例えば、「思惑実感へ滞留資金動かそう」と題してのこんな新聞記事が載っている。

 「今回の景気拡大期では、日本銀行の金融緩和に伴う円安や、世界経済の回復が企業収益を押し上げた。需要は拡大し、物価下落が継続するデフレ状態を脱した。

 雇用も改善し、有効求人倍率はバブル期を超える。政策が一致の成果を上げたといえよう。

 だが、この間の実質国内総生産(GDP)成長率は年平均で1.2%と、これまでの拡大期より低く、回復の実感は乏しい。賃金や消費は力強さを欠く。税金や社会保険料の

負担が増え、手取り収入が伸び悩んでいるためだ。企業や家計が守りの姿勢を転換し、内需主導の成長を実現できるかが問われている。

 企業の内部留保は約450兆円と過去最高に達する。家計の現預金も約970兆円に上り、この6年で100兆円近く増えた。滞留する巨額の資金を、経済活性化に生かすことが大切である。」(読売新聞、2019年4月13日付け) 

 ちなみに、内部留保とは、企業の売上高から人件費や原材料費を差し引き、法人税(赤字法人の場合は徴収されない)や株主への配当などを支払った利益を積み上げたものだ。

 複式簿記(フローでいうと損益計算書(PL))をとっていることから、売上げ分は帳簿でいうと右側の、「おカネをどのような手段で調達したか」をあらわす収益欄に、「売上」として計上されよう。

 そして、それをどのような形で保有しているか(または、使用しているか)は、左側の費用・利益欄にひとまず「現金」として記載することになろう。そういうことだから、今度は、その企業が製品を売り上げることにより調達された現金を使って設備投資をしたり株式を買ったりすると、かかる現金が工場設備や株式、それに配当などに置き換わり、残ったものは現金・預金ということになるのだろう。

 次に、ストックとしての貸借対照表(BS、バランスシート)だが、こちらの左側は資産を記入するのに対し、表の右側の貸方の上部には負債、その下には資本、つまり資産から負債を差し引いた残りである正味資産が入る。

 そして、この資本のところに、今取り上げている内部留保としての利益剰余金などの項目が入る。それから、こちらの資産のところには、前の損益計算書の左側の欄で触れたような観点からの、それぞれの資産項目が入ってくる訳だ。

 この間の内部留保(財務省「法人企業統計調査」による、金融・保険業を除く全産業、資本金1000万円以上が対象)の推移は、1989年度が約116兆円、2003年度が約185兆円、2015年度が約185兆円、2017年度に至っては約446兆円にもつみあがっている。2017年度の結果をやや詳しく見ると、売上高は前年度比6.1%増の1544兆142万円8億円、経常利益は11.4%増の83兆5543億円の過去最高を記録した。

 なお、新基準に基づく国内の設備投資については、前年度比5.8%増の45兆4475億円とこれまた過去最高だったものの、内部留保の伸び率9.9%増には及ばなかった。

 次に、国民経済計算の資金の受け渡しの状況を見ると、一国の部門の貸出と借入との差が記されており、年間にどれだけの金額が貯蓄と投資の差額として残るかを示す。この値がプラスの場合は「純貸出」、逆にマイナスになると「純借入」という。それらのうち、企業部門(非金融企業、つまり金融企業を除く)の2015年のデータを見ると、GDP比で約5.0%もの貯蓄超過となっているのに対し、「ドイツは約2.7%、米国は約0.5%、英国は約0.1%」(OECD(「先進国」の集まりである経済協力開発機構のウェブサイト、伊藤元重「GDP分析―企業の貯蓄、日本は突出」2018年1月15日付け読売新聞において引用)と、日本の貯蓄が突出した形となっている。

 ちなみに、日本での2015年度の値は、「非金融法人企業」の同実績は25.3兆円のプラスであって、対名目GDP比は4.8%だったのに対し、「一般政府」(地方政府を含む)の場合は17.4%のマイナス、対名目GDP比は3.3%のマイナスであった(内閣府経済社会総合研究所「2015年度国民経済計算年次推計(2011年基準改定値、フロー編)」2015年12月22日)。

(続く)

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○○549の10の2『自然と人間の歴史・日本篇』消費税増税への対案はあるか(予算均衡定理・後編)

2019-04-12 20:23:12 | Weblog

549の10の2『自然と人間の歴史・日本篇』消費税増税への対案はあるか(予算均衡定理・後編)

 ここで、この予算均衡定理につき、筆者なりに簡単に解説を加えさせてもらいたい。 

 まず、ここで(4)式はどのようにして導かれるのだろうか。
     1
    ――――    (4) 
    1-a  

 ここでは閉鎖経済(外国との関係を捨象)を想定し、貯蓄が国民所得に平均貯蓄性向(s)を乗じたものだとしよう。そうなると、
S=sY=I、つまり貯蓄は投資に等しい。
Y=(1/s)I

         1
 (参考)Y= ――――×I(一般の教科書ではこちらの表現) 
        1-α  

 つまり新投資が決まると、需給が均衡に向かうように働き、Y=(1/s)Iが先ず決まる。そして、生産技術がいま短期での分析により一定の場合でいうと、その生産技術に体化して雇用量が決まると考える訳だ。
 ところで、この式の中のs(平均貯蓄性向)は、平均消費性向をaとすると(1-a)と置き換えられる。
Y=(1/s)I=(1/1-a)I
 そこでいま新投資需要Iが政府によって投入されるとしよう。すると、その需要を満たすためにY=Iだけの産出高が生まれる。そうなると、aIだけの消費需要が派生し、それを満たすように同額の派生所得が生まれる。aIの所得からはaの2乗×Iだけの派生需要、そしてそれを満たすための新たな産出高が見込まれよう。結局、Iだけの投資需要の追加は、
I+aI+aの2乗I+・・・・だけの需要と所得を生み出す理屈(ここでは、「一説には」という意味あいで用いたい)になっている。
一般に、初項がa、公比がr(rの絶対値<1)の無限等比級数の合計Aは
A=a + r + r^2 + r^3 + r^4 +...+ r^n-1 + r^n + ..

(ここに、便宜上、例えば「^(ハット)2」としたのは、「2乗」、つまりこれの付いた数値を2回掛け合わせるというもの。本来なら、「2」の右の肩に乗数の値を記すべきもの)
ここで式の左辺と右辺に r をかける.
 r
=r + r^2 + r^3 + r^4 +....+ r^n + r^n+1 + ...
その上で、の両辺からの両辺を差し引く。の方が最初の項aが多いだけなので次のように整理できよう。

   A - r = a                    

従って、次のとおりになろう。

      a
  A = ---------                     
     1 - r

これから、初項が1、公比がa(aの絶対値<1)の無限等比級数の合計Sは次の通りになる。

S=1+a+a二乗+・・・・・+aのn-1乗=(1/1-a)

 投資の持つ乗数効果の数学的説明には、つぎのようなアプローチもあるだろう。
 Y=C
I
ここでYとはGDP(国内総生産)、Cとは民間消費、Iとは民間投資、Gとは政府投資としよう。
 C=α
βY 
 ここでCというのは一国の消費関数、α(アルファ)は基本消費、β(ベータ)は限界消費性向と呼ばれるもので、たとえていうとGDPが1万円増えれば消費支出はβ万円増えることになる。
0<β<1のことを限界消費性向という。
 この2つの式からCを消去すると
 Y=α
βYIG
この式を変形すると
 Y
βY=αIG
(1-βY=αIG
 したがって、Y=α/(1-β)+{【1/(1-β)】(IG)} 
 この式で第2項に目を向けてみよう。そこで1/(1-β)のことを乗数(m)という。この式で投資Iが10兆円増えるとGDPは10兆円×m万円だけ増えることになるだろう。

 そこでいま、民間可処分所得が税金によって10兆円減ったとしよう。そのとき国民の貯蓄率(国民所得のうち貯蓄にまわす割合)が20%とすると、人々の消費需要は10兆円まるごとは減らず、10兆円×0.8=8兆円だけが減ることになるだろう。

 したがって、その国の限界消費性向が0.8(80%)であるなら、政府が増税による収入増10兆円を財政支出に投じれば、それと同額である10兆円分の総需要の増加が見込まれることになり(上記の(7)式)、その場合には10兆円から8兆円を差し引いた2兆円分の総需要の増加が見込まれることになっていく。
  以上のことは、ケインズが(一般人の消費ではなく)投資こそが社会全体の所得向上の主要な手段である、と考えていたこととほぼ一致している。

 ○
考えられる意見の検討としての1番目は、こういうことになるだろうか。

 今仮に、政府支出の増大によって景気対策を行おうとしても、現在の国の財政状況をみると、その財源を消費税増税などで賄うしかなくなっているのではないか、という意見があるが、どのように考えればよいのだろうか。
 そこで、所得分配の階級的性格について考えてみよう。それというのも、現にある日本社会が、資本主義、つまり資本優位の時代であることには、大方の認識が一致していると思われるからだ。
 すると、所得が増加(減少)するにつれ人々の消費の割合が減って(増えて)いくのは改めて証明を必要としない自明の事柄だと言われるが、それは心理法則なのだろうか。そうではないと考える。その理由は、同じ「所得」でも労働者の所得と資本家の所得ではそのあり方が異なるからだ。
 いま貯蓄をS、労働者の所得をW、資本家の所得をP、労働者と資本家の所得に占める貯蓄の割合をそれぞれsw、spとすると、Sは両方の所得の合計したものである。したがって、次式が導かれよう(この考えは、「左派」のケインズ派経済学者のカルドアなどが先鞭をつけた)。

S=swW+spP  
 国民所得はY=W+Pなので、式をこのYで割ると、

S/Y=sw+P/Y(spーsw)  
 この式においてS/Yは国民経済全体に占める貯蓄の割合(貯蓄率)、
P/Yは資本分配率。

  ここで資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいと考えられることから、国民所得の分配問題とは優れて階級的な問題であることが分かる。

spーsw>0  

 もちろん、これには「資本家の貯蓄率(sp)は労働者の貯蓄率(sw)より大きいとは思わない」との反論が出されるかもしれない。


 ○
考えられる意見の検討の2番目としては、こうある。

(4)では、どのようにすれば国民経済を発展させるに足るだけの財源を確保できるのだろうか。

 Y=α/(1-β)+{【1/(1-β)】(IG)} 
この式で第2項に目を向け、そこで1/(1-β)のことを乗数(m)といい、この式で投資Iが10兆円増えるとGDPは10兆円×m万円だけ増えることになる計算であった。

 そこでいま資本家階級の消費性向を0.5とし、労働者階級のそれを0.8と仮定してみよう。
 なぜこんなに限界消費性向に開きがあるモデルを採用するのかといぶかる方もいるかもしれない。とりあえず、ここではそれは私たちの経験から言えることではないかと申し上げておきたい。

翻って、マルクスの再生産表式によれば、資本家階級は剰余価値Mのうち自らが消費支出したMKを除いた残余をつねに次期の蓄積需要に振り向けるとは限らない。

 通常、その一部は貨幣の保有増加や各種の金融資産の増加に振り向けられていると考えるのが自然の成り行きだと思われる。一方、労働者階級は原理的には「裸一貫」、「食べるに追いつく貧乏なし」のたぐいで、大方の人がその日暮らしだと考えられるものの、ここでは労働者階級の標準世帯で測ると消費性向が0.8ぐらいと仮定した方が、現実味があるのではあるまいか。
 いまある国に資本家階級が100万世帯、労働者階級が1000万世帯あるとしよう。資本家階級の自由になる所得が各世帯で年当たり3000万円とすると、消費性向は0.5(50%)なので、3000万円×100万世帯×0.5=150兆円だけ消費することになるだろう。一方、労働者世帯の消費支出は年当たり500万円として、消費性向は0.8(80%)とより高く、したがって500万円×1000万世帯×0.8=400兆円になると仮定したい。

 いま政府の需要追加策により、これらモデル世帯に各々10万円の臨時収入があったなら、両階級の消費行動はどうなるだろうか。このとき、年収が3000万円の資本家階級ではその10万円の48%(βK)=4万8000円を消費にまわし、他方の労働者階級は10万円の79%(βL)=7万9000円を消費するとしよう。
 すると社会全体で測った追加所得の中から消費にまわった総額としては、次のとおりになるだろうか。

資本家階級:10万円×100万世帯×0.48=4800億円
労働者階級:10万円×1000万世帯×0.79=7兆9000億円
したがって、両者の合計は8兆3800万円となるだろう。
 
 今度は、労働者階級世帯の追加所得を10万円から2倍の20万円に増やし、資本家階級に対しては高所得を理由に政府による追加所得の支給対象からはずしたと仮定しよう。すると、増加分の消費総額はつぎのようになるだろう。なお、そのときの労働者階級の限界消費性向(βL)を0.75としておく。

労働者階級:20万円×1000万世帯×0.75=15兆円

 したがって、この例では、両階級に対し等しく財政支援を行ったときに比べ、高額所得世帯としての資本家階級(大方の「自営業者」のことではない)に対する財政支援を基本的に行わず、代わりに労働者階級をはじめとする勤労者にその分の財政支出を振り向けた方が、社会全体で見た消費需要の増加はより大きくなることがわかる。

 なお、このことは、当面資本家階級の社会での役割を否定する意味ではなく、国民経済が某かうまく回るようになることによって、この国の全ての人々に経済的恩恵が回るようになるのではないか、という道理を説明するものと理解したい。

 

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○〇新549の10の1『自然と人間の歴史・日本篇』消費税増税(2019.10~)の対案はあるか(予算均衡定理・前編)

2019-04-02 10:55:28 | Weblog
新549の10の1『自然と人間の歴史・日本篇』消費税増税(2019.10~)の対案はあるか(予算均衡定理・前編)
 
 これまで、消費税増税に対し、いろいろな観点を紹介し、検討してきた。そこから得られたのは、この増税に同意することが大きな失政に加担することになるのではないか、という問題意識である。
 それでは、どうすればよいのであろうか。これについても、諸説を紹介している。そんな中で、消費税の増税をしないかわりになりそうな、すなわち対案となりそうなのは、ごく大まかにまとめると、次の二つであると思われる。
 一つは、国民本位で景気をよくすることだと思う。二つ目は、歳入歳出を勤労国民の暮らしの観点から徹底的に見直すことであろう。どちらにおいても当てはまることなのだが、この国の経済は本来、一握りの人たちのものでは決してないのである。
 そこで、以下では、この二つの要請を合わせ取り組んでいくときの、何かしら導きの糸、解決のヒントになりそうなものを考えたい。
 そこで今、これ以上歳出を増やしたくないとして、話を進めよう。これは、積極財政を否定するのからではなく、話を簡単にするためだ。
 すると、政府が均衡予算を組む場合、政府支出が民間所得を削って行われるときは、政府支出を増やすことで民間支出に負の影響を及ぼし、社会の有効需要は増えないのではないか、との意見があろう。
  これに対して、財政学者の林栄夫(はやしよしお)は、欧州発の「均衡予算定理」(集大成したのはハーヴェルモ(ホーベルモー))を取り上げている。林によると、この定理はまだ不十分なものであって、修正が必要であることをこう指摘している。
 「だがこれらの人々の分析は、課税と政府支出による所得再分配にもとづく乗数効果と均衡予算そのものの乗数効果とを明確に区別せずにしばしば両者を混同しておこなわれてきている。前者は、政府が課税の側面において接触する高額所得層の限界消費性向の大いさと政府支出の側面で接触する低所得層の限界消費性向の大いさとの間の実質的相違にもとづく効果を問題にする。
 これにたいし均衡予算そのものの乗数効果は、民間の限界消費性向の大いさと政府の限界収支性向の大いさとの間の相違にもとづく効果を問題にする。」(林栄夫(はやしよしお)「財政論」筑摩書房、1968)
その上で、彼自身の考え(筆者は、以下の所論を「ハーヴェルモ(ホーベルモー)・林の均衡予算定理」と呼びたい)をこう展開している。
「伝統的理論は、均衡予算を所得水準や物価水準に対して中立的であると考えてきたが、この考え方の背後には、課税は同額の有効需要を削減し、この税収入と同額が政府支出して有効需要化される、という観念がひそめられている。
 ところがケインズ財政論によれば、このような伝統的見解は明らかに利子率の変動を媒介として貯蓄と投資の均等を説く完全雇用前提の理論のうえにたつものである。
 しかし有効需要の原理からすれば、租税はその一部を有効需要化されない貯蓄部分からまかなわれ政府支出として有効需要化されると考えられる。あるいは、継起財貨サービスにたいする政府支出はそれ自身有効需要したがって国民所得の一部となるが、租税はそうではない、と説かれる。したがって租税でまかなわれる政府支出の場合でも、有効需要の純増加が生じ、その結果として乗数的所得創出効果を生じると言える。
 それは例えば、つぎのように証明される。財政がバランシングファクターとして機能する場合、政府支出増加(△G)の乗数的所得創出効果は、
        
     1
    ――――△G     (4) 
     1-a  

によって示される。aは限界消費性向である。これにたいし租税収入増加の効果は、次のように考えられる。一般的にいうと、租税収入の増加(△T)はそれと同額の有効需要を削減することはない。第1次的に削減される有効需要は、もしその税の増徴がなければ、消費にあてられるはずの所得部分に相当する。すなわちa・△Tである。したがって租税収入の増加の乗数効果を示す一般の形は、

     
  ー ――――△T     (5) 
     1-a  


である。したがって均衡予算は、政府支出の増加が同額の税収増加によってまかなわれる場合の予算としてとらえることができ、均衡予算の乗数効果は、(4)式と(5)式から、

    1      a
   ――――△Gー ――――△T     (6) 
    1-a    1-a


としてとらえられ、仮定により△T=△Gであるから

   1-a
   ――――△G=△G     (7) 
    1-a 

 となる。すなわち均衡予算の場合には、政府支出増加額と同額の乗数効果、還元すれば政府支出1単位当たり1の所得創出効果があるということになるのである。」(林栄夫(はやしよしお)「財政論」筑摩書房、1968)
 
 ちなみに、マルクス経済学者の置塩信雄は、この林の紹介した説(「均衡予算定理」)を援用して、こう述べている。
 「生産能力が巨大となり、これを正常に稼働したときに生産される商品の販路が不足すると、これを補充するための追加的需要の創出が国家に期待された。政府が諸商品に対する追加的需要を行うための財源をなにに求めるかが問題となる。
 増税による政府需要の増加という手段によって総需要を増加させることができるという議論が行われた。この議論の要点は、増税によって人々が例えば一兆円の可処分所得の減少を蒙ったとしても、人々の消費需要は一兆円は減少せず、例えば(限界消費性向を八〇%とすれば)八〇〇〇億円しか減少しないから、政府が増税による収入増一兆円を諸商品に支出すれば、差引き二〇〇〇億円だけ総需要の増加となるということである。
 この議論の論理から分るように、増税による政府需要増が総需要の顕著な増加をもたらすには、課税の増徴は限界消費性向の低い階級から行わなければならない。実際、右の例で限界消費性向が七〇%であるならば、総需要の増加は三〇〇〇億円となる。
 ところで、社会の構成員のうち限界消費性向の低いのは高所得を得ている階級である。したがって、増税による政府需要が総需要の顕著な増加をもたらすには、資本家階級から租税の増徴を行わなければならない。労働者階級への増税は、労働者の消費需要をほとんど同額だけ減少させるから、増税による政府需要によっては総需要はほとんど増加しないのである。」(置塩信雄「現代資本主義分析の課題」岩波書店、1980) 
 
(続く)
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○〇549の21 『自然と人間の歴史、日本篇』消費税の行方(結び)

2019-04-02 08:15:08 | Weblog

549の21 『自然と人間の歴史、日本篇』消費税の行方(結び)

 現状では、消費税の目的税化がなされると、それからは際限のないのない、ほかならぬ消費税の増税が進められていく可能性が高い。

 それというのも、「少しばかりの税率の引き上げ」ではどうにもならないことは、国民の多くが知っている筈だ。そしてこの国においては、「消費税だけでは財政再建できない」という理屈を逆手にとって、「欧州並みになるまで、少しずつ消費税率を上げていこう」との大宣伝、影に日向での誘導や圧力などがまかり通っていくのが懸念される。

 それでは、現代に生きる私たちは、どのような気構えでいればよいのだろうか。振り返れば、近代民主制の基礎を与えた一人であるルソーは、こう述べている。

 「これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、われわれは、法律と所有権との設立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すであろう。 

 従って富者と貧者との状態が第一の時期によって容認され、強者と弱者との状態が第二期の時期によって容認され、そして第三の時期によっては主人と奴隷との状態が容認されるのであるが、この第三の時期が不平等の最後の段階であり、他のすべての時期が結局は帰着する限界であって、ついには、新しい諸変革が政府をすっかり解体させるか、またはこれを合法的な制度に近づけるにいたるのである。」(「人間不平等起源論」岩波文書、1933)

 ルソーのこの言葉は、いみじくも、私たち日本国民のこれから進むべき道をさししめしているのではないだろうか。
 
(続く)
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