♦️78『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学(インドでのゼロの発見)

2018-05-08 23:04:45 | Weblog

78『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学(インドでのゼロの発見)

 アラビア数学と名づけられる数学の大系がつくられたのは、8世紀からのイスラム世界でのことであった。担い手としては、アラブ人だけではなく、インドその他の地域で得られた数学的知識が源流となっている。
 その中でも、インドからの影響は絶大であって、遅くとも6世紀には、この地で数学の第一歩としてのゼロ(零)の概念や「位取り記数法」があったという。数学者の吉田洋一氏は、こう語る。
 「インドにおいて零の発見されたのがいつごろであるかは、正確には知られていない。
これが何人のなしとげた仕事であるかも、もとよりわかっていない。ただ、多くの学者は既に六世紀のころインドでは位取り記数法が行われていたのではないかと推定している。
 七世紀の初めごろのインドの数学者ブラーマグプタの書物には、「いかなる数に零を乗じてもつねに零であること」、また「いかなる数に零を加減してもその数の値に変化がおこらないこと」、すなわち、今日の記号にしたがえば、a×0=0、a+0=a、aー0=aとあわされるべき零の性質が起債されているということである。」(吉田洋一「零の発見ー数学の生い立ち」1939、岩波新書、)
 位取り記数法の方は、数の数え方によるものであって、これまたインドが発祥なのであった。これを10進法でいうと、現代の私たちは桁(けた、figure)取りの考えを使って、0~9の10個の数字を組み合わせて数を表現する。例えば、271という数を考えよう。現代流の式で表すと、271 = 2×10^2+7×10^1+ 1×10^0、というものであって、1の位が1、十の位が7、そして百の位が2である(ここでのカッパ「^」は累乗を意味する)。
 この前後の関係を理解させるには、「0の意味」とは「あるはずのものがない」ということと、「0を教えるのは、どうしても10を数えるまえでなければなりません。なぜなら、0と位取りを教えないで、そのまえに10と書くことを教えてしまうと、子どもは10を一つの文字として覚えます」(遠山啓(とおやまひらく)「数学の学び方・教え方」岩波新書、1972)という理屈に思い至る。
 これほどに便利なアラビア数字なのだが、数学者の矢野健太郎が、とどのつまりの由来を、こう推測している。
 「アラビア数字1、2、3、(略)いつ、どこで、だれが考えだしたものでしょうか。それは、ずっと大昔に、インドで考えだされたものです。(略)インドのお隣にアラビアという国があります。この国の人々が、インドの国の人々と品物を交換するために、インドとアラビアとの間をなんども行ったり来たり、(略)じぶんの国へ帰ってこれを広めました(略)イタリアやフランスの人たちもまたアラビアへよく商売をしに行った(略)ほんとうはインド数字ですのに、いまではアラビア数字とよばれております。
 エジプトの数字(略)バビロニアの数字(略)ギリシア数字(略)ローマ数字では(略)ひとまとめにするたびに新しい記号を作っては進んでいきます。ところがアラビア数字では、(略)一0個の数字だけでまにあうのでして、これ以上の新しい記号を作る必要はおこってまいりません。
 これがアラビア数字で数を書くときのうまい点です。(略)0は何を表しているのでしょう。何もないこと、そうです、何もないということを表しています。(略)アラビア数字の0は、ただ何もない、ということではなくて、もっと深い意味をもっているのです。(略)一ばん右の数字は一の位を、右から二ばんめの数字は一0の位を表わすものと約束しているのです。」(矢野健太郎「数学物語」角川文庫)

(続く)

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♦️119の2『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(メッカ占領からのイスラム教)

2018-05-08 22:13:33 | Weblog

119の2『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(メッカ占領からのイスラム教)

 630年、ムハンマドは条約違反を理由にかれらを攻め、メッカを占領する。その時、彼は「カーバ」と呼ばれる立法形の囲いの周りに置かれていた偶像の目を弓の先で打った後に、撤去させ破壊させた逸話が残っている。いまでも、メッカへの信者の巡礼の最終局面では、そのカーバが人々の渦の中心にあることになっている。その教義によると、アッラーの他に神はなく、アッラーは神そのものなのだと。
 ムハンマドはアッラーの使徒であること、また他のものを神と同等に崇拝してはならないと偶像崇拝を禁じていて、「神の唯一性」が全面に押し出されている。その神の啓示は、かれが632年に死ぬまでの二十数年間続いたことになっている。
 ムハンマドの教えは、その後、『コーラン』にまとめられていった。その内容は、次にあるように、生活の細部にわたりきめ細かく、平易な文章となっている。
 「33【29】これ、信徒の者よ、お互い同士でくだらぬことに財産を浪費してはならぬぞ。協定の上で商売する場合は別として、またお互いに殺し合ってはならぬ。アッラーもこれほど汝らに対し慈悲深くおわすではないか。」(上巻)
 「34【30】万一、悪意をもって不当にもそのようなことをする者があれば、必ず我ら(アッラーの自称)が地獄の劫火で火あぶりの刑に処す。アッラーにとってはいとやすいこと。」(上巻)
 「35【31】汝ら、禁じられた大罪さえ避けるなら、些細な悪事はみんな赦して、(天国)に晴れがましく入れてやろうぞ。」(上巻)
 「36【32】アッラーが汝らの誰かに、ほかの人より沢山(財産)を授け給うたとて、それを羨んではならぬ。男も自分の稼ぎ高の中から分け前を戴き、女もやはり自分の稼ぎ高の中から分け前を戴くだけのこと。なにはともあれアッラーのお恵みをお願い申すことが第一。アッラーはどんなことでも全部御存知であるぞ。」(上巻)(以上、井筒俊彦訳「コーラン」(上・中・下)岩波文庫、1957、114~115ページより引用)

(続く)

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♦️119の2『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(イスラム教の台頭)

2018-05-08 22:12:01 | Weblog

119の2『自然と人間の歴史・世界篇』世界宗教(イスラム教の台頭)

 イスラム教の始祖ムハンマド・イブンは、570年頃、アラビア半島の町のメッカで豊かな交易商人の子として生まれる。当時のメッカは、南アラビアと地中海を結ぶ交易路の中継地として栄えていた。誕生前に父を亡くしており、幼くして母も失い、孤児として祖父や叔父に育てられる。
 25歳になった頃、富裕な未亡人ハディージャと結婚する。その後は、中年になる頃までは安定した普通の生活をしていた。そんな彼は、ある時から洞窟にこもって瞑想にふけるようになったという。40歳を過ぎた頃、彼はそこで神アッラーの使いの声を聴き、使命感に打ち震えたという。布教活動で、彼は大商人たちによる富の独占を批判し、メッカ社会のあり方を民衆を大事にする方向へと変革する道に歩み出す。そのため、彼と信徒への迫害は日増しに厳しいものになっていく。
 622年、ムハンマドは70余名の信徒とともにメッカの地を出て、メディナに移住し、た。以後、この地で死までの11年余りをイスラム教団の確立に専念した。メディナに彼を招いたのはアラブ人たちで、世俗の問題の調停にも長けていたムハンマドを部族間の内戦の調停者として迎えたことがある。当時のメディナにはユダヤ教徒もいて、ムハンマドを最後の預言者として認めなかった。このため、彼はしだいにユダヤ教徒と距離をとって独自の道を進んでいく。兎角、世の中はきれい事だけでは済まないものだ。彼と彼の信徒が生き延びてゆくためには、一つの勢力をなしていくことが必要であった。当時のアラブ遊牧社会でのその行動は平和的な態度だけではすまされなかった。隊商を襲って斬り殺し、金品を略奪することでその力を蓄えることも度々あった、といわれる。この点については、今日いろいろな立場からさまざまに批評されてきており、その真意について未だに定説というものはない。ここでは、さしあたり次の引用を掲げさせていただこう。
 「信徒らとともに故郷メッカを追われたムハンマドは、信徒らを食べさせる手段としてメッカの隊商を襲う決意をし、同郷人に刃を向けねばならなかった。苦渋の心境を救う意味でか、この啓示がムハンマドに下った。テロ奨励とは違う。問題になるのはジハード。「神のために奮闘努力する」が元来の意味。当初は教徒の義務とされ、征服戦争に向かったが、後世にまとまる教徒の義務「五行」からは外れた。11世紀後半以降になると、「ジハードは自我との戦い」と断言する神学者も現れ、大きな影響を与えた。イスラム圏は一般的には温厚な教徒の住む世界になった」(東大寺長老・森本公誠「」:「読売新聞」2015年2月20日付け、「一神教は不寛容なのか」より引用。
 同じく「アラブの民」であっても、偶像を崇拝するメッカのクライシュ族とは3度に渡り戦い、一時停戦に持ち込み、和議を結んだ。こうして、戦っては和議を行い、また戦っては勢力圏を徐々に広げるという構図で、彼の教団はこの地域の有力な政治勢力としても成長していく。文字通り、両手の各々に「コーラン」と剣(つるぎ)を以て布教地域を広めていったのであった(平凡社刊「イスラム辞典」などより)。
 イスラムの聖典とされる、『コーラン』の成り立ちは、キリスト教の『新約証書』によりも直接的なものとなっている。天に掲げられている書の板を、天使であるカブリエルがムハンマドに呼んで聞かせたもの、とされる。当時のアラブの民にアラビア語を読める者が少なかったことから、話し言葉になったと語られる。この天使がムハンマドに直接授けたということであるからして、彼無くしてアッラーの人々の生活への導きはないということであり、「コーラン」には「まことに、神は三者のうちの一人であるなどという人々はすでに背信者である。唯一なる神の他にはいかなる神もいない。(中略)
 マリヤの子(イエス)はただの使徒にすぎない。彼以前にも多くの使徒が出た。また、彼の母(マリヤ)は誠実な女であったにすぎない。二人とも、食物を食べていたのである。」(邦訳第五章73~75ページ)とあって、神とキリストと聖霊が同じ本質である(三位一体と言われる)とみなすキリスト教とは、一線を画している。
 とはいえ、キリスト教を敵視するものでもなく、そのことが窺える箇所として、「まことに我らがなんじに啓示したのは、ノアとそれ以後の預言者たちに啓示したのと同様である。われらはアブラハム、イシマエル、イサク、ヤコブと各氏族に、またイエス、ヨブ、ヨナ、アロン、そしてソロモンに啓示した。またダビデに詩編を与えた。(中略)
 モーセには神が親しく語りかけられた」(第四章163~164ページ)、「このコーランは神をさしおいてねつ造されるようなものでなく、それ以前に下されたものを確証するものであり、万有の主よりのまぎれもない経典をくわしく説明するものである。」(第十章37ページ)とあり、ここに紐解かれる後者の「それ以前に下されたもの」とは、かのキリスト教でキリスト以前と以後を著す『旧約聖書』と『新約聖書』の世界との繋がりを認めている。

(続く)

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