♦️243『自然と人間の歴史・世界篇』バロック音楽(バッハなど)

2018-02-27 23:52:56 | Weblog

243『自然と人間の歴史・世界篇』バロック音楽(バッハなど)

 バロック音楽の頂点は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)と
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)によってもたらされた。バッハについては、ドイツに生まれた。18歳のとき、アルンシュタットという田舎町の教会が再建され、新しいオルガンの鑑定にバッハが呼ばれる。その時の試奏が素晴らしかったのだろうか、彼は、その教会のオルガニストの地位を得る。
 22歳の頃、ミュールハウゼンというまちの教会のオルガニストが亡くなり後任者を探していたので、バッハは転職することができた。ところが、その翌年には突然辞表を出しました。辞表には「整った教会音楽」ができないことを主な理由としているものの、事の真相は、上司との関係がギクシャクしていたのだという。
 その後のバッハは、ワイマールの宮廷楽団に転職する。その頃には、鍵盤楽器の演奏家、特に即興演奏の大家としても知られていた。しかし、ワイマールでも、その正義感なりが、いろいろなもめ事をおこす。宮廷楽長の人事をめぐってバッハよりもはるかに能力の低い人が任命された時は、バッハは腹を立て、辞表を提出し公爵を怒らせてしまい、逮捕されて4週間の拘禁の刑を受けたという。それでも、彼のワイマール時代が8年間続く間に、彼は多くのオルガン曲を中心とした傑作を生みだした。最初の結婚もし、家庭的にも恵まれ充実の時を迎える。
 36歳から37歳にかけては、「G線上のアリア」の原曲がつくられる。これは、管弦樂組曲第3番二長調BWV1068の第2曲(エア( アリア))として書かれたものだが、バッハが亡くなって百年後に発掘され曲を演奏されることによって広く世の中に知られるようになった。ヴァイオリンの4本の弦の中で一番低い弦(G線)1本で弾けるようにアレンジされたことから、この「G線上」の名が付けられたのだという。また、1723年の礼拝に用いられた「主よ人の望みの喜びよ」は、教会カンタータ「心と口と行いと生活」の中で登場する曲にして、荘厳な雰囲気に聴衆を導く。
 1729年の44歳の時には、20年来の友人であるテレマンの創立した楽団の指揮者に迎えられる。そのテレマン(1681~1767)は、ハンブルクの楽長で指揮者、最も高名な作曲家でもあった。バッハの後妻のマグダレーナ(彼との結婚は1721年)が、この楽団が音楽好きな人びとと親密に結ばれていく様を、描いている。
 「この楽団は、毎週1度、彼の指揮で美しい音楽の演奏会を催しました。夏には、これは水曜の4時から6時まで、風車通りのツィンメルマン公園でやりました。冬には金曜の8時から10時まで、ツィンメルマンのカフェ・ハウスで催されました。大市の時には毎週2回火曜と金曜に演奏会を開きました。」(アンナ・マグダレーナ・バッハ著、山下肇訳「バッハの思い出」ダヴィット社、1967)
 その彼の丈夫な身体も、最晩年にはいうことをきかなくなっていく。仕事で書こうと思うときに、視力の衰えを訴えるのが頻繁になっていったらしく、マグダレーナの後日記にはこうある。
 「彼の肩に手をおきますと、「マグダレーナ、わしは眼の見えるかぎり、書かねばならんのだ」と彼は答えながら、細い眼をしばたたかせて、わたくしの方を見上げるのでした。自分では決して口にしなくても、盲になるということが、彼には死ぬより辛いのだということがよくわかりました。」(同)
 その音楽の大きなジャンルである教会声楽曲とは、主として神に捧げられた。これについて、後世の音楽史家の評価は、例えばこうある。
 「バッハは約300曲の教会カンタータ(うち200曲ほどして保存されていない)と、数曲の世俗カンタータを書いた。有名な<聖マタイによる受難曲>に加えて、かれは聖ヨハネ福音書による受難曲、4つの短かいミサ曲、偉大な<ロ短調ミサ>、マニフィカート、“モテット”と呼ばれるいくつかの合唱曲を書いた。かれはまた400曲に及ぶコラールに、4声体の和声をつけた。」

(続く)

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♦️72の2『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命の伝搬(電磁気学の基礎確立)

2018-02-26 08:23:33 | Weblog
72の2『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命の伝搬(電磁気学の基礎確立)

 1785年、シャルル・ド・クーロン(フランスの物理学者、1736~1806)は、電荷の間に働く力を測定し,電荷の間には電荷の強さの積とそれらの距離の2乗に反比例する力が働くことを発見した。これをクーロンの法則という。現在のクーロンの定義はアンペアに基づくものであって、1秒間に1アンペアの電流によって運ばれる電荷(電気量)を1クーロンという。このクーロンの考え方は遠隔作用といって,力は遠方に直接作用するというものであったのだが、カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855、ドイツの数学者、天文学者、物理学者)は、電荷の周囲の空間が徐々に変化して力が伝わるという近接作用の立場から、ガウスの法則として電荷と電場の関係の整理していく。
 それから、1799年にアレッサンドロ・ボルタ(イタリアの物理学者、1745~1827)は、電池なるものを発明した。これにより、電気は電流という形で取り出すことができるようになり、人間の手でコントロールできるものとなった。電気というものが、実生活に大きく、かつ日常的に役立ちうることがわかった訳だ。
 それから世紀が改まってからの1820年、ハンス・クリスティアン・エルステッド(1777~1851、デンマークの物理学者、化学者)は、電流が磁石に力を及ぼす、つまりこれは、電気と磁気の間に何か関係があると気づく。さらに1823年、アンドレ・マリ・アンペール(1775~1836、フランスの物理学者にして数学者)は、電流同士にも力が働くことを見つけ、そこから磁気の起源が電流にあると特定した。これをアンペールの法則と呼ぶ。
 1831年、マイケル・ファラデー(1791~1867)は、イギリスの化学者にして物理学者)は、磁気が変化すると電気が生まれる、言い換えると磁場の変化が電流をもたらすことを発見した。これを「ファラデーの電磁誘導の法則」と呼ぶ。この現象における磁界・導体の運動・起電力の方向は、フレミングの右手の法則という。これが、発電機の原理にほかならない。なお、発電するには導体(コイル)を動かす方法と磁界(磁石)を動かす方法とがあり、一般には磁界を動かす方法が多く使用されている。それに、ファラデーの電気分解の法則との混同のおそれのない場合は、単にファラデーの法則と呼称されることもある。
 この法則を安易にいうと、電磁誘導において、磁石をコイルに挿入した1つの回路に生じる誘導起電力の大きさはその回路を貫く磁界の変化の割合に比例するというもの。ただし、磁石がコイルの中に入れられたとしても、その磁石が静止したままだと磁場の変動がないことになって、電流は流れず誘導起電力は発生しない。
 ファラデーはそればかりではない、この現象を説明するために電気力線・磁力線と電場・磁場という新たな概念を導入した。空間には電場及び磁場が存在し、これらの変化が様々な現象を生み出すと主張したのだ。
 1835年にはガウスが、電気には電荷が存在する、言い換えると、電荷があると電場ができると発表する。1種類の電荷の力は放射状に直線的に広がることをいい、これを「電場に関するガウスの法則」という。彼はまた、電流は磁場を生み、その磁気の力はループ状(環状、同心円状)につながっているとした。これを「磁気に関するガウスの法則」という。ここに、磁場とは抽象的な概念にして、空間の各点もつ性質のことであり、その各点の磁場の方向を繋げたものを磁力線と呼ぶ。磁気にはNとSとが分離できるような磁荷は存在しない。
 そして迎えた1864年、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831~1879)が、以上の取りまとめ訳として、電磁気学の表舞台に登場してくる。彼は、スコットランドの貴族の家系に生まれ、イギリス内の大学で教授を務めた間、先達の研究成果を踏まえ電磁場の概念を物理学に導入し、光が電磁波の一種であることを理論的に予想したほか、 気体運動論では速度の分布という統計的概念を用いる。
 前者では、ガウスやアンペール、そして及びファラデイの業績などから、電気と磁気の性質を取りまとめを試みる。そして、これまでの法則を次の4つに整理し、発表した。
 その1として、電気には電荷が存在する、言い換えると、電荷があると電場ができる。1種類の電荷の力は放射状に直線的に広がることをいい、これは前に述べた「電場に関するガウスの法則」に当たる。
 その2として、電流は磁場を生み、その磁気の力はループ状(環状、同心円状)につながっている。これは、先に述べた「磁気に関するガウスの法則」に当たる。
 その3として、マクスウェルはこのアンペールの法則(前述)を一般化した。それによれば、あるところに電気が変化すると磁気が生まれる、言い換えると、電場の時間変化と電流が磁場を生み出すというのだ。
 その4として、磁気が変化すると電気が生まれる、言い換えると磁場の変化が電流をもたらすという、前に述べたファラデーの電磁誘導の法則を指している。
 これらの、つごう4つのマクスウェルの取りまとめた数式(マクスウェルの方程式)は、総体として、電気と磁気が一体となって伝わる電磁波という波が存在することを意味するととともに、1864年、彼はこの成果を基に光は電磁波の一種であることを予言する。
 ただし、ここでのマクスウェル自身は電磁気現象をエーテル媒質の力学的状態によるものと捉えていたようで、現代の考え方とはかなり異なっている。1888年、ヘルツが実験によりこれらを確かめ、電磁波が存在することが証明された。
 なお、今日「マクスウェル方程式」と呼ばれる一連の方程式は、彼自身が書いたものとは異なっており、後にヘルツやヘヴィサイドらによって整理されたバージョンとして語り継がれているものだ。

(続く)

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♦️288『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ベートーヴェン)

2018-02-21 07:49:32 | Weblog

288『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ベートーヴェン)

 ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)は、ドイツのボンで、音楽で身を立てる父と敬虔な信仰をもった母の下に生まれた。家庭は、裕福ではなく、どちらかといえば貧しかったようだ。幼少時から、父親にきびしいピアノの訓練を受けた。1782年には、ボンの宮廷礼拝堂のオルガン奏者の職を得る。その頃は覇気のある青年時代であったようで、同年の記念帳に「能うかぎり善を行ない、何にも優(まさ)りて不羈(ふき)を重んじ、たとえ王座の側にてもあれ絶えて真理を裏切らざれ」を記している。
 1793年にはウィーンに出て、ハイドンなどに師事してからは、しだいに作曲にいそしむようになっていく。音楽家として油が乗ってからは、古典音楽から近代音楽への狭間に位置した曲を次々発表するとともに、クラシック音楽の新たな展開をつくりだしていく。
「月光」は、1801年に作曲のピアノ曲にして、「悲愴」や「熱情」と合わせて彼の「3大ピアノソナタ」と称される。夜に入ってのことであろうか。冴え冴えとした月の光が観る者の眼にしみいるかのように感じられる。
 同じ年の夏、ベートーヴェンが、その自然の風景をこよなく愛していたウィーン郊外のハイリゲンシュタットで作曲したのが、交響曲6番の「田園」だという。その第1楽章「田舎に到着したときの晴れやかな気分」に始まり、第2楽章「小川のほとりの情景」では夏の平原でのほのぼのした、色でいえば若草色をしたような柔らかな感触を楽しんでいるかのよう。
 第3楽章「農夫達の楽しい集い」に入ると、彼らに出会って喝さいを送っている姿を連想させるものの、第4楽章で「雷雨、嵐」に遭う。稲光がしていたのであろうか、興味深い。しかし、悲惨さはない。そして第5楽章「牧人の歌−嵐のあとの喜ばしい感謝に満ちた気分」で満足のうちに締めくくられる。ベートーヴェンはこの曲について「単なる田園の情景の描写ではなく、感情を表現したもの」と語っているので、その後苦しいものに化していく彼の人生を想えば、この場面においては何かしらほっと一息つくことができるのではないか。
 1810年5月2日のヴェーゲラー宛手紙には、「おお、この人生は美しい。しかし僕の生活にはいつまでも苦い毒が交ぜられて(vergiftet)いる」とあって、自立した音楽家として生きて行くことの大変さが伝わってくる。痛々しいのは耳の病気であって、50歳代になると、ほとんど聞こえていなかったらしい。作家のロマン・ロランは、こう伝える。
 「ブラウン・フォン・ブラウンタールはその一年後に、あるビーヤ・ホールでベートーヴェンに出会ったが、そのときベートーヴェンは片隅に坐って長いパイプで煙草を喫いながら眼をつぶっていた。これは彼が死に近づくにつれて次第に募った彼の癖なのであった。一人の友が話しかけると彼は悲しげに微笑し、ポケットから小さな「会話のための手帳」を取り出した。そして、聾疾の人が出しがちな鋭い金切声を立てていった、彼に話したいことを手帳に書いてくれ、と。」(ロマン・ロラン著、片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」)
 驚くべきは、それでも彼は自分の運命に対し、怯まなかったことだ。1815年10月19日のエルデーディー伯夫人に充てた手紙の中では、「悩みをつき抜けて歓喜に到れ!」(Durch Leiden Freude)とあり、熱情がほとばしる。第九交響曲の初演の時には、詩人シラーの力づよい一節を合唱に織り込み、楽団の指揮をとったという。演奏が終わり、聴衆たちの歓喜する姿を呆然とした風で眺めて居たとも伝わる。そこに外界から直に伝わってくる音はなく、それはまさに彼自身の内的世界につくられていた。
 音楽界に於ける彼の業績については、例えばこう記されているところだ。
 「ベートーヴェンはきわだった個人主義者であった。隷属した常態から音楽と音楽家を自由にしたことでは、他のいかなる大家達もかれにに及ばない。ベートーヴェンは、かれ自身の深みのある精神と自由な表現を傾注することによって、古典主義時代の不自然な束縛や限界を打ち破った。ベートーヴェンの初期の音楽はハイドンの様式の上に立って、明らかに古典的である。かれの中期と後期の音楽は、ロマン主義による主観性、感情主義、自主性を示している。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

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♦️66の1『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(アテネ民主制からペロポネソス戦争前夜へ)

2018-02-17 19:16:26 | Weblog

66の1『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(アテネ民主制からペロポネソス戦争前夜へ)

 さらに時代が下っての紀元前508年には、最有力のポリスである国家アテネにおいて、古代の民主制が始まった。クレイステネスの改革と呼ばれるこの改革の主眼は、都市部から辺境にいたる、精々1万平方キロメートルを超えない地域に住んでいる市民の間の争いを根絶することにあった。そのために、彼は新しい意味での市民団をつくった。
 まずは、アッティカと呼ばれるアテネの領域を都市部、沿岸部、内陸部の3つに分けた。それまでのアテネは、イオニア系のポリスの通例として、市民団は4つの部族からなっていた。次いで、それぞれをさらに10ずつ、つごう30に細分した。そして、都市部、沿岸部、内陸部から、それぞれからそれぞれ一つずつの小部分(これをトリッテュス、つまり3分の1と呼ぶ)を選んで一組にした。こうすることによって、全部を10の組に編成替えした。すなわち彼は、この組をもって旧来の部族からの編成替えを行ったのである。
 紀元前750~480年、ポリスが地中海沿岸や黒海沿岸に活発な植民都市活動を行い、繁栄する。貨幣経済が発達し、ポリス全盛となる。成年男子に参政権が与えられ。海外に進出下ギリシア人たちは、地中海の各地でフェニキア人たちに出くわす。彼らとの交渉、軋轢を繰り返す中で、フェニキアの人々のアルファベットの仕組みを採り入れることで、ギリシア語のアルファベットの原型を確立していった。ギリシアは、ポリス(都市国家)の連合体であった。古代の民主社会とも言われるが、その社会の基本としての生産関係を規定していたのは奴隷制社会なのであった。
 そのギリシア社会の中で民主政の恩恵に浴していたのは、オイコス(家産)の家長とその家族、親族らであったろう。オイコス同士は基本的に平等で、互いに家産の運営に就き干渉しないことが尊重されていた。しかし、オイコスに共通する問題、例えば戦争の開始や他国家との協定の締結などについては、各単位毎に分散的に決定するのでは解決できない。それゆえ、これらの問題をどうするかは、各々の家長にして市民の資格を持った者らがアゴラ(広場)に集まって決める。
 アテネの場合、このアゴラには、会議場、裁判所、そして市場があった。会議場では、日常的に評議会(民会)が開かれる。これに参加する評議員は、市民の中から選ばれた500人が当たり、衆人が観ている前で議論し、最終的には投票で事を決着するという慣習が通用していた。評議員の任期は1年で、2年続けては就任できないだけでなく、一生に2度までしか務めることはできなかった。
 紀元前451年には、最有力のアテナイにおいて、政治家ペリクレス(495頃~429)が先導して市民権法がつくられる。これによって、アテナイ市民の要件は、父母ともにアテナイ人で、しかも正規の結婚によって誕生した男子であることに引き上げられる。
一説(オランダの歴史学者ブログが主唱)には、これによって「アテナイ市民全体が一つの仮想の血縁集団(ゲノス)とみなされるよう図った」(桜井万里子、木村凌二「集中講義!ギリシア・ローマ」ちくま新書、2017)のだという。市民は18歳で登録されて市民となり、その後の2年間に軍事教練を受けた後、公の世界である政治活動を行うことができていた。

(続く)

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♦️65『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(その成り立ちと発展)

2018-02-17 19:14:47 | Weblog

65『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(その成り立ちと発展)

 ギリシア(ギリシャ)文明、それはクレタ、ミケーネ、トロイア、ローマなどとともに西洋文明の源流の一つだと言えよう。そもそもの話は、エーゲ海沿岸からヘロポネソス半島、そして地中海に浮かぶクレタ島にかけての先史年代のギリシアの地に、人々が暮らしていた。そのことが示唆される年代としては、約2万5000年前の、後期旧石器時代にまで遡る。その頃は、今日の地質学でいうところの最終氷期の中であって、人々は狩猟中心の生活を営んでいた。
 それからまた大いなる時間が経過して、今から約1万3000年前頃からは、冷涼であった気候がだんだんに穏やかになってきた。9000年前頃になると、人々は弓矢に黒曜石製の鋭利な鏃(やじり)を使う新しい狩猟方法を開発するとともに、カヌーなどの交通手段を獲得し、これらを使って地中海世界へと行動範囲を広げつつあった。そして今から7000年前頃からの新石器時代の地層からは、小麦を主体とする農耕と、羊と山羊を飼育する牧畜とが確立され、土器の紋様もきめ細かさを増すなどの変化があった。
 紀元前3000年頃になると、エーゲ海の島々とギリシア本土で新石器時代から青銅器時代への移行があったが、紀元前2000年頃には終焉を迎えた。しかし、それと相前後して、今度はクレタ島で新たなる青銅器文化が隆盛しつつあった。これを発見したのが、英国人考古学者エヴァンスであって、20世紀初頭の発掘であり、「クレタ文明」と命名されている。そのクレタに見つかった宮殿跡の中でも、クノッソス宮殿は貯蔵庫を仕組んでいて、宗教的な権能の強い王権の下に、人々が活発な経済活動を行っていたことを示唆している。
 紀元前2000年頃、アカイア人がテッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住していった。かれらは、先住民のミノア文明を滅ぼし、ミケーネ文明を構成した。
彼らは地中海を主な舞台に活発な交易を行い、シチリアからトロイ、エジプトまで進出していた。紀元前1300年頃、「トロイア戦争」が起こった。その模様について記したものに、ホメロスが叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」(いずれも紀元前8世紀)がある。この戦いが史実であり、かつまたミケーネにかつて文明が栄えていたことを確信していたドイツ実業家シュリーマンが1872年に地下深くから宮殿跡や墓などを発掘し、この地に文明の実在したことが証明された。
 紀元前1100年頃、北方からドーリア人が南下してくる。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタ。先住民のアカイア人はアジアに逃れた。紀元前900年、ギリシア各地で多くの都市国家(ポリス)が興った。初めのうちは、君主制もあれば、少数貴族による寡頭制政治もある、といった政治形態が現れた。数ある都市国家の代表格として取り上げられるアテネでは、ペイシストラトス一族の独裁制が敷かれた。
 歴史家トゥキュディデスが「彼らは独裁者においても人を凌ぐものでありたいと日頃から努力を惜しまなかったし、アテネ市民から僅かな税を徴収するだけで、町のたたずまいを美しく飾り、立派に戦争をやってのけ、神々に対する捧げものも欠かさなかった」(「歴史」)と、やや好意的に評した。アテネの中心地にはアゴラ(広場)が設けられており、人びとが集まった。そこには祭壇があるばかりでなく、劇や運動競技が催されたり、アゴラには不可欠の施設である泉場も設けられており、市民に談笑や議論、憩いの場を提供した。

(続く)

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○334『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズム前夜の全国各地の様子(農村)

2018-02-17 10:21:36 | Weblog

334『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズム前夜の全国各地の様子(農村)

 昭和前期の社会主義者・猪俣津南雄(いのまたつなお)は、昭和恐慌・満州事変から日中戦争の間の1933年(昭和8年)1934年(昭和9年)にかけて、2府16県(北は青森から西は岡山まで)にわたり昭和恐慌下の農山漁村を踏査し、農村の数十カ所を取材した。その時の状況を『踏査報告窮乏の農村』(岩波文庫としての初版は、1934年)としてファシズムの迫る中世に問うた。
 そこに「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た〔子供〕を〔間引〕(カッコ部分は初版は伏せ字)した廉で、一小隊ほども法廷に立たされた」というくだりがある。
 併せて、この本には、次のような新生活への息吹を感じたことへの述懐も含まれる。彼は、そんな苦しい現状の報告にあっても、これら農村の生活に希望を見出すことを諦めていなかった。
 「これは私が今度の旅行で確認し得た極めて平凡で最も重要なことの一つだが、・・・・・彼らの最大関心は「文化生活」にある。彼らは、もっと人間らしい生活をしたいという欲求で一杯だ。私は、信州で、越後で、能登で、大阪で、東北各地で、それを確かめた。」
 明治に入ってからの間の小作地率の変化は、つぎの通り。1873年の農地に占める小作地の割合(小作地率)は27.4%、自作地の割合(自作地率)は72.6%。1883~84年の同比率は、それぞれ35.9%と64.1%。1892年のそれは、40.2%と59.8%。1903年は43.6%と56.4%。1912年になると、45.4%と54.6%。1922年には46.4%と53.6%。1932年になると、47.5%と52.5%で、猪俣が農村視察に入った頃の数字である。これまではほぼ一本調子で漸増してゆく。対英米戦争開始の年である1940年になると45.9%と54.1%となって、小作率が少し下がるのであった(『近代日本経済史要覧』)。
 このような高率の小作料がまかり通っていた理由については、諸説がある。その一つは、経済外的な強制を持ち出すもので、例えば、富塚良三氏によりこういわれる。
 「わが国における明治以来から戦前までの寄生地主制のもとでの高率現物小作料は、「諸関係の力」と法的規定によって強制される「生産物地代」の一つの変容形態であるとみることができよう。それが「半封建的」と規定されたのは、まさにこの理由による。半封建的な高率現物小作料と低賃金のうえに、したがって高い搾取率を武器として、高度な独占資本主義が急速に発展していったのである。」(富塚良三「経済原論」有斐閣、1976)

(続く)

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♦️226の1『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命(17~19世紀)

2018-02-17 09:33:31 | Weblog

226の1『自然と人間の歴史・世界篇』産業革命(18~19世紀)

 顧みて、産業資本は、産業革命の時まで確立されたことにはならない。その間に技術革新が徐々に全社会に浸透していく。紡績関係を拾えば、18世紀に入りイギリスはインドからの綿花を国内で加工して、外貨を稼ぐことになっていく。ジョン・ケイが飛び杼(ひ)を発明した。車の上にのせられた杼(ひ)が弾機で叩かれて経糸の間を駆け抜けるようになった。この飛杼(fly shuttle)は労働力節約のための工夫であった。おりからラダイト(機械打ちこわし)運動が烈しいときで、彼の個の発明は、機織り職人から恨みをかったという。1764年には、ハーグリーブスがジェニー紡績機を発明し、これで同時に複数の糸を紡ぐことができるようになる。1769年には、アークライトが水力紡績機を発明する。1779年にはクロンプトンがミュール紡績機を発明する。ミュール紡績機においては、水力紡績機の太い糸を細い者に切り替える。
 それからは織ることをかなりの程度自動化した。動力機関として、初めて蒸気機関の採用にも道をひらいていく。1793年、アメリカのホイットニーが、綿花から綿を自動的に分離する新手の綿繰り機械を発明した。

 蒸気機関そのものは、1712年にニューコメンが発明する。それは、炭鉱の地下水をくみ出すポンプとして使われ始める。ジェームズ・ワットは、それを改善する。続いて1804年、トレビシックが初めての蒸気機関車の作成にとりかかる。 

 1814年になると、スティーブンソンが出て、蒸気機関車をつくり、彼の開発したロコモーション号が1825年に、ロケット号が1830年にイギリスの国土を走ることになっていく。そしてこれらの技術革新が波及したことで、資本家はより多くの利益を獲得できるようになっていく。

 イギリスでの産業革命は、1688年の「名誉革命」(進歩的貴族などの議会勢力が国王の専制を奪い、議会制民主主義を打ち立てる)に遅れること1世紀余のことであった。その進行は、全国レベルでの資本蓄積の本格化を意味していた。資本の蓄積には、労働力が必要となる。それは、農村部での明層の分解から多くがもたらされる。また労働力の成果を労働者から限りなく搾り取ろうとする過程でもあった。フリードリヒ・エンゲルスによる『イギリスにおける労働者の状態』は、この時の模様を写し出している。
 1833年には、労働環境と労働者の健康を守という触れ込みで、工場法が制定される。旧くは14世紀から18世紀の中葉に至るまでの諸労働法令にみられるような初期資本主義期(重商主義段階を含む)の下では、炭鉱や繊維工場では児童労働が限りなく行われていた。それというのも、その頃は「最短労働時間を規定して労働日を強制的に延長せしめようとするものであり、資本の労働支配がいまだ確立されておらず、充分な譲与労働を吸収するには国家の権力の援助が必要であった」(富塚良三「経済原論」有斐閣、1976)という。
 それが、新たに制定された法令では一変する。9歳以下の少年労働の禁止、13歳未満の労働時間を週48時間まで、さらに18歳未満は週に69時間までに限ることが規定された。これに横たわる考えとしては、労働日を延長しようとする資本の止みがたい衝動、欲望に対し一定の枠をはめ、抑制し、もって社会全体の労働力の安定供給をを確保しようとするものであり、そこでの目安は労働力の標準的な再生産である。
 その後のイギリス工場法の成り行きについては、カール・マルクスの『資本論第一巻』において、当時の資本家の強欲が工場監督官(1855年10月31日の報告)により次の如くつぶさに語られているところだ。
 「すべての事情が同じならば、イギリスの製造事業者は外国の製造事業者に比べて、一定の時間内に、ずっと大量の仕事を生み出す。それはイギリスにおける毎週六十時間の労働日と、他国における七十二時間ないし八十時間の労働日の差異をなくすほどのものである。」(カール・マルクス『資本論』第一巻)
 そのイギリスでの産業革命の後追いを、一世紀余を経た明治の日本が遅ればせながら目指すのであった。繊維は、主として生糸の生産であったが、やがて紡績や織物での近代工業化が目指される。繊維工業の発展は、運輸の発達を促していく。鉄道面では、1872年(明治5年)、イギリスから直輸入された蒸気機関車が東京と新橋の間に敷かれた線路の上を走り始める。生糸生産地と横浜港を結ぶ鉄道も、政府の殖産興業政策の要の一つになっていく。

 

(続く)

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♦️195の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理学の発展(17~18世紀)

2018-02-10 09:04:13 | Weblog

195の2『自然と人間の歴史・世界篇』物理学の発展(17~18世紀)

 今日よく用いられる「エネルギー」とは、何であろうか。この言葉は、ギリシア語の「エネルゲイア」から派生したものながら、広く使われるようになるのは、ずっと後のことだ。イギリスの物理学者トマス・ヤング(1773~1829)が1807年に著したA Course of Lectures on Natural Philosophy(『自然哲学講義』)の中で提案した。従来使われていた「力」を意味するラテン語 vis の代わりとして、ギリシア語のenergeiaを持ってくる。これは、energos(エルゴス)に由来する合成語であって、en は前置詞で、ergon(エルゴン)は「仕事」を意味する。この二つの組み合わせにより、「物体内部に蓄えられた、仕事をすることのできる能力」という意味になる。
 さて、ヤングは、このエネルギーの概念を用いて、「ある物体のエネルギーの変化は、その物体に対して行われた力を加えたことによる仕事量に等しい」と述べるのだが、これを、Eをエネルギー、Wを仕事量として表すと、こうなる。
ΔE=ΔW
 物理学において、この仕事量は、加えた力Fと移動した距離Δ(デルタ)Dの積で与えられる。
ΔW=F×ΔD
 ところで、ある物体をある加速度によって加速させた時の仕事量は、どうなるか。求めるのは、質量がmの物体に対して行われた仕事量ΔWなのであり、ニュートンが発見した力の関係式を入れて、次式が導かれる。
ΔW=m×a×d
(ΔWは仕事量、mは質量、aは加速度、dは移動した距離)
ここで距離は速度かける時間で求められるから、次のように書き換えられる。
ΔW=m×a×V×t

(続く)

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♦️195の1『自然と人間の歴史・世界篇』数学の発展(17~18世紀)

2018-02-06 09:56:46 | Weblog

195の1『自然と人間の歴史・世界篇』物理学の発展(17~18世紀)

 微分法は、アイザック・ニュートン(1642~1727)とゴットフリート・ライプニッツ(1646~1716)が、1670年頃であったろうか、それぞれ独立に発見した。これに先行する17世紀初めから、カヴァリエリ(1598~1647)、トリチェルリ(1608~1647)、フェルマ(1601~1665)、バーロウ(1630~1677)といった碩学(せきがく)による研究もあったのだが、今日知られる形で世の中にデビューさせたのは、彼ら二人なのであった。
ライプニッツから始めると、彼はドイツのマインツ選帝侯やハノーヴァー選帝侯に仕え、政治や外交にも携わっていた。数学に限らず、哲学などの分野にも大いなる興味をもっていた。そのことを物語る、1714年7月のユゴニー氏宛の書簡から紹介しよう。
 「私の信ずるところでは、この宇宙は全て単純な実体すなわちモナド(Monades)、もしくはその集合体から成り立っている。
 この単純な実体は、人間や聖霊においては「精神(l'esprit)」と呼ばれ、動物においては「魂(l'ame)」と呼ばれているものである。どちらも表象 (la perception)(これは統一体の中における多の表出に他ならない)と欲求 (l'appetit) (これは一つの表象から他の表象へ向かう傾向に他ならない)とを持っている。
 欲求は動物にあっては「情動(passion)」と呼ばれ、表象が知性である者においては「意志(volonte)」と呼ばれる。単純な実体の中に、それ故また自然全体の中に、これ以外のものがあるとは考えることもできない。
 「(モナドの)集合体は「物体」と呼ばれるものである。物体において「受動的で、至る所で均質なもの」と考えられる部分が、「質料」もしくは「受動的な力」或いは「根源的抵抗力」と呼ばれる。(中略)かし、いかなる物体も、またその属性とされるものも、決して実体ではない。「しっかりした根拠を持つ現象」であるに過ぎない。あるいは、見る人によって異なるが互いに関係を持ち同一の根拠に由来する現象(例えば違う角度から眺めた同一の都市が違う外観を呈するように)の基礎であるに過ぎない。
 空間は、実体どころか、存在でもない。空間は、時間と同じように、秩序である。時間が一緒に存在していない物の間の秩序であるのと同じように、空間は同時に存在する物の間の秩序である。」(ゴットフリート・ライプニッツ『単子論』岩波文庫)
 これの最後にある「時間が一緒に存在していない物の間の秩序であるのと同じように、空間は同時に存在する物の間の秩序である」という部分は、彼が微分法の創始者でもあることを想起させているのかもしれない。時間と空間というものを同時的な「存在」と見なすことから、ものの発現形態そのものを切り取ろうとしたものであろうか、極めて興味深い表現ではある。そのライプニッツだが、微分法の発見は自分の方がニュートンより先だと何度も言っているきらいがあって、その経緯をみると、やや神経質、もう少し度量をもってこの種の問題に相対することはできなかったのであろうか。
 もう一方の微分法発見の主役としてのニュートンは、微分法を発見する際の苦労とも受け取れる、次の発言を残している。
 「漸減には何ら究極の比というものは存在しないという反論がなされるかもしれない。なぜならば、この比は、その量が0となる以前には究極のものではなく、またそれが0となれば何もなくなってしまうからである。(中略)
 しかし、答は容易である。というのは、、究極の速度という言葉の意味は、ブッタいがその場所にちょうど到着する瞬間、それ以前でもそれ以後でもなく、それがちょうど到着する瞬間において、物体が動くその速度のことだからである。同じように、漸減量のの究極の比というのは、それが0となる以前でもなければ以後でもなく、それがちょうど無くなるときの量の比のことだと理解されるべきである。
 同様にして、漸減量の最初の比というのは、それがちょうど始まるときののそれである。
速度には、それが運動の終わりにおいて達せられ、しかもそれを超えないようなある極限がある。それが究極の速度である。また、すべての量や比には、それが始まりまた終わるところの同様な極限がある。」(アイザック・ニュートン「プリンキピア」、1683年)

(続く)

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♦️687『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリス)

2018-02-05 19:51:10 | Weblog

687『自然と人間の歴史・世界篇』新保守主義(イギリス)

 イギリスのサッチャリズムについては、概ね次のような経緯がある。それまでのイギリスという連合国家を支配してきた独占資本家についても、どう生きて行くべきか、思い悩んだ時期であったのかもしれない。そこに彼らにとっての新しい指導者が現れる。1979年、保守党党首のサッチャーが下院選挙で、停滞している経済を活気づけるための政策を発表した。もちろん、彼女のバックには独占資本家の面々が控えていた。経済にうとい政治家の中でも、彼女の理解は早かった。
 そこで打ち出されたのが小さな政府、と大胆な規制緩和を中心に、大企業に有利な政治ほ推し進めることであった。労働組合に対しては、組合潰しに突っ走った。労働賃金は低下していく。財政立て直しのやり方も、大企業本位や富裕層に有利とした。法人税を下げ、高額所得税を引き下げる。後者についての解説例には、こうある。
 「ところで、労働市場の変化は、税制の変化と相俟って、所得分配にも変化を及ぼした。表3は、イギリスの世帯を所得獲得額(税込及び税引後)にしたがって上位、中の上、中、中の下、下位の五つの階層(それぞれ20%ずつ)に分け、各階層に分配された所得比率の変化を追ったものである。
 まず、税込所得の変化をみれば、第1および第2・五分位に対する所得配分比が1977年の14%から1988年には9%に減少するのに対して、第5・五分位(最富裕層)に対する比率は、43%から50%へと拡大していることがみてとれる。
 次に、税引き後の所得をみても、ある程度税制が所得配分の不平等を阻止したが、1988年には第1および第2・五分位を犠牲にした第5・五分位の所得配分比の上昇が看取できる。これは、1985年と1988年に税制改革が行われ、前述した最高税率が83%から40%へと引き下げられた結果を反映したものである。」(山本和人「サッチャー革命ー「小さな政府」はイギリスに何をもたらしたか」:社会主義協会「月刊社会主義」1995年6月号)
 大衆向けには、社会保障費、医療費、教育費などを削っていった。彼女のやり方は、「鉄の宰相」の異名のとおり、強引なやり方を躊躇しなかったことだ。保守党どころか、中間層の中にも「救世主来たれり」と熱狂する者が増していった。この潮に乗り、消費税の引き上げも行った結果、イギリスは「世界に冠たる福祉国家」の看板を下ろす。富裕層は、大いに喜んだことであろう。
 サッチャー内閣の産業政策は製造業の衰退をもたらすのだが、他方、金融資本家の要求に応えて、金融開放政策をとる。イギリス資本のこの選択は、危険をはらむものであったのだが、その負の部分は隠蔽されていく。1986年10月27日、イギリス証券取引所で「ビッグバン」と評される大胆な金融改革が行われた。その柱としては、(1)売買手数料の自由化、(2)株式売買のコンピュータ化、(3)取引所の会員権を通じて守られていた市場を銀行にも解放、(4)株式仲買人(ジョバー)とお客の注文をとるブローカーの一体化、(5)株式取引税を1.0%から0.5%に引き下げといった具合であった。
 これについての日本の金融筋による説明を少し付記しておこう。 
 「最後の、ビッグバンと呼ばれる自由化第3弾は、1986年のロンドン証券市場の大改革である。この改革は、①固定的な株式売買手数料の自由化、②「単一資格制度」の廃止、③これまで閉鎖的であった、外部資本による証券取引所会員権の取得条件の緩和、および④従来の取引所内の立会場が廃止されてスクリーン・ベースの株価自動気配システムのSEAQ(国内株式用)とSEAQインターナショナル(外国株式用)の導入が中心であった。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)
 その効果としては、同じ向きにより次の通り報じられている。
 「この改革によって四大クリアリング・バンクなどのイギリス預金銀行、マーチャントメバンク、日米欧などの大手金融機関がイギリスの主要な証券業者をその系列下に置き、ユニバーサル・バンキング化を急速に推し進めた。さらに、1987年の「ブラック・マンデー」以後の証券市場不振のなかで総合証券会社への変身を急いだマーチャントメバンクが挫折し、外国の大銀行等の系列化に入るなど、多国籍金融グループのコングロマリット化も発生している。これらの金融コングロマリット化が前述の金融機関「同質化」の流れの一つである。」。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)
 これにより国内の資金需給は次のように変化した。
 「1976~80年のイギリスの特異な点は、金融機関が資金不足になっていたことおよび海外借入れが大きかったことである。ところが、1985~88年になって事態は変化した。資金余剰の個人部門は一転して資金不足になり、反対に資金不足であった法人企業、海外、金融機関、好況の四部門は資金余剰ないし資金不足の縮小を示した。個人貯蓄を最も多く吸収したのは銀行と保険・年金と住宅金融組合であった。この貯蓄増加は証券市場における金融機関の比重を高めたが、そのなかでも機関投資家の証券保有の増加が顕著である。」(太陽神戸三井総合研究所「世界の金融自由化ー先進7か国・ユーロ市場の比較」東洋経済新報社、1991)」
 さらにイギリスの金融資本の出入りについては、伊東光晴氏がこう描いておられる。
 「同じようにロンドンは世界の投資銀行業務の中心になった。そこでイギリスの金融機関はプレイしていない。歴史を誇るマーチャント・バンクは資本力の差で姿を消し、大銀行ー例えばロイズ銀行は、はじめからこうしたリスクの多い分野には進出せず、ナットウェスト銀行はすでに手を引いており、バークレイ銀行は98年10月撤収を決定した。」(伊東光晴「「経済政策」はこれでよいか」岩波書店、1999)

(続く)

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♦️27の5『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争前)

2018-02-04 09:06:42 | Weblog
27の5『自然と人間の歴史・世界篇』ギリシア(ペロポネソス戦争前)

 ギリシア(ギリシャ)文明、それはクレタ、ミケーネ、トロイア、ローマなどとともに西洋文明の源流の一つだと言えよう。そもそもの話は、エーゲ海沿岸からヘロポネソス半島、そして地中海に浮かぶクレタ島にかけての先史年代のギリシアの地に、人々が暮らしていた。そのことが示唆される年代としては、約2万5000年前の、後期旧石器時代にまで遡る。その頃は、今日の地質学でいうところの最終氷期の中であって、人々は狩猟中心の生活を営んでいた。
 それからまた大いなる時間が経過して、今から約1万3000年前頃からは、冷涼であった気候がだんだんに穏やかになってきた。9000年前頃になると、人々は弓矢に黒曜石製の鋭利な鏃(やじり)を使う新しい狩猟方法を開発するとともに、カヌーなどの交通手段を獲得し、これらを使って地中海世界へと行動範囲を広げつつあった。そして今から7000年前頃からの新石器時代の地層からは、小麦を主体とする農耕と、羊と山羊を飼育する牧畜とが確立され、土器の紋様もきめ細かさを増すなどの変化があった。
 紀元前3000年頃になると、エーゲ海の島々とギリシア本土で新石器時代から青銅器時代への移行があったが、紀元前2000年頃には終焉を迎えた。しかし、それと相前後して、今度はクレタ島で新たなる青銅器文化が隆盛しつつあった。これを発見したのが、英国人考古学者エヴァンスであって、20世紀初頭の発掘であり、「クレタ文明」と命名されている。そのクレタに見つかった宮殿跡の中でも、クノッソス宮殿は貯蔵庫を仕組んでいて、宗教的な権能の強い王権の下に、人々が活発な経済活動を行っていたことを示唆している。
 紀元前2000年頃、アカイア人がテッサリア方面から南下してペロポネソス半島一帯に定住していった。かれらは、先住民のミノア文明を滅ぼし、ミケーネ文明を構成した。
彼らは地中海を主な舞台に活発な交易を行い、シチリアからトロイ、エジプトまで進出していた。紀元前1300年頃、「トロイア戦争」が起こった。その模様について記したものに、ホメロスが叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」(いずれも紀元前8世紀)がある。この戦いが史実であり、かつまたミケーネにかつて文明が栄えていたことを確信していたドイツ実業家シュリーマンが1872年に地下深くから宮殿跡や墓などを発掘し、この地に文明の実在したことが証明された。
 紀元前1100年頃、北方からドーリア人が南下してくる。ギリシア語のドリス方言を話し、代表的な都市はスパルタ。先住民のアカイア人はアジアに逃れた。紀元前900年、ギリシャ各地で多くの都市国家(ポリス)が興った。君主制もあれば、少数貴族による寡頭制政治、さらに最有力のポリスである国家アテネでは、民主制が始まった。
 紀元前750~480年、ポリスが地中海沿岸や黒海沿岸に活発な植民都市活動を行い、繁栄する。貨幣経済が発達し、ポリス全盛となる。成年男子に参政権が与えられ。海外に進出下ギリシア人たちは、地中海の各地でフェニキア人たちと出くわし、交渉、軋轢を繰り返す中で、フェニキアの人々のアルファベットの仕組みを採り入れることで、ギリシア語のアルファベットを確立していった。ギリシアは、ポリス(都市国家)の連合体であった。古代の民主社会とも言われるが、その社会の基本としての生産関係を規定していたのは奴隷制社会なのであった。
 そのギリシア社会の中で民主政の恩恵に浴していたのは、オイコス(家産)の家長とその家族、親族らであったろう。オイコス同士は基本的に平等で、互いに家産の運営に就き干渉しないことが尊重されていた。しかし、オイコスに共通する問題、例えば戦争の開始や他国家との協定の締結などについては、各単位毎に分散的に決定するのでは解決できない。それゆえ、これらの問題をどうするかは、各々の家長にして市民の資格を持った者らがアゴラ(広場)に集まって決める。
 アテネの場合、このアゴラには、会議場、裁判所、そして市場があった。会議場では、日常的に評議会(民会)が開かれる。これに参加する評議員は、市民の中から選ばれた500人が当たり、衆人が観ている前で議論し、最終的には投票で事を決着するという慣習が通用していた。評議員の任期は1年で、2年続けては就任できないだけでなく、一生に2度までしか務めることはできなかった。
 紀元前451年には、最有力のアテナイにおいて、政治家ペリクレス(495頃~429)が先導して市民権法がつくられる。これによって、アテナイ市民の要件は、父母ともにアテナイ人で、しかも正規の結婚によって誕生した男子であることに引き上げられる。
一説(オランダの歴史学者ブログが主唱)には、これによって「アテナイ市民全体が一つの仮想の血縁集団(ゲノス)とみなされるよう図った」(桜井万里子、木村凌二「集中講義!ギリシア・ローマ」ちくま新書、2017)のだという。市民は18歳で登録されて市民となり、その後の2年間に軍事教練を受けた後、公の世界である政治活動を行うことができていた。

(続く)

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