130の1*◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(建国など)

2018-12-09 18:57:52 | Weblog

130の1*◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(建国など)

 中国での北宋(ほくそう、中国読みはペイソン、960~1127)の建国は、戦いによるものではなかった。いわゆる「五大十六国」時代に属する後周(こうしゅう、中国読みでホウヂョウ、951~960)では、気鋭の君主・世宗が若くして病没した。あとを継いだのは、幼少の皇帝であったから、国の先行きが危ぶまれたという。

そんな中、殿前都点検(近衛軍長官)であった趙匡胤(ちょうきょういん)が、その皇帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて建国した。部下から絶大な信頼を得ていたことがあって、北からの遊牧民勢力による脅威などに抗するには、この人物しかいないということであったらしい。

その彼は太祖(976~997)となって、着々と国造りを進めていった。温厚かつ寛容な性格があって、国内はまとまっていく。そんな太祖が志半ばで急死した後、弟の趙匡義(ちょうこくぎ、後の太宗・趙光義)が跡を継いで、979年にようやく中国の統一を果たした。

かれの時代、地方軍閥の解体を進め、中央集権を進めていく。また、文治政治を進めていく。具大敵には、民政の安定と科挙制度の充実を図るのを急務としていたが、なかなかできなかったようである。
 1004年には、北方の遼が南下したが、真宗は遼に対して毎年財貨を贈ることで和睦した。具体的には、国境の現状維持と不戦、それに宋が遼を弟とすること、さらに宋から遼(りょう、中国読みでリャオ、907~1125)に対し毎年絹200万匹、銀10万両を送ることなどが約束された。これを「?淵の盟」(せんえんのめい)という。

1044年、西の西夏(せいか、中国読みでシーシア、1032~1227)が宋に対し、これも財貨を贈ることで和睦(わぼく)した。これを「慶暦の和約」(けいれきのわやく)と呼ぶ。以後、国政を整えるために、中央集権を目指すようになっていく。建国当初から、大商人・大地主の囲い込みや脱税そして役人の汚職が目立ってきていた。

 

(続く)

 

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129の3*◎『自然と人間の歴史・世界篇』唐の滅亡と五代十国

2018-12-09 18:56:53 | Weblog

129の3*◎『自然と人間の歴史・世界篇』唐の滅亡と五代十国

玄宗は、長い治世の後半には政治への意欲を失うにいたる。宰相の李林甫ついで楊貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、節度使の安禄山と対立し、755年、憤慨した安禄山(あんろくざん)は反乱を起こす。節度使は玄宗の時代に増加した官職で、辺境に駐留する藩師に軍事指揮権と一部の行政権を与える制度である。安禄山は、北方3州の節度使を兼ね大軍を握っていたことから、挙兵でたちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させ、自らは大燕皇帝と称するにいたる。
 都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡する。その途中で、反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は殺さる。力を落とした玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位する。その後は、諸侯やウイグル族の援軍を得て、863年に乱を平定する。この9年に及んだ内乱を「安史の乱」という。唐の国威はこの時大きく傷付いており、それからも前世が行われることなく、国勢はますます傾いていく。
 9世紀も半ばになると、官吏を巻き込んでの権力闘争や内乱が相次ぐようになる。874年には、黄巣による乱が起きる。これを「黄巣の乱」といい、全国に波及していく。黄巣は長安を陥落させると斉(せい)を建てるも、政務を執行できず、略奪を繰り返した挙句に長安から退出する。この時、黄巣の部下だった朱温は黄巣を見限り唐に帰参した。朱温は唐から名をもらい、朱全忠と名乗る。

この頃、唐の地理的領域は、首都・長安から比較的近い関東地域一帯にまで縮小していた。藩鎮からの税収も多くが滞って、もはや財政的に困難となりつつあった。河南地方の藩師(長官)に封じられた朱全忠は、唐の朝廷を本拠の開封に移し、王室の権威を巧みに自身の勢力拡大に利用していく。
 そして迎えた907年、朱全忠は弱気になっていた哀帝より禅譲を受け、新王朝の後梁(こうりょう、中国読みはホウリャン、907~923)をひらき、これで唐は滅亡する。しかし、唐の滅んだ時点で朱全忠の勢力は河南を中心に華北の半分を占めるに過ぎなかった。各地には節度使から自立した諸国が群雄割拠していた。

後梁は、これらを制圧する力を持っていない。中国を再統一する勢力がいないことになり、後梁(907)、後唐(923)、後晋(936)、後漢(947)、後周(951~960)が相次いで立つという、いわゆる「五代十国」時代(907~979)に入っていく。それまで東アジア文明をリードしていた力はなく、周辺の朝鮮、契丹(きったん)や日本など、開放的な要素を兼ね備えていた唐の文化の影響を受けた周辺の諸国は、以後、独自の発展を模索していくことになっていく。
 これらのうち後周は黄河流域後に拠っていたが、世宗の時代(954~959)になって軍隊の強化に努めた。そのかいあって、北方から進入した遼の軍をけちらす。南に転じては、

淮南の塩を手に入れ、また南唐など南方の諸国を攻略するなど積極果敢な勢力拡張を行っていく。


(続く)

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129の2*◎『自然と人間の歴史・世界篇』唐代の文化

2018-12-09 18:55:56 | Weblog

129の2*◎『自然と人間の歴史・世界篇』唐代の文化

 唐代の文化もまた、それまでの儒教の影響を大きく受けた。儒教が中央集権化の思想面での大きな梃子とされたのである。国定の五経の定本や注釈書が国家の肝いりで作られた。管理の登竜門である科挙が盛んになるにつれ、天下の士人はこぞってこれを学ぶ風潮が支配的となり、貴族や官吏など社会の指導階級の間に思想統一が促されていった。

 とはいえ、唐代においては、先行の六朝の全能時代をくくり抜けていることなどから、文化が儒教一色に偏していくことはなく、さらに西方からの人や物資の流入があったりで、閉鎖的な空気が支配的になることはなかった。

 

(続く)

 

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129の1*◎41の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』隋と唐

2018-12-09 18:55:05 | Weblog

129の1*41の1の1『自然と人間の歴史・世界篇』隋と唐

 581年、北朝・北周の外戚である楊堅が建国したのが、隋(ずい、中国読みでスイ)である。589年には、南朝の陳を滅ぼして中国を統一した。これにより、後漢の滅亡以来、約350年続いた魏晋南北朝の分裂時代を終わらせる。彼が即位して文帝となると、統治には、律令制を採用する。北魏の均田制、租庸調制、西魏の府兵制などを継承してのことである。

二代目の煬帝(ようだい)になると、土木工事に民衆を駆り出す。副都の洛陽の建設など土木工事に農民を徴発し、その生活を困窮させた。特に運河の開削には、途方もない人力と多額の資金を要した。そのことで、できたばかりの国家財政は逼迫していく。
 煬帝はまた、外征にも精を出す。遠征先は、朝鮮半島を本拠とする高句麗(こうくり)であった。朝鮮半島では三国時代が次第に統合に向かい、それらの中では高句麗が強大になりつつあった。その遠征は、612年に始まり、3度に及んだ高句麗遠征を行ったが、その遠征中に内乱が勃発して中止となる。

一方、北方では、隋からの圧迫で、モンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民が築いた国家の突厥(とっけつ、552~744)が東西に分裂し、東突厥は唐の支配下に入る(その後のことだが、682年、再び自立して第二帝国を築く。それからウイグルに滅ぼされるまで持ちこたえた。東突厥は独自の突厥文字を有したことで知られる。

この時代、ヨーロッパではフランク王国などのゲルマン民族の諸国の形成の時代であり、西アジアのアラビア半島にムハンマドが登場し、イスラム教が創始されていた。
 あれやこれやの強行に対する不満から民衆の反乱が起き、それの鎮圧に時間を費やしているうちに、隋の屋台骨は大きく揺らいでくる。

617年に武将であった李淵(りえん)が挙兵すると、長安に向かう。首都が反乱軍の手に落ちるのが濃厚になり、すでに諸侯に人望のなくなっていた煬帝はいち早く首都を落ち延び、自らが造らせた大運河で結ばれた南方の揚州(江都)に逃れる。しかし、その地で部下に殺され、隋は滅亡する。

その後の混乱を収拾したのは、李淵の勢力であった。11月には長安を占領する。618年5月、長安の李淵は隋の恭帝(煬帝の子)から禅譲された形をとり皇帝・高祖となり、唐(とう、中国読みはタン、618~907))を建国し、諸侯に号令するにいたる。翌年5月に15歳の前皇帝の恭帝を殺害したことで、隋は完全に滅亡する。
 その唐だが、当面は国内固めに時間を費やすことになっていく。内紛も抱える。高祖の後は彼の二男の李世民(りせいみん、698~649)が継ぐ。反乱軍は、事実上、かれが率いていた。建国の最大の功労者であった。競争者となっていた長男と弟を「玄武門の変」で倒し、高祖は仕方なく李世民を後継者にし、自らは引退を決め込む。新皇帝となった李世民こと太宗だが、頭脳明晰な上に類い稀な政治能力を持つ専制君主であったらしい。優秀な部下を身分を越えて抜擢するなど、「貞観の治」を主導していく。

そんな唐は、7世紀には最盛期を迎える。その地理的領域は、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、中央アジアや東南アジア、さらに北東アジア諸国をうかがうまでになっていた。そればかりではない。この頃までに、唐は、朝鮮半島や渤海、それに日本などに、政制や文化などの実に広い分野で多大な影響を与えている。
 太宗が働き過ぎのためか、志半ばで死ぬと息子が後を継いで高宗となる。その彼は凡庸であって、その死後の690年には高宗の妻が唐王朝は廃し、自分は武則天と号し、武周王朝を建てる。つまり、女帝になったのだ。

705年には、老齢になっていた武則天が失脚して唐王朝が復活するにいたる。その唐も、8世紀になると、色々と混乱や停滞が見えてくる。712年、李隆基が即位し、玄宗となる。彼の治世の前半は開元の治と謳われ、唐は絶頂期を迎える。しかし、前には下り坂がみえ始めていた。中央アジアにまで進出していたのだが、751年にアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いに敗れた。

 

(続く)

 

 

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130の4*◎『自然と人間の歴史・世界篇』金の滅亡、モンゴルの強大化と南宋の滅亡

2018-12-09 10:48:58 | Weblog

130の4*◎『自然と人間の歴史・世界篇』金の滅亡、モンゴルの強大化と南宋の滅亡

1233年には、草原に興ったモンゴル帝国が金の首都開封を陥落させ、南に逃げた金の最後の皇帝哀宗を南宋軍と協力して攻め、その翌年に金は滅びた。
 1235年、南宋軍は北上してかつての都洛陽・開封を回復したが、これはモンゴルとの和約違反であった。モンゴル軍との間でモンゴル・南宋戦争があり、長江流域を挟み一進一退を繰り返す。

しかし、クビライが襄陽を陥落させる頃には南宋は内部対立で崩壊に陥り、もはやモンゴル軍の敵ではなかった。そして迎えた1276年、モンゴル軍に臨安を占領され、南宋は滅亡した。その後、一部の皇族・官僚・軍人らが南に下って抵抗を続けるも、1279年に広州で元軍に攻撃され、南宋は完全に滅びた。

(続く)

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130の3*◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』金の南下と南宋

2018-12-09 10:48:19 | Weblog

130の3*◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』金の南下と南宋

 その頃の国境のことだ。1115年、満州から南下して来た女真族は金(きん、中国読みでジン、1115~1234)を建国していた。元々、遊牧民族が建てた。宋は金と共同で遼を攻撃する協定を結ぶ。これを「海上の盟」と呼ぶ。1121年、両国の軍は、遼を滅ぼした。その後の宋は、金と対峙する。金を牽制するため遼の残党との協力を画策しするにいたる。それで金の怒りを招き、1127、金の攻撃を受けて首都の開封が陥落した。皇帝欽宗らが北方へ拉致された、これを「靖康の変」と呼ぶ。開封を離れていた欽宗の弟趙構は、南遷して杭州で皇帝即位を宣言する。
 南宋(なんそう、中国読みはナンソン、1127~1279)は、即位した趙構は高宗となり、宋を名実ともに再興したいと考えた。はじめ岳飛(がくひ)らの活躍によって金に強固に抵抗する。だが、秦檜が宰相に就任すると主戦論を抑えて金と和平を結び、岳飛は殺される。

秦檜の死後に金の4代目、海陵王が侵攻を始めたものの、金の皇族の完顔雍(烏禄)が反乱を起こして海陵王は殺される。その完顔雍は金の世宗となり、宋と和平を結ぶ。

同年、南宋の高宗の養子の趙慎が即位して孝宗となった。孝宗の時代、宋と金の関係は安定し、平和が訪れた。孝宗は無駄な官吏の削減・当時乱発気味であった会子(紙幣)の引き締め・荒廃した農村の救済・江南経済の活性化など様々な改革に取り組んだ。なかなかの手腕で、南宋を戦乱の痛手から復興させた。
 1189年に孝宗が退位して上皇となり、趙惇が即位して光宗となると、歯車が狂い始める。1194年に孝宗が死ぬと重臣たちによって光宗は廃位させられ、反対派に対する大量弾圧が起こった。これを「慶元の党禁」と呼ぶ。 政治の実権を握った韓?冑らは、金がタタールなどの侵入に悩まされているのを好機として、北伐の軍を起こすが失敗する。1207年になると、金の要求で韓?冑を殺して送ることでその金と和睦するにいたる。

 

(続く)

 

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130の2*◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(神宗・王安石の改革)

2018-12-09 10:47:36 | Weblog

130の2*◎41の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』北宋(神宗・王安石の改革)

 六代目の皇帝の神宗は、野心家であるとともに、ち密な頭脳の持ち主であったらしい。これらを鎮める策をとることで、王権を強め、もって国を安定させたいと思った。鋭気のある王安石を登用して国政改革にあたらせた。
 王は神宗の政治顧問となり、制置三司条例司を設置して事に当たる。一連の政治は「王安石の新法」などと呼ばれ、方策は多岐に渡る。
 その1は、「青苗法」といって、春の植え付け時期に政府が資金を農民に貸し出し、秋の収穫期に利子を付けて返還させる貸付制度である。その2は、「均輸法」であろう。こちらは、農民の生産する物資を都に運ぶ際、その地で価の安いときに買い入れ、値の高いときに売ることを約させた。その3は、「募役法」とは、農民に労役免除の免役銭を納めさせ、それをもとに労役(差役)に従事するものを募集した。ある種の「失業対策事業」にもなったのではないか。

4つ目としての「市易法」は、政府が中小商人に資金を貸し付け、物を買わせ、値が上がったときに売り出させて、中小商人を保護するとともに物価の安定をさせようとした。ほかにもあって、その5としての「保甲法」は、その時々での傭兵をやめ、民兵による軍事力の編成を試みた。日頃はかれらを治安維持にあたらせ、農閑期には軍事教練を行う。6番目に「保馬法」というのもあって、保丁に対し、政府が馬を貸し与え、平時には農耕馬として飼育させ、戦時には軍馬として調達する仕組みであった。
 これらを、大まかに、農民や坑戸・畦戸などの保護と、大商人・大地主の抑制を目的とした施策の二つにまとめられる。一言でなぞらえるなら、「富国強兵」というところであろうか。したがって、人民にとっては、負担が軽くなる分と、それが重く厳しくなる分との両方があったであろう。

何よりも、富裕階層(士大夫)とその出身である官僚(旧法派)からの、激しい妨害を受ける。察するに、彼らには、このままでは既得権益を根こそぎとられる、との危機感も手伝ったことであろう。

概して、人びとはかれの志の高いことを評価せず、「天変畏(おそ)るるに足らず、祖宗法(のっ)とるに足らず、人言恤(うれ)うるに足らず」と非難したという。王安石とそのグループが粉骨砕身するも、改革の成果はなかなか上がらない。そのうちに、頼みの神宗が改革の志半ばで若死にする、また商人たちが貧民救済の政策の逆手をとって自らの利益を増やすなども台頭してくる。あれやこれやの行き詰まりのうちに、さしもの改革の勢いは弱まっていくのであった。

(続く)

 

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(152*)『自然と人間の歴史・日本篇』(室町の絵画、雪舟)

2018-12-09 09:34:08 | Weblog

(152*)『自然と人間の歴史・日本篇』(室町の絵画、雪舟)

 雪舟等楊(せっしゅう、雪舟等楊、1420?~1506?)の人生がどんなであったかは、実はあまりわかっていない。彼は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれた、というのが大方の見方だ。俗姓は小田氏といった。幼い頃、近くの宝福寺に入り、雑事をこなしていたのだろうか。さて、幼い頃の雪舟の有名な逸話がある。彼が絵ばかり好んで経を読もうとしないので、住職の春林周藤は彼を仏堂に縛りつけてしまった。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床に鼠を描いた。これを見つけた住職はいたく感心し、彼が絵を描くことを許した。(この話は、江戸時代に狩野永納が編纂した「本朝画史」(1693年刊)に載っているものの、定かではない)。

 それから10歳を幾らか過ぎた頃らしいが、京都の相国寺に移った。そこで、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、水墨画の画技を天章周文に学んだ。後に、守護大名大内氏の庇護の下で、中国の明に渡り水墨画の技法を学んだ。帰国後、豊後(大分市)においてアトリエを営み、山口の雲谷庵では画作に精を出す。また、日本各地を旅し、80代後半で没するまでの間、精力的に制作活動を行った。生涯の作品は、あまたある。「四季山水図」、「悪可断管図」、「山水長巻」、「天橋立図」など、傑作揃いだとされる。在来の水墨画にない、激しい筆致等により、安土桃山時代の画家に大きな影響を与えたことから、江戸時代の画家からは「画聖」とも呼ばれる。

 たしか2000年の国宝展で出品されていた「四季山水図」のうち「秋冬山水図」より「冬景」(室町時代、15世紀末~16世紀初)は全体が冷え冷えして見える。遠くに建物が一つ、あるきりだ。観るものの感情に訴えかける類ではないようだ。中央に崖のようなものが屹立していて、自然というものの厳しさを感じさせている。この絵を理解しようとする者の一人にして、作家はこの絵に、何を託したのであろうか。人生との絡みでいうと、何故かそこはかとない孤独、風雪のようなものを感じさせる逸品だ。

(続く)

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279の4*◎『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスによるアイルランドの併合

2018-12-07 22:39:46 | Weblog

279の4*◎『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスによるアイルランドの併合

 それは、1801年1月1日のことであった。この日を期してグレートブリテン王国がアイルランド島全土を併合し、グレートブリテン及びアイルランド連合王国(UK: United Kingdom of Great Britain and Ireland)を成立させた。これにより、それまで機能してきたダブリンのアイルランド議会(Irish Parliament)は解散させられる。

 これにより、アイルランドのイギリス国教会系議員はロンドンのイギリス議会に議席をつらねる傍ら、併合に反対のカトリック系議員はといえば議席を失うのであった。
 それからしばらくしての1803年7月、この出来たばかりの英領アイルランドで、先の決定をくつがえそうとするカトリック系大衆らの武装蜂起が起こるも、イギリス軍に鎮圧される。指導者のロバートエメット( 1778–1803)は捉えられの身となる。そして、同年9月には、彼は大逆罪で有罪判決を受け、処刑されてしまう。

(続く)

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「(21*20)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(元禄一揆・高倉騒動)

2018-12-07 22:01:50 | Weblog

『(21*20)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(元禄一揆・高倉騒動)

 1698年(元禄11年)の冬、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。

 ここで百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。
 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。
 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。

 具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。
 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。

   そして迎えた1698年12月13日(元禄11年11月12日)、百姓の代表格の東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代を含む藩の関係者に二一名の大庄屋の連盟にて「御断申上候御事」なる嘆願書を差し出し、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。

   その文面(書き下し文)は、次のような抑制のきいた、思慮深いものであった。

「一、  御国のうち御領分存知の外御高免、その上こなし実違(みちがい)、百姓共迷惑仕り候。此御下札の通に仰せ付けさせられ候得ば、百姓共残らず乞食に罷りなる候。御蔵入並あそばせられ下され候様、御願いあげられくださるべく候。御蔵入並に仰せ付けられ候とても、前々困窮仕り候百姓にて御座候へば、村の内五人三人絶人(たえにん)に罷り成り候者も御座候、然れども(以下、略)。」(原文は、長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆資料」第1巻、(株)図書刊行会、1978)、「津山市史」第4巻などに収録されている。

   なお、ここに「御下札」とあるのは、松平になっての年貢免状、「御蔵入金並」は幕天領なみ、さらに「絶人」とあるのは、年貢を差し出せなかった百姓が田畑を没収されるなどの処分を受け、大庄屋の差は差配外に追放されることをいい、その者のことを「本絶人」と呼んでいた。

 それから、これに関連してのことだが、前記解説によると、「後には、田畑家財を村方に差し出し、村まといとなったものを内絶人といい、自ら売払って離村した者を売絶人」(長光徳和編「備前・備中・美作百姓一揆資料」第1巻、(株)図書刊行会、1978)をいうとのこと。

 これはてごわいとみた藩は、一旦(いったん)、農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。

   そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年4月26日(元禄12年3月27日)、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束に向かう。なお、高倉村大庄屋の三郎右衛門については、弟2人に加え、「世倅平右衛門」に対しても死罪が申し渡された、「むごい」というしかない冷酷極まる仕置きであった。想えばこの時期、すでに同藩には、民をいたわる人物はいなかったものとみえる。

  彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。

 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。

これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。

(続く)

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279の5*◎『自然と人間の歴史・世界篇』トルストイの「戦争と平和」

2018-12-07 20:49:14 | Weblog

279の5*◎『自然と人間の歴史・世界篇』トルストイの「戦争と平和」

   まずは、略歴から記そう。レフ・トルストイ(1828~1910)は、モスクワ郊外の、伯爵家の四男として生まれた。幼くして両親を失い、親せきを頼る。1844年、広大な伯爵家の領地を相続する。1851年、コーカサス戦争の砲兵旅団に志願兵として従軍する。1852年に執筆した「幼年時代」が雑誌に載り、好評を博する。作品からは、ロシアの大地のにおいがしだしていた。1853年のクリミア戦争では、将校として従軍する。退役後、ヨーロッパを旅行する。

 1861年、農奴解放令があった。その前の1859年頃からのことだが、彼の領地内で、独自に農奴の待遇改善をおこなったほか、領地内に学校をつくり農民の子弟に教育の機会を与える試みあり。1864年の34歳の時、18歳のソフィアと結婚する。

  1884年には、家族と対立して家出したという、そうだとすれば、それぞれが高めあいながら、人が活きていくことはかんたんで容易ではないらしい。理想に生きるトルストイにとっては譲れぬ一線をキープしたかったのではないか。1904年の日露戦争で、非暴力を訴える。国家たるもの、それは彼にとっては概して有益なものでなくなっていたのかもしれない。あまり1910年には、再び家出を行い、鉄道を移動中に体が冷えて容体が悪化、駅長庁舎にて死去。大いなる旅路の果てにしては、彼自身もう少し時間がほしかったのではないだろうか。 

 その代表作のひとつとされる「戦争と平和」は、1865年から1869年にかけて雑誌『ロシア報知』に掲載され、大きな反響を呼び起こした。それは、ロシアの人々にとっては、ナポレオンの遠征軍との戦いがある中での、主人公ピエールの妻エレンの死、親友アンドレイ公爵の死、それに捕虜仲間のカタラーエフの死など。さらに、戦場での死ばかりではなく、ロシア民衆を始め様々な多くの死が描かれている。

 概して、帝政末期のロシア貴族を中心とした物語であったのだから、ロシアがかかわる歴史の一齣としての意味をもって受けとられたのではないだろうか。その長い「エピローグ」には、こうある。
「ピエール
「不幸だの、苦労だのと言いますが」
「もしも今、この瞬間に、捕虜になる前のままでいたいか、それともはじめからあれを全部もう一度やりたいか?と言われたとしますね。是非とも、もう一度捕虜と馬の肉をお願いしたいですよ。慣れた道から放り出されたら、何もかもおしまいだと僕たちは思う。ところが、そういうときには新しい、いいものがはじまるだけなんです。生命があるあいだは、幸福もあります。先にはたくさんの、たくさんのものがあります。これはあなたに言っているんですよ」
ナターシャ
「ええ、そうですわ」
「あたくし何ひとつ望みませんわ、ただ何もかもはじめからもう一度、あの体験ができさえすれば」
「そう、それにもう何もありませんし」
ピエール
「まちがいです、まちがいです」
「僕が生きていて、生きたいと思っているからといって、僕が悪いわけじゃない。あなただってそうです」(レフ・トルストイ作、藤沼貴訳『戦争と平和』第6巻、岩沼文庫)

 また、戦争の性格を問い、こう独白している。

 「戦争とはそもそも何だ? 軍事上の成功に必要なのは何だ? 軍人社会の精神とはいかなるものか? 戦争の目的は殺人だ。戦争の道具は間謀、裏切りとその奨励、地方の荒廃、軍隊維持のために行われる強奪窃盗、軍略と名づけられている欺瞞と虚言だ。また軍人階級の精神とは自由の欠乏すなわち軍紀、懶惰、無知、残忍、放埓、飲酒などだ。にもかかわらず、軍人は最高の階級としてすべての人に尊敬されているのだからね。(中略)

 明日になったら、人びとは互いに殺戮しあうために集まって幾万という人間を皆殺しにしたり、不具にしたりする。そうしてその後で、よくたくさんの人間を殺したといって(しかもその数をいっそう誇張するのだ)、感謝の祈祷」云々、と続く。

(続く)


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279の3*◎『自然と人間の歴史・世界篇』米英戦争(1812~1815)

2018-12-07 18:17:50 | Weblog

279の3*◎『自然と人間の歴史・世界篇』米英戦争(1812~1815)

 1812年から1815年にかけて、アメリカ合衆国とイギリスとが戦った。これを米英戦争と呼ぶ。この戦争は、1812年6月に、当時のアメリカ大統領ジェームズ・マディソンが先頭に立ち、議会で対イギリスの宣戦布告が可決されたことで始まった。

 アメリカ側の言い分としては、1806年からのナポレオン主導の「大陸封鎖令」への対抗措置として、イギリスがアメリカとフランスとの貿易を妨害しようと動いた。これに我慢がならないということで、通商の自由を銘打っての戦に発展する。アメリカには、ほかにカナダの領土獲得の野心があったため、カナダに分け入って戦うのであるが、海軍力に勝るイギリスに押さえ込まれてしまう。

 一方、イギリスにとっても、アメリカ新大陸でのナポレオンの影響力を削ぐのが大事で、アメリカと正面化から戦うのは得策ではないという空気があったようだ。また、白人の支配が北アメリカ大陸全体を覆いつつある現状に怒るインディアンたちは、イギリス軍に連帯してアメリカ軍と戦う。そして、多くのインディアンたちが殺されていった。結局、イギリスの優位が動かないまま、1814年には両国が講和にいたる。

 

(続く)

 

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248*◎80の2の3『自然と人間の歴史・世界篇』チャーチスト運動

2018-12-07 09:58:38 | Weblog

248*80の2の3『自然と人間の歴史・世界篇』チャーチスト運動

 チャーチスト運動というのは、1830年代から40年代にかけてのイギリスにおいて、成年男子に限った普通選挙権・無記名投票・議員財産資格の廃止・議員の有給制(歳費性)・毎年選挙・平等選挙区制などを掲げ、労働者階級らが中心となって進めた運動をいう。
 顧みれば、1720年には「主従法」がつくられ、それには団結禁止条項が設けられていた。1795年には、50人以上の集会の禁止令が出される。1799年には、労働者の団結そのもの、労働組合を禁じるものとしての「結社禁止法」(Combination Act)が制定された。1801年には、人身保護法も戦争中は停止されることとされる。
 それにもかかわらず、イギリスでは労働者・人民の民主主義運動が組織されていく。1811年から1816年ごろにかけて、労働者による工業用機械の打壊し(ラダイト)運動が行われた。この運動は、ノッティンガムの編み物工たちによって始められ、のちヨークシャーの羊毛工業労働者、ランカシャーの綿工業労働者などに波及していく。
 こうした労働者運動の展開に対し、政府は厳しい姿勢をとりつづける中にも、ある程度の妥協を余儀なくされていく。労働者の掲げる多面的な要求のうち、1819年に工場法の制定(女性と児童労働の制限)が実現される。そして1824年には、労働者弾圧法の名をほしいままにした結社禁止法が、ようやく廃止される。
 1830年代になると、労働者の闘いは組織的になりつつあった。当面の経済的要求のみならず、資本主義社会という世の中を、その仕組みを変えようとする運動の広がりが増していく。前述の6項目を掲げるにいたる。
 労働者たちはまず、選挙権を獲得して自分たちの意見を政治に反映したいと考えていた。しかし、1832年の第1回選挙法改正では労働者に参政権が与えられなかった。1833年には、工場法に監督官制度が盛り込まれた。
 1838年2月には、全ロンドン労働者協会の主催による大会が開催された。同年5月には、
ウィリアム・ラヴェットを委員長とする同の委員会が人民憲章を起草した。エンゲルスは、こう紹介している。

「その「六か条」は次のとおりである。

 「一、健全な常識をもち、前科のない全成年男子にたいする普通選挙権

二、毎年の議会改選

三、貧乏人も選出可能とするための議会歳費

四、ブルジョアジ―による買収脅迫を回避するための秘密投票による選挙

五、ひとしく、公平な代表権を確保するための平等な選挙区

六、土地所有で300ポンド・スターリングの収入がある者へのーもともと欺瞞的なー被選挙権の限定を廃止し、どの選挙人にも被選挙権をあたえること」(フリードリヒ・エンゲルス著、一條和生・杉山忠平訳「イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター」岩波文庫、下巻、1990)

 対する政府は、こうした運動の高揚に危機感を覚えたのであろうか、かかる運動を血眼になって取り締まる。1839年には約1000人の民衆が武装してニューポート市内を行進して入獄者の釈放を要求したという。これに対し、軍隊と警察とが発砲し、10名のチャーティストが死亡する。政府により武力反乱と見なされたこの事件以後、イギリスではチャーティストの大量逮捕・裁判が続くのであった。
 顧みるに、この運動には、およそ次の3つの流れがあった。第一のグループは、ロンドンの労働者のグループがつくった「ロンドン労働者協会」であって、ウィリアム・ラヴェットを指導者とする。熟練労働者が中心である。

 二つ目は、1837年に復活した「バーミンガム政治同盟」で、銀行家ながら急進的政治家でもあったトーマス・アトウッドを指導者とする。中産階級の利益を代表する。

 そして三つ目は、北部工業地帯の労働者グループで、下層階級の利益を代弁する。その指導者のオコンナーは要求実現のためには武力革命をも視野に入れることをも唱えていた。
 その後のチャーチスト運動だが、1848年からは内部対立や弾圧によって、しだいに衰えていく。1850年代には消滅に向かうのであった。
 この運動の総括については、この間に色々と書かれ、現在も議論が尽きないでいる。その一つには、こうある。
 「1839、42、48年の3回にわたって、チャーチストたちは厖大(ぼうだい)な請願書を議会に提出し、示威運動を展開したが、組織が不完全であったうえに、指導者間の分裂、運動を指導する共通の思想の欠如などのために、なんら目的を達することが出来なかった。しかし労働者階級に自力による闘争の可能性を教え、有産階級を反省させた点に彼等の運動の意義があった。なお「人民憲章」の諸要求は、議会の毎年改選を除いて、すべて19世紀後半から1918年までの間に実現された。」(米田治、東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説
」慶應義塾大学通信教育教材、1988)

(続く)

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279の2の2*◎『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1812~1815)

2018-12-06 21:55:01 | Weblog

279の2の2*◎『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1812~1815)

 いわゆる「ナポレオン戦争」の後半には、ヨーロッパのナショナリズムの運動の高揚もあって、ナポレオンの大陸支配はなかなかに進まなくなっていく。

まずは、いわずもがなの「ロシア遠征」があった。これが分水嶺となって、ヨーロッパにおけるナポレオンの覇権が崩れていく。

 そのきっかけとしては、1812年6月からのロシアへの侵攻には、数十万と号す兵力が投入される。はじめは、ロシアの大地をロシアの兵を蹴散らしながら破竹の勢いで進んだ。やがて9月には、モスクワを占領するに至る。ロシア軍は、退却して抵抗する。

おまけに、大火によってモスクワの市街地のかなりが焼かれるのだが、そろそろ厳しい冬が迫っていた。ところが、ナポレオンが退却を決意したのは、もう「冬将軍」がかなり近づいてからであって、しかもそれがもたついた。

フランス軍の撤収の途中では、満を侍していたロシア軍の追撃や農民などのゲリラに悩まされる。そのうち冬場に入り、兵たちは食料の欠乏や凍傷などに苦しむ。ナポレオンの軍は戦うどころではなくなっていく。一説には、10万人以上の死者が出たというのだが、ナポレオンは命からがらパリに戻った。

ナポレオンのフランスのこの敗北は、他のヨーロッパ諸国に大いなる力を与え、旧特権階級までもが息づくようになっていく。イギリス、ロシア、プロイセン、スウェーデンによる第6回の対仏大同盟が結成されると、彼らはフランスに対する攻勢を強めていく。

1813年には、ライプツィヒにおける諸国民戦争ではナポレオン軍が敗れて、フランス国境が突破される。翌年、バリが陥落となり、ここにいたってナポレオンの指揮下にいる将軍たちも離反するにいたる。そして迎えた1814年4月、ナポレオンは皇帝からの退位を余儀なくされる。

 

(続く)

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279の2の1*◎『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1799~1811)

2018-12-06 21:53:50 | Weblog

279の2の1*◎『自然と人間の歴史・世界篇』ナポレオン戦争(1799~1811)

 1806年、それまで中立を保っていたプロイセンが、イギリス、ロシアとともに4回目の対仏大同盟を形成する。ナポレオンの遠征軍は、プロイセン軍とロシア軍をそれぞれ破り、

1807年に両国と和議を結ぶ。その内容としては、プロイセンからエルベ川以西の地域とポーランドの一部がフランスに渡る。残った領土に駐留していたフランス軍が撤退するとき、賠償金を課せられたこともあった。また、ロシアは、フランスのイギリスに対する大陸封鎖の実をあげるべく協力を約束させられる。そのほかの封建諸侯も力で押さえつけられ、ねじ伏せられていくのであった。

 ナポレオンは、なんとか占領地で封建制を廃止する政策を進めていきたい。そのため、いわば「征服戦争」で来たのを転じて、「ナポレオン法典」の精神をこれらの諸国に植え付けようとする。

その際の彼の念頭にあったのは、そればかりではなかった。わけても、イギリスの大陸への影響力をそぐことにあった。なかんずく、大陸へのイギリスの工業製品の輸入を禁止するとともに、1806年に発布したベルリン勅令によりイギリス船の大陸への入港を制限し、続くミラノ勅令でこれを強めた。対するイギリスは、「逆封鎖」をもって、フランスおよびその同盟国に打撃を与える制作を進めた。イギリス製品を買って、農産物などを輸出していた大陸諸国の中には、ナポレオンの制作に対する不満が累積していく面があったといえよう。

 

(続く)

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