新◻️95『岡山の今昔』備前、備中及び美作の戦乱のあらまし(~戦国時代、領国支配をめぐって)

2022-03-11 08:23:38 | Weblog
新年95『岡山の今昔』備前、備中及び美作の戦乱のあらまし(~戦国時代、領国支配をめぐって)

 ここ高梁辺りにおいて最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。
 折しも、南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。
 ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。

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○折しも、備中では、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏など、めまぐるしく守護が交代していくた。
 1375年(永和元年)、渋川満頼が守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)には、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、明徳元年から川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下に入った模様だ。
 細川頼之は、1392年(明徳3年)、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、三郡は備中守護の統治下に置かれる。同年哲多郡は頼之の子頼元の支配となる。
 1393年(明徳4年)には、渋川満頼は守護を罷免され、守護には細川頼元の弟満之が補任される、以後、頼元の子孫が世襲していくものの、次第に勢力を失っていく。
 そうこうするうちにも、守護やその被官としての守護代、国人衆などは、荘園・公領を押領したりで、自己の所領化していく。備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が代表的だろう。国人衆なども含めることでは、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などが有名だ。

○郷土史家の小谷善守は、美作辺りの戦国時代の幕開けまでの経緯について、こう概略を記している。

 「岩屋城跡は、標高483メートル、久米町内の西部になる。ふもとの盆地は、町内の東部地区に比べ、広くはない。津山まで約15キロ、元禄4年(1691)の「作陽誌」は「岩屋城は、中北上村にある。ふもとから頂上まで8町余(約872メートル)。周囲は険しいが、上はやや広く平坦である。嘉吉元年(1441)に山名修理大夫教清が美作の守護となり、初めてここに築いた」と記しているが、この「作陽誌」をはじめ「久米町史」、寺坂五夫著の「美作古城史」、山岡矩雄久米町史編纂委員長の話を参考に岩屋城に少し触れていく。
 嘉吉元年(1441)、美作国守護職・赤松満祐は、将軍・足利義教を討って本拠の播州(兵庫県)へ引き揚げたが、山陰の山名持豊は、この赤松満佑を討ち、その功で一門の山名教清が美作守護職となった。教清は、この年に美作の本城として岩屋城を築いた。このころ、将軍・足利義政の後について、細川勝元が義政の弟を推し、山名持豊は義政の子・義尚を推して争いとなった。応仁の乱だが、岩屋城主だった山名教清の子・政清は京都へ上り、山名持豊の軍に加わった。播磨の赤松政則は、政清の留守に乗じて岩屋城を攻略し、文明5年(1477)、美作国守護職となって、大河原治久に岩屋城を守らせた。
 永正15年(1518)になり、赤松政村の将であった浦上村宗が主家の赤松に背き、永正17年(1520)になり、岩屋城を落として部将の中村則久に守らせた。」(小谷善守「出雲街道」第3巻、「出雲街道」刊行会、2000)


○1461年(寛正2年)の新見荘では、守護被官を務める安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生する。

○1461年(延徳3年)には、守護代の庄元資が細川氏に反旗を翻す。ひとまず、これは細川氏の勝利に終わるものの、以後、守護の勢力は衰え、有力国人勢力が台頭していく。

○1470年(文明2年)頃、美作は赤松氏の支配下となる。

○1467年(応仁元年)、京都で応仁の乱が勃発する。

○1470年(応仁4年)には、応仁の乱が大方収まる。すると、山名氏が美作の奪回に動く。

○1480年(文明12年)、山名氏が美作東部を奪回する。その山名氏は、赤松氏の内紛とに乗じる形で、翌年には美作全域を勢力下におく。ただし、山名氏は守護に任じられることはなかった。

○1486年(文明18年)、赤松氏は守護代浦上伯耆守口により美作の支配拠点である院庄を回復する。翌1487年(長享元年)には、美作全域を支配下におく。

○1488年(長享2年)には、山名軍が美作から退き、赤松軍が入って領国に組み込み、支配を始める。

○1477年に応仁の乱が終わってからは、室町幕府の権威はあらかた失墜していた(その時の九代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ)は足利義政の子。放蕩の末にか、1489年(延徳元年)に近江守護大名六角氏討伐の陣中で病死。)。
 その頃の備前、備中そして美作をふくめての次の記述たるや、そのことを生々しく、こう伝える。

 「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
 さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
 守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)


 これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。

○1518年(永正15年)頃から、赤松氏被官であった浦上氏が、美作に入ってくる。

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○浦上則宗は、政則と一時対立したものの、和解して山名勢を撃退し、政則の没後に起った領国内の紛乱も、則宗が政則の子義村を奉じて鎮圧する。 やがて、浦上氏は赤松氏から実権を奪い、勢力を拡大していく、その基盤をつくって浦上則宗は、1502年(文亀2年)備前国三石城(現在の備前市三石)で亡くなる。

○1519年(永正6年)、赤松政則の後を継いだ義村は、浦上氏の居城三石城を攻めるも、大敗を喫し、 1521年(大永元年)には、赤松義村は浦上村宗によって自害に追い込まれる。

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○1520年(永正17年)には、赤松氏の美作支配の拠点である岩屋城を攻撃し、城は数日で落城、浦上氏被官中村則久が入城する。赤松氏は、岩屋城奪回の兵を挙げ城を囲む。城将中村氏は奮戦する。浦上氏被官の宇喜多能家の援軍もあり、逆襲に転じ、赤松軍は敗走する。以後、浦上氏が美作国を支配する。

○1521年(大永元年)には、浦上氏の浦上村宗が、赤松氏の赤松義村を殺した、美作を支配する。

○1531年(享禄4年)には、浦上氏のあとを継いでいた浦上村宗は 細川氏に加勢して、摂津へ出兵し天王寺の合戦で討死する。 村宗の後は子の政宗が継いで、本拠を室山城に移す。しかし、政宗は弟の宗景と不和になり、宗景は政宗から独立する。

○1532年(天文元年)には、出雲の尼子氏が美作に侵攻し、数年の間に美作東部・中部を制圧する。

○1532年(享禄5年)に、浦上宗景は天神山に城を築く。その宗景は、播磨西部と備前で主家を圧倒する力を得て、守護代から戦国大名化していて、播磨西部と備前東部を支配するにいたる。

○1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。
 備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。

 この事件について、「備前軍記」には、こうある。

「としも明け永禄九年(1566)の春になりて、重ねて三村家親作州へ働き出、備前へも打入べきよし聞えければ、宇喜多安からず思ひ、何とぞ謀を以て三村を打取べしと工夫ありて、津高郡加茂に居住せし浪人侍に遠藤又次郎・同喜三郎という兄弟の者あり。(中略)
 三村家親此度は穂村の興禅寺を本陣として其辺に皆々軍兵ども陣取ける。常に其寺の便宜案內はよく知りたれば、敵陣の間を忍び入て兄弟申合せ鉄砲にてねらひ搏殺さんとぞ謀りける。二月五日の夜の事なれば月も入り、夜廻りの者に紛れて客殿の庭へ忍び入りうかゞへば、本堂の方に家親が声聞ゆれば、椽へ上り唾にて障子の紙を湿し押破り見れば、家人を集めて家親は仏壇の前に寄添て軍評定をせしと聞ゆ。

 又次郎かくし持たりし短き鉄砲に二ツ玉込たるにて是をうたんと、かの障子の破よりねらひけるに火縄立消して玉出でず。則鉄砲を引きその筒を椽の下へかくし置き、又夜廻りの番所へ行て篝火によって寒き夜のうさなど物語り、しづかにして羽織の裾を火の中へ入る。番人物焼け臭しといふ。喜三郎麁末にて某が羽織を焼たりとて、もみ消すふりにて其所をさりげなく立さり、小蔭にて其火を火縄にうつし付て又次郎に渡す。

 又次郎是をとりて又元の椽に上りてのぞき見れば、今度は家親はじめの仏壇にもたれかゝり眠り居たるを幸とて、ねらひ澄し搏たれば脳を打貫きぬと見ゆ。兄弟ども是をよく見極めて堂の後の藪に隠れてゐたるに、寺中大きに騒ぎけるが程なく静りぬ。」(「備前軍記」より)

○1536年(天文5年)には、尼子晴久の軍が備中に侵入し、1554年(天文23年)、晴久は名目上ではあったが備中守護に任じられる。

○1543年(天文12年)、守護の赤松晴政は、備前に侵攻し、浦上氏を攻めたが、宗景はこれを撃退する。

○1545年(天文13年)、尼子晴久は岩屋城・高田城を攻め、岩屋城主中村則治は尼子方になる。1549年(天分文17年)には、 高田城も尼子方に落ち、尼子氏は美作の大半を支配する。そしての1553年(天文21年)には、その尼子氏が美作守護に任じられる。

○1540年代に美作を制圧した尼子氏は、今度は、その勢いをもって備前侵攻をはかっていく。

○1545年(天文13年)での浦上氏の被官・宇喜多直家は、かかる尼子氏への対抗関係もあってか、吉井川河口に乙子城を築き居城とする。直家の祖父興家の代に没落していたのを、直家の代に再興したものである。
 その宇喜多氏は、乙子城から新庄城、亀山城へと拠点を移し、備前南部に勢力をもつようになる。以後、備前は東備の浦上氏、 西備の松田氏、南備の宇喜多氏の勢力が鼎立(ていりつ)する図式となる。

○1552年(天文21年)には、出雲(いずも)に拠点をおく尼子晴久(あまこはるひさ)が、美作の守護となる。

○1552年(天文21年)には、中山神社(現在の津山市一の宮にある)を本拠として土一揆があり、出雲を本拠とする尼子晴久が神社に侵入して焼き払う。それから程なくの1554年(天文23年)には、尼子に対して、大隅宮で土一揆が起きる。1558年(永禄元年)には、尼子晴久が、中山神社の本殿を再建する。

○1561年(永禄4年)には、宇喜多軍に浦上氏の浦上宗景か攻められ、浦上氏は滅亡する。

○1564年(永禄7年)には、浦上政宗が赤松政秀の襲撃に遭い討ち死にし、政宗の子の浦上誠宗が継ぐも、1567年(永禄10年には宗景が誠宗を暗殺し、浦上宗家の乗っ取る形となる。
 しかし、その浦上宗景も、1577年(天正5年)に家臣の宇喜多直家に居城の天神山城を攻められ、宗景は播磨に遁走をし、備前は宇喜多直家の手中に収める。ここに、天神山城は、浦上宗景一代で廃城となった訳だ。


○1566年(永禄9年)には、毛利氏が尼子氏を攻め滅ぼす。


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○家親亡き後を継いだ子の三村元親(みむらもとちか)は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。
 この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。
 この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。

○1568年、松田元輝の家臣にして津高郡徳倉城主の宇垣市郎兵衛(うがきいちろうびょうえ)の弟、宇垣与右衛門(うがきようえもん)が、宇喜多直家側に謀殺された。金川城周辺(現在の岡山市北区)で開かれた鹿狩りの際に、松田家臣宇垣与右衛門が「鹿と間違えた」という理由で宇喜多側の人間によって弓で射ち殺されたのだ。
 その時、さすがに家中から「宇喜多の手の者の仕業ではないか」という声が挙がるが、主君の元輝は、宇喜多との友好関係が乱れる事を恐れこれを黙認してしまう。この元輝の処置に激怒した宇垣市郎兵衛は、元輝に絶縁状を突きつけて出奔したという。この頃には、もはや元輝と家臣団との溝は決定的なものになっていく。


○1569年(永禄12年)には、毛利元就(もうりもとなり)が、総社宮(現在の津山市総社)の本殿を建てる。

○1570年(元亀元年)には、宇喜多方の花房職秀(はなるさもとひで)が、荒神山に城を築く。花房は、天台宗の極楽寺(現在の津山市小桁)をうち壊す。

○1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結ぶ。。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。
 あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。

○1576年(天正4年)には、三浦氏は毛利輝元によって滅ぼされ、高田城は毛利氏、篠向城(現在の真庭市三崎)は宇喜多氏の所領となる。

○この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、元親はついに城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で元親死んだことにより、備中松山城と三村氏の領地はついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。

○1578年(天正6年)には、宇喜多方の日蓮宗の宗徒たちが、浄土宗の誕生寺(現在の久米南町)を焼き討ちにする。

○1579年(天正7年)には、宇喜多方の美作の拠点たる、吉井川を隔てた南側の荒神山(こうじんやま)を拠点とする花房助兵衛職秀(はなふさすけのひょうえもとひで)の軍が、毛利方の神楽尾城を攻める。これについては、毛利氏配下の神楽尾城側が、この年織田方になった宇喜多氏に対し攻撃を仕掛ける計画であった。ところが、これが花房側の密偵に事前に察知されていたという。
 そこに夜襲を決行した神楽尾城側(かくらおじょうがわ、毛利方)は、待ち構えていた敵に敗北し、逆に今度は、荒神山城の伏兵からの攻撃により、神楽尾城が火を放たれてあえなく落城してしまう。

○1579年(天正7年)、宇喜多の軍が、大小寺城(現在の真庭市勝山)、篠向城(現在の真庭市久世)を攻略する。同年、宇喜多軍が、鷲山城(現在の柵原)、鷹巣城(現在の美作市)を攻略してから、後藤氏の本拠である三星城を攻め落とし、後藤勝基は自殺する。


○1579年(天正7年)には、毛利氏は織田氏と結んだ宇喜多氏と決裂する。そして、毛利が方の吉川元春が宇喜多の諸城を攻める。この時、大寺畑城、小寺畑城に籠もっていた宇喜多氏の家臣江原兵庫親次は、1580年(天正8年)には、城を明け渡して篠向城に移る。

○1580年(天正8年)には、宇喜多軍が、医王山城(現在の津山市吉見)を、また矢筈城(現在の津山市加茂)を攻めるも、両城はこれを防ぎ、宇喜多軍は撤退する。

○1580年の春頃からの医王山城(祝山城(いおうやまじょう)、現在の津山市吉見、因幡に通じる街道沿いにある)を巡る攻防では、毛利が方と宇喜多方が渡り合う。それというのも、「高田城(勝山町)が毛利の手に落ち、東の三星城が宇喜多の手に落ちると、中央部にあり山陰への道を押さえる」(津山市中学校社会科協議会・津山市学校教育研究所編「郷土津山ー中学校社会科(歴史)資料集」1981)といわれるこの城が、両陣営の最前線になっていく。
 はじめは枡形(ますがた)城主の福田盛雅(ふくだもりまさ)があずかっていたのを、毛利氏は湯原春綱(ゆはらはるつな)を送って籠城させた。それからは、双方にらみ合いの持久戦に入り、毛利の本拠からは励ましと奮戦への褒美の約束をする。かたや宇喜多側からは、味方になるよう誘われるうち、宇喜多側はやむなく攻撃をやめ、引きあげる。


○1581年(天正9年)には、毛利方の葛下城主・中村頼宗が、宇喜多方の岩谷城を夜襲し、落城させる。
 その実、彼らの後ろには、高田城(現在の真庭市勝山)を拠点にして、美作での勢力回復を狙う毛利氏がいた。
 その時の岩屋城は、宇喜多氏の一族・浜田家織が守っていたのだが、中村頼宗は、地侍の32名を連れ、夜陰に紛れて北の絶壁をよじ登り、城に火をかけたから、浜田方はたまらない。右往左往する間に、本丸へとなだれ込み、浜口家職を追いやり、岩屋城を奪取してしまう。この戦功により、毛利輝元は中村頼宗を美作・岩屋城主とする。


○1581年(天正9年)には、宇喜多方の篠向城も、毛利方に城を空け渡して退去する。

○1582年(天正10年)には、毛利輝元が、羽柴秀吉と和議を結び、その中で美作は宇喜多氏の領地とする。

○1583年(天正11年)には、これに美作の大方の武将が与しなかったことから、話は進まなくなる。毛利軍は、美作と備中から撤退する。

○1584年(天正12年)、宇喜多直家が、あくまで抗戦する竹山城(現在の美作市大原)の新免弥太郎を攻め、新免家を滅ぼす。これにて、美作の全域が宇喜多のもとなる。

○1584年(天正12年)には、毛利氏と羽柴氏との講和が成り、美作国は宇喜多氏の所領となると再び江原親次が城主となる。


(続く)

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🔷🔷21世紀への提言・安全保障命題に限定した「国際連合政府」(仮称)樹立へ向けて(2022.3.5、原素案、提案者は日本国在住の一世界市民、丸尾泰司)

2022-03-06 20:07:40 | Weblog
🔷21世紀への提言・安全保障命題に限定した「国際連合政府」(仮称)樹立へ向けて(2022.3.5、原素案、提案者は日本国在住の一世界市民、丸尾泰司)

【恒久平和を求める全世界の皆様へ、1世界市民からの提案は、現時点の推考段階においては、つぎのとおりです。どうかよろしくお願いいたします。】

 はじめまして、一世界市民として、皆様へ向けて訴えます。私たちの世界は、なぜこんなにも対立し、相争わなければならないのでしょうか。
 昨今の世界を総覧しますと、皆様ご存知の世界政府(かつてはアインシュタインやラッセルなどが提案)樹立を、いよいよ具体的に考える時が来ていると、確信いたします。
 では、どうしたらよいのでしょうか。さしあたり、国連を土台に、安全保障(核兵器管理、軍縮、国連軍(仮称)を含む)に限定した緩い国際連合政府(仮称)を樹立することでよいのです、この旨、是非ともご検討ください。
 そのためには、国連の改組が必要です。その中でも、この地球上に恒久平和を築くべく、安保理の常任理事国を、21世紀現在の世界に見あった形にて増やすべきだと思います。現在の構成では、もはや世界の民意を反映できないと思われるからです。
 これにつきましては、定数を減らすのではないので、現在の常任理事国におかれては、不利益は生じないと考えます。私案では、人口のとりわけ多いインド、アフリカ大陸から合議により持ち回りでよろしいのでどなたか一国、南アメリカ大陸からはブラジルが今の常任理事国メンバーに加わってくださると、上手くいくのではないかと思います。以上、主には、大陸観点と人口が多いということで、なんとか調整がつくのではないでしょうか。

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🔷(参考1)国際連合憲章の第5章安全保障理事会、第23条(構成)第1項

「安全保障理事会は、15の国際連合加盟国で構成する。中華民国(現在の中華人民共和国・筆者)、フランス、ソヴィエト社会主義共和国連邦(現在のロシア共和国・筆者)、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国は、安全保障理事会の常任理事国となる。」

(注)なお、国連憲章の全文(英文及び日本語訳)は、例えば、小田滋、石本保雄編修代表「解説・条約集」第10版、三省堂、2003)に収められている。


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🔷(参考2)「ラッセル・アインシュタイン宣言」(1955.7.9)


“IN the tragic situation which confronts humanity, we feel that scientists should assemble in conference to appraise the perils that have arisen as a result of the development of weapons of mass destruction, and to discuss a resolution in the spirit of the appended draft.

We are speaking on this occasion, not as members of this or that nation, continent, or creed, but as human beings, members of the species Man, whose continued existence is in doubt. The world is full of conflicts; and, overshadowing all minor conflicts, the titanic struggle between Communism and anti-Communism.

Almost everybody who is politically conscious has strong feelings about one or more of these issues; but we want you, if you can, to set aside such feelings and consider yourselves only as members of a biological species which has had a remarkable history, and whose disappearance none of us can desire.

We shall try to say no single word which should appeal to one group rather than to another. All, equally, are in peril, and, if the peril is understood, there is hope that they may collectively avert it.

We have to learn to think in a new way. We have to learn to ask ourselves, not what steps can be taken to give military victory to whatever group we prefer, for there no longer are such steps; the question we have to ask ourselves is: what steps can be taken to prevent a military contest of which the issue must be disastrous to all parties?

The general public, and even many men in positions of authority, have not realized what would be involved in a war with nuclear bombs. The general public still thinks in terms of the obliteration of cities. It is understood that the new bombs are more powerful than the old, and that, while one A-bomb could obliterate Hiroshima, one H-bomb could obliterate the largest cities, such as London, New York, and Moscow.

No doubt in an H-bomb war great cities would be obliterated. But this is one of the minor disasters that would have to be faced. If everybody in London, New York, and Moscow were exterminated, the world might, in the course of a few centuries, recover from the blow. But we now know, especially since the Bikini test, that nuclear bombs can gradually spread destruction over a very much wider area than had been supposed.

It is stated on very good authority that a bomb can now be manufactured which will be 2,500 times as powerful as that which destroyed Hiroshima. Such a bomb, if exploded near the ground or under water, sends radio-active particles into the upper air. They sink gradually and reach the surface of the earth in the form of a deadly dust or rain. It was this dust which infected the Japanese fishermen and their catch of fish. No one knows how widely such lethal radio-active particles might be diffused, but the best authorities are unanimous in saying that a war with H-bombs might possibly put an end to the human race. It is feared that if many H-bombs are used there will be universal death, sudden only for a minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration.

Many warnings have been uttered by eminent men of science and by authorities in military strategy. None of them will say that the worst results are certain. What they do say is that these results are possible, and no one can be sure that they will not be realized. We have not yet found that the views of experts on this question depend in any degree upon their politics or prejudices. They depend only, so far as our researches have revealed, upon the extent of the particular expert's knowledge. We have found that the men who know most are the most gloomy.

Here, then, is the problem which we present to you, stark and dreadful and inescapable: Shall we put an end to the human race; or shall mankind renounce war? People will not face this alternative because it is so difficult to abolish war.

The abolition of war will demand distasteful limitations of national sovereignty. But what perhaps impedes understanding of the situation more than anything else is that the term 'mankind' feels vague and abstract. People scarcely realize in imagination that the danger is to themselves and their children and their grandchildren, and not only to a dimly apprehended humanity. They can scarcely bring themselves to grasp that they, individually, and those whom they love are in imminent danger of perishing agonizingly. And so they hope that perhaps war may be allowed to continue provided modern weapons are prohibited.

This hope is illusory. Whatever agreements not to use H-bombs had been reached in time of peace, they would no longer be considered binding in time of war, and both sides would set to work to manufacture H-bombs as soon as war broke out, for, if one side manufactured the bombs and the other did not, the side that manufactured them would inevitably be victorious.

Although an agreement to renounce nuclear weapons as part of a general reduction of armaments would not afford an ultimate solution, it would serve certain important purposes. First, any agreement between East and West is to the good in so far as it tends to diminish tension. Second, the abolition of thermo-nuclear weapons, if each side believed that the other had carried it out sincerely, would lessen the fear of a sudden attack in the style of Pearl Harbour, which at present keeps both sides in a state of nervous apprehension. We should, therefore, welcome such an agreement though only as a first step.

Most of us are not neutral in feeling, but, as human beings, we have to remember that, if the issues between East and West are to be decided in any manner that can give any possible satisfaction to anybody, whether Communist or anti-Communist, whether Asian or European or American, whether White or Black, then these issues must not be decided by war. We should wish this to be understood, both in the East and in the West.

There lies before us, if we choose, continual progress in happiness, knowledge, and wisdom. Shall we, instead, choose death, because we cannot forget our quarrels? We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death.

Resolution:

WE invite this Congress, and through it the scientists of the world and the general public, to subscribe to the following resolution:
'In view of the fact that in any future world war nuclear weapons will certainly be employed, and that such weapons threaten the continued existence of mankind, we urge the governments of the world to realize, and to acknowledge publicly, that their purpose cannot be furthered by a world war, and we urge them, consequently, to find peaceful means for the settlement of all matters of dispute between them.'
Max Born
Percy W. Bridgman
Albert Einstein
Leopold Infeld
Frederic Joliot-Curie
Herman J. Muller
Linus Pauling
Cecil F. Powell
Joseph Rotblat
Bertrand Russell
Hideki Yukawa”

 この中、中段には、当年での核爆弾を使用することでの人類及び人類を育む地球環境に及ぼす影響を述べている節が含まれており、噛み締める意味で、再度お読みいただきたい。

“It is stated on very good authority that a bomb can now be manufactured which will be 2,500 times as powerful as that which destroyed Hiroshima. Such a bomb, if exploded near the ground or under water, sends radio-active particles into the upper air. They sink gradually and reach the surface of the earth in the form of a deadly dust or rain. It was this dust which infected the Japanese fishermen and their catch of fish. No one knows how widely such lethal radio-active particles might be diffused, but the best authorities are unanimous in saying that a war with H-bombs might possibly put an end to the human race. It is feared that if many H-bombs are used there will be universal death, sudden only for a minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration.”

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(参考3)拙ブログより

489『世界の歴史と世界市民』『E=mc2』(イー・イコール・エム・シー・ジジョウ)

 さて、アインシュタインの特殊相対性理論から導かれる一つに「質量とエネルギーの等価性」があり、式でいうと、 エネルギー(E)=質量(m)×光の速度(c)の2乗 、E=mc2(イコールm×c×c)というものだ。その発見以来、人類史上最も有名な法則名となる、
 参考までに、彼の論文(1905)中では、光速度をV、エネルギーをLとすると、当該部分「エネルギーLを放出すると、物体の質量はL/V2だけ減少する」との表現でこの式が表現されている。」(アインシュタイン「物理学と実在」)

 ちなみに、、この文章の中段部分の和訳としては、こうある。

 「物体の質量はそのエネルギー量の一つの尺度である。エネルギーがLエルグだけ変化すると,その質量はL/9×1020 グラムだけ変化することを意味する。」

 しかして、このアインシュタインの説は、1932(昭和7年)にイギリスの二人により確認された。ジョン・コッククロフトとアーネスト・ウォルトンは、実験物理学者だ。共同して、100kV(つまり、100万ボルト)の電圧まで作れる高電圧発生装置を電源として組み込み、加速器を製作したという。この装置は、彼らの名前をとって「コッククロフト・ウォルトン回路」と呼ばれる。
 なお、かかる功績により二人は、1951年(昭和26年)に、「人工的に加速した原子核粒子による原子核変換についての先駆的研究 」の名目にて、ノーベル物理学賞を受賞した。
 とはいえ、当時の技術では、粒子の加速は3Mev(=3×10^9ev(「ハット」記号を含む後半部分は10の9乗電子ボルトと読む))が限界だったらしい。
 そして彼らは、この加速器を使って、陽子の加速実験を行う。すなわち、リチウムの原子核に加速した陽子を衝突させたところ、2個のヘリウム原子核が生じたのだが、その合計質量は、元の陽子とリチウム原子核の質量の和に比べて、僅かに減少していて、その質量欠損分については、アインシュタインの式にいうところのエネルギーとして放出されていることが観測されたのだという。
 ところで、この関係式の意味するところをやや広くみるには、まずは、古典物理学の世界で、それぞれ互いに独立して論じられてきた「質量保存の法則」と「エネルギー保存の法則」とのつながりから、紐解いてみるべきだろう。
 最初の質量保存の法則は、1774年にラボアジエが発見した。ここでは、温暖化との関係で注目される反応からひろうと、炭素と酸素から二酸化炭素が生成する場合を化学式でいうと、C   +   O2   → CO2であって、それぞれ12g、32g、44g。この反応において、炭素12gと酸素32gを反応させると、二酸化炭素が44g生成する。これにおいては、反応前は炭全体の質量は44g、反応後は二酸化炭素が44gあるので全体の質量は44gであり、反応の前後で全体の質量は変わっていない。
 二つ目の反応として、エタンと酸素から二酸化炭素と水が生成する場合をとりあげよう。こちらの化学式は2C2H6   +   7O2   → 4CO2 + 6H2Oというもので、それぞれ60g、224g、176g、108gとなろう。反応の前後で284gとなっており、これまた全体の質量は同じだ。

 二つ目には、エネルギー保存の法則だが、こちらには、様々な局面があるだろう。そんな中から一つを例えるに、地表から20メートルの高さ(h)に身をおき、ある質量(m)のボールを静かに離す、簡単化のため、そのとき空気抵抗が無視できるとしよう。すると、そのボールが地表に到達する際の様子の目安としての速度(v)は、高さ20メートルの所と地表との間でエネルギー保存の法則が働く。式でいうと、1/2m02(m0はエムゼロ、2は二乗)+mgh=1/2mv2(2は二乗)+mg0(0はゼロ)となり、これを整理するとmgh=1/2mv2となることから、v=72km/毎時となろう。

 三つ目には、仕事量との関連で、この法則を当てはめてみよう。ここにジュール(英: joule、記号:J)というのは、仕事、熱量、電力量といったエネルギーの単位であって、発見者のジェームズ・プレスコット・ジュールに因む。
 具体的にいうと、「1 ジュールは標準重力加速度(9.80665 m/s²の重力)の中で約102 グラムの物を 1メートル持ち上げる仕事」と定義される。
 したがって、1メートル持ち上げるとは重力に対して「力の向きに動いた距離」、力の大きさとは上に持ち上げるので「重力(9.80665 m/s²)と物体の重さの積」となるだろう。
 しかして、1 ジュールは標準重力加速度の下でおよそ 102.0 グラムの物体を 1 メートル持ち上げる時の仕事に相当する。
 そういうことだから、今質量を1グラムに見立てて、先のアインシュタインの式に当てはめると、 光速c = 30万km/s = 3億m/s (メートル毎秒)、質量m = 1g = 0.001kg なので、
mc^2(c^2というのは、c×cをいう) = 0.001 × 3億 × 3億 = 90兆ジュール が導かれる訳だ。

 しかして、これら三つの事柄でいうのは、質量とエネルギーとは別次元のものと考えられているのであり、あくまでも「物質からエネルギーが生まれる」類いの話であったのたが、冒頭で紹介したような関係式が成立する世界では、この式を変形してm=E/c2ということなのだから、「質量とエネルギーとは等価」にして、この拡張した範囲での関係をありていにういうならば、まさに「エネルギーから物質が生まれる」という表現こそがふさわしい。
 しかして、かかる相対性理論から導かれる式により、両者が一つの法則「エネルギー・質量保存の法則」に統合されたことになるという。

(続く)
 
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(参考4)文責・丸尾
1、21世紀の戦争では、戦闘員のみならず非戦闘員も傷つき、命を失う。互いに住民・非戦闘員を盾に使うことも戦術上あり得る。
2、21世紀の戦争は、情報戦(情報の操作・撹乱・破壊など)を伴う。互いに自陣営に都合のよい「国際世論」を作って戦われる。
3、21世紀の戦争は、国家や民族といった、固有の属性の威信、優劣をかけて戦われる。
4、21世紀の戦争は、しばしば集団的自衛権の行使となる、その分、周辺拡大が避けられない。
5、21世紀の戦争は、エネルギー源の支配を巡っても戦われる。
6、21世紀の戦争は、経済戦争でもあって、互いに経済制裁を行うことにより、戦争全体を有利に運ぼうとする。
7、21世紀の戦争は、途中で止まらぬ限り、核戦争を誘発する危険を孕む。

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🔶730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシとジョージア

2022-03-06 18:54:43 | Weblog
730『自然と人間の歴史・世界篇』ベラルーシとジョージア

 ベラルーシ共和国(通称ベラルーシ)は、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。
 9~10世紀、この地にはポロツク公国が栄える。10~12世紀には、キエフ・ルーシ時代。13~14世紀においては、リトアニア大公国の構成地域となる。
 1569年には、ポーランドとリトアニア大公国の連合国家が成立する。1772~1795年、3度にわたるポーランド分割により、現在ベラルーシのほぼ全域、白ロシア東部がロシア領となる。
 1914年8月にに第一次世界大戦が勃発すると、現在のベラルーシ西部がドイツの占領下に置かれる。1918年3月には、ドイツの占領下で、ベラルーシ人民共和国が成立する。そのドイツが敗北すると、ドイツ軍撤退に伴い,当地の実権がボリシェヴィキに移行する。
 1919年1月には、白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国の成立となる。そして1921年3月、ポーランド・ソヴィエト戦争の結果成立したリガ条約により、白ロシアの東半分がソ連領,西半分がポーランド領となる。
 1922年12月には、ソ連邦の結成に参加する。1939年9月には、第二次世界大戦勃発。ソ連軍がポーランドに侵攻する。独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づき、ポーランド西半分を白ロシアに編入。
 1986年4月、隣国ウクライナでのチェルノブイリ原発事故により、この地にも放射能が降り注ぐ。そして、土地は汚染され、多大な被害を受ける。
 1991年9月には、「白ロシア・ソヴィエト社会主義共和国」より「ベラルーシ共和国」へ国名を変更する。おりしも、ソ連邦は、保守派によるクーデターが失敗し、彼らによって南京状態に陥っていたゴルバチョフ大統領の権威は大いに弱まっていく。
 そして迎えた1991年12月7、8日、ロシア、ウクライナとともに独立国家共同体創設協定を締結する。この日、ベラルーシにある原生林、そこに所在のヴィスクリの政府別荘にて、これらの3国が秘密裏に会合する。集まったのは、ロシア共和国大統領のエリツィン、ウクライナ大統領クラフチューク、ベラルーシ共和国最高会議議長シュンシュケヴィチの3首脳とその側近であった。彼らは、ロシアによるウクライナとベラルーシへの石油・天然ガスの供給について話合うのを持て向きに、実は主題はそれではなくて、ソ連邦を解体に追い込む相談なのであった。
 この会議では、エリツィンによる筋書きどおりでということか、8日には歴史的な文書に調印がなされる。俗に「ベロヴェージ協定」と呼ばれるこの協定は、二つのことをいう。第一に国際法と地政学的現実としてのソ連邦の存在は消滅した、第二にCIS(独立国家共同体)を構成すると。それまで12の共和国がソ連邦に残っていたのだが、この3か国を除く残りの9か国とソ連邦大統領のゴルバチョアはかやの外に置かれる。ソ連邦の憲法では、違法であっても、もはやどおってことはないと見くびられたのであろうか。ゴルバチョフにとっては、自分のあづかり知らないところでソ連邦の解体が決まってしまう。唖然としたのではないか。ソ連政府の存在基盤そのものが、これより崩壊へと向かう。
 1994年3月、ベラルーシ共和国憲法が制定となる。1994年には、第1回大統領選挙。アレクサンドル・ルカシェンコが当選する。1996年11月、憲法改正の国民投票で大統領権限の大幅強化が承認される。1999年12月、ベラルーシ・ロシア連合国家創設条約が成る。
    2001年には、ルカシェンコ大統領が2選となる。2004年10月には、またもや憲法改正の国民投票が実施され、大統領の3選禁止規定が削除される。これを受ける形で、2006年には、ルカシェンコ大統領が3選される。2010年には、ルカシェンコ大統領が4選をはたす。2015年には、ルカシェンコ大統領が5選され、事実上の独裁体制を続けている。

🔺🔺🔺

 ジョージア(2014年までは、グルジアと呼ばれていた。グルジア語での国名は「サカルトヴェロ」ながらも、その後は多くの国連加盟国が「ジョージア」の国名を用いている)の歴史を遠く辿るとしよう。紀元前には、西部にコルキス王国、東部にはイベリア(カルトリ)王国があった。後者は、キリスト教を採り入れる。その後、ササン朝ペルシア(ゾロアスター教)やアラブ(イスラム教)に征服される。
 975年には、バグラト朝ジョージアが成立、再びキリスト教文化が花開く。13世紀初頭には、南コーカサス全体まで領土を。しかし、そこにチンギスハーンやティムール、その後も、度重なる外敵の侵略で弱体化していく。
 16世紀には、オスマントルコやサファヴィー朝ペルシアに領土の一部を侵害される。19世紀にはロシアに併合され、ソ連に引き継がれる。そのソ連の成り立ち、いわゆるロシア社会主義革命に際しては、グルジア出身のスターリンが革命運動に参加した、そしてレーニン亡き後に政権中枢に上り詰め、第二次世界大戦後の1950年代半ばまでソ連に独裁政治を敷いたことで有名だ。
 そのソ連の崩壊により、1991年4月9日に独立宣言を発するも、その後の政局は上手く運ぶには至らない。1991年5月ガムサフルディア、初代大統領に当選する。1992年1月6日には、反ガムサフルディア派が大統領官邸占拠して、ガムサフルディア大統領はジョージアから脱出する。
 1992年2月には、国家評議会創設。シェヴァルナゼ元ソ連外相が帰国し、国家評議会議長に就任する。1995年11月シェヴァルナゼ大統領が就任、その後の2000年に再選される。
 2003年11月には、野党勢力が議会を占拠、シェヴァルナゼ大統領か辞任に追い込まれる、これを「バラ革命」と呼ぶ。
 2004年1月には、サーカシヴィリ大統領が就任、しかし、2007年11月反政府デモ隊と治安当局の衝突により多数の負傷者が出る。これを受け、政権側は非常事態令発令する。2008年1月に大統領選挙を繰り上げることで事態は収拾する。
 2008年1月には、サーカシヴィリ大統領が再選される。2008年8月には、ジョージア軍と南オセチア軍の軍事衝突にロシアが介入、これを「グルジア戦争」と呼ぶ。ロシアとしては、同胞を助けるとの大義名分を掲げ、南オセチア及びアブハジアの独立を一方的に承認する。
 2012年10月の議会選挙において、野党「ジョージアの夢」が勝利し、イヴァニシヴィリ首相率いる新政府が発足する。2013年10月には、大統領選挙が行われ、与党連合「ジョージアの夢」が立てたマルグヴェラシヴィリ候補が当選した。この後、2013年11月に首相と議会の権限を強化する憲法改正が発効したことで、実権が大統領から首相に移る、マルグヴェラシヴィリが大統領に就任する。
 2018年8月、アメリカは、「グルジア紛争」から10年目となるのを機会に、ジョージアの分離独立派を支援しているロシアに対し、ジョージアの親ロ派地域であるアブハジアと南オセチアから撤退するよう改めて要求するも、ロシア側はこれを無視。その辺り、ロシアとしては、「ルースキー・ミール」(ロシア語を話す人々が平和に暮らすこと)と標榜していることから、あのときは当然のことをしたまでだわという意思(ある種の世界観と目すいうべきか)があるものと見える。

(続く)

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🔶🔶ウクライナ報道は慎重に願う、中立・公正な姿勢を堅持されたい(2022.3.5)

2022-03-05 07:45:06 | Weblog
🔶🔶ウクライナ報道は慎重に願う、中立・公正な姿勢を堅持されたい(2022.3.5)

 私の購読している、今朝の新聞記事の第一面には、「ロシア軍、原発を砲撃」(朝日新聞)とあり、大層驚いた。というのは、昨夜の別の報道(テレビのBS・TBS、「報道1930」において、現地モスクワの同局責任者(もちろん、日本人)による説明が放映されていた。その人の取材によると、ロシア側は、こちらが、ザポリージャ原子力発電所を前から占有したものを、ウクライナ軍側から攻撃を受け、そのための「火災」なのだという。
 もしそうであるなら、この朝日のトップ記事は直ちに修正されるべきであろう。また、この関連でいうならば、昨日の別のテレビ報道中、これと同様な報道を受けて長崎の被爆者団体の責任者の一人とされる人物をも含めて、当該番組の総体として「人間のやることではない」旨とも受け取られかねない、ロシアへの非難を吐露していたようなのだが、いかがなものであろうか。
 そこで、筆者の感じ様としてあえてマスコミにもの申したいのは、報道する側は事実を伝えるべく最大限務めるとともに、その時点で不明なことはその旨断って報道して然るべきであろう。私がその立場なら、当然そう心がけるであろう。ましてや、今は情報戦争の最中にあるのであるから、無用な対立や憎しみを煽るような報道はやめてもらいたい。
 ついでながら、数日前の別の報道(複数の局など)では、「州庁舎の爆破」もロシア軍がやったことだと報じられていた。ところが、3月2日夜に放映のBS報道番組(BSフジ、プライムニュース)において、駐日ロシア大使は、本国からはウクライナ側からの砲弾が命中したのだと聞いている、との話であった。一体、私たちは、どちらの説明を信用すればよいのだろうか。
 これらでなにより気掛かりなのは、日本側の戦争報道に関し、コメンテーターや政治家などの言も含めて、今回は特に感情が先走りし過ぎているのではないだろうか(注)。

 (注)そういえば、以前にも何度かそういうことがあった。そのことを思い出させる一事としては、かのアメリカ軍によるイラク進攻が後に誤りであったとアメリカ自身が認めるに至った件につき、当時の小泉首相は、記者にマイクを向けられた際に、「そんなこと、私が知るわけない」(この発言はその時点でテレビで放映されていて、私も視聴しており、しっかりと確認した。そして、一国の首相にあるまじき軽率な発言で、日本国はアメリカにとって都合の悪いことはまるで口にしない、アメリカのいうことなら黙って地獄までついていくつもりかと、日本国民として同首相のレベルの低さに愕然としたことがある。)

 報道というのは、公器なのであるから、もう少し、いやもっともっと頭を冷やした報道なり論評なりしてほしいものだ。ましてや、相手を根拠もなしに一方的に非難するようなことでは、日本人の知能の程度は大したことはないと言われてしまう。



(続く)

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💗読者の皆様へ、「世界篇」の今後につきまして(2022.3.4、丸尾泰司)

2022-03-04 09:18:38 | Weblog
💗読者の皆様へ、「世界篇」の今後につきまして(2022.3.4、丸尾泰司)

 お元気ですか。いつも、本ブログをお読み頂いて、ありがとうございます。コロナ禍の中、なんとか続けております。
 今回は、「世界篇」の現状と今後の方向性につき、少しですが、お知らせしたいと思います(注)。

(注)なお、現時点での基本認識は、次のとおりです。すなわち、世界は今、21世紀に入り、政治・経済面を筆頭に多極化が進んでいます。そこで往々に言われているところでは、アメリカなどによる戦後(第二次世界大戦後)世界の寡頭支配(かとうしはい)は終わりを告げつつあり、この世界は今新時代に入りつつあるとのこと。
 ちなみに、ここにいる歴史学徒の一人としても、この歴史の大いなる、滔々たる流れに抗うのではなく、その論理・方向性(「歴史的・論理的」)を、現時点でのそれなりの認識として、基本的に受け入れざるを得ません。そうであるなら、世界人類はこの流れに乗りつつ新たな共存共栄のための活路を見いだしていく、その方角こそが、将来的な世界の連邦への移行という、心ある人類皆皆のかねてからの願い(その姿としては、現在の国際連合が昇格しての世界連合政府「仮称」とするのが妥当でしょう)への近道と考えるものです。

 既に項目数が1200項目に近づいていまして、今後も増えそうです。身近では、語句の訂正がまだ初歩的なのに、そんなに拡張していいのか、とアドバイスを頂戴しているところです。
 現在、ネットで閲覧できる、日本語で記された世界史関連のブログのうち、個人で相当数(数百単位~)の項目を表示しているのは、本ブログを含めて3つ位かと認識しているところです(間違えていたら、ご免なさい)。それらの中で、進捗度・完成度においてもっとも劣るのが、本ブログであると言わざるを得ません。
 本ブログの特徴としては、自然科学や文化面でもかなり項目数を伸ばしているところ、現代史を重点にしていること、各国・地域別、また個人紹介を設けていること、などです。
 今後とも、これらの方向性は基本的に保ちたいと考えていますが、前述のような読者のご不便を少しでも減らすべく、全項目について第1回目の語句修正、若干の追加などを施すことにしました。既に、その作業をとりあえず簡易的に行った結果を、🔶印(目立つようにと)を付して追加し始めているところです。それに伴い、本来なら旧作を削除しなければなりませんが、前述のとおりあまりに項目数が多いことから、当該作業はなかなか進んでいません。
 以上、細々ながら、小さな改善へ向けて少しずつ努めていくつもりですので、これからもご愛顧の程何とぞよろしくお願いいたします。(拝)

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🔶🔶アメリカと中国はウクライナ問題解決のために協調を(2022.3.2)

2022-03-02 09:03:43 | Weblog
アメリカと中国はウクライナ問題解決のために協調を(2022.3.2)

 アメリカと中国は、世界の誰もが認める超大国だとされるが、いま展開中のウクライナ問題の解決に向けて、可能なかぎり協調していくべきであろう。
 この問題は、これから1~2週間位が解決に向けての少ない機会・期間となるのではないかと感じている。これまでのところ、その動きは見えないものの、両国ともに、是非ともその平和への努力が見えるようにしてほしい。両国とも、どうか、その線で国際社会の先頭に立ってもらいたい。
 また、国連は、今こそ、かつてハマーショルド事務総長がコンゴ動乱の時見せたような平和のための行動を先導してもらいたい。そのための時間は、そう多くはないと思う。
 なぜなら、この二つの超大国は、人類史の行方に大いなる責任があろう。目下のアメリカについて気掛かりの一つは、伸長著しい中国に対抗心を隠さないことだ。しかしながら、いまや発展途上国から離陸しようとしている、その中国は、人口がより多く、技術革新もアメリカと同等以上になりつつある、と見受けられる。たしかに、世界第一の経済力ということでは、遠からず中国の方が上に来るのは自然の成り行きなのであろう。そこで、アメリカがこれまでの世界的地位を保ちたい、そうしたことには、それなりの理屈が伴うのかも知れぬが、もうそんな独占欲は捨てたらよいのではないか。中国も、その辺り大いに自重してもらいたい。
 繰り返しになるが、他ならぬ、このウクライナを舞台とした国際平和危機を克服し、人類のより良き未来を守り抜くべく、両者が協調すべきはともに行動することを強く望む。とりわけ、ロシアの今回の要求を全否定するばかりでは、そこからは解決に向けての何も産まれないと思う、このような戦争に勝者はいない。

(続く)

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🔶🔶ウクライナ問題の続き、対ロシア制裁など(2022.3.1)

2022-03-01 22:46:43 | Weblog
🔶ウクライナ問題の続き、対ロシア制裁など(2022.3.1)

 ウクライナへのロシアの進攻の経過については、この事変の勃発以来日々刻々ニュースで報じられているところだが、ようやくロシアとウクライナとが初めての交渉を行ったものの、両者ともそれまでの主張を繰り返した模様だ。これからも、行うことで散会したとのことだが、かのシリア内戦でも頻繁に交渉は行われている。現状では、話し合いの進展などはあまり期待できるものとは、なっていない。
 そこで頼みの一つは、国連だが、こちらは「いま直ぐ戦いをやめなければならない」(国連事務総長)とするものの、これまでのところ両者からの返事はないようだ。まさに、目にしたくない光景が伝わってきている。総会が開かれるらしいので、そちらに期待したい(その場では、アメリカはロシアを煽ることはするべきでない)。

 かたやロシアの姿勢については、かのアメリカの南北戦争時にリンカーンの採用した戦略構想「アナコンダ計画」(スコットによる)にも似て、首都キエフの経済封鎖が視野に入ってきているのではないか、そうであればまさに「大詰め」の展開へ向かって動いているのかと、心の憂いが深い。

 かたや西側(アメリカを含めて)のロシアに対する経済制裁は、国際送金網からロシアの特定の銀行を締め出すというのだが、ついにそこまでやったか、の感を拭えない(注)。さりながら、そのことによる経済効果は、当面は限られよう。その理由の最たるものとしては、やはりロシアは広大な領土かつ食糧、エネルギーも含めて耐久性を持った国家であるからだ。また、これまでのところ、ロシアの国論は大きくは分裂していない、と見た。

(注)なお、この制度(簡単にいうと、「SWIFT(国際銀行間通信協会)」の場をもって行うドル建て国際送金業務)からロシアを追い出し、もしくは縛りをかけたとしても(今回は後者の扱い、なぜなら、ヨーロッパはロシアからのエネルギー供給なくしては経済が立ち行かない)、アメリカとしては当面はよいとしても中・長期でみればリスクを抱えることになろう、その一つとしては、ロシアが中国の元(ユアン(続・注))で国際決済を行う路が考えられ、そうなるとロシアが大国であるだけに、ドルの国際決済通貨としての価値はそれだけ減じていくことになるかも知れない。いずれにしても、国際金融というのはアメリカにとってドル箱である訳で、第二次世界大戦後の金融覇権の継続なくしては、アメリカ経済は困る訳で、その段になれば、アメリカとしても何らかの妥協が必要になろう。

(続・注)CIPS(RMB Cross border Interbank Payment System:日本語でいうと「クロスボーダー人民元決済システム」、俗称としては、その頭文字をとって「シップス」 という。)

 したがって、このまま推移するならば、核兵器の恐怖云々も含めて、ウクライナ側はやがて交戦そして生命維持の限界期に直面することになりかねない。しかして、今夜の日本での報道・評論の中では、外部からNATOが軍を派遣して助けに行く可能性を指摘する向きもあった。しかし、そんなことをすればヨーロッパは一大大戦へ向かって歩むことなしとしない、このように多くの人々の命が直接的に関わっている時、不用意な発言は厳に慎むべきであろう。
 重ねて言いたいのは、両側とも頭を冷やして、今こそ双方が妥協して、事態を打開していくことであろう。日本では、一部に(マスコミでは、相当程度か)、この戦争を決着がつくまでやり尽くせばよいかのような雰囲気さえ感じられて、
「気は確かか」と言いたい。ついては、かつての戦争モードの日本を思い起こさせるかのような発言や行動に、私たち国民は決して振り回されてはなるまい。

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🔶1177『自然と人間の歴史・世界篇』地球温暖化問題をどうとらえるか(二酸化炭素による温暖化に疑問を呈する見解の紹介)

2022-03-01 09:12:11 | Weblog
1177『自然と人間の歴史・世界篇』地球温暖化問題をどうとらえるか(二酸化炭素による温暖化に疑問を呈する見解の紹介)

 2022年2月の只今、地球上を一見席巻しているかのように見受けられる地球温暖化論については、別の「地球事変」などの項目においても紹介した。
 そこでも慨嘆したように、この問題にはなかなかに理解が難しい論点(例えば、「次の氷河期が来る時期を分からなくさせている」)も導入されている。ついでにいうと、私のような経済学徒も、この問題をどう扱うかにつき、かなりの程度翻弄されてきた。まずは、次の赤祖父氏(地球物理学者)の提言から、引用したい。

 「ここで強調したいのは、気候学は基礎化学の地位を取り戻すべきだということである。それなくしては、この研究は関係のない団体に振り回され、正確な予測をすることができない。一方、環境団体は地球温暖化より目前に起きている環境破壊、汚染、過剰収穫、過剰森林伐採、無責任開発を監視する従来の目的のため努力すべきである。「国際環境破壊防止パネル」を設立すべきである。炭酸ガスばかりに注意が集中し、それよりはるかに重要な本来の目的への努力が薄れているのではないか。(中略)
 地球温暖化問題は贅沢者の問題であるとも言える。官僚にとって格好良い問題として、税金の無駄づかいをしてもらっては困る。世界最大の問題の一つは貧困である。裕福国と貧困国との差である。この問題を解決しない限りは世界は不安定である(テロの発生源でもある)。したがって貧困こそ世界人類にとって将来の最大問題ではないのか。なぜこの現存する重要問題より不確定な温暖化問題に集中しなければならないのか。裕福国と貧困国の差をできるだけ縮める努力こそ必要ではないか。」(赤祖父俊一(あかそふしゅんいち)「正しく知る地球温暖化ー誤った地球温暖化論に惑わされないために」誠文堂新光社、2008)

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 ここで、同著の立場を、一般に分かりやすい形で、ごく大まかに紹介すると、次のような論理になるのであろう。

(1)大気物理学者による物理学的考察と自然科学的考察との対決、前者が優位。この問題において後者の立場に立つと、「炭酸ガスの放出量が急速に増加し始めたのは、1946年頃であるので、この1800年代からの直線的気温上昇は自然変動であるという確固たる証拠の一つになる」と。
(2)コンピュータは人間からロジックを教えられ、計算しているに過ぎない。いうなれば、私たちは、IPCC(国際気候変動パネル)のコンピュータによる未来数値を見ている。
(3)「コンピュータを使う研究者に警告しておきたいことは、コンピュータにより次の4つの可能性があることである。(1)正しい仮定で観測結果が再現される。(2)誤った仮定で観測結果が再現される。(3)正しい仮定で誤った結果が得られる(コンピュータのプログラム・エラー)。(4)誤った仮定で誤った結論が得られる(当然である)。
(4)IPCCは、学術団体ではなく、運動団体である。「IPCCの考察が圧倒的に優位なのは、彼らの結論を一方的な情報によりセンセーショナルに報道するプロパガンダ・マシーンを背にしている、からである。」
(5)「自然変動を同定し、現在進行中の温暖化からそれを差し引くことによって、人間活動による炭酸ガスによる温暖化率を推定」。
(6)「自然変動に対抗しようとし、あわてて無駄金を使うのは馬鹿げている。」

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 ここで視点を変えて、赤祖父氏が人類史と気候との関わり具合について、論及した場面があり、歴史学の分野においても大いに参考にされてよいのではないだろうか、以下にそのさわりの部分を引用しておく。

 「二つの大氷河期の間の短い期間を「間氷河期」と呼び、だいたい数万年ほど続く。現在の間氷河期は約15000年前から始まり、気温は約10000年前にそのピークに達し、その後多くの変動はあったが、1400年頃~1800年頃まで気温は少しずつ低下を続けてきた。
 ここで言いたいのは、まず第一に、この間氷河期のために現在の文明が栄えているのである(シベリアから陸橋を渡って行われた原住民の北米大陸への移動も、この間氷河期の始まりに起きたということである)。大氷河期にはヨーロッパも北米の大部分も氷河に覆われていた。第二に現在の間氷河期における気温のピークは約10000年前であったことである。
 すなわち、現在より暖かい期間が数千年の間に何回もあったのである。現在気温が大体中世の温暖期の気温と同じであるとすると、現在の間氷河期中、現在の気温より激しく変化した。繰り返して強調するが、最も重要な事実は現在より暖かかった時期は何回もあったということである。すなわち、現在の気温が過去10000年の記録からは異常に高いと言うことはできない。
 IPCCは前の間氷河期を除いて現在の気温はかつてなかった異常現象としているが、それは誤りである。現在起きている温暖化によるとされる多くの現象がかつてなかった異常なものであったかどうかは、正確には知る由はない。しかし現在の気温が極めて異常であると印象づけるような表現が使われたことは遺憾である。」(前掲書)


(続く)

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🔶341『自然と人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易

2022-02-28 20:19:02 | Weblog
341『自然と人間の歴史・世界篇』15~19世紀の奴隷貿易

 15世紀から19世紀にかけては、西洋列強による、アフリカ人民を目当てにしての奴隷貿易が行われていた時代だ。
 まずは、奴隷貿易船の主なルートと、その先々での奴隷の獲得方法とは、およそつぎのようなものであったらしい。リバプール、ルーアン、ボルドー、リスボンなどから出向した「奴隷船」は、まずアフリカの西岸、南岸及び東岸のあたり、典型的には南岸のダホメ王国やベニン王国など沿岸の黒人国に、寄港する。そして、積んできた小火器、ガラス、綿布などとの交換で奴隷を手に入れていたのだという。
 もう少し詳しく述べよう。ポルトガルの奴隷船は通常、赤道以南のコンゴ川流域、現在のアンゴラやモザンビークなどのバントゥー系アフリカ人を捕らえたり、供給を受けたりして奴隷に仕立てる。そこには債務ゆえの奴隷もいたのかも知れないが、いたとしても多くはなかったろう。一説には、出港前にはキリスト教による奴隷としての洗礼を受けさせる。むろん、奴隷の意思や宗教ルーツなどは顧慮されない。いうなれば、彼らにとっては「精神の刻印」を押される大事であったのかもしれない。
 当時は、イギリスやフランス、それにオランダの奴隷船も沢山行き来していた。こちられは通常、ポルトガルより北にいた黒人たちを捕らえたり、供給を受けたりしていたという。そして、現在のセネガルからニジェール川の河口付近の港から新天地やヨーロッパへ向けて出航していたという。
 当時、こうした船が向かった先の新天地は、主に南北のアメリカ大陸である。具体的な行き先には、(1)スペイン領アメリカ、(2)ブラジル、(3)イギリス領北アメリカと建国後の「合衆国」、(4)イギリス領西インド諸島、(5)フランス領西インド諸島、(6)その他の西インド諸島などがある。
 その延べの人数は、諸説があって定かでない。奴隷貿易の期間を通じての数は、通説では、アフリカからアメリカ大陸に運んだ奴隷の総数は大ざっぱに1500万人とも2000万人ともいわれている。なお、1501~1867年までの大西洋奴隷貿易にかぎっていえば、1070万5850人の奴隷輸入数があったとの研究がある(歴史学研究会編「史料から考える世界史20講」岩波書店、2014)。
 彼らがどのようにして運ばれたのかについては、絵もかなり多く残っていて、その悲惨さをほとんど余すところなく、現代に伝えている。多くは、船底などの床に1人ずつ縛り付けられていた。ガキの掛かる船倉に手鎖などをされて隔離されていたことも、いわれる。
ともあれ、目指す港に到着するまでは、反乱を起こされたり、自殺防止の必要もあったのではないか。
 奴隷制の衰退から廃止にいたった過程については、幾つかの指摘がなされているところだ。例えば、米山俊直氏による指摘には、こうある。
 「300年のあいだに約5000人が奴隷としてアメリカに輸出された、ともいう。この非人道的な貿易に対する非難もしだいに強まったが実際にこの貿易が下火になるのは、19世紀ま中頃以降である。それは人道主義的な配慮によるというよりも、三角貿易がアメリカ合衆国の独立(1776)などによって以前ほど利益を上げなくなったことによるといえよう。ウィリアムズは、「アメリカの独立は、重商主義体制を破壊し、旧制度の信用を失墜せしめた」という。一方では産業革命が英国などヨーロッパ諸国の国内市場を変えてきていた。「資本主義者は、初め西インド奴隷制を奨励し、ついでそれを破壊するのに手をかした」ともいう。英国は1807年に奴隷制廃止宣言を公表、1833年大英帝国奴隷廃止法を制定。フランス、オランダ、アメリカも同様の措置をとり、1850年頃には残っていた密貿易もなくなって、名実ともに奴隷貿易はなくなった。
 しかし、この奴隷貿易によってヨーロッパ諸国は莫大な富を蓄積し、産業革命の発展の基礎をつくったが、アフリカ大陸は内部に奴隷狩りの戦闘、掠奪(りゃくだつ)による対立を生み、古い伝統的な制度は瓦解してしまった。」(米山俊直「アフリカ学への招待」NHKブックス、1986)
 これにあるように、19世紀に入ってからは西洋列強の中でも奴隷廃止を決めるのであるが、1850年代におけるリビングストン(リヴィングストン)の探検行においては、事はそう単純ではなかった。東アフリカのアラブ商人と中央アフリカの幾つかの部族が奴隷貿易を担っており、ポルトガル人をはじめとする白人が東アフリカやアンゴラなどの港を基地としてこれに介在し、利用していた。これを目の当たりにした彼は、「奴隷貿易の首領は、てての長官の許可を受けてしたことだと抗弁した。そんなことはわかっている。長官が知らずに、このような取引が行われるはずがないからだ」(アンヌ・ユゴン著、堀信行監修「アフリカ大陸探検史」創元社、1993でリビングストンの著作から引用)と背後に権力の存在があることを告発している。

(続く)

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🔶339『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い、1863以後)

2022-02-28 17:22:39 | Weblog
339『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦い、1863以後)

 1864年に入っての6月、逃亡奴隷取締法が廃止される。10月、ネヴァダ州が連邦に加入する。11月、リンカーン大統領が再選される。1865年の初めのリンカーンの第二期大統領就任演説には、こうある。

 「総人口の八分の一は黒人奴隷でありましたが、連邦全体に分布しておらず、連邦の南部にだけ存在していました。これらの奴隷をもとにして独特の強力な利害関係(黒人奴隷制度)が作られました。この利害関係がともかく戦争の原因であることはすべての人が知っていました。反乱者たちが戦争にうったえてまでも連邦を分裂させようとしたのは、この利害関係を強め永続させ拡張することが目的でした。しかし、他方連邦政府はそれが領地内に拡大するのを抑制しようとしたほかは何の権利も主張しませんでした。双方とも戦争がここまで大きくなり長期化するとは予測していませんでした。」(同)

 4月9日、グラント将軍に追われていた南部の主力、リー将軍の率いる軍隊が降伏する。4月14日、リンカーン大統領が暗殺され、翌日死亡したことから、副大統領のジョンソンが大統領に就任する。5月、アメリカ連邦(南部連邦)大統領デーヴィスが逮捕・拘禁される。5月26日、最後の南軍が降伏し、南北戦争が終結した。この戦争で死亡した将兵は、62万3千人に達していた。南部連合は4年目にして消滅することになった。残された課題は、南部11州をどのようにして連邦制に復帰させるかになっていく。12月、合衆国は憲法修正を行い、奴隷制廃止を規定した。
 1866年2月 フランス皇帝ナポレオン3世にメキシコからの撤退を要求する最後通牒を手渡す。4月、黒人の権利擁護をはかる公民権法が制定される。7月には、テネシー州が連邦に復帰する。1867年 3月、ネブラスカ州が連邦に加入する。1868年6月、アーカンソー州が連邦に復帰した。11月、共和党のグラントが第18代大統領に選出される。1869年5月には、大陸横断鉄道が完成する。12月、ワイオミング準州でアメリカ最初の婦人参政権法が制定される。
 1870年1月、ヴァージニア州が連邦に復帰する。2月23日、ミシシッピ州が連邦に復帰する。3月、憲法修正が批准され、白人と黒人の公民権の平等が規定される。7月、テキサス州、ジョージア州が相次いで連邦に復帰したことで、南部諸州の連邦復帰が完了した。1872年11月、グラント大統領が再選される。1873年9月、「1873~79年恐慌」が勃発する。「世界恐慌」ガアメリカにも押し寄せた形だ。ジェイ・クック商会が倒産するなどの激震が走り、南北戦争後から続いていた景気拡大が止まる。1875年1月30日、ハワイとの通商互恵条約締結される。1876年 8月には、コロラド州が連邦に加入する。
 ところで、前の南北戦争で奴隷制の廃止を訴えた北部が南部11州に勝利し、黒人に市民権が与えられたのであったが、彼らの前途は多難なものであった。1896年に最高裁が白人と黒人との隔離政策を容認すると、南部諸州では「ジム・クロウ制度」呼ばれる様々な黒人隔離策がまかり通るようになっていく。要するに、公共の場でも、黒人は白人と同じ場、同じ場所、同じ席にはいられないような差別的取り扱いが社会に広がっていった。こうしたアメリカ国民の生活全般に亘る激しい差別は1964年に導入される公民権法成立まで続いていく。

(続く)

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🔶338『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで、~1863)

2022-02-28 17:20:00 | Weblog
338『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争(ゲティスバーグの戦いまで、~1863)

 1849年2月にはカリフォルニアでゴールド・ラッシュ始まり、以後、ヨーロッパの大動乱を逃れた人々のアメリカへの移民も激増していく。1850年9月、カリフォルニア州が、自由州として連邦に加入を果たす。1851年2月、ボストンで逃亡奴隷取締法に反対する黒人運動が始まる。12月30日、現在のニュー・メキシコ州とアリゾナ州南部をメキシコより購入、メキシコとの国境が画定する。
 1854年 5月30日、カンザス・ネブラスカ法が成立し、新領地での南北両派の対立が煽られる。7月6日、共和党が正式に発足する。1856年5月、奴隷制支持派が反対派を殺害したりで、騒乱が続く。これを「流血のカンザス事件」という。1857年には、合衆国最高裁判所によりドレッド・スコット事件の判決が出される。発端は、この事件の名のミズーリ州の黒人奴隷が主人に連れられて、イリノイ州に来たことで、彼は晴れて自由の身となった。自由州及びミズーリ協定で奴隷制が禁じられた領地に居住することになったと主張した。ところが、同判決はこの主張を認めず、奴隷制支持派に力を与えた。トーニー判事による判決文には、こうある。

 「今や・・・・・奴隷に対する財産権は憲法において明確に容認されている。ふつうの商品や財産の物件と同様に奴隷の貿易をする権利も(憲法制定後)20年間はそれを欲するあらゆる州において合衆国市民に保証されていた。そして連邦政府は、奴隷が所有主から逃亡したならば、それ以後いつまでもそれを保護することを明確な言葉で約束している。」(大下尚一他編「メイラワーから包括的通商法まで、史料が語るアメリカ1584~1988」有斐閣、1989)
 1858年に入った5月、ミネソタ州が連邦に加入する。1859年2月、オレゴン州が連邦に加入する。10月16日、ジョン・ブラウンがヴァージニア州で奴隷解放を標榜してハーバーズ・フェリーを襲撃した。
 1860年11月の大統領選挙で、共和党のリンカーンが第16代大統領に当選し、翌年の3月に合衆国大統領に就任することに決まる。リンカールの勝利に、南部では衝撃が走った。12月には、サウス・カロライナ州が連邦脱退を決議する。1861年1月、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が相次いで連邦を脱退する。これらのうち「サロスカロライナ州連邦離脱理由の宣言」には、こうある。

 「きたる3月4日、この政党は政権を握ることになる。その政党は南部はすべての新しい公有地から閉め出されなくてはならないし、裁判所はもっと地域的偏向を強めるべきであり、奴隷制に対する戦いは合衆国全域でそれが死滅するまで戦われ続けられなければならないと宣言した。憲法による保障はもはや期待しえない。州の間の平等の権利は失われてしまうであろう。奴隷所有州はいまや自治権や自衛権を失うことになり連邦政府はそれらの州の敵となるであろう。地域的利害と敵意はますます深刻なものとなっていくであろう。和解への望みは、北部の世論が間違った宗教的信念に凝り固まって、大きな政治的錯誤におちいっていることによって虚しいものとなった。」(同)

 同年2月、連邦を脱退した南部7州がアメリカ連邦(南部連邦)を結成する。ジェファーソン・デーヴィスがアメリカ連邦(南部連邦)大統領に選出される。4月には、南北戦争が勃発する。これに先立ち、南部連合に加わったスウス・カロライナ州が州内にあった連邦側のサムター要塞を攻撃した。これに対し、リンカーン大統領は現地に救援軍を差し向け、これが引き金となって開戦に至った。当時の連邦・北部勢力の規模は、23州で人口は約2100万人であったのに比べ、南部連合内には白人が550万人と、かれらの支配下に置かれる黒人奴隷が約350万人いた。
 リンカーンは、開戦と同時に南部海岸線の封鎖を命令する。南部では、黒人奴隷を使っての綿花栽培のプランテーションが行われていた。プランテーションとは、奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向けた、単一の特産的農産物を大量に生産する農園経営のことをいう。南部産の綿花の主な輸出先は、イギリス、フランスなどの欧州向けであった。5月~6月、アーカンソー州、ノース・カロライナ州、テネシー州の4州が相次いで連邦を脱退する。1862年4月、コロンビア行政区で奴隷解放令が実施される。同年の8月22日付け、リンカーンのホレス・グリーリー宛て書簡には、奴隷制に対する彼の微妙な立場が吐露されている。

 「もし奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。また、もしもすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるものならば、私はそうするでしょう。また、もし奴隷の一部を自由にし、他は放置するすることで救えるならば、やはり私はそうするでしょう。私が奴隷制度や黒人種について何かをするとすれば、それは、そうすることがこの連邦を救うのに役立つと信じているからなのです。(中略)以上、公的な義務に対する私の見解に従って私の目的とするところを述べました。」(同)

 当時のリンカーンと政府の念頭にあったのは、この内戦に勝利して南部の連邦からの分離独立を阻止することであって、奴隷制の問題はこの主要目的を果たすために、そのかぎりにおいて考えられていたのである。
 1862年9月にイギリスが南部政府承認の気配を見せると、9月22日、合衆国大統領は軍総司令官の権限で、63年1月1日を期して、奴隷解放宣言を出し、占領地域の奴隷の身分を解放することを布告で明らかにする。それには、「1863年1月1日において、合衆国に対して反乱の状態にある州、もしくは州の一部が反乱状態にあると見なされる地域で例として所有されているすべての人びとはその日以後永久に自由を与えられる」とあった。そして迎えた1863年1月、リンカーンの主張が議会で通った形での奴隷解放宣言が発効する。これにより、イギリスなどによる南部政府の承認を阻んだ。ここに、戦争は、南部の分離独立阻止の戦いから、より広範なアメリカン・デモクラシーと社会変革のための戦いへと性格を変える事になる。高い理想を帯びるに至った北軍の進撃には、迫力が増していった。
 また、この頃の戦闘と直接に関係しないものながら、西部開拓と自営農民化に力を与えようとしたものに、合衆国公有地割譲の条件緩和があった。これより前、合衆国政府が管理する公有地を民間に払い下げる場合は、一区画が大きな面積で行われていたため、これを買うには富裕者や土地転売を目論む不動産業者に有利であった。そんな中、西部への移住者が増えるに従い、公有地をより小さい単位で払い下げてほしいとの要求が高まった。
 その流れは、「1841年先買権法」を経て次第に高まり、ついに1862年、5年間の現地居住と開墾耕作を条件に、160エーカー(1エーカーは約1224坪)分の公有地の無償付与することを定めた「1862年自営農地法」がつくられた。これにより、基本的には、「1863年1月1日以降、一区画として存在し、公有地の正式な分割法に合致し、測量の完了した土地であって、同人がすでに先買権の請求を行っているか、あるいは申請時において1エーカー1ドル25セントまたはそれ以下の価格で先買権の対象とされている4分の1セクション(160エーカー)またはそれ以下の面積の未占有の公有地、あるいはまた1エーカー2ドル50セントの価格で先買権の対象とされている80エーカーまたはそれ以下の未占有の公有地に入植する権利を認められる」(同)ことになった。
 そして迎えた1963年6月、ウェスト・ヴァージニア州が連邦に加入する。7月1~3日にはゲティスバーグで両軍が激突した。ミシシッピ川は、全域にわたって北部、すなわちアメリカ合衆国の支配下に入った。1863年11月19日、リンカーン大統領のゲティスバーグ演説(Gettysburg Address、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において)があった。その初めには、「4世代と7年前に私たちの祖先たちはこの大陸に、自由の理念から生まれ、全ての人が平等に創られているという命題に捧げられた一つの新しい国を生み出しました」と建国の往時を振り返りつつ、その結語では「人民の、人民による、人民のための政治」を共につくりだすことを訴えた。

(続く)

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🔶340『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

2022-02-28 17:16:51 | Weblog
340『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカ南北戦争当時の奴隷制

 はじめに、アメリカの南北戦争が開始された当時の奴隷制の実体について、大まかに掴んでいただきたい。1860年の国政調査の結果があって、それにはこうある。

 「1.サウスカロライナ州、自由人301,271人、奴隷402,541人、総人口703,812人、奴隷人口比率57.2%。
2.ミシシッピ州、自由人354,700人、奴隷436,696人、総人口791,396人、奴隷人口比率55.1%。
3.ルイジアナ州、自由人229,164人、奴隷435,132人、総人口964,296人、奴隷人口比率45.1%。
8.バージニア州、自由人1,105,192人、奴隷490,887人、総人口1,596,079人、奴隷人口比率30.7%。
9.テキサス州、自由人421,750人、奴隷180,682人、総人口602,432人、奴隷人口比率30.0%。
合計(15州)、自由人8,289,953人、奴隷3,950,343人、総人口12,240,296人、奴隷人口比率32.2%。
(出典:エドウィン・ハーグ・シャイマー「奴隷人口地図ーアメリカ合衆国南部諸州(Slave Population kf the Southern States of the US )」リトグラフ(66cm×84cm)、1889を紹介し引用しているのは、ジェリー・ブロットン著、斎藤公太他訳『新世界地図』河出書房新社、2015。なお、原データは“Census of 1860”。)

 このジェリー・ブロットンの著によれば、「南部諸州では平均して人口の30%以上が奴隷だった」とされる。

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 その後の経過についても、以下に簡単に触れておこう、南北戦争中の1863年1月には、緊急に奴隷解放宣言を出したものの、この時は当時の北軍の支配圏内にいる黒人奴隷を解放するものではなかった。前述のようにその文面は「1863年1月1日に、合衆国に対し謀反(むほん)の状態にある州あるいは州の指定地域の内に奴隷として所有されているすべての人は、その日ただちに、またそれより以後永久に、自由を与えられる。」(邦訳は、小川寛大「南北戦争ーアメリカを二つに裂いた内戦」中央公論新社、2020)となっていたのだが、それは一過性のものとなってしまう可能性があった。
 そこで包括的なものとするべくリンカーン政権(共和党)は、1865年1月31日に、憲法修正第13条を議会で成立させた。そこには、「奴隷制および本人の意に反する苦役は、適正な手続きを経て有罪とされた当事者に対する刑罰の場合を除き、合衆国内またはその管轄に服するいけなる地においても存在してはならない。」(前掲書での訳文)と定めてある。

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 なお、南北戦争に込めた南部連合の思惑なり、狙いについては、どんなであったのだろうか。顧みると、南北戦争の開戦前のアメリカの州の数としては34州であった、そのうちの南部の13州については黒人奴隷を使っての、綿花栽培を始めとしたプランテーション経営を多分に行うようになっていた。当時イギリスに住んでいて、国際労働者協会の立場でアメリカ政治を見守っていたマルクスは、国を北部(人口は約2200万人)から分かとうとするアメリカ南部(約900万人)の狙いを、こう指摘している。

 「南部における本来的な奴隷所有者の数は、30万人をこえない。それは少数者の寡頭支配であって、それにたいしては幾百万の、いわゆる「貧乏白人」が対立しており、その数は土地所有の集中によってたえず増大し、その状態はローマの最も衰退した時代の平民のそれとのみ比較しうるほどのものである。」(マルクス、墺(オーストリア)紙「ディー・プレッセ」(1861年10月25日付け)への寄稿より)

 引き続き、マルクスは次のように述べている。
 「奴隷所有者の党にとっては、彼らがこれまでに支配してきた地域を一つの自立的な諸州連合に統合し、連邦の上級権力から脱却することのみが問題であると、こう世間では信じている。これほどひどい誤りはない。(中略)分離主義者たちはケンタッキーになだれ込んだ。彼らはその「全領域」なるもののうちに、まず第一に、デラウェア、メリランド、ヴァージニア、ノース・カロライナ、ケンタッキー、テネシー、ミズーリ及びアーカンソーの、いわゆる「境界諸州」すべてをふくませている。(中略)いわゆる境界州はすべて、南部連合領有のものを含め、断じて本来的な奴隷州ではない。それらはむしろ、奴隷制度と自由労働制度が並んで存在し、支配権を目指して闘争している合衆国の領領域なのであり、南部と北部のあいだの本来的な戦いの場となっている。このように、南部連合の戦争は断じて防衛のための戦争ではなく、どちらかというと、侵略戦争、奴隷制の拡大とその永続のための侵略戦争なのである。」(カール・マルクス、墺(オーストリア)紙「ディー・プレッセ」(1861年11月7日付け)への寄稿より)


(続く)

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🔶1176『自然と人間の歴史』中国の財政金融政策(~2022)

2022-02-28 09:06:20 | Weblog
1176『自然と人間の歴史』中国の財政金融政策(~2022)

 中国においては、2021年秋以降、新型コロナウイルスの感染再拡大で一人の移動制限が強化されたこと、電力危機、運輸面や環境対応などからの隘路(エネルギーなど)も含めて財、サービスの生産、消費が減速。原材料価格の高騰も加わり、大企業だけでなく、中小企業の収益が悪化しているとのこと。

 2021年12月15日には、中国人民銀行が、当日から企業の資金繰りを助ける名目で、銀行の預金準備率を0.5ポイント引き下げた。

 だが、それからも、同月20日には、中国人民銀行は、今度は、銀行が貸し出す際の指標となる政策金利LPR(最優遇貸出金利)の1年物(企業向け)の金利を0.05ポイント引き下げて3.8%とした。政策金利の利下げは、2020年4月以来1年8カ月ぶりのこと。一方、住宅ローンの指標となる5年物については4.65%で据え置いた。
 明けて2022年2月17日には、2021年10~12月のGDP(国内総生産)が発表され、実質成長率前年同期比4%増へと伸びが鈍化した。同日にはまた、中国人民銀行が、約2年ぶりとなるMLF(中期貸出制度)金利の引下げを行った。

(続く)

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🔶202『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ諸都市の自治(ヴェネツィア、ジェノバ、アムステルダムなど)

2022-02-26 21:49:14 | Weblog
🔶202『自然と人間の歴史・世界篇』ヨーロッパ諸都市の自治(ヴェネツィア、ジェノバ、アムステルダムなど)

 現在のヴェネツィア(ベネツィア)は、イタリアの北部ヴェネト(ベネト)州の州都だ。アドリア海のラグーン(ラグーナ)と呼ばれる干潟(ひがた)に浮かぶ118もの島々からなるという。
 その名の由来は、「ウェネティ人の土地」というラテン語だという。もう一つ、「水の都」の通称を持っているのは、この街に属する島々が数多くの橋でつながっていることからくるのだろうか。5世紀(452年)には、このあたりの人びとに自治が築かれる。小さいながらも、共和国となった(のち1797年まで続く)。東ローマ帝国の支配下にあったのだが、それは緩いものであって、多民族の侵入に晒されていたことも、人びとを結束させるに力があったという。10世紀にもなると、海運共和国として貿易で栄えるようになる。
 このヴェネツィアだが、信教の自由と法の支配が有名であって、これなくしては「千年の都」は実現しなかったであろう。ここでは、その最盛期、次いで16世紀、17世紀のそれぞれにつき、簡単に振り返っておこう。(中略)
 その16世紀の対外的な有様については、こういわれる。
 「しかし、レパントの海戦の勝利にもかかわらず、その後のスペインとの不和のためトルコの前に孤立し、1573年にはキプロス島をトルコに譲って、その意を迎えることによって東方貿易の維持をはかるほかなかった。西欧諸国の東方貿易への進出がヴェネーツィアの海上商業をときとともに守勢に立たせてもいた。また、スペインとオーストリアの両ハプスブルク勢力のあいだに挟まれたヴェネーツィアの立場は、イタリアの内部にあっても、フランスやサヴォーイァ公国などと結んで、わずかに現状維持を策する以上には出なかった。」(森田鉄郎編「イタリア史」山川出版社、1976)
 こうした閉塞的な外部環境は、17世紀に入っても続いた。

 「しかもヴェネーツィアは、17世紀前半において、いくつかの国際的紛争をある程度成功裡に収拾するだけの力を残していた。ことに反宗教改革の波がイタリアを風靡(ふうび)するなかで、国内の教会のことに関して教皇の干渉を許さない独自の立場を保持していた。17世紀初頭にヴェネーツィア政府が宗教機関の不動産取得を制限し、また、二人の聖職者を処罰したことに発して、かねてからヴェネーツィアに教権の確立をねらう教皇庁とのあいだに紛争がおこったとき、スペインの支持を得た教皇パウルス五世は、1606年ヴェネーツィアを破門したが、これに対しヴェネーツィア政府は、改革派の聖職者サルビの指導下に完全と対抗し続けた。」(同)

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 それでは、こうした自治都市というのは、地域によりどのような発展経路をたどっていったのだろうか、例えば、そもそものルネサンス期(1450~1600)の姿としては、ものものしい一面も覗かせている。次に紹介するのは、1481年に発表されたクリストフォロ・デ・グラッシ作の「イタリア、ジェノバの光景」に寄せたジェレミー・ブラック(歴史学者)による説明文の一節である。

 「ジェノヴァはこれまで繁栄を脅かしたすべての打撃に備えることになった。市街地にはほとんど特徴のない小さな家々がびっしりと密集し、波止場のすぐそばまで迫っている。2本の防波堤ははっきりと描かれ(西側には)有名な灯台が見える。港の中央(画面中央)には武器庫がある。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
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 その後、17世紀までの姿については、例えば、次のように説明されている。

   「17世紀にはスペインの支配下に置かれていたとはいえ、イタリアには都市を中心にした都市国家がいくつもあった。ロンバルディアにあったミラノの北にあったミラノ公国は、スホルツァ一族による独裁的な支配で知られた。(中略)
 ヴェネチアヤ、ジェノヴァのような都市国家は、かつての役割を保ちつづけた。16世紀および17世紀の西洋社会で、都市共和国は善政た市民の美徳のお手本として広く称揚された。共和制と密接に結びついていた古代ギリシャの美徳を思いださせるものだったのだ。公共の美徳は共和制を特徴づけるものであり、「均整のとれた」組織をもつ国家の産物とみされたのである。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)
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 「ネーデルランド連邦共和国(オランダ共和国)は、都市連邦のひとつの形として、その典型と考えられた。1100年頃に漁村として築かれ、1275年に初めて都市特許状をうけたアムステルダムはやがて製造および通商の街となり、17世紀には黄金時代を迎えた。アムステルダムの有名な運河が築かれたのはこの時期であり、1665年にはアムステルダム市民の誇りとこの都市の重要さを世に知らしめるために壮大な市庁舎が建設された。
 しかし、多くの都市は独立した存在として政治を運営したいと願ってはいたものの、領土を接した国家として連携したほうが、諸都市にとってはより効果的な防衛になったはずである。辺境地帯にないかぎり、近代的な(そして費用のかさむ)要塞化や市民軍を必要としなかった。こうした国家は、領主である支配者たちの権力、財政的な資源をもつ地元の上流人士、都会のエリートたちの商業的な関心が組み合わさって発展した。
 こうした協力関係は世界中のいたるところで見られたわけではない。ほとんどの地域では、田舎と都会のエリートのあいだに民族および社会的な格差があった。そんなわけで、オスマン帝国の首都は偉大なコンスタンティノープルだったが、田舎の領主であるムスリムのトルコ人エリートたちは、アレクサンドリア、スミルナ(イズミール)、サロニカ(デッサロニカ)といった商業の中心地で活動するキリスト教徒やユダヤ教徒の有力商人たちに少しも親近感をもたなかった。」(ジェレミー・ブラック著、野中邦子/高橋早苗訳「世界の都市地図500年史」河出書房新社、2016)

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 これらにもあるように、アムステルダムは、商人のために商人により築かれた運河(1600年代~、3つの大運河が有名)に囲まれた都市であって、フランドルや北フランス、北ドイツといった北欧では、領主は商人の力に押されて農村部に移るなどするケースが多かった。これに対しイタリアなどにある都市では、封建領主である貴族が都市領域に入り、場合によっては市民となりかわっていく、その過程で都市は武装にも努めていく、いわゆる都市国家の発展が強く見られる(もう少し詳しくは、手頃な参考文献としては、石坂昭雄ほか「新版、西洋経済史」有斐閣双書、1985を推奨したい)。

(続く)
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🔶🔶ロシアとアメリカはこれ以上争うべきでない(2022.2.25)

2022-02-25 09:26:08 | Weblog
🔶ロシアとアメリカはこれ以上争うべきでない(2022.2.25)

 昨日の午後からは、かつての冷戦時代の再来かと見まがう、由々しき事態だと思われ、残念だ。
 一方からは、「ロシアが今回、欧米側の警告を無視してウクライナに軍事進攻」「ロシアが、ウクライナの主要都市近郊と軍施設を空爆」「第二次世界大戦後のヨーロッパで最大規模」といった文句が飛び交っている。このままでは、「冷戦後に築かれた国際秩序が危機に」「原油・天然ガス高騰、穀物供給にも懸念」などなど。
 かたやロシアの側では、「ウルライナでのジェノサイドから人々を守ること」「進攻ではない」「ロシアへの直接的な攻撃から国を守る」、それと「ロシアは今も最強の核保有国だ」などなど。
 もちろん、これらによる最大の問題は、ヨーロッパ人同士が殺しあうことだろう。近代兵器を用いた本格的戦闘ともなれば、その損失なりは計り知れない規模になりかねないだろう。そして、その先にあるのは・・・、と考えてしまうのは、少数者による杞憂のレベルではあるまいに、現代においては核戦争はさほどに現実化しうる問題なのである。
 それからもう一つ、今回の事を鎮静化に向かわせるには、「制裁」の類いでどうできるものではあるまい、双方が妥協をし合うべきだ。そのためには、話し合うしかない、その中から平和的共存へ向けた何かが出来てくるのを待つしかない。ことにアメリカは、もう世界の警察官でも、そのレベルの何でもないのだから、そろそろ「西側陣営の盟主」を装おった大国的ないいぶりはやめたらどうか、今回はロシアを少なからず煽った感があろう。
 繰り返しになるが、ロシアとアメリカは、この問題を拡大すべきでない、今直ぐ交渉のテーブルにつくべきだ。そして、新たな合意が必要だ。ロシアのプーチン大統領も「核戦争に勝者はいない」と述べ、アメリカのバイデン大統領も同様であろう。二人とも、世界を代表する大国の一つ、そのリーダーなのである、だからして、ここは全人類的立場を思い起こしてもらいたい、世界の心ある人々は見守っているはずだ。

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 付随して、このたびの西欧における出来事を語るうちには、日本の中でも「台湾」や「尖閣」との兼ね合いを持ち出す論調が散見され、どうやら、それらのうちの少なからずが「もしも」の時は武力を排除しないのであるらしい。まるで、憲法の平和条項(非武装中立)は眼中にないかのような物言いに感じられる。
 だが、そもそも台湾は中国とともに尖閣を日本のものとは認めない話であって、また、国際法上も、日本に帰属する話とはなっていない。さしあたって、「幸か不幸か」、この辺りを巡っての係争の現状としては、現水域において石油などの重要資源の情報はなく、台湾そして中国との衝突は免れているようである。
 加えて、台湾の中国への帰属如何については、台湾が独立国家たろうと大きな一歩を印さないかぎり、中国が台湾本土に進攻するとは考えにくい。それに、戦後の国際秩序を含めた大きな流れでいうと、アメリカにおいてもそうだろうが、台湾は中国の一部というのは動かし難い。
 さらに、中国の国際的な地位はこれからも上がり続けていくであろうし、アメリカもそのことを動かし難いとしている(2021.3~)。そうしたことを踏まえれば、この問題は、やがては平和裡に解決に向かっていくのではないだろうか。
 付言すると、現時点までの日本の論調の中には、テレビも含めて勉強不足のものも散見されよう。かつて、ジョーン・ロビンソン(イギリス)は「経済学者に騙されない」ことを経済学を学ぶ理由に推奨していた、けだし、彼女は庶民の大いなる声に耳を傾けるタフで偉大な経済学者でもあった。

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