882の1◎213の1の6『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2011~2016)

2018-10-15 09:36:30 | Weblog

882の1◎213の1の6『自然と人間の歴史・世界篇』シリア内戦(2011~2016)

 シリアは、北をトルコ、西を地中海とイスラエル、南をヨルダン、東をイラクと接する。宗教面では、首都ダマスカスの旧市街には、715年に完成の世界最古のモスク(イスラム教礼拝所)があり、イスラムの聖地の一つでもある。ゆえに、ここでの政治情勢の変化はとたんに近隣諸国に影響を及ぼす。
 このシリアでの内戦は、2011年に始まる。まずは、これより前の2010年12月、チュニジアで反政府デモが起こる。これが中東各地に広がり、「アラブの春」と呼ばれる。その本質は民主化運動だといえよう。
 その波はシリアにも及び、2011年2月にダルアーで小規模なデモが起こると、3月には、反政府デモが開始される。国内各地に政権打倒を叫ぶ大規模デモが広がっていく。やがて、民主化運動は内戦へと変化していく。内戦は、かたや政府軍に対し、反政府勢力というのが主な構図だが、その他多くの武装勢力も参加していく。それらの対立によって泥沼化していく。
 明けて2012年7月、北部の都市アレッポでアサド政権と反体制派の戦闘が本格化する。なお、アレッポは首都ダマスカスに次ぐシリア第二の都市で、内戦前は約300万人の人口で商工業の中心。紀元前から、地中海世界とメソポタミア地方を結ぶ交易中継地として栄えてきた。
 2013年8月、首都ダマスクスの近郊の東ゴータ地区にて、反体制派が「政府軍の猛毒ガスで1350人が死亡」と発表する。ダマスカス近郊でアサド政権軍による化学兵器使用が取り沙汰されたのだ。アメリカのオバマ大統領が、アサド政権の化学兵器使用でシリアへの限定的軍事介入を表明する。
 9月には、アメリカとロシアとがシリアの化学兵器を国際管理下におくことで合意し、アメリカのオバマ大統領はシリアへの軍事介入を見送る。
 2014年1月、国連の仲介で、反体制派と政権側との和平協議が開始される。6月、イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」(IS)が、北部モスルを制圧し、その北部の都市ラッカを首都とする国家樹立を宣言する。この同じ月、アサド政権が保有しているとみられる化学兵器の原料となる物質につき、化学兵器禁止機関(OPCW)が国外搬出を終えたと発表する。9月には、アメリカ軍を中心とする「有志連合」の軍が、がシリアのIS拠点への空爆を開始する。

2015年5月、ISが国連・世界遺産のあるパルミラを制圧する。9月には、アサド政権を支援するロシアが、シリアのIS、反体制派への空爆を開始する。

 2016年2月、政権側と主要反体制派が停戦に合意する。しかし、その後停戦が崩壊。8月、国連が2014年4月と2015年3月における、アサド政権によるシリア北西部イドリブ県の反体制派拠点への化学兵器の使用を裏付けるとした、調査報告書を発表する。
 2016年12月、アサド政権・政府軍が反体制派の拠点アレッポを制圧、奪還する。ロシア・トルコ主導の停戦が全土で発効する。しかし、この間も戦闘は続く。つまりは、停戦は合意されたものの根本的な解決に向かって動くことなくいるうちに、その合意は順守されることなく、戦闘がぶり返している。

(続く)

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『(103の2*72)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館など)

2018-10-14 22:08:17 | Weblog

『(103の2*72)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館など)

 この美観地区の一角、倉敷川(人造の川)の奥まったところに大原美術館がある。この美術館は、1930年に開館した。世界恐慌(昭和恐慌)の只中でのことであった。世間の大方は、これからどうして暮らしていったらよいだろうかなど、不安な毎日を送っていた。そんな厳しい時期に、地方都市にこんな西洋風の大きな美術館ができたことに、地元の人々を含めさぞかし驚いたことだろう。

この美術館建設事業を進めたのは大原孫三郎で、代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られ始めていた。その彼は、1880年(明治13年)岡山県倉敷村の大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
 20世紀に入って父・孝四郎の紡績事業ほかを継いだ大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかったらしい。野趣というよりは、西洋の洗練された文化・文物をたしなむ素質を宿していたのだろうか。友人の画家である児島虎次郎(1881~1929年)に託す。児島はその期待に応え、西洋美術を中心とし、同時に集めた中国、エジプト美術なども加え収集に精を出す。

大原がこれらの美術品を展示するために建築したのが、ギリシャ様式の建物である。今の倉敷駅から南方面へ暫く歩き、美観地区として町並み保存がなされているところに、重々しく建っている。西洋文明の曙を連想させるかのような柱が観る者の目にユニークに写ることだろう。日本最初の西洋美術館となる。開館が成った後も、現代西洋絵画、近代日本洋画をはじめ絵画を集め続けるかたわら。陶芸館、版画館、染色館などを開館していく。
 主要展示品として絵画としては、エルグレコの「受胎告知」(じゅたいこくち)、ルノワールの「泉による女」、モネの「睡蓮」、ゴーギャンの「かぐわしき大地」、セガンティーニの「アルプスの真昼」、ルオーの「道化師ー横顔」、ターナーによるさんざめく中の海波の絵、ロダンの「説教する聖ヨハネ」や「カレーの市民」などが広く知られる。

これらのうち「受胎告知」については、高さが109.1センチメートル、幅が80.2センチメートルということで、2016年10月、やや暗さを感じさせる色調をバックに対象が描かれている。全体に空間に仄かな光が射し込んでいて、観る者を誘う。対角線上に聖母と大天子を配している。ガブリエルの出現に驚いたマリアが身をよじって振り返る、その刹那を描いた。いかにもギリシャのクレタ島で生まれイタリアで学んだ放浪の画家(本名は、ドメニコス・テオトコプーロス)ならではの不思議な構図だとか。大天子のガブリエルが、精霊によりマリアへ受胎を告げている。
 むろん、実際にはあり得ないことなのだが、そのことがかえって神秘さを際立たせるのではないか。画面にあしらわれている白百合は純潔、鳩は精霊の象徴を意味するという。随分と意匠を凝らした構図だといえるだろう。批評家により、「この作品で描かれている図像が何を示すのか、その全ては明らかでないが」(案内人の柳沢秀行氏の弁、雑誌「ノジュール」第13号の特集「今月の名作」より引用)と断り書きとなっているのも、何とはなしに受け入れた。
 倉敷民芸館は、この地に1948年(昭和23年)に開館した。建物は、古民家を利用している。旧庄屋の植田家の米倉であったのを大原総一郎が寄贈した。これを、(財)岡山県民芸協会が母体となり民芸館として再建したものだ。

なお、ここで「民芸」というのは、大正時代の末期に文化人の柳宗悦(やなぎそうえつ)らが生み出した造語「民衆的工藝」の略称にほかならにない。「用の美」を追及するこの民藝運動には、陶芸家の濱田庄司(はまだしょうじ)や河井寛次郎(かわいかんじろう)なども参加していく。その本拠地として1936年(昭和11年)に開設されたのが、東京・駒場の日本文芸館である。

さて、話を戻しての倉敷民芸館だが、三棟の蔵が古典的でありながら、モダンな構成をなす。初代理事長には、大原総一郎が就任した。初代館長を務めた外村吉之介(とのむらきちのすけ)らの尽力により、現在に受け継がれる。館内には約600点の民芸品、生活品が展示されており、所蔵品で数えると約1万点もあるとのことである。年齢、性別を超えた、往年の暮らしを垣間見たいとするファンによって、今日も支えられている。
 この民芸館がまだ日の浅かった1950年2月25日、イギリスの桂冠詩人エドマンド・ブランデンが、文化使節として、ここを訪れ、次の即興詩「グリンプス(A GLINMPS)」(眺め)を詠んだ。これを2階の窓口に飾ってある。マルクス経済学者の大内兵衛による訳『日本遍路』において、こう訳されている。
「黒い輪郭の白い壁/中庭の見通し/清潔な門/そこからのぞく赤い頬の童児/話し合っている黒っぽい着物の二人の友/その向こうには落ちついて光る屋根の列/飾り房のやうな枝ぶりの松/そのひろやかな静けさ」

(続く)

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(24*)『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器から覗う縄文人の生活

2018-10-14 21:20:18 | Weblog

(24*)『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器から覗う縄文人の生活

 この南北に細長い列島には他にも多種な縄文土器が伝わっており、これら縄文式土器の写真をじっと眺めていると、縄文時代とは、私たちが普通に考えているような貧しく、厳しい日常かぎりばかりであったのではなく、人々が感覚で感じる時間は比較的緩やかに流れていたことが覗える。生物学者の福岡伸一氏は、縄文時代の人々は、案外、ロマンに綾取られた豊かな精神世界に生きていたのではないかと推測しておられる。
 「しかし、時間がとうとうと流れていた縄文期にはー縄文時代は1万数千年も続いたー今を生き、それが過去の人々と連続し、未来の人々ともつながりゆく、という実感さえあれば生は充実していたのです。完成や成果ではなく、プロセス自体に意味があったのです。
 狩りと採集によって生活の糧を得ていた当時の人々は、現在の我々ほど長時間、労働に身を捧げていたわけでもありません。縄文の民の実労働時間を正確に知ることはできませんが、現在における狩猟採集民の文化人類学的調査によれば、一日に2~3時間ほどの労働によって、集団は社会生活を営んでいるそうです。あとの時間、彼ら彼女らは何をして過ごしていたのでしょうか。鼻を愛でたり、星を眺めたり、歌ったり、風に吹かれたり、あるいは子どもと遊んだりして楽しく暮らしていたのではないでしょうか。」(福岡伸一「生命の逆襲」河出書房新社、2013より)
 とはいえ、当時の人々の全体的な暮らし向きは、現代とは様変わりの、より厳しい原始的生活に近いものだったのではないか。縄文人の寿命も、大方の推測によると、精々30台くらいものでしかなかったのではないかと考えられている。2018年10月に秩父に所在の埼玉県立自然博物館にて、県出土の縄文人の頭蓋骨などの骨格が展示されているのを観察してみたが、現代人に比べかなり小さなものではないか、との印象を受けた。

概して、この時期の日本列島人なるものは、本格的な農耕は行わないものの、単なる採取や狩猟の経済に留まらず、某かの食料栽培や家畜の飼育を行いつつ、それらにまつわり縄文式土器を多用するという、世界にほとんど類例のない「縄文文化」を築いていったのだと考えている。このように考えると、縄文式土器のユニークさを前向きに評価しつつも、大局的に見た縄文人の生活の自由さとは、あくまでこの時代の限られた時空の中での一コマとして考えられるべきだと思う。

(続く)

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(23*)『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器

2018-10-14 21:19:32 | Weblog

(23*)『自然と人間の歴史・日本篇』縄文式土器

 縄文期の東日本の遺跡の多くでは、複雑な紋様の入った、独特の風貌の縄文式土器が沢山見つかっている。その草創期から前期までは、「微隆起線文土器」や「片口深鉢形土器」といって、土器の表面を模様がぐるりと囲んでいた。中期になると、派手な装飾、奇抜な盛り上がりなどを施した「火焔型土器」に趣向を凝らした。さらに後期から晩期にかけては、それまでの立体的な装飾をやめての「壺形土器」が主流となった。

それらの中には、新潟県篠山遺跡(十日町)出土の深鉢形土器や国分寺出土の俵形甕(かめ)、それに亀ヶ岡式土器に代表されるような、より集まって芸術的作品に近いものもある。それらは写実的な造形というよりも、情念の赴くままに隆起をつくったり(隆起紋)、穴やくぼみをこしらえたりで、まさに空想の所産と見え、どちらかといえば「爬虫類の脳」より前頭葉のなせる技であるとでもいっておきたい。
 とりわけ新潟の信濃川中流域(新潟県十日町市、津南町や長岡市などの信濃川沿い)出土のものは、なかなかに独特である。この遺跡からは、これを含む928点が出土しているそうで、中には煮炊きに使った材料の「おこげ」が付着しているものもあるとのこと。人々は火を使っていた。かれらは、土器に食材を水とともに放り込んで煮炊きすることにより、アクやエグさや苦み、さらには毒抜きをして食べることをしていたのであろうか。
 そんな縄文式土器の中での代表格が、十日町市篠山遺跡から出土したという深鉢型土器にして火焔型土器(国宝にして「縄文雪炎」の愛称で知られる、十日町市博物館所蔵)であって、約5000年前の縄文時代中期(紀元前3500~紀元前2500)の作陶と推定される。この縄文雪炎だが、高さは46.5センチ、最大径は43.8センチとなっていて、縄文人たちが日常生活に食事用として用いていたと理解してよろしいのだろうか。

その写真を観ると、「縄文」の命名であるのに、「縄の目の跡はあまり強く残っていない。縄を押しつけてできた文様ですら、一部消した様子さえうかがえる」(雑誌『ノジュール』2017年9月号、JTBパブリッシング)とのこと。
 全体の造形としては、筒状の下の部分は平凡に感じられる。その上に、あれやこれやの、一種名状しがたい形をした上部が載っているのが、特徴的だ。まずは、突起が宙を目指すかのようにそそり立つ。四方にせり出した鶏頭冠(けいとうかん)状把起や、複雑に波打った縁に鋸状の突起がせり出している。それらの突起は規則正しい並び方はしてなく、得体の知れない何やらがうねりながら、それぞれが自己主張しているかの様だ。

2番目の特徴は、縁取りがあることだ。それは、飾りたてられており、この縁に口をつけて中のものを飲み干すのには、苦労が伴うことだろう。この土器などは、さながら「俺はここにいるよ」と何かを訴えているのであろうか。

(続く)

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12*◎4『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(月の出現とその後)

2018-10-14 10:05:13 | Weblog

12*◎4『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(月の出現とその後)

 月は、いつ頃誕生し、そして地球に寄り添うようになったのだろうか。その月は、現在、地球の周りを楕円軌道を描いて回っている。自転の速さは変わらないものの、公転の方は、地球と月との距離が時々刻々変化していることから、早くなったり、遅くなったりしている。この現象は「秤動」と呼ばれる。
 この月の誕生を巡っては、1975年にウィリアム・ハートマンとドナルド・デービスが新説を唱えた。これは、「ジャイアント・インパクト説(巨大衝突説)」と呼ばれる。この説によると、約45億5000万年前、太陽系の中には多くの原始惑星(現在は地球など7つ)が回っていた。その中に「テイア」(仮の名)と呼ばれる、今の加勢くらいの大きさの惑星があった。テイアは、原始地球の半分ほどの大きさで、その軌道は地球の軌道と交わっていた。地球とテイアは時速何千キロものスピードで斜めに衝突した。テイアは完全に崩壊し、地球も一部を失った。原始の地球にとっては、全面衝突でなかったことが幸いした。
 テイアとの衝突によって地球から表面の一部が剥がれたのだが、その時宇宙に飛び散った岩石は、互いの引力で引き合う。やがて出来た「月の種」を中心に一つに集まっていき、地球を回る衛星となった。月は地球の岩石の残骸からつくられたとするこの説は、発表された当初は「そんな馬鹿な」といって人々は信じなかった。
 ところが、1969年(昭和44年)、アポロ11号宇宙船が持ち帰った月の岩石に高温に熱せられた痕跡が認められると、その説に鞍替えする学者が増え、今ではこれが月誕生の通説(有力)となっている。とはいえ、1972年に月に着陸したアポロ17号が、その着陸点「タウルス・リットロウ」(Taurus-Littrow) 渓谷で月の土壌を採取し、地球に持ち帰っていた。その試料の解析が進み、「粒が急激に冷やされると、ガラスとなります。そのようにしてできた火山ガラスの中に水が含まれている」」(○(なみ)木則行氏の「スーパームーン、月の不思議」NHK教育テレビ、2016年11月11日放映の「視点・論点」より)ということになった。

こうして月の中に微量の水が含まれていることが判明すると、今度は、このジャイアント・インパクト説(巨大衝突説)に「重大な」疑問を抱く向きも出て来ているとされる。これによると、月の誕生はまたもや謎の中に包まれようとしているのかもしれない。
 ところで現在、月は地球の周りを公転しているが、その距離は時々刻々変化している。原始の月は、地球の今よりずっと近くにあったとされる。ならば、その頃の地球から空を見上げたとしたら、空の大半を占める巨大な月が見えたことだろう。また、月の引力は地球の潮の干満をもたらし、地球の生命の源となる豊富な海を創り出した。ジャイアント・インパクト直後の地球の自転周期は5~6時間程度であったと考えられている。

それからというものは、月が地球にもたらす潮汐力によって、地球の海水と海底との間に摩擦が生じる。このブレーキ作用の影響で自転周期は今日までだんだんと長くなって来ており、今でも「数千~数万年で一秒」程のわずかながら一回転の長さは増しつつある。その月は、地球の大きさの約4分の1、約80分の1の重さ(地球の重力を反映した力)である。

このため、地球の自転速度は徐々に遅くなり、その周期は今の24時間になった。そこで「もし地球と月を合体させると仮定すると、地球の一日は4.1時間で回転することになります」(○(なみ)木則行氏の「スーパームーン、月の不思議」NHK教育テレビ、2016年11月11日放映の「視点・論点」より)とも言われる。
 それから、月の表面のクレーターができたのは、約44億年前のジャイアント・インパクトによる月形成直後ばかりではなかった。約40億~38億年前にも激しい衝突のあったことが、最近の研究で分かって来ている。これらのことと地球との関係如何について、清川昌一氏は、こう述べておられる。
 「木星や土星も太陽系の進化にともなってその公転軌道が少しずつ変化している。土星の公転軌道は外側に、木星の公転軌道は内側に変わっていく。40億~38億年前、木星の公転周期と土星の公転周期が1:2の共鳴関係になったとき、小惑星帯にある小惑星の軌道が不安定になり、大量の小惑星が月に衝突するようになった。
 地球表面は活発なプレート運動のために、38億年よりも前の地層はほとんど残っていない。しかし地球も後期重爆撃から逃れることはできなかったはずである。(中略)
 地球は、40数億年前には海洋があったことが推定されているが、大衝突が起これば衝突による熱で地球の全海水は蒸発して、水蒸気の濃い大気をもつようになる。数百年後には水蒸気が冷えて、再び海洋が出現するということが繰り返された。

また、できたばかりの地殻も繰り返し破壊・溶融していただろう。このように過酷すぎる環境であったために、生命の誕生は後期重爆撃の終わる38億年前まで待たなければならなかった。」(白尾元理・写真、清川昌一・解説「地球全史ー写真が語る46億年の奇跡」岩波初書店、2012)
 あれやこれやで、地球上に生命が誕生したのは、月という衛星が生まれたおかげなのだという説も、多くの専門家から指摘されているところだ。ここでも、私たちが当たり前のように過ごしている時間と空間の枠組みは、はじめからその状態になっていたわけではないことがわかってきている。その後、月と地球の距離が現在のものになったとはいえ、潮の満ち引き(潮汐)は、もちろん月の引力によって海面が引っ張られてのことであるし、私たちこの地球上で生きる者の生活のありようは、月の存在と深い関わりを持っている。ひとたびできてからの月は、地球の子供というより、兄弟というにふさわしい処もあるのだ。
 月は、その重心地球側(地球から見て表側)に偏っているために、地球からは同じ面しか見ることは出来ない、という神秘的なところも残しているのであるが、私たちの地球がこの先も存続していくためには、なくてはならない存在だとされている(以上は、「地球ドラマチック、月と衛星の神秘」2014年9月14日、NHKのEテレで放映、左巻健男編著「面白くて眠れなくなる地学」PHP研究所などからまとめさせていただいた)。

(続く)

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11*◎4『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(衝突以前)

2018-10-14 10:01:59 | Weblog

11*◎4『世界と人間の歴史・世界篇』月と地球(衝突以前)

 私たちの地球は、一日に1回自転しながら、この太陽の周りを平均の秒速約30キロメートルで公転している。それは、円軌道ではなく楕円軌道に乗っかっている。17世紀のヨハネス・ケプラーにより発見された。なおここに「平均で」というのは、地球と太陽の間の距離が一番近づくのを近日点といい、ほぼ1億4700万キロメートル、そこでの公転速度は秒速約30.3キロメートルであるのに対し、反対側の一番遠くなるところを遠日点といい、そこでの公転の速さは毎秒29.3キロメートルとやや遅くなっている。
 地球と太陽の距離は、およそ1億5千万キロメートルある。太陽からの光は、およそ500秒をかけて地球にやってくる。光は一秒の間に真空中を約30万キロメートルだけ進む。つまり、私たちが見ている太陽は、その都度が500秒の前の姿なのである。
 そもそも、原始の星間物質の中には、水や炭酸ガスなどの揮発性成分が含まれていて、それが幾つも現れ、互いにぶつかり合いながら、だんだんと規模が大きくなっていった、その一つが地球なのだと。

その過程で、微惑星や隕石が原始の地球にぶつかると、地球の脱ガス大気による温室効果で射出率が低くなっていることから、地球表面は光熱でどろどろのマグマが全球を覆っていたのではないか。なお、射出率(しょしゅつりつ)というのは、二酸化炭素などによる温室効果の大きさを表す指標であって、温室効果が大きいほど射出率が小さくなる。
 地球の誕生から暫くたってからの、地球を取り巻く大気の状態はどうであったのだろうか。それについて、いろいろ諸説はあろうが、京極一樹さんは、地球誕生から約1億年の地球大気の状況について、こう述べておられる。
 「窒素と二酸化炭素ばかりでのない、地表気圧が60気圧の厚い「原始大気」ができ、その雲は雨を降らせ、やがてシアン化水素(HCN、青酸ガス)の溶けた海ができました。」(京極一樹著・加藤恒彦監修「こんなにわかってきた宇宙の姿」技術評論社、2009)
 やがて、約40億年前の地球になる。その頃、太陽系内からの微惑星や隕石の衝突は下火になっていく。そのエネルギーで全球灼熱になっていたのが、地球表面で溶けていたマグマが固まり始める。

(続く)

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10の2*◎3の4『世界と人間の歴史・世界篇』地球類似の惑星は実在するか

2018-10-14 10:01:09 | Weblog

10の2*3の4『世界と人間の歴史・世界篇』地球類似の惑星は実在するか


 人類のような生き物は、地球以外にどのような環境で生きていられるのだろうか。ざっと考えただけでも、適度な温度、適度な水分、適切な組成の空気などが必要だ。某かの食べ物もなければならぬ。それらから類推すると、私たちのいる太陽系内には私たちが安全に住むための自然環境はまだ見つかっていない。それでは、他にどんなところがあるのだろうか。
 想像力をたくましくして空を眺めてみよう。すると、天気のよい夜なら、自然豊かな場所に行くと満天の星が見える。数多(あまた)の星々があるうち、私たちの近くにあるのは、どんな星なのだろうか。それに、輝く星には、そのまわりに輝かない星が隠れている筈だという。その輝いていない方の星を探す。そんな中で、生物環境に適した星を探してみる。
 人類の近代に入ってからは、その大いなる仕事に望遠鏡が使用される。偶然の巡り合わせに期待して多方面にそれを向けた。または、ある推定、しかも理屈に合った方向にそれを向けてみる。その数をこなしていくうちに、某かの発見に行き当たることがあるからだ。
 現在までに、太陽系に近いところの星の中から、有望とみられるものが現れてきている。ただし、有望といっても、実にかすかな可能性でしかないし、確かめるすべもない位だ。もう一つのアプローチは、もっと遠くにある星の中から、地球と似たような環境にある星を探し出すことだ。
 前者の試みでは、南半球でよりよく見える、南十字のそばに薄く輝く(-0.0等星)ケンタウルス座α(アルファ)星が見つかっている。この星だが、地球から4.3光年の距離にあるという。冬の夜空に青白くかがやく「おおいぬ座」のシリウスは 地球から8.7光年にあるというから、それの半分くらいか。
 ちなみに、地球と太陽の距離は、1億4960万キロメートルと見積もられている。かたや、光の速さは毎秒29万9792.458キロメートルにして、その光が1年かかっていた進む距離を1光年という。つまり、1光年とは9兆4600億キロメートルということになる。そこで、地球と太陽の距離を1光年の距離で割ってみると、0.00001581光年、これを分(ふん)に直せばおよそ8分19秒となるではないか。
 つまり、太陽から出た光は約8分後に地球に届くであろう。つまり、私たちの眼に見えている太陽は、約8分前の姿を写したものなのだ。ただし、肉眼(裸眼)で見ると失明するのでそのままで見てはならない。したがって、ケンタウルス座α星までの4.3光年という距離は、地球から太陽までの距離と比べ天文学的に大きな距離であると言わねばならない。
 また後者では、地球から39光年離れた恒星の周りに、地球に類似した7つの惑星が回っているのを見つけたという。そして、これらにつき水が液体の状態で存在しているのではないかと想像している。また、それらのうち3つの惑星には海や大気圏がある可能性があるとまで語られる。もしそうであるなら、それらの星に何らかの生命体が存在する可能性が出てくる。ただし、この推論においては、今のところ、それらの可能性がどのくらい高いかは触れられていないようである。

(続く)

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9*◎3の4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(火星)

2018-10-14 09:55:42 | Weblog

9*3の4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系(火星)

 

 2018年の火星の見え方は、これまでと違った。これも、「生々流転」の一駒というべきか。その明るさは、マイナス2等星を超え、ずいぶんと明るかった。こうなると、肉眼ではっきりと見つけることができる。恒星のようには瞬かず、赤く煌々と輝いていた。

 晴れの一日が終わりにさしかかり、やがて太陽が西に沈んだ頃に東の空に現れ、21時(午後9時)くらいに南東の空に見ることができた。時には、月とかなり近くに見えた。

 

それもその筈で、夏には地球からかなり近い位置にやってきた火星は、太陽の周りを687日かけて回る。その軌道は楕円状であって、最も接近した7月31日には、地球との距離が5759マンキロメートルになり、ここまで近づくのは15年ぶりとのこと。

 

 

(続く)

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『132の3*86の1』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、大原孫三郎)

2018-10-14 08:16:56 | Weblog

1323*86の1』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、大原孫三郎)

大原孫三郎(1880~1943)は、郷土が生んだ豪傑の一人といって差支えあるまい。岡山県倉敷村代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られていた大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
 20世紀に入っての1906年(明治39年)、父・孝四郎の紡績事業ほかを継ぎ2代目社長になった大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかった。事業を拡大するとともに、新たに銀行業や電力業なども手掛けるようになっていく。

そうして大資本家の仲間入りをしていく彼であるが、会社経営に当時としては斬新な内容を付加して臨んだ。代表的なのは、広い意味での労働環境の改善を志向し、社内に医師の常駐や託児所の設置を行う。また、初等教育を受けていない社員に向けて、社内に職工教育部や尋常小学校を設立したという。さらに、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、自社の社員、工員ばかりでなく、地域の人々の診療も手掛けていく。

これらの出費は相当にかさんだが、反対する重役たちに「わしの頭は10年先が見える」と言って押し切っていたというから、驚きだ。一説には、自らをして、労働者から搾り上げての儲けだけの資本家人生にだけはしたくなかったのかもしれない。

有名なところでは、紡績業などで得た莫大な富を使って、文化事業にも精出す。その典型に、大原美術館の設立があった。その様式建築の斬新さとともに、集められた作品の数々からは、彼の意を受けて開館の基礎となる西洋絵画の収集に力を注いだ洋画家・児島虎次郎とともに、「人々に一流のものを見せたい」との思いが伝わってくるような気がする。

 

(続く)

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『76の4*56の3』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備中高梁(江戸時代、城下町)

2018-10-13 10:25:53 | Weblog

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『76の4*56の3』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備中高梁(江戸時代、城下町)

 さて、その頃の高梁の町割りとしては、大まかに西の奥にお馴染みの備中松山城、東に向かっての麓に藩主を中心とした日常の政務場所・御根小屋(御城)といく。この小屋を核にして、範囲でいうと西へ行って紺屋川に突き当たるまで、南に向かっては高梁川に出会うまでを「城内」と呼んで最重要地域としていた。

なお、内堀という位置づけでは、山城の後ろ側から来ているように見受けられる、高梁川に注ぐ小高下谷川(ここうげだにがわ)に、その役割が与えられていたという。そしてもう一つ、西に流れる紺屋川(こんやがわ)は城の「外堀」の役割を担っていたことになろう。

 それから、川を渡って西へ進んでいくと、そこには侍町が広がる。御城に近い区域には上級武士らが住んでいたという。たとえ中級の禄をはむ武士であっても、役職によっては住むところが特定されていた向きもあったのかもしれない。

 さらに町人たちについては、侍町の南側、高梁川の流れと並行して長い町並み(町屋)になっておいた。その松山往来と呼ばれていた通りには様々な暮らし向きの人々が行き交っていたのであろう。その高梁川には、高瀬舟が通っていて、米、鉄(阿哲、成羽(なりわ)産)、銅(吹屋(ふきや)産)を始めとして、炭、こうぞ、和紙、うるし、たばこなどといった、この地方および以北などからの産物を運んでいた。

それに加えるに、備中高梁での人々の生活向きに必要な多くを流通させていたのだと伝わる。ちなみに、2018年10月10日放映のNHKテレビ番組「趣味・秋の歩き旅、再、天空の城、備中松山城」の一場面「おとなの歩き旅、秋、岡山・高梁」において、「高梁川を航行する高瀬舟(撮影年不詳・高梁市教育委員会蔵)」として往時の姿が紹介された。

そして現代に伝わるめずらしいところでは、市内に頼久寺(らいきゅうじ)が有名だ。この寺の開基は室町期に遡る。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、諸国に命じて建立させた安国寺の一つ、との伝承がある。

この寺内には、1604年(慶長9年)頃に造られたという、備中の代官として赴任してきていた小堀遠州(こぼりえんしゅう)による設計の庭園が、訪れる人をお温かく迎えてくれる。その形式は、蓬莱式枯山水庭園にして座観式ということで珍しい。比較的小さい敷地にもかかわらず、室町時代以来のわびさびを主体としたような世界が悠々と広がっているではないか。

その特徴は、愛宕山(あたごやま)を借景に、白砂が敷き詰められており、その中に「鶴島」、「亀島」といったお伽噺上の島がこしらえてある。また、遠景にはさつきがふんわり、こんもりと植わっている。その幾つもの固まりが位置をずらしながらしつらえてあって、さながら波のようでもある。庭の植栽を賑わすこのやり方には、遠く西洋の作庭からの影響がみられると教わった。   

筆者はまだ訪れたことはないものの、テレビ番組でたまに取り上げられ、観る者の目を楽しませてくれる。昔懐かしい「旅は情け」の故事に従えば、さつきが満開の頃にここを訪れ、座敷に座って彼の意を凝らした庭を眺めると、ここを訪れる旅人の日頃の浮き世の疲れも、さぞかし癒されることだろう。
 この高梁の山間(やまあい)の地形に、うまくへばり付いた美しい町並みの城下町を出る。それから、高梁川の川沿いをたどっての南進は、大小の渓谷や峡谷つづきであって、当時の人馬による通行は、「道なき道」のようで、さぞかし難渋したことであろう。頼みの舟のルートも、このあたりは急流続きで往来には困難がつきまとう。

(続く)

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『(103の1*72)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区(白壁の街)

2018-10-11 22:49:54 | Weblog

『(103の1*72)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』倉敷美観地区(白壁の街)

 JR倉敷駅から歩いて10分位で行けるところに、およそ江戸時代までの往時をしのばせているのが、倉敷川畔の「美観地区」や鶴形山南麓から東西にのびる「本町・東町」といった町並みである。このあたりは、古来より交通の要衝であった。高梁川の支流としての倉敷川は人造の堀川であり、児島湾に注ぐ。いつの頃からか運河として利用され、その河港には多くの商人が集まり、蔵が建ち、やがて備中地方の物資が集積していた。江戸時代ともなると、このあたりは備中の商業の中心地となった。
 このあたりの町屋や蔵を歩きながらつらつら眺め歩いてみる。すると、なかなかの風情がある。建物の見どころは、実に多彩だと教わる。識者の案内により箇条書きに並べ立てれば、大きなものでは塗り屋造りと土蔵造りが主なもの。前者は、町屋に多く見られる構造で、防火対策として隣家と接する両側面と正面2階部分の 外壁全体を白漆喰に仕上げている。また後者は、全体に土塗り白漆喰仕上げがされている構造物である。それから各々の建物にくっつけて観賞できるものがある。

まずは倉敷格子で、上下に通る親竪子(たてご)の間に細く短い子が3本入っているらしい。続いて倉敷窓といって、建物2階の正面に窓が開かれていたり、虫籠窓(むしこまど)といって窓格子が塗り込めになっていたりする。聖窓(ひじりまど)と名付けられる、塀に取り付けられた格子の入った小さな出窓もある。犬矢来(いぬやらい)とは、円弧状の反りついた割竹や細い桟木を並べた柵のことで、 矢来の語源には「入るを防ぐ」という意味があるらしい。
 さらに、なまこ壁(海鼠目地瓦張)と呼ばれる紋様が見てとれる。これは、正方形の平瓦を外壁に張り付け、目地を漆喰で盛り上げて埋める手法だとのこと。この盛り上がりの断面が半円形のナマコ形に似ているのだという。奉行窓というのは、土蔵造りの蔵の窓形式として使い、長方形の開口部に太い塗り込めの竪子を入れている。他にも、鉢巻といって軒裏や軒、出入口土戸が、防火のため漆喰で厚く塗り込められているのが見られる。およそ、これらを全部視野に収めようとすると、それなりの時間と体力、気力がなくてはかなわないようである。

(続く)

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『(102の3*71)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦後)

2018-10-11 22:34:46 | Weblog

『(102の3*71)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦後)

 牛窓港は、明治以後も引き続き天然の良港として小、中規模船舶の寄港地となっていたが、1961年(昭和36年)年の埋立てで港の機能を失った。その後は、ここより南のなだらかな一山越えたところにある、小規模ながらの牛窓港が主要な港となっていく。1956年(昭和31年)、錦海塩業組合が公有水面埋立てに係る免許を取得する。そして堤防を築造し、干拓工事に着手する。1962年(昭和37年)には錦海塩業株式会社が設立され、製塩事業を始める。1971年(1971年)、国の「第4次塩業整理」で、全国の塩田廃止が相次ぎ、牛島の塩田事業は「イオン交換法」による製塩へ転換したといわれる。ところで、塩田経営が厳しさを増す一方、塩田が駄目なら空港建設はどうかという話が起きたらしいが、こちらは軟弱地盤により沙汰やみとなったらしい。

 1978年(昭和53年)には、同社が塩田跡地で産業廃棄物最終処分事業を開始した。1988年(昭和63年)5月には、邑久長島大橋が完成する。2002年、同社の製塩業は廃業となる。2005年4月、岡山ブルーライン瀬戸内インターチェンジが開通する。2006年、浚渫(しゅんせつ)土砂塩田跡地基盤整備事業の開発許可(県土保全条例)がおりる。2008年には、産業廃棄物の最終処分事業の認可期限切れで同事業が廃業となる。2009年には、同社の倒産・破産手続が開始される。2010年には、瀬戸内市が錦海塩田の跡地を取得する。その宏大な区域の東、錦湾との境目は、長い堤防で仕切られている。塩田跡の西側は旧安田堤防に区切られており、また南北は東西に伸びるなだらかな丘陵地に囲まれている。なにしろ約500ヘクタールもあるところなのだが、今は、かつて東洋一といわれた塩田経営の跡形を探すのは難しい。2013年11月には、牛窓の地で「朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流会瀬戸内大会」が盛大に開催された。

(続く)


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『(102の2*71)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)

2018-10-11 22:33:55 | Weblog

『(102の2*71)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(牛窓町、~戦前)

 

現在の瀬戸内市の牛窓町、邑久町そして長船町の三つの町のうち一番南に位置する牛窓については、古来多くの逸話や伝統が伝わってきている。古代の姿はどうであったのか。この地における遺跡発掘を辿ると、概ね次のように伝えられている。いわゆる「縄文海進」で海面が上昇し、私たちが今日観る瀬戸内海の海岸線が形成されると、人々はこれに沿って集落を形成し、生活を営んでいたらしい。黄島貝塚、黒島貝塚などの遺跡も残されていることから、食生活は海産物が中心であったのではないかと推測されているところだ。

続く弥生時代になると、牛窓のあたりからは稲作を営んでいたことを証する遺跡がなかなか見つからなくなっていく。これはおそらくこのあたりの平地が狭小で、傾斜地が多く、地味が痩せていたことが影響したものと考えられている。
 やがて倭(わ、やまと)の古墳時代に入ると、このあたりには前方後円墳などの古墳が数多く造営されていった。牛窓天神山古墳は4世紀半ば~後半にかけて、黒島1号墳は5世紀前半、鹿歩山古墳(かぶやまこふん)は5世紀後半、そして波歌山古墳(はかやまこふん)は5世紀末~6世紀前半、さらに二塚山古墳は6世紀後半の造立だと考えられている。

これらの古墳の多くは、当時の牛窓湾を一望できる丘陵の上に存在していたのではないか、とみられている。これに付随するにものに、古墳時代を中心に備讃瀬戸地域から出土する土器がある。こちらは製塩のために使用された土器ということであるが、とくに現在の牛窓町牛窓師楽から大量に出土していることから、「師楽式土器」と呼ぶ慣わされているとのこと。
 ところで、鎌倉時代から室町時代にかけてまでの備前南部の軍事・交通・経済の中心は福岡(ふくおか)にあった。そして牛窓は、その福岡からそう遠くない場所にある。牛窓が、その位置、その地形などから見て、上代から良港の名をほしいままにしていた。ちなみに、『続日本記』巻第15の「聖武天皇天平15年(743年)5月28日条」には、こうある。
 「備前国(きびのみちのくち)言(まう)さく、「邑久郡新羅邑久浦(おほくぐんしらきおほくのうら)に大魚(おほうお)五十二隻漂着す。長さ二丈三尺己下一丈二尺己上なり。皮薄きこと紙の如く、眼(まなこ)は米粒(いひぼ)に似たり。声鹿の鳴くが如(ごと)し。故老皆云はく、「嘗(かつ)て聞かず]といふ」とまうす。」(「新日本古典文学大系}二、岩波書店、1990、427ページ)
 この書に「邑久郡新羅邑久浦」とあるのは、現在の錦海湾の南岸にある師楽湾(しらきわん)をいい、いかにも自然の境涯そのままの土地柄であったことが窺える。なお、一丈は十尺で、約3.3メートルのこと。
 やがて安土桃山時代に入ると、備前紺浦の牛窓は、内海航路、果ては外国貿易の港としても栄えていた。またその北隣の長浜湾の尻海も、天然の良港として栄えた(なお、こちらは1961年の埋め立てで、港の機能を失う)。

宇喜多氏(うきたし)から関ヶ原の戦い後は小早川氏の支配を経て、江戸時代になり岡山に池田氏が入って岡山藩となる。岡山に城下町が作られ、福岡の商人は岡山城下に移って行った。牛窓港も、鎖国による日明・日朝貿易はあったものの、内海航路の潮待ち、風待ちの港としては維持されていく。

そして1672年にいたると、それまでの北前船(きたまえぶね)の南下ルートに加えるに、日本海から瀬戸内海経由で大坂そして江戸に至る「西回り航路」が、河村瑞賢(かわむらずいけん、1617~1699)によって開拓される。
 ここに北前船とは、江戸時代から明治時代中期にかけて、主に北陸以北の日本海沿岸の諸港から沿岸を伝って下関に至り、さらに瀬戸内海を通過して大坂や江戸などにあれこれの物資を運んでいた。荷物の内容としては、行き年貢米や、蝦夷地を含む北の国の各地からの特産物、肥料としての干鰯(ほしか、鰊(にしん)のかす)、昆布、鮭(生魚や干物)などを、そして帰りは「買積」(かいづみ)といって船頭の裁量も含め各寄港地で産物を買い入れ、帰路の船荷にして運んでいた。後者は、元来た航路を伝って帰る途中、相場を見て売りさばくもので、しばしば大きな利益を生んでいたようである。
 それからは、瀬戸内の西から南からそして東から多くの船が備前にやってくるようになった、もしくは通過する船が多くなっていく。ちなみに、この牛窓のほか、当時の備前から備中の瀬戸内海沿いの良港として、日比(ひび、現在の玉野市)、下津井(しもつい、現在は倉敷市)、玉島(現在は倉敷市)などもあって、いずれも連携を保ちつつ、物産の集散地となっていたことを忘れてはならない。
 岡山藩については、3代目の藩主・池田光政の時、新田開発に取り組んだ。東側の入江の大浦湾を埋め立てて新田にしていく、それとともにこの地域に塩田をつくっていく計画であった。最初の工事は1649年(慶安2年)に行われ、新町ができた。続いて1661年(寛文元年)には、奥之町、土手、出来島の各地区ができ、少し遅れて生田ができる。さらに1695年(元禄8年)、同藩は、牛窓港の前面に波止めの施設を造ることにし、藩主の池田綱政は津田永忠に命じた。津田は、さっそく工事の陣頭指揮に立ち、工事に取りかかってから約10か月でこれを完成させる。牛窓の西港の前海に、長さ678メートル(記録としては「373間」とある)、高さ2.7メートル(記録としては「1間半」とある)の波止めが出来上がった。築石はすべて犬島(いぬしま)の石を使ったとあるから、前々から頭の中に工事の仕置きを入れていたのであろうか。これにより、東南の風にも強くなり、牛窓の港には西国大名の御座船が相次いで旗印を翻して寄港するようになる。また、1698年(元禄11年)になると、これまた岡山藩の命をうけた津田の活躍により、日生(ひなせ)の沖合にある大多府の港も「風待ち港」として整備されていく。
 これらのうちの牛窓は、物資の集散ばかりでなく、幕府の役人や参勤交代の大名の寄港地となった。わけても朝鮮からの使節(通信使)では宿営地を担った。当時の鎖国中にあっても、朝鮮(李王朝)とは友好関係にあった。将軍の代がわりごとに、その祝賀を兼ねて朝鮮通信使が日本にやって来ていた。江戸時代、一行の牛窓港への寄港は12回にも及び、人数は通常500人近い数であったことが伝わる。

 

(続く)

 

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『(102の1*71)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(その全体と邑久町そして長船町)

2018-10-11 22:31:29 | Weblog

『(102の1*71)』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』瀬戸内市(その全体と邑久町そして長船町)


旅人の視界の次に見えてくるのは瀬戸内市であるが、2004年11月、この市は当時の牛窓町、邑久町そして長船町の三つの町が合併してできた。その名の通り、瀬戸の海に向かうイメージであろうが、海岸線に出て行く路線としては、赤穂線(赤穂~岡山)の鉄路が走っている。この線をひもとくと、播州赤穂(ばんしゅうあこう)、天和(てんわ)、備前福河(びぜんふくかわ)とやって来て、その次の寒河(そうご)で岡山県に入る。
 それからは、日生(ひなせ)、伊里(いり)、備前片上(びぜんかたかみ)とやって来る。ここからはやや南に進路をとって、西片上(にしかたかみ)、伊部(いんべ)、香登(かがと)、長船(おさふね)、邑久(おく)へと進む。ついでに先まで紹介しておくと、そこから更には大富(おおどみ)、西大寺(さいだいじ)、大多羅(おおだら)、東岡山(ひがしおかやま)、高島(たかしま)、西川原(にしがわら)から終着の岡山へと向かう。瀬戸内市の三つの町の位置関係は、邑久町の西隣が同市の長船町、さらにこの両町の南で瀬戸内海に面しているのが牛窓町である。
 これらのうち邑久町は、これより前の第二次世界大戦敗戦後の1952年(昭和27年)に、邑久村、福田村、今城村、豊原村、本庄村、笠加村が合併して邑久町となっている。さらに先の1889年(明治22年)の町村制施行により邑久村、福田村、今城村、本庄村、笠加村、玉津村、裳掛村が成立していた。

 長船町(おさふねちょう)には、かつて山陽道の市場として名をはせていた福岡地区がある。1371年(応安4年にして建徳2年)、九州探題として赴任した今川貞世(いまがわ)は道中記「道ゆきぶり」で福岡の印象を「家ども軒をならべて、民のかまどにぎはひつつ、まことに名にしおひたり」と記しており、南北朝時代になって山陽道が通過することでの繁栄となっていく。

1350年(観応元年・正平5年)、足利尊氏は、西国にいる息子・足利直冬の離反の鎮定のため、西下の途中、軍勢と共にこの地に40日も駐留している。1441年(嘉吉元年)には、室町幕府により備前守護に任ぜられた山名教之(やまなのりゆき)が吉井川下流の中州に福岡城を構える。

それからは、戦国末期の宇喜多直家による領国支配となる。岡山城下町の建設に伴って、当地の豪商達の多くが岡山へ移っていく。1521~28年にかけての大洪水で吉井川は町内での流路を変える。江戸時代になると、ますます多くの住民が去って福岡は衰退していく。それでも、1642年(寛永19年)、岡山藩が設定した13の在町の一つに指定され、酒造が栄えていく。
 近世から江戸時代にかけての長船を支えたのは、日本刀の刀鍛冶場と、鋳物師による鉄製の生活用具の生産地としてであった。この地は、吉井川上流地域からの砂鉄と薪炭の入手が容易なこともあり、平安時代末から刀鍛冶が起こり、多くの名工を生んだ。
 一例をあげると、天文23(1554)年、岡山県立博物館蔵で所蔵の1554年(天文23年)作、刀銘備州長船佑定(びしゅうおさふねすけさだ)の添書には、こうあるとのこと。
 「戦国時代の備前国は、わが国最大の日本刀産地として栄えた。その中心となったのが長船(瀬戸内市)を拠点とした佑定の一門で、同名を名乗る数十人規模の生産体制らより、戦国乱世の刀剣需要に応えた。本品は、その典型的な作風を示すもので、がっしりとした力強い刀身は、片手で素早く脱刀できるよう先反りとなっており、実用本位の直刀(じきば)の刀文(はもん)を焼いている。銘(表)刀銘備州長船佑定、(裏)天文二三年八月日、刀長71.5cm、反り1.9cm。」(2017年5月18日のNHKデレビにて放映)
 それでは、このような刀剣づくりは、どのようにして可能になったのであろうか。長船町の西を流れる吉井川流域には、砂鉄の地層が浮き出ている。熱源の方も、上流の熊山連峰からは良質な薪が調達できた。その刀鍛冶商売も、武家政治が終わると需要の大方が無くなり、下火になっていく。それに引換え、藺草(いぐさ)の生産は、備中程ではないながらも、続いていく。1899年(明治22年)には、飯井村、東須恵村、西須恵村が合併し美和村となる。牛文村、磯ノ上村、福里村、土師村が合併し国府村となる。服部村、長船村、八日市村、福岡村が合併し行幸村となる。戦後では、1955年(昭和30年)には美和村、国府村、行幸村が合併し長船町が発足する。

(続く)

 

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『76の4*56の3』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備中高梁(江戸時代、城下町)

2018-10-11 21:44:31 | Weblog

『76の4*56の3』『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備中高梁(江戸時代、城下町)

 さて、その頃の高梁の町割りとしては、大まかに西の奥にお馴染みの備中松山城、東に向かっての麓に藩主を中心とした日常の政務場所・御根小屋(御城)といく。この小屋を核にして、範囲でいうと西へ行って紺屋川に突き当たるまで、南に向かっては高梁川に出会うまでを「城内」と呼んで最重要地域としていた。この場合、西に流れる紺屋川は「外堀」の役割を担っていたことになろう。

 それから、川を渡って西へ進んでいくと、そこには侍町が広がる。御城に近い区域には上級武士らが住んでいたという。たとえ中級の禄をはむ武士であっても、役職によっては住むところが特定されていた向きもあったのかもしれない。

 さらに町人たちについては、侍町の南側、高梁川の流れと並行して長い町並みになっていたという。その高梁川には、高瀬舟が通っていて、備中高梁の生活向きの多くを流通させていたのだと伝わる。

そして現代に伝わるめずらしいところでは、市内に頼久寺(らいきゅうじ)が有名だ。この寺の開基は室町期に遡る。足利尊氏(あしかがたかうじ)が、諸国に命じて建立させた安国寺の一つ、との伝承がある。寺内には、1604年(慶長9年)頃に造られたという、小堀遠州による設計の庭園が訪れる人を迎えてくれる。その形式は、蓬莱式枯山水庭園で珍しく、わびさびの世界が広がる。

その特徴は、愛宕山(あたごやま)を借景に、白砂が敷き詰められており、その中に「鶴島」、「亀島」といったお伽噺上の島がこしらえてある。また、遠景にはさつきがふんわりと植わっていて、そのいくつもの固まりが位置をずらしながらしつらえてあって、さながら波のようでもある。庭の植栽を賑わすこのやり方は、遠く西洋の作庭からの影響がみられるという。   

筆者はまだ訪れたことはないものの、テレビ番組でたまに取り上げられ、目を楽しませてくれる。昔懐かしい「旅は情け」の故事に従えば、さつきが満開の頃にここを訪れ、座敷に座って彼の意を凝らした庭を眺めると、ここを訪れる旅人の日頃の浮き世の疲れも、さぞかし癒されることだろう。
 この高梁の山間(やまあい)の地形に、うまくへばり付いた美しい町並みの城下町を出る。それから、高梁川の川沿いをたどっての南進は、大小の渓谷や峡谷つづきであって、当時の人馬による通行は、「道なき道」のようで、さぞかし難渋したことであろう。頼みの舟のルートも、このあたりは急流続きで往来には困難がつきまとう。

(続く)

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