♦️1118『自然と人間の歴史・世界篇』世界の半導体開発状況(アメリカと中国を中心に)

2022-01-30 20:22:30 | Weblog
1118『自然と人間の歴史・世界篇』世界の半導体開発状況(アメリカと中国を中心に)

 まずは、2021.2.28の中国側国家統計局発表として、中国の名目国内総生産(GDP)は、同統計局が同日発表した公式為替レートをもとに計算したドル建てのGDPは、前年比3.0%増の14兆7300億ドル(約1550兆円)となった。この換算にあっては、2020年平均でみた人民元の対ドル相場は1ドル=6.8974元と、前年の平均より0.02%のわずかな上昇となった由。人民元建てのGDPは101兆5986億元で、初めて100兆元を突破した。 中国での新型コロナの状況を振り返ると、年初に新型コロナウイルスがまん延し、早期に抑えこんだ。春以降は生産の回復を急ぎ、不動産開発などをてこに経済が持ち直した形だ。一方、外需も成長を押し上げ、20年は主要国で唯一のプラス成長となった。
 これとは対照的なのがアメリカで、新型コロナ対応の初動でつまずき、経済の足を引っ張った。米商務省によると、米国の名目GDPは20兆9349億ドルと、19年より2.3%減少した。この結果から、2020年、米GDPの7割を超えたことが分かったとされている。


 ついでながら、購買力でみた中国のGDP(それぞれの国内で人々が各国共通の財・サービスをどのくらいで買うことができるかについての、いわば仮定付きの指標)は、アメリカのそれを2014年に抜いており、そのことから、追々市場ベースでのGDP比較でも前者が後者を上回るであろうことは概ね予想されている(注)。

(注)これは、20世紀の初めにスウェーデンの経済学者カール・グスタフ・カッセルが提唱した外国為替レートの決定に関する理論である。具体的には、(Perchasing Power Parity Rate:PPP )レート=(自国の通貨建て物価/外国通貨建て物価)で求められるとしている。
 つまり、様々なやサービスをそれぞの国の通貨でどれだけ購入できるかという購買力の比でもって当該の為替レートが決まるというもの。この説によると、大多数の人が裁定(異なる市場の間の価格差を利用して利益を得る経済行為)をとるとその財・サービスの価格は同じになっていく、その結果として一物一価の法則が働くと考える訳だ。
 とはいえ、このレートはあくまでも理論値であって、外国為替市場での実際のレートは日々のニュースで伝わる市場為替レートとは異なっていて、当該の財・サービスでの両市場での価格差が追々縮小し、両国間で一物一価の法則が成立するようになるスパン(中・長期)に至れば、購買力平価説が成立すると考えられる。
 
 したがって、これまでの世界経済での両国の全般的すう勢が大きな変化を来さないかぎり、騒ぎ立てる程のことではあるまい。また、特に日本の保守的政治家などの中には、「今こそ米中のデカップリング」を強調する意見が散見されるものの、大方は経済合理性を無視して主張しているように見受けられ、有益であるとは思えない。


 そこで本題に入るとしよう。21世紀20年代前後からの中国には、資本、原材料、技術分野の人材が豊富だ。また、最先端のチップ設計技術をもつファーウェイ(華為)、アリババ(阿里巴巴)、バイドゥ(百度)といった、中核となる企業を有している。 しかし、高性能な半導体チップの製造については、特化した専門知識(ノウハウ)や、最新型のチップ製造に必須となる高度な半導体製造装置などが相当に不足している。
 ただし、その設計では粗いものから順に自前で展開できるまでになってきつつある。とりわけ、「ロジック半導体」と呼ばれる計算や制御を担当する半導体については、PCやスマートフォンなどの頭脳部分を構成するのに使われている。
 それらは、電力消費を下げ、性能を向上させるために、回路の微細化が求められ、回路の最小線幅が5nm(1ナノメートルは、10億分の1メートル)にもなっていく。アップル、NVIDIA、AMDなどのアメリカIT企業は、回路の設計を行ない、そして製造を「ファウンドリ」(受託製造)と呼ばれる企業に委託している。ファウンドリは、アメリカ、日本などの企業から製造装置や原材料を導入し、工程を整え、半導を提供している。かたや、サムスンなどは自グループ内で製造しているという。
 なお、アメリカの民間シンクタンクのブルッキングス研究所が、2021年1月に発表した報告書は、中国の国内チップ産業が、西側諸国からの数々の制裁措置やアメリカとの関係悪化によってさらに発展の速度を増していく可能性を指摘している。


 そこで、中国の国内外での動きから幾つかを見よう。

○2018年4月にはZTE(中興通訊)、2019年には中国スーパーコンピューターメーカーのSugon(中科曙光)を含む5つの中国企業、2020年にはHuawei(華為)関連企業と中国最大の半導体メーカーのSMIC(中芯国際)を含む合計115社の中国企業、そして2021年11月までにということで国立スーパーコンピュータセンター深圳(National Supercomputing Centre in Shenzhen, NSCS)、半導体設計企業のGoke Microelectronics(国科微)を含む42社がそれぞれエンティティリストに含まれ、アメリカの部品を購入することが禁じられた。

○2019年5月、トランプ大統領が「情報通信上のリスクがある外国製品の取引を禁止する」という大統領令に署名し、禁輸措置対象リスト(エンティティ・リスト)にHuaweiを追加した。この措置によって、Huaweiに対するアメリカ製ハイテク部品やソフトウェアの供給は困難になる見通し。

○続いての2020年8月には、エンティティ・リストにHuaweiの関連企業38社を追加し、「第三者を経由する形で部品調達を行う」という、Huaweiの禁輸回避策を塞ぐ措置を講じる。

○上記とほぼ重なるが、2020年8月、アメリカ商務省は、自国の半導体技術を購入するに当たり輸出許可を得ることが求められる企業を掲載したエンティティリストに、Huaweiの関連会社38社を追加した。この規定を用いての最大の標的としては、中国企業の通信大手Huaweiと同社の半導体設計部門HiSiliconであって、2020年の時点でHiSiliconは台湾のファンドリ大手TSMCにとって2番目に大きい顧客だった。次いで2020年後半には、アメリカはSMICもエンティティリストに加えている。

○2019年8月発表のニュースとして、中国IT大手アリババグループ傘下の半導体メーカー「平頭哥半導体(Pingtouge Semiconductor)」は7月25日、半導体チップの新製品「玄鉄910(XuanTie910)」を発表したという。高性能デバイス向けに開発されたチップで、5G(第5世代移動通信システム)、AI(人工知能)、自動運転などの分野で活用を目指す。アリババによると、同製品は業界で最も高い処理能力を持つRISC-Vプロセッサである。しかも、これの性能面の大きな飛躍を支えたのはアリババが成功した2つの技術革新、すなわち、アウトオブオーダー実行方式を採用し、1サイクルで2回のメモリアクセスを業界で初めて実現したこと。もうひとつは、RISC-Vを拡張して50ほど命令を追加することで、演算、記憶装置、マルチコアなどの性能を高めたことだと伝わる。
 なお、半導体をつくるまでの苦労は、大まかに言っても約30もの工程を重ねていかねばならぬことだろう。ここでいうところの半導体とは、物理的には電子回路を基板の上に集めた「集積回路」にして、「チップ」と言い慣わせられる。その機能としては、出入力を初め、演算、制御、記憶、増幅、通信などの多くの用途に使用可能であって、それらの情報は「ビッグデータの集積手段」となる。「前工程」と、それをウェハーチップとして切り出し、パッケージングを行って実装する「後工程」の2工程で成り立っている。また、材料やデバイスと呼ばれる半導体部品については、例えば自動車で使われるものは制御など高機能化を促す「パワー半導体」から、光を電気信号に変える「センサー半導体」、演算処理などを行う「ロジック半導体」、電源ICなどに使う「アナログ半導体」など数千から数万種に達することもある、ともいうのだが。


○2019年9月の報道として、アリババがAIチップ発表した。そして、TSMCが受託ファウンドリー(半導体の受託製造)世界最大手の台湾積体電路製造(TSMC)が、電子商取引(EC)中国最大手、阿里巴巴集団(アリババグループ)傘下の半導体企業が開発した人工知能(AI)チップの生産を受託したことが明らかになった。中国で独自のエコシステムを築くアリババが、最先端の半導体製造面において中国企業の技術開発力のあることを内外に示した形だ。


○2021年9月、中国の半導体受託生産最大手、中芯国際集成電路製造(SMIC)は3日、上海市の臨港新区に新しい半導体工場を建設すると発表した。投資額は88億7000万ドルとされ、上海市政府直属で貿易や投資などの改革を進める自由貿易試験区の管理委員会などと共同出資で新工場を建設、運営する新会社を設立することで合意したという。新会社の資本金は55億ドル。出資比率はSMICが51%以上、上海市政府側は25%以下で、ほかの投資家からの出資も呼びかけるつもりのようだ。
 新工場をいつ建てるかなどは未定だ。生産を予定する半導体だが、回路線幅が28ナノメートル以上の製品。なせかというと、米商務省は2020年12月、安全保障上問題がある企業を並べた「エンティティー・リスト」にSMICを加えた、そのことでアメリカは、10ナノメートル以下の半導体生産に必要な製造装置などの許可を原則出さない方針を堅持している。アメリカの制裁はそういうことなので、SMICとしては、28ナノメートル以上の技術を採用することで制裁の回避を狙う腹ではないか。

○2021年10月には「安全な機器に関する法律(Secure Equipment Act)」である、Huawei(華為)やZTE(中興通訊)などの機器が米国の電気通信ネットワークに侵入するのを防ぐ法(「安全な機器に関する法律(Secure Equipment Act)」)を成立させた。同年11月になると、安全上の理由をかざしての行政措置ということで、中国における米Intel社の増産計画を取りやめを働きかけたと報じられている。


○2021年10月の中国からのニュースによると、中国のアリババグループは、回路線幅5ナノ(ナノは10億分の1メートル)技術に基づく新しいサーバー向け半導体を発表した。
 そういうことを考えると、中国政府が半導体の自給自足を目指す中で大きな節目となる。これは、アリババの最新の半導体はソフトバンクグループ傘下アームが提供するマイクロアーキテクチャーをベースに、さしあたり、「近い将来」に自社のデータセンターで使用され、少なくとも当面は商業販売されないの位置付けとされる。同社としては、これの設計により、米アマゾン・ドット・コムやグーグルなどライバル企業のみならず、ひいてはインテルやアドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)など従来メーカーの設計した半導体を、自社設計の製品に徐々に置き換える動きに加わったことになろう。

○2021年12月13日、中国の企業破産法に基づく破産・債務再編手続きが進められている国有半導体大手、紫光集団(注)の破産管財人は、経営再建のスポンサーとなる、いわゆる戦略投資家に名乗りを挙げているプライベートエクイティファンドの智路資本(ワイズロード・キャピタル)と建広資産管理(JACキャピタル)を中心に組成されたコンソーシアムと契約を結んだ上で、事業および資産の組み替えの草案を策定し、それを手続きを所管する地方裁判所にあたる北京市第一中級法院に提出したと発表した。
 このスキームに則って、戦略投資家は紫光集団に総額600億元(約1兆676億円)を注入するとともに、その全額を債権者に対する債務の弁済に充てる。それと、コンソーシアムが受け皿会社を設立し、紫光集団の経営権を一括して取得する計画だという。
 債務の弁済方法に関しては、現金弁済に「債権と株式の交換」および「残債の一定年数の留保」を組み合わせた3種類のプランの中から債権者が選択できることに見通しと伝わる。
(注)なお、この問題において同社及び子会社の事業分野は、主に2つに分かれる。一つには、紫光国芯微電子(ユニグループ・グオシン・マイクロエレクトロニクス)、長江存儲科技(YMTC)、紫光展鋭(UNISOC)などが手掛ける半導体事業。もう一つは、紫光股份(ユニスプレンダー)、紫光雲技術(ユニクラウド)、紫光華山智安科技(ユニインサイト)などが手掛けるITサービスだとされる。


○2022年1月のニュースとしては、経営破綻した中国の半導体企業グループ「紫光集団」の債権者は、事業継承先に投資ファンド2社を中心とする連合を選ぶ再建案を承認した。この扱いによる継承先には、国有企業系投資ファンドのJACキャピタル(北京建広資産管理)と、投資ファンドのワイズロードキャピタル(北京智路資産管理)を中心とする連合が当たり、両投資ファンドは紫光集団に600億元(約1.1兆円)を支払い、傘下企業など合計7社を一括して継承するとのこと。


○それでは、なぜ経営破綻至ったのかといえば、2009年以降、経営者の片割れである紫光集団に出資した健坤投資集団の趙偉国が、紫光集団の董事長となり、趙の持つ豊富な人脈を生かして国家開発銀行など中国の政府系金融機関から巨額の資金を調達し、買収や設備投資を積極的に展開していた。ところが、急激な経営拡大がたたり、2020年11月以降に複数回のデフォルトを起こしたあげく、2021年7月には企業破産法を申請する。  
 その後は、日本の地方裁判所に当たる北京市第1中級人民法院の管轄にて、それと債権者集団の監督の下で再建を進めているところ。
 なお、これまでの話に出てくる紫光集団は、かたや精華大学傘下の持ち株会社である清華ホールディングス(清華股份、Tsinghua Holdings)の傘下にある。もう少しいうと、1988年、清華大学科技開発総公司が創設され、1993年にはこれが清華紫光総公司と改称された。
 それが変貌したのが2009年であった。この年に大幅な増資と再編が行われたことにより、株式の51%を清華大学傘下の清華控股有限公司、残りの49%を不動産の民間企業である健坤集団が保有する形となった、いわば半官・半民企業なのだろう。その実というのは、清華ホールディングスの傘下には紫光集団以外にも清華大学関連の様々な企業が存在するが、紫光集団ということでは2021年現在、中国の元不動産王である趙偉国が経営を握ってきたのだろうが、今回の再建話でこの関係がどうなるのかが見所なのだろう。なお、紫光集団の主な半導体企業としては、紫光国芯微電子(Ziguang Guoxin Microelectronics)、紫光展鋭(Unisoc Technologies)それに長江存儲科技(YangtzeMemory Technologies)がある。

○2021年11月の報道として、米企業やその関連会社が中国半導体企業への投資を拡大しているという。ニュース源は、WSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル。そちらの依頼で米調査会社ロジウム・グループが、2017年から20年にかけてのデータを収集した結果、米国のベンチャーキャピタル(VC(や半導体大手、個人投資家などが中国の半導体業界を対象とする投資案件58件に参加していた。米半導体大手インテルはいうにおよばず、これだけ多くの企業が積極的に投資しているとのことだ。2018年からアメリカ側が安全保障上の懸念を軸に中国の半導体開発に圧力をかけている割には、その効果はさほどでないのか。それから、2021年はどうであったのかは、また別の話となるのかも知れない。

○2021年12月の報道として、日本の半導体製造装置メーカーのローツェ(本社は広島県福山市)が、上海市で2022年夏を目標に、新たな工場を稼働させるという。中国国内で半導体産業が拡大する中、これの製造装置需要の拡大が見込まれることから、現地において細かく対応できる態勢を整える構えだ。


○2022年1月17日、経営再建中の中国半導体大手、紫光集団の資産管理人は17日、投資ファンド2社を中心とする連合を事業継承先として選ぶ再建案について、北京市の裁判所から承認を得たと発表した。中国政府の独占禁止法や国家安全保障上の審査を経て、うまくいけば、この流れで事業継承が確定する見通しだという。
 今回の再建案は、紫光集団と同社の傘下企業など計7社を一括して継承先を決める仕組みにして、国有企業系の北京建広資産管理、北京智路資産管理の両投資ファンドを中心とする連合が作る受け皿会社に、事業の大半が引き継がれることになる。具体的には、最先端の半導体メモリーを手掛ける長江存儲科技(長江メモリー・テクノロジーズ、YMTC)については、受け皿となる連合にも参画している湖北省科技投資集団(湖北科投)が引き継ぐのではないかと推測されている。


○顧みると、中国国内の半導体市場は、2020年5月にHuaweiとその関連企業、同12月にSMICとその関連企業が相次いでエンティティリストに掲載され、それぞれのメーカーに対して米国製の技術を用いた半導体製品や製造装置の輸出に米国商務省の許可が必要となった。
 これにより、Huaweiの場合は自社の設計に基づいていても製造装置が米国製であれば許可が必要となったため、当該のスマートフォンなど先端プロセスを採用した半導体の取得が不可能となった。SMICに対しても10nm以下の半導体を製造する際に使用する製造装置の輸出が原則禁止となった。
 一方で、2022年1月現在、COVID-19感染拡大の影響により、各地で工場の操業停止やヒトの移動への制約、モノの輸出入の停滞などにより、生産ラインに影響が出ている。需要側でも、リモートワークやリモート学習、移動手段の変化など新たな社会・経済・労働・生活様式の中で必要となる様々な製品向け半導体に不足が続いている。
 このような状況下で、中国側としては、半導体の内製化を進めたい。アメリカを頼らない方向での先端技術の育成を図る。また、微細化の必要がないパワー半導体や大手の半導体メーカーや28nmプロセス以上の製品に対する注力を強め、内製化率を高めようとしている。
 先端プロセスの実現が難しいのは、半導体材料や製造装置の内製化もほぼ同様であり、国産の材料や装置を立ち上げる必要にも迫られていて、これらの総合でこの問題を考えるべきだ。


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 それでは、各国は、どのような半導体戦略をとってきているのだろうか。


○2021年5月には、韓国産業通商資源部(部は省に当たる)が半導体産業の競争力強化を目指す国家戦略「K-半導体戦略」を発表した。この戦略は、19年に発表した「システム半導体戦略」、そして20年発表の「AI半導体戦略」に次ぐもの。
 新ビジョンの内容は、2030年に世界最高の半導体供給網を構築するというビジョンのもと、韓国サムスン電子など民間企業が合計で510兆ウォン以上を投資する。
 また、同月に米韓首脳会談がもたれた時、アメリカとの間で半導体と電気自動車(EV)向けバッテリー分野について、アメリカと包括的提携を結ぶ。
 ちなみに、文大統領がこれにかける意気込みは、「半導体産業は企業間競争から国家間競争の時代に移った」「半導体強国を目指し、政府も企業と一心同体になるべきだ」「世界で自国中心の供給網再編が始まり、激しい競争へと突入している。我々が向かうべき方向は明確だ。先制投資で外部の影響に揺るがないよう国内産業のエコシステムをさらに固め、世界の供給網を主導する。この機会を我々がものにすべきだ」などとある。


(続く)

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💗『『岡山の今昔』◇目次(2022.1.29)

2022-01-30 18:17:02 | Weblog
💛『『岡山の今昔』◇目次(2022.1.29)
 
2022.1.29、著者・管理人(丸尾泰司)

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□目次『岡山の歴史と岡山人』(2022年1月29日現在)

(※)項目の文章は、随時、予告なく追加や改訂を行っております。

(1)先史年代の吉備(その形)
(2)先史年代の吉備(津山海など、1700万~1500万年前)
(3)先史年代の吉備(瀬戸内海、寒冷期、15万年前から1万年前)
(4)人類の到来と吉備
(5)岡山の地質と水
(6)先史年代の吉備(瀬戸内海、温暖化)
(7)吉備高原面と瀬戸内面
(8)吉備の自然(中国山地)
(9)吉備の自然(三大河川と高梁川上流県立自然公園)
(10)旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)
(11)弥生時代の吉備
(12)弥生時代の吉備社会の構造
(13)吉備の古代の民衆生活はどうであったか
(14)倭の時代の吉備(古墳からの視点、その流れ)
(15)倭の時代の吉備(古墳からの視点、楯付式)
(16)倭の時代の吉備(古墳からの視点、大古墳)
(17)造山古墳の謎
(18)吉備の埴輪
(19)楯築墳丘墓、宮山墳丘墓など
(20)吉備の大古墳(3世紀後半~4世紀前半)
(21)邪馬台国と吉備(ヤマト説、北九州説)
(22)邪馬台国と吉備(ヤマト説、北九州説以外の説)
(23)倭の時代の吉備(ヤマト朝廷の支配下へ)
(24)倭の時代の吉備(吉備の実力)
(25)倭の時代の吉備(ヤマト朝廷との確執)
(26)倭の時代の吉備(ヤマト朝廷との確執、雄略~継体)
(27)倭の時代の吉備(鬼の城など)
(28)壬申の乱と吉備
(29)律令国家の成立から平安時代初期の吉備
(30)「三次清方意見封事十二か条」(備中下道郡、914)
(31)平安時代中期から晩期の吉備(三国の成立と発展)
(32)三国の奴隷制と疫病
(33)吉備の文化(万葉集など)
(34)源平の水島決戦と藤戸の戦い
(35)伊部焼と備前焼の発祥と発展
(36)伝統文化(神楽や踊りなど)
(37)鎌倉時代の三国(政治など)
(38)鎌倉時代の三国(経済など、大炊寮)
(39)鎌倉時代の三国(経済など、新見荘)
(40)鎌倉時代の三国(文化など)
(41)建武新政・室町時代の三国(南北朝統一前、山名氏の南下)
(42)南北朝の統一後の三国(1382~)
(43)三国の下剋上(赤松氏と浦上氏)
(44)戦国時代(金山城、三星城の攻防)
(45)南北朝統一後、戦国時代にかけての土地所有関係(1391~、新見荘、守護・山名氏の支配を巡って)
(46)備中北部からの交通の発達
(47)備前金岡荘・西大寺の自治を巡って
(48)備中国の上原郷、園荘など
(49)建武新政・室町時代の三国(文化)
💛(50)戦国時代の三国(1496~1568、概要)
(51)太閤検地(1594~1595)と三国
(52)安土桃山時代の三国
(53)身分統制令(1591)と人払い令(1592)
(54)江戸時代初期の三国(慶長の検地(1604、美作)など)
(55)岡山藩の成り立ち
(56)江戸時代の三国(交通など)
(57)江戸時代の三国(森藩)
(58)江戸時代の三国(津山城引渡し)
(59)大坂蔵屋敷と海運(岡山藩)
(60)鉄穴稼ぎ濁水事件(美作、1806)
(61)藩政(支配構造、岡山藩、津山藩など)
(62)日蓮宗不受布施派とキリスト教徒への弾圧
(63)岡山城の築城(14~17世紀)
(64)津山城の築城(~1616~)
(65)備中松山城の引き渡し(1693)とその後・幕末まで
(66)備中松山城の築城 (水谷氏時代まで)
(67)江戸時代~明治時代初期の三国の農民一揆など(全体)
(68)江戸時代の三国(元禄一揆・高倉騒動、1698~1699)
(69)江戸時代の三国(山中一揆、1726~1727)
(70)江戸時代の三国(新本義民騒動(1717)、美作幕府領越訴(1727)など)
(71)江戸時代の三国(飢饉)
(72)江戸時代の三国(美作元文一揆、1739)
(73)江戸時代の三国(美作元文一揆の舞台裏)
(74)美作延享の逃散(1746)
(75)江戸時代の三国(美作寛政の国訴(1798)、北条17か村江戸越訴(1813))
(76)江戸時代の三国(渋染一揆、1856)
(77)江戸時代の三国(長尾の農民一揆、1752)
(78)江戸時代の三国(17~19世紀の藩政改革、備前)
(79)江戸時代の三国(17~19世紀の、備中、美作、倉敷の幕府天領)
(80)江戸時代の三国(参勤交代、朝鮮通信使、義倉、富くじ、種痘など)
(81)江戸時代の三国(中期の経済)
(82)豪商による藩財政の立て直し(岡山藩、1675~1733)
(83)豪商による藩財政の立て直し(岡山藩、1776~1790)
(84)目代と助郷(江戸時代)
(85)幕末の攻防(津山藩、岡山藩、備中松山藩)
(86)幕末の諸藩(新田藩、鴨方藩、生坂藩、足守藩、庭瀬藩、岡田藩、勝山藩、新見藩、成羽藩など)
(87)戊辰戦争と岡山藩(1868~1869)
(88)天保の大飢饉(美作、1836)
(89)版籍奉還(1869)
(90)廃藩置県(1871)
(91)藩札は終幕へ(1853~1872)と、藩札交換の経緯とその効果(1870~1872)
(92)天保期の財政状況(岡山藩)
(93)身分解放令~市民平等告諭(1871)水平社運動
(94)地租改正(1873)
(95)秩禄処分(1876)
(96)廃城令(1873)
(97)幕末の騒擾(倉敷浅尾騒動、1866)
(98)幕末の騒擾(美作改政一揆、1866)
(99)幕末の騒擾(鶴田騒動、1867~1870)
(100)幕末の騒擾(玉島事変、1868)
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(101)幕末の騒擾(神戸事件、1868)
(102)江戸時代の岡山商人
(103)幕末の岡山への旅(河合継之助)
(104)明治時代の岡山(封建制の終焉、地方行政組織)
(105)明治時代の岡山(封建制の終焉、地租の改定、1878)
(106)明治時代の岡山(血税一揆・岡山南部、1871)
(107)明治時代の岡山(血税一揆・岡山県北部・美作など)・(美作血税一揆をどう同見るか、諸説の検討)
(108)初期の岡山県
(109)明治時代の岡山(産業の発展、紡績業)
(110)明治時代の岡山(産業の発展、農業)
(111)明治時代の岡山(産業の発展、生糸、伝統工芸品など)
(112)明治時代の岡山(電気、ガス、水道など)
(113)明治時代の岡山(自由民権運動)
(114)明治時代の岡山(学制と就学)
(115)明治時代の岡山(医療改革)
(116)明治時代の岡山(地租改正)
(117)金融の発展(明治時代)
(118)金融の発展(大正、昭和時代へ)
(119)労働者・勤労国民の生活(自由民権運動との関わりなど)
(120)大正、昭和(戦前)時代の岡山(電気、ガス、水道)
(121)明治、大正、昭和(戦前)時代の岡山(郵便、電話)
(122)明治、大正、昭和(戦前)時代の工業の発展
(123)明治、大正、昭和(戦前)時代の岡山(マスコミなどの文化)
(124)大正・昭和(戦前)の岡山(政治、米騒動など)
(125)大正・昭和(戦前)の岡山(経済)
(126)大正・昭和(戦前)時代の資本と労働(倉敷紡績を中心に)
(127)明治、大正時代の岡山市街
(128)昭和(戦中)の岡山市街
(129)岡山空襲(1945) 、津山城天守(仮設)の撤去(1945)
(130)水島空襲(1945)、玉野空襲(1945)
(131)昭和(戦中までの)岡山市街
(132)敗戦時の岡山市街(1945)
(133)戦後の高度成長期へ
(134)戦後の高度成長期(岡山城の再建、1966)
(135)1970年代の岡山県
(136)1980年代の岡山県
(137)1990年代の岡山県
(138)2000~2010年代の岡山県
(139)2010~2020年代の岡山県(新型コロナなど)
(140)出雲街道(姫路~津山)
(141)出雲街道(津山~出雲方面へ)
(142)備前往来(岡山道)
(143)備前往来(西大寺道、津山~美咲、赤磐)
(144)備前往来(西大寺道、岡山~海)
(145)備前往来(吉井川)
(146)山陽道(播磨から備前へ、山陽本線から山陽新幹線へ)
(147)山陽道(備前焼、その発祥)
(148)山陽道(備前焼、その発祥の背景)
(149)山陽道(須恵器から備前焼へ、その製造技術の発展)
(150)山陽道(備前の海)
(151)山陽道(閑谷学校)
(152)出雲から県境へ
(153)県境から新庄、美甘そして勝山へ
(154)勝山、久世から津山へ
(155)津山市街西部(翁橋界隈まで)
(156)津山市街中心部への道
(157)津山市街中心部
(158)新見から津山へ
(159)高梁川源流域から新見へ
(160)新見市(その全体)
(161)新見市街とその周辺
(162)新見から広島との県境
(163)新見から高梁へ
(164)備中高梁(城と城下町の景観)
(165)備中高梁(~戦国時代)
(166)備中高梁(~戦国時代、領国支配)
(167)備中高梁(江戸時代、領国支配)
(168)備中高梁(城下町)
(169)高梁市(明治時代~現代)
(170) 高梁市(旧川上郡と旧阿哲郡)
(171) 浅口市
(172) 里庄町(浅口郡)
(173)高梁から総社、小田郡(矢掛町)へ
(174)井原市
(175)備讃瀬戸、塩飽諸島(近世~明治)
(176)矢掛町(小田郡)
(177)早島町(都窪郡)
(178)岡山から総社、倉敷へ(古代から鎌倉時代)
(179)岡山から総社、倉敷へ(室町時代)
(180)岡山から総社、倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、桃太郎物語の紹介など)
(181)岡山から総社、倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代、桃太郎物語の評価など)
(182)高松城水攻め
(183)岡山から総社、倉敷へ(江戸時代)
(184)岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓、近世、倉安運河、幸島新田など)
(185)岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓、近世~戦後、児島湾)
(186)岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓、江戸時代、百間川の創設と沖新田など)
(187)岡山から総社、倉敷へ(備中の干拓、安土桃山~江戸時代、興除新田、福田新田、阿賀新田など)
(188)倉敷から笠岡へ(備中の干拓、江戸時代~明治、経済効果)
(189)岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治~現代)
(190)笠岡(笠岡の干拓、明治~現代)
(191)西部(西部の干拓、幸島新田など)
(192)倉敷天領(江戸時代)
(193)西部(幸島新田と忠兵衛)
(194)岡山から総社、倉敷へ(近世から現代へ)
(195)水島工業地帯(造成)
(196)水島工業地帯(石油化学コンビナートの建設、電力など)
(197)水島工業地帯(公害などの環境問題)
(198)水島工業地帯(製鉄など)
(199)水島工業地帯(自動車)
(200)南海地震(1946)
(201)水島工業地帯石油化学コンビナート(21世紀)
(202)水島臨海鉄道と水島港
(203)岡山の歴史的現在からの視点(産業など)
(204)備前岡山(江戸時代以前)
(205)備前岡山(江戸時代初期の農政、岡山藩)
(206)備前岡山(江戸時代初期の農政、その他)
(207)幕末の年貢状(岡山の米倉村)
(208)綿花栽培と小倉織(近世から明治時代へ)
(209)イグサ栽培とその製品(玉島など)
(210)鉄と銅
(211)ベンガラ、炭など
(212)漁業
(213)製塩業
(214岡山をめぐる運輸(北前船などの船運)
(215) 岡山市(明治~現代、その全体)
(216) 岡山市(北区)
(217) 岡山市(中区)
(218) 岡山市(東区)
(219) 岡山市(南区)
(220) 岡山市(岡南工業地帯)
(221) 岡山市(農業)
(222) 岡山市と井原市(戦前~1970年代、ジーンズ産業)
(223) 岡山市(牧畜と酪農の歴史)
(224) 岡山市(牧畜と酪農、21世紀)
(225) 岡山市(戦後の商店街)
(226) 岡山市(宇野線沿線、旧下津井電鉄線沿線の経緯)
(227) 岡山市(低成長期へ)
(228)岡山市(21世紀、商店街)
(229)和気町(和気郡)
(230)赤磐市
(231)備前市
(232)玉野市
(233)美咲町(久米郡、柳原を含む)
(234)久米南町(久米郡)
(235)瀬戸内市(その全体と邑久町そして長船町)
(236)瀬戸内市(牛窓町、戦前)
(237)瀬戸内市(牛窓町、戦後)
(238)倉敷市(その全体)
(239)倉敷(船穂・真備エリア)
(240)倉敷(水島エリア)
(242)倉敷(児島・下津井エリア)
(243)倉敷(玉島エリア)
(244)倉敷美観地区(大原美術館、倉敷民芸館、倉敷アイビースクエアなど)
(245)岡山から倉敷へ
(246)倉敷から鴨方、浅口へ(鴨方藩など)
(247)総社市
(248)笠岡市
(249)吉備高原(地形と地質)
(250)吉備中央町(加賀郡)
(251)蒜山高原
(252)津山市
(253)智頭急行線沿線
(254)西粟倉村(英田郡)
(255)高野、勝北、日本原から奈義、鳥取へ
(256)奈義町(勝田郡)
(257)日本原高原と自衛隊
(258)勝央町(勝田郡)
(259)美作市
(260)鏡野町(苫田郡)
(261)真庭市
(262)新庄村(真庭郡)
(263)人形峠
(264)伯耆街道、倉吉街道
(265)中国縦貫道路など
(266)瀬戸大橋線沿線(岡山~児島)
(267)たたい用水路、近平用水
(268)内陸部での新田開発、山上がり、ため池など
(269) 倉吉川吉井水門
(270)瀬戸大橋線沿線(児島~下津井)
(271)瀬戸大橋線沿線(下津井~四国)
(272)瀬戸内の幸多し(陸)
(273)瀬戸内の幸多し(海)
(274)瀬戸内の幸多し(ばら寿司、ままかり)
(275)瀬戸内の幸多し(さわら、タコなど)
(276)西日本集中豪雨とその原因
(277)岡山のうまいもの、あれこれ(麺類)
(278)岡山のうまいもの、あれこれ(饅頭)
(279)岡山のうまいもの、あれこれ(餅など)
(280)岡山のうまいもの、あれこれ(肉など)
(281)岡山人(~13世紀、吉備真備、和気清麻麿)
(282)岡山人(~13世紀、妹尾兼康)
(283)岡山人(~13世紀、たまかき)
(284)岡山人(15世紀、徹書記、那須与一)
(285)岡山人(~13世紀、栄西)
(286)岡山人(14~16世紀、雪舟)
(287)岡山人(13~14世紀、寂室元光)
(288)岡山人(15~16世紀、北条早雲)
(289)岡山人(16世紀、竹内久盛)
(290)岡山人(16世紀、清水宗治)
(291)岡山人(16世紀、宇喜多直家)
(292)岡山人(16~17世紀、宇喜多秀家)
(293)岡山人(16~17世紀、森忠政、森長継、森長成)
(294)岡山人(17~18世紀、日樹上人)
(295)岡山人(17~18世紀、茅野和助、神崎与五郎、横川勘平、早水藤左衛門
(296)岡山人(17世紀、池田光政)
(297)岡山人(18世紀、松平康哉)
(298)岡山人(17~18世紀、小堀遠州)
(299)岡山人(17~18世紀、河原善右衛門、小原七郎左衛門、守屋官兵衛)
(300)岡山人(17~18世紀、宮本武蔵)
(301)岡山人(17~18世紀、熊沢蕃山)
(302)岡山人(17~18世紀、井戸平左衛門)
(303)岡山人(17~18世紀、津田永忠、田坂与七郎、近藤七助、河内屋治兵衛)
(304)岡山人(17世紀、堀内三郎右衛門)
(305)岡山人(18世紀、池田徳右衛門)
(306)岡山人(18世紀、関衆利)
(307)岡山人(18世紀、古川古松軒)
(308)岡山人(18世紀、万代常閑)
(309)岡山人(18世紀、寂厳)
(310)岡山人(18世紀、池田継政)
(311)岡山人(18世紀、新四郎と利兵衛)
(312)岡山人(18世紀、岡雲臣)
(313)岡山人(18世紀、河本又一郎)
(314)岡山人(17~18世紀、小寺清先)
(315)岡山人(18~19世紀、河本立軒)
(316)岡山人(18~19世紀、山嶋大年)
(317)岡山人(18~19世紀、小野光右衛門)
(318)岡山人(18~19世紀、川合忠蔵)
(319)岡山人(18~19世紀、谷東平新)
(320)岡山人(18~19世紀、太田直太郎、内藤定次郎、内藤孝次郎)
(321)岡山人(18~19世紀、藤田秀斎、佐藤善一郎、佐伯義門)
(322)岡山人(18~19世紀、関鳥翁、早川正紀)
(323)岡山人(18~19世紀、丸川松陰)
(324)岡山人(18~19世紀、岡本豊彦)
(325)岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)
(326)岡山人(19世紀、西山拙斎)
(327)岡山人(19世紀、鞍懸吉寅)
(328)岡山人(19世紀、浦上玉堂)
(329)岡山人(19世紀、宇田川よう庵)
(330)岡山人(18~19世紀、良寛)
(331)岡山人(18~19世紀、丸川松陰)
(332)岡山人(18~19世紀、岡本豊彦)
(333)岡山人(18~19世紀、関藤藤蔭)
(334)岡山人(18~19世紀、野崎武左衛門)
(335)岡山人(18~19世紀、正木兵馬)
(336)岡山人(18~19世紀、植原六郎左衛門)
(337)岡山人(18~19世紀、宇田川興斎)
(338)岡山人(18~19世紀、岸本武太夫)
(339)岡山人(18~19世紀、河本公軒、原田直次郎)
(340)岡山人(19世紀、宇田川玄随、宇田川玄真)
(341)岡山人(19世紀、緒方洪庵)
(342)岡山人(19世紀、箕作阮甫)
(343)岡山人(19世紀、早川八郎左衛門)
(344)岡山人(19世紀、津田真道)
(345)岡山人(19世紀、宇田川秋坪)
(346)岡山人(19世紀、箕作省吾)
(347)岡山人(19世紀、箕作麟祥)
(348)岡山人(19世紀、横山廉造)
(349)岡山人(19世紀、大石隼雄)
(350)岡山人(19世紀、小林令助)
(351)岡山人(19世紀、伊藤万喜、江戸での暮らし)
(352)岡山人(19世紀、伊藤万喜、美作から江戸へ)
(353)岡山人(19世紀、徳兵衛)
(354)岡山人(19世紀、鍬形恵斎)
(355)岡山人(19世紀、岸田吟香)
(356)岡山人(19世紀、橋本いね)
(357)岡山人(19世紀、石井宗謙)
(358)岡山人(19世紀、石坂桑亀と石坂堅壮)
(359)岡山人(19世紀、児島順蔵)
(360)岡山人(19世紀、難波抱節、難波経直)
(361)岡山人(19世紀、友山勝次)
(362)岡山人(19世紀、正阿弥勝義)
(363)岡山人(19世紀、光後玉江)
(364)岡山人(19世紀、山田方谷)
(365)岡山人(19世紀、金光大神)
(366)岡山人(19世紀、黒住宗忠)
(367)岡山人(19世紀、太田辰五郎、土屋源市)
(368)岡山人(19世紀、久原洪哉)
(369)岡山人(19世紀、芳村杏斎)
(370)岡山人(19世紀、伊木忠済、江見鋭馬)
(371)岡山人(19世紀、牧野権六郎、森下景端、犬飼松窓)
(372)岡山人(19世紀、安原玉樹)
(373)岡山人(19世紀、鳥人幸吉、浮田幸吉)
(374)岡山人(19世紀、緒方研堂)
(375)岡山人(19世紀、衣笠豪谷、原田直次郎)
(376)岡山人(19世紀、柴田恭兵義重)
(377)岡山人(19世紀、石井金陵)
(378)岡山人(19世紀、飯塚竹斎)
(379)岡山人(19世紀、徳兵衛)
(380)岡山人(19世紀、木下幸文)
(381)岡山人(19世紀、平賀元義)
(382)岡山人(19世紀、鎌田玄渓、花房端連)
(383)岡山人(19~20世紀、藤田伝三郎)
(384)岡山人(19~2世紀、出隆)
(385)岡山人(19~20世紀、箕作元八)
(386)岡山人(19~20世紀、箕作佳吉)
(387)岡山人(19~20世紀、菊池大麓)
(388)岡山人(19~20世紀、原村元貞)
(389)岡山人(19~20世紀、山田純造)
(390)岡山人(19~20世紀、平沼淑郎と平沼麒一郎)
(391)岡山人(19~20世紀、宇田川準一)
(392)岡山人(19~20世紀、田渕まさ代)
(393)岡山人(19~20世紀、浮田佐平)
(394)岡山人(19~20世紀、服部和一郎)
(395)岡山人(19~20世紀、与田銀次郎)
(396)岡山人(19~20世紀、永山久吉)
(397)岡山人(19~20世紀、大原孝四郎)
(398)岡山人(19~20世紀、戸塚文海)
(399)岡山人(19~20世紀、清水比庵)
(400)岡山人(19~20世紀、上島鳳山)
(401)岡山人(19~20世紀、大林千萬樹)
(402)岡山人(19~20世紀、大西祝)
(403)岡山人(19~20世紀、田中塊堂)
(404)岡山人(19~20世紀、大岡熊次郎)
(405)岡山人(19~20世紀、竹内文)
(406)岡山人(19~20世紀、立石岐)
(407)岡山人(19~20世紀、仁木永祐)
(408)岡山人(19~20世紀、安井誠一郎)
(409)岡山人(19~20世紀、阪田久五郎)
(410)岡山人(19~20世紀、黒住章堂)
(411)岡山人(19~20世紀、香川英五郎)
(412)岡山人(19~20世紀、津田白印)
(413)岡山人(19~20世紀、山上喜美恵)
(414)岡山人(19~20世紀、児島虎次郎)
(415)岡山人(19~20世紀、柴原宗助)
(416)岡山人(19~20世紀、福田英子)
(417)岡山人(19~20世紀、厳津政右衛門)
(418)岡山人(19~20世紀、三好伊平次、安達清風)
(419)岡山人(19~20世紀、吉岡三平)
(420)岡山人(19~20世紀、宇野弘蔵)
(421)岡山人(19~20世紀、新庄厚信、石部誠中、高崎五六)
(422)岡山人(19~20世紀、藤井静一、笠井信一)
(423)岡山人(19~20世紀、宇野円三郎)
(424)岡山人(19~20世紀、相賀武夫)
(425)岡山人(19~20世紀、杉本京太、磯崎眠亀)
(426)岡山人(19~20世紀、守分十)
(427)岡山人(19~20世紀、伊藤木藻平)
(428)岡山人(19~20世紀、黒住章堂、釈日研)
(429)岡山人(19~20世紀、山本徳一、伊原木藻平)
(430)岡山人(19~20世紀、原撫松)
(431)岡山人(19~20世紀、阪谷朗盧)
(432)岡山人(19~20世紀、西毅一)
(433)岡山人(19~20世紀、阿藤伯海)
(434)岡山人(19~20世紀、加藤忍九郎)
(435)岡山人(19~20世紀、綱島梁山
(436)岡山人(19~20世紀、逸見東洋)
(437)岡山人(19~20世紀、杉山岩三郎)
(438)岡山人(19~20世紀、矢野恒太、山川均、岡崎嘉平太)
(439)岡山人(19~20世紀、坪田利吉)
(440)岡山人(19~20世紀、米井源治郎)
(441)岡山人(19~20世紀、田辺碧堂)
(442)岡山人(19~20世紀、中塚一碧楼)
(443)岡山人(19~20世紀、大賀一郎、井戸泰)
(444)岡山人(19~20世紀、井出訶六)
(445)岡山人(19~20世紀、馬越恭平)
(446)岡山人(19~20世紀、森田思軒)
(447)岡山人(19~20世紀、有元利夫、石井直三郎、安達清風、宇垣一成)
(448)岡山人(19~20世紀、信野友春)
(449)岡山人(19~20世紀、佐々廉平)
(450)岡山人(19~20世紀、常の花寛一)
(451)岡山人(19~20世紀、川村清一、川村多実二、川村邦三)
(452)岡山人(19~20世紀、久原茂良、清水寂担)
(453)岡山人(19~20世紀、赤沢乾一)
(454)岡山人(19~20世紀、久原みのる、山羽虎夫)
(455)岡山人(19~20世紀、葉上照澄)
(456)岡山人(20世紀、久原濤子)
(457)岡山人(20世紀、渡辺元一、高梁慈本)
(458)岡山人(20世紀、内田鶴雲、高橋聖鶴)
(459)岡山人(20世紀、尾崎小太郎)
(460)岡山人(20世紀、大原清一)
(461)岡山人(20世紀、森近運平)
(462)岡山人(20世紀、竹久夢二)
(463)岡山人(20世紀、大原孫三郎、妹尾順平)
(464)岡山人(20世紀、法華滋子)
(465)岡山人(20世紀、福井純一)
(466)岡山人(20世紀、平櫛田中)
(467)岡山人(20世紀、中山幸一)
(468)岡山人(20世紀、布施健)
(469)岡山人(20世紀、生田安宅)
(470)岡山人(20世紀、福西志計子)
(471)岡山人(20世紀、宗道臣)
(472)岡山人(20世紀、芦田高子)
(473)岡山人(20世紀、林原一郎)
(474)岡山人(20世紀、衣笠豪谷)
(475)岡山人(20世紀、小山冨士夫)
(476)岡山人(20世紀、川崎裕宣)
(477)岡山人(20世紀、上島鳳山)
(478)岡山人(20世紀、大林千萬樹)
(479)岡山人(20世紀、佐藤一章)
(480)岡山人(20世紀、田中塊堂)
(481)岡山人(20世紀、森下精一)
(482)岡山人(20世紀、河野進)
(483)岡山人(20世紀、小山祐二)
(484)岡山人(20世紀、アリス・ベティ・アダムス)
(485)岡山人(20世紀、石井十次)
(486)岡山人(20世紀、留岡幸助)
(487)岡山人(20世紀、山室軍平)
(488)岡山人(20世紀、片山潜)
(489)岡山人(20世紀、山川均)
(490)岡山人(20世紀、安倍磯雄)
(491)岡山人(20世紀、小野竹喬)
(492)岡山人(20世紀、吉野善介)
(493)岡山人(20世紀、山内善男、大森熊太郎、小山益太、大久保重五郎、西岡仲一)
(494)岡山人(20世紀、犬養毅)
(495)岡山人(20世紀、内田百けん)
(496)岡山人(20世紀、大原総一郎)
(497)岡山人(20世紀、仁科芳雄)
(498)岡山人(20世紀、武岡鶴代)
(499)岡山人(20世紀、内山完造)
(500)岡山人(20世紀、上代淑)
(501)岡山人(20世紀、片岡鉄平)
(502)岡山人(20世紀、延原謙)
(503)岡山人(20世紀、兼重陶陽)
(504)岡山人(20世紀、藤原啓)
(505)岡山人(20世紀、山本陶秀)
(506)岡山人(20世紀、藤原雄)
(507)岡山人(20世紀、大野昭和斎)
(508)岡山人(20世紀、本田文輔)
(509)岡山人(20世紀、池田ようそん)
(510)岡山人(20世紀、河野進)
(511)岡山人(20世紀、柚木久太)
(512)岡山人(20世紀、佐藤清明)
(513)岡山人(20世紀、石井直三郎)
(514)岡山人(20世紀、金重素山)
(515)岡山人(20世紀、東原方僊) 
(516)岡山人(20世紀、近藤鶴代)
(517)岡山人(20世紀、本田實、小槇孝次郎)
(518)岡山人(20世紀、美土路昌一)
(519)岡山人(20世紀、棟田博)
(520)岡山人(20世紀、森本慶三)
(521)岡山人(20世紀、高木東六)
(522)岡山人(20世紀、阿部知二)
(523)岡山人(20世紀、吉行淳之介)
(524)岡山人(20世紀、鹿子木孟郎)
(525)岡山人(20世紀、満谷国四郎)
(526)岡山人(20世紀、黒崎秀明)
(527)岡山人(20世紀、赤松麟作)
(528)岡山人(20世紀、木村毅)
(529)岡山人(20世紀、岡崎嘉平太)
(530)岡山人(20世紀、柴田錬三郎)
(531)岡山人(20世紀、西東三鬼)
(532)岡山人(20世紀、時実新子)
(533)岡山人(20世紀、国吉康雄)
(534)岡山人(20世紀、坂田一男)
(535)岡山人20世紀、内田吐夢)
(536)岡山人(20世紀、坂野鉄次郎)
(537)岡山人(20世紀、永瀬清子)
(538)岡山人(20世紀、坪田譲治)
(539)岡山人(20世紀、木山捷平
(540)岡山人(20世紀、尾上松之助)
(541)岡山人(20世紀、重森三玲)
(542)岡山人(20世紀、人見絹枝)
(543)岡山人(20世紀、大山康晴)
(544)岡山人(20世紀、三宅精一)
(545)岡山人(20世紀、内田吐夢)
(546)岡山人(20世紀、正宗白鳥)
(547)岡山人(20世紀、坪田譲治)
(548)岡山人(20世紀、布上喜代免)
(549)岡山人(20世紀、薄田泣董)
(550)岡山人(20世紀、土光敏夫)
(551)岡山人(20世紀、苅田アサノ)
(552)岡山人(20世紀、朝日茂)
(553)岡山人(20世紀、滝川幸辰)
(554)岡山人(20世紀、福武哲彦)
(555)岡山人(20世紀、横溝正史)
(556)岡山人(20世紀、三木行治)
(557)岡山人(20世紀、小谷善守)
(558)岡山人(20~21世紀、手塚亮)
(559)岡山人(20~21世紀、水野晴郎    )
(560)岡山人(20世紀、米川文子)
(561)岡山人(20世紀、斎藤真一)
(562)岡山人(20世紀、尾上紫舟)
(563)岡山人(20世紀、太田薫)
(564)岡山人(20世紀、金重道明)
(565)岡山人(20~21世紀、藤澤人牛)
(566)岡山人(20~21世紀、河野磐)
(567)岡山人(20~21世紀、高塚省吾)
(568)岡山人(20~21世紀、大森久雄)
(569)岡山人(20~21世紀、稲葉右二)
(570)岡山人(20~21世紀、江草安彦)
(571)岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎、長野士郎)
(572)岡山人(20~21世紀、田淵節也)
(573)岡山人(20~21世紀、星野仙一)
(574)岡山人(20~21世紀、吉永祐介)
(575)岡山人(20~21世紀、渡辺和子)
(576)岡山人(20~21世紀、上野耐之)
(577)岡山人(20~21世紀、矢山有作)
(578)岡山人(20~21世紀、岡映)
(579)岡山人(20~21世紀、大林秀彌)
(580)岡山人(20~21世紀、福田史郎)
(581)岡山人(20~21世紀、高畑勲)
(582)岡山人(20~21世紀、山本博文)
(583)岡山人(20~21世紀、木原光知子)


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〇経済成長率=労働力の伸び率+労働生産性
経済成長率-労働力の伸び率=労働生産性上昇率
=全要素生産性上昇率+労働分配率×労働力の伸び率+資本分配率×資本の伸び率
=全要素生産性上昇率+資本分配率×(資本の伸び率-労働力の伸び率)
○全要素生産性=労働生産性-資本分配率×資本装備率(K/L)
〇労働分配率とは、付加価値に占める雇用者所得の割合。
(一人当たりの実質賃金を一人当たりの実質GDP)で除したものが労働分配率。つまり、
(一人当たりの実質賃金/一人当たりの実質GDP)


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◻️571『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎、長野士郎)

2022-01-29 20:54:31 | Weblog
571『岡山の今昔』岡山人(20~21世紀、橋本龍太郎、長野士郎)

 橋本龍太郎(はしもとりゅうたろう、1937~2006)は、保守派の政治家だ。ポマードで整えた感じの頭髪を思い浮かべる人も、多いのでは。


 東京都の生まれ。父の地元の岡山とも行き来したのではないか。1960年(昭和35年)には、慶応義塾大学法学部政治学科を卒業する。


 そして、まだ20代の青年だというのに、厚相、文相を務めた父橋本龍伍の死後、その地盤を継いだ形で、1963年に衆議院議員に当選する。


 それからは、持ち前の政治感覚の鋭利さで自民党で頭角を現す。1978年には、大平正芳(おおひらまさよし)内閣で厚相として初入閣する。
 さらに、運輸相、自民党幹事長、蔵相、党政調会長、通産相などを務める。中曽根康弘(なかそねやすひろ)内閣の運輸相として、国鉄分割民営化に邁進する。当時の中曽根首相は、アメリカのレーガン大統領にも似て、労働運動潰しを重要視していたのであろう。


 1995年には、通産相として日米自動車交渉にあたる。と、こうしてみると、彼は、保守の中では、実務派の部類なのであろう。


 1996年には、首相となる。同年9月衆議院を解散、10月の小選挙区比例代表並立制に臨む。この総選挙で自民党は大勝し、11月首相に第二次橋本内閣を発足させる。


 1997年9月に第二次改造内閣が発足するも、1998年の参院選惨敗により、同年7月に辞任する。


 それからも、2000年の第二次森喜朗(もりよしろう)改造内閣では、行政改革担当相、沖縄開発庁長官を務める。同年には、小渕派()を引き継ぎ橋本派を、立ち上げる。


 2001年には、自民党総裁選に立候補し、小泉純一郎に敗れる。2004年、日本歯科医師連盟から橋本派への不正献金問題の責任を受け、同派閥の会長を辞任し、2005年8月、総選挙に立候補しないと発表する。その幕引きは、時折マスコミに見せる静かなダンディーさながらに、大方爽やかであったのではないだろうか。


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 長野士郎 ながのしろう(1917-2006)は、官僚そして政治家だ。総社市の生まれ。1941年(昭和16年)に東京大学法学部を卒業すると、徴兵にはならずに1942年(昭和17年)に内務省に入る。それからは、
 戦後は、選挙、行政、財政の各局長をへて、典型的な内務省官僚なのだが、1971年(昭和46年)には事務次官に就任する。その体験に基づいた学識も豊かで、地方自治法関連の学者としても広く知られる。
 そして転機はやってきた。社公民路線を提唱する社会党右派の江田三郎(岡山選挙区)の勧めで、1972年(昭和47年)に岡山知事選に立候補する。自民党ベッタリの保守勢力に対抗する名目ながら、革新勢力というのでもない、それでも県民本位、住民参加の県政をとなえ、当選する。1996年までの6期務める。1995年には、全国知事会会長。
 知事を退任すると、それまでの負の側面も浮き彫りになっていく。知事就任からの進化の過程では、かなりの積極財政論者、しかも吉備高原都市の建設や苫田ダムといった大規模公共事業にものめり込んでいく。
 その退任直後の1996年度の岡山県の起債制限比率は15.5%にて、47都道府県中最下位となっていた。1993年度末に562億円あった財政調整基金も4分の1以下に減少するなど、破綻寸前の危機的な財政状況であった、とも伝わる。


(続く)

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◻️438に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山川均、岡崎嘉平太)

2022-01-29 19:00:11 | Weblog
438に合併『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、山川均、岡崎嘉平太)

 山川均(やまかわひとし、1880~1958)は、日本の社会主義者にして翻訳家でもある。革命家の部類に属しながらも、政争にはなじまなかったのではないか。むしろ、私見だが、政治思想家というのがふさわしい。

 今の岡山県の倉敷の生まれ。後の自伝に、こんな当時の故郷評を述べている。

 「倉敷は片田舎の町としては、たしかにきれいな町だった。大正8年(1919)に、私といっしょにはじめてこの地方に旅行した妻の菊栄をおどろかせたのは、関東や東北の農村にくらべて、鉄道沿線の農家のかくだんに裕福そうなことだった。(中略)
 じっさい私の町は白くて明るい町、そしていかにも昔風の田舎の大家といったような感じをあたえる町だった。(中略)
 こうして私の村は多年のあいだの地方政治の小中心地からはなれ、「天領倉敷」などというハクのはがれた、ただの田舎になった。そのとたんに御蔵元も御廻米もなにもかも吹き飛んでしまったので、私の家は完全な意味で失業してしまった。」(「山川均「山川均自伝」」)


 若くには、同志社大学時代、キリスト教にも大いに傾倒した時期があったという。聡明さは群を抜いていて、大学時代から社会の動きに鋭敏であった。マルクスの思想を身に着けて後は、それらに加え、大いなる気概をもって前進していく。

 1922年7月15日には、山川らが中心となって日本共産党が誕生した。しかし、この党はほとんど機能していないところで、翌1923年6月には主要メンバー29名が検挙され、壊滅状態に陥ってしまった。ともあれ、時期尚早ということばかりではあるまい。

 この共産党の結成と同じ年の7月、当時の左翼陣営の理論的指導者とみなされていた山川均は『前衛』誌上に、政治向きの論文を発表した。「無産階級運動の方向転換」と題する刺激的な名が付されていた、この論文はまず「過去二十年間における日本の社会主義運動は、まず自分を無産階級の大衆と引き離して、自分自身をはっきりさせた時代であった」と振り返る。

 しかし、これは「独立した無産階級的の思想と見解とを築くためには、必要な道程であった」のだと。これを言い換えると、日本の社会主義者は、自らを「思想的に徹底し純化する」というその「第一歩」を「りっぱに踏みしめた」ということになろうか。

 そこで今度は、我々は、「次の第二歩を踏み出さねばならない」ことになるとして、こう続ける。


 「無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底し純化した。それがためには前衛たる少数者は、本隊たる大衆を遙か後ろに残して進出した。(中略)そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、遙か後方に残されている大衆の中に、再び引き返して来ることでなければならぬ。(中略)『大衆のなかへ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。」

 それでは、この「大衆の中へ!」の「方向転換」は具体的にはどのようなものかというと、こうある。
 「無産階級の大衆が、現に何を要求しているかを的確に見なければならぬ。そして我々の運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ」、「我々は勢い無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日より重視しなければならぬ。」


 そんな硬派の典型のような冷徹な頭脳の持ち主にしては、その私生活で見せる表情や仕草(しぐさ)たるや、どこか「あっけらかん」なものであったようだ。夫人で同志の山川菊栄は、「山川均自伝」の「あとがき」でこんな面白さを紹介している。

 「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは・・・名人芸」云々。
 

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 岡崎嘉平太(おかざきかへいた、1897~1989)は、吉備郡大和村(現在の加賀郡吉備中央町)の生まれ。家は、裕福であったのかも知れない。
 県立の岡山中学校(現在の県立岡山朝日高校)までを、岡山で過ごす。そのご、東京の第一高等学校へとすすむ。
 1922年(大正12年)に東京大学を卒業し、日本銀行に入る。 エリートの道であろう。1939年(昭和24年)には、上海の華興商業銀行理事となる。こちらは、日中共同出資の会社であったという。それから、大東亜省参事官を務める。こちらでは、上海の大使館にいたという。その頃の言葉であろうか、次のようなものと伝わる。
 「我々は隣国とだんだん、だんだん交わりを深くして隣国との間に争いを起こさない。アメリカも大切な一人であり、我々が自由陣営から離れることは絶対、民族にとって不利でありますけれども、ただそれだけで、自由陣営に属しない者の悪口を言いけとばして済むかというと、そういうわけにはまいりません。まず相手を知る。とにかく我々は体を持って行って見る。向こうの人と直接会ってみる。直接向こうの実情を見た上で、我々の否応を判断しなきゃいけない。」
 1945年(昭和20年)には、日本敗戦となり、その処理で国民党政府の湯恩伯将軍と交渉する役割を担う。戦争責任には、問われなかったようだ。
 日本へ引揚げ帰国の後には、池貝鉄工、丸善石油の再建に参加する。続いて、全日空の副社長、1961年(昭和36年)には社長となる。
 1962年(昭和37年)には、高碕達之助経済訪中団に同行する。以来、日中友好に取り組んでいく。しだいに、日中民間総合貿易の中心人物となっていく。
 1967年(昭和42年)には、全日空社長を退く。その後も全日空に隠然たる影響力をもっていたという。

(続く)
 
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◻️75『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴(1798)、久米南条・北条郡村々一揆(1813))

2022-01-25 09:33:50 | Weblog
75『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴(1798)、久米南条・北条郡村々一揆(1813))

 18世紀の後半の岡山は、どのようであったのだろうか。1783年(天明元年)の美作・津山町中で「うちこわし」が度々起こっている。豪商などへの民衆による襲撃があった。おりしも関東では、1783年6月25日(天明3年5月26日)に浅間山の噴火が鳴動して噴火を始め、8月3日(旧暦7月6日)には全山が崩れる惨事が起こっていた。同じ年の津山町内に、連続して「米一揆」があったことが伝わっている。

 続いて、1797年(寛政9年)まで、幕府は美作に残る幕府天領の搾取を強めた。その翌年の1798年(寛政10年)、美作の天領228か村の代表格に広戸村市場分庄屋である竹内弥兵衛がいて、彼を中心に各村々の実情がつぶさに解き明かされ、やがて、総代5人の庄屋を江戸表に派遣することに決めた。

 ここに美作の天領228か村の構成は、播州竜野脇坂氏の一時預り領としての勝南、英田、久米南条、久米北条四郡のうち77か村が一つのグループ。二つ目は、久世代官所所管の大庭、西々条郡二郡66か村のグループ。三つ目は、但馬生野代官所所管の勝北、西々条、吉野、東北条、西北条五郡のうち五五か村のグループ。四つ目は久美浜代官所所管の吉野郡35か村のグループであった。

 そのことの起こりを簡単にいうと、当時、幕府領の年貢の3分の1は、毎年収穫時の津山城下にての米価に換算して、銀で納めることになっていた。ところが、1797年(寛政9年)のおり、幕府勘定方の勝与三郎がこの地・津山にやってきていうのには、それまで津山相場を割り引いて課税していたのを、そのことなくして課税するのに改めると。

 折しも、当年の米相場は急騰したため、これではならんと農民たちは悲鳴をあげた。激震が走ったと見えて、かかる村村の庄屋たちは、倉敷(現在の美作市林野)の福島屋や高瀬屋に集まって、どうしたらいいかを話し合う。取り急ぎ、なんと江戸へ出て、元に戻してくれるよう直訴をしようということになったという。

 1798年6月18日(寛政10年5月5日)、大庄屋を務める代表5人が、江戸へ向けて旅立つ。その面々とは、岡伊八郎(池が原村、現在の津山市大崎)、竹内弥兵衛(広戸村、現在の津山市広戸)、福島甚三郎(目木村、現在の真庭市久世)、国広利右衛門(中山村、現在の美作市大原)、小坂田善兵衛(海田村、現在の美作市美作)にて、同月7月6日(旧暦5月23日)には、江戸に到着したという。

 次いでの7月18日(旧暦6月5日)には、幕府勘定方の勘定奉行柳生主膳正に嘆願書を提出したものの、所管役所の添書きがないとの理由で受取りを拒否されてしまう。
 そればかりか、その翌日には国広が奉行所へ囚われてしまい、残る4人は禁足のあと、7月24日(旧暦6月11日)には帰国を命じられ、箱根越えの通行切手を渡されたというのだが、とにかく、「とりつく島がない」ままに門前払いされてしまった。
 しかし、4人は、これで諦めなかった。帰途の途中から引き返して、密かに、直訴の機会を探った模様だ。

 かくて、このときの百姓の税減免の訴えは、紆余曲折の末というか、同年9月2日(旧暦7月22日)、老中松平伊豆守信明の籠を待ち受けての直訴に及んだ。ちなみに、ここにいう松平信明は、三河・吉田藩主で、奏者番、側用人を経て老中となり、定信とともに寛政の改革を進め、定信をして才知・才能のするどき人物と言わしめた。1803年(享和3年)に辞職するも、1806年(文化3年)に再任され老中首座となった。


 この直訴は幕府に認められ、咎(とが)めもなかったと記されている。これを「美作の寛政の国訴」と呼んでいる。

 1817年(文化14年)、幕府により津山藩の禄高が5万石から10万石に復した。この5万石加増の理由として、津山藩7代藩主松平斉孝に継嗣(けいし)がなく、この年、将軍家斉の子斉民を8代藩主として迎えた。1837年(天保8年)、但馬、丹後国中の一部と美作国、讃岐国との間で村替えをするよう幕府の命令が下された。1838年(天保9年)、この幕府の命令による領地村替えで小豆島のうち、西部6か郷(5千9百余石分)が津山藩領となったことがある。


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 久米南条・北条郡村々江戸越訴(1813)  

 1813年(文化10年)には、(略しては、美作において、久米南条・北条郡村々江戸越訴(略しては、「北条17か村江戸越訴」)が勃発する。
 そこで、この地域の支配の前史から起こすと、1603年(慶長8年)から1697年(元禄10年)までは、森藩領であった。その後、松平領、幕府領(天領)支配を経て、1747年(延享4年)から1812年(文化9年)にいたる66年間は、他の作州35か村とともに、関東を本拠地とする小田原藩(大久保氏)領となっていた。
 それが、次の年になると、どういう次第なのだろうか、かかる飛び地が、大坂代官所管下の幕府領に組み入れられる。これをきっかけとして、旧小田原藩となった村々が、同代官所・幕府を相手に起こした嘆願闘争である。
 その願いの主な筋としては、当該の村落においては、かねての慶長の頃から、「大庄屋山崎家そのほか中庄屋たち、これらと特別の関係のある村々庄屋たちは、自分たちだけで一切の支配関係ーとりわけ年貢納入関係を処理して、一般の庄屋ないしは小前百姓ー農民大衆には何ひとつしらせなかった」(大林秀弥「「文化十年久米南条、北条17か村江戸越訴事件」)ことがあるという。

 その実は、この領地替の噂のあった前年に、当該地域の農民たちによる、「一丸となって」の運動が展開されていた。具体的には、代表の4人が江戸に行き、これを思い止まるように、幕府当局や小田原藩に上申したものの、相手側は彼らの願いをはねつける。
 そこで、当該52か村中17か村落民になっての嘆願参加の村の内訳は、久米北条郡の中では、宮部下村は81名、神代村は72名)、戸脇村は55名)、桑上村は32名、桑下村は60名、福田下村は24名、里公文下村は29名、宮部上村は64名、中北下村は77名、中北上村は80名、油木下村は19名、油木上村は36名となっていて、以上が2000年時点では久米郡久米町内に属する。 また、同久米北条郡のうち、下打穴中村は67名、下打穴西下村は54名、下打穴西上村は12名、下打穴下村は55名となっていて、以上が2000年時点でいうと久米郡中央町に属する。
 それに、久米南条郡の中では福田村が47名となっていて、こちらは2000年時点でいうと、津山市に属する。

 そこで彼らとしては、次の戦略・戦術を考えざるをえない。改めて相談した結果は、西川陣屋支配の拒否と、大坂代官所の直支配をうけるようにさせてもらいたい、ということになる。同時に、当地伝来の家格による庄屋制度(前述)を廃止してもらいたい。つまり、これにかわって、近隣の幕府領並みの地域運営、すなわち「組合村一惣代による庄屋制」を施行してほしいというのである。


 これに対し、既存の村権力をあずかる「17か村大・中庄屋」一派は、猛然と反対するのであったが、村民側も、飛躍的惣代の名前で願書を大坂代官所・幕府当局に提出して、あくまでも要求貫徹をめざす、そのまま双方がにらみあっているうちに(約3か月というところか)、大坂直支配実現の願意は達成されないままに農閑期を過ぎ繁忙期にさしかかってしまう。
 そうしたところへ、迎えた秋の採り入れ後、闘争の第2幕が上がる。それが、江戸への「越訴」(今度は正式なもの)なのであった。この時、江戸へ向けて出発したのほ、多三郎、貞助の二人、急ぎ足で江戸へなんとか到達、月番の勘定奉行に届くように嘆願書を、公事方曲淵甲斐守に欠込(かけこみ)訴訟を決行したという、だが、当該の嘆願書の細かな内容は現代に伝わっていないなど、その周辺の事情についても今日にいたるまで大して判明していないようなのが、今更ながら気に掛かる。


 明けての1814年(文化11年)には、丸3年にわたる、この事件の一応の決着となる。それまで及びその中では、農民たちの大坂直支配の実現と、庄屋との関係の改定との、うち、前者の願いは、倉敷代官所支配への移管扱いとなったことから、前進。また後者の願いについて芳(かんば)しい改善は得られなかったものの、以前のような剥き出しでの村支配はできなくなったものと推察されよう。

 とはいえ、以上の結末にいたるまでの間には、これら農民の闘いの先頭に立った者の中では、17名が入牢(にゅうろう)し、年貢納入延期の首謀者と目されている2名が拘禁中に死亡していることがあり、あくまでも陳情・嘆願から始めた運動(ただし、後段の越訴については非合法)にあっても、農民側は当面の苦難の道のすべてを犠牲なしに乗り越えられなかったことがわかる。

(続く)

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新◻️529『岡山の今昔』岡山人(20世紀、岡崎平夫)

2022-01-24 19:14:41 | Weblog
529『岡山の今昔』岡山人(20世紀、岡崎平夫)

 岡崎平夫(おかざきひらお、1909~1993)は、政治家だ。広島県芦品郡新市町(現在は福山)の生まれ。府中中学校(現在の広島県立府中高等学校)の第1期生として卒業する。それから徳島高等工業卒業後、大阪市水道局に就職したものの、応召して戦線へ。ボルネオで日本の敗戦となる。
 なんとか無事に帰国しての1947年(昭和22年)には、大阪で水道工事会社を設立する。翌年には、その腕を買われてであろうか、吹田市水道部長に転職することができた。岡山市水道局長を経ての1963年(昭和38年)には、今度は岡山市長に初当選するのだが、豪傑だったのだろう、以来連続5期20年をこの要職でもってつないだというから、驚きだ。
 その長らくの 在任中は、岡山市も目まぐるしく変貌していく。当時の岡山市は、新たな発展の時期を迎えていたようだ。色々とある中で幾つかを拾ってみると、1974年(昭和49年)には、岡山駅地下一番街がオープンする。1975年(昭和50年)には、藤田村と合併し、広大な南部地域が岡山市へ加わることで、新たな発展の緒となったのだろう。
 1976年(昭和51年)に、「緑と花・光と水」という市政運営コンセプトを掲げて、足掛け10年を費やし西川緑道公園・枝川緑道公園を完成させる。途中の「岡崎平夫顕彰碑 」には、「緑と花、光と水」とあって、その昔からの生活用水路に新たな役割を加えようとする発想には、心打たれよう。その実は、市民参加を得ながらのことで、市民生活に新たな息吹きともなっていったのではないだろうか。
 1979年(昭和54年)には、日本では珍しい、市立オリエント美術館が開館している。1981年(昭和56年)には、岡山市と中国の洛陽市との都市縁組に漕ぎ着ける。1983年(昭和58年)には、児島湾大橋が開通する。

(続く)

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新◻️463『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大原孫三郎、妹尾順平)

2022-01-24 10:30:05 | Weblog
463『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大原孫三郎、妹尾順平)

 大原孫三郎(おおはらまごさぶろう、1880~1943)は、郷土が生んだ豪傑の一人といって差支えあるまい。岡山県倉敷村代々の富豪として、また気鋭の事業家として知られていた大原孝四郎の三男として生まれた。大原家は米穀・棉問屋として財をなしていた。農地の経営も手広くやっていて、小作地800町歩(約800ヘクタール)を囲み、これを耕す小作人が2500余名もいたというから、驚きだ。彼の父・孝四郎は商業資本家であるとともに、地主でもあった。
 その幸四郎が、1889年(明治22年)に当時としては世界最新鋭のイギリス式紡績機を輸入して、これを備えた有限会社倉敷紡績所(のちの倉敷紡績・クラボウ)を設立し、初代の社長に就任する。
 それからは、かつては製塩業、転じては綿花やイグサの栽培が盛んであったこの地域は、一躍、繊維産業の町に発展していく。同じ岡山県南部の下村紡績(児島)や玉島紡績(玉島)などとともに、日本有数の繊維産業をなしていく。

 1901年(明治34年)の彼は、クリスチャンになっていた。その案内役をしたのは石井十次であって、1899年(明治32年)10月に孫三郎が初めて石井を訪問して以降、親友となっていたという。その石井の影響が大きかったのであろうか、兼田麗子氏による、「1901年9月22日の日記」の紹介には、こうある。
 「神が生(せい、自分のこと)をこの社会に降(くだ)し賜わって、而(しか)も末子である生を大原家の相続人たらしめられたのは、神が生をして、社会に対し、政治上に対し、何事かをなさしめようとする大いなる御考に依るものものだと信ぜざるを得ない。この神様より生に与えられたる仕事とは生の理想を社会に実行するということである。」(「大原孫三郎ー善意と戦略の経営者」中公新書、2012)
 続いての1906年(明治39年)、父・孝四郎の紡績事業ほかを継ぎ2代目社長になった大原孫四郎であるが、彼は紡績業を営むだけでは満足できなかった。事業を拡大するとともに、新たに銀行業や電力業なども手掛けるようになっていく。
 具体的には、1919年(大正8年)に、倉敷銀行を母体に岡山県内の6つの銀行を合併させ、第一合同銀行を設立する。1920年(大正9年)から1931年(昭和6年)までは不況続きであるが、倉敷紡績は、これにひるまずに操業を続けた。その一因としては、伝統的な和装用途の小幅木綿から、輸出向け広幅綿布や織物産地の新需要に合わせた綿糸の販売に活路をもとめ、これが当たった。

 1926年(大正15年)には、倉敷市に倉敷絹織株式会社を設立する。日本が敗戦に向かって歩み始めた1943年(昭和18年)には、その商号を「倉敷航空化工株式会社」に変更する。

 そうして大資本家の仲間入りをしていく彼であるが、会社経営に当時としては斬新な内容を付加して臨んだ。代表的なのは、広い意味での労働環境の改善を志向し、社内に医師の常駐や託児所の設置を行う。また、初等教育を受けていない社員に向けて、社内に職工教育部や尋常小学校を設立したという。さらに、倉紡中央病院(現在の倉敷中央病院)を設立し、自社の社員、工員ばかりでなく、地域の人々の診療も手掛けていく。
 これらの出費は相当にかさんだが、反対する重役たちに「わしの頭は10年先が見える」と言って押し切っていたというから、驚きだ。
 「温情という精神的なものだけでは労働問題は解決しない。労働の科学的な究明による数的理論を基礎にして労働者の真の福祉の向上をはか」(藤田勉二「大原孫三郎氏」高橋彌次郎編「日本経済を育てた人々」関西経済連合会、1995)らなければ、という思い。
 この持論を敷衍(ふえん)しての一説には、自らをして、労働者から搾り上げての儲けだけの資本家人生にだけはしたくなかったのかもしれない。
 そればかりではない。他の資本家とはかなり違っての有名なところでは、紡績業などで得た莫大な富を使って、文化事業にも精出す。その典型に、大原美術館の設立があった。その様式建築の斬新さとともに、集められた作品の数々からは、彼の意を受けて開館の基礎となる西洋絵画の収集に力を注いだ洋画家・児島虎次郎とともに、「人々に一流のものを見せたい」との思いが伝わってくるような気がする。
 そのほかにも、大原農業研究所(農研)、大原社会問題研究所、それに倉敷労働科学研究所の三つの研究所を立ち上げる。社研と労研には貧困をなくす役割を、農研には農学への貢献を期待したという。これらを評して、「当時の孫三郎は、単なる慈善事業には批判的で、防貧を理想とし、また労働者の過酷な労働条件の改善を心から願っていた」(阿部武司「大原孫三郎、百年先を見通す慧眼、いまに伝えるこころ、」帝国データバンク資料館だより「ミューズ」2019.7)というのも、彼ならではの取り組みかたであった。

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 妹尾順平(せのおじゅんぺい、1904~1942)は、実業家にして、後年は政治家でもあった。真庭郡落合町(現在の真庭市)の生まれ。1904年(明治37年)には、専修大学を卒業する。
 それからは故郷の津山へ戻り、兄の経営する普通銀行を譲り受けて妹尾銀行と改称して開業し、自らは専務取締役に就任した。その実には、大原孫三郎らの協力で、普通銀行を5万8千円で買収することができたのだと伝わる」(小谷善守「出雲街道」第5巻、「津山(安岡町ー西寺町ー宮脇町ー坪井町)」「出雲街道」刊行)。
 それが、1920年(大正9年)の第14回衆議院議員総選挙には、岡山8区から立憲政友会公認で立候補して当選した。ところが、その2年後には岡山8区の選挙が無効となり、失職してしまう。1922年(大正11年)には、この銀行は大原孫三郎の第一合同銀行に合併・吸収される。
 津山市重要文化財になっている「旧妹尾銀行東支店)」(現在のJR津山駅から東へ3キロメートル弱離れた川崎地区にある)は、妹尾が1920年(大正9年)当時の旧出雲街道沿いに約2年がかりで建てたもの。その後、第一合同銀行、次いで中国銀行津山東支店となり、1973年(昭和48年)まで銀行として使用していた。本館は、寺院建築風の外観を整えた煉瓦づくりにて、内部には折上格天井(おりあげごう天井)を施してあるという。奥行きもあって、その裏には赤レンガ敷きの中庭、外壁を石積みで覆われた金庫棟、倉庫として使用されてきた赤レンガ造りの建物などが残る。
 銀行の役目を終えた建物は、市が保存を目的に譲り受ける。そして迎えた1978年(昭和53年)には津山洋学資料館として活用されていたのが、2018年にギャラリーやイベントなどの交流スペース「ポート アート & デザイン津山」として成り変わる。
 学校時代の先輩・先輩の孫三郎に銀行を引きとってもらった後は、津山を離れ横浜へ。そこで、貿易関係の仕事をしていたという。「最後は横浜の大和商会と東京で人形製作をしていた帝商会の仕事をしていた」(同、前掲書)というが、心の内はどうだったのだろうか。想像するに、自らの人生航路については、意思が強い分多くを語ろうとしなかったのかも知れない。

(続く)

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新164『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

2022-01-23 10:37:18 | Weblog
164『岡山の今昔』備中高梁(城と城下町の景観)

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。まずは、往年の鉄道旅の熟達者の旅便りから、その一節を紹介させていただこう。
 「備中高梁着15時18分。駅の右手の山腹には形のいい古寺がずらりと並んでいる。
 次に乗る予定の新見行は16時36分で、時間があるから松山城に上ってくることにする。この山城は全国でもっとも高いところにあるそうで、駅の北方の突兀(とつこつ)とした山顛(さんてん)に石垣や櫓(やぐら)が見えている。あんな高いところに城を築いてどういう戦術的価値があるのかわからないが、とにかくタクシーで中腹まで行き、急な階段を上る。無骨な砕石を積んだ大味な石段で、一段ごとの幅が広く段差も高い。駅やビルの階段の2倍ぐらいある。どこの城趾(じょうし)でもそうだが、ここのはとくに段差がある。駆け上がったり下(お)りたりするときは都合がよいのかもしれないが、なかなかきつい。呼吸がはずんでときどき立ち止る。汽車の中に座ってばかりいて体がナマったのかもしれない。麓に武家屋敷が並んでいたから昔の武士はこんな急な石段を毎日上って登城していたのだろうか。満員の電車も大変だが、この石段を通勤するのも相当なことだ。
 二の丸の石垣の端に立って下を見下ろす。下から見上げるより傾斜か急で、石を投げれば街に当りそうな感じがする。脚下に高梁川が空を映して白く光り、それに沿って城下町が細長くつながっている。備中高梁の駅と線路が鉄道模型のように見え、ちょうど下(くだ)りの特急「やくも7号」が条虫のように進入してきた。」(宮脇俊三「最長片道切符の旅」新潮文庫、1979)
 それから30数年経過しての筆者の旅から、2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
 この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。
 1873年(明治6年)の廃城令を機に民間に払い下げられた。山上部分は放置のまま1940年(昭和15年)にいたり、旧高梁町と地元有志が資金を集め天守に保存修理を施した。これが功を奏して、翌年には国宝(現在は重要文化財に改定)に指定される。さらに、2007年に本丸復元工事が行われた。天守を取り巻く土塀と南御門、東御門、五の平櫓(やぐら)などが再建された。
 たしかにここは、珍しい場所だ。城から直線距離で東へ約1キロメートルのところには備中松山城展望台(通称は雲海展望台)があり、天気のよい時には雲海からひょっこり城の雄姿が浮かび出るのだという。はたせるかな、兵庫の山間部(兵庫県朝来市)の「天空竹田城趾」(姫路と和田山を結ぶJR播但線にある竹田駅から徒歩40分、播但バス「天空バス」で20分のところにある)にも似た、当時としては峻厳な地勢をうまく利用した「難攻不落」を誇る要塞であったのがうかがえる。
 この城と城下町は、どのようにして造られてきたのだろうか。というのも、高梁の町は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
 その景観だが、小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。三角帽子のような山容にも馴染んで写る。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。
 なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。

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 次に、この城下の町割を簡単に紹介してみよう。そうなると、松山城主の日常居館、また領内を治める政庁としての御根小屋跡から始まるのだろうか。その廻りを武家屋敷が取り巻くというか、今でも高下川沿いと石火矢町に武家屋敷の土塀が続く。初めての訪問者に便利なのは、高梁高校の南側に位置する「石火矢町(いしびやちょう)ふるさと村」(現在の石火矢町)を出発したらよいのだろうか。なにしろ、往時には、格式ある門構えの武家屋敷が250メートルにわたり武家屋敷が連なっていたという。江戸時代の道幅そのままにしてあるのは、美観を保つためか。その古風さの中、「旧折井家」と「旧埴原家」の2つの武家屋敷が保存公開されている。旧折井家は、180年前の天保年間の建築で、中上級武士が住んだと伝わる。旧埴原家は、江戸時代中期から後期にかけて建てられた上級武士の住まい、それも藩主勝政公の生母の実家でもあったため、奥向きもある。
 それでは、一般の人たちはどんな暮らしぶりであったのだろうかというと、それを彷彿とさせるのは、さしあたり伝統的な商家や町家なのだろう。町の西側を南北に流れる高梁川の清流を、意識しながら歩いてみると、本町、下町、鍛冶町などをたどり歩くうちに、なにかしら感じられていくもののように見受けられる。旅の案内ちらしなどを拝見するかぎりでは、町の通りは遠目遮断になっていて、辻々で少しずらせたり、T字型や曲折させて城下のようすを見通せないようにしてあるのが特徴だということで、やはり武家の都合を優先にした町なのであろう。
 本町にいたると、こちらは江戸時代から明治初期にかけて建築された商家だという。である。池上家(商家資料館)は、享保年間のある時、(1716~1736)にこの地で小間物屋の「立花屋」を始めたのだという。代々小間物屋を営みながら、高梁川水路の船主(水運業)、両替商など兼ねていたというから、相当の財をなしたものなのだろう。
 もう少し南へ向かって進んだところには、観光駐車場がある。近くを、高梁川の支流で、城の外堀扱いとされていた紺屋川(こうやがわ)が流れる。そこから南へ少し下ると、下町の商店街筋をたどり歩く。この辺りは美観地区であり、かつて、商家が立ち並んでいたという。現在でも、かなりの商家の建物が残っている。いずれも重厚な商家のつくりであり、紺屋町筋から国道180号線に面して土蔵が連なる。高梁川を利用した高瀬船での物資集散地だったから、こちらが便利だったに違いあるまい。 
 さらに南下してJR備中高梁駅を東側に降りると、そのさらに東に行くうちには、頼久寺や、定林寺など名うての寺院が次から次へと姿を現す。その数20余りというから、かなり多くあるのではないか。こちらの諸寺の成り立ちについては、逸話というか、「城下を守る形で配された城郭」(山本博文監修「古地図から読み取解く城下町の不思議と謎」実業の出版社)とあって、武家諸法度(1615年、元和元年)により新築・改築を厳しく制限されていた幕藩体制下での、防衛のための苦肉の策といえるだろうか。その実、堅固な石垣が寺の入り口に見えてくるのは、いかにも猛々しい感じがしてならない。

(続く)

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新154『岡山の今昔』勝山、久世から津山へ

2022-01-19 20:55:39 | Weblog
154『岡山の今昔』勝山、久世から津山へ

 出雲街道を勝山から東に向かって歩くと、久世(くせ、現在の真庭市久世)へと到達する。この辺りの明治から大正時代にかけてまでの、およその道案内については、郷土史家(小谷善守)の筆で次のように記されている。

 「久世盆地には、東西に出雲、京・大阪を結んでいる出雲道、瀬戸内から京・大阪にも通じていく旭川の舟路を中心にしながら北の真庭北郡から伯耆(ほうき)に越えていく大山道、西の備中道、南の備前道が集まっている。真庭郡内でも、旭川に沿って最も南の瀬戸内へ向かって開けた盆地であり、舟運と切り離せない特色を持っている。久世の地を出雲道に次いで支えてきたのが、旭川の舟路であったと思われる。その中でも、集落の形成、商業の町久世を作り上げたのが、真庭北郡から集まり、旭川を下っていったと思われる鉄製品であろうか。」(小谷善守「出雲街道」第2巻「勝山ー久世」「出雲街道」刊行会、2000)

 江戸期の久世は、宿場町にして、物資を高瀬舟で備前や京都・大坂へ送り出すための中継地となっていた。ここに集まってくる物資には、年貢米やたばこ(山中地方で栽培されたもの)、鉄、山陰からの木綿などの多彩な品目があった。珍しいところでは、江戸期に入ってからここで牛の市が開かれていたことでも知られる。この地が、昔から交通の要衝であったからである。なお、江戸期の久世から南へは、落合を経由して旭川沿いを南に下っていく道であり、「落合往来」と呼ばれていた。

 この久世の地を中心に、民衆重視の政治を行った人物に早川正紀(はやかわまさとし、早川八郎左衛門正紀、1739年(元文4年)~1808年(文化5年))がいた。彼は、井上河内守(笠間藩主)の家臣、和田市右衛門(わだいちうえもん)の次男に生まれ、のちに徳川御三卿の一つ 田安(たやす)徳川家の家臣早川正諶(まさのぶ)の養子となる。その後、1766年(明和3年)に宗家の早川正与(はやかわまさとも)の死後、早川宗家(そうけ)の早川正與(まさとも)の跡を継ぎ、幕臣となる。1769年には、勘定役(かんじょうやく)となる。それからは関東の各地の河川普請などの地味な仕事に従事していく。1781年(天明元年)、初めて幕府の代官として出羽国尾花沢(でわのくにおばなざわ)陣屋(現在の山形県)に赴く。そして1787年、美作国久世に転任、翌年備中国笠岡及び倉敷代官を一時兼任する。3つの地域兼ね合わせて、つごう7万石分を経営していたことになる。
 それだけでも大変な筈なのだが、在任中、子間引(こまびき)の禁止、教諭所や「久世典学館(てんがくかん)」、「敬業館(けいぎょうかん)」の創設など多方面に行動したことがある。また、治水工事や備中吉岡銅山の復興に努めたこともあった。彼がその間に著した書物に、教諭書「久世条教(くせじょうきょう)」がある。民衆教化に務める姿が認められるところとなり、1997年(寛政9年)にはそれらの功績で幕府から褒賞を授かる。
 そして1798年(寛政10年)、久喜を治める米津(よねきつ)氏の久喜藩が出羽国(でわのくに)村山郡長瀞(ながとろ)(現山形県東根市)に領地替えとなるに至る。そこで彼が、1801年(享和元年)には関東代官となって、美作を離れる。武蔵国久喜(くき)陣屋(現在の埼玉県久喜市)に移って幕領10万石を経営することになる。この地でも小児養育、河川改修、学問所の遷善館(せんぜんかん)を開設するなど、民生充実の策を採っていく。各地の代官に在職すること28年にして、1808年(文化5年)に江戸で病没する。その間の事績をたたえ、武蔵国八条(現在の埼玉県八潮(やしお)市や美作国久世に「遺愛碑」、笠岡に「思徳之碑」などの記念碑が遺る。なお、竹垣三右衛門直温、岡田清助恕とともに民生充実に尽くした「寛政三代官」と称される。
 その久世から美作の中心地、津山に至るには、出雲街道をそのまま東に向かっていく。その久世(くせ)からは、坪井(つぼい、現在の津山市坪井)を通り、中須賀(なかすか、同)から院庄(いんのしょう、現在の津山市院庄)へと歩を進めていく。現在でいうと、国道181号線の道筋を通って東へ進んでいく。

 次の坪井については、近世から小規模ながらも宿場があり、かわらぶきでこうし窓のある、古い民家が立ち並んでいるなど、歴史を感じさせる。江戸時代に入っては、新たな展開があり、郷土史家の小谷善守は、こうまとめている。

 「森藩時代(慶長8年・1603~元禄10年・1697)については、具体的によくわかっていないが、森藩除封後の坪井は、元禄11年(1698)に幕領となり、役所が設けられた。元禄15年(1702)になって内藤藩領となった。内藤氏は、上野国(こうずけのくに、群馬県)安中城主だったが、寛延2年(1749)に三河国(みかわのくに、愛知県)に移り、挙母(ころも)藩となった。坪井には、最初は、幕府の役所、続いて元禄15年(1702)から明治4年まで、内藤氏(挙母藩)の役所が置かれ、交通と行政の中心地となった。(中略)坪井の町は、森藩、幕府領、内藤(挙母)藩領の三時期に分かれて支配を受けているが、内藤領の169年間が最も長く、この時に明治を迎えている。」(小谷善守著「出雲街道」の第3巻「久世ー落合ー久米ー津山」「出雲街道」刊行会、2000)

 坪井を出てからは、田園地帯の久米川沿いを3~4キロメートル歩くと、領家の旧街道にやってくる。そこを過ぎて2キロメートルばかり東へ進むうちに、吉井川沿いにある中須賀(なかすか、現在の津山市宮尾)と呼ばれる地に着く。この地には、かつて出雲街道の船着場があった。江戸時代に入る前から、吉井川の船便と宿場町として栄えた地域で、出雲街道の要衝の一つに数えられていた。当時は吉井川を船便で往来し、下流の備前国との交易をする物資の集積地としても栄えたとされ、例えば、次のように紹介されている。


 「ここも年貢米や薪(まき)やわり木なとを送り出したり、カマスに入った多くの塩や瀬戸内の海産物が入ってきたりする所で、水量の多い川には、高瀬舟がたくさんつながれていました。
 みなとには、船蔵のほか食べ物屋などの店か並んでおりました。西側の土手には、常夜灯(じょうやとう)や、金比羅宮や伊勢神宮への旅の安全を願って建てた、大きな石灯篭(いしどうろう)かあります。 広い吉井川には橋がなく、浅瀬(あさせ)を歩いて渡ったり、渡し船で渡っていました。川の東は、院庄です。」(美作の歴史を知る会編「出雲街道むかし旅」(四十曲峠ー新庄ー美甘ー勝山ー久世ー坪井ー中須賀ー津山ー勝間田ー楢原ー江見ー土居ー万の乢(たわ))、みまさか歴史絵物語(7)、1992)

 珍しいものでは、出雲街道の両側に伊勢神宮内宮・外宮(「明治元年11月吉日」)の石灯籠、吉井川沿いに金比羅宮(「嘉永7年10月吉日」)と刻まれた3基の石灯籠が建てられているのだが、航路の安全を祈るために建てられたもので、常夜灯として1935年(昭和10年)頃まで、土地の人が各家順番で点火していたという。その後、これらの石灯籠は河川改修により現在の場所に集められ、往時を忍ばせる。

 その次の院庄(いんのしょう)にまで到ると、かなり津山に近くなっている。この辺りは、津山盆地の西の端にあるとも、院庄盆地という場合もあろう。地形としては平坦にして、岡山・鳥取県境から谷を穿(うが)ってきた吉井川水系の流れが作り出したのだとされている。それゆえ、地味も豊かでなのであろうと。また、この辺りの大まかな地理としては「ちょうど苫田郡鏡野町、久米郡久米町と津山市が接するあたりで、香々美川が合流し、一層豊かな流れとなり、約8百メートル下流で西岸は鏡野、久米町境になり、久米川町は赤岩地区、対岸は津山市神戸、中国自動車道もここを通っている。約千メートル下流が中須賀の集落。すぐ下手で久米川が落ち合っている。吉井川は、ここで足山丘陵にぶつかって方向を変え、院庄盆地に沿って東流。南側は嵯峨(さが)山を中心にした丘陵、川幅もぐっと広い。」(小谷、前掲書)

 この地には、古来から人々が美作の中心地として見なしていたのでおろう、そのことのわかる一つが、国の重要文化財としての院庄館跡(いんのしょうやかたあと、津山市神戸(じんご))であって、吉井川左岸の微高地に所在している。鎌倉時代から室町時代にかけての美作(みまさか)守護職の館(平城)があったと伝わる。現在は、明治時代に建てられた作楽(さくら)神社の境内となっている。
 これまでに実施された発掘調査でいうと、館の規模は約東西200メートル、南北でいうと約150メートルほどと推測されているところ。東・北・西側に土塁を築き、その中に建物があった。出土品としては、青磁、白磁、墨書磁器、備前焼なども出土しているという。


 ほかにも、慶長年間(1596~1614)には真言宗の清願寺が開創される。1603年(慶長6年)には森忠政が美作に入府する。やがて藩が記した「作陽誌」の中では、院庄のへ森藩から家老の長尾勝明から、1688年(元禄元)寄進状が出されたことになっている。現在の清願寺にはその古文書が残っていて、次のように記されている。

 「当寺敷地三石、五斗余藪共任
先規御寄附之条、全不可有相違者也、仍って如件。元禄元、長尾隼人、勝明、花押。十一月朔日、清眼寺」(読みは、とうじしきちさんこく、ごとよやぶとも、せんきにまかせごきふのじょう、まったくそういあるべからざるものなり、よってくだんのごとし)、引用させていただいたのは、小澤嘉隆・中村勝男「極楽山清眼寺」極楽山清眼寺、1999より。


 さらに二宮(現在は津山市二宮)に到ると、ここの丘陵上に並んだ数基の古墳群としてあるのが、美和山古墳にして、丘陵の最高所には全長約80メートルの前方後円墳の胴塚、南に下がって直径約40メートルの蛇塚と同規模の耳塚の円墳が続いている。これまで岡山大学などが発掘調査に当たり、古墳時代中期のものと推定されている。アクセスとしては、中国自動車道の院庄IC(インターチェンジ)から約5分のところにある。また、この地に「美作国二宮」としてあるのが、高野神社であって、こちらが祀るのは「オロチ」とされ、その鎮守の裏側には前述の美和山(みわやま)が鎮座していることから、おそらくは美作の古代の中心地の一つであったのだろう。神社の本殿は、入母屋造・妻入を特徴とする中山造(なかやまづくり)と呼ばれる様式にて、1663年(寛文3年)に、森藩2代藩主の森長継が再建した。付属の釣殿も同時期の建築とともに、近世初期の寺社建築の一端を現在に現代に伝えている。
 さらにこの辺りは、県南部とともに近代繊維産業の揺りかご的なの地でもあり、1916年(大正5年)には、二宮においてグンゼ株式会社津山工場として設立、生糸の生産を開始する。1954年(昭和29年)生糸の生産に終止符を打ち、合繊加工事業への進出、中でも合繊ミシン糸への転換をはたし、ミシン糸の一環生産工場として業績を伸ばしていく。さらに2003年10月には、津山グンゼ株式会社として独立し、それまでの蓄積した技術、設備を生かす道を模索している模様だ。

 それからは、いよいよ津山市街地へ。そういえば、江戸時代の初期、森氏の入封により津山城下町に組み入れられたのは、33町と言われている。やがて津山の街に入ると、美作国府(津山市総社)、美作国分寺(津山市国分寺)を通って入っていた。出雲街道(旧道、以下同じ)の本道を境に左手の方向に新屋敷といって、津山33町のうちの西の構えの部分に取り付く。道の右手には、安岡町、ついで茅町とある。その安岡町だが、筋違橋(すじちがいばし)を渡ると、津山城下の西入り口としてのこの町に入る。というのは、津山城が完成してから39年後の1655年(明暦2年)には、宮脇町(後述)以西は津山城下の中で、第2期に編入された地域にて、この宮脇町に続いて安岡町、茅場町、西今町城下町の一部として編入されたことによる。そのことで、1648年(慶安元年)からは、出雲街道が通るようになる。

 これらのとっかかりとしての宮脇町がどのように成立したかを、郷土史家の矢吹正則は次のように紹介している。
 「東西に位置する。東は坪井町、西は西今町、南は南新座、北は田町に接している。南側の東は徳守社地になり、西は南新座に属し、北側は田町竹の馬場ですべて武家屋敷だった。坪井町が出来てから、西今町、茅町、安岡町まで商家が並び家が増えていった。
 明暦元年3月(1655)に藩主・森長継は家臣の南条次郎右衛門と吉原吉左衛門を移転させ、その屋敷を市街として宮脇町と名付けた。これが北側である。元禄4年(1691)正月、藩主・森長成は家臣の津田宗内の屋敷の南側を社地にした。宝永3年(1706)7月14日、松平藩は徳守神社神官の願いを許し、社地を市民に貸した。これが南側。明治初年にこれを市街とした。」(矢吹正則「美作国津山誌」)

 かくて、そんな中での安岡町の成り立ちなのだが、吉井川と紫竹川合流点にある明石屋渕には常夜灯が残っており、船頭町から移転した西端の船着き場として高瀬舟や木材の切り出しの筏の往来に用立てられていたのではないかと考えられている。戦後の1970年代からのこの辺りの交通は、大きく変化した。城西通りが北の小田中地区を通り、また新境橋で国道179号線と国道53号線が連絡するようになってからは、安岡町を通っての街中の人通りもかなり減ってしまったように見受けられる。

 それからさらに出雲街道の本道に戻って進んでいくと、左手の寺社の主に北隣には西新座があり、本道の右側には西寺町、それから西今町とやって来る。西新座(西、東)は、1688年年(元禄初年)には戸数30戸くらいで、侍が住んでいたが、松平氏になってからの享保年間、農地に戻されたとのこと。 、
 西寺町西から西今町にかけての出雲街道の道筋には、左に愛染寺(西寺町)、本源寺(寺町)などが、右には妙法寺(西寺町)、泰安寺(西寺町)などの寺社が数多く並んでいる。その中から、今でも通りに面して建つ愛染寺の鐘楼門は、一階に仁王像がいて、その二階には黒塗りの鐘楼が載っていて、なかなかの趣を醸し出している。なお、明治に入ってこの寺が群衆で沸き立つことがあった。というのは、1874年(明治9年)の「美作血税一揆」で、僧侶の研修施設の教学院(学寮)が北条県当局の建物と勘違いされて、ここに押し寄せた民衆による打ちこわしの対象となってしまった。


本道に戻って進んでいくと、左手の寺社の主に北隣には西新座があり、本道の右側には西寺町、それから西今町とやって来る。西新座(西、東)は、1688年年(元禄初年)には戸数30戸くらいで、侍が住んでいたが、松平氏になってからの享保年間、農地に戻されたとのこと。 、
 西寺町西から西今町にかけての出雲街道の道筋には、左に愛染寺(西寺町)、本源寺(寺町)などが、右には妙法寺(西寺町)、泰安寺(西寺町)などの寺社が数多く並んでいる。その中から、今でも通りに面して建つ愛染寺の鐘楼門は、一階に仁王像がいて、その二階には黒塗りの鐘楼が載っていて、なかなかの趣を醸し出している。なお、明治に入ってこの寺が群衆で沸き立つことがあった。というのは、1874年(明治9年)の「美作血税一揆」で、僧侶の研修施設の教学院(学寮)が北条県当局の建物と勘違いされて、ここに押し寄せた民衆による打ちこわしの対象となってしまった。
 さらに本道から一筋南に少し下る途中の左右には本行寺、妙勝寺、長安禅寺、福泉寺などが並ぶ。この通りをそのまま下っていくと吉井川に出る。このあたりの寺は、境橋(さかいばし)を津山城下に入ろうとする敵を監視する役割があったらしい。社会への窓としては、妙勝寺の第31世、瀬川學進上人が、生活に困った人のための一時保護預かりの施設を寺内に「報恩無料宿泊所」として開設したことになっている。
 それからまた左に向かい始める。本道からやや下ったところを平行(西から東へ)に走る通りの名前でいえば西寺町東通りの左手にも、光厳寺(こうごんじ)、泰安寺(たいあんじ)などの数多くの寺社が立っている。その中から真言宗の光厳寺は、1614年(慶長19年)には、院庄にいた蔵合山口氏(屋号は蔵合家)からの願いで、この地に院庄の清眼寺の住秀照より建てられたことでその名が広く知られる。蔵合家とは、かの井原西鶴の『日本永代蔵』に出てくる、「蔵合家といえる家は蔵の数九つ持ちて富貴なれば、これまた国のかざりぞかし」といわれた、後に二階町に移り繁盛をほしいままにした豪商のことである。
 およぞ仏教の宗派に限っても、天台から真言密教はいうに及ばず、日蓮、禅の系統、西方の神を奉じる浄土系に至るまで多彩であり、これらが全体として城下の西の守りを司る。さらにその道の右手には新茅町、鉄砲町と続く。本道に戻って、西今町をさらに東に行くと、右手に作州民芸館があり、その先は藺田川(いだがわ)があり、そこには城下町の西の関門、翁橋(おきなばし)が架かっている。
 その翁橋を渡って宮脇町に入ると、もう右手には徳守神社が間近に迫っているのである。このあたりを「城西地区」と呼ぶ。特に、寺社の建物は堅固な造りとなっていて、その多くは森藩の津山築城から営営と整備されていったものと見える。これらの寺院や神社は、城下の西の軍事的な備えとしての役割をも担っていたといわれる。それだからか、このあたりの寺の庭は門や塀はいうに及ばず、なかなかの頑丈な造りにして、敷地内も広く感じる。もっとも、出雲往来は、他藩に対しては津山の城下町を通さず、かつて隠岐島に遠流の後醍醐天皇が通ったとされる「久米のさら山越え」の道程をとってもらっていたようであるから、それが史実の通りなら、往来の景色はまた違って見えたことだろう。
 ここに徳守神社は、733年(天平5年)の聖武天皇の在位時に創立されたとも伝えられるが、その根拠は示されていない。その時の社地は現在の津山市小田中の地にあったいう。1539年には、社殿などを焼失した。森忠政の美作入封の翌年、藩命により1604年(慶長9年)に現在地に移って、津山城下の総鎮守とした。祀っているのは、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)らの5人で、いずれも神話の世界の人物なのではないか。この徳守神社の年に一度の例祭が秋祭りとして催されてきた。祭りは、美作津山藩初代藩主森忠政が1604年(慶長9年)に同宮を再建して間もなく始まった。1697年(元禄10年)にはもうかなり大がかりな装いの下、総延長数百メートルにも達する程の大行列を敢行していたのだと伝えられる。これに参加する御輿とだんじりは、祭りの前日の宵宮にて、各町内のだんじりが夕方から市内に繰り出す。この慣例から推し量ると、「さあ今年もやりますよ」と関係する町内に触れて回ることになるのではないか。明けての本祭りには、徳守神社での神事の後、だんじりと神輿が大勢の人を乗せたり従えて市内に繰り出し、町内を練り歩くのである。
 その徳守神社の宵宮について、赤穂浪士47士の一人である神崎与五郎則休が、1702年(元禄15年)秋の宵に江戸から数日後に行われるであろう、生まれ故郷の祭りを懐かしんで詠んだ歌が、「海山は中にありとも神垣のへたてぬ影や秋の夜の月」として伝わっている。彼は1666年(寛文6年)、森家家臣の神崎又市光則の長男として津山に生まれ、少青年期を過ごしたのち、赤穂の浅野家に仕官したのであったが、1702年(元禄15年)が押し詰まってからの吉良家討ち入りでは江戸で、扇子売りの商人「美作屋善兵衛」を名乗り討ち入りの機をうかがっていた、とのことである。第二次大戦後にもなると、この祭りは例年、10月第3週の土日と第4週の土日に大隅神社と連れだって行われる決まりになっていたのが、近年高野神社が加わる。これに伴い、名称も「津山祭り」として、東の大隅神社、総鎮守の徳守神社、西の高野神社の秋祭りの総称されるに至っている。
 西今町の南には、鉄砲町の町並みが広がる。藺田川(いだがわ)を渡ってからの東隣には、南新座の広い町並みが続く。そこから北にある本道に戻っていく。道の右側には宮脇町、続いて坪井町、福渡町とある。坪井町とは、町づくりの初め久米北條郡坪井村付近の人々が移り住んだことから、この名がついた。また福渡町とは、はじめ久米南条郡福渡村(現在の岡山市建部)からの入居者が中心となって出来た町人町である。さらに本道の左側には、上紺屋町、細工町とある。宮脇町には、徳守神社が鎮座していて、森家2代目の藩主森長継が荒れ果てていた社殿を再建整備した。
なお、この町の城下町になる前の郷村名としては、田中郷の小田中村であり、町名の由来は徳守神社の宮脇の意であるとのことである。
 そこから少し東に進んで、右手に3丁目と戸川町、左手には鍛冶町と下紺屋町、さらに進んで右側には二丁目、戸川町、新職人町、桶屋町、新魚町、吹屋町とある。それからまた進んで、城の堀の南側を通る街道の右側に木知原町(のちの境町(堺町)、小姓町、船頭町、左側に元魚町、二階町とある。そのまま街道を進んで、京町、河原町と行く。それからさらに東進して片原町(伏見町)、南馬場前、そして材木町とあって、宮川に出る道筋となっていた。なお、こうして町人町の北側や、掘の北側は、西から東又は南東方向へ、内山下(山下)、田町、椿高下、城代町、御北(北町)といった武家屋敷が蝟集していた。これらのうち田町では、森氏除封後の8か月に渡り、幕府代官が駐在して民政に当たったことがある。椿高下については、十六夜山(現在の津山高校の敷地)があり、小規模ながら古墳のあった場所である。そして城代町、ここは椿高下の西、藺田川に閉校して南北に広がっていた。御北、ここも江戸期を通じて侍屋敷があって、1871年(明治3年)になって北町と改称になる。
 おりしも20世紀の終わりの年、1999年に、出雲街道を「飛脚便」で走破する企画があったのだ。これは、「沿線市町村のメッセージを飛脚便で岡山県津山市まで届けようと10日朝、飛脚にふんした「津山走ろう会」」のメンバーらが島根県大社町をスタートした」(山陰中央新報1999年11月11日付け)ということであった。同紙によると、「一行は島根ー鳥取ー岡山県内の街灯沿線20市町村の首長からのメツセージを受け取りながら13時間がかりで走破し、11日朝には津山市に到着する」とある。
これを企画したのは、津山市城東地区の町内会で組織する「津山城東むかし町実行委員会」(岡本一男委員長)であり、11、12の両日、「出雲街道Now,in 津山」(城東編)を興し、飛脚便はこのイベントの一つとして行われた。同紙に添えられている写真によると、当日は幸いにし天高く、往年の夢をつかみとれるかは自分次第の心境になれたのではないか。絶好の日和であったようで、スタート場面は次のような晴れやかさで結ばれている。
 「スタートになる大社町役場前で行われた出発式には、津山市のメンバーと大社町関係者約30人が出席。古川百三郎町長が「出雲阿国誕生の地・大社と、愛人の名護屋山三が亡くなった津山とは、歌舞伎を通して特に深い関係があり、今後、互いの交流一層深めたい」という岡本実行委員長あてのメツセージなどを津山走ろう会の福田史郎会長に託した。
 飛脚は、途中でメッセージを受け取りながら5~10キロずつ交替で松江、米子、美甘町(岡山県)などを走り、11日午前10時15分、津山市で開かれているイベント会場に到着する。」

(続く)

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新8『岡山の今昔』岡山の山(中国山地)

2022-01-17 10:22:44 | Weblog
8『岡山の今昔』岡山の山(中国山地)

 まずは、この辺りの山の形成を振り返ると、大まかにはどのようであったのだろうか。一説には、そもそも海底で山地なりが形成されていたのが、プレートの移動と相俟って隆起してユーラシア大陸の東端に張り付いていたところ、その一部が、新生代の新第三紀(約2303万年前から533万3000年前)中のおよそ中頃のある時期(一説には、2000万年前、別の説では1500万年前とも)に、大陸から離れて弧状列島になったのではないかと考えられている。
 その時には、両者の間に海ができた。その海がだんだんに広がっていく。しかも、その前の大陸縁の南西部は九州西部付近を要として時計回りに回転して西南日本になる一方、東北部は反時計回りに回転して東北日本になったというから、驚きだ。
 このような日本列島の回転がいわれるようになったのには、現在の日本列島各地において、岩石が獲得した地磁気の方向を調べたところ、ほぼ1500万年前前後を頃を境にして、代の古地磁気の方向がどこでも異なることからわかったことがある。
 それはさておき、岡山県の最高峰とされているのは、後山から船木山、駒の尾山(こまのおやま)辺りと見えて、「後山連山」とも言い慣わされる。そのまま暫く西へ向かえば、那岐山があって、この辺りまでは「氷ノ山後山那岐山国定公園」の峰続きとなっており、まさに壮観である。
 次に見えてくるのが人形仙(にんぎょうせん)だ。この山は、鏡野町上齋原にあって、鳥取県にまたがる。 山頂からは、南西には津黒山、北東には三国山とある、そのほぼ中間にある。名前が一風変わっているのは、江戸時代の「伯耆民諺記」に登場する人形仙越に由来するという、この宿は、倉吉・三朝のある東伯耆と津山を結ぶ「津山往来・伯耆往来」の一つだったことからだという。
 それからも、さらに西へ行っての新庄(しんじょう、真庭市)の毛無山(けなしがせん)は、鳥取県にまたがる、大山隠岐国立公園の一部を成す。こちらの山頂から北東へは、大山(だいせん) の南壁、右へは三平山(みひらやま)、蒜山の三つの山へとつながっていく。天候が良ければ、壮大な景色を満喫できるとのこと。
 この山について、郷土史家の小谷善守は、次のように紹介している。
 「出雲街道の四十曲峠と嵐ケ乢に挟まれた二ツ橋地区を山一つを隔てた田浪の岡山・鳥取県境に毛無山(仙)が穏やかな山容を見せている。ブナ、スギの自然林で知られ、保護もされているが、元禄2年(1689)の「村古事名物書上ケ御帳」(「新庄村史」前編を参考)と「作陽誌」は「新庄村の多並(田浪・たなみ)山のうちに毛無山(けなしせん)というこの村でいちばん高い山がある。この頂上から西は伯州(鳥取県西部)になるが、北に大山一帯が近く見える。西北には米子とその近辺の村、海、三保の関の山まで見える。西に高い山が見えるのは、石州(島根県西部)の三部山(さんべ)山で、この山は、日本で5番目と聞いている。
 また、晴れている日は、隠岐島(おきのしま)の山も見える。南のほう、備中の山が多く見えるが、なんという山か知らない。東には、奥津、上斎原の山が見える。このほかにも山が多い」と記している。四十曲、嵐ケ乢の峠道からも見える高峰。ブナの自然林を抜けると、頂上一帯は、クマザサが続き、毛無(けなし)と呼ばれたのもうなずけるが、四方に県境の山が連なり、東南の谷に小さく集落が点在している。嵐ケ乢のふもとに広がっていく戸島から新庄の家並みか。」(小谷善守著「出雲街道」の第1巻「松江ー米子・新庄・美甘」、「出雲街道」刊行会、2000)

 それと、最近では登山やトレッキングで人気があるようで、例えば、次のように紹介されている。

 「岡山と鳥取の県境に位置する毛無山は、両県から登山道があり、360度の展望と尾根を彩(いろ)どるカタクリの群落などで人気の山だ。
 俣野川(またのがわ)を挟んで15km(キロメートル)先にある大山をさえぎるものはまったくない。
 特に鳥取側の四号目にある展望台からは、俯瞰(ふかん)するように谷底の集落が眺められ、山裾から中国地方の最高峰、伯耆(ほつき)富士頂稜まで見渡せる絶好のビューティーポイントだ。タタラの痕跡(こんせき)やブナの森を楽しめる、白馬山(はくばやま)を周回する岡山県側からのコースもよいが、大山展望をメインにするならサージタンク広場から登るコースがオススメ。」(写真と文は岡本民治氏、山と渓谷社「山と渓谷」2021年8月号)に所収から引用)
 なおも西へ向かえば、剣山(けんざん)を経て花見山(はなみやま)が見えてくる。これでもって、かれこれ岡山県の北西、新見市千屋花見(ちやはなみ)まで来たことになろう。この辺りは、鳥取県日南町にまたがり、1000メートル級の八つ8連山の最高峰(1188メートル)とのこと。
 山の概要あるや、どっしりち構えて見える。山頂には、一等三角点が設置されているという。そこからの展望だが、南西には三国山、北の向こうに伯耆大山、そればかりか天候が良ければはるかに目を凝らすと島根半島やら隠岐の島まで眺められる。

(続く)


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23『岡山の今昔』倭の時代の吉備(6世紀、大和朝廷の支配下へ)

2022-01-16 21:44:19 | Weblog
23『岡山の今昔』倭の時代の吉備(6世紀、大和朝廷の支配下へ)

 では、吉備国の政治的な位置関係はどうなっていたのであろうか。そして、どのように変化していったのであろうか。吉備の国の勢力が及んでいたのは、現在の岡山県全域と広島県東部(備後)を含んだ肥沃な地帯である。そういえば、吉備の国の繁栄ぶりを、濠を持つ広大な前方後円墳が遺されていて、その威容は大和の古墳群と似通っている。他の天皇陵と比べても見劣りしないだけの規模があるのが少なくとも2つある。
 他の地域と変わったところでは、畿内の箸墓古墳との関係があったのか、ここからは「弥生時代後期に吉備地方で発生し、葬送儀礼に使われた特殊器台と特殊壺が出土した」(小川町「小川町の歴史・通史、上巻」)と言われる。その他にも、大規模な陵墓がかなり高梁川下流部などに集中している。今までの発掘で、これらの古墳の被葬者の大半は判明していないようである。これまでの発掘でどのくらいの事実がわかっているのかも判然としない。それとも、発掘の時点で既に宝物もろとも盗掘されていたのかもしれない。吉備の中山の西麓(現在の総社市)には吉備津神社が建っている。そこでは、吉備津彦命(きびつひこのみこと)などを祀る。この人物の名は、「日本書紀」の「崇神天皇」にて、次のような下りで登場している。

 「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。」(『日本書紀』中の「巻第五御間城入彥五十瓊殖天皇崇神天皇」)

 ここでいわれる崇神大王が実在の人物であったならば3世紀前半とも目される。ついては、当時の倭(わ、やまと)は「魏志倭人伝」による邪馬台国連合の時代であり、実在の可能性が薄いとみざるをえない。また、この地は米などの穀物のほか、たたら鉄や塩を作っていたことがわかっている。中でも鉄は、上代から美作や備中の山岳の麓・川沿い地帯を中心に手広くやられていたことが伝わる(注)。

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(注)
 実際には、川の流れを使って土砂の中から砂鉄を採取し、これを「たたら」と呼ばれる溶鉱炉に入れて精錬する。ここに砂鉄というのは、主に山砂鉄を用いることになっていた。それにはまず、砂鉄の含有量が多そうな場所を探す。山間には、切り崩せる程度に風化した軟質花崗岩などが露出している場所がある。もちろん、そこから手づかみで砂鉄を取り出すのではない。そこで、水洗いのための水利に恵まれた場所を選ぶ。そして鉄穴場と呼ばれる砂鉄採取場を設ける。
 それから、できれば川の流れに沿って上流に貯水池を設け、その水が山際に沿って走る水路をつくる。山を労働者がツルハシで崩して出た土砂はその流れに乗って下り、下手の選鉱場へ運ばれるという案配だ。この水路を「走り」と言う。下手の選鉱場(洗い場)は3~4か所の洗い池に分かれていて、そこに溜まった鉄分を採取することになっていた。この一連の作業の流れを「鉄穴流し」と呼んでいた。
 その後半の工程としての精錬だが、まずは粘土で固く築いた箱型炉(たたら炉)の中に、原料の砂鉄と補助剤の木炭を交互に入れる。それから、木炭に火を点け、たたらふいご(天秤ふいご)を使って火力を上げる。具体的には、戸板状の踏み板を片方に3人ずつ、両方に分かれ、まるでシーソーのように交互に踏み込むことで送風する仕組みだ。昔からの力仕事の一つとされ、勢い余って、空足(からあし)を踏むことを「たたらを踏む」との例えがある。
 時間が経つとともに、砂鉄が溶けて還元(木炭を燃やすことで砂鉄に含まれる酸素が飛ぶ、奪われること)されていく。この作業は、通常約60時間も続けることになっていた。それが済んだら、今度は炉を破砕し、炉の底にたまった灼熱と化した「けら」と呼ばれるものが出来上がっている、それを取り出す。これを「けら出し」と呼ぶ。ところが、こうした一連の作業によって砂鉄の採取の現場には大量の土砂があふれ、炭を作るための山林伐採で付近の山は禿げ山になってしまう。地盤も弱くなって、総じて環境に重大な影響を及ぼす。とはいえ、それだけの代償に鉄製の武器や、備中鍬などの農具を作ることができ、黍の勢力拡大に大いに役立ったことであろう。

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 古墳についてもう少しいうならば、今は松風そよぐ吉備の古代路は埋もれた形だが、古墳時代の吉備地方には、単一の権力基盤ではなかったのかもしれない。畿内大和の地にある、古墳時代前期と見られる前方後円墳と吉備地方にある古墳群との関わりでいうと、およそ3世紀後半より4世紀初頭に造営されたと見られる纏向(まきむく)型の前方後円墳の分布ということでは、吉備国には、この類型に属する4つの古墳があるという。西の方から数えると、まず楯築だが、これは纏向型の原型とされ、2世紀末の造営と見られる。宮山は3世紀中ごろで、規模は4分の1、庄内式に分類される。中山は1.2倍あり、矢藤治山は3分の1の規模となっている。

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 さらに2~3世紀が経過してゆくと、それなりの統治の体制が大和盆地に勃興してきて、その力が吉備にも様々な影響を与えるように成り代わる。例えば、6世紀の事柄について、次のような話が記されている。

 「敏達三年(574)冬十月戊子朔丙申遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。戊戌詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。」
 ここに「遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津」、書き下しては、「蘇我馬子大臣を吉備国に遣して白猪屯倉(しらいのみやけ)と田部(たべ)を増益す。即ち田部の名籍を以て白猪史胆津に授く」とあるのは、なかなかに興味深く感じられる。
 その内容としては、朝廷は蘇我馬子と白猪史(しらいのふひと)の胆津(おういつ)を吉備の国(後の〈吉備五郡〉)の白猪屯倉に派遣した。これを取り仕切った責任者は蘇我氏の長たる蘇我馬子(そがのうまこ)と知れているものの、そこにある田部(その土地を耕し、朝廷に税を上納する者をいう)を「名籍」(丁籍ともいい、土地と耕す人などを記した木簡製の帳簿なのであろうか)を使って増益するのを目的にしていたという。

 いうなれば、律令制以前に、部民制や国造制などとともに、当時の倭(わ、ヤマト)王権による地域支配制度としてあったもの。さらにいえば、白猪田部丁籍(しらいのたべのよほろのふみた)が指定されて田戸とされた。そのために現地に派遣された胆津は、この功により白猪史の姓(かばね)を与えられる、そして田令(たつかい)となったというくだりとなっている。なお、敏達朝においては、白猪屯倉の比定地としては諸説があり、大庭(おおば)郡や児島などもそのような話に連なっている。

(続く)

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◻️37『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(政治)

2022-01-16 18:50:37 | Weblog
37『岡山の今昔』鎌倉時代の三国(政治)

 備前、備中及び美作の領国支配を巡っては、鎌倉幕府の下、まずは地頭職が置かれていく。関東の御家人であった渋谷氏(しぶやし)は、美作国の河会郷(現在の英田郡英田町)の地頭に移ってきた。その渋谷氏は、3大河川の一つである吉井川の支流の河会川の中流域を幕府から巻かされる。また秋庭氏(あきばし)は、高梁川に流れ込む有漢川の上流域(現在の上房郡有漢町)の地頭となって、備中国へとやって来た。このように、関東から赴任してきた者たちを「西遷御家人」(せいせんごけにん)と呼ぶ。
 その中には足利氏の名も見える。承久の変後の1222年(承久四年・貞応元年)、足利義氏は、北条義時の後を承けて、陸奥守に任官していた。名は三郎義氏といい、母は北条時政の次女時子とあるから、北条氏とは元々親戚の間柄であったのだろうか。その彼が、この変に功があったとして1224年(貞応3年・元仁元年)「美作国に於て、新野保(現在の津山市新野東)以下数箇所を受領せしが、やがて左馬頭に進み、正四位下に叙せられたり」(『梅松論』、「左馬頭義氏」『足利市史・上巻』(足利市役所編纂、1928年(昭和3年)」からの引用)とある。この辺り、足利氏がじわりじわりと中央政界に顔を覗かしつつあることを、じわり示唆している一コマである。
 こうした地頭職の上に君臨し、彼らを指揮・監督する立場の御家人に、守護職があった。時は1184年(寿永3年・元暦元年)、土肥実平が、備前の守護職に就任する。ところが、1221年(承久3年)の承久の変前後に、備前の守護は佐々木信実(盛綱の子)に替わる。さらに、1264年(文永元年)頃、長井泰重(政所別当の大江広元の孫)になる。それからも、鎌倉期末期には加地氏(佐々木盛綱の子孫)に職責が移っていった。備中の守護は、1279年(弘安2年)前後に北条の特宗(嫡統の本家)の所領になっていた。
 美作の守護は、1184年(寿永3年・元暦元年)から梶原景時(かじわらかげとき)であった。景時と美作との関わりは「源平の合戦」以来であり、この年、「平家方の木下一族の守る新宮城が梶原景時の軍勢に攻められ、激戦の末に落城した」(宮澤靖彦『津山市広野の歴史散歩ー文化財と解説』、1994年版)ことが伝わっている。郷土史家の小谷善守は、久世一帯に景時伝承が色濃く残っている理由とその様子を次のように伝えている。

 「久世氏は、源頼朝が奥州藤原氏を討つため、諸国から軍勢を集めた時、美作守護の梶原景時の動員に応じて、以後、頼朝の御家人(ごけにん)として、鎌倉幕府に仕えたといわれる。久世貞平(くせさだひら)といい、公家領の現地管理者であっだろうという。
 武家政権を確立した鎌倉幕府が、勢力を広げていったチャンスをとらえ、直接、鎌倉に結び付いた地方有力者の一人であろうが、「津山市史」は「治承の動乱の当初から、直接、頼朝に見参して御家人となり、守護地頭に任命された関東地方の武士と比較して、西国地方ては、非御家人である庄官が、このような形で御家人になった例が多い。なお、久世氏の本拠は不明であるが、その苗字から現在の久世町付近であったと考えでよいであろう」としている。
 梶原景時が、石橋山のか合戦で、頼朝の危険を助け、その重臣になった話は、よく知られているが、美作の守護になったのは元暦元年(1184)。土肥実平とともに、美作、播磨、備前、備中、備後の守護を分担し、景時は、美作と播磨(兵庫県)、次いで美作の目代(国司の代理)にもなつているが、これは美作地方が武家政権のさん下に入ったことを意味しているという。
 美作の地が東国勢力の中に組み込まれた12世紀は、それまでに経験していなかった新しい文物の流入であり、エポックになったに違いない。」(小谷善守「出雲街道」第2巻、「勝山ー久世」、「出雲街道」刊行会、2000)

 それが1200年(正治2年)になると、景時が持っていたこの権益は、和田義盛にとってかわられた。その後1213年(健保元年)、義盛は幕府に対し反乱ということにされて攻め込まれた。その敗戦により、美作の守護職が誰の手に渡ったかはわかっていないようだ。さらに1264年(文永元年)から1292年(正応5年)の文永・正応の頃になると、これも北条の特宗(とくそう、嫡統の本家)の所領になっている。ここにあるように、守護職に任じられていたのは、関東の有力部族なり、かれらを最終的に束ねる北条一族の長となっているのは、驚きというほかはない。
 1292年(正応5年)、美作の久世保(現在の久米郡)で鎌倉幕府の御家人に任じられていた久世氏は、「大炊寮領」(おおいりょうりょう)という名の荘園の所職の一つである「下司(げし)、公文職(くもんしき)」職を得ているのを、その地の荘園領主であるらしい雑掌覚証がその職を取り上げようとしたのが争論に上った。これに対する裁定であるところの「御教書」(みきょうじょ)が出される3日前には、幕府による、次のような大元の御教書が出されている。
 「西国御家人は、右大将家の御時より、守護人等、交名を注し、大番以下課役を勤むると雖も、関東御下文を給ひ、所職を領掌る輩、いくばくならず。重代の所帯たるによって、便宜に従ひ、或いは本所領家の下文を給ひ、或いは神社惣官の充文を以て、相伝せしむるか。本所進止の職たりと雖も、殊に罪科無く、者(てえれ)ば、改易さるるべからずの条、天福・寛元に定め置かるるところ也。然れば所職を安堵し、本所年貢以下の課役、関東御家人役を勤仕すべくの由、相触るべくの状、仰せによって執達件の如し。
正応5年8月7日
陸奥守(宣時)御判、相模守(貞時)御判、越後守(兼時)殿、丹波守(盛房)殿」(貞永式目追加633)」
 この親文書を拠り所にして出された本件争論に対する「御教書」には、京都にいる大炊領の荘園主の主張を退け、久世氏に元のように所職を安堵している。関東御家人としての職務についても、引き続いて勤めるような命令がなされる。この採決によると、久世氏が就いていたのは、荘園領主が任免権を持つ荘官の地位に過ぎなく、その職は鎌倉幕府から与えられたものではない。この久世保(久世町)では幕府任命の地頭による領主制がまだ芽生えていなかった。その点で、同じ美作の梶並荘でのような、新しい地頭(これを「新補地頭」という)が補任されることを含め、従来の荘園領主による土地支配にとって代わろうとしたものでは無かった。御家人の立場から見ると、この力関係の下であればこそ、頼るべきは鎌倉幕府であったし、訴えを受けた幕府は彼を擁護するに至る。
 これに似るものとして、備後の地、神崎庄(現在は広島県か)においては、1318年(文保2年)、荘園土地を巡って、国衙(こくが)と地頭との間に、次のような約定があった。次の書状が残されている。
 「和与す。備後国神崎庄下地(したじ)以下所務条々の事。右、当庄の領家高野山金剛三昧院内遍照院雑掌行盛と、地頭阿野侍従季継御代官助景との相論(そうろん)、当庄下地以下所務条々の事、訴陳(そちん)に番(つが)ふと雖も、当寺知行の間、別儀を以て和与(わよ)せしむ。田畠、山河以下の下地は中分(ちゅうぶん)せしめ、各一円の所務致すべし。」(「金剛三昧院文書」)
 ここに「下地は中分せしめ」とあるのは、現地の荘園の土地の相当部分を地頭に与え、国衙(こくが)と地頭とが支配権を認め合うことで土地管理の争いを収めようとした。この案件では「和与」、つまり裁判による「強制中分」ではなく、双方の話し合いによる和解(「和与中分」)が成った、とある。よく言えば、双方による痛み分けともとれる内容だ。これにより、地頭は荘園管理などの実質的な支配権は次第に地頭の手に移っていく。その先には、地頭に荘園管理の一切を任せ、一定の年貢納入だけを請け負わせる「地頭請所(じとううけしょ)」があったのだ。
 1317年(文保元年)、後醍醐天皇が即位する。そのことは、大覚寺統(だいかくじとう)の後宇多上皇と持明院統の後二条天皇による「文保の御和談」で決まっていた。この協定によるかぎり、後醍醐天皇の後は大覚寺党の御二条天皇の皇子が、ついで持明院統の後伏見天皇の皇子が皇太子となり、以後、これらの皇子の系統が交互に即位することにならざるをえない。こうなると、後醍醐天皇の子孫は天皇位に就けなくなる。
 それでも、政治的野心の持ち主でもあった同天皇は、密かに幕府に取って代わろうという計画を練り始める。そして1331年(元弘元年)、後醍醐天皇による倒幕の密議が関東に漏れる。これを察知した鎌倉幕府は、後醍醐天皇に幽閉処分を下す。北条氏は後醍醐の代わりとして、直ちに持明院統(じみょういんとう)から後伏見上皇の第一皇子である量仁親王(かずひとしんのう)を擁立して光厳天皇とする。
 ついでにいうと、「太平記」などでは、後醍醐天皇の隠岐への処分が決まり、一行が出雲街道沿いの杉坂峠を通ったおり、備前の武士である児島高徳らが彼を奪い返そうとしたとの逸話が伝わるものの、事実かどうかは分かっていない。参考までに、それによると、彼らは天皇一行の道筋をたがえて失敗し、児島主従のみは宿泊先の院庄館(いんのしょうやかた)に彼をたずね、忠誠心を吐露したといい、その時の主従のきづなの確認にちなんで、あの切々とした「桜ほろ散る院庄」云々との「忠義桜」歌などが伝わる。その道中の高台に一本桜(在、現在の真庭市別所)があり、「醍醐桜(だいござくら)」と呼ばれる。隠岐の島に配流の途中、後醍醐天皇が桜の立派な姿を讃えたため、この名が付けられたとも言われているが、それだと言うには少し無理があるのかもしれない。ともあれ、同じ現在の真庭市に地上高く立ち上がっている「岩井畝(いわいうね)の大桜」と並んで、推定樹齢が日本有数の桜であることに間違いあるまい。

(続く)

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○70『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ

2022-01-15 09:38:23 | Weblog
70『自然と人間の歴史・日本篇』律令制へ

 とはいえ、白村江での敗戦から2年後の665年には、第5回目の遣唐使が派遣される。守大石(もりのおおいわ)・坂合部石積(さかいめのいわしき)なとが大陸に渡る。現代流に言うと、国交が回復されたことになるのだろうか。振り返れば、第1回は630年に犬上御田鍬なが、2回目は653年に吉士長丹・道昭などが、3回目は654年に高向玄里などが、4回目は659年で坂合部石布などが派遣されていた。
 なおこれ以後、6回目が669年に河内鯨らが、7回目として702年に粟田真人・山上憶良らが、8回目は717年に多治比県守・吉備真備・阿倍仲麻呂・玄肪などが、9回目は733年に多治比広成らが、10回目752年に藤原清河・吉備真備らが、また帰り船で鑑真が754年に渡来する。11回目は759年に高元度らが、12回目は761年として企画されるが派遣中止となる。13回目は762年に中臣鷹主(渡海せず)らが、14回目は777年に佐伯今毛人らが、15回目は779年に布勢清長らが、16回目は804年に藤原葛野麻呂・最澄・空海らが、17回目は838年に藤原常嗣、円仁らが派遣される。そして18回目として894年に菅原道真らが遣唐使に任命されるも、派遣中止となる。
 667年には、朝廷が近江の大津に宮を移す。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、668年(天智元年)に大王に即位する。中国の唐と組んだ、朝鮮半島の新羅が百済を滅ぼした2年後のことであった。高句麗も四度、唐・新羅連合軍に抵抗したものの、668年ついに降伏する。かると今度は、唐が都護符を遼東(リヤオトン半島)に置いて朝鮮半島に触手を伸ばし始める。新羅は反抗に転じる。これには旧二国の遺民も抵抗する形で、やがて迎えた676年新羅が都護符を遼東へと退けることで、朝鮮半島の統一を果たすのであった。
 倭国の方では、天智大王の即位の3年後の671年、大王は「近江令」(おうみりょう)に基づき、太政官制を敷いた。長男の大友皇子(おおとものおうじ)を太政大臣に任命する。彼を補佐する左大臣に蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣に中臣金、御史大夫(令制の大納言)には蘇我果安、巨勢人(こせのひと)、紀大人の三人を起用する。その翌年の672年には、天智天皇が近江宮で死去した。668年(天智元年)に即位してから、4年後のことであった。
 「壬申の年」の672年7月24日~8月21日(天武元年6月24日~7月23日)、「壬申の乱」(じんしんのらん)と呼ばれる宮廷クーデターが起きた。吉野に雌伏していた大海人王子(おおあまのおうじ、斉明女王の息子にして、天智大王の弟)は、いち早く近江軍の攻撃を察知して兵を挙げた。この乱で、天智大王の跡を継いで大王位に就いていた弘文大王(大友皇子改め)が戦いに敗れ、これを倒した大海人王子(おおあまのおうじ)が力づくで天下人にとって代わるのである。
 なお、その大海人王子が「天命開別(あめのみことひらけわかす)、つまり天智大王の同母弟であるとの記述が『日本書記』に見られるものの、勝った者が「大王位簒奪」の事実を正当化するために、天智・天武の兄弟説をねつ造したとの考えもあって、現在までのところ確かなところはわかっていない。
 ところで、この権力闘争において、備前の国を治める吉備氏(きびし)は、概ね中立の立場をとっていたのではないか。あるいは、どちらにも付きかねて、どちらか優勢な方に味方しようという、いわば模様眺めの姿勢であったのかもしれない。大友皇子が放った東国への使者は大海人皇子側に阻まれた。朝廷側は吉備と筑紫にも助勢を頼んだ。けれども、両勢力ともどちらの陣営へも大きくは荷担しなかった。
 これについての資料としては、『日本書記』の同年「6月26日の条」に、近江朝廷(大友皇子)側が吉備の軍事力を味方につけようとして、敵対する大海人王子と親密な関係にあった吉備国守の当麻公広島を殺害した、とある。「この頃吉備地方は吉備国として支配されていたことが知られる」(角川書店刊の『角川地名大辞典』より)というのが史実であったのなら、なぜそこまでしなければならなかったのかも問われるのではないか。ともあれ、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見てよろしいのではないか。
 なお朝鮮半島の動静を追加すると、7世紀いったん唐の統治下に入っていた旧高句麗領の東北部の住民が蹶起して、渤海国を建てる。その後は唐の懐柔策に応じて朝貢し、王朝の機構を整えていく。倭との間に使節を送り合う関係になり、奈良・平安期に至るまで有効関係を保っていく。

(続く)

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◻️14『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執)

2022-01-15 09:27:48 | Weblog
14『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷との確執)

 おそらくはこの列島にまだ「日本」などという統一国家はなく、もちろん天皇という称号もなかった時代のことだが、「日本書記」巻第十四の「大泊瀬幼武天皇、雄略天皇」には、こう述べてある。

 雄略七年(463年か)「八月、官者吉備弓削部虛空、取急歸家。吉備下道臣前津屋或本云、國造吉備臣山留使虛空、經月不肯聽上京都。天皇、遣身毛君大夫召焉、虛空被召來言「前津屋、以小女爲天皇人・以大女爲己人、競令相鬪、見幼女勝、卽拔刀而殺。復、以小雄鶏呼爲天皇鶏、拔毛剪翼、以大雄鶏呼爲己鶏、著鈴・金距、競令鬪之、見禿鶏勝、亦拔刀而殺。」天皇聞是語、遣物部兵士卅人、誅殺前津屋幷族七十人。」
 
 これによると、吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)が雄略大王を呪詛していたとのことで、官者(とねり)の吉備弓削部虛空(きびのゆげのべのおおぞら)がこれを目撃し、告発した。雄略は、兵を派遣し、吉備下道臣前津屋ら七十人を殺したというから、驚きだ。同じ年の続いては、こうある。

 「是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、拜田狹爲任那國司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」
 こちらは、吉備の実力者の吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみのたさ)が、畿内有力豪族の葛城氏(かつらぎし)と結んで、毛姫(けひめ)という妻を娶るということで、たいそう羽振りがよかったらしい。一説には、雄略はこれを嫌ってかかる婚姻を無効にするばかりか、田狭を殺したのだと伝わる。
 さらに、「日本書記」巻第十五の「白髪武廣國押稚日本根子天皇、淸寧天皇」には、次の下りが記されている。

 「廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰「欲登天下之位、先取大藏之官。」長子磐城皇子、聽母夫人教其幼子之語、曰「皇太子、雖是我弟、安可欺乎、不可爲也。」星川皇子、不聽、輙隨母夫人之意、遂取大藏官。鏁閉外門、式備乎難、權勢自由、費用官物。於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰「大泊瀬天皇之遺詔、今將至矣。宜從遺詔、奉皇太子。」乃發軍士圍繞大藏、自外拒閉、縱火燔殺。
 是時、吉備稚媛・磐城皇子異父兄々君・城丘前來目闕名、隨星川皇子而被燔殺焉。惟河內三野縣主小根、慓然振怖、避火逃出、抱草香部吉士漢彥脚、因使祈生於大伴室屋大連曰「奴縣主小根、事星川皇子者、信。而無有背於皇太子。乞、降洪恩、救賜他命。」漢彥、乃具爲啓於大伴大連、不入刑類。小根、仍使漢彥啓於大連曰「大伴大連、我君、降大慈愍、促短之命、既續延長、獲觀日色。」輙以難波來目邑大井戸・田十町送於大連、又以田地與于漢彥、以報其恩。
是月、吉備上道臣等、聞朝作亂、思救其腹所生星川皇子、率船師卌艘、來浮於海。既而、聞被燔殺、自海而歸。天皇、卽遣使、嘖讓於上道臣等而奪其所領山部。冬十月己巳朔壬申、大伴室屋大連、率臣連等、奉璽於皇太子。」

 これにいうのは、雄略大王の死後のことで、彼と吉備稚媛(きぴのわかひめ)との間に産まれた星川王子(ほしかわのみこ)が、母とかたらって大王位をねらう。しかし、雄略の重臣たちに察知され、企ては失敗に終わり、母子は殺されたという。重臣たちは、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の責任を追及したことになっている。
 これらに共通する話の筋としては、大王側が何かにつけて吉備氏を警戒し、隙あらば痛めつけていた、吉備氏の方もあれこれ大王の勢力に逆らっていたということであろうか。

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(参考)項目28においてもう少し詳しく解説
 それからかなりの時が経過しての壬申の乱の際には、つぎのような出来事が記録されている。この権力闘争において、備前の国を治める吉備氏(きびし)は、概ね中立の立場をとっていたのではないか。あるいは、どちらにも付きかねて、どちらか優勢な方に味方しようという、いわば模様眺めの姿勢であったのかもしれない。
 つまるところ、大友皇子が放った東国への使者は大海人皇子側に阻まれた。朝廷側は吉備と筑紫にも助勢を頼んだ。けれども、両勢力ともどちらの陣営へも大きくは荷担しなかった。
 これについての関係資料としては、『日本書記』の同年「6月26日の条」に、近江朝廷(大友皇子)側が吉備の軍事力を味方につけようとして、敵対する大海人王子と親密な関係にあった吉備国守の当麻公広島を殺害した、とある。「この頃吉備地方は吉備国として支配されていたことが知られる」(角川書店刊の『角川地名大辞典』より)というのが史実であったのなら、なぜそこまでしなければならなかったのかも問われるのではないか。ともあれ、この頃まで、吉備の国は大国として大和朝廷からも「油断ならざる隣人」として、一目置かれていたと見てよろしいのではないか。

(続く)

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◻️118『岡山の今昔』幕末の年貢状(岡山・米倉村の場合)

2022-01-15 09:23:31 | Weblog
118『岡山の今昔』幕末の年貢状(岡山・米倉村の場合)

 さても、年貢状としていうものが、何であったかは、時とところによるだろう。それは、まぎれもなく権力を持つ側から、彼らに支配される側へ送られてくるものであった。
 おりしも、幕末の岡山の地、1855年(安政2年)、米倉村の農民に下された年貢状には、こうあるという。なお、ここに米倉村とは、現在の岡山市北区富田、同南区新保、万倍、西市、米倉、泉田、当新田の各地区のうちの一つとしてつながる。それというのも、江戸時代の藩政期には富田、西市、新保、米倉、万倍、泉田、当新田の7つの村があったという。それが、1889年(明治22年)にそれらが合併して芳田村となり、さらに1952年(昭和27年)に岡山市へまとまって編入合併されたとのこと。
 「御野郡米倉村定免相之事
一、高弐百三拾三石三斗三升(検地による村の標準高は233石1升)       
一、又高拾弐石一斗五合(検地後、開墾等で増加している分として12石1斗5合)
一、二口高弐百四拾五石四斗三升五合(以上の合計として245石1斗1升5合)
一、内、七石七斗三升五合、年々立米万引高(耕作不能地等の分の控除として7735合)  
一、直高百弐拾五石七斗、御蔵(藩庫へ入れる米として125石7斗)     
一、残田高弐百三拾七石三斗八升((上から3番目)-(4番目)で237石3斗8升)      
一、物成九拾四石九斗五升弐合、免四つ(課税額=(上から6番目)の40%で94石9斗5升2合)
一、内、六石弐斗八升八合、樋守給(樋守への給与として6石2斗8升8合)   
一、残物成八拾八石六斗六升四合(樋守給の差引後(上から7番目)-(8番目)として88石6斗6升4合)   
一、夫米五石三斗弐升(夫役の年貢による代納分として5石3斗2升)
一、口米壱石七斗七升三合(役人の事務手数料として1石7斗7升3合)   
一、又 五斗三升六合、ぬかわら代(年貢米を運搬する駄獣の飼料代として5斗3升6合)
一、定米合九拾六石弐斗九升三合(納める年貢は上から(上から9番目)+(10番目)+(11番目)+(12番目)の合計で96石2斗9升3合)
一、内、弐石七斗五升、大唐米(うち、粗末な大唐米でよい分として2石7斗5升)
右定遣上ハ名主五人組頭小百姓。入作迄寄合無甲乙令割賦来ル。十一月中無滞急度皆済可仕候。猶死失人於有之ハ残為百姓弁可上納者也。
斎木三之丞(代官花押)
安政二年卯十月廿八日充成
名主五人組頭惣百姓中」(注釈部分は、岡山市のホームページから表現を少し変更の上、掲載)
 これにあるのは、水ももらしたくないということであろうか。大方、郡奉行を中心とする支配の側が、かかる体制発足以来連綿と続けてきた営みにほかならない。それは、正義感あふれる行動というのでもなく、ましてや農民の暮らし向きを配慮しながら行うものでもなかった。なぜなら、そこにあったのは、「仁政」などという余地が入り込むことができないものであったのだから。
 こうなると、農民たちは、ますます「休んでなどいられない」、ひたすらに年貢状の通りに働いた分の多くを供出しなければならなかった。そして、そこで引き合いにされるのは、「右の定(じょう)遣わす上は、名主、五人組頭、小百姓入作(他村からの耕作者)まで寄り合い、甲乙なく割賦せしめ、来る十一月中、滞りなく急度(きっと)皆済つかまつるべくそうろう。なお、死失人これあるにおいては、残るは百姓弁となし。上納すべきものなり」という厳命なのであった。


(続く)

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