♦️602の2『自然と人間の歴史・世界篇』原子と原子核に働く核力の振る舞い

2018-09-30 20:46:21 | Weblog

602の2『自然と人間の歴史・世界篇』原子と原子核に働く核力の振る舞い

 

 極微の世界でいうと、よくそれで自然界というのはなりたっているんだなあと、ホトホト感心する。例えば、シリコン(Si)の原子というのは、原子番号が14、質量数が28となっている。この原子は、半導体をつくるのに必要だ。

具体的には、マイナスの電荷を帯びた電子とプラスの電荷を帯びた陽子を14個ずつ、そして電気的に中性、つまり電荷というものを持たない中性子を14個持っている。これら三つの粒子は、これ以上細かく分割できない、小さなものといういみで、素粒子(そりゅうし)と呼ばれる。

  この3つで構成される原子の大きさは、直径が約1オングストローム、1×(かける)10の10乗メートル、つまり1メートルを10の10乗分(10を10回掛け合わせた分)で除したものに等しい。シリコン原子の最も外側に位置する電子が、この直径のところまでに存在していると考えられる。

 そして、電子の存在する領域のずっと内側には、陽子と中性子でつくられる原子核が存在しているという。これの直径としては、1×(かける)10の14~15乗メートル、つまり1メートルを10の14~15乗分だけ掛け合わせたものに等しいという。

 ところが、ここに次のような疑問が生じた。というのは、このモデルによると、直径がマイナス10乗メートル程度にも小さいシリコン原子核の中に、14個もの陽子がすべてプラスの電荷を帯びて

集まっているではないか。それら陽子群の間には、強力なクーロン力によって反発の力が働いていると考えられるからだ。一方、電子はといえば、原子核よりはるかに外部にあることから、原子核の中で押しあいへし合いしている陽子間の反発力を緩和することはできない相談だ。

 とはいえ、シリコン原子核がばらばらになるわけではなく、一つの原子としてまとまって存在していることが、すでにラザフォードが行った実験によって確かめられている。したがって、原子と原子核とは別の何かの力が働くことで安定しているのではないかと物理学者たちは考えた。日本の湯川秀樹が、その代表格であった。

 湯川の考えでは、「中間子」という未知の素粒子を電子、陽子そして中性子との媒介役として結びつくというものだった。それらのはたらくのは、核力という短い距離のことであって、その未知の粒子の質量は電子のおよそ200倍だというのであった。これが理論的中身であって、彼はこの新しい粒子を「中間子」と名付けた。

 ついては、その粒子の存在することがどこかで発見されなければならない、そういうところから、その後多くの専門家によって観測がなされ、ついにその粒子の存在するのが確認された。

 

(続く)

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♦️903の4『自然と人間の歴史・世界篇』溶ける氷河(気温が上がるとなぜ海面は上昇するのか)

2018-09-29 21:19:51 | Weblog

903の4『自然と人間の歴史・世界篇』解ける氷河(気温が上がるとなぜ海面は上昇するのか)

 昨今の夏場のように気温が上がると、このままいくと地球環境はどうなっていくのだろうかと、これまで以上に心配になる。そもそも地球規模で今以上に気温が上がるとどうなるかについては、これまでにまして海面上昇がもたらされることになるのではないだろうか、というのが、現実味のある話題になっている。

 この問いに対しては、いろいろと取りざたされていることから、まずは幾つかの解説を紹介するのから始めよう。ナショナルジオグラフィック誌(日本版)に、こうある。

 「局地的には地盤沈下も原因となるが、地球全体では海水の体積が増えることで海面が上昇する。地球温暖化で海水の体積が増える要因は二つ。海水が温まって膨張することと、陸上の氷が解けて海水の量が増えることだ。1900年から現在までに海面は約20センチ上がり、今も年間約0.3センチのペースで上昇を続け、そのペースは加速している。

 熱膨張。海水が温まると、その体積は増える。現在の海面上昇のほぼ3分の1は、この「熱膨張」によって海水の体積が増えたことに起因する。

 氷河と氷帽。さらに3分の1は、山岳氷河の融解によるもの。これにより、2100年までに海面が数センチ上がるとみられるが、数十センチの上昇にはつながらない。

 グリーンランド氷床。今のところ海面上昇への影響は少ないが。夏に表面が解けるようになったのは気がかりな兆候だ。すべて解ければ、海面は8メートル近く上がる。

 南極大陸の氷床。氷床は東半球側では比較的安定しているとみられるが、西半球側では海水温の上昇で基底部が解けている。氷床が今後どうなるか、予断を許さない。」(日経ナショナルジオグラフィック社「ナショナルジオグラフィック誌(日本版)」2013年9月号)

 ちなみに、地球上に存在する氷の量は、一説には、体積にして2406万立方メートル以上ということになっている。これは、地球の地下水の量2340万立方メートルに匹敵するという。海に属する水量13億3800万立方メートルに比較すると、かなり小さいのだが、これがすべて解けることによって一説には最大60メートル規模で海面が上昇、そうなると、その多くが海辺に展開する地球文明都市の存在そのものがなくなってしまうという、途方もない話なのだ(同誌の巻末付録資料による)。

 

(続く)

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♦️903の1『自然と人間の歴史・世界篇』溶ける氷河(アレックス氷河など)

2018-09-29 21:18:12 | Weblog

903の1『自然と人間の歴史・世界篇』溶ける氷河(アレックス氷河など)

   2018年の夏、例えば、アルプス山脈最大の規模を誇る、スイス南部バレー州にあるアレッチ氷河の融解が話題になっている。アルプス山脈(スイス・アルプス)の北部、ベルナー・アルプスに属するこの地で、今年夏の欧州は記録的な猛暑のため、7月下旬に、平年より約1か月早く降雪が止まった。そのため、氷河の後退が進んでいるという。

   この氷河は、2001年に国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界遺産に登録された、極北を除く欧州では最大だ。この氷河の浸食作用によって削り取られた山々の肌は、氷河地形の典型だとされる。1970年代には、その長さが約24キロメートルあった。ところが、2014年には、約22キロメートルに縮小した。同地点で撮影された写真が公にされており、なるほど、同氷河の末端近くでは、岩肌の露出が見てとれる。

 最大クラスのものでこうなのであって、アルプス一帯にある中小の氷河にも融解がひろがっているという、この数千年間では前代未聞の出来事になっている。

 

(続く)

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○○356『自然と人間の歴史・日本篇』復金融資の顛末

2018-09-27 08:12:53 | Weblog

356『自然と人間の歴史・日本篇』復金融資の顛末

 そこで、これについては、ドッジGHQ経済顧問が、価格差補給金と復金融資という竹馬の2本足切りを日本国へ勧告したからたまらない。この勧告に政府は従わざるをえなかったから、同公庫は1952年(昭和27年)1月には解散を余儀なくされていく。ちなみに、1949年(昭和24年)3月末で測った全ての金融機関の設備投資残高と、それに占める復興金融公庫の融資比率を見ると、つぎのような高率となっていた。

 石炭は338億7700万円のうち334億2400万円で98.1%、鉄鋼は28億2100万円のうち20億7100万円で73.4%、肥料は71億1300万円のうち45億5500万円で64.0%、電力は205億8000万円のうち191億2500万円で92.9%、海運は155億6900万円のうち130億7900万円で84.0%、繊維110億8800万円のうち49億7500万円で44.9%の計910億4800万円のうち772億2900万円で84.5%。以上の融資総計は1273億8000万円のうち943億4100万円で74.1%となっていた(出所は、宮下武平「財閥の再建」及び御園生等「日本の独占」至誠堂、1958より)。
 もっともこれは全額ではなく、設備投資資金以外も入れると、1949年3月の復興金融公庫の資金融資打ち切り時の融資残高は1319億円にものぼっていた。実にここまでやるか、の感想を拭えない。そのからくりについて、復興金融公庫はせっせと復金債権を発行し、日本銀行はこれをどんどん買い入れる。融資された企業はどんどん投資し、生産し、それをどんどん売ってもうけを殖やしてきた訳だ。しかも見過ごすことができないのは、このころから政界と官界と財界の癒着が本格化したことにある。室伏哲郎氏の著書に、こうある。
 「この復金融資を牛耳っていたのは、政治家と高級官僚だった。復金の最下部には事務局審査部があり、その上に復金役員会がある。だが、役員会をパスした融資申し込みも、さらに大蔵省銀行局長(事件当初は福田赳夫)を議長とする復金幹事会、およびその上の大臣クラスの委員会を通過しなければならなかった。一見民主的にお膳立てされた組織だが、じつは5000万円以上の「政治融資」には蔵相を委員長とする委員会の決定が必要で、その実質的な決定権は、その下の高級官僚で固めた幹事会にあり、ここが当然ながら、暗い取引の場となったのだった。49年3月までの復金融資残高は1319億円だが、その融資総額の80%以上はこの5000万円以上の大口だったのである。」(室伏哲郎「腐職の構造」岩波新書、1981」より)

(続く)

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○○355『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(ドッジライン)

2018-09-27 08:11:10 | Weblog

355『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(ドッジライン)


 
 1948年(昭和23年)10月、アメリカの本国にある国家安全保障委員会(NSC)が、日本に対する統治についての当面の方針の決定を行った。日本の占領をいましばらく続けることになる。その他に、経済復興のための制約をできるだけ速やかに排除することを目指すことになった。その翌年の5月には、日本に戦時賠償を求めない方針も定められている。これらは極秘でやられたので、日本側にはその経緯がよくわからない。

 1948年12月、同委員会は、ワシントンで日本の経済復興を即身するための、「経済安定9原則」が採択され、東京のGHQに指示があった。本国からその命令を受けた「マッカーサー命令」を出して経済安定9原則を吉田内閣に行うように指示した。これで内容は更にラディカルなものになっている。ここに9原則とは、(1)歳出の引締め、(2)徴税の強化、(3)銀行の貸し出しの限定、(4)賃金の安定、(5)価格統制の強化、(6)為替管理の強化、(7)割り当て並びに配給制度の改善、(8)生産の増加、及び(9)食糧供給の能力向上となっている。
 そして1949年(昭和24年)2月、総司令部の財政金融顧問としてやってきたデトロイト銀行のドッジ頭取が経済安定のための一連の政策を勧告した。その中で、彼が主なものとしては、総予算の均衡をはかること、徴税の強化、信用の拡張の厳重な制限、その他の6項目の中では「賃金安定3原則」に基づいて、賃金の抑制を打ち出している。

 これらのうちの歳出の引締めについては、日本政府に指示して編成させた1949年度予算は、一般会計・特別会計・政府関係の総額で1569億円の黒字=歳入超過という、破格のものとなっていく。吉田内閣によるドッジラインの受け入れによって、1ドル=360円の固定レートで全国単一為替相場(1949年4月25日)が実施された。また、「外国為替及び外国貿易管理法」(49年)、「外資に関する法律」(50年)などが制定される。
 ここで、なぜ1ドルが360円なのかと言えば、次の関係があることによる。すなわち、金1オンス(ounce:アウンス)=35ドルヤード・ポンド法による重量の単位で、1オンスは1ポンドの約16分の1に当たる。ところで、1ポンドは約453.6グラムなので、1オンスは約28.35グラムに相当する。

 なぜこうなるかというと、貨幣・薬価単位で1オンス=31.1035グラムであるから、金1オンス=金31.1035グラム=35ドル。1ドル=金31.1035グラム/35=0.888671グラム。

 したがって、1円=金0.00246853グラムであるから、円の対ドル為替平価は1ドル対1円=0.888671グラム対0.00246853グラムとなる。つまり、0.888671グラム・円=0.00246853グラム・ドルとなって、ここから1ドル=360.0044561円、端数を処理して1ドル=360円となったのだ。
 さて、ドッジが日本政府に指示して編成させた1949年度(昭和24年度)予算は、一般会計・特別会計・政府関係の総額で1569億円の黒字=歳入超過という、破格のものとなる。また、
の賃金の安定については、「賃金安定3原則」に基づいて、賃金の抑制を打ち出す。これらのねらいは、インフレ抑制と、アメリカを中心とする資本主義体制に我が国経済を組み込むことにあった。こうして1949年4月、1ドル=360円の固定相場になる。日本経済はアメリカ経済が主導する当時の自由主義経済の再生産軌道に連結されたのだ。
 国内では、物資の窮乏に加え、戦時中のインフレーションによって貨幣価値は劇落していた。その経験を踏まえて1947年(昭和22年)には財政法第5条が制定され、原則として長期国債の日銀引受や長期貸付を禁止した。ただし、特別の事由がある場合に国会の議決を経た金額の範囲内で国債の日銀引受が認められている。

 とはいえ、日本銀行が保有している満期到来国債の借換えの引受に限られることになっている。この政府による国債の日銀引き受け発行では、日銀は発行した日銀券が政府に手渡される。それは国庫にある日銀政府当座預金という口座に入るが、政府により引き出されて投資とか消費とかに支出されていくであろうことが予定されるところだ。

(続く)

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○○354の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(経済安定10原則)

2018-09-27 08:08:36 | Weblog

354の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(経済安定10原則)

 1948年(昭和23年)6月、ヤング(米国連邦制度理事会調査統計局次長)報告。その骨子は、「10月1日までに単なる軍事交換相場の改定にとどまることなく、単一かつ一般的な為替相場を設定すべきである」とするものであった。これについては、1970年(昭和45年)暮れに発表されるまで機密文書扱いのままであった。1948年(昭和23年)7月に新物価体系の発動で1ドル=270円とされる。同年8月、芦田内閣がヤング報告に盛られた経済安定10原則を決定するも、日本側としては、当時の経済状況では、その実施は時期尚早とみなし、重い腰を上げようとしなかった。

   ここに10原則とは、(1)生産、(2)割り当て配給、(3)食糧の供出、(4)公定価格、(5)賃金、(6)脱税防止、(7)租税制度、(8)財政収支の均衡、(9)貿易為替管理、(10)融資規制に関する安定計画となっている。1948年7月に新物価体系の発動で1ドル=270円となっていた為替相場に、変革の次期がやってきました。この年の「新・新物価体系」に至っても、闇価格はまだ残存し、公定価格より相当高い水準のままであった。
 ここで、戦前の1934(昭和9年)~1936年(昭和11年)を1としたときの物価の動きは、卸売物価は1945年(昭和20年)3.5で前年比倍率は1.51であるのに対し、消費者物価は計数不明、1946年(昭和21年)は卸売物価が16.3で前年比倍率は4.64であるのに対し、消費者物価は50.6で前年比倍率は不明であった。1947年(昭和22年)は卸売物価が48.2で前年比倍率は2.96なのに対し、消費者物価は109.1で前年比倍率は2.16であった。1948年(昭和23年)は卸売物価が127.9で前年比倍率は2.66、消費者物価も189.0で前年比倍率は1.73といずれも加速上昇中である。1949年(昭和24年)になると、卸売物価が208.8で前年比倍率は1.63でやや増加のテンポが鈍ってきたのに対し、消費者物価は236.9で前年比倍率は1.25でまだ伸びが大きい。

   1950年(昭和25年)は卸売物価が246.8で前年比倍率は1.18、消費者物価も219.9で前年比倍率は0.93となり、いずれの指標も落ち着き始めている。そして1951年(昭和26年)は卸売物価が342.5で前年比倍率は1.39なのに対し、消費者物価の方も255.5で前年比倍率は1.16となって、おおむね落ち着きの傾向が強まっている(中村隆英「昭和経済史」経済セミナーブックス、1986より引用させていただいた)。
 これらの背景には、実物経済面でも、1948年(昭和23年)の終わりぐらいから、工業生産と農業生産が、前者は戦前水準のおよそ6割、農業生産もようやく回復してきたことが上げられるだろう。こうして世の中に物資が少しずつ増えてくるに従い、それまでヤミ価格を先頭に物価が止めどもなく上がってきていたのが、両者の間のひらきも縮まり始めたのである。

(続く)

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○354の1『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(戦後インフレ)

2018-09-27 08:06:56 | Weblog

354の1『自然と人間の歴史・日本篇』戦後の日本経済の復興に向けて(戦後インフレ)

 日本国内では、1946年(昭和21年)2月17日に金融緊急措置令、日本銀行券預入令が発せられた。これらで民間に出回っている貨幣をすべて金融機関に預けてもらうという、一種の預金封鎖の荒療治を行うことで、3月より新円に切り替えで新しい貨幣だけが世の中に出ていくような取組みがなされたことになる。これを銀行サイドから言うと、かれらはそれまでの「貸出債権を二分し、健全貸付債権を新勘定、不良債権を旧勘定に区分と区分し、旧勘定の不良債権の大部分を凍結した庶民の預金(第二封鎖預金)と資本金で引き当てた」(箭内昇「メガバンクの誤算」中公新書)ことになる。

 この銀行による不良債権の集中的処理は、時の政府がGHQ司令部の命令で銀行企業への戦時補償を打ち切ることがあったため、戦時下をくぐり抜けて不良債権の山を抱えていた中での銀行の再出発となっていく。

 1946年(昭和26年)2月、物価体系の端緒としての物価改定が行われた。公定価格を引き上げて闇価格に近づける政策であった。1947年(昭和22年)1月、復興金融公庫が第一回政府出資金40億円をもって設立された。これで、政府融資を盛んに行う体制がひとまず整ったことになる。ところが、同公庫の資本金が当初の100億円から1948年(昭和23年)末には1450億円まで増資されていたものの、政府は財政難から合計で250億円しか政府出資分を払い込むことができなかった。そのために結局、資金を、復興金融債権を発行することによって賄うことにせざるをえなくなっていく。

 1946年(昭和21年)3月には、財政法が公布された。この法律には、公債発行と借入金の制限が盛り込まれた。同年7月、「流通秩序要綱」に基づく「安定帯新物価体系」による補給金制が敷かれた。同年12月、臨時金利調整法の公布・施行があり、預金金利の上限を設定、と続いていく。
 ところで、復興金融公庫の復興金融債の発行高は、1946年度(昭和21年度)が30億円、1947年度が559億円、さらに1948年度には1091億円と鰻昇りに発行額が増やされた。ところが、その合計1680億円のうち75.4%が日本銀行引き受けの形で発行された。このため、生産回復の副産物として、この面からの貨幣の過剰発行によるインフレーションの加速が現実のものとなっていく。

(続く)

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○○156の1『自然と人間の歴史・日本篇』応仁の乱(1467~1478)

2018-09-26 19:14:10 | Weblog

156の1『自然と人間の歴史・日本篇』応仁の乱(1467~1478)

 そして迎えた1467年、応仁の乱(応仁・文明の乱ともいう)が勃発する。その様子は、例えば『応仁記』(巻三)中に、こうある。
 「洛中大焼之事
 花洛は真に名に負ふ平安城なりしに、量るらずも応仁の兵乱によつて、今赤土と成りにけり。就中(なかんづく)、禁裡紫宸(きんりししん)となるは仙洞(せんとう)也。今の伏見殿、是れなり。高宮雲に聳え、複道空に行き、五歩に一楼、十歩に一閣、出入騒人の墨客(ぼっかく)、心を留めざるなかりけり。近比西芳寺の風景を被移、山には楊梅桃李の名花をうえ、鯨鯢龍鳳怪石を立て求友鴛鴦は愛水鏡、弄花淑女は奏雪絃、椒蘭の烟り綺羅の艶薫四方、飜九天粧ひ、正ニ秦の阿房宮と云ども是にはしかとぞ覚えべりける。

 又花の御所の甍瑩珠玉を鏤金銀を、其費六十万緡なれば、浅き智の筆ニ記し難し。并に高倉の御所の事、大樹義政公御母御台所居入。是れも其の営財を尋ぬれば、腰障子一間の直ひニ万銭と也。此の厳麗以之はかるべし。(中略)
 応仁丁亥の歳(1467年)、天下大いに動乱し、それより永く五畿七道ことごとく乱る。その起(おこり)を尋るに、尊氏将軍の七代目の将軍義政公の天下の成敗を有道の管領に任さず、ただ御台所、あるいは香樹院、あるいは春日局などいう、理非をも弁(わきまえ)えず、公事政道をも知り給わざる青女房・比丘尼(びくに)達、はからいとして酒宴淫楽の紛れに申し沙汰せられ、・・・・・ただ天下は破れば破れよ。世間は滅ばば滅びよ。人はともあれ我身さへ富貴ならば、他より一段瑩羹様(かがやかんよう)に振舞わんと成行(なりゆ)けり。
 計らざりき、万歳期せし花の都、今何(な)んぞ狐狼の伏土とならんとは。適(たまたま)残る東寺・北野さへ灰土となるを。古にも治乱興亡のならひありといえども、応仁の一変は仏法・王法ともに破滅し、諸宗皆ことごとく絶〔たえ〕はてぬるを感嘆に絶えず。
 飯尾彦六左衛門尉、一首の歌を詠じける。
 汝(なれ)やしる 都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見ても落る涙は。」
 この乱は、「下克上」の風潮が日本の社会に本格的に広まる契機となった。この乱の始まりは、細川勝元と山名持豊の対立に、足利義尚(あしかがよしひさ)と足利義視(あしかがよしみ)による将軍継嗣争いが絡んで起こった。義尚は足利義政の子であり、義視はその弟であった。義政という人は、将軍職の時、文化の面では多彩ぶりを発揮するも、政治は妻の日野富子(ひのとみこ)らに任せて、風になびく葦のように、無計画な税強化の流れに身を任せる体(てい)たらくであった。

 これに、畠山政長(はたけやままさなが)と義就(よしなり)、斯波義敏(しばよしとし)と義廉(よしかど)の家督争いもこれに絡んでいく。あれやこれやで将軍家と主要大名の多くが、主に二つの陣営に分かれて勢力争いを繰り広げるに至る。
 この大内乱は、1477年(応仁9年)になって、やっと沈静化に向かう。それまでの長きに渡って主な戦場となっていた京都や畿内のそこかしこは荒れ果ててしまう。「上」は将軍家から、「下」は庶民に至るまで、この時代は社会の構成員のほとんど誰もが緊張し合っていた。油断すればやられてしまうと考えざるをえないような社会の有様であったろう

(続く)

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○○156の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦国の世へ(中国地方)

2018-09-26 19:11:24 | Weblog

156の2『自然と人間の歴史・日本篇』戦国の世へ(中国地方)

 1496年(明応5年)、播磨、備前及び美作の三国守護・赤松政則が死去し、一族の義村が家督を継いだ。ところが、播磨の国揖保郡浦上荘(現在の兵庫県龍野市揖保町)の地頭から身を起こし、赤松氏の補佐をしていた浦上氏が、しだいに主家を凌ぐ力を誇示するようになる。1520年(永正17年)、赤松義村の軍勢は村上方の岩屋城を包囲するも、救援に向かった村上村宗の軍勢の攻撃を受けて大敗を喫す。

 村上氏は、その後、備前と美作の大半及び西播磨地方を支配下に置いていたが、傾き加減も甚だしい室町幕府管領(かんれい)の細川高国に与して中央政界に進出するものの、その高国は一族の内紛で細川晴元に敗れ、その目的を果たせなかった。浦上宗景が天神山城に移って間もない1532年(天文元年)になると、北の出雲国の守護代にあって、同国の能義郡富田(現在の島根県広瀬町)に本拠をおく尼子氏(あまこし)が美作に食指を動かし始めた。以後、美作の国衆の中に、尼子に与する豪族が増えていく。
 尼子氏は、金川城主の松田氏とも組んで、備前北部から備中、そして美作東部に勢力を伸長させつつ、浦上氏、赤松氏ともども互いに覇を争ってゆく。その後の戦国期の1552年(天文21年)において、尼子晴久(あまこはるひさ)が足利幕府の将軍足利義藤(のち義輝)に出雲、伯耆(ほうき)、因幡(いなば)に加え、美作、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)の守護に任じられた。1554年(天文23年)、尼子氏はその余勢で、安芸(あき、現在の広島県東部)に積極果敢に進入して毛利勢と戦ったものの、かえって大敗を喫してしまう。続く1558年(永禄元年)頃になると、備中、さらに美作へと広がってゆく。
 ところで、この頃、津山盆地のやや北部に位置するところに中山神社という神社があった。この社は、707年(慶雲○年)の創建とされる。大和の朝廷から、備前国から北部6郡が『美作国』として分国の命令が下った。その時に、備中国の吉備中山のふもとに鎮座する吉備の総鎮守である吉備津神社より勧請したのが始まりといわれる。 中山神社という社名は、吉備中山に由来しているとのことだ。
 地の人々から久しく篤い信仰を受けていた神社であったが、1533年(天文2年)、尼子氏の美作攻略のとき兵火により社殿が焼失してしまう。天文年間(1532年から1555年)にかけて、尼子一族の支配に不満な百姓たちの土一揆が起きる。これを鎮圧すべく、尼子勢は百姓たちが根城にしていた社殿をめがけて攻撃した。その時、火の手が上がったものかもしれない。尼子氏が意図的に燃やしたとは断定できない。気がついたら燃えていたということも考えられなくもない。1559年(永禄2年)、出雲の富田城主の尼子晴久が「戦捷報賽」と称し、社殿を復興する。

 かねてから、尼子は先の火災の後味悪くして、再建の機会を狙っていたのかもしれない。建物の形式は、世に「中山造」(なかやまづくり)と称せられ、これが現在に至っている。棟梁は、伯耆の国の中尾藤左右衛門といい、完成までし18年かかったらしい。出雲大社を造った頃からの大工魂といおうか、その出雲からやってきた頭領たちが指揮して建てた本殿が奮っている。「入母屋造妻入檜皮葺で間口5.5間、奥行5.5間、建坪約41.5坪」というから、どっしりと威厳がある。ゆえに、1914年(大正3年)には国宝建造物の指定を受け、現在は国指定重要文化財となっている。
 話は合戦に戻って、毛利氏(もうりし)と尼子氏の日常茶飯の勢力争いを繰り広げる。
1566年(永禄8年)頃には、毛利氏が尼子義久の本拠である富田月山城に攻め寄せ、ついに降伏を勝ち取り、かくて毛利氏は山陰、備後、備中を手中に収めることになった。
この影響から、備前の一部、みまさか地域への毛利氏の影響力も高まり、浦上宗景の勢力と踵を接するまでになっていた。やがて安土・桃山期に入る頃には、東からの織田氏の勢力範囲が姫路から西へと伸長してきたことから、西からの毛利勢と、織田氏と結んだ南の岡山からの宇喜多勢との間のせめぎ合いがこれらの地で激烈に繰り広げられてゆく。
 宇喜多氏は、もともと、邑久郡豊原荘(現在の邑久郡邑久町)のあたりを本拠地とする豪族であったのが、1543年(天文12年)頃の宇喜多直家は一時は毛利氏との戦略的提携をはかり、1568年(永禄10年)には毛利方の先方隊となって5千の兵で、備前に攻め入った三村元親の2万の軍勢を蹴散らした。

この戦いは「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ばれる激戦であったが、その勝利によって独立勢力としての力を持つに至った宇喜多氏は、その翌年の1569年(永禄11年)には松田氏が本拠地とする金川城の攻略に成功し、この地を橋頭堡に美作と備中をうかがうことで、今度は毛利氏と対抗するようになっていく。1571年(元亀2年)、宇喜多の将である荒神山城主の花房職秀は、毛利の将である杉山為国と戦う。宇喜多直家が片山左馬助を院庄城におく。
 その流れから、宇喜多直家は姫路の黒田官兵衛の調略で織田方に与することになり、本拠の岡山から美作へ北上してきた。その時、その地域の侍たちの多くも、宇喜多氏による支配を好まず、むしろ毛利の方に組み込まれるのを望んでいた。特に、平安期から美作の東部全体(本拠は現在の勝田郡奈義町)にかなりの影響力を持っていた「みまさか菅(すが)党」の大方は、宇喜多の勢力に圧迫を受けた形となっていたのではないか。
 このような宇喜多嫌いの風潮が根強くあったのには、宇喜多の宗教政策が強引なものであったことにも依るのではないか。『作陽誌』は、浄土宗誕生寺の受難につきこう述べている。
 「備前太守に宇喜多直家なる者あり。大いに日蓮宗にこり、諸宗をてん滅しおおいに日蓮宗を興さんと欲す。天正六年五月二五日、宗徒三百余人を率いてこの寺に寇(こう)し、仏像を切り僧徒を追い、寺をこわし経巻をもやすなど凶暴無状をこうむれり。
 まさに法然上人の肖像砕かんとしたとき、寺辺に匠あり潜んでこれを負い山中に逃れ隠す。」

(続く)

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□269『岡山の今昔』西日本集中豪雨

2018-09-25 22:03:36 | Weblog

269『岡山(美作・備前・備中)の今昔』西日本集中豪雨

 年間を通じて雨が少なく、自然災害の少ないことで言い習わされてきた岡山の県南地区なのだが、その「晴れの日」も強面の天候に豹変することがある。
 1893年(明治26年)の10月には、岡山県下全域で前年に続き洪水が発生し、甚大な被害があったという。仔細には、死者が415戸、全壊家屋が6,105戸、床上浸水が5,0100戸に、山崩れ12,675か所などであったというから、驚きだ。
 その中でも一際厳しい状況であったのは、県南にさしかかるあたりからの高梁川流域の西、もう少し言うと、成羽川(なりわがわ)より下流の高梁川(たかはしがわ)沿い、小田川(おだがわ)沿い、それに成羽川沿いなどであったという。
 それから百年以上が経過しての、なんということであろうか。「西日本豪雨」と称される、今回2018年7月の洪水においては、広島、愛媛そして岡山の3つの県に大きな被害が集中した。

 梅雨前線の停滞は、オホーツク海高気圧と太平洋高気圧に挟まれた形で起きた。その活発化は、台風7号から変わった温帯低気圧が影響したという。また、暖かく湿った空気の流入は、太平洋高気圧の勢力が強まって南風が流れ込んだうえ、東シナ海付近の水蒸気を多く含む空気が南西風に乗ったためだという。

 岡山県下では倉敷市真備町において、「稀代のものなのか」との声が出る程の、甚大な被害が発生した。
 ここで地理的な状況を簡単に説明しよう。高梁川の下流域西岸には、平野が広がる。そこを西から東へ小田川という高梁川に流れ込む支流が流れる。その小田川の支流に高馬川(たかまがわ、ほぼ北側から流れ込む)、末政川(すえまさがわ、南西の方角から流れ込む)などがあって、北から西から水が集まってくる。そこに、今回高梁川の上中流で大量の雨が降ったこと。それは生き物のようで、時々刻々と変化していく。
 多くの人びとが気づく頃には、小田川から水が注ぎ込む地点での高梁川の水位はかなりの高さになっていた。そのことで、小田川からの水の流れが高梁川本流に合流できないばかりか、ついには小田川へと逆流を始めたという。そうなったことで、小田川の北岸に広がる真備の平野は水浸しの脅威に晒されて行くのであった。
 7月6日の午前11時30分には、倉敷市全域の山沿いに避難準備・高齢者等避難開始の発令があった。午後7時30分には、市全域の山沿いに避難勧告が出される。

 午後10時になると、真備町全体に避難勧告が出る。続いての午後10時には、気象庁が市に大雨特別警報を出す。午後11時半前、小田川に達する少し前の地点で高馬川の堤防を水が乗り越え、あふれ出した。一気に増水したという。午後11時45分には、小田川南方の真備町に避難指示が出される。

 日が改まっての7月7日の午前0時頃、西側の堤防が決壊した。濁流が地域に流れ込み出す。0時47分には、市が国土交通省岡山河川事務所からの小田川右岸で越水との緊急連絡メールを確認した。

 午前1時30分4には、小田川北側の真備町に避難指示があった。1時34分になると、「高馬川が異常出水」との連絡が倉敷市災害対策本部に入った。これにより、市が小田川の支流・高馬川の堤防決壊を確認した。

 午前2時には、地域への本格的な浸水が始まった。それより東を流れる末政川でも、7日の午前0時頃に決壊が始まったようだ。3か所の決壊が発生した。
 その後、浸水域は周辺ばかりでなく、東部へと拡大していった。水位も変化し、住宅に濁流が流れ込んで行く。7日の午前3時40分には、倉敷市真備支所から災害対策本部に「浸水のため停電」の連絡が入る。7日の午前6時52分には、国土交通省が小田川北岸の小田側と高馬川の合流地点付近で、小田川の堤防が約100メートルにわたって決壊しているのを確認した、

 さらに、10日に国交省が発表した調査報告によると、高馬川の上流から南に延びる真谷川(まだにがわ)でも決壊しているのが見つかったという。

 以上はまだ混乱にある中での情報の一端であったのが、発生から1週間後の真備の状況については、こう伝わる。

 「国管理で決壊したのは岡山県倉敷市を流れる小田川。都道府県管理では岡山、広島両県で各十河川が決壊、最も多かった。その他は山口県の一河川だった。

 小田川は左岸の二カ所で堤防が決壊、それぞれ五十メートルと百メートルにわたって切れた。近くの高馬川も決壊し、流域の倉敷市真備町地区(人口約二万二千人、約八千九百世帯)では最大約五千世帯が浸水。地区の約三割の約千二百ヘクタールが水に漬かり、死者は五十人に上った。

 小田川は同地区を流れる高梁川の支流。水位が高まった川が支流の流れをせき止める「バックウオーター(背水)現象」が起こり、決壊したとみられている。倉敷市では小田川以外の三支流でも決壊が確認され、支流の一つである末政川では計三カ所で堤防が切れた。」(中日新聞、2018714日付け)

(続く)

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□45『岡山の今昔』幕末の攻防(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

2018-09-25 20:46:10 | Weblog

45『岡山(美作・備前・備中)の今昔』幕末の攻防(津山藩、岡山藩、備中松山藩)

 備前と備中そして美作の3藩は、幕府と新政府の間をさまよったものの、維新の最終段階では新政府に従った。これらのうち津山藩は、さきに将軍家斉の子斉民(なりたみ)を8代藩主として迎えた10年後の1827年(文政1年)、皮肉にも先代藩主の斉孝に慶倫(よしとも)が生まれた。そのため、斉民は隠居を余儀なくされ、家督は慶倫が継ぎ新しい藩主になった。これが契機となって藩内は分裂、斉民側は佐幕派、慶倫(よしとも)側は勤王派に分かれての抗争が始まった。
 津山藩主の松平慶倫は、1863年((文久3年)8月18日政変の後も長州藩への寛大な措置を求めた。とはいっても、それに先行して実施の陣夫役、そして政変後の長州征伐や鳥羽伏見の戦いにも幕府方として参戦した。

 ここで「陣夫役」とは、雇兵でもなければ、長州藩の奇兵隊の如き、当時の腐りきった世の中を突き崩すために志願しての兵でもない。具体的には、8月政変の5箇月前の3月、津山藩は摂津湊(せっつみなと、現在の兵庫県神戸市)の警備を請け負う、そのことで領地内の出役可能な18歳から60歳迄の男子の中から相当数を選んでこの賦役に動員した。出役者には、日程数に応じて一日当たり2升ずつの扶持米と若干の小遣いが支給されることになっていた。
 ところが、その扶持米支給は「大割入」(おおわりいり)といって、領主の出兵のための費用を、領内全体の農民の負担に割り振って拠出させるという、農民たちへはいわゆる「やらずぶったくり」のからくりなのだ。加えて、1868年(慶応4年)1月の「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)時には、幕府の新たな命令を目して、領津山藩内で360人もの猟師を兵として動員する計画まで立てられていた。

 それによると、大庄屋たちに対し、彼らの管轄ごとの必要人員と集合場所まで指示していたという。そういうことだから、殿と大方の重役達は当時の時代の変化を観る目がまるでなかった酷評されても仕方がないのではないか。
 幕府の命に従っての津山藩の参戦は、しかし、惨めな失敗へと連なっていく。そのことごとくの敗戦後、備前の岡山藩などが新政府にとりなしてくれたのが効を奏したほか、勤王派の鞍縣寅次郎(くらかけとらじろう)らが奔走した。彼が公武合体と勤王両派の間をとりもって藩内を新政府に従うことにまとめたこともあって、かろうじて「朝敵の汚名」を免れることができた。もう片方の斉民は江戸にいて、鳥羽伏見で命からがら逃げ帰った将軍慶喜が江戸を退去する際、彼から田安慶頼(たやすよしのり)とともに徳川家門の後事を依頼された。
 また、同時期の岡山藩と備中松山藩の動静については、まず岡山藩が徐々に幕府から離れていった。もともと勤王色が濃かった岡山藩政が大きく勤王・倒幕側に傾いたのは、1868年(慶応4年)のことであった。これより先の1866年(慶応2年)師走に、一橋慶喜が15代目の将軍に就任した。その慶喜の実弟である岡山藩主池田茂政は、これにより微妙な位置に立たされたが、翌1867年(慶応3年)、西宮警備を命じられて家老以下約2150人が出役した。

 翌1868年(慶応4年)正月には「朝敵」と見なされた備中松山藩の征討を命じられ、またも家老以下1千数百人が出役した。この間に大きく世の中が動いたのを見抜いたのは、近隣の津山藩などと大きく違うところである。この年の旧暦正月15日、藩主の池田茂政は急遽隠居をして、徳川氏とゆかりのない鴨方支藩の池田章政が本藩の藩主となり、かねてよしみを通じていた長州藩との連絡をも密にし、倒幕の旗印を鮮明にするに至るのである。
 これに対し、備中松山藩は、家柄の重さが大いに関係した。この藩の元々は、1617年(元和3年)、因幡鳥取の池田長幸(いけだながよし)が6万5千石で入封した。ところが、1641年(寛永18年)にその子長常が死んで無継嗣・改易となり、翌年備中成羽(びっちゅうなりわ)の水谷勝隆(みずのやかつたか)が5万石を与えられて入封した。しかし、これも1693年(元禄6年)、3代勝美(かつよし)の末期養子となった勝晴が、勝美の遺領を引き継ぐ前に没してしまった。ために、水谷氏は継嗣(けいし)がなくなり除封された。

 その後しばらくは安藤・石川両氏の所領となったものの、1744年(延享元年)、伊勢亀山より板倉勝澄(いちくらかつすみ)が5万石で入封し、譜代大名が領する。そして、7代藩主の板倉勝浄(いたくらかつきよ)が幕府老中に就任していたこともあり、結局は倒幕に抗する動きを示した。
 戊申戦争(ぼしんせんそう)においては、彼は奥羽越列藩同盟の公儀府総裁となって函館まで行って新政府軍に抵抗したものの、時流には逆らえず、1869年(明治2年)、明治政府によって禁固刑に処せられることになる。加えるに、鶴田藩(だづたはん)は、1866年(慶応2年)の第二次長州征伐で長州軍に所領を奪われた石見国浜田藩6万1千石の藩主松平武聡(まつだいらたけあきら、水戸藩主徳川斉昭の子)が、翌1867年(慶応3年)に幕府から久米北條郡内で2万石を与えられて立藩していた。 

 このため、1868年(慶応4年)1月の鳥羽伏見の戦いのおり、幕府側について敗れ、「お家存亡の危機」に立たされたが、家老尾関隼人の赦罪賜死での嘆願によってどうにか新政府側の許しを得たのであった。

(続く)

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◻️55『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、紡績業)

2018-09-25 19:18:59 | Weblog

55『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、紡績業)

 こうした全国での動きにと歩調を合わせる形で、岡山県下でも養蚕が盛んになるとともに、近代紡績の勃興もみられるようになっていく。1880年(明治13年)、岡山紡績所が設けられた。これは、旧岡山藩池田家からの士族授産資金で設立されたものである。また、1882年(明治15年)に玉島紡績所が開業した。こちらは、それまで備中綿の集散地であった玉島に設けられた。さらに同年、綿織物の産地である児島においても、下村紡績所が設立された。
 続いて、1888年(明治21年)には、大原孝四郞による倉敷紡績が民間ベースで設立され、翌年の10月20日に操業を開始した。場所は倉敷代官所跡で、当時の県知事の千阪高雅の助言もあり、資金の確保をねらって1891年(明治24年)に倉敷銀行を設立した。新会社では、当時の最新技術のリング紡績機を導入し、昼夜に二交代制を敷いた。
1893年(明治26年)時点の同紡績所の規模は、1万664錘、精紡機31台であって、その後の発展の基礎が作られた。人員の方も、1897年(明治)10月の調査によると、「倉敷の女工総数1436名、中、勤続年数1年以内のものが589名、2年目以内のものが464名で、両方あわせると70%をこえる。平均勤続年数は、約8か月であった」(岡山女性史研究会編・永瀬清子・ひろたまさき監修「近代岡山の女たち」三省堂、1987)というから、2年を越えては会社にいられないような劣悪な労働状況であったとも受け取れる。
 この事業は、勝田、真庭、赤磐などの山間地などでも盛んに行われるようになっていく。その生産のピークは皮肉にも1929年(昭和4年)の大恐慌の頃であった。北条県の津山では、養蚕を地域の産業として奨励する行政の後押しもあって、1880年(明治18年)浮田卯佐吉らによる浮田製糸工場が伏見町が立ち上がった(津山市教育委員会『わたしたちの津山の歴史』1998年刊行)。
 英田郡内においては、1897年(明治25年)に美作製糸合資会社が大原町に設立され、また大庭郡内の久世村においては、久世合資会社といった地元資本による製糸会社が立ち上がった。さらに勝北地内においても、1898年(明治26年)、市場の竹内茂平らが「永盛製糸合資会社」(当時の勝田郡広戸村、現在の津山市広戸の農協広戸支所の敷地)を立ち上げた。この工場は、1910年(明治38年)まで市場地域にあったと伝えられている。その頃の「県下養蚕戸数は5万5496軒のうち勝田郡の養蚕戸数は5614軒、繭数量23万6384貫、価額163万2694円であり、県下22の年中第一位の順位であった(二位赤磐、三位真庭)」(勝北町誌編纂委員会『勝北町史』1991年刊行)であり、関係する農家と地域社会にとって貴重な現金収入となっていたことが覗われる。

(続く)

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□56『岡山の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、農業)

2018-09-25 19:17:27 | Weblog

56『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(産業の発展、農業)

 1888年(明治21年)の岡山県の農地保有別数は、田畑10町歩以上の農家が564戸、2町歩超10町歩未満農家が8152戸、2町歩以下の農家が14万5387戸であった。

 経営の種別では、自作農が4万6968戸で16.32%、自作兼小作農が9万5379戸で33.15%であったのに対し、小作農一本は14万5387戸で全体の50.53%も占めていたのであって、この農家構成からも当時の重苦しい農村の雰囲気を感じ取ることができるのではないか。加えるに、この頃になると、農業資本家が小作農と請負契約を結ぶとか、自らが資本主義的生産者となって農業労働者を雇い入れる形が表れてきたのが注目される。
 具体的には、1887年(明治20年)、九州に本拠をおく「政商」の藤田組が児島湾の干拓事業を政府に申請した。総面積7000余町歩のうち約5500町歩を対象に干拓を行おうとするもので、設計はオランダ人ムルドルが担当した。計画は、第一期と第二期の2本立てでの申請であって、そのうち第一期分が第一区と第二区とに分かれており、こちらが「藤田農場」と呼ばれる部分である。この計画は、翌1888年(明治21年)には政府の許可をもらった。

 この計画に対する地元民の対応は、洪水を激化させ、古地の湿田化を招き、旭川の堆積の激化と遡行の困難などの理由から、大方が反対に回った。また、この干拓によって漁業権が失われる漁業者も反対に加わった。1899年(明治32年)藤田組は地元民の反対を押し切る形で、第一期分の児島湾干拓事業に着手した。その6年後の1905年(明治38年)に第一工区、1912年(明治45年)には第二工区がそれぞれ完工となる。これとは別の第二期工事が完成したのは、1933年(昭和8年)のことである。
 建設後の藤田農場の規模としては、耕地面積が1200町歩あり、これを高崎、大曲、都、錦の4つの農区に区画整理した上、直営600町歩と小作600町歩の2本立てでの資本主義的農業経営を目指した。小作事業については、藤田組は、干拓で獲得したその宏大な土地に精力的に入植者を募集し、小作契約を結んでいく。

 その内容は、請負耕作で営業純益の35%を払わせるなど4通りの小作雇用の形態をとるもので、その中では「稲扱(こ)き作業やモミ分配時に落ちこぼれたモミを耕作者が取り込むこと(慣行)も盗籾者とみなす」(岡山女性史研究会編「岡山の女性と暮らしー「戦前・戦中の歩み」」山陽新聞社、2000)といった抜け目のない搾取の網を敷いていた。

(続く)

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○47の2『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(七支刀など)

2018-09-25 18:46:59 | Weblog

47の2『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(七支刀など)

 もう一つ、4世紀の倭と朝鮮との関わりを推測させるものとして、七つの矛先をもつ七支刀(しちしとう)に触れたい。これは、神がかりの剣であって、古代の4世紀、朝鮮半島から伝わった。ヤマト王権の武器庫であったとも言われている石上神宮(いそのかみじんぐう、現在の奈良県天理市)にあって、国宝となっている。 2000年5月の上野国立美術館で開催中の「国宝展」にも陳列された。その説明文にはこうあった。
「奈良県天理市石上神宮伝世
古墳時代4世紀
特異な形状の鉄剣で、表裏に61文字金象嵌される。
銘文は朝鮮半島をめぐる当時の倭の国際関係をうかがわせる記録的
文章である。」
 銘文に何が書いてあるかはガラスケース越しではよく読みとれなかったので、ここでは現場での注釈にさせていただこう。
 「泰(和)四年(五)月十(六)日、丙午正陽造百練(鉄)、七支刀(出)百兵、宣供侯□□□□付、先世以来有此刀百済(王)世(子)、奇生聖音故為倭王旨造伝示(後)世」
 なぜ七つの刃先なのかということについては、祭祀用に用いる剣だからということだろうか。倭王とは誰なのかを考える時、「宣供侯□□□□付」のところの読みの一部が不詳となっている。朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」による推測には、こうある。
 「「七支刀」(奈良県・石上神宮所蔵)は、369年に、百済が作製して倭王に送ったもので、こうした百済との関係樹立を記念したものである。ここに百済・加耶南部・倭の軍事的な同盟関係が成立したことになる。」(朝鮮史研究会「朝鮮の歴史」三省堂、1995より)
 「石上神宮の宝物として、鉄盾とともに伝えられたもので、身の両側にそれぞれ3本の枝刃を左右交互に出す特異な形からこの名がある。鍛鉄製の剣身に金象嵌(きんぞうがん)の銘「泰□四年□月十六日」があり、ここでの元号は「泰和」とみるのが有力である。
 『日本書記』」神功皇后52年の条に百済王が献じた重宝のなかに「七支刀」の記録があるのは注目される。」NHK出版編「国宝全ガイド」日本放送出版協会、1999より)
 この解説文のなかで腑に落ちないのは、泰和4年(369年)に百済王が倭王に「献上」したというなら、臣下なり同盟員が主人なり盟主なりに送ったことになりはしないか。この点について上田正昭氏の『古代史の焦点』は、こう推測される。
「(石上神宮の七支刀は)全長74.9センチ(刀身65センチ)の鍛鉄の両刃づくりで、刀身の左右に3つずつの枝が違いに出ている呪刀である。その刀身の表裏に、金の象嵌で六十余字が刻されている。三度実物を吟味したことがあるが、惜しいことに下から約三分の一のところで、刀身は折れており、銘文もまた錆落ちばかりでなく、故意に削ったところがあって、銘文の判読に困難な個所がある。
 そのため苦心の解読が多くの人々によってなされてきたが、これまでの読み方で、決定的に誤っているのは、396年(泰和四年)に、百済王が倭王に「献上した」刀などと解釈してきたことである。銘文の表に「候王に供供(供給)すべし」とある候王とは、裏の「倭王」をさす。まずなりよりもこの銘文の書法は、上の者が下の者に下す下行文書形式であって、けっして「献上」を意味する書法でもなければ文意でもない。それは百済王が候王たる倭王にあたえたことを意味する銘文であった。それなのに、これを「献上」とか「奉った」とかなどと恣意に読みとったのは、我を優として彼を劣とする差別思想にわざわいされたものというほかない。
 21世紀の今、これまでの「歴史を直視せよ」といわれる。東アジアでは、歴史認識を巡っていろいろと面倒なことばかりが目立つ。その中では、共通する部分を明らかにしていこうという仕事が軽視されているきらいがある気がしている。そういう非和解とされる部分を辛抱強く紐解いていくと、どうなるだろうか。お互いの連関性を明らかにしてこそ、双方、多方面との違いも明らかになるのではないか。この国の文化も歴史も、そうすることによってこそ、生き生きと蘇ってくるのではないかと考えている。一九八〇年代のドイツとフランスの歴史的和解は「ついに握手ができたか」の灌漑ひとしおであったし、欧州12か国の歴史家が額をつきあわせて編集した歴史教科書「ヨーロッパの歴史」が1992年から出版されており、1997年には増補改訂版も出されていると伝えられる(朝日新聞の声欄、倉持三郎氏の「東アジアも共通の歴史教科書を」2015年3月27日に収録)。
 このようにして日本列島に勃興していた、もしくは大きな力を貯えつつあった勢力と、古代の朝鮮との外交関係がどうであったかは、2世紀頃までの外国との関係はなお、あまりよくわかっていない。こちらは中国との関係よりも、もっと「灯台もとくらし」で、双方の考古学の成果をかき集めても、それらの事実のひとつひとつを結びつけ、連続し、一貫した知識の体系として整理するまでには至っていない。朝鮮半島から日本列島への渡来は、主として対馬や隠岐を経由して、この列島のいずれかの地にかなりの年月をかけて行き渡っていったのではないかと考えられる。

そのことは、3世紀から7世紀にかけて本格化した。それには少なくとも3回の波があった。一つは、民衆レベルのもので、朝鮮半島の飢饉などに悩んでいた人々が渡ってきた。二つは、貴族とか豪族が新天地を求めて渡ってきた。更なる一つは、7世紀からのものである。

(続く)

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○47の1『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑など)

2018-09-25 18:44:03 | Weblog

47の1『自然と人間の歴史・日本篇』倭と中国と朝鮮(好太王碑など)

 ここでは、倭と朝鮮半島との外交関係を紐解いてみたい。4世紀初めの朝鮮半島は、北方の高句麗(コグリョ、紀元前37年に建国)とその南方に百済(ペクチェ、紀元前18年に建国)と新羅(シルラ、57年に建国)の3国がいずれも王朝国家を形成していた。そのほか、半島最南部には「伽羅・伽耶連盟(から・かやぶんめい)」も展開していて、複雑な諸国家分立の状況にあった。

 高句麗の勢いは楽浪郡を滅ぼした後も益々盛んで、四世紀の終わり頃の好太王の治世には、大いに外征を行い、領土を広げていった。西は現在の中古具の東北三省の南の地方から、東はトンヘ(日本の立場で言うと日本海)の沿岸にまで領土を広げ、さらに海岸沿いに北へ勢いを伸ばしつつあった。
 4世紀後半に至ると、今の中国の東北三省に拠点を置き、朝鮮半島北部まで進出していた高句麗がさらに半島を南下し、北進してきた百済と戦いを交える。これらのうち「加羅・伽耶連盟」では、かねてから少数豪族の分立が続き、その団結は強くなかった。ところが、南朝鮮にはその頃すでに、倭の勢力が入り込んでいたことがわかっている。それが、大和朝廷によるものであるかどうかは、はっきりしていない。5世紀に入る頃には、倭は百済と力を合わせて、北から南へと勢いを伸ばしていた高句麗と対峙することになっていく。
 ちなみに、かの有名な好太王の碑文は、現在の中国の吉林省集安市に建つ。碑は、長寿王が父の好太王の功績をたたえるために414年に建てた。碑文に彫られた正確な名前は、「國岡上廣開土境平安好太王」とのことで、それが刻まれている石柱の高さは6.4メートルある。碑の4面すべてに合計で1759文字が刻まれている。そこには、王の治世のさまざまな出来事が、手柄話を中心に記されている。なかでも、高句麗と百済・倭との17年に及ぶ戦い(391年、400年、404年及び407年)が記されている。
 例えば、第1面の8行から9行にかけて、「百残新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來、渡海破百残□□新羅、以爲臣民」と彫られている。ここに、高句麗はかつて百済と新羅を属民としていた。それゆえ、両国は高句麗に朝貢して来た。しかし、倭は辛卯年(391年)よりこのかた、海を渡って百済を破り、□に新羅を□した。これによれば、倭は百済と新羅を臣民とした。この文章を、当時の倭が百済と新羅を従えていたと読むのであれば、飛躍に過ぎよう。

 そこで、この碑が言いたいのは倭との戦いにおける大義名分であって、倭はそれ程までに朝鮮半島の深くまで進出していた。それに脅威を覚えた高句麗はやむなく大軍を差し向けて倭と戦い、第1回目は勝利を収めたことになるのだろう。
 ところが、その後のことははっきりしていない。双方のいうところは異なっている。とすると、確かなところは藪の中にある。この碑文の細かいところでは、何しろ好太王の事績を褒め称えてある。古代ローマなどでも、都合のいいところだけを並べ立てていたのではないか。そうである可能性があるからして、今でもいろいろな解釈が並び立っているようである。4世紀末から5世紀初めの倭(日本)と朝鮮半島の姿を東アジアの視点から知ることができる貴重な歴史的資料であることに変わりはないものの、やはり何らかの考古学的な裏付けが必要だと考えられる。

(続く)

 

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