○○241『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3、歌川広重)

2018-05-05 10:19:55 | Weblog

241『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3、歌川広重)

 もう片方の歌川広重は、江戸に住んでいた侍の子であった。父が幕府定火消同心というからには、大きくなったらいづれ父の仕事を継ぐのが予定される。その父は13歳のとき亡くなり、あろうことか母も他界するのであった。家督と家職を相続した後は、どのように暮らしていたのだろうか。
 その広重が世の中に頭角を現すのは、侍身分としてではなかったのが面白い。1831年(天保2年)頃に、浮世絵で、川口版「東都名所」を発表する。その後、侍の仕事で江戸から出発し、東海道を京都まで行く旅に同行し、その道すがら見聞したのを、江戸に帰って後、画業に注いでいく。
 そして出来上がったのが、保永堂版「東海道五拾参次之内」であり、大評判を博す。よく分からないが、興味をそそられるものも含まれる。「深川万年橋」においては、橋の欄干らしいのに囚われた亀がぶら下げられているし、「大はしあたけの夕立」は随分とスームアップし寒々さを余すところなく表現している。思わず「見事だ」と、驚くほかはない。
 それからは大御所への道ということであったろうか。「近江八景」「京都名所」「木曾街道六拾九次」「六拾余州名所図絵」などを次々とものにしていく。とはいえ、全国をくまなく回りスケッチしたのではなくて、題材などから空想をたくましくして描いたものも多いのではないか。
 幕末に入っては、1856年(安政3年)に剃髪して法体(ほったい)となる。そんな姿誰かの絵に描かれており、さっぱり、こぎれいの感あり。「やれやれ疲れたな、これからはマイペースで」と呟いているようにも見えるのだが。それからは、「名所江戸百景」シリーズに力を注いでいたのだが、1858年(安政5年)には病没する。
 そんな多くの畢生(ひっせい)の作品の数々で、実に多くの観る者をとりこにした浮世絵作家なのだが、かなり年上の葛飾北斎と知り合いであったことが伝わる。もっとも、たった一度の出会いであったとも伝えられ、何かの書き物に其の時の二人のやりとりが記されている訳ではない。ちなみに、日本を代表する時代作家の藤波正平の短編においては、北斎が版元に行っているところへ広重が現れた。その時のやりとりは、北斎がぶっきらぼうなのに対し、広重はあくまでも冷静といったところだろうか。稀代の名作家二人の息遣いが藤波の卓越した筆致から滲み出てくる。

(続く)

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