♦️273『自然人間の歴史・世界篇』クリミア戦争(1853~1856)

2018-05-02 21:11:39 | Weblog

273『自然人間の歴史・世界篇』クリミア戦争(1853~1856)

 クリミア戦争(1853~1856)は、当時のヨーロッパの多くを巻き込んだ、複合的な構図の戦争である。黒海沿岸の覇権を巡って起きる。というのも、ロシアがオスマン・トルコの支配下にあった黒海沿岸のモルダヴィア公国などに侵攻したのに対し、トルコと友好関係のあったフランスやイギリスなどヨーロッパ諸国が支援する。
 当時のロシアは、オスマン・トルコの衰退に乗じて南下政策をとっていた。あわよくば中東、バルカン半島への進出をはかる。1828~9の同国との戦争で、ロシアはドナウ川沿岸の地を併合し、トルコの支配からギリシアを独立させたほか、バルカン半島ののセルビアやモルダヴィア、ワラキアに自治を獲得させていた。
 これらにより微妙な力関係になりつつあったところへ、ある契機が介在して起こる。その最初は、1853年のオスマン・トルコが、領内のキリスト教徒や聖墳墓教会などキリスト教の重要施設の保護権(とりわけ聖地管理権)をフランスに認める。フランスのナポレオン3世はオスマン帝国相手に、自身の支持基盤の一つであるカトリック教会の歓心を買うことができたのだから、してやったりであったろう。
 この措置に対し、ロシアのニコライ1世は、1774年キュチュク=カイナルジャ条約で認められていたトルコでの「ロシア正教徒の保護権」を名目に、猛反発。ロシアは交渉で撤回を求めるのだが、交渉は決裂してしまう。トルコ領内のロシア正教徒を理由に、スラブ系民族のロシア正教徒が多いモルダヴィア、ワラキアをロシア軍が占領するのであった。
 イギリスがこの戦いに加わったのは、なぜだろうか。こちらは、イギリスが地中海までの交通路の確保を模索していたのに対し、このままロシアの南下をゆるしてしまえば、これらの地域でロシアとの拮抗関係が生まれることを危ぶむ。そして、自らの国益が損なわれると確信したのだろう、1854年3月にフランスとともにロシアに宣戦する。オーストリアは、モルダヴィアなどに隣接していることから、国内のスラブ系民族がロシアの行動に触発されるのを恐れ、プロイセンとともに、ロシアに対してドナウ地方からの撤兵を要求する。一方、イタリアのサルディニア公国は、分裂していたイタリアの統一を進めるなか、諸大国にその存在を認めさせようと考え、1855年1月にいたり、トルコ側に加わる。
 1854年1月、クリミア半島に上陸したフランス・イギリス連合軍は、同半島にあるロシア海軍のセヴァストポリ要塞を方位するにいたる。そして迎えた1855年9月には、クリミア半島にあるロシア海軍のセヴァストポリ要塞が陥落する。実に349日に亘る攻防戦であったがゆえに、双方で沢山の死傷者を出したことで知られる。この要塞の陥落によって、ロシアの敗北は決定的となる。1856年3月に結ばれたパリ条約によって、ロシアはベッサラビアを放棄する。セルビア、モルダヴィア、ワラキアの自治権を認めるとともに、黒海にロシアの艦隊と基地を維持することを禁じられる。
 なお、これにいたる1955年3月にニコライ1世は失意のうちに急死し、アレクサンドル2世が即位する。また、この戦いに26歳の砲兵少尉としてロシア側から参戦したトルストイに『セヴァストーポリ』という作品があるほか、イギリスから数十人の看護師を引き連れて、戦地であるスクタリに赴いたナイチンゲールが、そこで目にしたのは酷い衛生環境の下であったらしいのだが、自軍の傷病兵を助けるため奮闘したので広く知られる。

(続く)

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♦️306『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ統一

2018-05-02 08:58:44 | Weblog

306『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツ統一

 ウィーン会議での列強間の決定によって、プロイセンは得業の発達したライン地方を獲得する。1818年になると、政府は「プロイセン関税法」を制定する。近隣諸国をプロイセンを中心とする関税同盟に加盟を促す。1834年には、「ドイツ関税同盟」を発足させる。これには、18か国と約2230万人の人口を含む。
 1850年、プロイセン政府はオーストリアと条約を結び、名目ばかりとなっていたドイツ連合を解散させる。1850年代のドイツ産業革命を経ての1854年までに、南ドイツ諸国をドイツ関税同盟に加入させるのであった。
 1861年にヴィルヘルム1世が即位すると、保守的なマントイフェル内閣を辞職させ、新たな軍制を敷こうとする。当時、議会の下院ではプロイセン進歩党が勢力を成していた。責任内閣制の確立、平時における軍事予算の削減、2年現役制と後備軍制度の存続を掲げ、国王の軍制改革案に反対する。
 1861年12月の総選挙で、進歩党は第一党に躍進する。これに対し、プロイセン国王は駐仏大使のビスマルクを首相に任命し、難局に当たらせる。そのビスマルクは、就任直後の下院演説で、次のようにいう。
 「現今の大問題は、言論や多数決ーーこれが1848年及び49年の大錯誤であったーーによってではなく、鉄と血によってのみ解決されうる」と。
 ところが、ここにプロイセントともにドイツ連邦の大きな一翼を担うオーストリアとの間に、シュシスヴィヒ・ホルンシュタイン問題が起こる。この両国はデンマーク王の支配下にあったものの、住民の多数がドイツ人であった。そのため、早くからデンマークからの独立運動があった。1864年10月、ビスマルクのプロイセンは、オーストリアと語らって、両公国をデンマークから奪い取るのに成功する。
 そして、1865年、ビスマルクはこの両国の独立勢力を押さえ込み、オーストラリアと「ガシュタイン条約」を結ぶ。これにより、シュシスヴィヒはプロイセンの、ホルンシュタインはオーストリアの支配下におかれる。
 ところが、1866年になると、ビスマルクは新たな手を打つ。列強が干渉しないように工作した上、オーストリアに圧力をかける。これに対しオーストリアがドイツ連邦議会に提訴すると、ガシュタイン条約違反だといって、ホルンシュタインに出兵する。プロイセン軍はオーストラリア軍を破り、8月にはプラハ条約を結ぶ。
 この条約により、オーストリアはプロイセンにホルンシュタインに譲り、ヴェネツィアをイタリアに譲渡する。それに、オーストリアは2000万ターレルの賠償金をブロイセンに支払うこととする。
 この戦争の後、プロイセンの国力と勢いは増していく。ハノーファーやクール、へッセン、ナッソウなどの諸国家を併合する。1867年には、マイン川の諸国家とともに来たドイツ連邦をつくる。この連邦たが、軍事と外交はプロイセン王が握る。なお、バイエルンなど南ドイツ4国家は連邦に留まったものの、ビスマルクはそれらとも攻守同盟を結ぶのを忘れなかった。
 こうして、プロイセンは大きな国にのし上がった。プロイセン国内においては、この戦争を通じ、ビスマルクは、議会に対する工程権力を確立させた。わけても、1862年以後の予算の事後承認を求める「事後承諾法」を議会に提出する。同案の賛否で、進歩党は分裂する。ビスマルクを支持する一派は進歩党から離脱し、国民進歩党を結成する。このようにして、議会ではビスマルク指示はが安定多数を占めるようになっていく。これをもっていうなれば、「ドイツ統一は自由を犠牲にして行われることになった」(米田治・東畑隆介・宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶応義塾大学通信教育教材、1988)のだ。

(続く)

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♦️271『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの近代化

2018-05-02 08:57:00 | Weblog

271『自然と人間の歴史・世界篇』ロシアの近代化

 19世紀初頭のロシアは、まだごく一部でしか工業化へ向かっていなかった。他の列強に比べ、国力に不安が指摘されていた。皇帝の下に封建的な社会がずっしりと座っていて、底辺に行くに従い、多くの人々が苦しい生活を送っていた。
 そんな時、1801年に即位したアレクサンドル1世は、自由主義的な精神を国政持ち込もうとする。翌年には、行政機関を8つにまとめ、それらを皇帝の直属とする。1803年には、地主に有償で農奴を解放する権限を与える。
 対外面では、引き続いて領土の拡張を目指す。1807年、フランスのナポレオン1世と結んだティルジット条約によって、大陸封鎖に協力することを約束した代償に、1809年にフィンランドを獲得する。同じ流れにて、続く1812年にはベッサラビアを手に入れる。
 そして迎えたナポレオンのロシア遠征に対し、ロシアは「祖国戦争」を掲げ、1815年にはこれに勝利を収める。しかし、その後のアレクサンドル1世は、政治・社会改革の熱意を失っていく。ロシアの軍部の一部は、自由主義的な貴族と組んで秘密結社に集い、専制政治と農奴制を終わらせるための機会を覗う。
 そして迎えた1825年12月14日、同皇帝が急死し皇位が空白になったのに乗じて、彼らによって指導される軍の一部が、首都のペテルブルグにおいて、皇位継承者とされるニコライの即位に反対し、行動を起こす。彼らは、同皇帝の次弟であるコンスタンティンの即位と憲法の制定を要求する。
 この動きに呼応するかのように、12月29日、南部でも軍隊による反乱が起きる。これら二つの反乱は、ニコライの召集した軍隊により鎮圧される。これを「一二月党(デカブリスト)の乱」と呼ぶ。
 新皇帝のニコライ1世(在位1825~1855)は、自由主義的な貴族に不信感を抱いていた。皇帝直属の官僚制度を強めるとともに、秘密警察をつくり、操って、自由主義者を弾圧していく。その範囲は、言論に対する検閲の強化、西ヨーロッパの出版物の輸入の禁止、大学の自治の禁止、自由主義者の教壇からの追放などに及ぶ。
 その一方で、皇帝権力の社会的基盤としての農村では、農奴制が実質的な解体に向かいつつあった。何よりも、農奴を使用する農業経営の非生産性が開明的地主たちによって自覚されるようになっており、かつまたこれに反対する農民の反乱も頻発していた。

(続く)

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