♦️57『自然と人間の歴史・世界篇』アケナテン王の宗教改革とアマルナ文書

2018-05-30 08:36:07 | Weblog

57『自然と人間の歴史・世界篇』アケナテン王の宗教改革とアマルナ文書

 現代エジプト学において「アマルナ文書」というのは、1887年にテーベの北方約500キロメートルの地点(エジプト中部のナイル川東岸)テル・エル・アマルナで出土した粘土板のことだ。これには、楔形(くさびがた)文字で、文字が記されているとのこと。
 これらを調べていく過程で、紀元前14世紀にメソポタミアなどの西南アジア諸国からエジプトに向け送られた公式の外交文書であることがわかった。それらの宛先は、アメンヘテプ3世(紀元前1398~同1361)、それにアメンヘテプ4世(アクナトン)であって、その総数は約360通を数える。
 当時の複雑化しつつあったオリエントの国際情勢を知る上で、欠かせない史料となっているおり、注目されたのがこれらがアマルナから出土したという事実であろう。
 それというのも、アメンヘテプ4世が新都アマルナを築いた動機は、はっきりしている。それは、因習とアメン宗団がはびこるテーベを離れ、彼らに束縛されない王の権力を打ち立てることにあった。そのためには、アメン神から離れ、アテン神(太陽神の一種としての)を携え、遷都するのが必要だと。
 そして、行動は起こされた。その時は紀元前1363年頃のことであっとされ、宮廷はさぞかし混乱を来したことであろう。
 こうした内容のうち宗教改革については、現在の歴史学において評価が分かれているように感じられる。その一説には、こうある。
 「彼以前の王室の宗教にも日輪崇拝が頭をもたげていたし、ヒクソス以来アジアの日輪崇拝はエジプトによく知られていた。特にミタンニ人の太陽崇拝はエジプト王室に入った女性たちによって広められていた可能性がある。
 しかし、彼の日輪(アテン)を唯一の神とする信仰は、他のどの古代宗教よりもヘブライ人の一神教(ユダヤ教)に近いばかりでなく、世界主義的傾向においては、民族主義的なユダヤ教をこえてキリスト教に近づいている。
 また、その排他的、政治的性格は古代末期の国家宗教、即ち、4世紀以後のローマ帝国のキリスト教や3世紀以後のサーサーン朝のゾロアスター教を先駆している。これは一宗教的天才が、全オリエントの接触・交流の時代(後期青銅器時代)を背景として創造したものであった。」(小川英雄「西洋史特殊Ⅰー古代オリエント史ー」慶応義塾大学通信教育教材、1972)

(続く)

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆


コメントを投稿