新56『美作の野は晴れて』第一部、母の青春2      

2014-12-17 21:16:22 | Weblog

56『美作の野は晴れて』第一部、母の青春2  

 私にとって、母方の祖父である文蔵は面影に残っていない。私が生まれたと聞いて、遠い道のりをかけつけてくれたとのことだ。祖父の写真が一枚残っている。それを眺めると、真摯な風貌である。穏やかな目が印象的である。農業の家であったが、本業は司法書士で、主に土地売買の代書人の仕事をしていた。依頼人の書類を持って、羽織袴に身をくるみ、関本から8キロメートルのところにあった勝田町真加部の登記所まで自転車で通うのが日課であった。
 祖父文蔵は、良き家庭人でもあったようだ。母によると、家庭では火鉢の灰に鉄棒で字を書いて子供に教えたらしい。写真からは、温厚な人であったことが見てとれる。私が生まれた年の翌年、1953年(昭和28年)に71歳でこの世を去った。祖母・勢喜の姿は薄々ながら覚えている。話していたことの内容もほとんどはもう忘れてしまっている。彼女は、私が8歳のときに亡くなった。享年64歳であったと聞いており、さぞかし苦労が続いてのことだったのだろうか、母が他界したいまとなっては知るすべも限られる。
 敗戦から二年後の1947年(昭和22年)、母は為季家と薄い親戚であった勝田郡勝北町の丸尾登と結婚した。母は、その次の年までのことを次のように記している。
「仲人の紹介でうすい親戚で有ったので、わたしは写真だけの見合で丸尾家に来ました。親同志が決めた結婚でした。父さんも中支から帰って半年目、・・・・・・八人家族でした。翌年勝北中学校ができました。・・・・・朝大きな弁当を四つ作って、朝五時に起きて見送っていました。・・・・・田圃二町歩作っていました。」(同、一部割愛で紹介、なお、文中の「町(歩)」(ちょうぶ)とは9917.36平方メートルでおよそ100メートル四方と考えればよい。反(たん)とか畝(せ)はその10分の1に当たる)
 1950年(昭和25年)に兄が、1952年(昭和27年)には次男の私が誕生した。当時は敗戦からまだ立ち直りつつある頃で、国民の多くは食うや食わずの状態のままであった。そのなかでも、農村は食料を自給出来て、食い物の心配からは比較的に自由であったようである。私については、少年期に受けた「戦中教育」が敗戦によって根底から覆されることはなかった。敗戦後、数年から7、8年まで続いた食糧難を経験することも免れたようである。
 さて、国道53号を通る行方行きのバスに戻ると、それからは、バスは奈義町役場前で止まる。この辺りになると、そろそろ「おかあちゃんの生まれた家に近づいてきたなあ」という気持ちになってくる。
 ここの道筋の左に少し行くと、標高が600メートルのところに菩提寺(ぼだいじ)がある。火事で焼ける前は大伽藍であったらしい。その寺は、少年時代の弘法大師(空海)がしばらく修行していた。境内にはイチョウの大木がある。樹齢は900年ともいわれ、国の天然記念物に指定されている。根本の方に何筋もの木も合わさっていて、その全体がその木を支えている。これはもう一本の木というよりは、「イチョウ木の大株」とかいうのがふさわしい。人々の伝承による創建は室町(むろまち)の頃ともいわれ、そうだとすれば沢山の幹が同じところから育ってるこの木はその前からここに立っていたのかもしれない。
 私がまだ小学生で訪れたときには、イチョウの葉が鄙びた黄色になって、紅葉が進むとともにやがてぎんなん(イチョウの種子)が大地に落ちているときであったか、判然としない。ついでに言えば、ここには2014年(平成26年)現在、青春時代の母が勤めていた奈義町豊沢の地に現代風の美術館が建てられている。現代アートが似合う美術館だという。私はまだ訪れたことがないので、今度近くに行ったら、是非参観してみたいと思っている。
 それらは、この町の美しく豊かな自然と歴史的たたずまいを残す史跡や、昔の面影をとどめる建物などに加え、新たな伝統と文化の広がりを生み出しつつある。
 さらに進んで行った先の行方が、このバスの運転の終点となる。午後の旅であったのが、この辺りに来るとすっかり暗くなっている。ついでにいえば、その辺りには、北から南へと淀川(よどがわ)が流れていて、その川沿いの道(現在の県道356号線、行方勝田線)を南に進んでいくと、行方から西原(にしばら)へと到る。
 終点であるから、バスは停留所のそばに簡単な車庫と宿舎とがあって、運転手さんはそこにバスを入れて、一泊することになっていたみたいだ。私たちは、そこから歩いて、1キロ弱先の関本(せきもと)地区まで行く。バスをおりると、さっきまでの車窓からみれていた乳色のたそがれいろが、今はもう、薄暗く道や停車場の周りを塗りつぶす夜色に変わり始めていた。
 私たち子供二人は、ともすれば母より先走ってしまう。
「おかあちゃん、荷物を一つもったぎょうか(持ってあげようか)」
 リュックを背負っているので、両手が空いているのだ。
 遅れぎみの母のところに戻っていって、そう母に言うと、月明かりに母の顔を覗うことができる。
「ええで、・・・・・じゃあ、これを一つもってくれるか」
とほほえむので、さっそく一下げもらって、並んで歩き出す。
 そのうちに、左に大きな門構えの家の前を通り過ぎる。「庄屋」か何かであったのだと、母が話してくれた。なるほど、門構えがしっかりして、しかも間口も広い。堂々たる造りの家だった。
「こりゃあ、おかあちゃん、大けえ家じゃなあ」
「うん・・・・昔は村の寄合なんかも、この家の中でやられていたみたいじゃ」
「分限者(ぶげんしゃ)なんじゃろうか」
「それはわからんけど、農地改革で田圃はとられてしまいんさったけど、いまでも山はようけいもっとりんさるんじゃないかなあ(たくさん持っておられるのではないか)」
「そうなんかあ」
 そこを過ぎて歩いて行くと、左へ折れる道がある。あたりはもうとっぷりと日が暮れている。その角の電柱であろうか、そこに取り付けられている街灯が、ぼんやりとこれから向かう道の入り口を照らし出していた。
 「泰司、そろそろ明かりがあるところじゃな」
 「うん、もう見えとるで、もうちょっとじゃなあ」
 そう答える自分の声が弾んでいたのは、想像に難くない。その道へ入って北へたどっていくと、ほどなく急な坂にさしかかる。その坂を登り切ったところからは、沢山の民家があるのだが、頂上に至るまでの坂道をちょうど中程まで行ったところ、そこにに母の実家である為季の家がある。家のほの暗いあかりが見える距離に近づくと、まだ小学校3、4年生くらいのときは勢いがあって、私はその急な傾斜の坂を走ってその家に向かったものだ。
 明くる日には、三穂神社(みつほじんじゃ)の祭りか縁日があった。本殿前の屋台や幟(のぼり)なんかのにぎわいと、本殿への階段にたむろする人並みがあった。この神社の由来は、1180年(治承4年)頃、島根の美保神社の祭神の「事代主命」(ことしろぬしのかみ)を分祀したのが始まりであるとされている。また、この神社には、後に「三穂太郎」という伝説の巨人が祀られている。この太郎なる人物は、那岐山に腰かけて瀬戸内海で足を支えたというから、「那岐の伝説の巨人」とでもいうほかはない。その身の上話には、この地に土着した武士団である「菅家党」の息がかかっての創国譚(そうこくたん)ともいわれており、出雲の国引き神話や蒜山(ひるせん)の大清造などの伝承とも相通じるものがあるようだ。

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新44『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風4

2014-12-14 09:50:26 | Weblog

44『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風4

 めずらしいところでは、小学校の給食で副菜の材料を当番制で持って行っていた。一枚の賞状(B6の大きさ)が残っている。
 「賞状
 第二学年 丸尾たいじ
 よい行い
 あなたはよくさかなをもってきましたので表彰します
 昭和三十五年十月四日
 新野小学校印」
 これは、決して作り話をいっているのではないので、信じてほしい。有る日のクラスで、担任の先生から恭しくいただいた、この賞状にいうところの「さかな」は、給食の材料の野菜の代わりにもって行ったのではないか。おそらく、西の田んぼの溝が狐尾池の池尻に流れ込む処、その水溜まりに仕掛けておいた罠とかを引き揚げ、朝早く獲ってきたばかりの魚を、「これは新鮮でぴちぴちしているから、学校に持って行ってあげよう」となったのだろう。魚は生ものだから、おそらく、魚を持ってきてよろしいことになっていたのは、低学年の頃までだったのではないだろうか。普段、学校に持って行くのは、野菜であった。毎日の献立表が給食室の栄養士さんによって前もって作られ、掲示されていて、その日その日で持って来てほしい品目がわかるようになっている。そこで、その中のものを幾つかみつくろって家から持って行くことにしていた。それを朝一番で給食室の前に持って行き、当番の人にそこのはかりで重さを測ってもらってから、記録しておいてもらうようになっていた。
 薬草取りは、一見簡単なように見えるかもしれない。なぜなら近くの野や山野に行ってただとってくればいいじゃないかと、言われるかもしれない。たが、事はそう簡単ではなかった。薬草といってもい色々あって、何をどのように探したらよいか、わからないのだ。とはいえ、どれが薬草かが段々にわかるようになると、採りに行くのが面白くなってくる。田んぼ仕事の合間に、祖父や祖母と連れだって付近の野原や小山に暫し分け入ることもあった。その出で立ちは、韓国ドラマの、朝鮮李王朝時代の有名な医師の生涯を描いた『ホジュン』において、主人公が身につけていたものとやや似ていた。違うのは、こちらは日頃見慣れている薬草ばかりが狙い目で、和気藹々の気分での薬草探しであったこと、採取袋だけでなく、土を掘り起こすときに使うような、短めの鎌を持っていたことくらいであったろうか。といっても、まだ育ちの小さいもの、育ち切らぬ小さな芽のものは抜いたり、切ったりせずに、放っておかないといけない。我がにおいては、家族以外に、やたらとその有り場所をふいちょうして回ることもはばかられたのではなかったのか。それが又の収穫を約束するための智慧というものであると教わった。次に紹介する日記の一節は、夏休みの宿題である「植物採集」のために出掛けたのであったのだろうか、。
 「8月28日(金)
 朝は勉強、植物採集、てつだい、ちちしぼり、犬、ふろたき、草取り。昼すぎ、薬草を取りに行った。オオバコ、ゲンノショウコ、ハブソウ、カゴソウなどを取りに行った。みんなあったので、帰って用意をした。反省、たいへんよかった。」(1964年(昭和39年)の「夏休み日記」より)
 9月に入ると、だんだんに朝夕はずっと涼しくなってくる。つい一週間前までは、夜になってもじっとりと汗ばむような蒸し暑い日が続いていたのに、それが急に嘘のように消える。夜のとばりが降りると、虫たちがさまざまな音楽を奏でる。
 ちなみに、9月23日頃の秋分の日を挟んだ前後の7日間は春のそれと区別して「秋のお彼岸」といわれる。この頃になると残暑も峠を越して、涼しくなっ
 「あれ、まつ虫が鳴いている、チンチロチンチロチンチロリン、秋の夜長を鳴きとおす
おおおもしろい虫の声」(『虫の声』、文部省唱歌)
 ふと気がついて家の外に出てみると、月が冴え冴えとしている。きれいな水面のあるところでは、それが逆さに写ってさぞかしきれいに見えることだろう。庭には、ゆるやかな風が吹いているようだ。雲がゆっくり流れて、時折、月を隠すが、すぐに通り過ぎて、また美しい月のご登場となる。
 「夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも」(『万葉集』巻八、一五五二、作者は湯原王(ゆはらのおおきみ)で志貴王子の第二王子)


(続く)
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新42『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風2

2014-12-14 09:44:44 | Weblog

42『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風2

 子供は、誠に遊びの天才である。当時の私の田舎では、自然の中に遊びがあった。遊びは生活の一部だったのだ。しかも、ただ単に同じ遊びを繰り返していたのではなく、遊びついでに、また別の遊びを見つける。夢中で遊んでいるかぎり充実していて、疲れを知らない。子供の知恵がよく働いた。河原の石ころの中には、珍しい色をしていたり、模様の入っているものがあって、それを探して歩く。東の田圃の方から家路へ向かう途中に、切り通しの場所がある。その泥岩の岩肌の下は雨露をしのげる。そこに蟻地獄があった。擂り鉢状の穴の中心をつついてやる。すると、宿の主が出てくる。小さな虫は驚いてまた土の中に潜ってしまう。その驚き慌てる様がとても面白い。
 私の小学校時代、家の回りの自然は宝物に満ちていた。村のこどもたちはその宝物を求めて歩き廻った。家に持ち帰るほどのものには出会うことは少なかったものの、探している間は眼が自分でも輝いていたはずで、その意味では充実したひとときを過ごしていたことになる。その意味では、子どもはまさに天才だったに違いない。といっても、日々の暮らしの中で、自然にまつわる不満や願いがなかった訳ではない。不埒な考えだが、山形仙がもっと低ければいいのにと考えていた。山の中の暮らしは、便利が悪いことも事実である。第一に寂しい。夜のとばりが降りると人の気配はなくなる。せめて道がちゃんとしていればいいのだが、それらはいずれも狭い。小学校の高学年になるにつれて、都会への憧れに反比例して故郷の閉鎖性に対する気持ちが芽生えていったのは疑いない。
 盆は8月13日の宵の辺りから15日まで、家には来客が相次いだ。13日の盂蘭盆に先祖の霊を仏壇に迎える。墓に詣でて先祖の霊に詣でる。14日からお客さんがやってくる。私にとっては曾おじいさん、曾おばあさんの兄弟姉妹からの親戚も含まれる。お客さんが来るたびに、玄関先の板間に大人も子供も出て、正座して挨拶を交わす時代だった。
 その親戚の人たちが持ってきてくれる「おみやげ」の中に、餅やあんパンなんかがあるのかと、不思議に思われるかもしれない。これについては、私も疑問に思っていたが。餅はどんな時でも大事な供物として扱われてきたからなのだう。餅をもってこれないときや、持って行く餅が足らないときは、その代わりや補充の役割をあんパンとかが務めることになることになったのだろう。それはともかく、盆に親戚の人たちにいただいたあんパンに、私たち子供が舌鼓を打ったことは疑いない。
 盆入りの前日か同日の朝には、西の田んぼの向こうに広がる山の丘陵部分に分け入って、「仏様」に供える草花をとりにいく。仏様を迎えるために、心地よく過ごしてもらうために、正月と同様に華摘みをしてくる習慣はいつ頃から始まったのだろう。季節の花ということで、それらは床の間と表の間の仏壇に飾って、仏様に心地よく過ごしてもらうためのものだと言われていた。一番の目当ての野菊は、そこかしこに咲いていた。菊は奈良時代の末期に中国の方から伝来した植物であって、それまでの日本にはなかったものである。野原には、秋の七草のうち、幾つあったかどうか。栽培されて咲く菊は馴染みが深いが、野菊はそんな派手さや鮮やかさは余りない。ききょうは、可憐な紫の花を咲かせていて、これを手折って持って帰ると、祖母や母に大層喜ばれた。榊(さかき)は家のそばの傾斜地に植わっているので、そこからとってきていた。めずらしいところでは、シモツケやカナメモチも鎌で刈り取って持ち帰っていた。
 表の間にある仏壇にはお灯明がしつらえられ、やや小さな四角い膳の中に小さい丸い器で一杯になった。器には少しずつ、ご飯やそうめん、高野豆腐の煮物、里芋煮から麩(ふ)などの柔らかな食べ物が入っていた。膳の中には器が十個くらいはあって、その中には自家栽培の番茶まで入ったものもあった。お茶はあつあつのを供え、一日経った翌日の朝には、母や祖母が「かど」(庭先)に勢いよく撒いていた。そうするのは、そこに大勢の氏神様がいて、みなさんにまんべんにお茶が行き渡るようにと願いを込めてのことであったようだ。このような仕掛けでやってきた祖先の霊に差し上げるべくごちそうを用意して、3日間滞在してもらう。真言宗のおてらさん(住職)を迎え、拝んでもらう時には、粗相があってはならない。縁側から直接家の中に上がられるので、仏壇のある奥の間まで行ってうやうやしく迎えたものだ。当時の子供たる私の目では神と仏は共存していた。
 さすらいの歌人、西行(さいぎょう)の歌に次のものがあり、この国が「小さき神々の国」であったことのありがたさを覗わせている。
「何事の おはしますおばしらねども かたじけなさに 涙こぼるる」
 さて、盆には、地元から都会にはたらきに出ている先輩が帰ってくる。Hさんもその一人だった。年は20歳過ぎくらいに見えた。友一(仮の名)ちゃんの家には3人のにいちゃんがいて、英(ひで、仮の名)さんは長男だった。遊びに行くと、ステテコ姿で出てきて、左に団扇で仰ぎながら話す。当たりは柔らかムードで、僕らの質問に気さくに答えてくれる。
「大阪は広いよ。まあ海のようなもんよ」
『そんなに広い所があるなら、度肝をぬかれんじやろうか』と考えつつ、なおも尋ねる。「そりゃあ、ビルディングちゅうことじゃろうか。英さんらは都会の賑やかなところをいろいろ知っとりんさんか。」
 私は、興味津々で尋ね続けた。
「ははは。僕らは仕事が終わると、連れだって映画にいったり...。まあ、いろいろいいところがあるよ」
 なんだか、軽くあしらわれているようだった。次は、誰かが質問を変えてみる。
「女の子?そりゃあ垢抜けしとるよ。きみらはホットパンツって知っちょるか」
「知ってるけど、うーん、やっぱりよう知らんわ」
 私らは、「ふーん、そうなんかあ」と溜息をついてから、また何かの質問をする。そのたびに、お兄さんの方からは、スパスパ、モクモクの煙草の煙とともに、機関銃のように繰り出される。私たちは、その言葉に酔いしれるというより、翻弄されていた。
 9月1日からの新学期になると、体育祭の練習が加わってくる。授業もだんだん佳境にさしかかる頃なので、いろいろと難しい。それでも、遊べるときには目一杯に遊ぶのが子供の。登下校の道沿いには、夏から秋にかけての花々が咲き誇っている。下校の途中、田柄川に架かる橋のたもとに建っている水車小屋のそばでよく遊んでいた。その辺りの草むらには、ヒガンバナが咲いていた。別名はマンジュシャゲともいう真紅の花が乗っかっている茎は、どれもこれも地面からニョキッと鎌の柄を立てたようにすっくと上に伸びている。白い色のものもあるとのことだが、目にしたことがない。
 野菊もまた、愛らしい花を咲かせる。黄色や紫がかったものが路傍のあちこちにもある。秋の日差しに控えに輝く菊の花の繊細なつくりに、日本人は自然の推移を静かに見つめてきた。「九月ばかり、夜ひと夜降りあかしつる雨の、今朝はやみて、朝日いとけざやかにさし出でたるに、前栽の菊の露こぼるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。・・・・・少し日たけぬれば、萩などのいと重げなるに、露の落つるに、枝のうち動きて、人も手ふれぬに、ふとかみざまへ上りたるも、いみじうをかしといひたることどもの、人の心には、つゆをかしからじと思ふこそ、又をかしけれ」(清少納言『枕草子』)といわれる。

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新27『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

2014-12-08 21:38:00 | Weblog

27『美作の野は晴れて』第一部、夏の自然の中で2

 田んぼには、実に沢山の生き物たちが生息している。一説(「JA全農田んぼのいきもの調査」2014年8月)によると、日本のたんぼには5568種類の動物と、2791種類の植物、原生生物は597種もいるとか。一番ポピュラーなのはトノサマガエルとかヒキガエル、ニホンアマガエルといった蛙の類であって、水を引いた田圃の中で卵からおたまじゃくしへ、さらに蛙へと成長を遂げる。昼は交尾をしているため、カエルの背にもう一匹背負った形のカップルをよく見かけたし、夕方は田圃の畦の方にというか、沈む夕陽にむかってというか。あのだみ声で混声合唱を延々と繰り返していた。米を育む田んぼは、同時にこれらたくさんの生物や自然環境を育んでいることになっている。
 日差しが強くなりつつあるものの、いったん上空に寒気が入り込むと、ざあざあとした大雨、あるいはしとしとした小雨という具合に、来る日も来る日もそんな天候不順が続くことがあった。増水すると、田圃の稲が水に埋まり、そんなことが重なると、いもち病の原因となる。この頃にはまた山や野の緑が深まる季節である。
 雨と一緒にいろいろな命が活発に動き始める。その頃の楽しみに、「カタツムリの早歩き競争」があった。カタツムリは、乾いた場所は苦手である。ツユクサの咲いている辺りに行くと、あそこにもここにもさまざまな植物の葉にかたつむりがとりついている。彼らはコケ類を食べるのだと大人衆は言っていた。小さいのはそのままにして、大きいものから2、3を捕って帰り、家の縁側で、横に並べて横一列に並べる。
「でんでんむしむし かたつむり
おまえのあたまはどこにある
つのだせ やりだせ あたまだせ」(文部省唱歌)
 縁側の片端に、二匹のカタツムリを並べる。そして、「ようい、どん」の合図で手が放たれる。にゅるりにゅるりと、縁側の板をぬらしながら這い始める。頭に着いた2本の触覚をフルフルと震わせながら、甲良をかぶった体がゆるゆる進んでいく。彼らは、ともすれば斜めに進んでいくようだった。何を考えて進んでいるのだろうか、その動く様は見ていて楽しかった。方向を間違えるカタツムリに対しては頭に息を吹きかけて、もとの方向に戻すことを繰り返した。30センチメートル位を先に「泳ぎきった」ものが勝利となる。
 カタツムリと対をなすようにいたのは、アガガエルとアマガエルだった。カエデの木の下の草むらにもいた。カエデはカエルデが訛った漬けられた名で、カエルデとはアマガエルの手にほかならない。こちらも鳴く声を聞いたことがない。ドロガエルやトノサマガエルはどちらかというと沼地にいたが、アカガエルとアマガエルは樹林や森や渓流のひやっとした空気の中にいたようだ。春の恋の季節、相手を求めたり、求められたりするときのカエルの大合唱は、いまでも耳深くに残っている。
 春から夏の野原では、カジイチゴやニガイチゴが自生していた。トゲを避けながら、赤や黄色の実を食べ歩いた。フキは道沿いの日陰の至るところに自生していた。それを手追折ってから束にして持ち帰り、母に頼んで大釜で下茹でしてから皮を剥く。そして母の手で混ぜご飯の具にされたり、炊き合わせ、それから和え物にされた。味はさほどでないものの、風味というか、田舎の匂いというかがあり、それに噛む時にさくさく感があって、これも美味しい中に入るのだろうか。
 蝗(いなご)は、春の池湖畔に沢山いた。農薬を使うようになってからいなくなった。中国古代の歴史によく出てくる程の「蝗の大群」にお目にかかったことはない。しかし、1回くらいはそれに近いのではないかという状況に出逢ったことがある。家の前の坂を下ったところ、そこの「おばな」(屋号)のおばさんの田んぼには稲が植わっている。その時の田んぼは農薬散布をまだしていなかったのではないか。いなご達は、その田んぼの南側の池尻に群生している葦やガマやヨシなどに止まって、やたらに口を動かしていたばかりでなく、その細長い棚田に輝く稲の若芽にも、一気呵成というか、集団でとりついているようであった。その日の私たち子供は、誰からということもなく、あうんの呼吸で意気込んでいたのではなかったか。各人が活発に活動している蝗に近づいて、それを下から掌をスコップで掬うようにして取っては、用意してきた串に刺していく。1時間くらいは猟をしてから、まだ黒い血が滴っている串刺しの獲物の蝗を家に持ち帰って、七輪の火であぶってから食べた。いまでも内陸地方の至る所で珍味とされていることからもわかるように、香ばしくてとても美味しかった。
 それに都会生活で育った人には気味悪がられるかもしれないが、大木が腐った灌木の中には、多数の蓑虫(みのむし)たちがいる。祖父の手伝いをして、それを斧で太刀割って、カラスよろしく掴み出し、火にかざしてくるりくるりまわしてあぶる、それを火を置いて何度か繰り返す。そして、砂糖を入れた酢醤油をつけるねなりして食べていた。柔らかく、また香ばしくて案外、いや大変うまかった。だから、今日、東南アジアなどのルポを見ていて、似たような光景が出たとき、そのような食べ方が野蛮と笑えないのである。
 蝶の幼虫がアオムシとなって葉の裏にとりついている。その葉の幹だけを残してきれいに食べているのを見かけた。水の流れの緩やかな川や溜め池に棲んでいる。流れの中にいるときはアカムシやイトミミズを餌にして成長する。ものの本によると、蝶の幼虫は獰猛でもある。駕籠に入れて飼うときは共食いを避けるために餌をふんだんに与える必要があるとのことだ。蝶が羽化するときの模様は何回かは見たような気がするものの、自信はない。モンシロチョウの中には黄色や紫のものがいた。心地よさそうに飛んでいた、ナミアゲハの羽の黒と城のコントラストは今でも目に焼き付いている。
 春うららかな晴れた日には、雀や喉元が黄色いメジロなどの小鳥を罠を仕掛けてとっていたこともある。これは今思い出しても大変な技術で、鳥が中の小麦とかナルテンの実とかの餌を食べようと罠の入り口に首を突っ込み、餌を嘴にして戻ろうとしてその格子に触れた瞬間、それとつながっているしなった木の枝が反動でバチンという鈍い音をとともに、勢いよく跳ね上がる仕組みとなっている。その力で格子が塞いで、鳥は窒息死する仕掛けとなっていた。こんなことをいつもやっていくならば、私たちの頭の中は、狩猟民族のものになってしまうだろう。これは小学校のはじめで辞めた。みんながしなくなったこともあるが、それよりも罪悪感がひとしおであったからといえるだ。
 雉は、我が家の西の畑に時折つがいで現れるのを見たことがある。故郷の山を背にした西の谷の畑で見た雉は大変大きかった。草の間を行き交っていた子供は2羽だったであろうか、親鳥につかず離れずにいた。おそらく10メートルくらいは離れていたであろう。ひとつ捕まえてやろうと抜き足差し足忍び足でちかづいたものの、人間に気が付いた親鳥はにわかに飛び去った。子供の鳥は走って逃げたのだろう、飛び上がらなかった。
 それを見ていた私身体に、何かブレーキがかかった。複雑な思いで頭の中が一杯になった。さらに少しすると、今度は「やめろやめろ」という声がしたような気がする。集中していた心の糸がほどけてきた。それ以上追ってみる気にはなぜかなれなかった。いまから振り返っても、あのとき追うのをやめて本当によかった。
 当時は、鉄砲を担いで猟をする2人連れを時折見かけた。猟で生計を立てている人たちだったのだろうか。当時は、山で獲物となるうさぎや雉などをみかけることがあった。鉄砲の音が山にこだますると、自分を狙われているような気がして嫌な気分であった。
 「早くここらから立ち去ってくれればいい。」
 とにかく怖かった。漁師のおじさんたちが2人連れで帰っていく姿を見ると、「もう来ないでもらいたい。」という気持ちで見送った。子供にしては珍しく、大人の面前でも自己主張をしたい思いに駆られた。
 学校からの帰り道には、西下内の5つの(流尾、平井、笹尾、中村、そして畑)の一つ、畑地区を必ず通らないといけない。その道が神事場から南へ伸びてくる道と交差する十字路に用水堀があった。そこには掲示用の立て札が立てられてあった。ある日のことだった。掲示板には弾痕が幾つもあった。鉛の玉が食い込んでいるのが幾つも見えた。それを見ていると、恐ろしかった。自分も撃たれるのではないかと想像した。それから、その弾痕の跡に目をやるたびに、この場を早く通り過ぎようと心が騒いだ。
 小学校も高学年になると、鳥を追い回ることはかわいそうになってやめた。一方、ツバメは巣をつくる家に福を呼ぶということで、軒先につばめが巣を作れるよう巣の土台がされていた。卵から孵った雛たちは沢山の糞をまき散らすものの、頭にひりかけられた(ひっかけられた)こともあるが、 「こいつ、ちくしょうめ」などと声を荒げたことはなかった。
 蜂の巣を父やほかのおじさんたちと一緒に取りに行ったこともある。早朝に出発して、山の中に分け入る。しばらくついて行くと、小枝が絡み合っていて進入が難しく、蜂の巣がひそんでいそうなところで立ち止まる。みなさん、何かを探している気配はない。というのは、その場所に前もってその茂みの奥に蜂の巣があることがわかっているからだ。
 まずは、周りの小枝や何かを鎌を使ってどけたりして、巣が見えやすくする。火を点けることで周りに火が回ってはいけないので、蜂を刺激しないように注意しながら、土の中に何層にもなっている蜂の巣を発見すると2人の人が進み出て、類焼につかながるようなものを遠ざける。こちらでは、大人の人達は手っ取り早く燃やせるものを集め始める。私も乾いた小枝を拾ってくる。こうして狩りの用意万端が調うと、小枝と乾いた柴に、持ってきた新聞紙を添えてマッチで火を付ける。柴がパチパチと音をたてて燃え出す。地下の巣はまだ気づいていないようだ。いよいよ火攻めの開始である。
 「危ないけえー(から)おまえらは下がってろ」
 子供たちは慌てて、5、6メートル以上後へと下がる。前に大人の人の姿があるので、巣がよく見えない。ただ、もくもくとい立ち上がる煙とパチパチと燃える音がしてくる。やがて、森のその場所に高く煙りが立ち上がり、その中から紅い炎が見えるようになる。 すると、煙と炎にあぶられた蜂たちが巣の穴から、次から次へと出てくる。それらのほとんどすべてが焼け死ぬか、よろよろと動作がままならなくなるのが見てとれた。ブーンと空気を震わせて狩りから帰ってきた蜂たちはパニックを起こしている。
「子供はもうちょっとさがれえ」
大人衆のまた誰かが叫んだ。
「ここでやられたら大変だ」
 私たちは、「きょうとい」(こわい)という言葉の響きのごとく、びくついており、黙ったままさらに後ずさりした。
「パチパパチッ」
と紅蓮の炎が燃えさかっている。そこから10メートルばかりの後ろまで遠ざかる。それでも蜂が沢山ブーンと上空を舞っているのがわかる。
「あとで巣を家に持って帰って見せちゃるけん、おまえらはあぶないけー、もうかえれい」
 もう一度、今度は柔らかい声が飛んできた。その声を聞いて僕らは逃げるように駆けだした。すずめ蜂が背中の方から追ってくるようで、子供心に恐ろしかった。森を出たときにはホッと一息ついた。
 それは私が小学校の高学年か中学に入ってからの頃のことだが、すずめ蜂に頭を刺されたことがある。振り払えばよかったのかもしれない。しかし、やすやすと、その蜂が首の後ろ側にとりつくのを易々とゆるしてしまった。その当時は、すずめ蜂が黒い色にいたく反応することを知らなかったから、黒い頭の髪に向かって飛んできたとき、とっさに動いて逃げればよかったのかもしれない。
 そいつは頭に登っていった。「どうしちゃろうか」と考え始めたところへ、「ブスッ」とやられた。そしても蜂はいづこかへ「ブーン」と飛んでいった。この蜂の一刺ししひどかった。痛いというよりは、むしろ頭全体が舵のようになって、苦しい目にあったのを覚えている。幸い、母が冷やしたり、いろいろとしてくれているうちに痛みと苦しみが和らいでいったようである。今なら、あんな無謀なことをする気にはなれない。
 アメリカザリガニもよく捕った。はるばるアメリカから渡ってきて、繁殖力が強いので、溝や池の周辺の草むらの中で幾らでもとれた。北欧や中国の上海でも庶民の味として、対就職となって久しい。当時においても寄生虫を抱えているという話を聞いていた。だからよく焼いて、しっぽの肉のところだけ胸部から引きちぎって食べていた。

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新36『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち2(遊び)

2014-12-04 10:18:59 | Weblog

36『美作の野は晴れて』第一部、夏の子供たち2(遊び)

 夏といえば、子供が自前で楽しめる、夏ならではの遊びがいろいろあった。一つは、昆虫採りだった。小さな命を束縛するのはかわいそうなので、昆虫採集の他は、捕ったら、その後全部はなしてやるのを通例としていた。蝉獲りから紹介しよう。蜘蛛の糸をわっかに塗った自作のものか、合繊の購入品である袋状の虫取り網をもって、野や林に分け入った。柿の木などの低木にとりついている蝉の大半は小さなミンミンゼミか、大きなアブラゼミだった。網を近づけると、左に右に場所を移動する。敏感な蝉はこちらが網をかぶせ終わらないうちに、小便らしきものをひりかけて飛び立っていく。蝉からいうと、「ざまあみろ、俺は簡単には掴まらんぞ」という訳なのだろう。
 アブラゼミやツクツクホウシはもっと高い杉の木や孟宗竹にとりついていた。だから、下からは葉や梢や森に差し込んできた陽光に遮られてよく見えない。蝉獲りは昼通しでやっているので、蝉獲り人同士が森の中ではたはちあわせになることもある。そんな時は、互いに虫かごの中を見せ合ったものだ。
 もっと静かな所で鳴く孤独になく蝉もいる。その名は蜩という。彼らがいるのは樹木がうっそうとしているところで、その一帯に足を踏み入れると、涼しげな風が胸の中に吹き込んでくる。松尾芭蕉の句に「先ずたのむ椎の木もあり夏木立」とあるが、その夏木立の下は、太陽光が遮られて昼間でも暗いのではないか。頭上では、竹の梢のあたりが風に吹かれてそよそよと揺れて、なんとも幻想的だ。蜩(ひぐらし)の声は何やらもの悲しい。たまに低い位置にいて、捕虫網を伸ばして採ったこともある。でも、大抵はぐんと高い所にいて、目を皿状にして探しているうちに不自然にそり上げた首がたまらなくだるくなる。たまに見えると、緑色の涼しげな姿をしている。初めは採ろうということも考えた。しかし、気持ちが周囲の静寂に馴染んでくると、網を伸ばそうという気は萎んでしまうことが多かった。
 さっきまで、木にとりついて樹液を吸っている蝉を面白楽しく追っていた。その自分がその光景の真ん中に居たのが、後ろの方へと退いていく。代わりに自然の中に活かされている自分がクローズアップされてくる。それだから、小学生の半ばには蝉獲りはむなしくなってやめてしまった。あのときの自分は心持ち自然の一部となって、虫たちと同じような空気を呼吸しているような気持ちになっていたにちがいない。懸命に鳴いている蝉たちの命は、わずかに2週間ほどのものでしかない。はかない命だ。地中で過ごす六年間かの方が、ゆっくりと時間を過ごせて、さぞかし幸せなのであるまいかねと考えたくなってしまう。
 そんな夏木立の森にも、視線を膝下に落とすと、いろいろな生き物たちが暮らしている。中でも、蝶やトンボはセミよりもっと低いところで動き廻っている。これらの小さな生き物のおしりも追いかけていたのだから、彼らにとっては迷惑なことであったろう。アオスジアゲハは高い木立に絡みつくヤブカラシの葉にとりつき、蜜を吸っている。せわしないのはモンシロチョウで、追っても逃げ足が速くて、なかなか捕獲できない。
 昼間の池や沼にはトンボが群れている。その棲息域は、道路の際の茂みから山間の草原、平地の少ない棚田から、草の生い茂る土手、人の手が加わっている田んぼのそばのあぜ道、陽のあたりにくい場所にもいる。彼らが低空を飛んでいる姿、なかでもトンボの雄が雌のおしりを、自分のおしりでしっかりとつかんでいる姿に出くわす。圧巻は沼や池尻の藪にいるときで、蓮やジュンサイの葉っぱに雄が止まり、「あれ?」と見ているうち、しばらくすると雌が水の中に首を突っ込んだ。雌がジュンサイの茎か何かに卵を産み付けるためなのかもしれない。おそらく、水の中はほどよい音頭になっているのだろう。
 小さな生き物たちは、家の庭やその付近の植物にもとりついている。どうやら、蜜を吸いにきているらしい。テントウムシがいる。その可愛さたるや、語るに落ちない。彼らは、余り飛ばない。それでも、場所を移したりするときは、小さな羽を振るわせて、低空を飛んでいく。丸い背中は、斑点がついていたり、紺碧の色をしたのもいた。かれらが飛ぶ様はかわいい。かまきりは自分の世界に浸っているようだった。地面には蟻や大小のヤスデや虱に似た地中生物たちがいる。ミミズは大抵が土を食べるフトミミズで、シマミミズは見えなかった。こちらの方は牛ふんや生ごみの捨て場に沢山見かけられた。蜂についても、アシナガバチやミツバチよりもつと小さい蜂が飛び交って森に棲息していた。
 樫の木などにはヤニの出ているものがある。そういう木肌の現れた所には、カブトムシやクワガタムシが樹液を吸いにやってくる。蝶もやって来る。その中にはさなぎから脱皮したばかりの羽をしたのもいる。蜂がいる。スズメバチやアシナガバチだ。蛾がいるというわけで、さながら昆虫のデパートと化している。みんな押し合いへし合いで、いいところを陣取ろうと争っているようだ。こちらはスズメバチの毒針にやられたらたまらない。だから、かれらを刺激しないでおく。カブトムシは直ぐに捕獲できるものの、クワガタムシはハサミで傷つけられる。注意して、捕獲して虫駕籠に入れたものだ。
 「くちゃめ(まむし)がおるから長靴を履いていけえよ(いきなさい)」と祖母と母にやかましく注意されていた。まむしは田んぼの畦道(あぜみち)によくいた。農道に出て来ている時もあるので、よく見て歩かないといけない。まむしを踏んでしまうと、噛まれやすいからだ。草刈りをするときは手元に十分注意しないといけない。まむしが縮んでいるときは、ジャンプしてくる前触れとみてよい。目の表情が鋭い。私は不用意に草むらに入ることはしていない。ジリジリと太陽の日差しが照りつける田んぼ道、その真ん中付近の上に思いがけなくまむしを見てからは、尚更注意するようになった。
 夏には、また鳥たちの活動も盛んになる。かれらはいろいろな方法で命をつないでいた。森の中で、やや大きいのは、ひよどり、赤いような、橙色のような、それてせいて背中と羽の上の方は白っぽい。鳴き声は、記憶に残っていない。
 メジロは、喉から胸にかけて輝くような山吹色をしている。尾は短く、目には白いアイリングがある。モズはスズメより少し大きくて、黒褐色で地味な色ながら、尾が長い。どちらも、キイキイとかチイチイとか鳴いていた。平地から山地まで、明るい林のあるところや、農耕地でも見かける、どこにでもいるような小鳥である。みみずとかの小動物を嘴にくわえて、小枝から小枝へとさえずり渡り歩いているときは、きっとご満悦であったのだろう。
 雉(きじ)は、母と一緒に西の山に近い畑に行ったときなどに、時々出くわした。比企丘陵でよく見かけるキジバトとは種類が違い、尾が長くて、体も結構大きい。その当時、つがいでいるのは見たことがなく、其の時は子連れでいた。どうやら、餌を捜し歩いているらしいのだが、こちらは畑仕事で来ているので、そのまま眺めている訳にもいかない。さらに畑に近づくと、親の雉がそれだと気づいて、急に向こうの林がある、いやその向こうの山の方向へと駆け出した。雛たちはまだ飛べないので、親鳥の後をよたよたとついて行く。追いかけずにいてやると、親子ともども竹や何かの茂みの中に消えていった。
 里山に近い田んぼには、処どころ、かかしが立っている。「やまたのかかし」をご存知だろうか。さしずめ、かかしは稲の守り神というところだろう。「ヘノヘノモヘノ」とやすぎ節の「ひょっとこ」が付けるような面白い顔を書いてから、「はでやし」で作った手足と胴体の上に頭を取り付ける。そのかかしとかかしの間を、太陽の光を浴びてきらきら光る色どりどりのセロファンが結んでいる。いわく、「ここは、ちゃんと見張っとるぞ。おまえたちの来るところではないぞ」ということなのだろう。
 出来上がった頭の上から菅笠を被せると、「山田のかかし」の出来上がりだ。簡単なつくりであるが、植えたばかりの稲苗の上にきらきらしているセロファンの帯とともに、夏の日差しに輝いている。
 「山田の中の一本足の案山子(かかし)、天気のよいのに蓑笠着けて、朝から晩までただ立ちどおし、歩けないのか 山田の案山子」(作詞・作曲は未詳)
 その頃は、かかしの効用は、あれを見てからすや何かが「これはかなわん」と思って退散するからだと聞かされていた。その主たる相手としては、雀とかカラスとかではなかったか。「ははん。そんなもんかなあ」というのが、感想であった。
 今から顧みると、夏に長雨があったり、日照が足らぬと、稲に「いもち」が大量発生し、「いもち病」にかかったときには稲穂への実入りが少なく、その分稲穂が軽くなってしまう。天候によっては、空気が湿ったり、稲の穂が水に晒されるので、どうしても稲穂にカビがついてしまう。その糸状の菌が稲穂に入ればそこで菌が繁殖して、中の実が枯れてしまう。
 一方、ウンカとか、カメムシなどの害虫はなにしろ生命力が旺盛である。いったん発生しだしたらきりがない、どんどん田圃にひろがっていく。これにやられると、茎が茶色く変色する。そこから、稲に食い込んでいて、あたりに白い卵を落としながらじわじわと広がっていく。こうなると、成りの田圃にも伝染していくので、農薬散布をして除菌するしか道がなくなる訳だ。ともあれ、そんな冷夏には、ある程度の収穫減は覚悟するしかない、籾すりをする前から不作であることがわかっているだけに、農家にとっては辛い作業だ。
 季節はずれの夏風が吹くときもままある。そんな時は、稲の痛みがひどかった。早稲の場合は稲が受粉するときに風に吹かれるといけない。日照りの夏で水が田んぼに回らなくなっては尚更いけない。根元が黒黒とした酸化鉄の衣を付けているのではよくない。そんな根は地中で伸び続けておらず、こうなると土壌中の養分を吸い上げにくい。そうなると生育が悪くなるので、急いで田んぼに水を回してやらないといけない。
 7月下旬からの夏休みに入ると、流尾地区の子供たちは、朝のラジオ体操に出かけることから日課が始まる。会場は坂を下って「あがいそ」に至り、そこから50メートルばかり急な坂を上がったところにある康雄さん(仮の名)の家の庭である。ラジオ体操第1と第2をやり終えると、おばさんに持ってきた参加簿に「丸尾」の判子を押してもらっていた。家に帰ると、食事をする。それから、家の作業で田圃や畑に出かけていた。
 夏休みは、いろいろと遊んだものだが、夏でないとできないものに水泳がある。仕事の手伝いが昼で一段落するときは、家の前の狐尾池でよく泳いだ。夏休みには、の子供たちが連れだってこの池に泳ぎにくる。中には、大きな浮き輪を抱えている女の子もいる。西下全体(そこには流尾、笹尾、中村、平井の各地区がある)の父兄が交代で、監視してくれた。私は、泳ぎは余り得意ではない。それでも、背泳ぎや平泳ぎでゆっくり泳ぐ分には疲れにくい。これだと、泳ぎながら、周囲の景色を眺めたり。まわりので泳いでいる人に声をかけたりできるから、安心だ。
 水の中で目を開けると沁みて痛いので、水中メガネを重宝した。耳に水が入ると、急いで上がって、近くの熱くなった岩に耳穴を当てる。しばらくすると、なんだか耳の奥がむず痒くなって、その後中の水が出て来た。困るのは水中で足がつることがあって、いざ、「助けて」となったら、当番のおばさんたちが浮輪を投げてくれるだろう。池の岸沿いに遠泳すると、そこは浅瀬になっていて、ガガブタやヒシの類が繁茂していて、これに足を取られると厄介である。幸い、私が1年生から6年生までの夏には、池での水難事故はなかったようだ。
 森の中では、蝉採りに励んだ。「深山幽谷」とまではいかないが、仲間と連れだって、たまに林道に沿って森の奥にまで「蝉取り」の足を伸ばすことがあった。「カーナカナカナ」と鳴く蜩(ひぐらし)を竹竿の先に付けた蜘蛛の巣リングでねらう。彼らはほかのセミとは違い、ひんやりした高い木の茎や間だけ、孟宗竹の空間を好んでいたようである。だから、竿の届かないこと高みにいることが多い。大抵はどこにいるかを確かめることで満足していた。特に、深夜(晩)、あたりが静かになった中でさざなみのような音色には、うっとりするほどの魅力が宿っていた。
 一通り採ってきたセミたちを眺めて楽しんだ後は、放してやった。正直にいうと、そのままかごに囲っておきたい気持ちはあった。けれども、昆虫採集で殺すのは惜しいし、かわいそうだという気持ちの方が優っていた。
 珍しいところでは、家の後ろに杉や檜の森があった。昼でも光を余り通さない場所がある。土は湿っていて、ベニシダやスギゴケのたぐいが群生していた。そこには、小さいトンボたちがいた。鮮やかな青や黄色の美しい姿に見入ったものであった。赤トンボや青トンボの群れ飛ぶ夕空を慈しんできた。トンボは竹林のなかにもいた。
 新竹が育ったあとには竹の皮がくっついている。地面にも竹の皮が転がっていた。それを拾い集めて帰る。皺を伸ばして溜めておくと、桐を買う人とかが来たときに一緒に買い上げてくれたからだ。当時は冷蔵庫は普及していなかった。竹の皮には殺菌作用があって、肉を包むときには重宝する。いまでも都会の下町の肉屋さんで買い物をすると、ゴワゴワした竹の皮に包んでくれるときがあるから不思議だ。
 母に頼んで某かの小遣いをもらい、組立飛行機を買いに行った。値段は何百円かしたはずで、決して安くはない。国道53号線を渡って向こう側にある城之山商店(仮の名)とかで買った。それをかごに入れて自転車で帰る間にも、これから始めるものづくりと飛行しているときの空想で胸が膨らんだ。家で長い袋を開けて、軸から翼、尾翼まで新聞紙の上に並べる。作り方は、まずは骨格を作る。セメダインを使って丁寧に組み立てていく。脂紙に向かい寸法どおりに鋏を入れていく。それが済むと骨格に紙を貼っていく。最後にプロペラと附属のゴムを取り付ける。ゴムをグルグル巻きにしてからその手を離すと、弾力でほどける。その力を利用してプロペラが回り、飛行機が飛ぶ仕組みだ。出来上がると、広い所で試してみた。
「上がる上がる」
 そう呪文を唱えてからプロペラを放す。飛行機はたいがい斜めに飛んでいった。滞対時間は精々5、6秒くらいだが、うまく浮くともっといくこともある。
「上がった。やったやった、お見事」
などとはしゃいでは、その日ばかりは何十回も飛ばしたものだ。

(続く)

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新11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

2014-12-02 22:38:08 | Weblog

11『美作の野は晴れて』第一部、父と戦争2

 さて、日本軍の敗戦の年の父の所属の派遣軍に戻るが、その頃からおよそ1年を経た1945年(昭和20年)の彼の所属する軍隊のあり様について、彼の所属部隊による『軍記』はこう伝えている。
「昭和20年(1945年)7月、赤松大隊長の指揮下で作戦に出て、来陽附近での先頭距離300米の銃撃戦を行う。背嚢を置いて立ち撃ちで抗戦したが、味方もかなりの損害を受けた。中隊長以下30名で斬込み隊を編成、中国服を夜陰に紛れて進み山を登りきった頃に夜明けとなり、周囲を見渡すと敵の真ん中であり無駄死にを避けて斬込み隊を中止した。集落に戻り歩哨に従事。終戦も知らずにいたが、中国兵が白旗を掲げて手紙を持参して来た。自分がその手紙を支団長に届け返事を携えて戻る時、敵の小銃弾が飛来した。まもなくこの銃撃は間違いとのことで敵から謝罪があった。やがて部隊は来陽附近の学校に集結。中国軍の指揮下で武装解除を受けた」(後年、日本に帰ってから編纂された、当時の父所属の隊の『軍記』による)といわれる。
 これによると、もしこの斬込み隊が断念されていなかったならば、父は死んでいたかもしれない。そうなると、当然のことながら私は生まれていなかった。その艱難辛苦を思うと、よくぞ中国の指導者たちが寛大な戦後の措置をしてくれたと、感謝せずにはおられない。父の部隊は、その後は中国の国民党軍、あるいは共産党軍(人民解放軍)による武装解除を受けて収容所生活に入ったが、そこで多くの兵士がコレラや栄養失調で死んだとのことである。その後、収容所から解放されて上海(シャンハイ)より出航、1946年(昭和21年)6月に鹿児島に母国の土を踏み、そこから列車で郷里に帰った。
 向こうでは中国共産党軍とも遭遇したらしい。
「共産党軍は毛沢東と朱徳が統制しとるけーなあ、ふん、・・・・、蒋介石の国民軍より統率がとれとって、立派じゃったなあ」
 私がまだ40歳代であった頃、実家に帰省して食事を共にしたときのことである。「立派じゃった」とは「でごわかった」という意味のことだと思われる。瓶入りのビールを注ぐと、ほろ酔い加減の父は質問に答えてくれた。
「あのときの戦闘で一緒におった友達がなあ、腹に玉を食ってしもうて、その場で死んだんじゃ」
「えらい苦しみんさったんかな」
「ああ....、それでもな。しばらくで死んでしもうたな。その場で事切れた。ええ人じゃったがな。お父ちゃんのなあ、軍隊生活で一番の友達じゃったなあ(だったね)」
「敵と遭遇するとなあ。はよう陣形を整えようとするからだく足になるんじゃ。初めはな。パーンパーンという音がしとる間は、鉄砲の弾は頭の上の方に来とる。だから滅多に命中するもんじゃない。それがシューッ、シューッと弾が頭の上をかすめるようになったら危のうなる。そうしたらな、立っとるともういけん。這行といってな、腹這いになって腕を動かして前に進むんじゃ」
 父は両腕を蟹の足のように曲げて、実演して見せた。
「止まって、陣地をつくって戦闘したんじゃないの?」
「いいや、そのときは行軍する途中で向こうと出会ったけんなあ」
「地雷を踏んでしまうこともあるがな」
「そんなときは助からんものかなあ」
「大体なあ、その時は助かっても、後で傷口が腐っていくけんなあ。結局は助からん」
「父さんは、よう死にんさらなんだなあ」
「ああ、運もよかったなあ」
「大けい川をなあ、向こうの川は、日本のような小さい川じゃあないんでえ。端から端まで何百メートルもあるんじゃ」
物思いにふけるような面持ちで父は続けた。
 「向こう岸に上陸する作戦があったんじゃ。おとうちゃんは中隊長付きでなあ。その馬を預かっとったんじゃ。それが川の中ほどで馬がおびえてうごけんようになってしもうた。おとうちゃんはなあ、この馬をむざむざ死なせたら 中隊長に顔向けができん。それでなあ・・・・。仕方がないから前足を背負ってやって川をわたったんじゃ」
 そう語る父の目には光るものが見えたような気がした。まさか、信じられないような剛力を要する話であるが・・・・、おそらく、のるかそるかの「修羅場の力」を発揮したのだろう。
「村を占領したときにはまず食い物を探したな。日本軍がくる前に家を焼いていたこともあったな。牛も鶏も何もかも連れてな。食い物がないときは、カエルやヘビまで食べていた。その後は女漁りだな。じゃが、おとうちゃんはかわいそうでな。言葉はわからんで
もなあ、向こうの人間が何を思うとったかはよくわかる」
 その時のことであったか、我が家の玄関から土間に入り、左手に上がった6畳の板間で父と話していたところへ、いつの間にか祖母がすべり込むようにして座っていた、祖母にはそんなところがある。その時の話の筋では、父は兵隊で行った中国で、何をしていたかは家族に語っていない。そのとき、私からか、父からか、おそらく私からであろうが、何かの言葉が発せられたさい、祖母が間髪を入れずに差し入れた言葉がある。それは「そんなことはありゃあせん。(兵隊なんじゃから)大勢の人を殺しとるに決まっとる」という意味の言葉であった。祖母の鋭い視線が私にも向けられて、大層驚いた。
 父が私に、自分の参加した戦争のことを語った2回目には「戦争はもうするもんじゃない」と話していた。父の口から日本の戦争犯罪に対する反省は聞いていない。私には、父が語ろうとしない話の中身を、「贔屓目(ひいきめ)」に見ているためなのかもしれない。
 いつも、こちらからは長らく語り難い、厳格な父であった。父としても自分の体験を息子に引き継ぎたい。しかし、厳しい労働の日々から来る疲れがそのことを許さなかったのかもしれない。ようやく少しうち解けた話ができる雰囲気になったのは、父が脳卒中で倒れた1988年(昭和63年)頃からである。
 それから8年後の1995年(平成7年)2月には、父は二度目の脳卒中に襲われる。たまたま帰省していた阪神大震災(1月5日)の朝、私たちは別れた。その日の父は、珍しく玄関の外まで出て、「元気でな」と私を見送ってくれた。その目、その顔、そして簡単な言葉のやりとりが、私の脳裏に残っている。
 自宅の庭に植えられた椿の芽が丸くなり始めた2月のある日、私が勝北町の日本原病院に駆けつけたときには、こん睡状態だった。翌日夜半の死去によって、もの心がつくまでの父のことを本人から聞き出すことは永久にできなくなってしまった。かえすがえすも残念でならないい。それが世の中の労働者が体験するであろう、ごくありふれた今生の別れというものなのだろう。

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