□64『岡山今昔』昭和(戦中までの)時代の岡山市街

2018-05-12 22:54:16 | Weblog

64『岡山の今昔』昭和(戦中までの)時代の岡山市街

 先の大戦中の岡山については、盛り沢山な写真なりが残っていることだろう。そんな在りし日の同市街だと思われるが、日本敗戦直後の内田百間は、「古里を思ふ」という随想を発表している。その中で、彼の生まれた界隈の先の戦中までの風景であろうか、独特の語り口で振り返っている。例えば、こうある。
 「私は川東の古京町の生まれなので賑やかな町の真中へ出て行くには先づつち橋を渡り、それから小橋中橋を通って京橋を渡る。京橋は蒲鉾(かまぼこ)の背中の様なそり橋であって、真中の一番高い所に起つと橋本町西大寺町か新西西大寺の通が一目に見渡せた。誓文拂(せいもんばらい)の売出しの提灯のともった晩などは、橋の上から眺めてこんな繁華な町が日本中にあるだろうかと思ったりした。
 京橋を渡って橋本町にかかると左側の川沿いの一段高くなったところに交番がある。その前の、船着場の方へ行く道を隔てた角に四階楼が聳えていた。料理やなのか饂飩屋(うどんや)なのか、上がった事がないからよく知らない。」(内田百間「古里を思う」(1946年2月以降より)。
 続いて、このあたりにあった気に入りの店が、余程脳裏に焼き付いていたらしく、こういう。
 「私は今でも大手饅頭の夢を見る。ついこないだの晩も夢を見たばかりである。東京で年を取った半生(はんせい)の内に何十遍大手饅頭の夢を見たか解らない。饅頭を食べるだけの夢でなく大手饅頭の店が気になるのである。
 店の土間の左側の奥に釜があって蒸籠(せいろう)からぷうぷう湯気を吹いている。右よりの畳の上でほかほかの饅頭をもろぶたに並べている。記憶の底の一番古い値段は普通のが一つ二文で新式にいうと二厘(にりん)であった。大きいのは五厘で、一銭のは飛んでもなく大きく皮が厚いから白い色をしている。それは多分葬式饅頭であったと思う。」(同)
 それからの道道は色々とあって、最後の締めくくりにおいて、「荒手」という小題にとりかかる。その冒頭に古京町から出て内山下の方へ出向く。そのあたりでの川のありようをこう伝える。
 「古京町から内山下の方へ行くには相生橋を渡るのであるが子ども時分に相生橋(あいおいばし)はまだ架かっていなかった。古京の町筋の西裏を包む様に土手があって、その下はから川である。
大水の時には後楽園の上手の石畳の所から水が上がって御後園裏一帯に流れ、大川の水勢をそぐ様にしてあったらしい。その水が古京裏のから川を通って中屋敷のせき(?)のある川幅の広い所でまた大川に合流する。水位が高くなれば町裏の土手もあぶなくなって、どこそこが切れそうだというと町内総出で土手の補強をした昔の騒ぎを覚えている。」(同)

(続く)

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□81『岡山の今昔』山陽道(閑谷学校)

2018-05-12 20:36:29 | Weblog

81『岡山(美作・備前・備中)の今昔』山陽道(閑谷学校)

 この沿線において、趣向のいささか変わったところでは、県南部の備前市の閑谷の地に閑谷学校が建っている。1670年(寛文10年)に時の岡山藩主池田光政が開校したものである。
 現在に伝わる建物群となったのは1701年(元禄14年)のことであった。敷地には、講堂を始め、五棟の建物が森を背景にして鎮座している。わけても講堂は、堂々たる体躯(たいく)であり、えもいわれぬ風情を感じさせてくれる。
 この学校の当初の目的としは、一般庶民に儒学や実学(生活に関する知識全般)を中心とするものであったらしい。江戸時代の比較的初期、武士のために設けられた学校は全国に数々あれども、庶民教育の殿堂をつくったのは、以後の岡山人にとって郷土の誇りで在り続けている、といえよう。
 そこで、少しばかり、この学校の系譜を辿ってみよう。そもそもは、岡山藩主の池田光政が津田重二郎(後の津田永忠(つだながただ))に命じ、和気郡木谷村の地に庶民のための学校を造るよう命じた。約2年後に飲質、学房などが成った。これが閑谷学校(しずたにがっこう、仮学舎)の最初となり、地名も和気郡木谷村から閑谷と改められた。静閑な山峡にちなんでの命名であったのだ。
 さて、この閑谷学校というのは、世界にも先駆けた試みであり、第二次大戦後、この地を訪れたロンドン大学のドーア教授は、ここに「世界最古の庶民学校が存在していた」と述べ、驚きを隠さなかった。「学校の経営は藩校の配下に置かれ根教育の内容と方法とも藩校に準ずるものであった」(同)とされる。
 とはいうものの、果たして、ここで当時正統とされていた朱子学(身分制度を肯定し、孝養を重んじる儒教の一派で徳川幕府の公認の学派となっていた)のほか、生活に役立つ実学のカリキュラムもあったのだろうか。当時の下層武士、また庶民に門戸が開かれていたのなら、学費についてはどうやって工面していたかを是非知りたいものである。
 1674年(延宝元年)になると、講堂が成る。全貌が完成したのは、1701年(元禄14年)のことであり、孔子廟を中心にその講堂(大成殿)、椿山(と谷)、学舎学寮跡をはじめ石門、黄葉亭、はん池を含んでおり、全体が重厚なる石塀に囲まれる構図であった。優に、今日の田舎の小学校校舎位の規模はありそうだ。ともあれ、往時のほとんどの建造物が残っているのは幸いである。中でも、講堂は堂々としており、国宝に指定されている。すべて屋根瓦に赤い備前焼を用いており、いかにも儒学の殿堂にふさわしい雰囲気をかもし出している。建築材料は、けやき、楠、ひのきであるが、よく吟味され、現在でも講堂の床板などは鏡のように光っている。
 この学校のユニークなところは、それまでの郡中手習所(五、六か村に一箇所の割合で設けられていた)が廃止になった後の、領内庶民の子供向けを主としたことである。家中武士の子供も混じっていた。他領からの入学も認めていて、志望者は、「閑谷新田村の村役人などを身元人にたのんで、一か年限り(ときに二、三カ年延期を許されたものもある)で入学を許される」(谷口澄夫「岡山藩」:児玉幸多・北島正元編「物語藩史6」人物往来社、1965)ことになっていた。
 それはそうと、校内では秋の景色が特段によいらしい。モミジ、銀杏(いちょう)などが鮮やかに色づくのは想像できるとして、「赤と黄色に色づく楷(かい)の木の紅葉がすばらしい」と地元の人がいうのは、果たしてどんな木なのであろうか。ものの本によると、この木は日本に10本まではない。

 閑谷の楷の木は、中国・曲阜(きょくふ、山東省済寧に位置する)の孔子林の実から育てられた「孔子木」であるらしい。史跡内に入っての正面及び講堂からは、2本の楷の大木は圧巻をなして観る者の目に入って来るという。筆者は、最近埼玉県の東秩父村の和紙の里で、この木が植えられていると教わった。地元の人の説明に耳を傾けながら、楠(くすのき)をより繊細にしたようなその姿を目にして、「なるほどこれが中国から渡ってきた木か」と感動した。
 2015年4月、旧閑谷学校は、旧弘道館(茨城県水戸市)、足利学校跡(栃木県足利市)、咸宜園跡(大分県日田市)とともに「近世日本の教育遺産群ー学ぶ心・礼節の本源ー」として日本遺産に認定された。あの封建時代に、岡山にこのような学校があったことには、何かしら救われた気がするのである。

(続く)

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♦️289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

2018-05-12 10:04:03 | Weblog
289『自然と人間の歴史・世界篇』クラシック音楽(ショパン)

 フレデリック・ショパン(1810~1849)は、孤独と情熱の人であったようだ。例えていうと、「幻想協奏曲」とか、「革命」を聴くと、彼の息づかいさえもが、感じられてくるようなのだが。

 ポーランドのワルシャワ近郊の村で生まれた。貴族の家に生まれたのであろうか。家族の献身もあって幼い頃から音楽に親しみ、少年時代を過ごしたのだという。やがて長じては、「ピアノの詩人」といわれるとともに、「繊細にして華やかな調べ」や「完全なる美意識」を称される曲を数多く作曲していった。
 そんなショパンはまた、マズルカやホロネーズなどで知られる「愛国者」なのであった。
そんな彼は、激しい調子の曲をも作っている。その名を「革命」という。それというのも、彼が生きた時代のヨーロッパにおいては、かなり範囲で民衆の力の台頭(たいとう)があった。1789年に始まったフランス革命からの民主の流れが、ヨーロッパに伝搬していったのだ。
 ポーランドでのそれは、1830年のことであった。この年、フランスの七月革命の影響を受けて、独立運動が一気に高揚した。そして迎えた同年11月25日、ワルシャワの士官学校でロシア人教官が二人の若い生徒をむちで打とうとした。これに憤慨した学生らが弾劾に立ち上がり、反乱が全国に始まった。民衆はロシアに対する反乱軍となり、コンスタンチン大公(ポーランド総督。ロシア皇帝ニコライの兄)の宮殿を襲う。反乱軍はワルシャワで秘密警察の隊長を縛り首にする。フランスからは義勇兵がかけつけ、武器が国境をこえて彼らに供給された。プロイセンとオーストリアは、革命の飛び火を恐れ、ロシアを助けようとする。
 ポーランドの革命勢力の中にも急進派と、多分に妥協的な保守派が対立していた。1831年1月、この力の関係に転機が訪れる。急進派のジャコバン人民派(フランス革命にちなんでの命名)が政権を握って国会を開き、ロシアからの独立を決める。これに対して2月にロシア軍が宣戦し、国境を越えて進撃を開始する。ポーランドは4月30日に独立を宣言し、立ち向かうのだが。しかし、9月8日になると、ロシア軍がワルシャワを制圧し、ポーランド独立運動は力を押さえ込まれてしまう。一説には、1万数千人もの亡命者がフランスに逃れた模様。ロシア帝国のニコライ1世はポーランドを事実上の属州にし、ロシア化政策をとる。
 そこでこのショバンの曲の成り立ちだが、この年の7月までには、パリに向かう演奏旅行の途中のシュツットガルトにおいて、ポーランドを独立させまいとするロシアとの間で戦争が行われている、とのニュースを聞いたのであろうか。
 なにしろ年来の宿敵ロシアからの独立戦争ということなので、革命の勃発を知った時はさぞかしおどろいたことであろう。1830年12月、ショバンはワルシャワにいる友人のヤン・マトゥシェフスキ宛の手紙において、こう記す。
 「ヤン(三世ソヴェスキ)の軍勢が歌っていた、散り散りになったその残響がいまでもまだドナウの両の岸辺のどこかしらに漂っているかもしれない歌の数々をーそのほんの一部でもいいから探りあててみたい。(中略)この僕はー父の重荷になるということさえなければ、今すぐにでも帰りたいが帰れない。(中略)サロンでは涼しい顔を装っているが、家に戻ればピアノに向かってあたりちらしているのだ。」(関口時正氏による訳を引用している渡辺克義著「物語ポーランドの歴史ー東欧の「大国」の苦悩と再生」中公新書、2017)
 この時、いても立ってもいられられなくなり、ホーーランドに帰国しようとしたのかどうかはよく分からないものの、父親が手紙で思い留まったとも伝わる。
 この衝撃がショバンの頭脳に閃きを与え、作曲された曲の名は、「作品10第12のハ短調練習曲」としてであり、後に付されることになる革命的なタイトルはフランツ・リストが命名したもの。その調べは、最近ではテレビ番組「ラララ・クラシック」や「題名のない音楽会」などでピアニストにより弾かれ、中盤からは情熱の渦となって人びとの胸に迫ってくる。
 その一つ、ショバンの曲を紹介しよう。例えば「キラキラと輝くワルツ」という3拍子の、優美かつ軽やかなリズムを刻むようなものに、「英雄ポロネーズ」がある。ポロネーズ(polonaise)とは、フランス語で「ポーランド風」の意味にして、マズルカと並ぶポーランド起源のダンス(舞曲)のことを指し、1842年に作曲された、正式にはピアノ独奏曲「ポロネーズ第6番変イ長調」作品53という。
 これはしかし、彼の滞在していたパリをはじめ上流階級の人びとに心地よく聴いてもらうばかりの曲とは決めつけられない、曲想の根底には、ポーランドの土着の精神が宿っていたのだともいわれる。パリ時代に記した告白に、次の下りがある。
 「僕はこうして何もせずにただときどきピアノに向かってうめき苦しむだけ、悲嘆にくれるだけだ。そして、それが何になる?」(関口時正ほか訳「ショパン全書簡、ポーランド時代」岩波書店)
 ポーランドでの革命が押さえ込まれた後も、パリにいて芸術活動に携わりながらも、故郷への想いを馳せていたのであろう。今ポーランドがロシアに蹂躙されているというのに、何も出来ない自分を見つめていたのであろうか。その心情を書くことを通じ、少しなりとも楽な気分に浸れたであろうか。それからの作曲家人生だが、ショパンが亡くなる1年前の1848年、フランスでは二月革命が勃発していた。
 この時も、真偽にについては不明ながら、かつてショパンと深い関係を持ったフランスの女流作家にして、当時小規模な新聞を発行していたジョルジュ・サンドは、ショパンのこのポルネーズ曲を聴いていた。味わいを深めながら、ショパンへの手紙の中で、「霊感!武力!活力!疑いなくこれらの精神はフランス革命に宿る!これより、このポロネーズは英雄たちの象徴となる!」と書き記したのだという、そんな当時のバリの空気を彷彿とさせる逸話が伝わる。
 参考までに、音楽史に占めるショパンの位置については、例えば、こう評されている。
 「 かれの音楽はポロネーズやマズルカが使われていることによって、ポーランドの民族主義を代表している。一般的にいえば、ショパンの様式はフランスとドイツのロマン主義のに混合体である。かれはポロネーズ、バラード、マズルカ、ワルツ、ノクターン、プレリュード、練習曲、即興曲、自由なロマン主義的ソナタを書いた。かれは本質的にピアノ作曲家で、他の表現形態における試み(たとえば2曲のピアノ協奏曲)はあまり成功していないし、独特の表現も少ない。」(ミルトン・ミラー著、村井則子ほか訳「音楽史」東海大学出版会、1976)

(続く)

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♦️307『自然と人間の歴史・世界篇』アイルランドのジャガイモ飢饉(1845~1847)

2018-05-12 08:59:03 | Weblog

307『自然と人間の歴史・世界篇』アイルランドのジャガイモ飢饉(1845~1847)

 1845年、ジャガイモに疫病が発生する。これを「ジャガイモ飢饉(Potato Famine)」という。西ヨーロッパ全体が被害を受けた。とくに、アイルランドの被害が大きかった。3~5年におよぶ飢饉となる。当時、農民や農業労働者たちの暮らしは、下層にいくほど相当に厳しかったろう。そもそも、イギリスの支配によって小麦の取れる肥沃な大地をすべて接収されていた訳であり、その人々の唯一とも言える主食はジャガイモであった。
波多野裕造氏による説明には、こうある。
 「1845年の夏、アイルランドは長雨と冷害に祟られ、それだけならまだしも、この年の8月、イングランド南部に奇妙な病害が発生した。それは三年前に北アメリカの東岸一帯を荒らしたウィルスによる立ち枯れ病の一種であった。しかもヨーロッパにはなかったこのジャガイモに取りつく菌は、9月に(中略)アイルランドに上陸するや、またたく間に全土に拡がり、その被害は三年間にも及んだのであった。」(波多野裕造「物語アイルランドの歴史」中公新書、1994)
 その被害は甚大であったらしい。一説には、「こうして、飢饉とこれに伴う各種の疫病により、1840年代末までに100万人以上が死亡した」(山本正「図説アイルランドの歴史」河出書房新社、2017)といわれる。つまるところ、この飢饉による人口減少数でいうと、1841年のアイルランド島の総人口は約800万人なのであったというから、如何に多くの人命が失われたのかがわかろう。
 被害がかくも大きくなったのには、行政の問題も介在していた。連合王国の首相のピール(保守党)は、アメリカからトウモロコシの緊急輸入を行ったり、公共事業の創出に努めたともいわれる。さらに、1815年のものを含め、穀物法の撤廃を実現させている。
それで瓦解したピール政権の後を襲った自由党ジョン・ラッセル政権が行う対策も、有効に機能したとは言えない。
 そればかりではない。かなりの数のアイルランド人が、新天地を求める移民となってアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに渡る。その数は、一説には150万~200万人もがやむにやまれずに祖国をみかぎって海外へ去った、とも言われるのだが。
 1870年、ウィリアム・グラッドストーン首相がアイルランド人の小作農の法的権利を強め、土地所有を認める新しい法を成立させる。

(続く)

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