新4『美作の野は晴れて』第一部、テレビがやって来た

2008-07-20 22:03:35 | Weblog

4『美作の野は晴れて』第一部、テレビがやって来た

私たちの部落、西下(にししも)部落に初めてテレビが入ったのは、いつのことだったか。良介ちゃんち(宅)がテレビを買ったというので、観せてもらいに行った。そのとき、広間に大勢の大人の人や私のような部落の子供が集まった。ひょっとしたら、久方ぶりの、その広い家に老いも若きも、老若男女が入り交じっての集いであったのかもしれない。当時のテレビは、人々の目に、何と写っていたのだろうか。程なく、あちこちの家の茶の間にテレビがお目見えしていったであろうことは、想像に難くない。部落の一番北端にある我が家にテレビが入ったのは、それから1年くらい経ってからのことだったのではないか。「今日は二本足の白黒テレビが入ってくる」ということで、うれしいというより、もの珍しい。昼過ぎ、電気屋さんが我が家に2人やってきて、我が家の「表の間」にテレビを設置して帰って行った。いかほどの費用であったかは、私には知らされなかった。それからしばらくの夕食後の時間は、家族みんなで入れ替わり立ち替わり、テレビ漬けになっていた感がある。
 私が12歳、少学校6年生の時は、1964年(昭和39年)で、東京オリンピックの年であった。あのときは、想い出しても「よくもあんなに画面にかじりつくようにして」という位、夕食後の一時をよくテレビ観賞で過ごした。それまでは大河ドラマか、父の好きなプロレス中継なんかを観るくらいが中心であった。それが、東京オリンピックのテレビ放送では色々なスポーツがあることを知った。バレーボールや体操、100メートル走や水泳。裸足で走るマラソンのアベベ選手には感動させられた。情けないのは、期間中は勉強があまり手に付かなかった。幸い、家の仕事の手伝いは懸命にやっていた。普段はテレビをあまり観ない祖父や祖母も、それなりに観戦して楽しんでいたのではないか。そんな家族揃っての団欒の有様が脳裏に彷彿と巡ってきて、今ではその時の自分の熱中の様とともに懐かしく想い出される。
 テレビで観る大都会では、ビルの谷間を縫うようにして高速道路が走っている。地震の多いこの国で、なぜそんなに高いビルを建てるのかと、耐用年数に近づいてくるに従い、どうするのかと問いたい気持ちにもなってくる。沢山の線路が敷かれ、色と形の違った電車が何本もそこかしこの方向に走っていて、その停車駅からは怒濤のような人の波が現れる。その人波は、至る所でひしめき合う人の別の波と重なり合い、さながら寄せては返す。そこかしこの波溜まりで、新たな波をつくっては、海のように果てしない町並みがとめどなく続いていく。いろいろな人が言っていた、「東京は乾いた海のよう」と比喩でいうのは、「本当のことなんだ」と実感した。
 大晦日、そして年が明けての元旦の神社や仏閣は、参拝とお札を求める人であふれている。元号が「明治」になった「文明開化」の頃から、日本の政治と経済、そして文化の中心地はなんといっても東京だとされる。「東京には全国のカネが集まる。だから東京に行けば華やかな世界がある。東京には全国の仕事が集まる。夢を実現させる手だてが揃っているんだよ。だから東京においでよ。東京にくればなんとかなるものだよ。」というのが、1959年(昭和34年)の高度成長期幕開けの頃からの社会風潮であった。
 テレビは、スイッチを入れただけで、私たち子どもを魅力的な世界へといざなってくれていた。1957年(昭和32年)12月、NHK岡山テレビ局が開局となり、この同じ年民間放送の山陽テレビが放送を開始した。それまでは大阪放送からの電波の受信であったのが、岡山の放送拠点ができたのだ。テレビに次から次へと写し出される東京の姿に、自分も一度はあの華やかな東京へ行きたいと思う心が芽生えても不思議ではない。しかし、その頃は、やがては都会に出て働くことの本当の意味をまるで知らなかったようである。 当時のあまたあるテレビ番組の中で、私の一番の気に入りは『ひょっこりひょうたん島』であった。うれしいのは、この人形劇の筋書きにせい惨な場面でないことである。そして、いつも締めくくりは、ほのぼのした人間愛、人生に対するする肯定的な見方が画面一杯に広がることであった。
 この世の中、うれしいから笑うこともあれば、笑うからうれしいというのもあって、とにかく楽しくやっていくのが最高だ。それにしても、島が海の上を「雲をスイスイかき分けて」、「波をチャプチャプかき分けて」動くのだから、奇妙な気がしないでもなかった。とりわけ愉快であったのは、余り働くということではなく、島でなんとか食べて、暮らしていけるという便利さであったろうか、実生活とはかけ離れた異次元の世界をみているような気がしていた。今ならさしずめ、太平洋プレートにのって日本の方へと移動しているハワイ諸島のようなものかも知れないな、ということになろうか。
 『鉄腕アトム』で、余りにも有名である。アトムは、「空をこえて」、「星のかなた」まで飛んでいくことができる。なにしろ、「10万馬力」なのだから、すごくてごついのかとおもいきや、それでいて、「心優しい科学の子」である。(谷川俊太郎作詞、髙井達雄作曲)。このアトムは、心を持っていて、その心が人類愛にみたされていて、感動ものであった。故障や燃料切れになると、目をとろんとさせる、よろよろした足取りで研究所にやって来る。そして、「博士」といって、鼻のとても大きくて長い博士の前で倒れる。そこには変圧器のような機械が据え付けられていて、それでしばし「充電」してもらうと元気になって、また戦いへと飛び立っていく。面白いのは、「刑事ロボット」とか、「子供と暮らすロボット」とかの、人間の相手となり、暮らしの中に入っているロボットが登場していたことだ。
 『エイトマン』は、とにかく速い。「光る海、光る大空、光る大地」と三連続でまぶしいかぎりだった。人生はどう転がるかわからない。彼は刑事でもあり、ロボットでもあり、自在に両者の間を行ったり来たりで変身する。はたまた、人間のロボットの「間の子」なのだろうか、なにしろ空想の世界だから、物理法則の埒外にあるところが奮っている。人間からロボットに変身しながら、画面の中で走っているエイトマンの足は、あまりに速い運びなので、まるで車のタイヤの回転が増している時のような案配であった。刑事の時もロボットになった時も、頭脳はコンピュータを駆使しつつ、その人となりはあくまでクールで、真っ直ぐに標的に向かっていく。歌の方は、最後は「ファイト ファイト エイトエイトエイト」(前田武彦作詞、荻原哲晶作曲)でしめくくる。ロボットになったエイトマンは、いまでも、「ほら、あなたの身近で」立派な刑事をしているのだといわれていた。
 『鉄人28号』とともに空を飛んだ気分が懐かしく思い出される。その歌は、「ビルのまちにガオー」に始まって、暴れまくる。ところが、二番の歌詞になると、「あるときは正義の味方、あるときは悪魔の手先、いいもわるいもリモコンしだい」(三木鶏郎作詞・作曲・編曲)となる。その内容は複雑にして怪奇、それでいて実社会の権謀術数を投影しているかのようでもあった。というのは、歌詞の一番と二番を比べるとわかる。つまり、鉄人は正太郎が中に乗って操縦しているときは「正義の味方」をして、悪と戦う。だが、操縦室を乗っ取られると、とたんに目の色が赤味がかった紫に代わって「悪魔の化身」になってしまう、どうにもやっかいな面を抱えていたのだ。このアニメの面白さは、ほかにも「バッカス」とか「オックス」とか、沢山のロボットが登場してきて、三つ巴のような戦いをくり広げるところだった。
 『怪傑ハリマオ』はとにかく歌が奮っている。打ちが。これは、歌が三橋光弥の抑制の効いた声にして、なかなかにして勇ましい。冒頭には「真っ赤な太陽」が出てきて、「正しい者に味方する」。戦いが繰り広げられる。二番目の歌詞は「空のはてに十字星」とあって、ここは北半球にある日本からの夜空なのに、なぜか南半球の夜空を見上げている。その「おたけび」は地球を東西南北にぐるりと回っていたのかもしれない(加藤省吾作詞・小川寛興作曲、1960年1月~1961年10月に放送)。それは、今や世界中で日本の「お家芸」とされる、あのアニメの出発点ではなかったか。このドラマが少年に教えることは、そうだ、「正しい者」には最後にはきっと味方が現れる、ということに違いない。悲しいことも、怪我がいつか傷口も癒えてくるように、乗り越えられる筈だ、それには英雄ハリマオの力が必要だ、とのことであったのだろうか。
 『月光仮面』は人気作品である。その主題歌は謎めいていた。出だしで、そのおじさんが「はやてのようにあらわれて」、悪人どもをやっつけて、また「はやてのようにさっていく」。最後に「月光仮面は誰でしょう」(川内康範作詞、三沢郷作曲・編曲)と結んでいる。これもアニメではなかった。その頭には丸ごとターバンのようなものを巻いて、白づくめの装束に身を包んだ月光仮面のおじさんが、私たち弱い者が危なくなっていると、スクーターのようなものに乗っかって、正義のためにやってきてくれる。そして悪は滅びると何処かに消えて行く。結局、月光仮面のおじさんの素性はわからない。それがまた興味をそそるのである。
 最後に登場するのは、『黄金バット』である。画面の中にすっくと立って、こちらをみつつ笑っているのは、勇姿そのものと言って良(い)い。私は、この主題歌が流れるときは、テレビの前で立ち上がって、勇ましく歌っていた。「どこ どこ どこからくるのか 黄金バット」に始まり、宇宙の怪物どもをやっつけた後、さっさとその場から立ち去っていく。まさか、宇宙の遠くから僕らのためにやってきていたのだろうか。歌はなおも勇ましく続いていく。最後の「こうもりだけが知っている」とは、なぜコウモリでないといけないのだうか(第一動画作詞、田中正史作曲)。主人公がコウモリというのは痛快であった。その頃、私も生きているコウモリを間近で見たことがある。あれは4、5年生の頃であったろうか。ある日のこと、山形部落の友達を、小学校の遊び仲間で自転車を連ね、訪ねた。その時の洞窟探検で、その洞窟の上部の壁にとりついていたコウモリ達が、私たち探検隊の進入に驚いてか、飛び立って奥の方に飛んでいった。それを間近に見たが、テレビで観る「黄金バット」の顔は目がぎょろりとしたりで生々しくて、大層違っていた。テーマは正義であって、その時代、その場所により変化していく。誰にとっての正義なのかも問われるもので、やっぱり地球を守るのが一番大事に違いない。
これらのテレビ番組の多くは、そもそもは「少年画王」とか「冒険王」とかの漫画本で発刊されていた。ところが、その値段は田舎の子供には少々高くついた。因みに、2014年(平成26年)9月現在の漫画『ジャンプ』は税込みで255円する。そんなところから、当時は、自分で買って読むというよりは、どこからか、いろいろ最新号ではない、読み古しのマンガ本を最初に部落の誰かが借りてきて、あるいは学校仲間の誰かから借りてきて、自分も回し読みの恩恵にあずかっていたようである。

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新2『美作の野は晴れて』第一部、早春1

2008-07-20 20:43:32 | Weblog
2『美作の野は晴れて』第一部、早春1

 3月に入ると、まわりの木々も、早いものでは少しずつ芽を吹ぶいて来る。やがて来る春の訪れを、段々に人々の全身に予感させていく。彼らには、人間のようではないものの意識というものがあって、それでずっと周りの環境が暖かくなるのを待ち望んでいたに違いない。けれども、晴れの日の日中を除くと、まだ寒さが身にしみる。いつの頃からか、我が家では3月3日、「桃の節句」には、「おひな様」を飾っていた。この風習の源をたどれば、古代中国の魏(ぎ、ウェイ、220~265年)、呉(ご、ウー、222~280年)、蜀(しょく、シュー、221~263年)のうちの三国時代の覇者、魏の治世に遡る。その頃の中国では、各々の縁の河で禊ぎを行い身を清めた後で宴会を行っていたらしく、「桃の節句」というには地味なものであったようだ。
 この風習が日本に伝わったのは、おそらくは平安時代であった。野や山に出掛けて薬草を摘み、その薬草で体の穢れをお祓いして健康と厄除を願っていた。この「上巳の節句」の習慣が、遣唐使などの国際交流を連ねるうち、日本の貴族社会にだんだんに取り入れられるうち、日本独特の「流し雛」が生まれる。流し雛とは、降りかかる災厄を身代りに引き受けさせ、川に流して不浄を祓うというものである。この国の古墳時代の埴輪が自身に災禍を引き受けて埋められていたのに、何かしら似ている気がする。今でもこの風習が受け継がれ、残っている地域があるのか、どうなのかを知らない。
 この「桃の節句」を祝う風習は、次の室町時代になって華開く。まずは朝廷や貴族などの上層階級に広がりを見せていく。1336年(南朝:延元元年/ 北朝:建武3年)には建武式目が制定され、1338年には足利尊氏が征夷大将軍に補任されて幕府を開いた。その時から、15代将軍義昭が1573年(元亀4年/天正元年)将軍職を織田信長に降ろされる時までの間に、雛祭りの風習は貴族ばかりでなく、武家や生活に余裕のある一般庶民の間にも広まっていく。その形式も紙の雛人形ばかりではなく、土でこしらえ、焼き物にした上に豪華な衣装を着せた雛も出てくる。これらを飾って宮中でお祝いを行うものに変化していった。時代がさらに下り江戸時代になると、女の子の人形遊びである「ひいな遊び」と節句の儀式が結びつき、庶民も楽しめる「雛祭り」として全国にいろいろな装いを凝らしながら広がったようだ。
 ところで、ここで興味深い話がある。というのはも本州辺りで桃の花が咲くのは3月の終わり頃である。先祖の墓と隣あわせの我が家の畑はだんだん坂となっている。その畑の中に、小さな桃の木が一本立っていた。4月の春うららかな日和を待ってその花が咲くと、一足先に散った梅の花とは違って、暖かな雰囲気を醸し出す。花は、「幸福さ」を暗示していて、「やあやあ、今日も明るく生きようね」と語りかけてくれるような気がしてくる。この時期、日本列島にやってくる偏西風などによる、少々の気候変動くらいでは、桃の花が咲く時期はさほどに変わるまい。これでは、「桃の節句」のひな祭りを祝う行事と、桃の花見物とは別々にするしかない。この不一致を避けるために、国内の「南国地域」から空輸したり、温室栽培を企画してみることによって、桃の開花の方を新暦3月3日の節句の日に合わせようとの試みもあるらしい。
 あの懐かしい「お雛まつり」の音色と歌に耳を傾けてみると、自分の目の前にぼんぼりに照らされた桜の花が咲いており、まるで桃色の世界がほのぼのと広がってくるようだ。
「灯りをつけましょぼんぼりに
お花をいけましょ 桃の花
五人囃子の笛太鼓
きょうはたのしい雛祭り」(作詞はサトウハチロー、作曲は河村光陽)
 それは岡山県の北部の中国山地の懐に抱かれた、とある緩やかな傾斜地にある。狐の尾っぽのような形をしている狐尾池のほとり、その西から北へと続く山懐にへたるように建っている森閑たる雰囲気の我が家、その大きい母屋の裏手には、2階建ての土蔵の蔵がある。その重い引戸を開いて急な梯子を登ると、大人の背丈ほどもある長さの大きな木製の「つづら」が一つ置いてあった。「桃の節句」の前日には、その中から1年間眠っていた沢山の箱を取り出しては、せっせと母屋の奥の間に運ぶのが、その日の私の役目だった。「おひな様」と道具の入った箱は、やっと一抱えできるような大きいものから、2、3御抱えられる小さなものまで、あわせると20箱くらいもあったろうか。それらを母屋の奥の間に運び込むと、さっそく組み立てに取りかかる。十字に閉じた紐をほどき、それからおもむろに紙の箱蓋を取って、何が入っているかを頭にいれておく。雛の組立て方はさほど難しくはない。まず、雛たちが鎮座する階段をつくる。記憶では、横幅が1メートルくらいの階段を四、五段くらいセットする。そこに大きな風呂敷をかぶせる。それから、雛たちを並べていく。なかでも屋敷式のものは土台を敷き、柱を立て、屋根をかぶせる。金屏風を奥に設え、和紙や布製の着物を羽織った「お内裏様やお雛様」を鎮座させる。それが済むと、桜の花をあしらった「ぼんぼり」に花を両側に立てると完成だ。飾り終えるまで、2時間くらいはかかっていただろうか。
 ひと揃いに整った形の、金色の屏風を背にした「お内裏様」や「五人囃子や笛太鼓」であったのではない。人形たちには色々ある。いずれも泥を固めた上に上塗りしたもので、一様に穏やかな表情をしている。人形たちは、時代とともに少しずつ揃えられていったのだろう。珍しいところでは、木製の虎があって、そいつは中をくりぬいた、うまい仕組みになっていた。というのは、その首から頭の部分が胴体からの穴の部分に、半ば宙ぶらりんになるようひっかけられる。そこで頭の部分を手の力で左右の方向に振ってやると、それにつられてどこか愛くるしい表情をした虎の顔も、振り子のようにして振られる。こうなると、怖い虎の目もなんだか笑ってくれているように見えるから、愉快だった。今から思えば、同じ美作の勝山あたりで造られた寅さんであったのかもしれない。それらの脇役のものを含めて、雛たちを一通り奥の間に並べてから、しばらく眺めて悦に入ったものである。
 3月初めの頃は、まだ昼間でも肌寒い日が続く。年によっては、雪がどかっと降ることもあった。最大で50センチ位もあったろうか。そんな時は意気揚々と歩く訳にはいかない。村の道も何もかも、雪の世界に囲まれてしまっていた。それでも、私たちの住んでいるの西下部落(にししもぶらく)の道の所々では、様々な種類の梅の花が咲いた。枝を切って紅い輪が見えるのが紅梅である。あの頃見たのは「月宮殿」という野梅性で八重の花弁のものだったのだろうか。「内裏」と呼ばれる野梅系、紅筆性の別は、こちら関東に来て、初めて「梅園」というものを見るようになってから知った。ちなみに、我が家の梅の木は一本だけで、墓から家に向かって降りていく、急な坂の途中に立っていた。
 梅の実は2年か3年ごとくらいにたわわに実をつけていたのではないか。まだ実が小さくて青いようだと放っておく。薄黄色が色に入ってきたら、天気のいい時を見計らって、実を採ってから小亀に入れて家に持ち帰る。塩をまぶして重石(おもし)を施して数日放っておく。梅の汁が染み出ているのを確かめてから、家で栽培している生姜と赤しそを入れて本漬けを行う。赤紫蘇は塩揉みにしてあく汁を搾り出してから使う。これで梅が赤く染まる。関東の方ではさらに酒をふりかけているらしいが、私の田舎ではそこまで手のこんだことはしなかった。
 やや暖かくなると、田圃のあぜ道などで、よもぎなどの若葉が芽吹いては、青さを帯びてくる。雑草が伸び始めているのだ。雑草たちは互いに競争しており、横に埋まったら、今度は高さを競い合うという具合だ。田圃の畦道や農道の端にはたんぽぽの花が沢山咲いていた。小さなすみれが草の中から蕾を見せてきた。
 山のあちらこちらには、紅色や薄いピンク色を基調としたつつじが咲いている。山に自生している大半のものは赤いが、ところどころ朱色のものが混じっている。白いのはめったにお目にかかれない。春になれば、日増しに暖かくなる。清々しい風も、みまさかの野を駆け回る子供たちの頬にも当たってくる。その中で植物たちが土の中から新しい緑の葉を伸ばし、花をつけるなりして、あちらでもそちらでも方々に姿を現す。彼らが息づいてくると、それを食べる生き物たちでみまさかの野に現れるものが出てくる。正に蠢動と言うことになってくる。野生のうさぎなんかの小動物から、たぬきやいたちなど中程度の大きさの動物も、みまさかの野に出て活動を始める。
「はるがきた はるがきた どこにきた
山にきた 里にきた 野にもきた」(文部省唱歌「はるがきた」)
 もう一つ紹介しておこう。
「どこかではるが うまれてる
どこかでみずが ながれだす
やまのさんがつ そよかぜふいて
どこかではるがうまれてる」(百田宗治作詞・草川信作曲「どこかではるが」)

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