♦️319『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(資本主義の次に来る社会)

2018-05-27 09:03:21 | Weblog

319『自然と人間の歴史・世界篇』マルクスの歴史認識(資本主義の次に来る社会)

 いまから百数十年、カール・マルクス(1818~1883)は未来社会について、こう書いた。
 「資本制的生産様式から生ずる資本制的取得様式は、したがって、資本制的私的所有は、自己の労働にもとづく個人的な私的所有者の第一の否定である。だが、資本制的生産は一の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生み出す。それは否定の否定である。この否定の否定は、私的所有を復活せしめはしないが、しかし、まさしく、資本主義時代に達成されたものーすなわち、協業と、土地・および労働そのものによって生産された生産手段の共有ーを基礎とするところの、個人的所有を生み出す。」(カール・マルクス「資本論」)
 これにあるのは、資本主義にとって代わってしばらく経ってからの社会主義社会のことであって、その高次の段階としての共産主義社会ではないというのが、さしあたりの受け取り方でよいのではなかろうか。
 それというのも、物ごとには順序というものがあって、生れてから数十年位での間に一足飛びで「各人がその能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」ことのできるような社会にはなれないのではないかと考えられるからだ。この点、ソ連の社会主義は、その発足以来60年やそこらで階級のない、しかもかなり高度な社会主義を意味する「全人民の国家」になったのだと言っていた。
 しかし、ソ連と東欧の体制崩壊の後から考えると、そう呼ぶにはかなり無理があったと言わざるを得ない。実際にあったのは、1970年代からの明らかな国民経済の停滞であったのだから。
 さりながら、これをもって、マルクスの仮説がまちがっていたことにはなるまい。一般に、社会科学者の予言というものは、現在における複雑な事情なりから延長して物事の将来を語るのだと思う。だとすると、ある程度の幅をもたせないと、後世のその段になってその枠(諸仮定を含む)をはみ出してしまう傾向をもっている。
 そのことを考えると、ここでのマルクスはあくまで慎重な言いまわしにとどめることで、彼の仮説の是非(整合性、合理性などからの現時点での評価)についての結論は、さらに未来へ持ち越されたとみてよいのではないか。
 もっとも、次のような議論はありうるし、1990年代はじめにソ連と東欧の社会主義が崩壊してからは、とみに盛んになり、現在に至る。そのためか、一説には、社会主義の実験は失敗したばかりでなく、もう終わった、もはやうまく運営されないことが明らかだとし、これが社会の「定説」ともなっているという。また、この見方からは、現在も社会主義を標榜している中国などは、独裁国家の烙印を押されることにもなっている。

(続く)

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