○27『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と国

2018-05-11 22:48:50 | Weblog

27『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と国

 それらの一つには、その中から徐々に瀬戸内海に面した海岸線に沿って東へ東へ北へと、新天地を求め進んだ一部がいたのであろう。二つ目には、山陰から、これまた東へ東へ北へと進んだ一団があったのではないか。こちらの代表格は「出雲王朝」を形づくっていく。だとすれば、出雲の小国家の成立は弥生時代の中期頃からに当たる。もちろんそれは、今日の国ではない。出雲に弥生期の遺跡が見つかるまでは、この地域は神話のベールに厚く閉ざされていた。さらに、3つ目、4つ目の東方への旅が敢行されていったのかもしれない。
 前述の通り、弥生時代(紀元前1000年頃~)の少なくとも後半くらいからは、日本列島では、「国(くに)」が存在していた。中国の歴史書では、紀元前のかなり前から「倭」にこれがあるというのが載っている。ここに国というのは、今日におけるような四角張ったイメージは必ずしも必要でなく、当時のヨーロッパで環濠集落(代表的なのは、古代イギリスのケルト集落)を用いていた「部族」というトータルとしての名称と、さほどに変わらないのではないか。
 そのことを物語る遺跡としては、前述の吉野ケ里遺跡が有名だ。それは、紀元前のこの列島に、小規模ながらも、既に統治の役割が確立されていたことを覗わせる。そして、これと同類の遺跡は、列島各地にかなりあるのではないか。田和山遺跡(島根県松江市乃白町・乃木福富町)も、その一つであろう。2001年に本格的な発掘が行われた。
 こちらは、紀元前400年頃の構築だと推測されている。一説には、弥生時代中期末の紀元前1世紀頃まで存続したとみられる。
 その特徴としては、三重にめぐらせた環濠があった。それぞれの環濠の規模は最大で幅7メートル、深さ1.8メートル位あるという。それは、幾多の偶然が重なって出来たというよりは、それなりに明確な設計があってのことだろう。
 こうして環濠に囲まれた中には、それなりの構築物が造られていたようだ。頂部では、多数の柱穴が発見されたという。ただし、住居跡は環濠の輪の外部にしつらえてあったらしい。
 こうした弥生時代中期からの遺構を考慮すると、弥生時代に入っては、はっきりした階級というものが社会に出現していった。発掘された弥生期の中で特徴的なのは、住居が階層化されていったことがわかる事例が多く出てきた。たとえば、先に紹介した佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような周りに濠(ほり)をめぐらせる環濠集落は2世紀末には姿を見せなくなる。
 そして3世紀になると、堅剛な平地住居や高床式の倉庫などを持つ豪族の居館が一方に現れ、竪穴式の住居に加わる。水稲耕作が発達してくるにつれ、大規模な開田や水路の維持補修といった治山治水・灌漑なども発達してくる。そのための共同労働は始めのうちは自然発生的なものであったのかもしれないが、規模が大きくなるにつれて共同労働が必要となる。
 さらに進むと、一定の規模以上の共同体同士の間で仕事を共同して行う必要が出て来たり、それらの共同体の間で限られた土地や水を巡って争いが起きるようになっていったのではないか。こうした争い、併呑そして調整などを繰り返しているうちに、その地域の共同体を束ね、あるいは統(す)べて、農耕に伴うさまざまな作業を指揮するとともに、いったん事ある時には、外敵から自分たちの共同体を守る首長が列島のそこかしこに誕生していった。
 1994年(平成4年)に荒神山遺跡(島根県出雲市)、1996年(平成6年)に加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)など、弥生時代の遺跡が相次いで発掘された。この考古学上の発見により、これらの遺跡では「扁平な礫石を斜面に葺いた四隅突出型墳丘墓」(広瀬和雄「知識ゼロからの古墳入門」:幻冬舎、2015)とともに、九州圏と同じの銅剣、銅矛、銅鐸が発見されたことになっている(常井宏平・秋月美和「古代史めぐりの旅がもっと楽しくなる!古墳の地図帳」辰巳出版、2015)。この地域に当時、ヤマトや九州、このあと述べる吉備の勢力にも匹敵する国があったことが明らかになったのである。
 その出雲の国が、あの『魏志倭人伝』でいわれるうち、どの国であるかは、わかっていない。この書物において「倭」がとり上げられているのは、『三国志』・「魏書」・巻三十鳥丸(うがん)・鮮卑東夷伝・倭人の条であり、そこに弥生時代の有様なり大陸との関係なりが二千字くらいの文章で書かれている。魏の国史の体裁であって、編者は、三国鼎立時代を生き抜いた、陳寿という人物である。話を出雲に戻すと、その由来を『魏志倭人伝』中にある「投馬国」に求める見解が出されている。
 なお、一説には、弥生時代の三大国の一つ、投馬(とま)国が出雲である可能性を指摘する向きもある(例えば、歴史学者の倉西裕子氏の論考「吉備大臣入唐絵巻、知られざる古代一千年史」勉誠実出版、2009)。

 同著によると、ここに「三大国」というのは、卑弥呼の「女王国(戸数七万、首都は畿内大和にあった邪馬台国)は、奴国(戸数二万)と投馬国(戸数五万)の二大国から構成される連邦国家であったと考えられる(倭三十ヶ国はそれぞれ奴国、投馬国に属す)。その奴国は、狗奴国と地理的にも歴史的にも近い国であり、あたかも姉国と弟国いったような関係にあった可能性がある。後漢時代に博多湾沿岸地域を中心に勢力を張っていた奴国と、九州中南部地域を勢力範囲としていた狗奴国は、ともに九州に本拠を置いていた国である」(同氏の同著)との推定に基づく説だといえよう。

 なお、これらの話とは別の流れにて、後漢の光武帝が与えたのではないかと考えられている、「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と通称される金印が、江戸時代の博多沖、志賀島(しかのしま)で発見され、現在、国宝に指定されている。これをもらったのは、当時の倭の国王の一人ではないかというのだが、諸説がある。一説には、「そのような三段読みはあり得ない」(宗主国+民族名+国名+官号)、したがって、そのような印章は存在しなかったとの話なのだが、その場合は、「「漢(宗主国)の委奴国(わなこく)の王(官号)」と読むのが正しいのだという。


(続く)

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○○35『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と住居

2018-05-11 22:44:23 | Weblog

35『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と住居

 それまでの弥生時代は、紀元前3世紀ごろから紀元3世紀ごろまでの600年間というのが、1960年代からの通説であった。ところが、21世紀に入ってからの研究で、弥生時代の開始は今から3000年前(紀元前10世紀)に変更すべきだという説(2002年の国立歴史民俗博物館)が有力となりつつあるとのこと。具体的には、2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループによる、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した研究成果の発表があった。その中において、同グループはそれまでの弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとした。
 それによると、1万年以上前から、日本列島には縄文人がほぼ全域にわたって広く薄く居住してきた。縄文時代は、長いこと続いた。ところが、縄文人と人種的にはかなり異なる人びとが、今から3000年ほど前に大陸から続々とやってくるようになる。大陸からの渡来人(Yayoi ancestors)こそが、その代名詞であった。
 この新しい区分によると、早期の始まりが約600年も遡ることになっている。それは細かく言うと、紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡った紀元前800年頃からに変更となる。それにつられて、中期の始まりが約200年戻して紀元前400年頃からとなり、さらに後期の始まりも紀元50年頃からとなるだろう。なお、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉ということになっている。
 それでは、弥生時代の集落というものは、具体的にどのようなものであったのだろうか。大がかりなもののを数例紹介すると、まず吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は、現在の佐賀県の東部、吉野ケ里陵を中心に広がる。この遺跡は、紀元前8世紀の弥生時代早期の環濠集落と目されるのであって、この年代は炭素14代法により推定されている。その在処(ありか)としては、脊振山地南麓から平野部へ伸びた帯状の段丘に位置している。弥生時代の環壕集落遺構にして、東京ドーム25個分にあたる約50万平方メートルの土地というから、かなりの広さがあった。
 集落の周りを柵や空堀で囲み、堅固な要塞としての大形建物や物見櫓を擁していた。言い換えると、環濠(濠)がめぐらされた、その内側に木柵や土塁、内濠、見張りのための物見櫓も造られ、防御の厳重さがうかがえる。また、大方の人びとは、環壕集落の中で竪穴住居をしつらえて暮らしていた。当時、日本の各地に形成された地域的な集合体「クニ」のひとつであったのではないか、と見られている。首長層が治める「クニ」同士の争いに備えていたのではなかろうか。これらの総体としての定住生活をしていたであろう。
 この遺跡の運営年代だが、一説には、紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代後半とされる。新説で言うと、弥生時代中期から後期というところか。この頃になると、弥生時代の稲作は、この集落を中心とする定住者たちが、一つの社会構成体となっていて営まれる段階に至っていたと見られる。吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は規模がかなり大きいことから、当時の倭の様子を系統立って記した最古の記録である『魏志倭人伝』に出てくる「邪馬台国」の時代を彷彿とさせる。
 また、文化一般については、これまで、どれくらいのことがわかっているのだろうか。出土品については、墓も併設されていることから、彼らにとって死とは共同体の中で迎えるものとしてあったのであろうとの推測もありうるのではないか。また、有柄銅剣やガラス製管玉等の類も出土している。これらの出土品は、全体として、高い学術的価値を有するものだと言われる。これらは、広い意味での精神生活をも形づくっていたのであろうし、当時すでにこれらを作る技術が集団内に存在していた、もしくは、他の地域との交易などによってこれらを手にしていたことを示唆しているのではないか。
 顧みると、この列島に渡来した弥生人の多くは、まず北九州の玄界灘沿岸などに住み着いた。紀元前約10世紀頃から、九州北部で暫く暮らしていたであろう彼らは、後続の人々が北方から南方からなど、次から次へと押しかけて来た。その中で、新勢力としての生活の範囲を広げていった。縄文人との混血も大いに進んでいったのだと考えられる。そこそこで定住した他の人々の集積からは、さらに新天地を求める人々とその集団が出て来るのは、必然だと言えよう。その動機は、少しでもいい生活をしたいという人間本能からのもの、何らかの政治的な思惑に駆られてのものなど、さまざまな思いが重なり全体の意思をつくっていたのではないか。

(続く)

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♦️371『自然と人間の歴史・世界篇』1929年世界大恐慌(貿易戦争)

2018-05-11 20:53:02 | Weblog

371『自然と人間の歴史・世界篇』1929年世界大恐慌(貿易戦争)

 為替比率というのは、自国の商品と外国との交換比率のことをいう。そこで、自国が不況の時には、これを切り下げることで輸出価格の低下、輸入価格の上昇を促すことで、国際収支の不均衡をある程度調整できる。
 とはいえ、自国の平価の切り下げによって商品の交換比率を自国に不利に調整しても、
労働生産性が変わらず、したがって商品価値が不変に止まるならば、商品の交換比率は価値水準されたままであることから、平たくいうと「裸の国際競争力」は変わらない。したがって、そこに変化が及ばないかぎり、平価切り下げの効果は一時的なものだともいえよう。
 そんな為替引き下げを単独で行う場合には、それだけ自国輸出を伸ばすことができる、少なくともその見通しが開けるのだが、そのことは外国が対抗手段をとらない前提でのことである。
 大恐慌が世界で広がったのは何故かを考える時、この道理を理解するのが重要に違いない。実際、1931年のイギリスにおける金本位制停止以降、各国は争って自国通貨の引き下げに突き進んでいく。
 ざっとみると、1931年には、イギリス、英連邦諸国(カナダ、南アフリカなどを除く)、フィンランド、ポルトガル。1932年には、日本、南アフリカ。それに加えて、ポンドの下落が進む。1933年には、アメリカ、アルゼンチン、ブラジル、カナダ。1934年には、チェコスロバキア。アメリカは、その旧平価41%カットで安定。1935年には、ベルギー。1936年には、フランス(以降1938ねんまで)。1939年には、イギリスといった具合であった(置塩信雄「近代経済学批判」有斐閣双書、1976)。

(続く)

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♦️268『自然人間の歴史・世界篇』スイスとルクセンブルクの独立

2018-05-11 09:19:26 | Weblog

268『自然人間の歴史・世界篇』スイスとルクセンブルクの独立

 スイスの源は、1291年の「原初同盟」に始まるとされるが、これは伝説でそういうことがあったということの意味らしい。ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つの州の代表者たちが集まり、彼らの生活の利益を全体で守るべく、パプスブルグ家の支配に対し結束して自治を守ろうとする。
 1386年、ゼンパハの戦いでスイスの民兵たちがハプスブルク騎士軍を破る。1389年には、ハプスブルクのこの地域への支配は名目的なものに後退し、実質的な自治が認められる。1499年、ジュヴァーベン戦争でハプスブルク帝国からの分離を勝ち取る。 とはいえ、当時のヨーロッパの中では、スイスの独立正式のものではなかった。スイスの独立が国際的に認められたのは、ようやく1648年ウエストファリア条約によってのことだ。ドイツを中心に三十年戦争の終結があり、ハプスブルクの勢力が後退した。それらのことにより、ようやく小国にも、まだ本当の独立という意味ではなかったものの、それなりの主権が認められた。
 16世紀の宗教改革の時のこの地域では、チューリヒやジュネーブで信教が興隆を迎えていた。1598年のフランスにおいての「ナント勅令」により、キリスト教の信教の信仰を認められる。1648年、フランスのルイ14世がこの勅令を廃止する。それの余波で、「ユグノー」と呼ばれるカルヴァン派の人々がスイスに移住してくる。
 ルクセンブルクについては、1713年、スペイン継承戦争(1701~13)の結果を受けてのユトレヒト条約によって、スペイン領ネーデルランドは終止符を打ち、オランダ領となる。ところが、これに不満なオーストリアは戦争を続行し、1714年あらためて結ばれたラスタット・バーデン条約によって、この地方ルクセンブルクはオーストリアの支配下に入る。
 さらにフランス革命が勃発すると、オーストリアはこれに干渉する戦争に巻き込まれ、1798年4月、フランスがこの地に侵入してきて、ヘルベティア共和国という政権を立てる。この傀儡(かいらい)国家だが、1801年4月まで続く。1804年10月、ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス軍がルクセンブルクに入城する。
 1806年のナポレオン1世は、弟ルイをネーデルランド王に任じる。このときルクセンブルクはネーデルランドから分離されて、フォレ(森林)県としてフランス直轄領に組み入れられる。さらに1815年、ナポレオンの没落を受けウィーン会議が開かれると、ルクセンブルクは独立の大公国だと認められる。
 その後の歩みだが、ルクセンブルク市を中心とする小さな国として、まるで息をひそめるかのように命をつないでいく。ところが、1830年10月にはベルギーに編入されてしまう。1839年4月には、領土を縮小され、まだ真の独立を与えられなかったけれども、オランダより独立を果たす。
 これにいたる事情としては、歴史家の古賀秀男氏により「(中略)列強はあたたびロンドン会議を開き、31年の分割案にもとづく調停を試みた結果、さすがのオランダ王も譲歩し、ルクセンブルク西半部のベルギー割譲を承認した。ここに現ルクセンブルク領が確定したのである」(今来陸郎j「中欧史・新版」山川出版社、1971)と説明される。
 それでも、「生々流転」はとどまってくれない。1867年5月のロンドン会議において、列強(オーストリア、ベルギー、イギリス、フランス、プロイセンそしてロシア)が集う。この会議で、プロイセン軍のルクセンブルク撤兵、同要塞の武装解除、ルクセンブルクの独立と永世中立化の3つが決まる。かくして、ルクセンブルクは独立した永世中立国となる。
 翌1868年の憲法によって、立憲君主制を選択する。オランダと同君連合になるのだが、1890年11月にはその同君連合の関係を解消する。
 このように、大国に挟まれながら困難を巧みに抜け、辛抱強く生き抜いてきた。その街並みは、その歴史性ならではの景観となっている。キルシュベルグというのが旧市街の高台にあり、そこからは、まるで城塞かのような建築が建ち並ぶ。このあたりが旧市街地であって、この小国の象徴とされる大公の宮殿もここにあるというのだが。

(続く)

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♦️120の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1935)

2018-05-11 08:29:40 | Weblog
120の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1935)

 1934年12月のイタリアでは、ムッソリーニ率いるファシスタ政権が成立していた。この年の12月にイタリア領ソマリアランドとの境界付近で紛争が起こる。ムッソリーニはこれを口実にアフリカ進出を企てる。
 1935年10月、エチオピア(アビシニア)王国に軍事侵攻する。イタリアのファシストの軍隊は高地を突き進み、翌年5月には同国の併合を宣言する。エチオピア王国は、これに先立つ1935年1月、自国が今にも侵略されようとしていることに対して、国際連盟になんとかしてほしいと提訴を行っていた。
 これに応えるべく、国際連盟は10月のイタリア軍侵攻後直ちにイタリアを侵略国として認定する。連盟規約第16条を初めて適用することで、経済制裁に踏み切る。
 とはいえ、この制裁対象には、石油などの重要物資は含まれなかった。フランスイギリスは、連盟非加盟国にはこの措置が適用されない、したがってアメリカなどからは輸入できることをいい、禁輸は無意味であると主張する。また、この二国は国際連盟の枠外で和平案を立案するという体たらくであった。

(続く)

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