27『自然と人間の歴史・日本篇』弥生人と国
それらの一つには、その中から徐々に瀬戸内海に面した海岸線に沿って東へ東へ北へと、新天地を求め進んだ一部がいたのであろう。二つ目には、山陰から、これまた東へ東へ北へと進んだ一団があったのではないか。こちらの代表格は「出雲王朝」を形づくっていく。だとすれば、出雲の小国家の成立は弥生時代の中期頃からに当たる。もちろんそれは、今日の国ではない。出雲に弥生期の遺跡が見つかるまでは、この地域は神話のベールに厚く閉ざされていた。さらに、3つ目、4つ目の東方への旅が敢行されていったのかもしれない。
前述の通り、弥生時代(紀元前1000年頃~)の少なくとも後半くらいからは、日本列島では、「国(くに)」が存在していた。中国の歴史書では、紀元前のかなり前から「倭」にこれがあるというのが載っている。ここに国というのは、今日におけるような四角張ったイメージは必ずしも必要でなく、当時のヨーロッパで環濠集落(代表的なのは、古代イギリスのケルト集落)を用いていた「部族」というトータルとしての名称と、さほどに変わらないのではないか。
そのことを物語る遺跡としては、前述の吉野ケ里遺跡が有名だ。それは、紀元前のこの列島に、小規模ながらも、既に統治の役割が確立されていたことを覗わせる。そして、これと同類の遺跡は、列島各地にかなりあるのではないか。田和山遺跡(島根県松江市乃白町・乃木福富町)も、その一つであろう。2001年に本格的な発掘が行われた。
こちらは、紀元前400年頃の構築だと推測されている。一説には、弥生時代中期末の紀元前1世紀頃まで存続したとみられる。
その特徴としては、三重にめぐらせた環濠があった。それぞれの環濠の規模は最大で幅7メートル、深さ1.8メートル位あるという。それは、幾多の偶然が重なって出来たというよりは、それなりに明確な設計があってのことだろう。
こうして環濠に囲まれた中には、それなりの構築物が造られていたようだ。頂部では、多数の柱穴が発見されたという。ただし、住居跡は環濠の輪の外部にしつらえてあったらしい。
こうした弥生時代中期からの遺構を考慮すると、弥生時代に入っては、はっきりした階級というものが社会に出現していった。発掘された弥生期の中で特徴的なのは、住居が階層化されていったことがわかる事例が多く出てきた。たとえば、先に紹介した佐賀県の吉野ヶ里遺跡のような周りに濠(ほり)をめぐらせる環濠集落は2世紀末には姿を見せなくなる。
そして3世紀になると、堅剛な平地住居や高床式の倉庫などを持つ豪族の居館が一方に現れ、竪穴式の住居に加わる。水稲耕作が発達してくるにつれ、大規模な開田や水路の維持補修といった治山治水・灌漑なども発達してくる。そのための共同労働は始めのうちは自然発生的なものであったのかもしれないが、規模が大きくなるにつれて共同労働が必要となる。
さらに進むと、一定の規模以上の共同体同士の間で仕事を共同して行う必要が出て来たり、それらの共同体の間で限られた土地や水を巡って争いが起きるようになっていったのではないか。こうした争い、併呑そして調整などを繰り返しているうちに、その地域の共同体を束ね、あるいは統(す)べて、農耕に伴うさまざまな作業を指揮するとともに、いったん事ある時には、外敵から自分たちの共同体を守る首長が列島のそこかしこに誕生していった。
1994年(平成4年)に荒神山遺跡(島根県出雲市)、1996年(平成6年)に加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)など、弥生時代の遺跡が相次いで発掘された。この考古学上の発見により、これらの遺跡では「扁平な礫石を斜面に葺いた四隅突出型墳丘墓」(広瀬和雄「知識ゼロからの古墳入門」:幻冬舎、2015)とともに、九州圏と同じの銅剣、銅矛、銅鐸が発見されたことになっている(常井宏平・秋月美和「古代史めぐりの旅がもっと楽しくなる!古墳の地図帳」辰巳出版、2015)。この地域に当時、ヤマトや九州、このあと述べる吉備の勢力にも匹敵する国があったことが明らかになったのである。
その出雲の国が、あの『魏志倭人伝』でいわれるうち、どの国であるかは、わかっていない。この書物において「倭」がとり上げられているのは、『三国志』・「魏書」・巻三十鳥丸(うがん)・鮮卑東夷伝・倭人の条であり、そこに弥生時代の有様なり大陸との関係なりが二千字くらいの文章で書かれている。魏の国史の体裁であって、編者は、三国鼎立時代を生き抜いた、陳寿という人物である。話を出雲に戻すと、その由来を『魏志倭人伝』中にある「投馬国」に求める見解が出されている。
なお、一説には、弥生時代の三大国の一つ、投馬(とま)国が出雲である可能性を指摘する向きもある(例えば、歴史学者の倉西裕子氏の論考「吉備大臣入唐絵巻、知られざる古代一千年史」勉誠実出版、2009)。
同著によると、ここに「三大国」というのは、卑弥呼の「女王国(戸数七万、首都は畿内大和にあった邪馬台国)は、奴国(戸数二万)と投馬国(戸数五万)の二大国から構成される連邦国家であったと考えられる(倭三十ヶ国はそれぞれ奴国、投馬国に属す)。その奴国は、狗奴国と地理的にも歴史的にも近い国であり、あたかも姉国と弟国いったような関係にあった可能性がある。後漢時代に博多湾沿岸地域を中心に勢力を張っていた奴国と、九州中南部地域を勢力範囲としていた狗奴国は、ともに九州に本拠を置いていた国である」(同氏の同著)との推定に基づく説だといえよう。
なお、これらの話とは別の流れにて、後漢の光武帝が与えたのではないかと考えられている、「漢の委(わ)の奴(な)の国王」と通称される金印が、江戸時代の博多沖、志賀島(しかのしま)で発見され、現在、国宝に指定されている。これをもらったのは、当時の倭の国王の一人ではないかというのだが、諸説がある。一説には、「そのような三段読みはあり得ない」(宗主国+民族名+国名+官号)、したがって、そのような印章は存在しなかったとの話なのだが、その場合は、「「漢(宗主国)の委奴国(わなこく)の王(官号)」と読むのが正しいのだという。
(続く)
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