♦️362『自然と人間の歴史・世界篇』数学(一般相対性理論への橋渡し、ガウスとリーマン)

2018-04-30 21:07:19 | Weblog

362『自然と人間の歴史・世界篇』数学(一般相対性理論への橋渡し、ガウスとリーマン)

 ところで、アインシュタインは、二人の数学者の業績のおかげで、偉大な仕事ができたといっている。
 「一般相対性理論の建設を可能にした数学的知識を、われわれはガウスとリーマンの幾何学的研究に負っている。ガウスは、その曲面論において、3次元ユークリッド空間中に
入れられた曲面の計量的性質を研究し、これらの性質は、曲面それ自身にのみ関係し、それを入れている空間との関係には依存しない概念を用いて記述できることを示した。
 一般に、曲面上には特別な座標系は存在しないから、この研究ははじめて、曲面に関する量を一般座標で表わすということを導いた。
 リーマンは、曲面のこの2次元の理論を、任意の次元の空間へ拡張した(2階の対称テンソル場で特徴づけられるリーマン計量空間)。このすばらしい研究で彼は、高次元計量空間における曲率に対する一般の式を見出した。
 一般相対性理論の建設にとって本質的な数学の理論の、上にのべた発展は、次の結果をもたらした。すなわち、最初リーマンの計量が基本的な概念と考えられ、その上に一般相対性理論、したがって慣性系の回避が築かれたのである。」(アインシュタイン「非対称場の相対論」:アインシュタイン著、矢野健太郎訳「相対論の意味」岩波文庫、2015)
 ここに讃えられる二人の数学者の人生と仕事につき、ごく簡単に紹介すると、およそ次のようである。
 カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)は、ドイツの数学者として知られる。その業績は解析学、幾何学、数論などに及んだ。一番に知られているのは確率論だろうか。試料の数が大きくなると、一定の法則が出て来て、未来の予言ができるようになるという、ガウス分布なるものを発見する。数学ばかりでなく、それと付かず離れず、ガウスの天才にとってちょうどいい案配の電磁気学、天文学の分野でも業績を上げる。
 その彼は、7歳になって聖カタリーナ国民学校に入学する。その2年後に算術のクラスに入る。11歳の時、独力で二項定理を完璧に証明する程であったという。19歳の時に「正17角形を定規とコンパスだけを使って作図する方法」とを発見した。
 そのガウスらの新しい幾何学への貢献について、数学者の矢野健太郎はこう解説している。
 「十九世紀に入って、ドイツの数学者ガウスは、この解析幾何学の方法と、微分学の方法とを巧みに使って、一般の曲線と、一般の曲面の研究をはじめました。これは、微分学を縦横に使って幾何学を研究しますので、現在微分幾何学と呼ばれています。
 ガウスは、一般の曲線と曲面の研究ばかりでなく、いわゆる曲面上の幾何学の研究の研究もはじめました。」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)
 ゲオルグ・リーマン(1826~1866)は、ドイツの数学者である。新教の牧師の息子であって、始は牧師になるべく神学を勉強する。そのうちにも、自分は牧師には向かないと考えたのだという。何とか父親を説得して、ゲッチンゲン大学へ入学し、数学を専攻する。当時の同大学で教鞭をとっていたガウスの教えを受ける。
 学位取得後、彼は同大学の私講師となり、1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」の講義を行う。1859年にはゲッチンゲン大学教授に就任する。この頃、結核に感染する。当時は、結核を根治できなかった。その後徐々に病状が悪化して、1866年、療養の為に休暇をとってイタリアへ出掛け、そこで亡くなる。
 そのリーマンは新しい数学の世界を開いた。ユークリッド幾何学の公理に挑戦し、例えば、平行線につき、「総ての平行線を交わる」、「与えられた点を通る与えられた直線に平行な直線は無限にある」という公理から出発する幾何学の構築していく。球面上の各々の点において平行な直線、すなわち、球の周円は必ず交わる。
 また、球の上の任意の一点を通って無限に周円、つまり球上に於ける平行線が無限に引ける。この様な公理から出発して、リーマンは新しい幾何学の体系(現在非ユークリッド幾何学と呼ばれるもののひとつ)を創造するのであった。数学者の遠山啓の表現でいうと、「その幾何学では直線が平面を二つの部分に分割しない」(遠山啓「数学の学び方・教え方」岩波新書、1972)ことになっている。
 リーマンはまた、曲率とか距離とか言う概念を定義できるかを考え、その定義如何によって、多様な幾何学が考えられ得る可能性を示す。彼の師ガウスが考えた「空間歪曲率」という概念に従えば、空間歪曲率ゼロのものが、ユークリッド幾何、プラスの値のとるものがリーマン幾何、マイナスの値をとるものがロバチェフスキー幾何と定義されるという。この事によって、それまで実在の空間と一致する唯一の幾何学と考えられていたユークリッド幾何も、一つの論理的体系にすぎない事が明らかになる。
 こうした彼の業績からおよそ半世紀の後、アインシュタインは、ミンコウスキーの4次元時空連続体の概念にこのリーマン幾何を適用することによって彼の相対性理論による宇宙モデルを確立するのであった。

(続く)

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○○242『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など、その概略)

2018-04-30 09:13:53 | Weblog

新285○○242『日本の歴史と日本人』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など、その概略)

 文化は、文明のような組織だった人間の営みではない。だから文化とは、古今東西を問わず、人間の精神と肉体による活動のうち、もっとも美しい部分、領域なのかもしれない。江戸期には、日本の歴史上初めて、幅広い形での大衆文化というものが形成された。奈良期までに、大陸からの多くの文化が伝わってきた。平安期には貴族文化が華開いて、男女の情愛や可憐さ、切なさを中心に競い合った。仏教文化が、古代からの土着文化と結合あるいは折衷し合い、鎮護国家としての綾取りを加えた。室町期からは、もはや借り物ではない、日本の文化が花開いていく。
 けれども、それまではの文化の大半は一握りの人たちによるもの、彼らのために行い、あった。文化は、人々が欲求するものだ。双方向の交流があって初めて、前へと進んでいく。文化に類した何かを創り出そうとする者は、いいものをつくって観賞してもらったり、購入してもらったり、後世へと伝わることを望む。創られた文化を享受する側はといえば、それに感動や喜びを見出すことのできる人々は、どのくらいであったのだろうか、過ぎし世の中への興味は尽きない。
 文化のもう一つの欲求は、他人へ、他地域へ、次代へ、伝搬していくことだ。もちろん、これだとて、たった一人で創り出せるものではあるまい。創る側の人が何かを自分の生きる中から取り出してくる。前の時代から受け継いできたものもあるだろうし、自らが創り出していくものもあるだろう。これには、「最も広い用法では、芋を洗って食べたり、温泉に入ることを覚えたサルの群れなど、高等動物の集団が後天的に特定の生活様式を身につけるに至った場合をも含める」(『新明解国語辞典』三省堂)とあるから、要するに芸術レベルでなくとも構わないようにも考えられるのだが。

(続く)

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○○243『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、久隅守景)

2018-04-30 09:12:32 | Weblog

243『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、久隅守景)


 これに紹介するのは、久隅守景(くすみもりかげ)の「夕顔相月納涼図」(ゆうがおだなのうりょうず)と「四季耕作図」である。久隅は生年没年とも不明ながら、狩野探幽(1600~1674)の弟子であった。活躍したのは、17世紀半ばから末に及ぶ。
守景には、息子と娘がいたとのこと。息子は放蕩息子で、悪事を働いて島流しとなり、娘は狩野派絵師となりながら、同年の絵師と駆け落ちしてしまったため、守景は面目を失い、狩野派を離れたとされる。
 彼の代表作の「夕顔相月納涼図」は国宝になっている。かなり大きな(約150センチメートル×約168センチメートル)あるらしい。図鑑で観ると、黒の濃淡の墨だけで描かれているようだ。夫婦らしき男女と男の子のあわせて3人が茅葺き家の縁だろうか。棚からは夕顔が幾つもぶら下がっている。そこに、いかにものんびりしている。空高くには丸い月があって、月明かりに照らされているようだ。静かである。いわゆる「おぼろ月夜」で季節は、夏の終わり頃といったところだろうか。
 父親は両の腕で支える形で頬杖をついて、くつろいで見える。何か考えているようでもあり、無心に自分という者の心を放り出しているようであり、とにかく脱力している感がある。母親は、そんな夫にあくまで静かに寄り添い座っている。この絵の由来となっている和歌に「夕顔の咲ける軒場の下涼み、男はててれ女はふたのもの」(江戸期の大名歌人であった木下長しょう子の作)というのがあり、この中の「ててれ」とは襦袢、「ふたのもの」とは腰巻のことをいう。
 この二人の傍らに座っている子供はまだ10歳になっていないのではなかろうか、茫洋とした表情をしており、観ているにほほえましくさえある。生業は農業(百姓)であろうか。今日一日の労働が無事に終わり、ご飯も食べて、つかの間の家族水入らずの時を過ごしているような案配に見える。歌の方には子供がいないのに、絵に描かれるのは、守景のどういう趣向によるものだろうか。
 守景の「四季耕作図屏風」は、百姓心を大いに啓発してくれる作品だ。というのは、この時代、すでに私の小さいときの農家の一年に行われていたことが、大方に描いてあるのではないだろうか。春の田越しから始まって、田植え、収穫、そして出荷など、村の地理的な広がりの中に農家の営みが連なっている。田や畑の間の道は、過去からやって来て、現在につながっているようにも窺える。通りの真ん中には、若い女性を中心とした道連れだろうか、何かの一行であろうか。ともかく陽気な顔、また顔をしている。田植えが進行中の田圃では、田楽ではやし立てているグループもある。村野人から景気付けに頼まれてやっているようでもあり、とにかく田圃の泥濘(ぬかるみ)の中、商売でやっているというよりは、好きで誠に楽しそうに踊っている。
 そんなこんなで、その外にも色々な場面が描かれるのだが、時間の流れが混合している様となっている。それでも、自分の追体験がある程度可能な場面が多くある。私たち後代の者は、過去に決して戻れない。だが、この絵に没入している間かぎりでは、自分もその場にも立ち会っていたかのように感じられる。それによって尚更、楽しく拝見できているように感じられる。事実、私たちの感覚は、今よりほんのちょっと過去の時間を観たり、感じたり、考えたりしているものだ。

(続く)

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○○244の1『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、伊東若冲、与謝蕪村、池大雅、鈴木其一)

2018-04-30 09:11:08 | Weblog

244の1『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など1、伊東若冲、与謝蕪村、池大雅、鈴木其一)

 画家の伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)と与謝蕪村(よさぶそん)は、共に1716年(正徳6年)に生まれた。若冲は、超精密画で知られる。若冲はその天才を自覚していたのか、自分の絵の四つを選んで、神業を暗示させる印を押した。自分の絵が千年も生きられるようにと、壮年期からは自分の作品を寺に寄進したのだという。彼の絶筆として伝わるのは、何とも愛らしい犬たちであった。彼は京都を襲った大地震に直面して、命というもののはかなさ、尊さを実感し、その心の延長でこの絵を描いたのではないかと言われる。
 蕪村の描いた絵には、飾りというものが感じられない。人家はまばらであって、どことなく冷たく、寂しげでさえある。2009年に国宝に指定された『夜色楼台図』は、縦28センチメートル、横130センチメートルの画面に京都の冬を描いて見せた。これを観ると、しんしんと雪が降り積もっている。家々の障子からは明かりが漏れている。どこかで観たような構図でもあり、自分はこのような寂しげな光景を持たなくても何かしら心惹かれる。彼は、俳人でもあった。万を超すあまたの句のの中から一つ諳んじれば、「一面に月は東に日は西に」とあって、あのかぐわしい、何とも心地のよい、甘い匂いのする華の絨毯が広がる。その中に、東の空に月が上がり始め、西の地平には今にも太陽が沈みかけている。
 池大雅(いけのたいが、1723~1776)は京都(現在の上京区)の村の生まれ、江戸中期の文人画家にして書家でもある。7歳の幼い頃から、画才を発揮して「神童」と讃えられる。15歳で父の跡を継ぎ、菱屋嘉左衛門と名乗る。20歳で、雅号を「大雅」と決める。それからは、諸国を渡り歩いて自然を愛し、その先々で多様な人々と交わる。妻の玉らんと、「琴瑟相和す」仲むつまじさであったことでも知られる。行住坐臥、ごく自然に振る舞うことで知られ、いわゆる風流の道を色々とたしなんでもいたらしい。変わったところでは、1751年(宝暦元年)の、岡山少林寺からの帰途入京の際、用事でやった来ていた白隠慧鶴禅師(1685~1768)と会っていたり、与謝蕪村とは相作もしたか間柄であったらしい。
 その画業は風景を主にし、「岳陽楼・酔翁亭図屏風」や「山水人物図襖」などが代表作。同じく傑作の「楼閣山水図屏風」(6曲1双にして紙本金地墨画着色)を拝見すると、一見中国風の家や幾山が押し寄せてきているようで、自由奔放というか、、つらつら眺めているうちに、もこもこ力が湧いてくる気がしてくるから、不思議さはこの上ない。
 豪快な絵ばかりでなく、四季の移り変われを描いた「四季山水図」や、農民や釣人などが登場する「十便画帖」(1771作、国宝)には、自分もそこにいる錯覚すら覚える。多くの絵の余白に添えられている書は、陶淵明(中国唐代の仙人のような生活を送ったとされる詩人)などの詩に取材しているのであろうか、自由気儘に心情を吐露したものだろうか。
 鈴木其一(すずききいつ、1796~1858)は、尾形光琳の流れを汲む日本絵画の伝統を江戸で復興した酒井抱一(さかいほういつ)の弟子である。その其一が書いた「朝顔図屏風」(あさがおずびょうぶ)は一風変わっている。おりしも、江戸では朝顔を珍重する園芸熱がひろまりつつあった。
 それらを交配させて、珍しい色あいのものを作り出すのだ。其一はこれに触発されたのだろうか、根元もなければ、蔓が巻き付くための支柱も描かれていない、花があるばかりでなく、蕾や種らしきものまで描いてある。試みに画集の中央に居ると、金屏風の下地に冴え冴えと、両隻の右からと左からと葉っぱの緑(緑青)と花や蕾の青(群青)の組み合わせで、まるで「やあやあ」と近づいてくる。
 不思議だ、なんだか花に囲まれているみたいなのだ。全体として尾形光琳の「燕子花図」(かきつばたず)のような只住まいなのだが、それよりかは少し空想じみているのが、なんだか爽やかに感じられる。緻密であるし、考え抜かれた構図なのだといわれるものの、緊張感の中にも爽やかな動きが感じられるのが何より心地が良い。この絵を描いた其一もまた、黒船来航に驚き、慌てた一人であったろうに、そんなことには露ほども感じさせないだけの、事絵に関しては集中心であったのだろうか。

(続く)

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○○245『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2、円空、浦上玉堂)

2018-04-30 09:09:10 | Weblog

245『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など2、円空、浦上玉堂)

 円空(えんくう)は、1632年(寛永9年)の生まれ、岐阜の長良川付近に生まれたが、詳細はわかっていない。彼が造った「円空仏」は、東日本を中心に五千近くも発見されているようだ。総数は、優に1万を超すとみられている。僧となってからの彼が辿った路は、主に東日本の広い範囲にわたるばかりでなく、北海道にも及んだらしい。ただの仏像創作旅行ではなく、「錫杖(しゃくじょう)」とともにある旅路でもあったという。僧であるからして、布教しながら、頼まれれば仏教の経を人々に向かって諳んじながらの旅であり、修行を兼ねる行脚(あんぎゃ)でもあったのだろうか。それぞれの場所で民衆に頼まれては仏像を造っていたのか、それとも自分の内なる心だけを頼りにして渾身の鑿(のみ)をふるっていたのであろうか。
 その円空仏の表情が柔和になったのにはねそれなりの理由があるようだ。1674年(延宝2年)、円空は和歌山の地から舟で伊勢の志摩に渡る。片田三蔵寺と立神薬師堂に立ち寄って、そこにある600巻にも及ぶ『大般若経』の修復作業に加勢していたのだと伝わる。円空が寺と土地の人たちから依頼されたのは、教典に添える挿絵であったとのこと。当時の彼は、母の供養ができていないという自責の念に悩んでいたらしい。円空は、その依頼を喜んで受け入れ、来る日もくる日も墨画を描いていたところ、だんだんに仏の顔が柔らかになっていったという。それにつれて、母の供養が進み、成仏できたという確信が得られた。その時から、円空の彫る仏の顔に、ほほえみが宿るようになっていったのだと語り継がれている。
 そのあまたある中から一つ、紹介したい。弘福寺(現在の群馬県高崎市在)の円空仏は、彼が1681年(延宝9年)春に武蔵国(現在の富岡市一ノ宮~に滞在しているおり、50歳の油ののりきった時期に造られたらしい。大きさは、高さ28.6センチメートル、像の幅14.9センチメートルと小ぶりだ。檜材に刻まれ、背面は五面に型割りしてある。顔の彫りは、凹凸がほとんどなく、西洋などの人の彫刻と根本的に違う。いの一番の特徴は、人なつっこい表情をしており、口元からは笑みがあふれていることだ。受ける印象は、言葉では表現できそうにない程の無限の慈悲というか、愛というか、それらが混じり合ったものが伝わってくる。
 朝鮮にも、「寂しいおりに、一杯のクッパでが人の心を温かにできる」という話があるやに聴いた。確かに食べ物ではないが、仏像を一度見終わってから、わざわざまた元の行列に戻ってもう一回拝顔する人があるのは、これを観る人の全員が幸せになってほしいとの彼の願いが通じるのだと理解したい。64歳(1695年(寛永8年))のとき、この漂泊の人は、郷里の長良川河畔の穴の中に入定した、つまり「即身仏」となって衆生の人々を助けようとしつつ、自然に帰ったのであった。
 浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820)は、 江戸後期の岡山藩の支藩、鴨方藩士の家(現在の岡山市街)に生まれ、後に諸国を放浪した異色の画家として知られる。彼は早くの武家の家督を継いでから精勤し、37歳で同藩の大目付の出世する。しかし、43歳の時、その任を解かれ、左遷される。48歳の時には、妻が亡くなる。50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことが幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。
 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。代表作の「凍雲○雪図」(とううんしせつず)を画集で拝見すると、定かにはみえないが、痩せた岩盤に樹が立っているのだが、寒さのためと言おうか、孤独さのためと形容しようか、凍えているかのように眼に写る。作者は、この絵で何を表現したかったのであろうか。しかし、もう少し辛抱づよく観ているうち、冷たさの中から何か、もこもこした息吹のようなものが昇り、上がってくるように感じてくるから、不思議だ。つまり、死んではいない、たくましいのだ。その後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、えもいわれぬかたちであって、ありきたりの形に囚われない面白さも感じさせてくれている。

(続く)

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○○239『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3、喜多川歌麿など)

2018-04-30 08:55:37 | Weblog

239『自然と人間の歴史・日本篇』江戸期の大衆文化(絵画、彫刻など3、喜多川歌麿など)

 こうして浮世絵は、日本の代表的な文化となっていった。それでは、今度はその元となる絵の作り手は、どのような人々であったのだろうか。
 これをざっとみると、菱川師宣から始まり、鈴木春信や勝川春章などの巧者を経て、民衆の中に根を下ろし、延ばしていった。そして彼らは、江戸期の民衆の歩みと共にひたひたと歩んできたこの芸術を、表舞台へと導くのであった。
 最初の大輪の花を咲かせるのは、喜多川歌麿(1753年頃~1806)が活躍した江戸中期であった。その歌麿の出身地などは不明な点も多い。幼い頃に狩野派の絵師、鳥山石燕に学んだ。1780年代には黄表紙や挿絵の錦絵などを手掛けた。晩年に成っては、浮世絵美人画の第一人者に上り詰めた。
 歌麿の作品は、多数ある。好んで描いた対象は、特権階級ではない、多くは遊郭の女性や花魁もあるが、主に市井の町娘も描いた。どちらかというと、つましく暮らしている人々だ。例えば、「寛政三美人」(当時三美人)は、1793年頃の作で、大判錦絵となっており、ボストン美術館(アメリカ)で所蔵されている。後に「婦人相学十躰・ビードロ(ぽっぴん)を吹く娘」と名付けられた絵は、成熟した女性の人格まで描き分けようとしたかのような、歌麿のシリーズもの中での代表作ともいわれる。江戸以外の地に生きる人々の姿も手掛けており、「鮑とり」(6枚続き)は沖合に漕ぎ出しての、海女たちの労働をあらわし、寛政初期にかけて手掛けた「画本虫撰(えほんむしえらみ)」や「百千鳥」「潮干のつと」などの狂歌絵本においては、植物、虫類、鳥類、魚貝類などが生き生きと息づいている。ほかにも、春画、肉筆画も手掛けていて、多彩な筆遣いで縦横無尽な才能といったところか。 クス
 描き方は、一言でいうなら、そんじょそこらには観られない、繊細かつ優麗な描線を特徴としている。それでいて、さまざまな姿態、表情の女性の中からい出てくる美を追求した。大胆なポーズをとってる作品もあり、自由自在にかき分けている、というほかはない。顔は大きく、実物を観察するうち、クローズアップしてくるものを自分の頭の中で再構成して描いているのではないか。彼の特徴は、細い線だとうかがった。そこに注意して観ていると、おっとりした表情の中に描かれている人物の息遣いまでが伝わってくるかのような心地になるから、不思議だ。

(続く)

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♦️113『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの遠征(帝国の分裂)

2018-04-28 21:02:16 | Weblog

113『自然と人間の歴史・世界篇』アレクサンドロスの遠征(帝国の分裂)

 ところが、アレクサンドロスは、紀元前323年、アラビア遠征の途中のバビロンで、熱病に罹って急死した。残されたのは、なにしろ大帝国である。大王につき従っていた武将たちの跡目相続の争いがあった。
 果たして、アレクサンドロスが後継者を決めずに急死した後には、各将軍たちとこれに従う兵隊たち、そして東方の「太守領」などが残された。
 最初には、将軍のペルディッカスがマケドニア王の摂政権と軍隊の指揮権を掌握し、大王が遺したオリエントの領土の継承、支配に務める。これに対抗するアンティパトロスとクラテロスは財政を握りに行く、そして彼らはヨーロッパ領を支配の拠点におく。また、プトレマイオスはエジプトに、アンティゴノスは小アジアに、リュシマコスはトラキアを我がものとしていこうというのであった。
 ところが、その最有力のペルディッカスが他の将軍たちの標的にマークされる中、新興のセレウコスにより殺される。そこで、その後のことを「ディアドコイ」と呼ばれる後継の各将軍の間で話合うことになる。紀元前321年には、遺領分割のための会合をもつ。
 そこで結ばれた協定においては、アンティパトロスが大王の故国のマケドニアとギリシアを獲得し、名目と化しつつあるとはいえ帝国の摂政役を担う。あとは、プトレマイオスはエジプトを、アンティゴノスを小アジアに、リュシマコスはトラキアを手中に収め、さらにセレウコスはバビロニアを獲得する。
 そして迎えた紀元前306年と次の年に、先に結ばれた分割の協定の同盟は決定的な破綻に向かう。大王の後継者たちのそれぞれが王を称したのである。それからの王たちの治世には、もはや大王の帝国であったその一翼を受け継いでいこうという統治理念は失われていた。
 その後しばらくの紀元前301年にはフリュギアのイプソスの戦いが起こり、勢力拡張に動いてきたアンティゴノスは戦いに敗れて自殺する。息子のデメトリウスがその後を継ぎ、アテネ、ギリシア本土そしてエーゲ海を征服するのだが、紀元前289年の戦いで敗れる。ここに帝国の本格的な分裂が始まった。最後に残っていたセレウコスは、小アジアやトラキアをも手中に収めるのであったが、紀元前280年に暗殺される。
 これらのうちに、かのディアドコイ(後継者)と呼ばれたアレクサンドロス大王の部将のすべてが世を去った。まずは、二代目のプトレマイオス2世フィラデルフォスは、エジプトに根をおろしていた。アンティゴノスの息子デメトリウスは紀元前281年のマグネシアの近くの黒部ディオンの戦いで敗死していたが、その息子のアンティゴノス・ゴナタスがギリシアとマケドニアを支配する。そして迎えた紀元前279年、アンティゴノス・ゴナタスの軍はケルト人を破り、紀元前276年には王朝を確立する。さらに、セレウコスの息子のアンティオコス1世は、地中海東部からイランまでの地域を支配下に置く。
 およそこのようにして、アレクサンドロス大王の築いた帝国は、3つのマケドニア系王朝の下に分裂を遂げていくのである。
 なお、東方の太守領をめぐっては、大王の死後早くから独立を果たす。それらは、ギリシア系バクトリア人の王たちの手中に握られていた。一方、その西のインドでは、チャンドラグプタが台頭する。さらに、西方のイランから黒海にかけての北方周辺地域については、中ば独立した土着の系譜をもつ太守たちの支配に組み入れられた。

(続く)

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♦️240『自然と人間の歴史・世界篇』革命歌「ラ・マルセイエーズ」

2018-04-28 10:03:38 | Weblog

240『自然と人間の歴史・世界篇』革命歌「ラ・マルセイエーズ」

 20世紀の自由フランスの歴史家ジョルジュ・ルフェーブル(1874~1959)は、「革命的群集」という言葉を持ち出し、こんな批評をしている。
 「それゆえわれわれは次のように結論できる。すなわち、それに相応しい集合心性があらかじめ醸成されていないならば、「革命的結集体」ーー常識的であいまいな意味合いになるが、「群集」という言葉を使いたければ「革命的群集」と言ってもよいーーはありえないのだと。」(ジョルジュ・ルフェーブル著(1932)、二宮宏之訳「革命的群集」岩波文庫、2007))
これにある「それに相応しい集合心性があらかじめ醸成されていないならば」、それは「革命的群集」とはなりえないという下りは、その「集合心性」なるものが在ったればこそ、フランスの人民は人類初の民衆の意思による革命まで進み得たことになろうか。
 そのことを体感とともに考える素材として、ある歌がある。その発端としては、大いなるエピソードが伝わる。1792年4月、フランス政府はオーストリアに対して宣戦布告する。フランス革命にプロイセンとオーストラリアの連合が反対したのだ。戦争が勃発すると、始めはプロイセン軍が優勢であった。彼らがフランス国境内に侵入すると、革命政府は祖国の危機を全土に訴える。
 その頃のフランス北東部のストラスブールでのことである。工兵大尉のルージェ・ド・リール(17601836)らが部隊を統率しているところへ、へストラスブール市長が表敬訪問してくる。ライン方面軍の士気向上のために、音楽的素養のあったリールに行進歌を作るよう依頼する。
 リールはこれを引き受け、その興奮の醒めやらぬ中であったのだろうか、一夜にして勇壮な行進曲を作詞・作曲する。そのタイトルを『ライン軍のための軍歌』 (Chant de guerre pour l'armee du Rhin)といい、当時のライン方面軍司令官ニコラ・リュクネール元帥に献呈されたという。
 おりしも、フランス各地で組織された義勇兵達が続々と集結してくる。そんな中、マルセイユからの連盟兵が、この歌を歌いながらパリに入城してくる。それから、人々の間に広まっていく。
 この歌の歌詞は全部で7つあるというから、驚きだ。そんな中で、どのあたりが通常歌われているのであろうか、ここではさしあたり1番と2番の訳(中央合唱団によるもの)だけを紹介しよう。
 「1.起て祖国の子等よ栄えある日は来ぬ
  ぼうぎゃくのとりでに
  見よ旗は血にそみぬ
  見よ旗は血にそみぬ
  聞け我等が野山を
  ふみにじるとどろきを
  わがはらからは
  けがれし手にくびられる
  とれ武器を組め隊伍を
  進め進め我が祖国の自由を守れ
2.彼等何するものぞおごれる地獄の犬
  裏切りとさく取の手もて
  わが敵はせまりきぬ
  わが敵はせまりきぬ
  フランス人よ何たる恥ぞ
  憎しみを火ともやし
  圧制をくだきて
  きたえよ我がかちどき
  とれ武器を組め隊伍を
  進め進め我が祖国の自由を守れ」
 この歌のその後だが、1795年7月14日には、今日のタイトル「ラ・マルセイエーズ」( La Marseillaise)の名で正式にフランス国歌として採用されるにいたる。そして今日へと受け継がれる中で、有名なアレンジとしては、『幻想交響曲』で知られるフランスの作曲家ベルリオーズによる独唱者と二重合唱、オーケストラのための編曲版(1830)もある。
 以来、二百数十年の時を経て、今に生きる私たちがいう「人の時を知る」とは、歴史の不可逆性の側にある後代の人間がその時代、その時、その現場に肉薄したいとの思いを込め、言われるものとあろう。だからこそ、その作業は簡単なものではない。元々、革命時のような高揚した精神は、一朝一夕で出来上がるものではなく、そこまでして現れるものは、人が時代が抑えようとしても抑えきれない、少なくとも過去幾百年もの間、その社会に醸成されてきた大いなる精神が下地なり背景にあってのことなのではないだろうか。

(続く)

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♦️281『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(二月革命など)

2018-04-28 07:41:30 | Weblog

281『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(二月革命など)

 そして迎えた1848年2月22~24日、「二月革命」が起こる。これの鎮圧のために政府より仕向けられた軍隊は、革命に同情的で政府の命令に従わなかった。そのため、この革命は成功し、ギゾー内閣は倒れ、共和制臨時政府が成立する。そして、ルイ・フィリップは国外に亡命する。
 かかる市民革命の革命成功後に政府が設けられ、共和政が宣言される。これ以後、1852年のルイ・ナポレオンがナポレオン3世を名乗っての帝政樹立までを、「第二共和政」と呼ぶ。
 臨時政府は、労働者よりの政策を立案する。その一つの「国立工場」を巡っては、ブルジョア共和派が冷淡であった。そのこともあって、創設された国立工場は、労働者に供給できたのは非定期的な、しかも少数の土木工事位に留まる。大部分の労働者は日給1.5フランを支給されたものの、満足な仕事にありつけない。このような国立工場の失敗は、社会主義に対する国民の期待を裏切るものであった(米田治、東畑隆介、宮崎洋「西洋史概説Ⅱ」慶應義塾大学通信教育教材、1988など)。
 4月23日には、総選挙が実施される。その結果は、ブルジョア共和派の圧勝であり、社会主義者は惨敗であった。後者は政府を締め出される。ブラン機らの急進派の社会主義者は、5月15日に放棄するが、失敗する。この5月の暴動の後は、それまでの空気が一変する。社会主義者は例外なく弾圧され、国立工場は減す差されてしまう。
 これに対して、6月22~26日、パリで民衆暴動が起こる、これを「六月事件」という。しかし、これも6月23日から3日間続いた市街戦で、民衆の蜂起は鎮圧される。

(続く)

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♦️280『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(七月革命)

2018-04-28 07:38:34 | Weblog

280『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(七月革命など)

 1830年7月25日には、「七月勅令」が発布される。これには、7月の総選挙で自由主義派(反政府派)がさらに増加した未召集の議会を解散すること、次回の選挙を9月に行うこと、地主以外の有権者の選挙権を奪うこと、言論・出版の統制を強化することが盛り込まれる。
 これに対して、1830年7月27日から29日にかけて、パリで民衆が蜂起、これを「七月革命」と呼ぶ。具体的には、まずは7月27日、パリの民衆、これには学生・小市民・労働者らが合わさっていた、その彼らが市内のあちこちにバリケードを作り始める。翌28日には市街戦が激しくなる。さらに29日には、民衆がルーヴル宮・テュイルリー宮殿やノートルダム寺院などを占領するのであった。
 この「栄光の三日間」の市街戦の一端は、後にドラクロワ(1798~1863)により「民衆を導く自由の女神」(1831年出品)として描かれる。この作品では、三色旗を掲げる自由の女神が革命軍の志士を率いているのが象徴的だ。
 この下からの運動に対し、万策尽きたシャルル10世は、8月2日に退位宣言を行う。そしてイギリスへの亡命に追い込まれる。続いての8月9日には、オルレアン家のルイ・フィリップが即位するにいたる。彼は、事態の沈静化をねらって自由主義者を装い、「フランス人民の王」を装う。そして15日には新憲法が制定される。これが「七月王政」と呼ばれるもので、1848年まで続く。
 この時、政府を支配したのは、金融ブルジョアジーの面々であり、彼らの念頭には人民の暮らしを良くしようとの思いはない。ルイ・フィリップの下で政権の中心には歴史家でるあるギゾーが座る。そのギゾーは、選挙権拡大の要求に反対したりで、産業ブルジョアジーの離反を招く。彼はまた、対外的にイギリスとの融和政策をとるが、かなりの国民はナポレオン時代の栄光の夢醒めやらぬかなり多くのフランスの国民は、これを屈辱外交と感じていたらしい。
 フランスにおいては、1845~1846年の凶作に、1847年に起こった経済恐慌が重なる。これらは、国民の暮らしを直撃する。フランス全土で、内閣の退陣を求める学生や労働者を中心とする大衆運動が頻発する。

(続く)

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♦️279『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」など)

2018-04-28 07:36:42 | Weblog

279『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(「ブリュメール18日」など)

 1799年11月9日(フランス革命暦における月日であることから、「ブリュメール18日」と言い習わす)の軍事クーデターで統領(執政)政府が成立する。その後、ナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒し、彼は執政政府の第一執政となって権力を奮う。
 1804年、ナポレオン法典がつくられる。同年5月、ナポレオンが皇帝となり、ナポレオン1世と名乗る。1806年11月、その彼が大陸封鎖令で周辺国に圧力をかける。その余勢をかって1812年にはロシアの遠征を敢行するも、モスクワ占領中の「冬将軍」に苦しみ、やがて敗退する。
 1813年の3月20日から6月29日にかけて、そのナポレオンの「百日天下」がある。しかし、1814年になってからナポレオン1世は退位し、エルバ島に流される。1814年5月には、ルイ・ナポレオンがルイ18世として即位し王制を復活させる。彼は、ルイ16世の弟で、ヴァレンヌ逃亡事件(1791年6月)と同時に国外へ逃亡していた。それが、ナポレオン1世の没落を幸いに帰国して王位についたという意味で、「第二帝政」とか「ブルボン復古王朝」(1830年の七月革命の民衆蜂起まで続く)と呼ぶ。
 それでも、ナポレオン1世はエルバ島を脱出し、勢力を盛り返す。そして迎えた1815年6月、彼の率いるフランス軍はワーテルロー(当時はオランダ、現在はベルギーにある)の戦いで敗北を喫す。ここに、当時のヨーロッパ列強の第六次対仏大同盟がナポレオン1世を破って第一帝政が名実ともに終わる。
 これに至る一連のフランスの「ドタバタ」な動きにつき、マルクスはこう述べる。
 「ヘーゲルがどこかで述べている、すべての世界史的な事件や人物は二度あらわれるものだということを。一度目は悲劇として、二度目は茶番(ファルス)として、かれはそう付け加えるのを忘れている。
 ダントンに代ってコーシディエールが、ロベスピエールに代ってルイ・ブランが、1793年から1795年の山岳党に代って1848年から1851年の山岳党が、伯父のナポレオンに代って甥のナポレオンが現われた。そして二度目の「ブリュメール18日」が行なわれた時、まさにこの茶番劇が演じられた。
 人間は自分の歴史を作るが、自由に作るのではなく、目の前にある与えられた条件、過去とつながりのある条件のもとで作る。その条件は自分では選べない。いま生きている人間の頭には、過去の死せる世代の伝統が悪夢のように重くのしかかっている。
 だから、自己と社会を変革しようとする時や、これまで存在しなかったものを作り出そうとする時など、まさに革命の危機の只中においてさえ、人は過去の亡霊を呼び寄せ、彼らの名前とスローガンと衣装を借用し、歴史の権威ある服装に着替え、借り物のせりふを使い、新しい世界史の場面を演じようとする。」(カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)
 ナポレオン1世の退場によって息を吹き返した形のルイ18世の治世であったが、人民には冷たかった。厳しい制限による差別選挙に基づく立憲君主制を敷くのであった。1824年のルイ18世の死後、過激王党派の中心人物であったアルトワ伯がシャルル10世して即位し、尚更強権政治に動いていく。
 そのシャルル10世だが、亡命貴族を優遇し、反動政治を推し進め、1825年には「10億フラン年金法」を制定し、革命中に土地・財産を没収された亡命貴族に多額の補償金を支出する。1827年11月には議会を解散して総選挙を行う。その結果、自由主義派(反政府派)が勝利をおさめる。これに不満なシャルル10世が、過激王党派の指導者ポリニャックを首相に任命したことから、国王と議会の対立が深まっていく。
 1830年5月には、シャルル10世は再び議会を解散したが、7月の選挙では自由主義派(反政府派)がさらに増加するのであった。

(続く)

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♦️282『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(第二帝政期)

2018-04-27 22:53:13 | Weblog

282『自然と人間の歴史・世界篇』フランスの内乱(第二帝政期)

 1848年12月、ルイ・ナポレオンが大統領選挙で圧勝する。権力を獲得した彼の次の手は、1848年憲法で大統領の任期を4年とし、また再戦を禁じているのを改めることであった。1850年になると、議会が普通選挙制を廃止する法案を可決するにいたる。パリその他の都市の民衆がそれに抗議すると、かれは今度は民衆に好意をもっているかのように振る舞い、時を稼ぐのであった。
 そして迎えた1851年12月12日、「機は熟した」と見たルイ・ナポレオンは、クーデターを起こし、成功させる。一部の議員はこれに対抗し、パリの労働者に蜂起を呼びかけるのだが。その後、彼は憲法改正を人民投票に問い、圧倒的多数の賛成を勝ち取り、憲法改正の権限を獲得する。これを基に、1852年1月には新憲法が布告される。1852年12月2日、人民投票で「第二帝政」が成立し、彼は皇帝に即位してナポレオン3世と称する。1870年までは、このままの体制が続く。
 さらに、歴史はめくられていく。1854年3月には、クリミア戦争が起こる。フランスは、フランスなどとともに、南方政策によりバルカン半島や地中海沿岸で影響力を増しつつあったロシアと対戦する。この戦争は1856年まで続いた。1859~1860年、イタリア統一戦争がった。1860年1月、英仏自由通商条約が締結される。1860年にニース、サボアを併合、翌1861年12月~1867年にかけてはメキシコ遠征を行った。1870年5月の人民投票で議会主義帝制が成立する。
 1870年7月、プロイセンとの間で戦争を開始する。これより前、プロシア(ドイツ)が北ドイツを統一し、1866年その一帯の覇権を持っていたオーストリアとの争いに勝利した普墺戦争に勝利していた。ナポレオン三世のフランスは、これに反発する。
 プロシャの宰相ビスマルクはフランスも引かず、空位となったスペイン国王の跡継ぎ問題にドイツとフランスがかかわるうちに戦争へと突入したのであった。この年の9月2日、ルイ・ボナパルト率いるフランス軍は、フランス北東部の国境沿いの町スダンでドイツ軍に包囲され、自身が捕虜となってしまった。
 その二日後の9月4日、パリの民衆は立法議会になだれ込み、ナポレオン3世の廃位および共和制の宣言を要求する。この共和制革命でナポレオン3世の帝政は倒れ、共和国臨時政府(国防政府)が樹立される。しかし権力を握ったのは民衆の政府ではなく、パリの軍事総督トロシェ将軍を首班とするブルジョア政治家たちであった。
 1871年1月28日、国防政府は極秘にすすめていたプロイセンとの三週間の休戦協定(別名「降伏協定」)に調印し、プロシアと休戦する。2月12日に新たに選出された国民議会では、保守派のティエールを首班に指名し、臨時政府が発足する。この政府は、国民衛兵の俸給を打ち切ったり、家賃・負債の支払い猶予も撤廃する。
 さらに2月26日、政府はアルザスとロレーヌの多くの地域をプロイセンに割譲するとともに、50億フランの賠償金をプロイセンに支払う仮講和条約を同国と結ぶ。フランスの民衆が、これに憤慨したのはいうまでもない。

(続く)

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♦️114『自然と人間の歴史・世界篇』マケドニア系諸国のその後

2018-04-26 23:22:18 | Weblog

114『自然と人間の歴史・世界篇』マケドニア系諸国のその後

 やがて紀元前3世紀前半にもなると、プトレマイオス朝エジプト(紀元前304~同30。首都はアレクサンドリア)、セレウコス朝シリア(紀元前312~同63。首都は前半セレウキア、後半はアンティオキアに移転)、アンティゴノス朝マケドニア(紀元前306~同168。首都はペラ)の3国が並び立っているのであった。
 しかし、それでもこれら地域での勢力地図は落ち着いていかない。セレウコス朝からは、小アジアにギリシア系のアッタロス朝ペルガモン王国(紀元前241~同133)がのし上がてくる。中央アジアについては、同じくギリシア系のバクトリア王国(紀元前255頃~同130頃)が、さらにイラン東北部にはイラン系のアルサケス朝パルティア王国(紀元前248頃~紀元後226)らが次々と独立していった。
 これらの諸国家のうちバクトリア地方は、大王の残したギリシャ人に依って暫くの間バクトリア王国となって統治される。モンゴルを追われた月氏(げっし)は天山山脈の裏手に逃げ、大月氏として勢力を蓄えていた。紀元前2世紀、その大月氏(だいげっし)が南に下りて来た。
 紀元前139年頃には、そのバクトリア王国も、中央アジアから南下してきたスキタイ系民族サカ族に滅ぼされた。後者は、トハラ王国(中国の文献では「大夏」という)を建設する。一方、プトレマイオス朝エジプト(~紀元前30)、セレウコス朝シリア(紀元前312~同63)、アンティゴノス朝マケドニア、アッタロス朝ペルガモン王国も、その後ローマに占領・併合されていった。さらに時代は下る。
 トハラ王国に代わって、バクトリア地方(中央アジア)を支配するようになったのが、大月氏である。紀元前1世紀にもなる頃、大月氏の有力豪族の一つが台頭し、大月氏を引き継いでクシャーナ(クシャン)王朝となって、支配地域を拡大していく。この王朝は、カニシカ王が即位した2世紀の中頃から最盛期を迎える。首都であるプルシャプラを中心に、ガンジス河中流域やバルティアの東部も領有するに至る。しかし、3世紀に入る頃からの同王国は、しだいに国力を減じていく。その間も、ギリシア人はその地に留まり、引き続いてギリシア文化の継承に努めた。

(続く)

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♦️55『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミアとエジプトの測量技術)

2018-04-26 12:42:07 | Weblog

55『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(メソポタミアとエジプトの測量技術)

 人間そして人間集団のだんだんと発展すると、その生活や社会の仕組みもまた複雑化していった。わけても、メソポタミアとエジプトの測量技術については、それまでの「分散量」に対して「連続量」を取り扱う数学が出てくる。そのレベルであったことが見てとれる。例えば、こういわれている。 
 「こうして連続量の計算には、はんぱを表す数が必要になります。そのようにして出て来たのが分数、小数です。
 古代の文明国ではどちらが先に出てきたかというと、エジプトなどではン数が先に出てきています。エジプトではきわめて複雑な分数計算の方法が工夫されていました。しかしバビロニアでは小数が先に出てきます。ただしバヒロニアの小数は60進法の小数ですが、これはいまの時間や角度の単位として残っています。
 1時間を60分に分け、1分を60秒に分けています。角度のはかり方にもバビロニア方式が残っています。」(遠山啓(とおやまひらく)「数学の学び方・教え方」岩波新書、1972)
 このうちエジプトについては、数学者の矢野健太郎氏による解説に、こうある。
 「ナイル河の定期的はんらんの時期を、なるべく正確に知る必要にせまられます。これから、エジプトでは、天文学もさかんに研究されました。
 一七九八年に、英雄ナポレオンが大軍をひきいてエジプト遠征を試みたときのことでした。ナイル河の入口にあるロセッタという小さな町の付近で、廃墟の跡を掘っていた一人のフランス工兵が、一つのふしぎな石を拾いました。(中略)
 そののちフランス軍はまたイギリス軍に打ち破られ(中略)現在ではロンドンの大英博物館の奥深くたいせつに保存されています。(中略)現在ではロセッタの石とよばれています。(略)そのなかには、数字もありました。(中略)エジプトの人たちは、数の数え方としては十進法を使っています。
 エジプトの人たちは、このロセッタの石のほかに、パピルスというものをわれわれに残してくれました。(略)パピルスというのは、昔エジプトの沼などにはえていた水草のことです。エジプト人たちは、この水草から白い紙のようなものを作って、これに文字を書いておりました。この白い紙のようなものをやはりパピルス(papyrus)とよんでいますが、英語で紙を意味するパーパー(paper)ということばは、これから出ているといわれています。
 十九世紀のなかごろに、イギリスのヘンリー・リンドという人が、エジプトで手に入れたパピルスのなかに、世界で一ばん古い数字の書物がありました。これもいまは大英博物館に大切の保存されています。そしてリンド・パピルスとよばれています。(中略)
 ドイツの考古学者アイゼンロールが(中略)紀元前千数百年に、アーメスという坊さんが、それよりももっと古い記録をもとにして書いた数字の書物であることがわかりました。(中略)
 分数の計算(略)そのほか、加え算、引き算、掛け算、割り算などについてのいろいろの算数の問題、または代数の問題などがたくさん書いてあります。(略)等差数列と等比数列の話もパピルスに出てきます。(中略)パピルスには、正方形、長方形、二等辺三角形、台形等の図形の面積の求め方が書いてあります。
 その次にパピルスには、円の面積の求め方が書いてあります。(中略)半径が1の円の面積を求めるには、その直径2から、直径2の1/9、つまり2/9を引いた16/9を一辺の長さとする正方形の面積を求めればよい、と書いてあります。つまり、16/9×16/9=256/81=3.16049・・・が答えであると書いてあります。この答えと、みなさんが知っておられる円周率の値、3.141592・・・と比べてみてください。古代エジプトの人たちは、かなりくわしく円周率の値を知っていたということができるでしょう。
 ピラミッドの底面は、その辺が正確に東西南北を向いている正方形であるといわれております。(略)円の中心に一つの適当な長さの棒を立てておきます。(略)影の長さが一番短くなったときの影の向きを引き延ばせば、これが南北の線となります。次に、午前中に一度、午後に一度、その影の長さが等しくなるときがありますから、そのときの影の先を結ぶ直線を考えますと、これは東西をさす線となります。
 一本のなわをとって、これを一二の等しい長さに区分して、その境め境めに結びめを作り、さらにその両端を結びますと、ここに等しい間隔に一二の結びめをもった輪ができます。次にその一つの結びめと、それから三つ目、および四つ目の結びめをもって、この輪をピンとはりますと、ここに、その三つの辺の長さがそれぞれ三、四、五である一つの三角形ができます。このとき、長さ五をもった辺と向かい合っている角がちょうど直角になります。これを利用してエジプト人たちは、直角を作ったといわれているのです。
 エジプトの建築家や技師たちは、このようになわをじょうずに使って設計や測量をしましたので、この人たちはなわばり師とよばれることがあります。」(矢野健太郎氏「数学物語」角川文庫」、なお、これらの論点につき、同氏によるより詳しいに説明としては、さしあたり「数学への招待」新潮1977文庫がある。)

(続く)

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♦️42の2『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学

2018-04-26 12:03:03 | Weblog
42の2『自然と人間の歴史・世界篇』アラビア数学

 アラビア数学と名づけられる数学の大系がつくられたのは、8世紀から15世紀にかけてのイスラム世界でのことであったといわれる。担い手としては、アラブ人だけではなく、インドその他の地域で得られた数学的知識を源流としていた。
 その中でも、インドからの影響は大きかった。ゼロ(零)の概念や「位取り記数法」などは、彼の地の人々によって発見され、西隣の中東に伝わってきていた。これらのうちゼロの発見は、インド数学の偉大な発見であって、これなくしては今日の数学への大方の発展は不可能であったのではないか。
 また、後者は数の数え方によるものであって、これまたインドが発祥なのであった。これを10進法でいうと、現代の私たちは桁(けた、figure)取りの考えを使って、0~9の10個の数字を組み合わせて数を表現する。例えば、271という数を考えよう。現代流の式で表すと、271 = 2×10^2+7×10^1+ 1×10^0、というものであって、1の位が1、十の位が7、そして百の位が2である(ここでのカッパ「^」は累乗を意味する)。
 この前後の関係を理解させるには、「0の意味」とは「あるはずのものがない」ということと、「0を教えるのは、どうしても10を数えるまえでなければなりません。なぜなら、0と位取りを教えないで、そのまえに10と書くことを教えてしまうと、子どもは10を一つの文字として覚えます」(遠山啓(とおやまひらく)「数学の学び方・教え方」岩波新書、1972)という理屈に思い至る。
 これほどに便利なアラビア数字なのだが、数学者の矢野健太郎氏が由来を説明しておられる。
 「アラビア数字1、2、3、(略)いつ、どこで、だれが考えだしたものでしょうか。それは、ずっと大昔に、インドで考えだされたものです。(略)インドのお隣にアラビアという国があります。この国の人々が、インドの国の人々と品物を交換するために、インドとアラビアとの間をなんども行ったり来たり、(略)じぶんの国へ帰ってこれを広めました(略)イタリアやフランスの人たちもまたアラビアへよく商売をしに行った(略)ほんとうはインド数字ですのに、いまではアラビア数字とよばれております。
 エジプトの数字(略)バビロニアの数字(略)ギリシア数字(略)ローマ数字では(略)ひとまとめにするたびに新しい記号を作っては進んでいきます。ところがアラビア数字では、(略)一0個の数字だけでまにあうのでして、これ以上の新しい記号を作る必要はおこってまいりません。これがアラビア数字で数を書くときのうまい点です。(略)0は何を表しているのでしょう。何もないこと、そうです、何もないということを表しています。(略)アラビア数字の0は、ただ何もない、ということではなくて、もっと深い意味をもっているのです。(略)一ばん右の数字は一の位を、右から二ばんめの数字は一0の位を表わすものと約束しているのです。」(矢野健太郎「数学物語」角川文庫)
 その体系については、多くの学者の業績の集成となっている。さしあたって9世紀頃までの主要な数学者の名前を拾うと、フワーリズミー(780~850)、キンディー(801~873)、フナイン・イブン・イスハーク(808~873)、サービト・イブン・クッラ(835~901)、バッターニー(853~929)らがいた。
 彼らがつくるアラビア数学の内容だが、分野としては、代数学が主であったという。また、当時のアラビア数学では記号を使った数式表記が発明されていなかったため、計算方法は全て言語によって説明されていたようだ。
 このようなアラビア数学がヨーロッパに伝えられるのは、後年ラテン語に翻訳されてからであって、その伝搬経路としては海路にせよ陸路にせよ、生活や交易するに便利な知識は学者だけのものではなかった筈であり、ヨーロッパの諸都市を中心に広がっていったのであろう。

(続く)

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