138『自然と人間の歴史・日本篇』室町幕府と守護大名
1346年(貞和(じゅうわ)2年)に、守護の違法行為を取り締まるために、室町幕府により次の文書が発せられる。
「諸国守護人非法の条々
一(第一条)大犯三箇条、付けたり刈田狼籍、使節遵行の外、所務以下に相綺(あいいろ)い、地頭御家人の煩(わずら)を成すの事
一(第○条)縁者の契約を成し、無理に方人を致すの事
一(第六条)請所(うけしょ)と号し、名字を他人に仮り、本所寺社領を知行せしむるの事
一(第七条)国司領家の年貢譴納(ねんぐけんのう)と称し、仏神用途の催促と号し、使者を所々に放ち入れ、民屋(みんおく)を追捕(ついおく)するの事
一(第八条)兵粮(ひょうろう)ならびに借用(しゃくよう)と号し、度民の財産を責め取る事
一(第一〇条)自身の所課を以て、一国の地頭御家人に分配せしむるの事
一(第一二条)新関を構え津料(つりょう)と号し、山手河手(やまてかわて)を取り、旅人の煩(わずら)いを成すの事
以前の条々の非法張行(ちょうぎょう)の由、近年普(あまね)く風聞す。一事たりと雖ども、違犯の儀有らば、忽ち守護職を改易す可し。若し正員存知せず、代官の結構(けっこう)たるの条、蹤跡分明(しょうせきぶんみょう)たらば、即ち彼の所領を召し上ぐし。所帯無くば、遠流(おんる)の刑に処す可す」(『建武以来追加』)
文中に「大犯三箇条」(だいぼんさんかじょう)とあるのは、御家人の大番役催促、謀反人や殺害人の追捕(ついぶ)の3ヵ条、その付けたりで苅田狼藉、使節遵行までをいう。これらのそもそもは、鎌倉時代のからの各国守護の主要な職権として、源頼朝の時代に定められた。また「刈田狼籍」とは、敵方の他の稲を収穫前に刈り取る行為をいい、「使節遵行」とは、幕府の命により守護が使節を派遣して押領による荘園支配を排除し、下地・所務を正当な所有人に戻してやることをいう。1232年に『御成敗式目』が成ると、これらに夜討・強盗・山賊・海賊の検断が追加されていた。室町時代に入ってからは、本文書における、さらなる追加事項も守護の権限に加えられた結果、各地の荘園所領も含め、自他の領地における紛争や経済に係る守護の政治的・経済的地位は、拡大の一途を辿って行き、ついには室町幕府をも脅かす程の、地方における公的な権力を代表する存在になっていった。
これに関連して、1402年(応永9年)に書かれた、「守護請(しゅごうけ)」と呼ばれる用向きについて書かれた文書を紹介しておこう。
「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)
ここに、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。時は、南北朝の統一がなされて2年目のことであって、ようやく幕府の政治が落ち着いてきていた。
ありていにいうと、これにより守護は、荘園・国衙領の年貢取立てを代行する、それぞれ年貢1000石を各領主に納入する役割を担う。その代わりに領主たちは荘園の現地支配から手を引く事になっていた。つまり、互いに中央政治と結びつくことによって、儲けなり権益なりを得ようとする。
こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのでしないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らなかったり(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいったようだ。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~92年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。
(続く)
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24『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一後)
室町時代における地方の土地の所有関係は、なかなかに複雑になってきていた。その一つとして、先に取り上げた新見荘のその後を語ろう。1333年(元弘3年・建武元年)に鎌倉幕府が亡びると、この荘園の地頭職が、「建武新政」で新政府を再興した朝廷(後醍醐天皇)によって取り上げられ、東寺に寄進された。理由としては、この荘園の地頭が北条氏一門だったことによると考えられている。しかし、この東寺への粋なはからいは長く続かない。1336年(建武3年)、後醍醐天皇が足利尊氏らの軍により京都を追われ、吉野へと逃げ延びる。南と北に天皇家が分裂の時代となる。
そうなると、前からの領家である小槻氏と東寺の間には激しい相論が繰り広げられる。その新見荘も、ついに足利幕府により没収されてしまうのである。こうした状況で東寺に代わって現地で新見荘を支配するようになるのが、室町幕府の管領を務めた細川氏の有力家臣である安富氏(やすとみうじ)であった。これは「請負代官(うけおいだいかん)」というシステムで、双方による契約で、現地で安富氏が徴収した年貢を、荘園領主である東寺に送るようになったのである。
しかしながら、年貢はかならずしも東寺に順調には上納されず、武家代官の支配が増していくのであった。1461年(寛正2年)には、新見荘から「備中国新見荘百姓等申状」を携えた使者が東寺にやってきた。その申状のとっかかりには、こう記されてあった。
「抑備中国新見庄領家御方此方安富殿御○○候に先年御百姓等直寺家より御代官を下候ハゝ御所務○○○随分御百姓等引入申候処ニ無其儀御代官御下なくてハ一向御○○○やう歎入候事」
その申立理由だが、現地を預かる安富氏が農民たちから東寺と契約した以上の年貢を徴収し続けたことにあるという。1459年(寛正2年)から続いた作物の不作がさらにあって、新見荘の農民たちの我慢もついに限界に達したのであろう。彼等は、蜂起したものとみえる。そしてて、荘園領主である東寺に直接支配するよう、使者をよこして来たのであるから、東寺としても事の経緯を調べ、対処しない訳にはいかない。1461年(寛正2年)には、東寺の現地の直接支配が成立した。
そんな一連のいきさつがあったので、この決算書は監査を受けないまま東寺供僧の手もとに保存されていた。その数ある決算書類中に、「地頭方損亡検見○(ならびに)納帳」という、前の年の年貢の収支決算書があり、網野喜彦氏の紹介にはこうある。
「長さ二十三メートルにも及ぶ長大な文書で、それを読むと中世の商業や金融、その上に立った荘園の代官の経営の実態が非常によくわかるのですが、その文書の中に「市庭在家」という項があります。
それによってみると、この荘園の地頭方市庭には三十間(軒)ほどの在家が建てられていたことがわかります。恐らくそれは金融業者や倉庫業者の家で、道に沿って間口の同じ家が短冊状に並んでいたと思われます。こうした在家に住む都市民は「在家人」と呼ばれました。そしてその傍らの空き地に商人が借家で店を出す市庭の広い空間があったことも、この文書によって知ることができます。」(網野喜彦『歴史を考えるヒント』新潮選書、2001)
なお後日談だが、やがて戦国時代になると、この新見荘もまた、他の荘園と同様、漸次東寺の支配を離れ、守護、そして戦国大名の支配に組み入れられていった。
今ひとつの例として、室町幕府が一応の安定期に入った(南北朝統一後)頃の、備後・備中の荘園地の支配を巡っては、当地の守護であった山名氏の実質支配が進んでいた。
「高野領備後国太田庄並桑原方地頭職尾道倉敷以下の事
下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨、山名右衛門佐入道常煕仰せられおはんぬ。早く存知す可きの由仰下され候所也。仍て執達件の如し。
応永九年七月十九日、沙弥(しゃみ)(花押)、当寺衆徒中」(『高野山文書』)
ここに、時は、南北朝の統一がなされて2年目の1402年(応永9年)、高野山(こうやさん)の寺領とある備後国(びんごのくに)大田荘(現在の広島県世羅郡甲山町・世羅町・世羅西町)と、桑原方地頭職尾道の倉敷(現在の広島県尾道市、岡山県倉敷市のあたりか)などについて、「沙弥」の異名をもつ管領(室町幕府の重職)・畠山基国(はたけやまもとくに)が、備後守護職の山名氏(山名時煕(やまなときひろ))に対し「下地に於ては知行致し、年貢に至りては毎年千石を寺に納む可きの旨」を内容とする請負(うけおい)を命じた。これは、守護請(しゅごうけ)と呼ばれる。ありていにいうと、守護は、荘園・国衙領の年貢取立て、ここでは各々へ年貢1000石を各領主に納入する業務を代行する。領主たちは、その代わりに荘園の現地支配から手を引く事になっていた。
こうした形の仕事請負行為は、守護職からいうと地方での権限拡大につながるもので、「渡りに舟」であったのではないか。事実、これらの荘園地は応仁の乱後には事実上山名氏の所領化していった。室町時代に入ると、荘園主に決められた量の年貢が入らなかったり(「未進」)や、はては逃散・荘官排斥などがあった。こうした動きの背景には、荘園領主と守護職とを含めての、現地農民に対しての搾取強化があったことは否めない。その後、戦国大名が割拠する時代に入ってからは、全国の荘園で消えていくものも多くあり、それが残る場合においても、紆余曲折を経ながら領主権力の空洞化が進んでいったようだ。例えば高野山の寺領は、1585年(天正13年)の豊臣秀吉による紀州攻めまで維持されたものの、その高野山が秀吉に降伏した後、その寺領はいったん没収される。のち1591~92年(天正19~20年)に、秀吉の朱印をもって2万石余の寺領が与えられた。
(続く)
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中世になっても、科学はまだ相当には発達していない間は、人々はなおも宗教や因習などに大きく影響されていた。しかし近代になると、その中から変革の思想家が現れるに至るのであるから、世の中というものは棄てたものではない。
ニコラウス・コペルニクスは16世紀の人、カトリック教会の司祭であった。当時の聖職者は、ある意味天体の運行についても責任を負っていたのだろうか。彼にとって正確でない1年の長さが使われ続けることを問題視していた。そもそもの学問の話では、古代ギリシアに生きたアリストテレス(紀元前384~紀元前322)は、地球の周りを星々が回っているという天動説を唱えた。同じギリシアの天文学者アリスタルコス(紀元前310~紀元前230年頃)は、少し違うやり方で天体運航の謎解きを試みる。月のちょうど半分が照らされているのを観察していて、月は球形だから今見える月の姿は太陽光が真横から当たっているからにちがいないと考えた。アリスタルコスは幾何学を使い、太陽Sと半月M、地球Eとし、これらでつくる三角形SMEを描き、角SMEを直角とする直角三角形となるから、角SEMを測れば、角MSEも求められると考えたらしい。地球から観る月と太陽はほぼ同じ大きさに見える。だから太陽が月の何倍の大きさか比べられる。さらに地球は月の約3倍大きく見える。だから太陽が地球の何倍か見当がつくというのであった。
アリストテレスの唱えた天動説だが、欠点を抱えていた。夜空に見える惑星は通常、1年をかけて空を西から東へと移動していくのだが、あるときを境にその惑星が東から西へと動いて見える、この「惑い」というか、「逆行」を天動説では説明出来なかった。こんな不規則な現象がなぜ起こるのかを説明しようとした人の中に、クラウディオス・プトレマイオス(100~170年頃、古代ローマ時代のギリシアの天文学者)がいた。彼は、地球の直ぐ外側を回っている火星に着目し、これに二つの円を設定した。まず、火星はある点を中心とする円の上を回っている。その円がさらに地球を中心とする円の上を回っていると考えた。これだと、地球から火星の軌道を追ううちに、普段は夜空を右から左(西から東)へと動いているように燃えるが、あるところから別のあるところまでの空間においては、その逆方向に動いているように見える。
こうして辻褄あわせで当座を乗りきってきた天動説であったが、2千年以上経ってから研究の道に入った者にニコラウス・コペルニクス(1473~1543)がいた。彼は、かつてのアリスタルコスの研究を知っていたに違いない。彼は、太陽を中心に置き、地球がその周りをほぼ1年をかけて公転するものと考えると、全ての観測結果と辻褄が合うとし、思索を勧め田結果、1恒星年を365.25671日、1回帰年を365.2425日と算出した(ここで1年の値が2つあるのは、1年の基準を太陽の位置にとるか、他の恒星の位置にとるかの違いによる)。
コペルニクスは1543年に没する直前までこの研究を続け、その思索をまとめた著書『天体の回転について』を刊行した。その際、天動説を真正面から批判するというよりは、地球が太陽の周りを回ると考えるという説を紹介するという体裁をとった。そこでは地動説の測定方法や計算方法をすべて記した。事実、この本の目次は極めて丁寧なものとなっている。こうして誰でも同じ方法で1年の長さや、各惑星の公転半径を測定できるようにしたのであった。これが、当時の先進的な人々に特別の高揚感を与えたことは、疑いあるまい。
このコペルニクスが唱えた天動説は画期的であったが、世の中に賛意が広がるまでには紆余曲折があった。最初に地動説に賛成した人物の一人に、ジョルダーノ・ブルーノ(1548 ~1600)がいる。彼はイタリア出身でドミニコ会の修道士であった。彼は、行動の人でもあった。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、これに沿うとみられるコペルニクスの地動説を擁護した。ブルーノの人となりはよくは知られていないものの、大層意志の強い人であったのだろう、当時の地上と天上における精神的権威であったローマ教会から異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、記録によると火刑に処せられた。彼が死刑となったことが、天動説の第一の受難だったと言える。
第二の受難は、1610年にやってきた。それが、ローマ・カトリック教会によるガリレオ・ガリレイ(15641~642)の宗教裁判である。この年、、『星界の報告』の発表の時に最初のシグナルが起こった。彼が自前の望遠鏡で観た「月の表面は、多くの哲学者たちが月や他の天体主張しているような、滑らかで一様な、完全な球体なのではない。逆に、そこは起伏に富んでいて粗く、いたるところにくぼみや隆起がある。山脈や深い谷によって刻まれた地球となんの変わりもない」(岩波文庫、山田慶児・谷泰訳)ものであった。
当時の人々がとりわけ驚いたのは、彼が木星の衛星に望遠鏡を向けた時の報告であった。ガリレオが木星に望遠鏡を向けると、はじめ3つの衛星が見え、その後さらにもう一つの衛星がみえて、全部で4つが木星の回りを回っている。彼は、それらの毎日の位置の変化を観測し、それらの位置が木星を中心に日々変わり、時には木星の背後に隠れ、また現れることを突き止め、これらは恒星ではなく、木星の衛星であると結論づけた。あたかも、太陽のまわりを地球が回っているようなものだと考えられる。
ところが、人々は、木星にも地球における月と同じように衛星が回っており、しかもそれが4個も見つかったというガリレオの報告に驚くとともに、戸惑った。というのは、天動説では地球が天体の運行の中心にあるのだと教えている。それなのに、ガリレオの説を敷延してゆくと、その先にあるのは木星と衛星の関係を地球と太陽の間に適用するとどう
なるかの命題なのである。それまではコペルニクスの地動説で説明するしかなく、そこでは地球の自転と公転の両方がごっちゃになって区別できていなかった。ガリレオは、その命題についての正解は、地球が自転や公転をするということだけではなくて、宏大な宇宙の中心に地球があるのではなくて、太陽系においては太陽こそがその中心の位置にあるのであって、地球は太陽の周りを回る一惑星に過ぎないことになってしまう。
ガリレオの望遠鏡が捉えていたのはそれだけではなかった。観測ノートに記入していた時の彼は、太陽系の惑星の海王星が八等星の明るさで写っていたの目にしていたのではないか、おそらく、それを惑星ではなく、「恒星」として記録している(1612年(慶長17年)12月28日及び1613年(慶長18年)1月28日の観測日誌)。その延長で、肉眼では土星までしか観測できない太陽系の惑星に、7番目の惑星が存在することを発見したのは1781年、イギリスのウィリアム・ハーシエルの仕事によるものであって、その星は「天王星」と名付けられた。
後日談として、1846年(弘化3年)9月23日、ドイツのベルリン天文台のヨハン・ゴットフィールド・ガレが、フランスのユルバン・ルヴエリエとイギリスのジョン・クーチ・アダムズによる天体力学による計算での予言のとおりの位置に、天王星の外側を回る未発見の第8惑星を観測した。そして、この星は「海王星」と命名された。この惑星の位置は、先の2人がその摂動が天王星によっての運動が乱されていると考え、そこに未知の惑星が存在する可能性を指摘した予報位置から、僅か52度しか離れていなかった。
海王星は、そのさらに前のガリレオの「望遠鏡がとらえる木星付近の視野に収まる位置にあり、観測日誌に記されたのと同じ方向に来ていた」(小山慶太「科学の歴史を旅してみようーコペルニクスから現代まで」NHK出版、2012)ことをもって、先にガリレオが観測したのと同一のものなのではなかったか、とも考えられている。ちなみに、太陽を「りんご大」に例えると、4メートル離れて水星(ケシップ)が、7メートルに金星(丸薬)、10メートルに地球(丸薬)、15メートルに火星(丸薬)、52メートルに木星(パチンコ玉)、96メートルに土星(パチンコ玉)、192メートルに天王星(5ミリの錠剤)、そして300メートルのところに海王星(5ミリくらいの玉)がある例えになっている(草下英明『図説、宇宙と天体』立風書房、1987)。
なお、これに関連して、2015年7月14日午前(日本時間では同日夜)、米航空宇宙局(NASA)の無人探査機「ニューホライズンズ」が冥王星に再接近した。ここで冥王星とは、1930年に米国の天文学者トンボーが「9番目の惑星」として発見を発表したものの、国際天文学会連合による定義見直しで「準惑星」に格下げされた。表面温度は摂氏零下220度を下回り、表面は窒素やメタンなどの氷で覆われている。それでも、この星は、約248年かけて太陽の周りを公転しているのだと言われる。こういう形での探査機による冥王星の観測は史上はじめてとのことであり、同探査機は2006年の打ち上げ後、9年半かけて48億キロの旅をしてきて、いまこの時、太陽系の端に近い、この冥王星のところをまでやってきているということなので、大いなる驚きだ。
加うるに、1613年(慶長18年)に出版されたガリレオの『太陽黒点の研究』という論文には、当時太陽の黒点は地球と太陽との間にある小さな星と考えられていた。それをガリレオは、太陽を観察して、黒点の位置や大きさが絶えず変わることを知った。黒点は太陽の表面で起きているのであって、太陽が自転することで変化しているのだと彼は記した。イタリアで出版されたこの本の考えを敷延していけば、宇宙は普遍ではなく、変化しているのであって、地球も不動のものではありえないことを言いたかったに違いない。彼の説は天動説に敵対したとみなされ、本が出版された3年後にバチカン法王庁による世俗権力によって宗教裁判にかけられ、あれよあれよと言う間に有罪にされてしまうのだった。
それでも、真理への道は突き進んでいく。1727年(年)、「年周光行差」の存在が確認された。ここに年周光行差とは、地球の上にいる観測者が地球の公転によって光速で動いていることを考えると、光りの速度と観測者の動く速度の合成によって、光がやってくる方向が変化して見えることをいい、地動説を裏付ける証拠の一つとなる。地球の自転を確認する方法は、さしあたりもう一つ、「年周視差」からも確認できるだろう。ここに年周視差とは、地球が太陽の周りを1公転する間に、地球の地殻にある星は1年周期でわずかに動いて見える、その角度のことをいう。その角度は微小であるから、なかなかに検出できなかった。こちらは、1838年(年)、はくちょう座六一番星の年周視差が検出されたことで確認されるに至る。続いて1851年(年)、レオン・フーコー(1819~1868)が振り子の原理を使って、地球の自転によって、振れる向きが徐々にずれていくことを発見した。
(続く)
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23『岡山の今昔』江戸時代の三国(新本義民騒動など)
それは、江戸中期の備中での事件であった。岡田藩(今の倉敷市真備町に陣屋があった)が領していた同国下道郡新庄村・本庄村(現在の総社市新本(しんぽん)地区)を舞台に、1717年(享保2年)、第5代藩主・長救の時代、この地の領民による一揆が勃発する。そのあらましだが、年貢の中心である米の税納を巡ってのものではなく、入会地である山を管理を巡っての領主と農民との争いであったところに、その特徴がある。これを「新本義民騒動」(しんぽんぎみんそうどう)と呼ぶ。
このあたりの土地柄については、中世の頃、備中のこのあたりには下道郡と賀夜郡があった。このうち下道郡の方は、現在の総社市の北西の山岳地帯を含んだ地域に当たり、上代末期から中世にかけては、田上荘(たがみそう)と呼ばれる荘園であった。より細かくは、高梁川の支流である新本川を間に挟んで南側に本荘(本庄)、北側に新荘(新庄)とがあり、この二つをあわせて「新本村」と呼ばれた。戦国時代から安土桃山時代にかけては、毛利氏の所領となっていた(豊臣秀吉の高松城水攻め後の高梁川西岸は毛利領、東岸は宇喜多領に仕分けられる)。
1615年(元和元年)、伊東長次がこの地に入封して来た。その伊東氏は、同年の大阪の陣まで豊臣方に属していたことで知られる。その夏の陣では、大阪城から出陣し、城に帰るも徳川方の兵に包囲されていて近づけず、入城を諦め、高野山にのぼって謹慎していたのが、同年中に、徳川家康に罪を許され、石高1万343石を与えられ、立藩する。入封した岡田藩の領地として、真備町の旧矢田村(岡山領)を除く全てと 玉島の旧陶・服部村、総社市の旧新本・水内村で十ヶ村と美濃国・河内国・摂津国に五ヶ村があてがわれた。
さて、この一揆に至るまでの過去を顧みると、そもそもこの地域においては、新庄村と本庄村の村人の暮らしにとって大事な、大平山と春山という山がある。ここに代々住む人々は、このあたりの山野で昔から計画的に草や木を採ってきていた。草は、田や畑の肥料にしたり、牛や馬の餌にすることができる。雑木を伐採しての薪(まき)や落ち葉の類は、日常生活(ごはんやふろたきなど)の燃料に有用であった。領主側の岡田藩は、こうした周辺の村による「入会地」を、少なくとも黙認してきていたのではなかったのか。
ところが、1661年(万治4年/寛文元年)頃より、この岡田藩の領内で大いなる変化、すなわち一方的な入会山(いりあいやま)の藩有化・「留山」(とめやま)といって、同藩は村民の入山をだんだんに厳しく禁じていく。この留山は、元はといえば、樹木や森林の福利作用を保全する目的から一定の山林の樹木の伐採を禁じるものであり、奈良時代に始っている。藩は、あえてこの制度に該当地域を組み込もうとした背景には、何があったのだろうか。同藩の藩士とその家族が使用する燃料等の調達等の必要だけでは、説明がつかないではないか。
村人の受難はそればかりではなかった。それ約50年後の1717年(正徳6年/享保元年)の春先になると、藩当局は突然、残されていた共有山であった新庄村の大平山そして本庄村の春山の大部分をも取り上げるに至った。あわせて、造林を伐採し、割り木・用材とし、それを藩庁のある同郡岡田村(現・倉敷市真備町岡田)まで運搬することを村民に命じた。しかも、それに支払われる労賃たるや、1駄(約42貫)当たり4分5厘という低額なのであった。
これら一連の措置による生活圧迫に困った村人たち(その頭数は新庄・本庄両村民で約2百名とされるか)は、会合を開き、対策について話し合ったのはいうまでもない。ついに、留山とされた山の返還と、割り木・用材運搬の中止を嘆願することを決意する。それらを主な内容とした三箇条の嘆願書を作成し、これを岡田藩の役人に提出し、抵抗するのであった。これに対して藩は、抵抗する者は岡田藩の百姓とは認めないなどと脅しを掛け、良心的な庄屋と組頭についても牢につなぐ暴政ぶりであった。その後事態が膠着していたところへ、川辺村(今の真備町川辺)の蔵鏡寺などの住職たちの斡旋があった。話し合いで、新庄村の殿砂から本村にいたる山野を開放し、下草などを採ってもよい、という案をまとめてくれた。同年旧暦3月15日、村人たちはこの案を受け入れの是非を決めるため総集会を開き、この案を受け入れることにし、直ちに誓約書が作られた。
ところが、これで一件落着とはならなかった。1718年(享保3年)に入るや、藩当局は、村の持ち山に開放された山林での木の伐採についても、「たとえ村の持ち山であっても、許し無く入って木を切ってはいけない。そのことは盗みになる」といいがかりをつけてきた。そこで窮した村人たちが、このまま黙って死を待つよりも、江戸に出向いて同藩の江戸屋敷に直訴して事態を切り開こうということで、衆議一決する。なにしろ江戸は遠くにある。その江戸行きには、松森六蔵、甚右衛門、川村仁右衛門、森脇喜惣次の4名が選ばれた。
この4人は、同年旧暦3月1日に新本を出発して18日目に無事江戸に着いた。そして岡田藩主伊藤播磨守長救(いとうはりまのかみながひら)に直訴を果たした。その後、かれらは罪人としてとらえられ、旧暦5月25日に岡田に到着。享保3年旧暦6月7日、4人は新本飯田屋河原で処刑された。また5名が追放処分となったという。その後、彼らの命の代償に、村の持ち山のほとんどの山野に自由に出入りできることになったと言われる。この一揆の仔細について、なぜ幕府に訴え出なかったのかなどわからない点がなお多いものの、当時の同藩の政治向き中枢に農民達の心を某かでも受け取ることのできる人物がいたならと、口惜しく感じる人も多かろう。
それから二百余年を経た明治維新後、同藩は他の藩同様になくなり、「岡山県下道郡」に衣替えしていたのが、1900年(明治33年)4月に隣の賀陽郡と合併して吉備郡(きびぐん)となる。1954年(昭和29年)3月には、吉備郡の中の総社町、新本村、山田村、久代村、池田村、阿曽村、都窪郡常盤村の1町6か村が合併し総社市となって現在に至る。なお、上代以来江戸時代までと、明治以降との間では、入会についての位置づけが替わっていることがあり、例えば次のような整理が為されているところだ。
「(中略)これに対し江戸時代の村はその村民の人格と全然分離独立した抽象的な人格者ではなく、各村民によって組織され各村民の人格によって支持された村民全体の総合体であり、村の人格とその成員である住民の人格が不即不離の関係にあった総合人であったということになる。「村」「村役人及惣百姓」「百姓総体」であった。ここに今の村有林と昔の村持の山との性格の相違がある。」(埼玉県比企郡嵐山町編『嵐山町誌』第6巻)
(続く)
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47『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(幕末の騒擾、倉敷騒動)
倉敷浅尾騒動(くらしきあさおそうどう)というのは、1866年5月24日(慶応2年4月10日)、長州藩第二奇兵隊幹部の立石孫一郎に率いられた兵が備中に入って起こした事件のことである。これより前の同年旧暦4月5日夜、周防国(すおうのくに)熊毛郡大和町(2003年4月21日に徳山市、新南陽市、鹿野町と合併し、新たに周南市に組み入れられている)の石城山を本拠地とする第二奇兵隊(南奇兵隊)が突如動いた。立石孫一郎をリーダーとしたかれらは、同隊参謀楢崎剛十郎を殺害し一気に山を駆け下った。この部隊は、翌朝遠崎(山口県大畠町)より船で出帆、備中倉敷に入った。そこには、当時幕府代官所があった。これにおよそ100人で攻め入って代官所を焼払った。ここに倉敷代官所は、江戸幕府直轄の代官所であった。
具体的には、この日の早暁に強雨の中襲撃が決行された。代官所襲撃の主目標は、代官の誅殺であった。しかし、代官の桜井久之介は、広島に出張中で不在であった。幕府側の上級武士はいち早く逃亡し、代官所に踏みとどまった9名が死亡した。襲撃後、立石ら襲撃部隊は総社に向い、宝福寺に宿営した。
同4月13日暁、彼らは今度は浅尾藩陣屋に現れる。ここに浅尾藩というのは、1864年、禁門の変(蛤御門の変)で会津藩とともに御門直近の警護をしていた藩である。襲撃部隊は、まず郡会所と観蔵寺に放火する。さらに藩士宅などに火をかけた。これで浅尾藩陣屋内は大混乱に陥り、浅尾藩は大砲3発を発射したものの、生存者の全員が陣屋から命からがら逃げ去った。
この二つの陣屋を襲撃した後の彼らは、高梁川河口付近において休憩中に、広島から派遣された幕府軍の銃撃を受けて潰走していった。彼らの多くは、長州藩領へ逃げ帰っていった。立石孫一郎は隊士の助命嘆願工作中に潜伏先で殺害され、脱走隊士の多くが陣営から許可なく離脱したかどで、藩政府により捕縛、処刑された。
(続く)
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59『岡山の今昔』明治時代の岡山(地租改正、1871~1875)
さらに新政府は、秩禄処分、次いで地租改正を行った。こちらは、従来の田畑貢納の法を廃止するものである。地券の元となる土地の調査を行い、土地の代価を決め、それに基づき地租を課すことになった。1871年(明治3年)から準備が始まる。1872年(明治5年)8月に田畑の貢米・雑税米について近接市町の平均価格をもって金納することを認める。同年9月、租税頭より「真価調方之順序各府へ達県」が出される。1873年(明治6年)6月になると、石高の称を廃止する。地租は従来の総額を反別に配賦して収入とすることに決まる。同年7月の「上諭」とともに、地租改正条例と地租改正規則が公布される。
これらの諸法令の施行により、土地の所有権の根拠(いわゆる「お墨付き」)を与えるもので、その所有者には「地券」が新政府によって発行される仕組みだ。この地券には、地番と地籍とともに、その次に「地価」が書いてあって、これが江戸期までの検地でいう「石高」に相当する、課税の際の「土地の値段」となる。つまり、「この地券を持っている人は何割の税金を払うように」法令を発すると、この地価に税率を掛けた額が税金となって、これを支払うのが義務として課せられる。政府としては、これで安定的な税収が見込める。最初の税率は、地価の100分の3と見積もる。その上で、作物の出来不出来による増減をしないことにしている。地租の収納方法は物納を廃止し、一律に金納とした。この地価の水準は、当時の「収穫代価のおよそ3割4分」に相当するものとして算定されている。
この政府の決定に基づき、美作の地でも地租改正の作業が進められていく。ところが、これがなかなか思うように進まなかった。その例として、『津山市史』に、北条県での事例が次のように記されている。
「こうして地租が徴収されるのであるが、この調査の過程で問題が多かったのは、一筆ごとの面積と地価についてであった。言ってしまえば簡単であるが、測量にしても、「田畑の反別を知る法」が10月に示され、種々の形の面積の出し方が教えられた。
『北条県地租改正懸日誌』の11月7日の項に、「人民は反別調査の方法も知らない。延び延びになるので測り方を示した。これが地租改正の始まりである」と書いている。11月になって、やっと地租改正の仕事が動き出したのである。
それから2箇年後、8年(1875年)12月3日、北条県は地租改正業務を終了させた。山林の調査は多少遅れたけれども、地租改正事務局総裁大久保利通ら、「明治9年から旧税法を廃して、明治8年分から新税法によって徴収してよい。」との指令が到着したのは、同9年(1876年)1月4日であった。」(津山市史編さん委員会『津山市史』第六巻、「明治時代」1980)
地租改正のその後であるが、1878年(明治10年)に税率が100分の3であるのは高いということになり、100の2.5に変更されたり、追々の米価騰貴もあって金納地租の率が低減していったのである。
(続く)
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44『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(中期の経済)
では、田沼期から寛政改革期にかけての諸藩では、どのような治政が行われていたのであろうか。
備前については、岡山藩がどっしりとその地理の大方を占めていた。その岡山藩では、1741年(寛保元年)には、鴻池が蔵屋敷で蔵物の売却出納の事務を扱う「蔵元(くらもと)」に就任している。そればかりか、1747年(延享4年)になると、売却代銀の出納と管理にあたる「銀掛屋(ぎんかけや)」までも鴻池(こうのいけ、鴻池善右衛門)が担っている。鴻池は、1676年(延宝4年)から岡山からの米穀輸送も請け負っていたので、まさしく藩の財政丸抱えになっている感がある。これら生産にたいしては寄生的なといえる高利貸資本(こうりがししほん)などは、また鉱山や農村に進出して、農民の階層分化を促進させていく。
もちろん、改革についていけた一部の農民にとっては、生活向上に役立った面もある。けれども全体的には、商品経済の浸透に伴い、農村の疲弊はむしろ進んでいった。とりわけ深刻なのが、農村の人口減であった。松平定信により1786年の全国規模での戸口調査の結果が紹介されており、「(天明)午(うま)のとし、諸国人別改られしに、まへの子(ね)のとし(1780年(安永8年))よりは諸国にて百四十万人減じぬ。この減じたる人みな死(しに)うせしにはあらず」(松平定信の自叙伝『宇下人言』)とある。
ところが、その西隣の備中は、新見、松山(高梁)、成羽、足守、浅尾、生坂、岡田、庭瀬、鴨方の各藩があった。同地域には天領や藩外大名の飛地などもあって、互いに境界が入り組んでいた。ここでは、その中から倉敷を取り上げたい。この地は、1600年(慶長5年)の幕府発足のおり、幕府直轄の、いわゆる「天領」に組み入れられた。備中代官所が幕府支配の出先として置かれた。その翌年、代官、小堀正次(こぼりまさつぐ)による検地が行われる。1617年(元和3年)からは、天領から備中松山藩所領に配置換えとなる。ところが、1642年(寛永19年)に再び天領に戻る。領地を巡る紆余曲折、有為転変とはこのことなのであろうか。彼の地は、その後も一時大名領となったこともあるものの、以後明治までの大方の期間は幕府の天領として過ごすことになる。
倉敷では、江戸初期以来の「門閥商人」にかわって、「新禄商人」が歴史の表舞台に登場してくる。2015年夏を迎えた現在では、倉敷川に沿って白漆喰になまこ壁の土蔵や商家など蔵屋敷が建ち並んでいることから、倉敷市の「美観地区」に指定されている。この辺りは、かつては海に浮かぶ小島と漁村であった、といわれる。地質年代的には、高梁川の土砂沖積作用による陸地化作用がある。そこに加え、江戸時代になってからの新田開発の干拓事業によって埋め立ての陸地はどんどん拡大してきた。南は現在の下津井(しもつい)にいたるまで、かなり大きな半島状の陸地が形成されている。
ここに商業は、商品生産物を生産者から得て販売する機能をいう。商人たちが扱う品目について領主などによる封建的搾取がなければ、本来その販売は生産者なのである。したがって、そこでは生産者に属していた販売機能が彼らの権能から分離して、商業(商人)資本によって独立して営まれることになっている。それは、中世の経済構造の中でしだいに成長してきた、「前期的な資本形態」(カール・マルクス)だと言える。そのかぎりでは、商業資本が得る所得は商品の購入者の所得からの控除ではなく、その源泉は生産者の所得から直接的に再分配されるべきものだ。ところが、農業生産物に封建的搾取が行われている社会においては、搾取者である武士階級などがこの関係に介在している。そのため、この仕組み本来の機能が見えなくなってしまっている。そこで、独立生産者(イギリスではかれらを「独立自営農民」と呼んだ)としての本来の機能行使からは、年貢や専売の対象になっている生産物を除いた、生産者の裁量で自由に処分できることになっている。
そこで商業が成り立つためには、売買差益(商業マージン)が確保できなければならず、そのためには、いまその商品が価値どおりに販売されることを前提すると、商人は当該の生産物を生産者からその価値より安い価値で仕入れ、それを価値どおりに消費者に販売することで某かの利益を得ることができる。これを生産者視点からみると、自ら生産した付加価値のうちの費用を差し引いた部分を削って価値以下で商人に販売していると考えられてよいだろう。とはいえ、その農業生産者は自分が市場で買い手を探して販売するのに比べ、その販売を商人に委ねる見返りに自らの取り分を削った以上の利益が見込まれることになるのだ。
16世紀頃までには、宇喜多による埋め立てにより、倉敷の村には陸地が広がっていく。高梁川の流す土砂の沖積作用によっても、鶴形山の周辺は急速に陸地化していく。それまでの鶴形山は瀬戸内海に浮かぶ小島であったらしい。この山の南麓に漁師や水夫の住む集落ができていた。干潟に残された水脈は干拓地を貫く水路となって海へと流れていた。この水路というのが、現在倉敷美観地区に始まって、児島湖に注いでいる倉敷川なのである。
それからほぼ一世紀余りが流れて行く。この間にも、岡山藩などにより埋め立ては続いていく。高梁川からの土砂も下流へ、下流へと沖積していくのであった。1768年(明和5年)の頃には、ここは、備中における物流の動脈である高梁川があり、そこから引き込まれた倉敷川をはじめとする水路や運河に囲まれていた。また、1746年からは、それまで笠岡にあった代官所が倉敷の地に移された。備中、美作、讃岐の三国に散在する天領約60万石を支配する幕府の代官所が置かれ、年貢米などの物資の一大集地として今に残る蔵が建ち並ぶようになっていた。
この間、倉敷村の村高としては、1601年(慶長6年)が619石であったのが、1630年(寛永7年)には1385石になっていた。それからまた年が経過して1772年(安永元年)に1834石になっていた。江戸初期の干拓によって石高が飛躍的に増えたのであろう。ところが、人口は1601年(慶長6年)に800人程度と推定される。それが1672年(寛文12年)になると2536人、1733年(享保18年)には5392人、さらに1770年(明和7年)にf6835人、それからも1838年(天保9年)に7989人^と増加していったと観られている。この人口増加こそが、倉敷への商業資本の蓄積、商人たちの集積を意味していた。
このような環境変化に見舞われるくらい倉敷(村)であったのだが、この町の江戸初期から中期までは「古禄」と呼ばれる、13軒の地主的な性格ももつ、「門閥商人」たちが幅を効かせていた。しかも、この特権商人たちはその地位を世襲していた。13軒の中では豪農から転じた者が多かったのではないか。主な商人としては、紀国屋(小野家)、俵屋(岡家)、宮崎屋(井上家)などの名が伝わる。彼らは、その古くからの土着で培われた集団の力によって、庄屋、年寄り、百姓代などの村役人を世襲したのはもちろん、木綿問屋、米穀問屋、質屋などから始めた商売の網を此の地にめぐらしていく。
そこへ、江戸期も中期、後半に入る頃になると、今度は、新たに干拓による農地の拡大、人口増加によって「新禄商人」と呼ばれる別の流れの商人たちが台頭してくる。彼らは、はじめは「綿仲買」で綿つくりの農民と結び付いたり、干鰯(ほしか)、干鰊(ほしにしん)売り、油売りなどの商いを賄いながら経済力を蓄えていく。いまも残る、美観地区に立ち並ぶ白壁の蔵屋敷群は、そうした新興商人らの富と権力(金によるものであって、武力によるものではなかったが)の象徴なのである。その具体的な姿の例としては、江戸中期頃より、綿作の発展によって新たに財を蓄積していく者が出てくる。これらの人たちは児島などの近郊から倉敷にやって来た者が多かったのではないか、とも言われる。彼ら25軒くらいは、彼らなりの団結を固めていく。そんな中、中心となったのは、児島屋(大原家)、中島屋(大橋家)、浜田屋(小山家)、吉井屋(原家)、日野屋(木山家)などの面々であった。やがて彼ら新興の勢力は、村役なども含め、あれやこれやで名実を要求するようになっていく。つごう、1790年(寛政2年)から1828(文政11年)にかけて勢力争いを繰り広げた結果、大方ことでは新録派の勝利に終わったのだとされる。
念のため、かくも急速な発展を助けたのは、倉敷村の置かれていた土地の利便さなのであった。ここに「倉敷」というのは、当初から小さな運河があって、これがだんだんに発展させられてゆくに従い、運河による運送の便が整えられていくのであった。では、品物としては、どこから運んできたものが、ここを経由してどこへと運ばれていったのだろうか。これの全体の流れについては、ここに集積された品々は舟運でもって瀬戸内海に面した下津井などの湊へと運ばれ、そこから大坂や江戸などの大消費地に搬出させていた。
果たして、その湊の一つであった下津井には、早くから備前や備中の産物、それに加えて北国産の金肥(干鰯や干鰊)を扱う大問屋の蔵や倉庫(「鰊倉」(にしんぐら)とか呼ばれていた)がずらりとを並んでいるのであった。ここに「北国産の金肥(干鰯や干鰊)」とあるのは、当時の北前船のブームにのって、北海道や東北の海産物が日本海を南下し、下関を回って大坂方面へ盛んに運ばれていたことがある。これには次、城山三郎の論考「銭屋五兵衛」にみられるように「巨利」がついていた。いわく、「北前船業者は、ただ物資を運ぶだけの海運業者ではない。運賃のもうけも大きいが、それ以上に、商品の価格差でもうけることが大きい。北海道の海産物などを関西に持ってくると、仕入値の三倍から五倍に熟れることも珍しくなかった」(「幕藩制の動揺」日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970)とある。
それが、1790年(寛政2年)の村方騒動では、このあたりの農民たちと新興商人とが結び付いて、従来の経費の村割りに村民が参加することを要求するに至り、村役人の罷免と選挙制の実施へと動いていく。それに応じて、古い制度と結び付いていた特権商人の問屋の経済力を削いでいくことが目指された。ついには、「新禄派」と呼ばれた25軒の振興商人たちが「古禄派」による独占支配の撤廃を幕府へ訴え、長い闘争の末に勝利していくことにもなっていく。
(続く)
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29『岡山の今昔』江戸時代の三国(渋染一揆など)
1825年(文政8年)、幕府の「天領」であるところの勝北郡植月北村で一揆が起こりつつあった。津山藩領内の勝南郡金井村などにおいても、近くの村々を誘っての一揆が隠されつつあった。これらは、暴動となっていきつつあったところを、幕府の意を得た、津山と龍野の両藩が差し向けた兵によって鎮圧された。
1856年7月10日(安政3年6月9日)には、神下村の万作が子位庄村を訪ね、3日後の強訴(ごうそ)に参加するよう要請した。そして迎えた1856年7月15日(安政3年6月14日)、今度は岡山藩内の被差別民による一揆が起きた。彼らは、前日の夜からこの日の早朝にかけて、吉井川左岸の下流域である八日市河原(ようかいちがわら、現在の瀬戸内市長船町)に二十数村から約1500人が集まった。藩が被差別民に課した差別政策の撤回を求め、家老の一人伊木(いぎ)氏の陣屋のある虫明(むしあけ、現在の同市邑久町内)へ嘆願するためであった。その日の夜から16日朝にかけて双方の代表者が交渉し、午後になって嘆願書を主の伊木若狭守に提出することができた。
これより先の1855年(安政2年)、岡山藩は領内に倹約令(全24条)を出していた。さらに翌1856年(安政3年)、「別段御触」として、被差別民に対し一般農民とは別に、次の5か条を追加していた。
「一、(25条(別段1条))
衣類無紋渋染藍染ニ限り候義勿論之事ニ候、乍然急ニ仕替候てハ却て費ヲ生シ迷惑可致哉ニ付、是迄持かかり麁末之もめん衣類其儘当分着用先不苦、持かゝりニても定紋付之分ハ着用無用、素藍染渋染之外ハ新調候義は決て不相成事。
一、(26条(別段2条))
目明共義ハ平日之風体御百姓とハ相別居申事ゆへ衣類之儀ハ先迄之通差心得可申、尤絹類相用候義ハ一切不相成事。
一、(27条(別段3条))
雨天之節隣家或ハ村内同輩等へ参候節も土足ニ相成候てハ迷惑可致哉ニ付左様之節ハくり下駄相用候義先見免シ可申、尤見知候御百姓ニ行逢候ハ、下駄ぬき時宜いたし可申、他村程隔候所へ参候ニ下駄用候義ハ無用之事。
一、(28条(別段4条))
身元相応ニ暮し御年貢米進不致もの之家内女子之分ハ、格別ニ竹柄白張傘相用候義見免可申事。
一、(29条(別段5条))
番役等相勤候もの共、他所向役先之義ハ先是迄之通差心得可申、勿論絹類一切弥以無用之事。」(なお、全29か条は、例えば大森久雄『概説・渋染一揆』岡山問題研究所、1992に収録されている)
この追加5か条の骨子としては、一番目で、今後新たにつくって着る衣類を「無紋渋染・藍染」に限ることにした。この渋染というのは、柿の渋でもって染めた衣類のことである。また、紋付は着てはならないことにした。その3番目で、雨の時には、土足では迷惑をかけるので「くり」(栗)の下駄をはいてもよいが、知り合いのお百姓に出会ったときは、下駄をぬいでおじぎをしなさい。しかし、他の村に行くときには、下駄を用いてはならないというのであるから、要は「おまえたちは最低の身分だから、何をするにもどこへ行くにも心してそのように振る舞へ」といいたかったのであろうか。
そのため、同藩内53か村の被差別の判頭(はんがしら)たちが談合し取りまとめた惣連判の嘆願書を藩に提出したところ、藩はこれを差し戻してきていて、この閉塞状況を打ち破るために、このような強訴をしてでも、藩の法令のうち追加5箇条の分を撤回させることが必要であったのである。この一揆は、争点になった衣類の名を取って、「渋染一揆」(しぶぞめいっき)と呼ばれる。
その彼らの一揆嘆願書には、こうあった。
「(えた)ども、衣類有合之品、其儘当分着用致すべし、尤も新(あらた)ニ調(ととの)候儀は、無紋(むもん)渋染(しぶぞめ)・藍染(あいぞめ)之他、決て着用相ならず候様仰せつけなされ、恐れ入り奉り、下賤成ルる共に候得共、御田地御高所持仕、御年貢(おねんぐ)上納致、殊ニ非常ニ御備(そな)ニも相成居(あいなりおり)申者候得(そうらえ)ば、右体之衣類仰せ付けなされ候ては、老若男女至迄、情気落、農業守も打捨て申すべき程之義、心外歎歎(なげ)かしく存じ奉(たてまつ)り候。(著者不明『禁服訟歎難訟記』より)
ここに「」とは、我が国中世・近世における身分の一つ。「御田地御高」云々とあるのは、検地帳に定める石高の登録された田畑に見合う年貢をちゃんと払ってきてきているとの自己主張であった。また「非常ニ御備」とあるのは、非常の際に人馬などの動員にも応じた来たことを述べた。それなのに、この仕打ちを受けるとは何事でしょうか、との抗議なのであった。
この一揆においては、結局、藩の法令を撤回させることはかなわなかった。この闘いの帰結は、形の上では双方の痛み分けであったのかもしれない。とはいえ、藩側にそれを厳格な形で強制することを許さなかった、つまり実際には当該部分を空文化させた点で、被差別民側はかつてない運動の成果を挙げることができた。強訴の指導者の12名が囚われの身となり、うち7名が牢死に追い込まれた。残りの5名は獄中でなんとか生き延び、1859年(安政6年)釈放処分となった。ともあれ、当時の被差別民たちの人間の尊厳をかけての勇気と、緻密な戦略があわさったことで切り開いた意義は大きく、備前における「解放運動」の輝かしい一里塚といえる。
(続く)
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62『岡山(美作・備前・備中)の今昔』大正・昭和(戦前)時代の岡山(経済)
昭和の恐慌と不況の中での商品価格は、貿易の花形であった生糸相場を中心に大暴落となってゆく。また、世界恐慌の影響を受けて、同年をピークに生糸の輸出が減り出した。輸出に大きく依存する繊維産業については、地方の組合や中小の製糸業は減産を余儀なくされていく。
この間の生糸及び繭をみると、1934(昭和9年)~1935年(昭和10年)を100とする生糸の輸出価格指数は、1929年(昭和4年)222.3であったのが、1930(昭和5年)には145.1、1931年(昭和6年)に104.6に下げ、その後はやや盛り返して1932年(昭和7年)11.5、1933年(昭和8年)132.3となっている(「長期経済統計・物価」より)。
1934(昭和9年)~1935年(昭和10年)を100とする繭(j8)価格指数についても、1929年(昭和4年)170.6であったのが、1930(昭和5年)には76.0、1931年(昭和6年)に75.5に下げ、その後はやや盛り返して1932年(昭和7年)88.1、1933年(昭和8年)131.5となっている(「長期経済統計・物価」より)。
年平均の農家所得も、1929年(昭和4年)には1326円であったものが、2年後の1931年(昭和6年)になると650円に半減した(中村隆英「昭和経済史」岩波セミナーブックス)。
美作においても、真庭製糸は休業で従業員を大量解雇、井原町中備製糸は経営困難となって工場設備を競売に付された。勝間田製糸は鐘紡に、備作製糸は片倉へと吸収合併される。これで、岡山県下の製糸業は、郡是(京都府が本拠)、片倉、そして鐘紡の傘下に入ることで、資本の集中が進んだ。ここで郡是について説明しておくと、この会社は1916年(大正5年)には郡是(グンゼ、京都府何鹿郡(いるかぐん)で、現在の綾部市が本拠、操業開始は1886年(明治19年)、創業者は波多野鶴吉)の津山工場が営業を始めた。
この新たな生産体制の下で、個々の養蚕農家など小生産者は、大企業相手の従属的特約取引に入らざるをえなくなっていく。そのことによって、農家からの納入価格は抑制されてゆく。また、輸出価格を下げて国際競争力を高めるべく、大企業が種蚕を原料価格の安い沖縄、台湾、中国などからの輸入、交配させた新品種を特約農家に生産させるようになったのである。
1930年(昭和5年)、倉敷紡績万寿工場で女工621人が参加してのストライキが始まった。寄宿舎に住む女子労働者たちを中心に、賃金の2割の引上げと8時間労働の要求をはじめ、体の弱い者をねらっての解雇に反対するとともに、生理休暇が取得できるような保障や、寄宿舎の食費の値下げなどの要求も掲げていた。その後の成り行きについては、「ただちにスト参加者のたてこもる寄宿舎と外部の連絡は遮断され、倉敷警察署と県特高課が出勤してきた。結成後間もない倉敷一般労働組合がビラまきやビラ張りなどを行って支援した。10日間にわたる全工場のストライキも、会社側が切り崩しの一方で要求の一部をのみ、退職手当を支給するとの回答を引き出したが、警察の弾圧もあって、ついに争議を集結した」(岡山女性史研究会編「岡山の女性と暮らしー「戦前・戦中」の歩み」山陽新聞社、2000)とある。
1930年(昭和5年)、農業では、農産物価格が下がるということになった。日本市場には満州米、朝鮮米、台湾米といった外米が沢山入ってきていて、供給過剰を起こした。これを「農業恐慌」と呼んでいる。国内の農家の生産する米が不作になると、米は穫れない、売り渡しの値段は下がるで、農家の採算は悪化した。その後、東北地方の例外などによる不作、凶作が続いて、1938年(昭和13年)には、主食である米の国家管理を目的とする食糧管理法が制定された。
日本からブラジルへの移民は、日本政府の渡航費補助の開始により、1932年(昭和8年)に2万3389人のピークを記録した。これは同年の日本からの移民総数の85%に当たっていた。2014年秋現在、106年前に始まった日本人のブラジル移民により、今では同国の日系ブラジル人の総数は一切で約160万人だと言われる。これより先の1930年(昭和5年)、ブラジルではジェトゥリオ・ヴァルガスらによる革命が起き、臨時政府は同年12月「外国移民入国制限及失業者救済法」を制定して、農業移民を除く移民の入国を制限した。日本は、農業移民としてブラジルに行くということで、この措置の適用を免れる形で引き続き移民を奨励した。
それからは、年間移民数を、過去50年間の移民実積総数の2%までに制限したり、日本人医師の開業を禁止したり、国籍取得も制限するなど、厳しい移民政策になっていった。岡山県からのブラジル移民は1910年(明治43年)の31家族、119名が最初であった。それから1934年(昭和3年)まで移民はしだいに大きな流れとなってゆく。県内で移民の多い地域は、吉備郡、都窪郡、児島郡、御津郡、浅口郡などであり、吉備郡阿曽村にある民間団体、海外興業株式会社出張所などが移住の斡旋を行ったことになっている。
(続く)
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57『岡山(美作・備前・備中)の今昔』明治時代の岡山(自由民権運動)
その頃までの明治政府の主要ポストは、薩長土肥の出身者がほぼ独占していた。そこでこれによる専制政治を批判するとともに、早期の国会開設、地租軽減、政治的自由の拡張
などを求めて国民的政治運動が持ち上がった。
ゆえに、1874年(明治7年)1月12日、板垣退助ら民選議員が、当時の左院(当時の立法機関)民選議員設立建白書を提出した。これに始まる国会開設を初めとする民主化要求を掲げた運動が全国的にひろがっていく。1880年(明治13年)には、国会期成同盟が成立した。当時の板垣(1881年には自由党を組織)らの念頭にあったのは、いわゆる豪農や豪商、元士族の富裕層を中心に構成される議会であった。元士族においては、1877年(明治10年)の西南戦争の敗北以来、その没落が決定的になっていった。この運動は、時を経るに従い、新興ブルジュアジー(産業資本家階級)や一般農民の一部を巻き込んで、大隈重信(1882年に立憲改進党を組織)らの自由主義的な運動にも発展していく。やがて1890年の国会開設に繋がるこうした一連の運動の流れを、「自由民権運動」と呼ぶ。
1876年(明治9年)、北条県は合併で岡山県となったものの、県知事の権限が強く、政府の法律や規則などに縛られ、国への政治参加も限られていた。全国の自由民権運動の高揚に伴って、人民の政治的権利と人々の生活向上の願いが聞き入れられない状況が露わとなるに従い、岡山でも早期国会開設請願の署名運動などが進められていく。その岡山での自由民権運動の盛り上がりを伝えるものに、大衆演説会があった。1880年(明治13)11月22日付け『岡山新聞』に、こうある。
「作州津山辺では、市中を巡航せらるる一本筋の巡査のうちに、(中略)市中にて国会開設のことや、新聞雑誌の話などをしている者があると、これこれ其の方共は今何を話していたか、けしからぬ。隠さずと申し上げよ、とて、其の話していた事柄を聞糾(ききただ)し、住所姓名までたづねて手帳にひかえらるる」(『津山市史』第六巻)。
続く1882年(15年)4月27日、津山の二階町で開かれた自由大親睦会という名目での集会が、時の集会条例に抵触するとして即刻解散の憂き目にあう。のみならず、これに参加していた自由党美作部の党員が警察に連行されたとある(4月30日付け『山陽新聞』)。
ともあれ、こうして岡山の地では自由を求める運動が、官憲の望外に遭いながらも続けられていった。そして迎えた1890年(明治23年)7月の第1回の衆議院選挙で、岡山は7つの選挙区に分かれていた。美作でいうと、第六区からは立石岐(たていしちまた)、第七区からは加藤平四郎が当選した。同選挙後の1890年9月、立憲自由党が結成された。その旗印としては、皇室尊栄・民権拡張・内政簡略・対等条約・政党内閣実現などであった。翌1891年(明治24年)、立憲自由党は、岐阜で運動中に狙撃された、あの「板垣死すとも自由は死なず」で有名な板垣退助を総理とし、自由党と改称するに至る。
1878年(明治11年)には、府県会規則が制定された。同時に、郡区町村編成法、地方税規則が制定された。これらにより選挙による地方議会が発足したのである。選挙のやり方は、記名投票にして、選挙権は満20歳以上の男子で、地租5円以上を納める者に与えられた。県議会議員選挙規則も定められ、その翌年に県議会の選挙が実施された。とはいえ、ここに女性の参政権はおろか、男性も一定以上の地租を定める者でなければ、政治に預かれない、次の仕組みとなっていた。
「一、議員は郡区ごとに選挙で決める。
一、選挙人は、満二〇歳以上の男子で、その郡区内に本籍を定め、その府県内で地租五円以上を納めている者
一 被選挙人は、満二五歳以上の男子で、その府県内に本籍を定め満三年以上居住し、その府県内で地租一〇円以上を納めている者」(出所は、津山市史編さん委員会「津山市史」第六巻、明治時代)
1900年(明治33年)、衆議院議員の選挙権はその後、1900年(明治33年)に「直接国税10円以上の納税者」に改正され、有権者数はそれまでのほぼ2倍の98万人(2.2%)に拡大されたのだ。
(続く)
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114『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備前岡山(江戸時代以前)
備前の中心地・岡山へ通じる入口としては、さしあたり東西方向と北からのルートが一般的であった。古代のこの地域の地図を広げると、間近に海が迫っている。なので、南からのルートという場合には、後々の干拓なりを考慮する必要がある。1582年(天正10年)当時の岡山平野の南部一帯は、概ね平野であって、しかも東から西へ吉井川、旭川、笹が瀬川、そして倉敷川の下流域としてあった。
なお、1669年(寛文9年)から1686年(貞享3年)にかけての洪水対策工事で、吉井川と旭川の間に百間川(ひゃっけんがわ)が開削されている。それゆえこのあたりは、これらの河川が上流から運んできた土砂が浅い海に堆積してできた湿地帯なのであって、その先の湾(現在の児島湾)の向こうには、児島(こじま、現在の児島半島)が見えていた筈だ。1946年(昭和21年)から、国家事業で南部の干拓と敷地整備がすすんだ。これにより、1963年(昭和38年)までに約55平方キロメートルの土地を造成して、対岸の児島はついに地続きとなった。
それから数十年経た現在の岡山平野は、どうなっているだろうか。飛行機からの航空写真を観ると、画像を東西に横切って線状の構築物が走っている。北から順に山陽自動車道、山陽新幹線、そして国道2号線となっている筈だ。ここに山陽道(さんようどう)のかなり多くの部分は、これら3つの主要幹線とは、重なるところもあれば、少しばかり異なるところを通っていたとも言えるのではないか。
思い起こせば、江戸期までの山陽道は、「五畿七道」の一つとしてあった。この国の畿内と大宰府(だざいふ)を瀬戸内海沿いに連絡する主要な街道であった。この道は、備前国と備中国を、大方は平坦な道を通過していく。船坂峠で備前国に入る。三石、伊部を経由して、吉井川を渡り、一路、森下町の総門へと向かうのであった。
ところで、宇喜多直家(うきたなおいえ)による築城以前のこのあたりは、「岡山・石山・天満三峰そばたち、南は海にのぞみ、東西は広野也。北にわづかの里民有て出石村也朝夕の煙たつばかり也」ともいい慣わされていた。当時はまだ辺鄙な田舎であった。この直家という人物は、元はこの地の豪族であった浦上氏の家来であった。上道郡浮田の亀山城に居たのだが、東国の北条早雲に似てなかなかの策士であったらしい。その知謀をめぐらして次第に勢力を得ていく。そして1573年(天正元年)、彼は、現在の岡山城趾、西の丸あたりに居城していた金光宗高を謀殺してこれを奪い、自らの居城とした。
やがて直家が没し、その跡を継いだ子の宇喜多秀家(うきたひでいえ)は、豊臣秀吉の大いなる信認を得ていく。やがて、備前国、美作国、播磨国西半分と備中国東半分の57万4千石を与えられる。当時、直家の居城であった石山城の東となりの丘陵は、「岡山」と呼ばれていた。
秀家は、1594年(文禄3年)、その岡山の地に新しい城の本丸を構えることにし、以後8年間にわたって城の大改修を行う。この城づくりにおいて秀家が工夫したのは、多方面にわたっている。曰わく「秀家は本丸に高石垣を積んで天守を建て、直家の城下町を拡大して二の丸・三の曲輪(くるわ)として整備した。その普請工事は慶長2年(1597)に完成した」(木戸雅寿編集「城の楽しい歩き方」新人物往来社、2004)とある。どうやら秀家は、なかなかに土木と建築に長けた人物であったようである。
ところで、現在の岡山城下の地形的な特徴としては、旭川の小さな蛇行をはさんで、城と城郭、そして掘割が設けてある。その西と南の外側に城下町の中心があった。一説には、本丸の東の守りが手薄であるとして、旭川本流を城郭の北から東側に沿うように付け替えた。つまり、交通の山陽道(西国往来)を旭川の流れの南に迂回させて岡山城下に引き入れたというのであった。この通説は、1991~99年にかけての岡山城の地質調査によって覆った格好となっていて、次のように訂正されるべきだという。
「本丸の縁を流れる旭河は、宇喜多秀家がはるか東方を流れていた旭川を付け替えた結果とされてきた。しかし、下の段南東部で高さ一六メートルと関ヶ原合戦以前では全国屈指の高さを誇る秀家期の石垣の基底を掘ると、石垣より古い一六世紀代の河道堆積層が見つかった。秀家以前から今とほぼ同じ位置に旭川がすでに流れていたのである。秀家が行ったのは、当時あったいくつかの河道のうち一つを選んで美顔を施し旭川を固定したこととみられる。」(木戸雅寿編集「城の楽しい歩き方」新人物往来社、2004)
もしこれが事実なら、秀家は既に在った旭川の分流の中から一つを選んで土手を積み上げ、大きな流れとなるように変更したのではないか。また一説には、旭川を城下北方で二流に分けて洪水に備えたのだとも言われているので、ここでの断定は避けたい。
この城普請の後は、東から来て岡山城下に入るには、備前(現在の備前市)の方から当時の山陽道をやって来る。現在の国道2号線(旧山陽道)を北東から南西に辿って歩いてくる。そのうちに旭川東岸にあった森下町にたどり着く。当時のそのあたりはまだ、城下町の外延部と言ったところか。
それから古京町へ移る。森下町の土地柄は、元はといえば備前の国上道郡国富村に属していた。それが、桃山時代の天正年間に、城下町の山陽道東入口として位置づけられたのだと考えられる。そこに相生橋が架けられてからは、旅人はその橋を渡って城下に入ることもできた。旅人がこの橋を渡ったところは現在の内山下(うちさんげ)地区である。そこには既に城下が展開している。
その頃、東の方からやって来て岡山を通り抜けようとする旅人のかなりは、むしろ森下町、古京町と旭川東岸を下って、門前屋敷町を通っていたのかもしれない。やがて旅人の視界に国清寺の大伽藍が入ってくる。その前を右折してからは直進して、旭川の長い中州に架かる京橋を西へと渡る。1847年(弘化)この橋が駆けられた時に描かれた木版画が残っている(岡山市立図書館蔵「国庫文庫の中の「京橋渡り初めの図」」として)。
そうして旭川を人びとが渡った先は、京橋南町、その北は西大寺町が展開していた。かけ彼らのそれからの進路であるが、山陽道をなお西へ進んでいく。一宮を経て西辛川で備中国に入る。板倉宿を過ぎて、備中国分寺を見る。それからは高梁川を渡り、川辺宿に到る。さらに古の国分寺の立っている吉備へと歩を進め、本陣の残る矢掛(やかげ)を過ぎ、井原(いはら)を過ぎて、さらに隣国の安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)へとつながっていく。
そこからの城造りは、関ヶ原の役で西軍に属し敗走した秀家に代わって、1601年(慶長六年)小早川秀秋が引き継ぐことになる。秀秋がつくったものに外堀がある。こちらは、西の丸及び二の丸の外周にある内堀、三の曲輪、さらに中堀、三の外曲輪とあって、それのさらに外側(西)にあった。秀秋と言う人は、城造りには長けていたらしい。というのも、彼はこの外堀を二十間(一間は約1.8メートル)に造成したと伝えられており、別名「二十日掘」とも言われてきた。その名残が、現在の市内中心部を南北に貫く柳川筋に残っている。ところが、その秀秋は岡山に入封するも、わずか二年で病没し、継嗣のいない小早川家はあえなく断絶となる。
替わって入城した池田光政の二男忠継が備前一国31万5石を江戸幕府から扶持されて入封した。その後の1632年(寛永9年)に鳥取から親戚筋の池田光政が入城すると、さらに城造りに磨きをかけていく。その最たるものが大名庭園であって、1686年(貞享3年)家臣津田永忠を奉行に任じて造らせる。それから14年後の1700年(元禄13年)に、一応の完成を見たと言われる。明治維新が来るまでは「茶屋屋敷」ないしは「後園」と呼ばれていたものが、1871年(明治4年)からは後楽園と称される。
第二次大戦後にかなりの城郭が再建されてからの、特に池を経て視界に岡山城天守を取り入れた借景には、全国でも第一級の風情があるのではないか。かつての支配者達が贅(ぜい)を凝らした造りをして栄華もしくは風雅等々を愉しんだとされる岡山城そして庭園も、今では庶民の憩いの場となってその美を受け継がれている。
(続く)
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61『岡山(美作・備前・備中)の今昔』大正・昭和(戦前)時代の岡山(米騒動)
1918(大正7)年7月、漁師の妻らが米の北海道への移送の中止を求めて、富山県の魚津港の米倉へ押し寄せた。これが発火点になり、富山県内の水橋や滑川を経て、全国規模に拡大した。この発端の事件を「越中(えっちゅう)女一揆」と呼ぶ。富山での、この事件の勃発から始まって、一両日の間に全国津々浦々に広がっていくスピードぶりであった。同年7月22日から9月17日までの間、全国において米騒動が発生したところは49市448町村あったうち、岡山県は1市、50町村、計51市町村に跨っていて、広島県、島根県などと並んで全国トップレベルの発生件数であった。
岡山市における米を巡っての騒擾(そうじょう)については、こんな報道がある。
「岡山精米会社の特等白米は、暴騰また暴騰ついに五十円七十銭(一石)となり、市民一般さんたんたる状態におちいりたる折柄、岡山市内山下・吉田石蔵(三八)、森下町・水沢三太郎(三六)らは十数名の若者と語らい隊を組みて、九日午前九時半岡山米穀取引所におしかけ、立会の終わるのを待伏せ、貧乏人の敵だ、たたき殺せとわめきたて、鉄拳をふるって仲買人らに喰ってかかり、客筋連はろうばいして逃げまよう騒ぎに、数百人の群衆、喧曄の渦にまきこまれ、口々に『仲買人は人類の敵だ』と絶叫し、アワヤ一大事に及ばんとしたり。急報に接し、岡山署にては各駐在巡査を召集し、署員また現場へかけつけ、ようやくにして取りしずめ、警察署へ連行した。」(1918年8月10日付け「大阪朝日新聞」)
美作においては、どんな様子であったのだろうか。その美作では1918年8月8日の深夜、落合町から騒動が始まり、翌9日には、津山町の南新座の米屋が春に一升25銭であった米の値段を同49銭に引き上げるとの知らせが入った。これに怒った人々は、10日になると、それぞれの役場前に集まって気勢を上げたり、米屋などに押しかけた。久世地方では、大勢の民衆が集結して輸送中のコメを襲撃した。騒動は美作一円に広がりつつあったものの、11日になって安い外米の買付け交渉が実り、神戸から千俵が入ったことで安売り放出するに至り、かろうじて役人と商人達は難を逃れることができた。なお、当時の津山町はま市制が敷かれていなかった。これが敷かれたのは後の1929年(昭和4年)のことで、津山町と西苫田村、二宮村、院庄村、福岡村の一町4か村が合併して、津山市が誕生した。同年、勝北郡と勝南郡とが合併して、勝田郡が誕生した。
さしもの政府も人民大衆の怒りを緩和するための対策に乗り出す。その一環として同年10月には、米穀輸入税減免令の措置がとられた。同年11月の休戦によって、日本経済は「反動不況」に入っていく。
(続く)
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82『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山から総社・倉敷へ(戦国時代から安土桃山時代)
さて、ここで備中の領有については、近世になって大いなる変動期を迎える。1582年(天正10年)、織田信長に毛利攻めを命令されていた羽柴秀吉は、三万の軍勢で備中国南東部に侵入し毛利方の諸城を次々と攻略していた。その中でも頑強な抵抗を見せたのが備中高松城の城主清水宗治であって、秀吉は利をもって降伏するよう勧めた。しかしながら、義を重んじる宗治はこれに応じることなく、城に立てこもった。
ところで、この地は、現在の地理でいうと南に山陽本線と山陽道という、日本の大動脈が走っている。それでいうと岡山から西へ庭瀬、中庄、倉敷と来て、そこからは伯備線に乗り換えて清音(きよね)、総社(そうじゃ)へと北西方向に向かう。川辺の堤防をぬけると、いよいよ高梁川にとりつく。この川を渡って清音の堤防の坂を下ったところが、伯備線の清音駅になっている。これより総社地区に入る。履く備前のさらに北にあるのは、吉備線と国道180号線であって、吉備線の岡山から発して、西に向かって三門、大安寺、一の宮、吉備津そして備中高松とやって来る。備中高松から西へは、足守川を渡って直ぐの足守、服部、東総社と来て、列車は総社へとすべり込んでいく。現在のおよその行路はこのようなのだが、総社に入って最初に現れる川こそが、この戦国末期の戦いに際し、攻防に大きな影響を与えたとされる足守川(あしもりがわ)なのである。
この地この時、秀吉が黒田勘兵衛の入れ智慧でとったとされる戦術の名は、「水攻め」なのであった。この周りの線に従っては、当時毛利方の援軍四万がぐるりと楕円陣を北向きに構えていた。そのあたりから北に向かっては、丁度すり鉢のような地形になっていて、それをぐるりと鳴谷川、長良川、血吸川などの小さい川がその周りを取り囲むように経由して、やがて合流する足守川の方へと向かって流れている。地質学者の宗田克己氏による推理(「私考」)には、こうある。
「高松城は当時沼の城として、低湿地の城として、中央に築城されその要害を誇っていたのであるが、これが近くに足守川という天井川があってのもので、もしも堤防が決壊でもすれば、簡単に浸水することに気がつかなんだらしい。これは私考であるが、このあたりは50ミリの雨で水田が冠水するほどのところであるので、秀吉の攻め込んだ時ももう一帯が冠水していて、それに長雨をたたられ、秀吉にしてみれば手も足もでなくなっていたところ、ふと思いついたのがいっそのこと、もっと浸水させて城に水が乗るまでにしてやろうと、足守川の堤防を決壊して見ずを仕掛けたまでのことで、歴史に伝わるほど秀吉は大したことをしでかしたとは考えていなかったのであろうと思う。」(宗田克己「高梁川」岡山文庫59)
たしかに、梅雨時ともなればこれらの川らかは水かさが増し、ただでさえ湿地帯になるというのがふさわしい地形ではある。その湿地帯の中心部にある城に向かって、北西方面から下ってきて、そこからは西から東へと流れているのが立田川であって、この川の丁度、現在の吉備津駅と備中高松駅とに位置する「蛭ケ鼻」を羽柴軍が堰き止めた。高いところでは「7メートル」とも言われる土塁でぐるり囲んだという。そうなると、降りしきる五月雨は湿地帯の真ん中につくられていたこの城の周囲に溜まるばかりであった。人が自由に身動きできない状況をつくり出したことにより、毛利の軍勢は孤立無援と化した高松城の援軍に駆けつけることができなくなってしまった。
その両軍にらみ合いの最中の本能寺の変により、主君の信長が殺されたのを知った秀吉は、急遽毛利と和睦した。その停戦協定には、「高梁川より西は毛利、東は宇喜多」の支配下に入ることが記されていた。美作ではその後も、宇喜多の支配を拒む勢力が反旗を翻したものの、すでに態勢は決まったも同然で、1584年(天正12年)秋までには美作全域が宇喜多に帰した。
このあたりを舞台にしての作り話ではに、『桃太郎伝説』が名高い。この話の主人公の桃太郎は、桃から生まれた。だから、そのような人間はいる筈がない。それでも人として振る舞い、また動物たちを家来に従えて旅する訳なので、そのことに例を借り、処世訓なり現世への戒めなりを印象深く人民大衆に訴えたものと考えられよう。いまこの話の原型ができたといわれる、室町時代の中盤から末期にかけてを振り返ると、「戦国時代」や「下克上」(げこくじょう)とも形容される、油断ならない状況であった。この政治的混沌の時期には、『かちかちやま』や「舌きり雀」などの寓話も作られた。私たちの『桃太郎』伝説も、この時期に出来上がったと考えられている。前者の物語からは、同時代の殺伐たる空気が読み取れる。
実は、2016年春から、吉備線の愛称というか、別名というか、それがJR西日本の提案で「桃太郎線」と呼ぶことになる。それにしても、「桃太郎線」が、なぜここに登場してくるのであろうか。それこそは、ミステリーであるのだが、確かなところは分からないのが現状だ。ともあれ、話はこの国の中世から近世までに遡る。結論から言うと、前に述べた吉備津彦命と鬼の戦いの伝説が、別にあるところの桃太郎の寓話(ぐうわ)と結びついて、その結果『桃太郎』伝説が生まれたのではないかと。この二つの話を結びつけた立役者としては、岡山市の彫塑(ちょうそ)・鋳金(ちゅうきん)家の難波金之助(1897~1973)であって、彼は先の大戦前から「桃太郎会」を結成して吉備津神社を参拝したりで、両者の結びつきを大いに宣伝したとのこと。戦後になると、「桃太郎知事」と呼ばれ三木行治が岡山国体(1962)のシンボルに採用、そのあたりから行政も入っての「おらが国の桃太郎話」が喧伝されるようになる(詳しくは、例えば2016年6月4日付け朝日新聞、「みちものがたり・吉備路(岡山県)」)。
だが、物事、馴れないところで具体的な選択肢を伝えるには、先ず話の筋道を整えることが大切であって、何よりもこの寓話に込められた「凄惨さ、残忍さ」をぬぐい去る仕掛けが必要であった。案の定、岡山人がこの寓話を導入する時には、そうはうまくならなかった経緯があるようだ。そのためか、吉備線のみならず、宇野線の名称においても、また地元の人たちに提案があった模様。提案を受け手の地元の反応は、前向きのものではなかった、とも言われる。その理由としては、桃太郎寓話と容易に結びつくのではなく、「唐突感」があったからではないか、勝手に想像するのだが。
それでは桃太郎話の未来を切り開くには、どうしたらよいのであうか。そのためには、例えば、あの勇ましく、軍隊調の歌をなんとかしなければなるまい。全部をご存知でない方もおられるかと、歌詞には、こうある。
「1.桃太郎さん、桃太郎さん。お腰につけたキビダンゴ。一つわたしに、下さいな。
2.やりましょう、やりましょう。これから鬼の征伐に。ついて行くなら やりましょう。
3.行きましょう、行きましょう。あなたについて、どこまでも。家来になって、行きましょう。
4.そりゃ進め、そりゃ進め。一度に攻めて攻めやぶり。つぶしてしまえ、鬼が島。
5.おもしろい、おもしろい。のこらず鬼を攻めふせて。分捕物(ぶんどりもの)をえんやらや。
6.万万歳、万万歳。お伴の犬や猿キジは。勇んで車を、えんやらや。」(作詞:不祥、作曲:岡野貞一氏による歌詞)
この歌については、あたかも、ほのぼの、ほかほかとした、血の通った「鬼退治」として、前向きの印象を持たれる人が多いのかもしれない。ところが、中身は相当に異なっている。1~3番目は、違和感はあるものの、まあ、普通の範囲内だろう。だが、それの歌も4番目、5番目の歌詞へと進むにつれ、なんだか様子が怪しくなっていく。最後では、主観としては、何というか、ガチガチという位に固くなだ。だから、おしまいまで歌う気がなくなってしまうのだ。なにしろ、岡山県人にとっては、子供の頃からの、余りに身近な歌なものだから、多分にこれまで幾たび歌ったか、数え知れない。それでも、なんだか寂しい気がしてならない。
この作り話の由来は、万物を干支(えと)でもってあてはめようという、陰陽五行説と関わりがあるのかもしれない。江戸期までには、今日に知られる全体の構成が出来上がったらしい。この物語は、鬼門の「丑虎」(うしとら)に対して、従わない者と見立て、力をもって征伐を加える構成になっているのは、室町以来の伝統を非木津って居るのかもしれない。しかも、桃太郎一人で征伐したのではなくて、猿や鳥や犬を黍団子の半分ずつを与え、彼らのやる気を引き出したことになっている。一部には、この話の発祥を岡山の吉備の里に見立てる向きもあるものの、元々はそうでなかった。その種の話は、日本全国に散らばっているとみる方が道理にかなっているのではないか。あわせて、全国で新規まき直しの話の伝わっていた愛知・犬山や高松・女木島(めぎじま)の『鬼ヶ島』洞窟話とも
連携するなどして、12世紀を見据えた平和を愛する桃太郎話の構築に努めたが良いのだろう。
(続く)
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5『岡山の今昔』倭の時代の吉備(大和朝廷の支配下へ)
では、吉備国の政治的な位置関係はどうなっていたのであろうか。そして、どのように変化していったのであろうか。かつて吉備の国の勢力が及んでいたのは、現在の岡山県全域と広島県東部(備後)を含んだ肥沃な地帯である。古代の吉備の国の繁栄ぶりを物語るものに、濠を持つ広大な前方後円墳が遺されていて、その威容は大和の古墳群と似通っている。他の天皇陵と比べても見劣りしないだけの規模があるのが少なくとも2つある。他の地域と変わったところでは、畿内の箸墓古墳との関係があったのか、ここからは「弥生時代後期に吉備地方で発生し、葬送儀礼に使われた特殊器台と特殊壺が出土した」(小川町「小川町の歴史・通史、上巻」)と言われる。
その他にも、大規模な陵墓がかなり高梁川下流部などに集中している。今までの発掘で、これらの古墳の被葬者の大半は判明していないようである。これまでの発掘でどのくらいの事実がわかっているのかも判然としない。それとも、発掘の時点で既に宝物もろとも盗掘されていたのか、それともどこかへ多くのものが移動されたのだろうか。
吉備の中山の西麓(現在の総社市)には吉備津神社が建っている。そこでは、吉備津彦命(きびつひこのみこと)などを祀る。この人物の名は、『日本書紀』の「崇神天皇」の事績の中に登場している。
「十年秋七月丙戌朔己酉、詔群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以詔之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。」(『日本書紀』中の「巻第五御間城入彥五十瓊殖天皇崇神天皇」)
ここでいわれる崇神大王が実在の人物であったならば3世紀初め(210年頃か、とも言われる)とも目されるものの、当時の倭(わ、やまと)は『魏志倭人伝』による邪馬台国連合の時代であり、実在の可能性が薄いとみざるをえない。
また、この地の北方の山(現在の総社市)に大いなる「鬼ノ城」(きのじょう)と呼び慣わされた古代城趾がある。21世紀に入ってからの総社市や岡山県の発掘調査により、築造年代が7世紀の第4四半期に遡ること、石敷きの城門や土塁に守られた外郭線が張り巡らされていたことが明らかになってきた。この山城は、瀬戸内に沿った大和朝廷の防衛線の一つに位置づけられていたのではないか。その意義について、向井一雄氏は、こう述べておられる。
「外寇の危険が去った後もしばらく瀬戸内の山城群が維持・改修されていた理由として、吉備地域勢力との政治的決着ー令制化推進があったとみたい。吉備中枢部に築かれた鬼ノ城は「有事籠城型」のプランを取りつつ、「視覚的効果」を狙った外郭線を持つ新時代型の山城として整備されており、上記施策の象徴的遺産といえよう。」(向井一雄「よみがえる古代山城」吉川弘文館、2017)
この地に城が築かれるいきさつが、白村江(はくすきのえ)の戦いの敗北後の外敵に対する防衛ラインに、直接に結びつくものであるかどうかは、わからない。それでもこの城が築かれたのには、倭(倭)朝廷にとって吉備国(きびのくに)を監視する必要があったことを覗わせるものではないか。
しかも、この地は米などの穀物のほか、たたら鉄や塩を作っていたことがわかっている。中でも鉄は、上代から美作や備中の山岳の麓・川沿い地帯を中心に手広くやられていたことが伝わる。『延喜式』の巻二十四、主計帳には、美作国の租庸調(そようちょう)のうち「調」の一つとして砂鉄が挙げられる。平安時代末期(1130年前後と推測される)に編纂された『今昔物語』にも「今昔、美作の国、○多軍鉄を採る山有り。阿倍の天皇の御世に、国の司○云う人、民十人を召て、彼の山に入れて鉄を令掘(ほらし)む」(巻十一~十四、本朝、仏法に付く)とある。
実際には、川の流れを使って土砂の中から砂鉄を採取し、これを「たたら」と呼ばれる溶鉱炉に入れて精錬する。ここに砂鉄というのは、主に山砂鉄を用いることになっていた。それにはまず、砂鉄の含有量が多そうな場所を探す。山間には、切り崩せる程度に風化した軟質花崗岩などが露出している場所がある。もちろん、そこから手づかみで砂鉄を取り出すのではない。そこで、水洗いのための水利に恵まれた場所を選ぶ。そして鉄穴場と呼ばれる砂鉄採取場を設ける。それから、できれば川の流れに沿って上流に貯水池を設け、その水が山際に沿って走る水路をつくる。山を労働者がツルハシで崩して出た土砂はその流れに乗って下り、下手の選鉱場へ運ばれるという案配だ。この水路を「走り」と言う。下手の選鉱場(洗い場)は3~4か所の洗い池に分かれていて、そこに溜まった鉄分を採取することになっていた。この一連の作業の流れを「鉄穴流し」と呼んでいた。
後半の工程としての精錬だが、まずは粘土で固く築いた箱型炉(たたら炉)の中に、原料の砂鉄と補助剤の木炭を交互に入れる。それから、木炭に火を点け、たたらふいご(天秤ふいご)を使って火力を上げる。具体的には、戸板状の踏み板を片方に3人ずつ、両方に分かれ、まるでシーソーのように交互に踏み込むことで送風する仕組みだ。昔からの力仕事の一つとされ、勢い余って、空足(からあし)を踏むことを「たたらを踏む」との例えがある。
時間が経つとともに、砂鉄が溶けて還元(木炭を燃やすことで砂鉄に含まれる酸素が飛ぶ、奪われること)されていく。この作業は、通常約60時間も続けることになっていた。それが済んだら、今度は炉を破砕し、炉の底にたまった灼熱と化した「けら」と呼ばれるものが出来上がっている、それを取り出す。これを「けら出し」と呼ぶ。ところが、こうした一連の作業によって砂鉄の採取の現場には大量の土砂があふれ、炭を作るための山林伐採で付近の山は禿げ山になってしまう。地盤も弱くなって、総じて環境に重大な影響を及ぼすのである。とはいえ、それだけの代償に鉄製の武器や、備中鍬などの農具を作ることができ、黍の勢力拡大に大いに役立ったことであろう。歌にも、「真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ」(『古今集』)などとある。
今は松風そよぐ吉備の古代路は埋もれた形だが、古墳時代の吉備地方には、単一の権力基盤ではなかったのかもしれない。畿内大和の地にある、古墳時代前期と見られる前方後円墳と吉備地方にある古墳群との関わりは、何かあるのだろうか。およそ3世紀後半より4世紀初頭に造営されたと見られる纏向(まきむく)型の前方後円墳の分布ということでは、寺沢薫氏の『王権発生』(2000年刊行)に纏向(まきむく)古墳群のうち石塚、・ホケノ山、東田大塚、矢塚を平均した大きさを1とする対比が載っている。そして吉備国には、この類型に属する四つの古墳があるという。西の方から数えると、まず楯○、これは纏向(まきむく)型の原型とされ、2世紀末の造営と見られる。宮山は三世紀中ごろで、規模は4分の1、庄内式に分類される。中山は1.2倍あり、矢藤治山は3分の1の規模となっている。
これらのうち、最大規模のものが岡山市吉備津にある茶臼山中山古墳(ちゃうすやま中山こふん)であり、墳長は約120メートル、後円部の直径は約80メートル、後円部の高さ約12メートル、前方部の長さは約40メートルである。こちらは、古墳時代前期の3世紀後半から4世紀前半にかけての造営とも云われる。ただし、岡山市のホームページにおいては、「本墳の時期を決めるのは、現状の資料だけからでは困難であるが、もし最古の前方後円墳でなかった場合、足守川流域では最古の前方後円墳が少なく、かつ貧弱だったということになる。
弥生時代後期の足守川流域では、多くの集落遺跡や墳丘墓を築いており、一大勢力を形成していたと考えられる。最古の大形前方後円墳が存在しないとすれば、そこに大きな歴史的意味があるといえる」(2016年6月松現在)と述べられる。このことから、纏向(まきむく)古墳(現在の奈良県桜井市)に類する型の前方後円墳と決めてかかるのは時期尚早とも考えられる。現在も、大吉備津彦命(きびつひこのみこと)という伝説上の人物の墓ということから宮内庁の管理下にあり、立ち入ることができないことになっているとのことだ。しかしながら、倭(大和)朝廷の大王陵墓でないのなら、管理を岡山県に移してもよいのではないか。
彼らは、これ以後の律令政治への展開の中にだんだんと組み込まれていく。後の日本になってからの『日本書紀』などに従えば、6世紀中頃の555年(欽明大王16年)、吉備の五郡に白猪屯倉(しらいみやけ)を置いた。翌556年(欽明大王17年)には、後の大和朝廷が大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがいなめ)を同地に派遣して、備前国児島郡に児島屯倉(こじまみやけ)を設けることを承諾させ、葛城山田直瑞子(かずらきのやまだのあたいみずこ)を田令として派遣した。ここに屯倉とは、「御」を表す「ミ」と、「宅」ないし「家」を表す「ヤケ」の組み合わせた直轄地のことで、地方豪族の所領の中にヤマト朝廷への貢納・奉仕の拠点と、これに附属する耕田を手に入れた。朝廷への貢納と奉仕を負わされた「部」の制度とともに、それからの民衆支配の根幹をなすものとして全国規模でおかれ、進行していった。この政策を朝廷(欽明大王の下)で推進した中心人物としては、蘇我稲目(そがいなめ、彼が政治の表舞台に登場するのは6世紀前半のことであり、没年は570年)が知られる。
これらのことを踏まえてか、故郷の『津山高校百年史』(下巻)での筆者は、これらのことから「五世紀後半の吉備への大王家の対応を想像するならば、南部の中枢にいた大首長に対しては軍事的な圧力によって、周辺の中小首長に対しては吉備中枢に対する自立を促す形で積極的に大王家の官僚組織に取り込むことによって、大王家にとって脅威であった吉備というまとまりの分断、弱体化を謀っていったものと考えられる」(岡山県津山高等学校創立百周年記念事業実行委員会百年史編纂委員会『津山高校百年史』(下巻)1995年刊)との、大胆な見解が提出されている。
一方、美作の久米・大庭・勝田(かつまだ)、江見の辺りを治めていた豪族達は、大友皇子(おおとものおうじ、天智大王の長男にして太政大臣)の進める中央集権化の政治に反発して、はやばや吉野方の大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)に加勢した。美作の豪族、地侍たちは、当時吉備の国からも圧迫を受けていた。とすれば、吉野方に加勢すれば美作の国としての旗挙げができる、いまがその潮時だと意気込んだのかもしれない。
(続く)
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115『岡山(美作・備前・備中)の今昔』備前岡山(江戸時代)
1603年(慶長8年)、今度は、徳川家康の孫の池田忠継が備前28万石の太守に封ぜられる。しかし、幼少であったため兄の利隆が代わって藩政を執った。忠継没後、弟の忠雄が継いで藩主となって、岡山城の整備を続け、彼の代で今日に残る岡山城の威容が完成した。このとき藩の石高も31万5200石に落ち着く、正に瀬戸内の雄藩としての位置づけを与えられたのである。1632年(寛永9年)に忠雄が亡くなると、その後を継いだ光仲は幼少のため、池田氏一族内での系統の入れ替えの幕令が下る。それからは、従兄弟にあたる鳥取藩主・池田光政(いけだみつまさ)と交代して鳥取へ移り、以後明治維新を迎えるまで、岡山藩32万石は光政の子孫(系統)の池田家によって治められていく。ここに光政は、姫路城を築いた西国将軍・池田輝政の孫で、父・利隆の跡を継いだ翌年に姫路から鳥取へ転封されていた人物である。
さて、江戸期に入ってからも城造りは続いていく。それが、池田家によって一応の完成を見る。岡山城二の丸跡には、次の説明板が設けてある。
「岡山城郭について
岡山藩の城府である岡山城郭は、戦国大名の宇喜多秀家が一五九〇年代に築城し、以後の城主の小早川秀秋や池田家に城普請が引き継がれ、四代目城主の池田忠雄の時(一六ニ〇年代)に完成をみました。
二の丸跡に立てられている説明板によると、「城郭の構成は、本丸を中心にして一方に郭の広がる梯郭式の縄張りになり、本丸・二の丸内屋敷と二の丸・二郭からなる三の曲輪と三の外曲輪の、三段構えの六区画から成り立っています。ー中略ー。三の曲輪と三の外曲輪は、城下町にあててあり、内側には町人町を設け、外側に侍屋敷を配して城郭周辺部の固めをなしていました。城郭は、東西約一km(キロメートル)・南北約一・八kmの規模になり、背後を旭川の天然の要害で固め、縄張りの各区画が堀で区切られ、二十日掘と呼ばれる幅約三十m(メートル)の外堀が城府を画していました。」(以下略、昭和六〇年二月、岡山ライオンズクラブ、監修岡山市教育委員会)
これにあるように、完成した岡山城の間取りは、本段、中の段、下の段の三段造りとなっている。中の段の北に本丸が聳える構図だ。正保年間(1644~1647年)の備前国岡山城絵図を基にして描写)の絵図を見ると、城郭の北から東にかけては旭川が西から東へと張り出した格好となっている。そして西から南にかけては内掘で囲んでいる。南ないし西が大手門の方向とされ、いわば城の玄関というところか。
本段には、天守と藩主が日常生活を送るための本丸御殿が配されていた。そこに五重六階の天守が立ち、あたりをぐるりと見渡すことができていた。珍しいのは、天守台の張り出し具合に合わせる形で下層が不等辺多角形、上層が正方形となっている。天守閣の他にも、「櫓一八棟・多聞櫓六棟・城門一三棟、さらに御殿・表書院・鉄砲蔵・金蔵・長屋な
どの建物が立ち並んでいました」(岡山城二の丸跡の説明板、昭和六〇年二月、岡山ライオンズクラブ、監修岡山市教育委員会)とある。1873年(明治6年)の廃城令により御殿、櫓そして門の大半が取り壊される。続いて1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲で、、江戸期からの天守と石山門は、焼け落ちた。戦後になって、天守、不明門、廊下門、六十一雁、木の上門、上屏の一部などが再建される。中の段には、広間や台所を備えた大きな建物が配されていて、「政庁」を構成していた。その区画には、藩主の公邸ある表書院の御殿も建てられてあった。そして下の段には、あれやこれやの蔵や藩主遊興の建物などが所狭しと並んでいたらしい。
さて、このような城郭をもった岡山城下町の規模はどのくらいであったのだろうか。1707年(宝永4年)の史料に基づくと、武家が約2万3千人、町人は約3万人であったといわれ、山陽路では屈指の規模であったようである。これに周辺の町・村名と同じ町名が幾つもある城下町も類例を挙げればきりがない。岡山城下の西大寺(さいだいじ)町・児島(こじま)町・片上(かたかみ)町などもこういった町名の由来であるが、それぞれ上道(じょうどう)郡西大寺・児島郡郡(こおり)(いずれも現岡山市)、和気(わけ)郡片上(現備前市)から城下への移住による故これらの名称となったことが覗われる。
城下町の詳細な区割りと方向性は、どうなっていただろうか。そして現在の街割り、町筋などとの関わりはどうなっているのだろうか。江戸期の地図については、色々と残っている。その中でも元禄時代(1688~1707年)の古地図によめと、五重の掘に囲まれた城郭と、南北に三・五キロメートル、東西に一・三キロメートルに及ぶ城下が広がる。
また1863年(文久3年)の「備前岡山地理家宅一枚図」(池田家文庫)」があり、彩色の上、町屋の町名も逐一記載されている。
いま江戸末期の地図を広げて見る者には縦に細長い。同図を城のあるところから西へとたどっていくと、一番内側の内掘が設けられている。この内側には、南側と西側にかなり広範囲に城下が広がっていた。そして今は、この内側に丸の内、内山下とある。現在の丸の内はオフィス街だが、日本銀行などの官庁もある。内山下は津山城下などでも広く見られる地名で、城の周りの「山下」の中でも、内堀の中川に当たる部分を指して言われる。こちらの旭川沿いに現在の岡山県庁が鎮座している。そして江戸期の内堀の外側には、[伝旧本]や[石山]、[西の丸]といった城割りがほぼ平行して並んでいた。この「二の丸には、櫓一六棟・南側の大手門を含めた城門一〇棟を始め、殿舎・長屋・土蔵・評定所や勘定所などの役所、さらには重臣クラスの邸宅や武家屋敷が配置されていました」(岡山城二の丸跡の説明板)とあり、往時にはさぞかし重厚感のある景色が広がっていたことを覗わせる。
さらに「三の曲輪と三の外曲輪は、城下町にあててあり、内側には町人町を設け、外側に侍屋敷を配して城郭周辺部の固めをなしていました」(岡山城二の丸跡の説明板)とある。こちらは、武家と言うより、むしろ町人町であったというのが、ふさわしいのではないか。今度は、現代的の此のエリアにやってくる多くの人達がそうであるように、岡山駅のあるところから出発してみよう。
1886年(明治19年)、私鉄として神戸以西に鉄道をつけようという計画が関西の財界を中心に持ち上がる。その話が続いての2年後、藤田伝三郎を発起人代表として、山陽鉄道株式会社が認可設立される。そこでは、全線を神戸~岡山、岡山~広島、広島~下関の3区間に分割し、各区間3ヵ年で完成する計画が立てられる。最初の区間のうち、神戸~姫路間の53キロメートルは、1888年(明治21年)12月に開通した。しかし、翌年の凶作による不況から工事用資金の調達難におちいるなど、資金を得るには困難さが増した。他にも、岡山県内では西大寺や玉島などの河川水運と海上交通の接点として栄えた町が、鉄道敷設による用地買収などに消極的であったことが挙げられる。そのため、これらの町を外して北寄りに路線を敷いて工事を進めるなどの計画の手直しがなされたことがある。
それでも1891年(明治24年)3月までには、岡山までの89キロメートルが開通し、更に9月までには福山まで開通した。その後もなんとか工事が進んで、1894年(明治27年)6月には神戸~広島間の全区間127キロメートルが開通したのであった。この東西ルートに続き、江戸期からの「津山往来」のルートに沿って南北を結ぶ鉄道を通す話が、中国鉄道という会社の設立と絡んで進められる。そして1898年(明治31年)12月に開業する。中国鉄道の駅として岡山駅に隣接してつくられた。明治末期の撮影に「岡山市」駅が写っている。この駅は、1904年(明治37年)に岡山駅に統合された。
城下町の頃の町人町の中心部はどこであったのだろうか。だが、現在の岡山市の中心市街地のあるところは、かなり広範囲に及ぶ。数ある町の名前や通りの中には、江戸期からのものもあるし、明治以降のものもあるのだろう。めずらしいところでは、例えば、中心市街地にオランダ通りという、めずらしい名前のついた通りがある。これは、表町商店街のアーケード通りに平行して位置している。現在では、南北1キロメートル程度の通りに、ブティックやギャラリー、飲食店等が並んでいる。1998年には、電線の地中化や、車道にレンガを敷き、屈曲化して歩道と接するようにするなど、歩行者優先のおしゃれな街路に切り替わった。
名前の由来は、1845年(弘化2年)、ドイツ人医師のシーボルトの娘、楠本いねが、この地で医者修行を始めた。いねは、長崎の出島にやってきていたオランダ人医師のシーボルトと長崎の遊女「お瀧」との間の娘であった。彼女が2歳の時、父親のシーボルトはシーボルト事件を起こして国外追放になってしまう。その後の彼女は、シーボルトの門下生達によって養育され成人する。そのシーボルトの門下生の一人、岡山勝山藩の石井宗謙に岡山の地(現在の岡山市下之町界隈)について医学を学ぶ。1845年(弘化2年)から1861年(嘉永4年)まで6年間学んだ。いねは、師の石井宗謙との間に娘一人を設けたが、結婚はしなかった。宗謙と分かれてからは、宇和島藩主伊達宗城が後見人となっていた。その後、長崎に遊学する。我が国初の女性産婦人科医であって、将来の勉強家であったと伝えられる。1856年(安政3年)には日蘭修好条約が締結され、その翌年、禁が解かれて来日していた父シーボルトと再会を果たしたことになっている。(続
(続く)
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