新68『美作の野は晴れて』第一部、新たな出発2

2014-11-24 12:45:39 | Weblog

68『美作の野は晴れて』第一部、新たな出発2

 ここで問題となっている宇宙背景放射というのは、宇宙の全方向からほぼ一様にやってくるビッグバンの残光といえる。その提唱者であるガモフは、宇宙が火の玉から出発しているのであれば、ビッグバンのときの超高密度による超高温からだんだんと冷えて、現在の温度は絶対温度で3ケルビン(摂氏でマイナス270度)前後になると考えていた。その後、彼の予言は「宇宙背景放射」として発見されるに至る。その値としては、波長1ミリメートルあたりのマイクロ波領域でもっとも強いこと、及びそのスペクトルから絶対温度で3K(ケルビン、絶対温度)であることがわかっている。
 1989年、アメリカにより、宇宙背景放射探査衛星(COBE)が打ち上げられる。
これは2.2トンの極軌道衛星であり、軌道長半径900キロメートルの太陽同期軌道を回ることになる。これに搭載のFIRAS(遠赤外絶対分光測光計)によるスペクトル測定では、測った値と予言されていたプランク分布(ビッグバン理論から予測されるマイクロ波の2.728K)が完全一致した。これにより、宇宙には熱平衡状態の名残が残っていたことがわかる。測定された宇宙背景放射の温度は、これまた搭載のDMR(差分マイクロ波放射計による測定で、それぞれの方向によって10万分の1程度揺らいでいる、つまりほんの僅かだけ異なることが発見された。これは、宇宙がゆらぎから形成されてきたことの証拠なのだとされる。
 話をアリゾナ大学での社会人への講義に戻して、クラウス教授の講義は続く。
 「さて、我々は宇宙の恒星がどうなっているかを調べるため、ダークマターの量から宇宙のエネルギー(E)を調べようとしていたことを想い出してほしい。そのために銀河団の重さを知りたかったんだ。たとえ巨大な銀河団だとしても、そのダークマターを含めた重さがわかれば、そこにある銀河Aが永遠に遠ざかるかどうかがわかるから、宇宙が膨張し続けるかどうかもわかる」。
 その「重力レンズなどによる質量Mの測定結果は、銀河Aを引き留めるのに必要な量の30%しかなかったんだ」とされる。この測定からは、運動エネルギーが位置エネルギーの3倍も大きいということになる。ゆえに、膨脹エネルギーがそれを引き留めようとするエネルギーよりも圧倒的に大きい。つまり、「通常の物質とダークマターの総量から、宇宙の全エネルギーはゼロより大で、永遠に膨脹する」と考えられる。
 ところが、「エネルギーがプラスになるというこの結論は、まちがいだということがその後わかることになるんだ」と同教授はいう。そのために、一般相対性理論を導き出そうということになって、その式が導かれる。そこでは、宇宙の曲率と呼ばれる、一種の時空のゆがみとの尺度として用いられている概念が使うのが便利だと考えられた。これを使うと、時空のゆがみ具合、つまり「宇宙の曲率」がどのような値になっているかにより表すことができる。これから出発して、宇宙のエネルギーの符号を調べるかわりに、宇宙の曲率の符号を直接に測れば結論が出るのではないか。
 そこで、黒板の隣に設置してあるOHPに、三つの宇宙像が写し出される。それには、宇宙背景放射の3つのゆらぎのパターンが描かれている。宇宙空間の曲がり方を幾何学で習っているみたいなイメージ図である。この宇宙背景放射の一つ目のゆらぎのパターンとしては、曲率が正なら平面が球のように丸まり、幾何学的に「閉じた」構造となる。これだと宇宙はやがて膨脹から収縮に転ずる。二つ目としては、その逆に曲率が負(ゼロより小さい)なら時空は双曲面のように「開かれた」構造になり、その場合のエネルギーはゼロより大きくなり、宇宙の膨張は永遠に続くという筋書となる。そして三つ目は、「平坦な宇宙」であって、これだと宇宙は開いてもいないし、閉じてもいないことになっている。およそこのように聴講生に説明してから、同教授はこう話を進める。
 「右下は開いた宇宙で、これが私たちの宇宙じゃないかとされているものだが、むらがずいぶんと小さい。真ん中ならぴったりだ。宇宙の見え方は平坦な宇宙と一致していたんだ。現在われわれは、宇宙の曲率は1%以下の誤差でゼロだと知っている。そして曲率がゼロだということは、宇宙の全エネルギーがぴったりゼロだということを意味する。運動エネルギーの和が位置エネルギーの和とちょうどつり合っている訳だ。エネルギーがぴったりゼロだというのは、一体何を意味しているのだろう。じつはこれは、宇宙は無から始まったということを示唆する最初の証拠だといえる。この事実は、宇宙がとてつもなくうまくできていることを示しているかもしれないんだ。つまり、宇宙をつくるのには、何のエネルギーも必要なかったということなのかもしれない。1000億個の銀河がすべてが何のエネルギーも必要とせずに生まれたとしたら、まったく驚きだ。」
 そこで、物理学者は、この宇宙の曲率を知るためには、宇宙マイクロ波背景放射、つまりこの宇宙に一様に漂っているビッグバンの残光を調べてみればいい。そのためには、天文学の観測技術を駆使することが必要だ。この宇宙マイクロ波背景放射は、1960年代、アメリカの通信衛星の開発と運営を担っていたベル研究所の2人の男、ペンジアスとウィルソンの二人によって、たまたま発見された。彼らは、通信の際に混入してくる雑音電波を除去する研究に取り組むうち、偶然に、どうしても取り除けない電波を発見した。
 これについて、ニューヨーク州立大学の日系3世である、ミチオ・カク教授の学生達への講義での解説にこうある。
 「さて、ビッグバンの二つ目の証拠は、宇宙マイクロ波背景放射だ。ここでニューヨーク州立大学の名前が登場する。ここの卒業生だ。ここのアーノ・ペンジアス・ベル研究所で職を得て、ニュージャージーで電波望遠鏡の責任者となった。星空を観測する最先端のアンテナだった。しかし、その好感度アンテナの設置中に不具合が見つかった。ノイズが見つかったのだ。ベンジアスと同僚のウイルソンは、はじめこのノイズは鳥のふんのせいだと考えた。たしかにニューヨークでは鳥のふんがある。銅像の上、セントラルパーク、あらゆる場所にそれは落ちている。だから、鳥のふんのせいに違いない。かれらはアンテナについて分を拭き取った。そして再び観測をはじめたら、ノイズが以前よりもさらに大きくなっていた。
 二人は何が起きているのかわからなかった。だが、ペンジアスがプリンストンで講演したとき、観測中にノイズをとらえたと話したところ、ロバート・ディッケという科学者がそのノイズは温度でいうと何度でしたと聞くので、大体3度でしたと答えると、ディッケはそれは鳥のふんか、もしくはビッグバンの証拠だと言った。結局ビッグバンの証拠であることが判明し、宇宙が誕生したときの残り火をとらえていたことがわかったのだ。こんにちでは人工衛星がこのノイズを調べていて、多くのデータが集まっている」(2015年4月の「ニューヨーク白熱教室」での、ニューヨーク州立大学の日系3世である、ミチオ・カク教授による講義「最先端宇宙論の未来」より)。
 さて、この宇宙背景放射を利用して、宇宙の曲率を直接測るために大規模な計測が行われた。2つの観測は、それぞれ「ブーメラン」、「マキシマ」と名付けられたグループによって実施された。ブーメランでの観測は,米国とイタリアの大学のチームが中心になった。1998年の12月から1999年の1月の約10日間、計測の場所には南極が選ばれる。こうすれば、南極大陸の上空を2週間かけてぐるりと回っても戻ってくれる。この地なら、こうやれば地球が自転しても、同じ方向からの電波が捉えられる。だから、付近の電波に邪魔されず、絶対温度で3度の電波を捉えることができると考えたのである。
 クラウト教授によると、その計測の模様は次のようなものであった。
 「その計測は上空で行われた。計測器は気球で上空に上げられ、ある方向にしぼって電波を捉えた。ブーメラン実験では、その観測結果がまとまったのはちょうど2000年のことだ。宇宙の小さな領域からマイクロ波を捉えることに成功し、それを画像化した。これは計測の結果を風景写真に重ねたものだ。宇宙背景放射の熱い部分と低い部分を色分けしてある。この温度のむらは、ちょうど宇宙の初期の物質の密度のむらに対応していて、このむらが後に銀河などを形成する核となる。実はこのむらの大きさの見え方が宇宙の曲率によって変わるんだ。計測されたむらの大きさがどの曲率に対応しているのかコンピュータによるシミュレーションの結果と比べてみた」(クラウス教授)といわれる。
 ここでちょっと戻って銀河団の重さを測ったときのことを思い出してみる。すると、通常の物質とダークマターの総量は、宇宙の曲率をゼロにするために必要な量の30%しかなかった筈だ。その内訳は、「見える物質」が約4%、ダークマターが約23%。したがって、これだと宇宙を構成する成分のまだ約73%が見つかっていないことになっている。それは、一体何なのだろうか。
 1998年、天文学者のグループ(ソール・パールマター、ブライアン・シュミット、アダム・リースの3人であるが、シュミットとリースは共同研究者なので、2チームであるとされる)が宇宙の物質がとのくらいあるかを調べるために、宇宙の膨張速度の微妙な減速度合い調べていた。遠い場所にあるおよそ50個の、「Ia型」(イチエー)と呼ばれる超新星を見つける。それらを観察して、どのくらいの割合で宇宙の膨張速度が減速しているかを調べるのだ。ここでの「Ia(イチエー)型」の超新星は、宇宙を測る時の尺度になる。ある超新星爆発で、その爆発の継続時間により最大の明るさがどれも同じ(一定)性質を持っている。これを使うと、非常に遠方の銀河での「Ia(イチエー)型」の超新星の爆発を捕らえ、その明るさを測る。その見かけの明るさから距離を知ることができる、つまりはその銀河の後退速度と比較することができるのだ。
 その観測データが発表されると、従来の宇宙論をひっくり返す程の大発見であった。その結果は、事前の予想をはるかに下回る速度でそれらの超新星が遠ざかっていることを突き止めた。というのは、横軸に超新星の赤方偏移(~地球からの距離)、縦軸に超新星の見掛けの明るさをとり、遠方銀河の超新星の明るさと後退速度(赤方偏移)を測ってゆく。
宇宙の膨張の速さが一定なら、赤方偏移は距離に比例するというのが、ハッブルの法則である。宇宙膨張のスピードが昔もいまも変わらなければ、天体の明るさは、距離の2乗に比例して暗くなる。それはそれを体した黒い線の上にくる筈である。ところが、実際に観測された結果は違っていた。それは、それより上の赤い線に来た。つまり、「Ia型」の超新星の明るさは、ハッブルの法則の場合より遠くで暗くなっている。つまり、赤方偏移と距離の比例関係は、わずかだがずれている。遠方の宇宙では、膨脹の速さが今よりも遅かった。
 これから、遠くにある超新星は昔の宇宙の膨張速度で遠ざかっている訳だから、遠くの超新星の速度が遅いというという観測結果は、とりもなおさず昔の宇宙の膨張速度が遅かったことになる。言い換えると、宇宙が膨張する速度は、時間を経るごとに大きくなっている、つまり宇宙膨脹は減速しているのではなく、加速していることをあらわしてしている。
 そして、加速するためにはエネルギーが必要であって、この重力に対抗して加速するためのエネルギーを「ダークエネルギー」と名付けた。この加速を説明するに足るエネルギーである、ダークエネルギーは、ダークマターの3倍くらいあるはずだ(NHK「宇宙を読み解く」シリーズの第14回「深まる謎:ダークマターとダークエネルギー」(2015年1月6日放映分)での放送大学の海部宣男客員教授(国立天文台・名誉教授)、放送大学の吉岡一男教授による、今日までの「考え方と観測事実」の系列の整理、その他より)。
 このような宇宙の加速膨脹はいつから続いているかというと、大体60億年から70億年位前、そのあたりから始まったらしい、と言われている。宇宙が広がるにつれ、だんだんと重力が薄まって力が弱くなっているところへ、空間の不変エネルギーであるこのダークエネルギーがその弱まりつつある重力に打ち克って、その力の膨脹で宇宙膨張の加速が始ま里、現在も続いているのではないか、というのだ。
 クラウス教授の講義は続く。「ところで、アインシュタインの一般相対性理論は、重力は引っ張り合う力だというばかりでなく、反発しあう場合もあることを教えている。そうすると、いったんはハッブルの宇宙膨張の発見で後景へ追いやられたかのようであった、あのアインシュタインが宇宙が潰れつぶれないためには(神とやらの力で宇宙が永久不変であるためには)、それを押し返す「斥力」があればいいと考え、「宇宙方程式」(時空のゆがみ具合に宇宙定数を加えたものが、物質が持つエネルギーであることを表す)に入れた宇宙定数が、今度は新たに加速膨張する宇宙を説明するために何らかの形で盛り込まれるべきということで、再びその概念が引っ張り出されてくるのである。
 この概念を用いて、原子でできている通常の物質どうしは重力で引っ張り合うが、もし、もし空っぽの空間にエネルギーが満ちているとどうなるか。その場合は、エネルギー自身が空間をおしひろげる斥力が働く。通常の物質だけがある宇宙で、かつてハッブルがやったように、宇宙の膨張を測ったとすると、物質の重力が膨脹を止めようとするから、その速度は減速していく。ところが、空間をエネルギーで満たすとどうなるのだろうか。その時は、銀河やガスなどの質量がおよぼす重力にさからって宇宙の膨張は加速するということが考えられている。
 それでは、先ほどの宇宙の膨脹速度が加速しているという観測結果を再現するためには、空間にどのくらいエネルギーが満ちていればよいのだろうか。2001年、NASA(アメリカ航空宇宙局)によりウィルキンソン・マイクロ波異方性探査機(WMAP)が打ち上げられ、宇宙背景方射の温度分布を全天に渡り観測される。その計算の結果が2003年に発表されると、その「ゆらぎ」の量はちょうど見つかっていなかった、つまり、宇宙の曲率をゼロにするのに必要な残り約73%に相当していることがわかったのである。なお、このデータでは、「宇宙の晴れ上がり」を「宇宙創生後38万年」だとしている。
 2009年3月に公表されたWMAPの5年間のデータ解析によると、宇宙創生時の宇宙の組成としては、ダークマター(暗黒物質)、ニュートリノが10%、電磁波が15%、原子12%だったと推定される。それが現在の物理学者の間では、宇宙の約72~73%の部分を「ダークエネルギー(暗黒エネルギー)」なる名前を付けることによって何かの存在を想定し、その後も何とか観測する努力を進めている。残りは、ダークマター(暗黒物質)が23%、原子が5%の組成であると推定されている。なお、このあたりの最新データについては、京極一樹さんの著作「こんなにわかってきた宇宙の姿」技術評論社、2009などを参照させていただいた。
 ここに至って、この宇宙には「ダークマター」(暗黒物質)と並んでもう一つの「ダークエネルギー」がひろがっているといわれている訳だ。そして現在に至るまで、このダークエネルギーの存在を証明する程の観測はなされていない。その正体が何であるかはわかっていないので、これはまだ現代の物理学の最先端の、半ば仮説の段階の話といっていいのかもしれない。

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□139『岡山の今昔』智頭急行線

2014-11-19 20:22:19 | Weblog

139『岡山(美作・備前・備中)の今昔』智頭急行線


 それから、美作と鳥取とを結ぶ道は、江戸期までは「因幡道(往来)」又は「鳥取街道」と呼ばれてきた。この往来が開かれたのは、遠く平安期に遡る。江戸期に入ってから整備され、鳥取藩の参勤交代の交通路にも用いられた。もともとの全体の行程は、姫路から鳥取までであり、14の宿がつないでいた。現在の鉄道旅のその道程の気分を味わおうとすると、智頭急行智頭線が便利だ。列車は、始発駅の上郡(兵庫県赤穂郡上郡町)を出てから北へ進路をとる。最初の停車駅は苔縄、河野原円心、久崎と来る。そこを過ぎると高倉山トンネルでとにかく長い、3キロメートルを越えるのではないだろうか。そのトンネルを出ると、岡山県の佐用駅であり、姫新線と出会う。佐用を出た列車は北上していく。平福から山岡峠を縫うようにして石井に至る。
 蜂谷トンネルを抜けると、そこは宮本武蔵駅(岡山県英田郡大原町)である。駅の近くには吉野川が流れ、また川沿いに国道373号線が流れていて、それを少し北に行くと大原駅に入船する。大原を出ると、まもなく江ノ原トンネルにさしかかる。それからの列車は、これを抜けて西粟倉駅(岡山県英田郡西粟倉山)に滑り込む。ここは、木材とともに生きてきた村で有名だ。このあたりの沿線は、夏でも涼しいのではないか。あわくら温泉と来て、志戸部トンネルで鳥取県との県境を越え、さらに横見トンネルと行ってから恋山形、さらに智頭駅(鳥取県八頭郡智頭町)へと進んでいく。恋山形という駅には、桃色づくめのこしらえがしてある。この駅は、日本に4つあるという駅名に「恋」がつく駅の1つで、「恋のかなう駅」といわれていることから、老いも若きもここに来てときめきを感じるのかもしれない。このあたりの車窓からは、千種川の清らかな流れや、そばの山々のダイナミックな景観などが楽しめる。
 こうして南から来た智頭急行線は、智頭において、JRの因美線と出会うことになっている。智頭は、このあたりの交通の要衝で、人々はここで合流して鳥取へと向かうのだ。津山から鳥取へ向かうには、道筋だが、市街を出てから一路東に進んで兵庫県境を越え、しばらく東進してから北の鳥取へ向かう路である。この路は、勝間田から土居、さらに兵庫県に入って佐用に行き、そこを少し過ぎたところで北に進路をとり、大原、そして板根と北上した跡は、北西方向に進路を変えて進んでからやがて、最初に紹介した因幡往来と合流してゆくのである。
 これを岡山からの鉄道になぞらえてコースを逆に辿ると、岡山から津山までは津山線といい、ここからは北へは因美線といって、智頭を経て鳥取までを結ぶ。これが開通したのは着工から18年目の1932年(昭和7年)7月1日のことであった。残念ながら、現在、途中の多くの駅は「無人駅」となっている。急行の名前は、「みまさか○号・砂丘△号」と名付けられている。津山駅構内で「みまさか号」と切り離された「砂丘号」は、津山から東津山、高野、美作滝尾(みまさかたきお)、美作加茂(みまさかかも、当時は英田郡加茂町、現在は津山市加茂)、そして智頭(ちず、現在の鳥取県八頭郡智頭町)を経て物見トンネルを通って中国山地の下をくぐり抜け、終着駅の鳥取まで進んでいく。この道法のうち、物見トンネルは1932年(昭和6年)に開通、岡山県と鳥取県の県境にあって長さは3074メートルもあることで有名である。
 ところが、その後になって、この急行が「つやま」と改称されたうえで運転区間が岡山-智頭(ちず)間に短縮され、便数も快速1便となってしまった。この経緯について、「鉄道ジャーナル」(1998年8月号)はこう伝えた。
 「智頭急行線の開業(1994年12月)により京阪神方面からの岡山乗継ぎ車両が特急〈スーパーはくと〉に移り、さらに今回、人気を博する〈スーパーはくと〉への増備車投入がなって道列車のHOT700系に伍して活躍していたキハ181系が連結されると、その連結車を活用して岡山からいったん上郡(かみごおり)へバックしたのち智頭(ちず)急行経由で鳥取に向かう特急〈いなば〉が設定され、〈砂丘〉は役割を終えた。だが〈砂丘〉は、岡山県北部の要衝都市-津山とを結ぶ役割も大きかった。そこで岡山-津山間に設定されたのが〈ことぶき〉である」と。
 それから「森林活かした想像力溢れる処」、英田郡西粟倉村は、近年全国に知れ渡りつつある。人口は、1950年をピークに減り続け、2016年9月現在はおよそ1500人にまでになっている。しかも、65歳以上の人が35%もいる、まさに高齢化の只中とのことである。鉄路でいうと、智頭急行線といって、岡山と兵庫の両県を跨るころを経由して走る、現在は第3セクターにより運営されている。そこでどんな電車が走っているかと、会社営業を拝見すると、こうある。
 「特急スーパーはくと」については、出発駅として京都から新大阪、大阪、それからは三ノ宮、明石、姫路、上郡、佐用、大原、智頭、郡家、鳥取、倉吉と行く。「特急スーパーいなば」の出発駅は岡山であって、やがて上郡、佐用、大原、智頭と来て、郡家、鳥取へと向かう。普通列車については、出発駅として上郡、それから苔縄、河野原円心、久崎、佐用、平福、石井、宮本武蔵、大原、西粟倉、あわくら温泉、山郷、恋山形、智頭と辿って行く。早いのも、ゆっくりのもあって、どうやら、いろんな機関車がこの鉄路を走っているらしい。
 わけても、西粟倉駅は、智頭急行智頭線の小さな無人駅ながら、西粟倉村の中心地区近くにあり、村役場や小学校、中学校も近い。「智頭方面に向かって左側に単式1面1線のホームを持つ盛土高架駅」と説明される。周辺には、棚田が広がっているとのこと。村内には、同線「あわくら温泉駅(あわくらおんせんえき、影石にある)もあり、ここは岡山県では最東端の駅である。「島式1面2線のホーム」だと言われる。
 そんな山間に開けた西粟倉村であるが、2008年起死回生の一挙に出た。それは「百年の森林構想」と名付けられ、美しい森林資源を利用しての地域活性化を目指す。古くから林業が盛んであったにもかかわらず、大抵は木材を伐採して売るところで終わったいたという。それから抜け出す試みとして、近年注目されつつあるのが第三セクターによる「西粟倉・森のが学校」を設立しての取組である。住宅の板材にとどまらず、その内装材や椅子、食器などといった生活用具全般へと、目的意識を広げた加工を手掛けるようになってきているとのこと。であれば、販路開拓や資金調達も他人まかぜにせず、村として取り組んでいる。人材は、若い人や、やりがいを求めている人にどんどん来て、暮らしてもらう。力は、そこからもらって、かれらにどしどし任せるとのことである。

(続く) 
 
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新39『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ

2014-11-17 09:43:05 | Weblog

39『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ

 夏のちょっとした旅行で近場と言えば、小学校までは、母の実家の関本をよく訪れていたが、六年生のときの日記に「1964年8月16日(日)午前10時55分、家を出た。奈義町の親戚のところに行くのだ」と書いている。こちらの旅の圧巻は、なんといってもバスが日本原高原と那岐の連山を左手に仰ぎ見ての高揚感であったろう。ここで日本原高原といっても、馴染みのない方もおられるかもしれない。そこで、場所からいうと、国道53号線の日本原のバス停を通り過ぎるともう奈義町である。そのまま10分くらいもバスに乗って東に行くと、「上町川」のバス停にさしかかる。そこを過ぎて少し行った辺り、バスは急に左に大きく曲がってゆるゆる傾斜のある道を降りていく。
 バスに乗っていて右を見下ろすと、なだらかではあるが、すりばち状の傾斜となっていて、その景色は雄大である。左に曲がりきったところで、バスは今度はバスは思い切り右にカーブを切って、今度は元来た方向と逆を緩やかに上っていく。私は、これを勝手に「すりばち坂」と呼んで、自分の知りおきし名所の一つに数えていたものだ。その後、この天然の難所を過ぎたバスは自衛隊前、北吉野、さらに滝本へと東進していく。まだ知っておられない読者も、一度この辺りを進んでみたら、アメリカの西部劇の舞台にヨセミテ国立公園などにも似た、日本の自然らしからぬ、その荒涼で雄大な風景に驚かれるのではなかろうか。
 ここに日本原高原とは、この辺りでは知る人ぞ知る、西部劇に出てくるような大草原である。乗合バスが日本原のバス停を出た辺りから、バスからは左側、方角からは北に中国山麓に到るまでの地帯を指す。津山盆地の北東部に南北約10キロメートル、東西約3キロメートルくらいのところに広がった、概ね平坦な丘陵地帯をいうのである。その歴史を顧みるに、天文年間(1532年~1544年)の頃、、この地を訪れ、この地を気に入って住み着いたと伝えられるかの福田五兵衛(ふくだごへい)の墓碑銘(日本原の市街地の西外れにあるという)に曰く、「霊仙信士、元文五申年九月初六日、此霊者国々島々無残順廻仕依○諸人称日本五兵衛、是以所日本野ト申候、日本野元祖、俗名、福田五兵衛」と彫り込まれている、とのことである。
 これと同じ話ような話は、『東作誌』にも載っている。
「広戸野は一に日本野と言う。北の方野村滝山のふもとより、南の方植月北島羽野まで平原の間およそ三里、人煙なく、当国第一の広野なり。その中筋を津山より因州鳥取への往来となり、昔はさらに人家なかりしを、正徳のころ市場に五兵衛という農民、日本廻国して終わりに此の野に供養塔を築き、その側らに小さき家を建てて往来の人を憩わしめ、あるいは仰臥したる者などを宿めて、もっぱら慈愛を施せしかば、誰言うとなく『日本廻国茶屋』と呼びなわせしを、後に略して日本と許り唱うるごとくなれり。後にその野をも日本野と称するも時勢と言うべし。」
 これからすると、福田五兵衛なる人物は随分と徳の高い人物であったことが覗われる。
ついでながら、この辺りは、1879年(明治12年)の明治の氏族移民事業で開墾が始められたが、うまく行かずに挫折した。その後、1909年(明治42年)、その大部分が陸軍の演習場となり、第二次大戦後の占領期にはアメリカ軍がここに進駐していた。1955年(昭和30年)には、当時の勝北町に属する地域集落がその地を「日本原」と公称した。またこの年、当時の北吉野村、豊田村及び豊並村の三か村が合併しての奈義町(なぎちょう)が誕生した。1963年(昭和38年)の日本への基地返還の後は陸上自衛隊演習場として今日に到る。なお、国道53号線から南側の地域は、現在は演習場ではなく、農地の用に供されている、といわれる。
 母の実家へ着いてからのことは、こう伝えている。 
 「ぼくはここへ行くのがちばんたのしい。子どもがたくさん来るからだ。「こんにちは」と言って家に入った。おばさんが「よお来たなあ」と言ってくれた。ざしきに上がると、いつもはみんなで8人だが、今日は6人だった。いろいろなことをして遊んだ。一日泊まって次の日の午後2時35分のバスで帰った。たいへんたのしかった。しんせきで手伝いでもすればよかった。」
 母定子の実家である為季の家は、文政期から明治にかけての、分家であった。その為末姓の由来については、本家累代を語る墓碑につぎのように彫られている。
「為末家は鎮西八郎源為朝の後裔(こうえい)島次郎為末が永萬元年に此の地に居住を定め戊亥荒神(ぼがいこうじん)を鎮座し承安元年二月十五火没する初代島助十郎源為次二代甚次郎源為周三大島四郎源為経四代島五郎兵衛源為成五代島十郎治源地目近六代島久五郎源為信島久五郎兵衛源為信は永正十七年二月十五日戊亥荒神(ぼがいこうじん)三百五十年祭に当り親神源為朝先祖神源為季として社名を為季明神社と改め、姓を為季と改める」(抜粋)とある。
 「永正十七年」(1521年)といえば、今からおよそ600年を遡るのであるから、美作では戦国の争乱の最中であったろう。この地で有名な豪族に「美作菅党」がある。その創始は、990年~995年(正暦年間)、菅原道真の曾孫資忠の次男良正とされる。出家した彼は、みまさかの国勝田郡香櫨寺(?)に住み着いた。その良正から数代後の知頼が1078年(承暦二年)、美作守となって美作の国に下り、在職中に勝田郡で没した。後を継いだその子真兼(実兼)は押領使となってこの地に住み着き、「美作菅党」の祖になったのだという。「美作菅(すが)党」のその後については、嫡流の分化のほか、その地で養子縁組や婚姻関係を結んだりして、しだいに「菅家七流」と呼ばれる有元氏を筆頭に、廣戸氏、福光氏、植月氏、原田氏、鷹取氏、江見氏などの武士団を形成していった。余談ながら、かの柳生新影流の柳生氏は、「良正の孫で知頼の祖父である持賢の子永家から派生した」(『ウィキペディア』)とも言われる。
 それに比べて、「為季」の一族は源氏の嫡統の流れを汲む血筋とも読み取れる。源氏の系統が西国のこの地に住み着いたのか、これだけの資料ではその系統はつまびらかでない。その当時には、豪族の中でも支流が幾筋も別れ、各々が異なる大きな勢力について互いに相争うこともあった筈だ。ともあれ、こうした為季本家との関係で、為季幸吉(本家)から二女のせとが分家し、彼女には為末幸吉養子として東北条郡青柳村、川端熊次郎長男の喜作を迎える。その後、為末喜作・せと夫婦の三女いしが、勝田村大町の安藤久蔵家三男・平蔵と養子縁組(為末喜作・せと夫婦の婿養子)にて夫に迎える。この二人の間にできた二女の勢喜(せき)が長じて、吉野村豊久田の佐桑左太郎長男・文蔵を養子縁組み(為末平蔵・せと夫婦の婿養子の)の形で結婚する。
 その為末文蔵は、勝田郡豊波村関本に住まい、岡山県方面委員にして司法書士、保護士(青年)の名刺を携え、この当たりの人々の生活向上に尽力した人物で知られる。その名前そのままに、寸暇を惜しんで冬の火鉢の中にも書をしたためるなど勉学心旺盛な人であり、分け隔てなく周りの人に相対していたという。文蔵・勢喜夫婦には四男四女があり、私の母である定子は四女として、1928年(昭和3年)に出生した。
 夏の盆あたりには、我が家にお客さんが来ることがよくあった。夏休みのある日の日記には、こう書いている。
「1964年8月14日(金)
 津山のおじさんたちが来た。しばらくあそんで、2時半にうちの池に魚をとりに行った。ぼくはとちゅうで糸が切れた。兄といとこの幸介くん(仮の名)はたくさん取った。うちの前の池には、魚がたくさんいる。鮒とりの時に取った魚の一部を池に戻すからだ。」
 盆の行事は、「お寺さん」の来訪で最高潮を迎える。住職は檀家がいろいろある中で、我が家に来られる日時に、主に父の兄弟の親戚が集まるようになっていた。その朝は、家の者は朝から片付けや料理の準備とかで忙しい。住職を迎えると、玄関ではなく、縁側から入られる。親戚の皆さんは、それまで表の間にいて団欒していたのが、住職の後について、奥の間に移る。簡単な法要集のような小冊子を借りる。我が家は真言宗の宗徒ということになっている。それは、弘法大師(空海)が中国から持ち帰った宗派で、「顕教」に対する「密教」と呼ばれる。加持祈祷や護摩を焚き、曼荼羅絵で得度の世界をさまざまに視覚に訴える宗派である。冒頭の般若心経の他は、その法要集においては「観音経」の抜粋の他、真言密教特有の今日や念仏の類が収められている。
 住職が席に就かれると、真言密教の儀式から始められる。たぶん、その家の仏さんをあの世、天国とやらから呼んでくるのであろうか、住職は数種類の金色の「宝器」を使いつつ、途中で古代インドのサンスクリット語(梵語)の呪文のようなものを唱えるようなところもあって、それなりの仏教知識に加え、その宗派の素養がないと、何がどうなっているのか、わからないのではないか。これは余談だが、天台宗祖の最澄が空海その人に、中国から持ち帰ったそれらの「宝器」を借り受けたいと申し込んだところ、空海はその申し出を激しい調子で拒絶したことが伝えられている。このように宗教色豊かな法要であったが、それらの一つひとつが、我が家の祖先の霊なり、魂を呼んできて、現世と交通するための神がかりのものであることは、子供心にも何となく想像できた。

 

(続く)

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新66『美作の野は晴れて』新たな出発に向けて(宇宙の膨張)

2014-11-04 09:50:53 | Weblog

66『美作の野は晴れて』第一部、新たな出発に向けて(宇宙の膨張)

 人はどこから来て、どこへ行くのだろうか。この問いへの一つ目の答えは、この宇宙そのものの中にあるという。私たち人類も含めて、ありとあらゆるものの今日までの歩みは、この間の宇宙がどうであったかに大きく左右される。私たちのこれからについても、宇宙の行く末との関係なしには根源的には語れない。今この時も、人類がいない頃からの悠久の時が刻まれ、その中に私たちの人生が流れている。時の流れはとどまることなくして流れ流れて、人もまた過去から現在へ、そして私たちの次の世代、さらにまた次の世代へと、いつか終わるであろう人の世の続く限り、これからも歩みつづけていくことだろう。
 宇宙にとっては取るに足らない私は、「人生が再び還り来る」といわれる60代になってから、改めて夜空を見上げるようになっている。人間はいかに科学技術が進歩しても、この宇宙の全てのことを知り尽くすことはできないのではないか、というのが私のつねづね考えていることであった。そんな2014年10月30日、『地球イチバン「世界一の星空がくれたもの」』のテレビ放映があった。そこは、アイルランドの大西洋に突き出したアイベラ半島の断崖の町である。わずかな晴れの日をねらって星を観る。ナレーターによると、この地に見える星の数は、人間の肉眼で見える限界の6.8等星以上のおよそ4千個で、文字通り「世界一の星空」なのだという。その夜空を万感の思いを込めて見上げる人々の中にある中年の男性がいて、その人は、その夜空の星々の中にいまは亡き親しかった人を見つけるのだと、カメラに向かって語っていた。古来から、「幾星辰、幾歳月」の人々が見上げていた夜空の星々は、その間もずっと自らを語り、宇宙のさらなる進化を刻んできたのであろう。
 そして今、長らく遠ざかっていた、宇宙への思いが自分の頭の中で、長い眠りから醒め、少しずつ膨らんで来つつある。古来、人々は「幾星辰、幾歳月」と数えてきた。後年、母の定子は宇宙への想いを私への手紙に記してよこしたことがある。
 「喜べば喜ぶ事が現れ、感謝すると感謝する事が現れ、恐怖すれば恐怖する事が現れるという心の法則が有ります。大難は小難で済んで良かった。小難は無難で良かったと毎日を有難い方向に考える事に依って運命が好転して来ると教えて頂いております。有難いと言う字は逆さに読むと、難有りで有難し、難があって有難いという事がわかって来ます。
 昔の人も神様の啓示を受けて教えて下さっているものと思います。自分が生まれようと思って生まれたのでは無い。宇宙の神様がみ心に依って両親を通して(媒介をして)一人ひとりに何かの使命を与えられて此の世に誕生させて頂いたのであるから神の子であるのだから神様のみ心のままにならせ給えと全託した時心はやわらかになり心が落ち着いて来るとの教えを受けて私も元気になって来ました(33歳の時から)。」
 2014年7月、クラウス教授のアリゾナ州立大学での講義『宇宙白熱教室』をテレビで観た。大きめの教室で、前にはスクリーンがあって、説明図やらが写し出される。聴講生のほとんどは私のような年代の人々である。一瞥するからに、長きにわたり人生の風雪に耐えてきたような風貌の人もいる。講義は4回に渡り日本のテレビ局によって放送された。実をいうと、その講義の最初の頃は「世の中、不思議なことを考える人がいるものだ」くらいにしか思っていなかった。しかし、4度の勝手な「聴講」を終えたいまでは、その考えが変わっている。というのも、その放映が回を重ねるうちに、私も太平洋を隔ててシカゴのアリゾナ工科大学に連絡し、そこの大学の聴講生であるかのような気分になっていった。私もまた、長い間、生きることに精一杯で、明けては暮れる日の「奴隷」になっていた。ゆったり処で、この世界の源である宇宙の成立ちやその未来について学ぶことは、独りでは決してやさしくないのを知っている。これからは、ここで得た糧を基にその遅れを少しでも取り戻したい。
 幸いにも、妻がこの番組を録画をしてくれていて、私はいまその4回目の最終講義の一部について、「テープ起こし」を試みている。この講義録を一番の参考にさせていただきながら、他のあまたの解説書の中からも自分のレベルに見合ったものを読み、それらを元に私なりにここで試みに整理して述べてみたい。その講義を間接的に受けて圧倒されるのは、銀河(「ギャラクシィ」)がどのように成り立っているのか、遠い未来に向かってどのようになっていくのかの概略を、私たち一般の知識レベルの者にも概略がつかめるように、懇切丁寧に教えてもらったように思えるからである。この場合の「宇宙」は、たんに大気圏外のことではなく、この私たちの地球も含んだ全体世界のことであり、そこには、私たち一人ひとりにとっての宇宙が持つ意味も含まれる。
 1915年から16年にかけて、物理学者のアルバート・アインシュタインは、次の重力方程式を世の中に提出する。
 {Rμv-1/2(gμvR)}+Λgμv={(8πG/Cの4乗)Tμv}
ここに左辺の第1項は、時空(時間と空間)のゆがみ具合、第2項は宇宙定数で宇宙が重力で潰れないための押し返す力(斥力)、それらを足したものが右辺の物質が持つエネルギーとなっている。この式で彼は、「相対性」という概念を広げる。重力や加速度が関係する運動にまで適用できる一般式を考えたのだが、この式にいわれる重力理論の基本部分、光の経路が曲がるという予言の正しさを証明したのが、イギリスの天文学者エディントンである。1919年の彼は、皆既月食の際の太陽周辺の星の光に注目する。なにしろ太陽は相当に大きいので、その重力によって周囲の時空が歪み、そのため太陽の裏に隠れているはずの星の光がカーブして地球までやってくる筈だと考えたのである。そして、その観測は成功したのであった。
 1919年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブル(1889~1953)は、ウィルソン山天文台にいて、宇宙が膨張していることを発見した。「光のドップラー効果」と呼ばれる物理法則によると、移動する物体の発する電磁波の波長では、その物体の後ろ側では長くなる。これを天体観測に使えば、遠ざかる銀河からの可視光の光は波長が最も長い赤に近い方に引き延ばされる。これが「赤方偏移」である。ここで光の色は波長の短い方から長い方向へ、つまり紫、青、緑、黄、オレンジ、赤の順に変化していく。つまり、近づいてくるものの波長は縮み青っぽく見える、遠ざかるものの波長は伸びて赤くなる。だから、青い光は緑に、緑の光が黄色に変化して見える場合は、その光が観察者から遠ざかっていると考えられる訳なのだ。ここまでは、1914年のアメリカの天文学者スライファーによる「光波のドップラー効果による赤方偏位」の観測により、私たちの銀河系の外にある銀河から届く光の観察で、秒速1000キロメートルで後退している銀河が発見されていた。
 その際のハッブルは、このスライファーの発表に着目し、さらに遠くの銀河の光を当時の最新鋭のハッブル望遠鏡で観察を始める。銀河からの光を分光(その光をさまざまな成分に分解すること)していく。そのハッブルは、1929年、各々の変光星が属する銀河までの距離を推算する作業を進め、それらのうち24の銀河について、光のドップラー偏移を調べたところ、それらのどれもが赤方偏移を起こしていることを発見した。これはつまり、ハッブルが観測した銀河間の距離、つまり宇宙が膨脹していることを意味している。その際、かかる赤方偏位は、銀河の後退速度によって生じたものではなく、光が天体を発した時の宇宙の大きさと、その光が地球に到達したときの宇宙の大きさとの違いのために生じたものだと考えられている。もっとも、個々の銀河の大きさはこれによっても変わらない、銀河の中の恒星と恒星の間の距離が広がっているということでもない。広がっているのは、重力が及ぶ範囲の天体間の距離ではなく、あくまで、それらを包摂した、より遠くにある「銀河」と別の「銀河」との距離なのである。
 そればかりではない。ハッブルは、18個の銀河までの距離と、それらの銀河が地球から遠ざかる速度(「後退速度」と呼ぶ)の定量的な関係式、「1メガパーセク(326万光年)離れた銀河は秒速530キロメートルで遠ざかっている」(この値は、今は秒速71キロメートルと言われている)のを探し当てた。 この作業のときハッブルが着目したのがセファイド変光星であって、この変光星は、その絶対光度と変更周期との間に特定の関係、すなわち周期が長いほど絶対光度が大きくなることが、1910年代までにはわかっていた。そこで、その変光星の変光周期を観測して絶対光度を求め、割り出したその値を見かけの明るさ(これは地球からの距離に比例するのであるが)と比較することにより、目的とする変光星までの距離を割り出すことができるのだ。
 ハッブルのこの発見は、人びとに大きな衝撃を与えた。この宇宙膨張の動きは、それまでの「宇宙が膨張しているはずはない」と考えられていたからである。つまり私たちのいる銀河から見て、遠方にある銀河ほど早いスピードで地球から遠ざかっていることなのである。そのイメージとしては、例えばボールをゴムひもで結んで引っ張ったとき、ゴムひも(宇宙)が広がるほど、一つひとつのボール(銀河)間の距離も広がる、つまりお互いが遠ざかっているのである。
 1931年(昭和6年)、アルバート・アインシュタインはウィルソン天文台にハッブルを訪問し、銀河が光のドップラー偏移を捉えたスペクトル写真を見せてもらった。すると、そこには彼の思惑とは異なって、宇宙がじっとしておらず、膨脹しているという事実が「赤色偏移」となって確認されたのである。それまで、膨脹なんてことはありえないとして、定常的な「止まった宇宙」を前提に話しをしていたアインシュタインがびっくり仰天したことは疑うべくもない。もっとも、アインシュタインがハッブルの発見まで考えていたのは、膨脹も収縮もしないという意味での定常的な宇宙に限られる。アインシュタインの、当初の理論では、星や銀河などの重力に引っ張られて、宇宙は最終的には収縮する。最終的には一点に戻って潰れてしまう。これを「ビッグクランチ」という。これでは宇宙を定常に保てないと思って、彼は宇宙をビッグクランチから救い、定常を保つための「宇宙項」を自分の方程式に追加していた(前掲)。
 ところが、ハッブルの宇宙膨張に接し、それが揺らぎのない真実だということになる。そこでアインシュタインは、この「宇宙項」を破棄したのである。彼はこれを「人生最大の不覚」とみなしたのだが、皮肉にもアインシュタインの死後21世紀になってからの、ダーク(暗黒)エネルギーの登場(2003年)によって、宇宙の加速膨張を説明するために、この項は再び必要となっていく。
 そこで、テレビ画面上のクラウス教授は、宇宙がこれから先もずっと膨張を続けるのか、それともある時点で収縮に転じるのかを問いかける。それは、宇宙に存在するこの二つのエネルギーの和がプラスなのか、マイナスなのかがわかれば、宇宙が永遠に膨脹するのか、収縮に転じるのかがわかるというのが、この議論のそもそもの出発点になっている。
 1933年、スイスの天文学者フリッツ・ツヴィッキーが論文を発表し、銀河の観測から後の「暗黒物質」の存在を予言した。彼は、かみのけ座にある「銀河団」(銀河が約100個から1000個程度重力を介して群れ集まっている集団をいう)を観測する。物質の発する光の量はその質量によって変わることを利用して、その総質量を、まず光の量から算出した。それぞれの銀河は重力によって動いている。ニュートンが発見した「重力の逆二乗法則」を使い速度を調べることで重力の大きさがわかり、重力がわかれば質量も求まる。そこで次にはこの法則を使って、銀河団に属する、つまりその銀河団の中に残っている銀河の動き(速度)から逆に、その銀河団が閉じ込めることのできる重力の大きさ、ひいてはその銀河団の総質量を算出した。
 ところが、これら二つの方法で算出した質量の間に、400倍もの開きがあった。後者の運動速度から求めた値の方が、前者の光の量から測った値の方、つまりその銀河団の明るさ(それは個々のメンバー銀河の明るさの単純な和とされる)から予想される質量値を大きく上回っていたのだ。すると、このかみのけ座銀河団にはそれだけの差分だけ、つまり光っている物質以外に、目には見えない(光を発していない)、けれども質量のある物質が大量に存在して銀河を動かしていることになるのではないかと考えた。
 1947年、宇宙の出発点が「ビッグバン」にあったとする「ビッグバン宇宙論」を、アメリカの理論物理学者のジョージ・ガモフが提唱した。これによると、宇宙がハッブルの法則に従って今もなや膨脹しているのであれば、過去に遡って考えると、宇宙の最初は超高密度の状態の一点に集約されるだろう。それを時間でいえば、宇宙は約137億年前に誕生したと見積もられることになる。つまり、宇宙の最初は超高温、超高密度のいわば「火の玉」が大爆発を起こして誕生した。その時の温度は、「10の27乗(10億の3乗)度」もの高温であったと言われる。これは、それまで主流であったアメリカの天文学者フレッド・ホイルの「定常宇宙論」、つまり、「ハッブルが発見した宇宙の膨張は認めつつも、次々に銀河が生まれることで、結局、宇宙の物質の密度は保たれ、永遠に不変だとする考え方」を打ち砕こうとするものであった。ホイルにとっての宇宙には、始まりもなければ終わりもない。この考えに凝り固まっていた彼にして、ガモフの理論を「あいつらは、宇宙がビッグバン(大爆発)で始まったといっている」と挑戦的な調子で述べたのは、科学の世界でもよくあることなのだろうか。

(続く)

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51『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩3(畑や野や山の幸)

2014-11-03 18:44:15 | Weblog

51『美作の野は晴れて』第一部、秋の風物詩3(畑や野や山の幸)

 我が家の田んぼの近くには、くぬぎやさわら、ならなどの木の枝も垂れかかっていて、隔年の当たり年には、どんぐりがたわわに実っていた。
 「どんぐりころころドンブリコ、お池にはまってさあ大変、どじょうが出て来てこんにちは、坊ちゃん一緒にあそびましょう 」(『どんぐりころころ ドンブリコ』、作詞は青木存義、作曲は梁田貞)
 大豆と小豆の取入れも、大抵は秋晴れの日を選んで行うことになっていた。たわわに実がなった豆の木を根ごと抜いてから、その束を手にとってみる。豆柄がどっしりしており、揺らしてみて、「カラカラ」という乾いた音が出るようなら上出来である。これは収穫した後、一輪車などに積んで家に持ち帰り、丸いリングが付けられているある豆はぜ機にかけた。そのペダルを片足で交互に踏むと「ギーゴン、ギーコンという音が出て、丸い鉄製の突起が一杯ついたドラムが回って実が入ったからを絡め取る仕掛けであった。しだいに踏む時間の間隔を短くしていくと、ドラムは高速で回転し、勢いよく豆をはぜて下に強いている筵の上にその豆を落とすのだ。
 取り入れた大豆の一部は自家製の味噌を作るのに用いた。大豆のタンパク質を発酵させ、そのタンパク質がアミノ酸に分解したものが味噌ということで知られている。大豆は竈の鍋で茹でてから器械にかける。それはの持ち物であったろう。
 アルミニウム製のような練り機械の上の口から豆を入れ、ハンドルの取っ手を回すと、シリンダのような金属の筒の中を、スクリューのような歯が廻る仕掛けで、その隙間を豆が水平方向に順次出口へと送られる。送られていくにうちに、歯の回転力によってすりつぶされていく仕掛けがしてある。西下の婦人会の持ち物ではなかったか。水平に筒状になった出口の下には樽が置いてあり、その中に味噌の原料は落ちては溜まっていく。ある程度入ると、その度に上から塩とか柚の皮を加える。それから蓋をして裏の蔵の中に樽ごと、母屋の裏手に立っている倉で貯蔵する。
 秋にちなんだ歌には、もっと伸びやかで軽快な調子のものもある。
 「だれかさんがだれかさんがだれかさんがみつけた、小さい秋小さい秋小さい秋みつけた、目かくし鬼さん手のなる方うへ、すましたお耳にかすかにしみた、呼んでる口笛もずの声、小さい秋小さい秋小さい秋 みつけた」(『小さい秋みつけた』、作詞はサトウハチロー、作曲は中田喜直)
 秋には、夏の初めに植えた野菜の収穫がある。代表的なのは、大根、白菜、唐辛子とい
うところだろうか。唐辛子にもいろんな種類があって、私の家の畑でで栽培していとうがらしは、小さな緑をしたものであった。食べ方としては、七輪の上で焼いたり、フライパンに植物油を敷いて揚げたのものに、醤油を少し垂らして食べると、ご飯が進んだ。時々、辛いのに出くわすが、見た目にはどうしてもわからなかった。そういえば、かすかに春の兆しの表れた2015年1月30日の各紙朝刊に、岡山県鏡野町奥津地域で29日行われた、特産の「姫とうがらし」の雪ざらしが紹介されており、懐かしさがこみ上げてきた。いる。そこでは、真説が降り積もっているその上に、赤い唐辛子がゴルフ場の一角に長さ約20メートルのネットを敷き、更にその上に唐辛子が帯状に敷き詰めて行われているようだ。姫とうがらしを使った商品開発に取り組む地元のNPO法人「てっちりこ」が行う農作業であって、町内の生産農家約20戸が昨秋収穫した約3トンのうち、塩漬けした赤と緑の唐辛子約400キロを並べたのだといわれる。新聞によると、これで塩気やアクが抜かれ、外川も軟かくなる。その後の工程は、米麹と混ぜ合わせてミンチ状にし、さらにたるの中で3年間熟成させる。そして、これが加工業者に渡って、「とうがらし味噌」や「とうがらし醤油」に加工されるのだという。この特産品の栽培と加工がいつ頃から始まったのか、美作にいるときには、まるで気づかなかった。
 秋はまた、山や野でも実りが多い。光を浴びて光合成によって作る養分、そして根から吸い上げる水によって木は育つ。2本の木が寄り添う場合は、どちらかが優勢になって、一方は生長が良くない。同じ木でも、日当たりが悪く、思うように光合成ができない枝と葉がある。人間の社会でいう経済性と同様に、採算がとれなくなった枝は枯れてしまい、代わりに違う枝が伸びていくという具合だ。彼らの生産物である杉の実は厚い包皮で覆われている。動物や昆虫に食べられないように、我が身を守っているのかもしれない。
 あけびは、可憐な山の果物である。我が家の西の雑木林に群生地があった。雑木に絡まってつるが伸びて、そのところどころに実がなっている。葉は柄が長くて、五葉になっている。4、5月に淡い紫色の花が咲くというが、その季節では見た覚えがない。秋も深くなってから、実が熟してくるので、そちらへ目が向く。それで見つかるという訳だ。果実は5センチから7センチくらい。ぱっくり皮がめくれて、中から白いような、薄桃のような色の果肉が見える。厚ぼったい皮は薬用になると聞いている。鎌でつるをたぐり寄せるようにして、引っ張って、たぐり寄せてから実を取る。その実を手で、破らないように採り上げてから、口の中に入れる。そして、チューインガムを噛むときのように、何度も噛む。すると、だんだんに上品な味がしてくる。今でも、こちら埼玉の田舎の農産物販売所に行くと、時折売られている。噛むのに時間がかかって、そのうち口とあごがだるくなってくるのも、秋ならではのご愛敬と思えばよい。
 栗は、みまさかの辺りでは、自前で植えている話はあまり聞いていない。村落に近い山際とか野原、畑の脇などに無造作に植えられているようである。9月の台風のとき、自然と山や野の大地に落ちる。家(うち)から西にしばらく行った林の中に、何本かの栗の木があった。ぱっくりとイガを開けているのは、幹を揺すってやると、かなりが落ちてくる。地面に落ちていない栗を取るには、柿を採るときと同じ要領で竹竿の先で挟んで、くるりと廻して地面に落とす。当時の西下内では、「丹波栗」のような大きな実がなっているのは見なかった。拾ってきた栗は、鎌の先で少し傷を付けてから、風呂の焚き口にくべて焼く。そのうち、「ポン」という音ともに殻が弾けると、取り出して冷やした後皮を剥き、無心になって食べていた。栗ご飯にする栗は、水で洗ってざるに上げておく。それをゆがくか、熱湯に浸してしばらく置くと、ころなしか皮が柔らかになるので、渋皮ごと手で剥く。これを米、だし汁、醤油に、塩と砂糖を少々入れて栗ご飯を炊く。出来上がった栗ご飯にごまをふりかけていただく。
 天津栗のように煎ったり、正月料理の栗きんとんにして食べるのは、その頃はまだ知らなかった。道端や、田んぼや畑の際の山の傾斜地などには、クワやアキグミが自生している。クワは紫色の実をたわわにつけており、熟れてくるとその紫色が黒みがかってくる。アキグミの果実は、サーモンピンクの色をつけている。ただ甘いのではない、渋みの勝った甘さといおうか。甘酸っぱい味が口の中に広がってなんとも美味しくて、幸せな気持ちになれる。掌一杯のアキグミを一遍に口に入れて噛んだときの味は忘れられない。なつめは黄色から褐色を帯びてくる。楕円形の果実で、味は大して甘くないものの、口の中で噛むほどに、上品な甘さがじんわりと伝わってきて、なかなかに旨い。
 こうした自然の幸は、昔から多くの人々を飢餓から救ってきた。ユダヤ教、キリスト教、それからイスラム教の発祥地は中東やシナイ半島の辺りであり、そこにいるのは砂漠の民、遊牧の民である。彼らにとって一番大事なのは、昼は灼熱、夜は零下の過酷な自然環境に耐え抜いて生きていくことである。そこでの選択肢は基本的に「これか、あれか」の二社者択一を迫られている。そんなことだから、その選択を決定づけるための知恵なり、決断を与えてくれる強い神が必要とされた。それがヤハウェであり、「父なる神」であり、「アッラー」に他ならない。
 「さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東の方から移動して来て、シアヌルの地に平地を見つけ、そこに定住した」(約3000年前に編纂された『旧約聖書』の「創世記」第14章)とある、その定住での生活を神は嫌い、建設中のバベルの塔を壊し、話しことばを混乱させたことになっている。
 これに対して、日本の大方の自然はおよそ厳しくない。ここでの人と土地は「一心同体」、「一如」と形容されるように、分かち難く結び付いている。共同体の中では決して豊かではないけれど、みんなで支え合えばどうにか生きていける。人々が日本列島の各地に散らばっていった縄文期、それだけの温暖さと、降雨がこの列島にはあったことが、いまでは考古学上に明らかとなっている。このような風土に生きる人々にとって、土地や自然を超越する唯一・絶対の「天上の神」は必ずしも必要ではなくなっている。
 そんな日本に、百済から仏教が伝わったのは、538年とも546年ともされている。
百済の前身は、マハン(馬韓)の50余の小国の一つで、4世紀には歴史の表舞台に登場する。人というものは、生きている間に善いことを行い、徳を積むことで極楽浄土に昇ることができるという東南アジア仏教に比べて、日本の仏教は衆生のみんなを救いたい。「大乗」といいながらも、その仏教だけでは心許ない。だから、日本の仏教は古代の神々と共存して役割を分担する路を選んだ。仏教もまた日本の風土の中で、変容していったではないか。この国の人々は、入れ替わり日本の自然に育まれて生きてきた。
 農繁期には、当然のことのように1週間から10日程度の休暇がもらえた。学童の大半の家が農家であって、手伝いが奨励されていた。当時の田舎の時間の流れは緩やかであった。朝は速いが、夜寝る時刻も早い。

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新19『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎2

2014-11-02 20:47:54 | Weblog

19『美作の野は晴れて』第一部、春の学舎2

 私が小学校6年の頃、我が家では山羊(やぎ)を飼っていた。
「8月8日(土)、晴れ
 うちのやぎは、ちちが大変よく出る。毎日、夜しぼる。多い時には一升二合ほど出る。体も大きくちちは、おなかの下にぶらりと、ぶどうの大きな房のように垂れ下がっている。木につないで、兄がしぼり、ぼくが足をもつ。気に入らなかったら足を強く動かす。だからゆだんができない。しぼり終わって木につなぐと、ぼくの方に向いて前足を80度ぐらい上げ後ろ足で立って独特の格好をして、「やるか」と言っているようだ。全く、うちのやぎは乳もよく出るが元気もいい。」(勝田郡「勝田の子」1964年刊)
 その雌の山羊がもたらしてくれる乳は、ときたま私が両手を振るに使って搾るときもあった。しかし、握力が要るため、直ぐに手がだるくなってしまう。我が家の山羊に対しては、多少でも家のために役立ってやろうという気があるのなら、それを態度で表してくれて然るべきではないかと思っていた。というのは、本来は両方の乳房を両の手でつかんで、交互に力を入れて左右の動作がリズミカルになるように搾っていくのだが、それができるのは彼女の足がうごいていないことが前提なのであって、機嫌がよくないと盛んに足で蹴るような仕草をするので、搾ることができなくなってしまうからだ。そんなときは、結局、家族の誰かに両足を固定してもらってから、搾りの作業に取り組んでいた。
 一度の搾り作業で、たらいの中に1リットルくらいは溜まるように搾っていたうようだ。それにかかっていた時間は、30分くらいはかかっていたようだ。しかも、当時は握力がまだ弱かったので、続けているうちに手がはじめは緩く、次には例えようもなく腕全体がしびれとともにだるくなっていく。結局、休み休みでしか行うことができず、だんだんに効率は上がずじまいであった。あるとき、その山羊は牝であり、山羊の赤ちゃんが2頭生まれたことがある。この日ばかりは「山羊さん、ご苦労様」という気持ちで祝福した。生まれた子供の山羊は、どこかの家にもらわれていったようである。その出産の日ばかりは、日頃の憎らしい思いは消えて、好物の、たぶん「ねむのき」の葉を沢山採ってきて食べさせていたのではないだろうか。
 記憶によると、私は、その乳を3日に一度くらいには飲んでいた。ミルクの飲み方は、学校でのものと違っていた。大好きな飲み方があって、それは茶碗に入れて放熱にまかせて冷ましていくと、ゆばが付いて、それをまず舌でなめとる。ゆばはぬめぬめした舌ざわりだが、同時にプーンと乳の甘ったるいにおいがしてくる。それから、いよいよミルクの液体にとりかかるのだが、量の手で茶碗を捧げ持って、一吸い、また一吸いと大事に飲んでいく。口の中に入ったミルクは喉を通り、ゆっくりと私の体の中にはいっていく。他の食べ方の中で最も刺激的だと思うのは、ご飯の上にあったかなその乳をかけて食べるのだ。これは、みなさんも一度は試していただきたい、大胆に聞こえるかもしれないが、多分、「こんなおいしいものだとは知らなかった」といわれるのが請け合いだ。
 羊は1頭飼育していた。羊という動物はとてもおとなしい。山羊のような足を振り上げたり、つっかかって来ることは見たことがない。「ウン・・・・・」と置いてから、メンメー、メンメー」というかよわな鳴き声は山羊とどこか似ていた。それなのに、人の心を和ませるのは、それがおとなしい限りの、羊のからのものであることが予めわかっていたからなのかもしれない。
 ある日、我が家におじさんが羊の毛皮を買いに来た。その人は、家族みんなの前でやおら大きめのバリカンを取り出すと、左の腕で羊を抱き込みながら、右手にバリカンを持って、どぎまぎしている羊にバリカンを当てた。「ブーン」という音とともに毛皮がベッタリと剥がれていく。
 日頃から手で感触を楽しんでいた毛皮が商品になるのだという。毛皮をはぎ取られた羊はひよわな姿に様変わりしていた。なんとなくかわいそうだった。その羊は、いつの間に我が家からいなくなったのだろう。いつの間に業者が来て売られて行ったのか、それとも他の誰かにもらわれていったのか、今では知る由もない。ある日、気がついたら、目の前からいなくなっていたということであり、別れというものはなかった。
 当時の給食費の支払いは、先生から渡された集金袋にお金を入れて返すことで行われていた。それでは、おカネを入れて持って行けない場合はどうしていたのだろうか。満足に払えない家庭のためを考えて、「減免願」もいつか配られているのを見た気がする。私の家もかねが乏しいことは知っていたので、人ごとではなかった。
 私は、家族が元気で働いていたおかげで、父母は集金袋金を入れて学校に持たせてくれていた。あの頃も、そして今も、減免の願いを持参する級友もいたように覚えている。当時は貧しい家の子供がクラスに何人もいたようだ。外見だけではわからない、人の痛みを推し量れる人になれと常々言われていた。その人たちの微妙な気持ちを考えるとき、慣れ親しんだ人々への同情で、心が一杯になってしまう。
 2000年(平成12年)2月、私は仕事でインドネシアに1週間ばかり出張で行った。そのとき、現地ジャカルタの子供たちを観察していて、複雑な気持ちになった。というのも、朝方ジャカルタの道を歩いていても、一見して子供たちの服装が違う。ランドセルのようなものを持っている子供たちは、気のおけない仲間と連れだって、表情もゆったり、明るい笑顔で通り過ぎていて、なんとなく裕福な家庭の子供であることが想像できる。ところが、目つきの鋭い子供も沢山いる。彼らは粗末な身なりをいて、物売りをしたり、何も持たずになんとなくたむろしていたりする。理由はなんとなく想像がつくではないか。彼らは学校に行ってる用には見えないし、貧富の差がきわめて大きいのは一目瞭然だ。貧困な子供は、ともかく日本で普通に見られるような子供のような純真な表情ではない。
 我が小学校のクラスの花壇では、それぞれの花の植え場所は限られているので、その季節には花々でごったがえしていた。ヒヤシンスが西洋彫刻のような美しい花を付けた。夏はカーネーション、グラジオラスやあさがお(朝顔)が花壇を飾った。あさがおの花は大変面白いが、デリケートな花でもある。竿縦をしていると、1~3メートルの高さに左巻きに蔓が登る。朝はシャキッとしているものの、昼にはヘナとなりしぼんでしまう。可憐なところは春のツユクサと似ている。そろそろ秋に咲くコスモスも枝ぶりを豊かにしつつあって、季節が巡るうちに花壇の花々もまた移り変わっていく。
 夏休みの初めはゆったりと時が流れるものだ。夏休みに交代で学校の朝顔に水をやりに来ていた。色は白、紫、赤であったろうか。グラヂオラスは南国の花のように赤いたたずまいで情熱的な色をしている。それでいて暖かい印象を人に及ぼす。後年、交配された結果めずらしい色の朝顔があるということで驚いた。花壇の花々にはブリキ製のジョウロを用いて水をやった。
 下校のときにも遊んだ。西中から西下への境界あたり、水車のあたりがその場所であった。                 
「春の小川は さらさら行くよ
岸のすみれや れんげの花に
すがたやさしく 色うつくしく
咲いているねと ささやきながら」(高野辰之作詞、文部省唱歌)
 村には、水車が二つあった。私はその両方に入ったことがある。ひとつは、北の方から「田柄川」が西下に入ったところの通学路のそばにあった。水車が勢いよく回る季節には、周辺には彼岸花が沢山咲いていた。今ひとつは、同じ川をさらに400メートルくらい下ったところの西下公会堂の近くにあった。この南の方の水車の回りには、その季節、菖蒲(しょうぶ)が咲いていた。
 今から思えば、近づいて手で触れようとするなど、水車に巻き込まれかねないような危険なことまでしていた。昔から、男の子の何人かは何らかの事故で大怪我をしたり死んだりすると聞いているが、当時においても危険ととなり合わせの遊びがあった。
 楽しいところでは、この学年であったろうか、家庭科の実習で料理を作った。りんごのジャムをつくった。まずはりんごを摺っておろし、それを小さな鍋に入れて暖め、味を引き立たせるために砂糖も入れる。それから、自然にゆっくり冷やすとできあがる。学校給食でパンが出ていたので、先生から、それに小さなマーガリンとかジャムをつけて食べることを教えられた。そのようなことも幸いして、男子も厨房に入って料理にいそしむことを学び、家でも野菜を刻んだり、そのほか母の料理を手伝うのになれていったような気がしている。
 家庭科には、裁縫の時間もあった。こちらは、刺繍を造るのが大のお気に入りだった。裁縫枠(木の丸い枠)で布を囲んで浮き上がらせ、その中に糸を繰り返し通して花柄などをあや取っていく。デザインの種類はとにかくいろいろあった。それらを見よう見まねで試みる。その労を厭わなければ、創作の喜びは至る所にあるものだ。
 おかげで、今でも家内が不在なときにほころびを見つけたら、一つ縫いつくろってみようかという気持ちにもなる。このような習慣が、広い意味で自分の身についた一つの技術であるのなら、ありがたいことだ。
 理科の授業のなかでは、講堂の壁に置いてあったテレビを観に行った。テレビはかなり高いところにしつらえられていて、前後に行儀よく並んで、膝を抱えて座り観た。騒ぐ人はいなかった。その頃の子供は、「ここぞという時」には親の躾けがしっかりしていたのかもしれないし、先生の指導が行き届いていたのかもしれない。

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