○○32『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語の成立

2017-07-29 22:23:16 | Weblog

32『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語の成立

 それぞれの民族が形成されていくとき、その代表的な属性としては、言葉の存在がある。今日の私たちは、弥生時代(現時点の大方の見立ては紀元前10世紀頃)に入ってからの、話言葉としての「古代日本語」の成立について、どのくらいわかっているだろうか。日本語の系譜として考えられているものとしては、その1として北方語系統説、その2として南方語系統説、それから3番目として複合語説があるとのこと。残念ながら、現代日本語の成立を巡って未だ定説らしきものは見あたらない。多数説というものもない、現時点までの言語学では明確な答えが見つかっていない。
 そもそも、言語というものは、外ならぬ人が運んでくるものだ。弥生人がこの列島に押しかけてくる直前までの縄文人一般がどんな言語を話していたかは、彼らがどこからやってきたかと同様に、いまだによくわかっていない。これを「古代日本語」ということで締めくくるなら、アイヌ語はその縄文語の範疇(カテゴリー)の中に入っていた。言語学者のアレキサンダー・ヴィヴォンが指摘しているように、本州東国の「武蔵」や「足柄」の地名に係る日本語の解釈としては、成り立ちにくい(例えば、アレキサンダー・ヴィヴォン「萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布」国際日本文化研究センター、2008)。
 ところが、アイヌ語に置き換えると、それぞれ発音が似て、意味も「草の野原」、「清いところ」となる。日本最古の歌集『万葉集』中に東国歌(あづまうた、古代東国日本語を使う)、防人歌(さきもりうた、常陸国と上野国出身の者によるもの)、肥前風土記歌謡に時を意味する「しだ」(同士の後に続く名詞として)が含まれることも、日本語では解読不可能に近い。ところが、アイヌ語ではこれを二つの言葉からなる合成語として扱うことができる(例えば、瀬川拓郎「アイヌと縄文ーもうひとつの日本の歴史」ちくま新書、2016)。

 もっとも、古代東国日本語には、時を意味する言葉として「とき」を活用することもあることから、両者の用法が並列して用いられていたのかもしれない。縄文語の外にも、琉球王国で使われていた琉球語(いわゆる琉球方言)が取り沙汰されることがあるものの、「服部四郎は、琉球方言の首里方言が日本語と分岐したのは1500~2000年前と推定」(浅川哲也「知らなかった日本語の歴史」東京書籍、2011)とのことなので、これだと古代日本語から早ければ6世紀頃に分岐し、そのまま日本語と「姉妹語」のような言語として明治の琉球併合を迎えたことになるのだろう。
 では、縄文人の後にやってきた、後に弥生人と呼ばれる人々がやって来てから操っていた言語は、どのようなものだったのだろうか。こちらを「古代日本語」としてみると、これとてもそのルーツについて確かなところはわかっていない。最初の体系だった説としては、子音が語頭に二つ来ることを嫌ったり、語頭にr音が立たなかったり、冠詞がなかったり、動詞の変化が膠着法によっていたり、動詞につく接尾辞・語尾がかなり多いなどの特徴からウラル・アルタイ語系統の言語だと位置づける。この中の一説には、初めの頃の人々は謬着語(こうちゃくご)に属する古代朝鮮語を中心に話していた。もしそうであれば、この地で、縄文語と古代朝鮮語を核として古代日本語が追々形成されていったのではないかという。
 具体例を挙げてみよう。梅原猛氏によると、動詞と格助詞(「を(お)」や「へ」に代表される)からみて、「この二つのことは、抱合語であった縄文語が弥生人に使われることによって謬着語になり、日本語になったことを物語っている」(2006年2月21日付け朝日新聞掲載の「金田一理論の光と影」)のだといわれる。しかしながら、その古代朝鮮語も古代中国語も音節(シラブル)の最後が子音で終わることのある、言語学上の閉音節構造をもつ言語なのであって、音節の最後に必ず母音(現在のカタカナの音の響きで言うとアイウエオとなっている)が来る、開音節構造の(上代)日本語とはことなっているのは、動かし難い。
 二つ目の、日本語が南方からやってきたという説については、近年の学会で有力になりつつあるらしく、具体的な候補としては、ホリネシア系統の言語が上っているとのこと。古代日本語の特質としての、言語学でいうところの連母音(一つの単語の中で母音が並ぶこと)を嫌うことがあったり、開音節構造をもっていることがあって、それらのことと一致するのだというが、これとても決め手は見つかっていないようだ。また、南方からの人類の渡来が、縄文人からの足跡において、他のルートに比べ特段はっきりしているわけでもあるまい。もし黒潮に乗って船を操ってきたのだという推測が成り立つのであれば、現実味が広がることになるのかもしれないが。
 仮説はさらにもう一つあって、それによると、古代日本語は幾つかの言語の混合として造られたのだという。これに拠るのは、幅広い。具体例として、ポリネシア系統の言語を基層としつつ、アルタイ語系統の言語を上層と考えるのも、これに含まれる。ここでは、そうした混合説の立場からだと思われる一つを紹介させていただこう。
 「日本民族はこの日本列島に旧石器時代より定着して、それ自身で増殖して現在に至ったというよりも、旧石器時代人の子孫は存在していたとしてもそれは比較的少数であって、むしろ海外より渡来した諸種の民族が雑居し、さらにより有力な文化を持った民族が渡来して次第に日本民族が形成されたという説が有力である。その渡来した民族を二大別すれば、一つは南方民族であり、もう一つは北方民族である」(馬淵和夫「国語音韻論」笠間書院より引用)
 ここに言われる「南方民族」と「北方民族」の構成と地理上の範囲が判明していない間は、彼らがこの列島への移住の際持ち込んだであろう言語構成も多様なものが合わさったものであったと考えるのが自然なのではないだろうか。いずれにしても、旧石器時代から縄文期を経て弥生期(2016年夏現在、一応は、前10世紀から後3世紀頃までという説をとる専門家が多いように見受けられる)に至るまでの間に、話し言葉としての「倭語」もしくは「日本語」がゆっくりと形成されていったのではないかとも考えられる。そしてそのことが史実であるのなら、主として朝鮮半島を通って日本列島に渡来した北方系と、それ以前の主に南方系の人々との合成体の総体が私たち日本人の祖先であるなら、それらの南方糸と北方系のおのおのの言語が出会って、混じり合いながら、しだいに融合してゆく過程で成立していったものこそ、今日につながる日本語の原点、源流なのかもしれない。

(続く)

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○○29『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の文化

2017-07-29 21:53:39 | Weblog

29『自然と人間の歴史・日本篇』縄文時代の文化

 縄文時代の文化の特徴ないし「妙」とは、何であろうか。現代人のそれへの思いを育んでくれそうなもにのに、土偶がある。土偶というのは、粘土で作り、焼いた人形である。現代人から見ると、高度な技術と芸術性の体化したものとして作られたと考えがちだが、おそらくそうではあるまい。もっと素朴なものとして観賞するものとしてあるのではないか。
 土偶は、何しろ日本列島の東半分を中心に、全国各地の縄文遺跡から発掘されている。個数は、万を下るまい。遺跡年代は、今から一万五千年程前頃に始まり、その後一万二千年以上もの長い間続いた。人々は、竪穴式住居に住み、土器を作って食べ物を煮炊きし、採集狩猟(海川のものや森、空を飛ぶものものなど)、もしくは栗などの自然果実の栽培を生業(なりわい)にして生活をしていた。

 土偶は、そんな縄文時代の人々が、何か大事なもののために、作っていたものだと考えられるのだが、その何かについては、諸説があって、未だにはっきりしていない。姿かたちのバリエーションは実に豊富で、縄文時代の時期によっても、地域によっても、形が随分異なる。大きさも、数センチのものから40センチメートル以上のものまで出土しているとのこと。現代人にの想像をかき立てる、国宝土偶の5体を始とするものからは、古代人の美意識の片鱗が伝わってくるかのように感じられる。
 国宝「縄文のビーナス」は、長野県茅野市棚畑遺跡から出土した。縄文集落の中央部の穴から、ほぼ完全な姿で発見された。推定年代は、紀元前12000年前頃から紀元前300年頃までのどの時点かであって、はっきりしていない。この像は、出産や生命繁栄への祈りを表しているのかもしれないし、人間の姿には見えないものもたくさんあり、何らかの精霊を表したものなのではないかとも。これを拝見した時の自身の手記に、こうある。
 「2000年10月21日の午後10時から教育テレビで「縄文のビーナス・火焔(かえん)土器」の放映がありました。5月1日に両方とも上野の国宝展で見ていたので、今度は余裕を持ってしっかりと理解することができました。
 20センチメートルを超える寸法の土偶を「大型土偶」といい、個人ではなく共同体の祭祀に用いられていたのではないかとナレーター氏がいう。いまから6千年も前に縄文のビーナスの前で人々が何やら祈りを捧げている光景が目の当たりに浮かんできて、しんしんとした感情に浸りました。
 博物館ではビーナスの表情を何度ものぞき込みました。20センチくらい離れたガラス越しの観察でした。子供のころに昆虫の目を見た感覚がよみがえってきました。胴体のくびれは圧倒的なまでの豊穣さで、解説者の言われたことに同感です。頭の上の部分にはぐるぐる巻き、その下にはS字の模様が施されていました。輪廻転生の願いが込められているのでしょうか。少し離れて見ると、前から、横から、後ろから、その三態の変化を楽しむことができるたぐいまれな土偶に違いありません。
 唯一、ナレーターと解説者が触れなかった印象について述べてみますと、それは当然のことながら縄文のビーナスが小麦色の裸をしていました。小学校や中学校の教科書には必ず出てくる国宝の埴輪像も陳列されていたが、それは兵士のような姿をしていました。
 それにひきかえ、かのビーナスは裸一貫のほかは何ものも身にまとっていません。相対する人間もまた裸の姿で向かい合うのが順当となのかもしれませんね。そんな想いさえ、どこからともなくやってきて脳裏をよぎっていきました。人は裸で生まれ、また裸で死んでゆかねばなりません。テレビ画面を見ていて、生きてあるうちにおまえは何をするかとビーナスに問われているような気がしました。」
 国宝「縄文の女神」(じょうもんのめがみ)は、西ノ前遺跡(集落跡)(山形県最上郡舟形町)から出土した、土製素焼きの土偶である。作られた年代は、縄文時代中期の約4500年前と見られている。この頃までの土偶には、顔らしきものが付いていないのが多くあるらしい。胴は逆三角形の薄い板状となっていて、背筋はすっくが伸びている。これに半円形で扁平な頭が乗っている。顔面はのっぺらぼうで、表情というものは略された形だ。頭部の周囲には円い穴が連続していることから、帽子のようなものを被っていたのであろうか。下半身はと言うと、尻は控えめ、脚は堂々と直立しており、なおかつ長い。高さは45センチメートルあって。立像では現存最大の高さを誇る。威風堂々たる体躯(たいく)といえるだろう。出土した時は五片に請われていたが、接合して復元がかなった。この像には、豊饒(ほうじょう)を願う人々の気持ちが凝縮されているのだと評される。
 国宝「仮面の女神」(かめんのめがみ)は、長野県茅野市の中ッ原遺跡、集団墓地の一角から出土した。縄文時代の後期、紀元前2000~前1000年のものと見られている。高さは34センチメートルある。顔面に特徴があって、頭部の前に逆三角形の扁平な仮面を被っているように見える。頭にベルト付きの仮面を被っていることから、その仮面を頭の後ろでゆわえていたものか。下半身は図太くできていて、臍(へそ)や臀部(でんぶ)は安産型の女性をイメージしているのであろうか。全体としてのいでたちから推測するに、何かの儀式の主役、あるいは冥界へ行く時の魔除けの役割を演じる役割で作られたのかもしれない。
 国宝「合掌土偶」(がっしょうどぐう)は、青森県八戸市風張遺跡から出土した。縄文時代の後期、紀元前2000~前1000年のものと見られている。こちらは、中年以降の女性であろうか、祈りのポーズをとっている。
 国宝「中空土偶」は、北海道函館市著保内野遺跡から出土した。縄文時代の後期、紀元前2000~前1000年のものと見られている。41.5センチメートルある。髪型の部分と手が欠損しているものの、全体像は確かだ。中空の構造となっていて、墓に埋まっていたことから、死者を某か弔うためであろうか。
 さらに現代人に人気が高いということでは、明治年間に、青森県つがる市亀ヶ岡遺跡から出土した「遮光器土偶」(しゃこうきどぐう)がある。高さこそうるふ34.2センチメートルながら、肩、両の腕を張り出し、どしんと構えている。最大の特徴は、である。現代風のスノーゴーグル(護眼器)を眼に架けているように見えることから、この名が付けられたらしい。兎に角眼が大きくて、眼部の誇張が尋常ではない。まぶたが上の方からと下の方からとが真ん中で出会うようにして、閉じられている。堂々とした姿形にしてこのどでかい眼ということなので、何かを守ろうとしてのことなのだろうか、尚更周囲ににらみを聞かせているような印象を与える。

(続く)

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○6『自然と人間の歴史・日本篇』新生代からの日本列島(1700~1500万年前)

2017-07-28 09:08:56 | Weblog

6『自然と人間の歴史・日本篇』新生代からの日本列島(1700~1500万年前)

 さて、1975年(昭和45年)になって、埼玉県秩父市大野原の荒川岸で、地元の高校生により哺乳動物化石の発見があった。「パレオパラドキシア」(学術名で「昔の矛盾」という)のものとみられ、体長が2メートル程もあり、海に棲息していたのだという。朝日新聞によると、どうやらその頃の日本列島には、湾や入江、島が多数点在していたようで、最近その一部の標本が一般に公開された。
 「秩父地域に海があり、「湾」になっていたことを示す六つの露頭(ろとう、地層の露出した崖)と化石標本が、国の天然記念物に指定される見通しとなった。国の文化審議会が20日、日本列島が形成された当時の地殻変動や生物の状況を示し、天然記念物にふさわしい、と文部科学相に答申した。指定されれば県内で48年ぶり。県内の国天然記念物は12件となる。
 県教育局によると、指定されたのは「古秩父湾(こちちぶわん)堆積(たいせき)層及び海棲(かいせい)哺乳類化石群」。秩父市と皆野、小鹿野、横瀬の3町に分布する露頭と、周辺で発掘された哺乳動物「パレオパラドキシア」などの化石9件で、複数の露頭と化石群の複合指定は国内初めて。」(朝日新聞、2015年11月15日付け)
 現在の秩父盆地一帯に、約1700万年前、「古秩父湾」と呼ばれる東に開いた湾が誕生した。それは、日本列島が誕生して間もない頃のことだった。「列島といっても、今日のような形では到底なく、「関東山地を中心とした地域は一つの島を作り、現在の秩父盆地の西縁まで海が広がっていました」(埼玉県広報紙「彩の国だより」2016年3月号、No.542)とされる。つまり、日本列島が誕生して間もなく、現在の関東山地を中心とした地域は一つの島をつくっており、これまた現在の秩父盆地の西縁まで海が入り込んでいたと考えられるのである。
 約1600万年前になると、関東山地全域が沈降すると、ほぼ関東全域が深海に沈む。約1550万年前には断層運動で湾の東側が隆起する。そのため、砂や泥の堆積で浅い海に姿を変わる。そうなってくると、海に生息するほ乳類(海棲ほ乳類)が気持ちよく泳ぎ回ることができたのだろう。
 そして1500万年前頃になると、東側の土地、すなわち古秩父湾東縁の隆起がさらに進んで湾が閉ざされるに至る、ついには古秩父湾が消滅したと考えられている。この際に隆起した地域が現在の外秩父山系の原型となっている。ついでにいうと、古秩父湾があった地域では、日本列島が形成された時の堆積物を連続して残す地層と、当時の生物化石が見られるとのこと。これらは、2016年3月に「古秩父湾堆積層及び海棲哺乳類化石群」として、国の天然記念物に指定された。地層と生物をひとまとめて天然記念物としてのは、日本でこれが最初だという。
 ここに棲息していたとされる「パレオパラドキシア」は、新生代に属する新第三紀の最初の世、中新世(今からおよそ2300万年前~530万年前)の地層から見つかった。この中新世の初期には、ヒマラヤ・チベットの地層の上昇のあったことが確認されている。この時代の地層は、「日本では分布が広く、各種の化石に富み、石油、石炭の主要産出層準になっている」(ブリタニカ百科事典)とある。この地層からはそのほか、「チチブクジラ」の化石も見つかっているとのことである。クジラの祖先は、およそ5300万年前にいた陸上生物パキケトゥスが再び海に戻ったために前脚と後脚が退化したと考えられている。
 では、日本列島の西での状況はどうであったのだろうか。一例として、瀬戸内海を選んでみよう。有力説では、日本列島は2500万年前の漸進世までは、まだアジア大陸の東の端にあった。その後、中新世に入ると大陸の端が裂けて日本列島は少しずつ大陸から離れていくのであった。そして1700万年前頃になると、この裂け目に海が入って日本海が誕生したのではないか。「島弧」としての日本列島が誕生した。このとき、日本海の開口に関係してグリーンタフ変動とよばれる広域的な火成・堆積活動が発生したのではないかと考えられている。
 さらに新生代第三期新三期中新世(2400~500万年)の終わりにさしかかり始める頃、今から約1600~1500万年前になると、九州北部から瀬戸内海に沿って、さらに奈良・三重から愛知あたりまで、東西の帯状に、安山岩を主とする火山活動が新しくなった。そしてこの頃、瀬戸内海は既に出来ており、現在の中国地方のかなりの領域において、海が進出していたのであろう。
 このクジラ化石ということでは、他にも色々と見つかっている。1995年頃、現存する富岡製糸工場のそばで新生代中期中新世(およそ1597万年前~1161万年前)のハクジラの化石が発見されている(化石研究会編「化石から生命の謎を解くー恐竜から分子まで」朝日新聞出版、2011より)。このようなクジラの化石は、世界各地で見つかっている。エジプトの砂漠地帯の地層に露出するクジラは、「約3700万年前のドルトンとバシロサウルス、いずれも退化した後脚が残っているはずだが、残念ながらわかりづらくなっている」(白尾元理「地球全史の歩き方」岩波書店、2013)とのこと。
 その頃、今日本列島のあるところのどのくらいが海に浸かっていたのだろうか。この列島が形成されたのは、新生代の新第三紀(2300万~260万年前)に入ってからのことであった。地層分布は、そのほとんどが5億500万年前から6500万年前までの古い岩石からできているのだという。それまでアジア大陸の東端にあったのが地殻変動によって、大陸から離れる力が働いた結果である。これについては、色々と簡単な地図として描かれている。いずれも幾つかの発掘の事実をプロットしつつも、それらを線につなげ、その中のぼんやりと海とおぼしきところを塗ったりしている。
 ここで興味深いのは、2000万年前まで、この列島においての東日本と西日本の間に「フォッサマグナ」(ラテン語で「大きな溝」)と呼ばれる大地構造帯がまだ形成されていなくて、この地域は海であったと推定されていることだ。この2000万年前よりの新しい岩石からできているフォッサマグナと呼ばれるのは、「糸魚川ー静岡構造線と新潟県の柏崎(かしわざき)と千葉を結ぶ断層である柏崎ー千葉構造線および新発田(しばた)ー小出構造線という新層にある地域」(宇都宮聡・川崎悟司『日本の絶滅古生物図鑑』築地書館、2013)のことなのである。

(続く)

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○○20『自然と人間の歴史・日本篇』魏志倭人伝などに見る倭(倭の大乱)

2017-07-25 21:23:17 | Weblog

20『自然と人間の歴史・日本篇』魏志倭人伝などに見る倭(倭の大乱)

 すなわち、『魏志倭人伝』の後漢の桓帝、霊帝の頃の段になると、「桓霊の間、倭国大いに乱れ相攻伐すること5、60年」とあって、倭国が大変乱れ、人々は困窮に瀕していたらしい。57年(当時の中国暦で建武中元2年)、後漢の初代皇帝(ファンディー)の光武帝の前に「倭」からの朝貢の使者がやってきた。皇帝は、はるばる海を越えやってきた使者一行をさぞや厚くもてなしたのであろう。その証拠に、「倭」の「奴国」という国の「王」に対し金印を与えた。そのことが『後漢書』(巻八五 列伝巻七五「東夷伝」)に記されているのだ。
 その印は、それから千五百年余の時を経て、江戸時代の志賀島(しかのしま、九州の博多沖)で農民の手により偶然発見された。僅か108グラムのその印には、日本の古代史上最も著名な「漢委奴国王」の五文字、「漢が倭をそなたに委ねる」意味の刻印がなされている。後漢の光武帝が与えたものと異なるのでは、という話もあったものの、1981年(昭和56年)中国江蘇省のレンガ工場の地で偶然、光武帝の子である劉荊(りゅうけい)に送られた金印が発見された。その印と志賀島で発見の印との類似性が明らかになった。後日談として、2015年の上野で開催された国法展に、その印が一般公開され、往年のファンの熱い眼差しが注がれた。
 ここに奴国(なこく)とあるのは、どんな国であったのだろうか。後に邪馬台国(いわゆる「女王国」)の時代にあった、邪馬台国を支える連合の構成国の一つなのかもしれない。邪馬台国がしばしば「女王国」と通称されるには、されなりの事情があった筈だ。そこで、以下では、そのことが記されている3つの中国王朝の「正史」から、当該の部分を並べてみよう。
 「其國本亦以男子為王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫婿、有男弟佐治國。自為王以來、少有見者。以婢千人自侍、唯有男子一人給飲食、傳辭出入。居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衛。」
(引用元『魏志倭人伝』)
 「桓霊間(146~184年)倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。年長不嫁、事神鬼道、能以妖惑衆。於是共立属王。侍婢千人、少有見者。唯有男子一人給飲食、傳辭語。居處宮室樓觀城柵、皆持兵守衛。法俗嚴峻。」(引用元:『後漢書東夷伝』)
 「漢靈帝光和中、倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿、挾鬼道、能惑衆、故國人立之。有男弟佐治國。自為王、少有見者、以婢千人自侍、唯使一男子出入傳教令。所處宮室、常有兵守衛。」(引用元:『梁書倭国伝』)
 つまり、その国、邪馬台国の王たる人は、元々男性であった。ところが、その治世は七、八十年で中断し、倭国は内乱の状態となってしまう。やがて鬼道(五斗米道の教え)に達者な一人の女性を王として共立したことで、さしもの大乱も収拾されたらしい。その女性の名を「卑彌呼」(卑弥呼とも綴る)といった。年齢は既に若くなく、夫もいない。弟がいて、国の統治を補佐したのだとされる。しかも彼女の住んでいるのは城柵の中に建てられた楼閣の上の階であるというのだから、彼女の住居全体は一年を通ど霊験新たかの上にも堅固に守られていたらしい。
 ともあれ、当時の倭国を知るには、私たちはまずもって『魏志倭人伝』に多くを頼るほかあるまい。日中友好が叫ばれるようになって久しい。しかし、私たちは当時の文明国、中国に思いを馳せ、敬意を払ってきたであろうか。これによると、239年(魏(ウェイ)建国19年目)、倭王・卑弥呼の使者、「大夫」(大臣)難升米(なんしょうめ、なんしょうまい)らが魏に朝貢した。このとき、生口(せいこう)と呼ばれる奴隷10人と、絞り染めの一種である斑布二四二丈を献上した。これに対し、魏の明帝(めいてい)から卑弥呼へは、「親魏倭王」の称号と、その称号を記した金印紫綬(しじゅ)を授けた。この決定に基づき、241年(正始元年)に、魏の直轄領の帯方郡(たいほうぐん)太守の弓遵(きゅうじゅん)が建中校尉の梯(てい)を卑弥呼の元に遣わし、金印紫授を届けさせたという。
 こちらの金印は、未だに日本では発掘されていない。また、使節団のもたらした貢物(みつぎもの)への返礼として、魏から邪馬台国側に下された賜物とは、こう地交竜錦(こうじこうりゅうきん)五匹、こう地しゅうしょくけい十張、せんこう五十匹、紺青五十匹に、紺地句文錦(こんじくもんきん)三匹、細班華(さいはんかけい)五張、白絹五十匹、金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、鉛丹各々五十斤を特別に加えたのだといわれる。
 他にも、公孫氏に対しても、倭からは積極的に朝貢していた。ここに公孫氏とは、190年頃から遼東半島に勢力を伸ばし始める。200年には、公孫度が「遼東侯・平州牧」として独立国となる。それからは、公孫氏はしだいに山東半島までの領有に発展していく。204年、公孫度が死に、後を継いだ公孫康は、すでに領有(その前は後漢の楽浪郡)していた楽浪郡を二つに分け、南半分を帯方郡として治めることにする。
 こうなると、倭諸国の中には、公孫氏に組しようと考える者も現れてくる。220年、公孫氏は、魏に近づき「持節・楊列将軍」の爵号を手に入れる。やがて呉は、魏に対抗するため公孫氏との連携を画策し、公孫氏は237年に「燕」を建国し、呉側につく。おりしも、魏と呉との間を行きつ戻りつの外交を魏に咎(とが)められたのか、238年、魏の明帝から派遣された司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)によって滅ぼされてしまう。
 こうして弥生期の終わり、3世紀前半の日本列島には、まだ「一つの倭国」又は「一続きの倭国」というまとまったレベルではないとしても、「王」又は「大王」などと呼ばれる者が複数人、およそ数十人もいたらしい。彼らは、互いに離合集散の結果、この時期までの倭では、諸部族国家は「邪馬台国」という名の連合国家を構成していた。その構成員たる王たちの統治する国々とは、大方は農耕を中心とする社会構成体としての部族国家であったろう。彼らの先祖は、弥生期の約1200年の間に縄文社会を徐々に北へ北へと追いやり、あるいは自分の中にそっくりあるいは少しずつ採り入れ、編入していった。そのことにより、その支配を拡大し、さらに3世紀になってからは部族国家が単独で支配を分かち合うのではなく、連合国家をめざした統合へ向けて動くに至っていたのだと考えられる。

(続く)

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○○81『自然と人間の歴史・日本篇』神話・伝承による創世記と国家誕生の過程(天孫降臨への道)

2017-07-09 18:47:48 | Weblog

81『自然と人間の歴史・日本篇』神話・伝承による創世記と国家誕生の過程(天孫降臨への道)

 さて、スサノオからさらに時間が経過すると、今度は新しいヒーローが登場してくる。
前の話のくだりで、アマテラスの弟とは、『日本書紀』では素戔男尊(スサノオノミコト)、『古事記』では建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト、略称は「スサノオ」)であった。そのスサノオから数えて7代目(スサノオの6代後)にしてこの地上の国を支配するに至るのが大国主大神(オオクニヌシノオオカミ、略称はオオクニヌシ)であったとされる。ここでの伝説の話を総合すると、政治的敗者としてのオオクニヌシは、人間という衣は被っていても、人間そのものではない。彼も例によって神の系列に属し、強いて言うと「半神半人」と言うべきか。
 その彼は、大層働き者で、またなかなかの人物であった。かつて先祖のスサノオが降り立った人間の住む世界である葦原中つ国(あしはらのなかつくに)で、平定・支配を成し遂げようと踏み出す。やがて、オオクニヌシはスクナビコナとオホモノヌシという二人の協力者を得、彼らとともに鋭意国作りを進めていく。そして迎えたある日、『日本書紀』(神代下)の記述によると、は、葦原中つ国の主、つまり「大王」になったのだ。こうして、かれが苦労して国をつくり終わると、どこからか不思議な光が海の中からやってきて、それが大己貴の「幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)」で、日本国(やまとのくに)の三諸山に住み、大三輪の神となったという。ここに大三輪(の神)とは、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)のことをいう。しかも、大神神社の祭神は大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)、配祀が大己貴神と少彦名神で、大己貴神(オオナムチノカミ)は大国主神の別名でもあるというから、驚きだ。
 ひとまず完成の成ったこの国がどのくらいの規模であったかは、つまびらかではない。そこにどれくらいの数の民がいたかは見えないものの、その国は賑い栄えたという。それからも、話は続く。天上からそれを見ていたのが、スサノオの姉である天照大御神(アマテラスオオミノカミ、略称は「アマテラス」)であった。彼女は、弟のスサノオのように地上に降りてきていろいろ活動を行う神ではなく、天上にいる。しかも、彼女には、神そのものか、もしくはそれに近い立場の半神であるかのような威厳が漂う。とはいえ、ここに言われる神とは、欧米や中東で発したような、一神教の絶対的な力を持って、人々に全面服従を求める存在なのではない。こちらの神は、彼の地のものよりもっと人間味があって、もっと曖昧で、それだけに茫洋(ぼうよう)な存在として措定されている。
 ともあれ、彼女はずっと葦原中つ国の建国と発展を見ていて、それを是非ともほしいと思うようになったのだ。そこで、国を譲るように伝える使者を地上に派遣した。何度も、執拗であったらしい。しかし、なかなかにオオクニヌシの同意をとりつけることはできなかった。アマテラスに比べ力に劣るオオクニヌシは、これを無視することはできないものの、なんとか諦めてもらいたかった。それもその筈、彼女は力づくでその国を横取りしようと思っていたに違いないのだから。平たく言うと、「それをこちらによこせ」と脅されたのだから、随分と怒ったこどてあろう。
 そして迎えたある日、アマテラスから最強の勇者として派遣され、地上にやってきたのが、タケミカヅチとアマノトリフネの二人の神だった。この二人は出雲の国の稲狭の浜に降り立ち、オオクニヌシに国を譲るように談判に及ぶ。オオクニヌシはしぶったものの、これまでのように無視したり、ごまかしたり、撃退することはできない、敵もさる者と悟ったのだろう。コトシロヌシとタケミナカタの二人いる息子に聞いてくれと言う。息子の一人であるコトシロヌシは、余りの怖さに国譲りをあえなく承諾してしまう。ことによると、うまく丸め込まれてしまったのかもしれないが、一応はやってきたタケミカヅチに対し、コトシロヌシは「お言葉に従います」と答えた後、自分の乗ってきた船をひっくり返し、その船に隠れてしまったことになっている。おそらくは、内心は相当の傷心であったのだろう。
 もう一人の息子タケミナカタは敗北を承服せず、タケミカヅチに力比べを申し入れる。
けれども、アマテラスの家来のタケミカヅチは強かった。タケミナカタを圧倒し、退く彼を諏訪の海まで追い詰める。とうとうタケミナカタはこの地から出ないことを誓わせ、服従させる。代理戦争というべきか、勝者の二人はこれをもってオオクニヌシに再び国を譲るように迫った。オオクニヌシとしては、両手をもがれたも等しく、降参するほかはないと考え、それでも国を譲る条件として、天のアマテラスが住むのと同じくらい巨大な宮殿に住まわせてほしいと言った。アマテラスは、この願いをかなえてやった。社ができると、敗北者のオオクニヌシは移り住み、現代に伝わる、島根県出雲市の出雲大社の祭神に収まった。これが出雲大社の起源といわれる伝説・物語の大筋である。
『日本書記』(巻第二、神代下(第九段)一書第一)によると、彼女がこうして得た領地・領民を統治するため、自ら次の勅令を発したという。
 書き下し文:「天照大神は、(中略)。そして皇孫に「葦原千五百秋(あしはらのちいほ)瑞穂国(みづほのくに)は、是(これ)、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(つち)なり。」
 要するに、当時の天下万民に広く与えるのではなく、自分の血筋である皇孫に譲ろうとした、まさに「家族、私有財産及び国家の起源」(フリードリヒ・エンゲルス)にまつわる大義名分を子孫に与えようとしたことになっている。
 こうして地上の支配はスサノオの系譜から、アマテラスの系譜へと移る。万事してやったりのアマテラスは、さぞかしほくそえんだことだろうと。物語はその後のオオクニヌシのことは特別伝えていないので、失意の晩年を過ごしたのであろうか、それとも諦めよろしく、何か別の生き甲斐をみつけていったのであろうか、測り知れない。
 ところで、『古事記』はまた、最有力の青銅器文化を持ち、大陸からの鉄器にも関わっていたと考えられる出雲の勢力と、もう一方の後の倭(ヤマト)朝廷に連なる勢力との関係を取り持つ記述を行っているため、以上に紹介した『訓紀』(『古事記』と『日本書記』をあわせての略称)からの話とは、単に伝説の類ではなく、その中に歴史的事実も含まれるのではないかという向きもある。なお一説には、出雲の国を邪馬台国そのものとし、後のヤマト勢力とは九州から攻め上がって邪馬台国に「国譲り」させたヤマト勢力の前身であるとする向きもあるものの、これらの話は総枠・全体としてはやはり伝説なのであって、そのまま歴史的真実を語っているものではありえない、と考えられる。

(続く)

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○○82『自然と人間の歴史・日本篇』神話・伝承による国家争奪の過程(天孫降臨とその後)

2017-07-08 08:08:39 | Weblog

82『自然と人間の歴史・日本篇』神話・伝承による国家争奪の過程(天孫降臨とその後)

 こうして武力もしくは懐柔など、あの手この手を使って地上を制したアマテラスは、自分の息のかかった孫のニニギノミコトらの神々を地上の九州に遣わす。この関係であるが、ニニギノミコトは女性神であるアマテラスの孫にして、天忍穂耳尊(アマノオシホミミノミコト)の子というのであっても、血筋がどう繋がっているかはなんら語られていない。アマテラスがどんなにして、その子の親を懐胎したのかは問うべくもない、それが神のなすことであるから、人知の及ぶところでない、ということになっているのかもしれない。これを「天孫降臨」(てんそんこうりん)と呼んでいる。
 さあ、これでオオクニヌシに代わってこの国を治める、新しい支配者が現れるための前提がととのった。このようにして、平定された葦原中国にニニギノミコトが降り立つ。そこに忠臣として登場した猿田彦命(サルタヒコノミコト)を道案内に従え、三種の神器を携え高千穂(たかちほ、現在の九州の宮崎県高千穂町あたりか)にやって来る。地上に住み出したニニギノミコトは、そこで木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)と出会い、二人は恋になり、結婚する。こうして彼らは、日本列島版の創世記・人間の登場の巻というべきか、かの「アダムとイブ」の関係になったのだ。その子供は二人いて、兄が火照命(ホデリノミコト、通称は海幸彦(ウミサチヒコ))、弟の方を彦火火出見尊(ホデミノミコト、通称は山幸彦(ヤマサチヒコ))というのであった。
 ところが、この両人は仲が良くなくて、とうとう争いを起こす。海の呪力を得た弟・山幸彦に、兄・海幸彦は劣勢に陥り、約束して服従ことになる。勝利者となった山幸彦は、かねて親しく霊力をもらっていた、海神の娘である豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト、略称はトヨタマヒメ)との間に一人の子を設ける。ところが、これから出産という時になって異形の姿を山幸彦に見られてしまったトヨタマヒメは、子供を生みに実家へ帰ってしまう。そして生まれた山幸彦の子はトヨタマヒメの妹を娶り、二人の間に4人の子が生まれる。それがイツセ、イナヒ、ミケヌ、カムヤマトイワレビコとある。これらのうち末子の正式名称カムヤマトイワレビトが、後に「神武大王」(じんむだいおう)として即位する。先に天孫降臨したニニギノミコトから4代目のことであった。この神武大王については、明治時代に入って、政府が墳墓を懸命に探したのであったが、見つからず、ついに諦めてしまったことがある。
 彼は、おそらく、その儘の内容での実在の人物ではなかった。ただし、そういう人物が確実にいなかったという証拠も見つかっていないのであるから、ここでは、そういう人物がわが国古代の伝説的に「正史」に組み込まれていることを、承知してもらいたい。そこで、彼のその後であるが、おそらくは西の方からやって来て、播磨からは最短ルートで大和(現在の奈良県)に進入するのではなく、あえて紀伊半島の熊野に迂回して、そこから太陽を背にして敵に向かう戦法をとることとし、夢のお告げで「佐土不都(さどふつ)」と呼ばれる七支刀(しちしとう)を受け取り、それをかざして敵をなぎ倒し、大和の地に入ることができた。ちなみに、この刀が石上神宮(いしのかみじんぐう)に伝わっているとの記述のあることから、国宝として伝わっている七支刀との関係を取り沙汰する向きもあるようだ。物語はこれから後半に入り、神々の支配から、大王、その後さらに天皇による支配へと移っていく。

(続く)

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