15『自然と人間の歴史・日本篇』神々の時代(陸から海などへ)
こうして陸地をつくったら、次は何をつくるのかといえば、あらまし次のようであったという。
「次生海、次生川、次生山、次生木祖句句廼馳、次生草祖草野姫、亦名野槌、既而伊奘諾尊伊奘冉尊、共議曰、吾已生大八洲國及山川草木、何不生天下之主者歟、於是、共生日神、號大日貴、【大日貴、此云於保比能武智、音力丁反、一書云、天照大神、一書云、天照大日尊】此子光華明彩、照徹於六合之内、故二神喜曰、吾息雖多、未有若此靈異之兒、不宜久留此國 自當早送于天 而授以天上之事 是時 天地相去未遠 故以天柱 擧於天上也、次生月神【一書云月弓尊、月夜見尊、月讀尊】其光彩亞日、可以配日而治、故亦送之于天、次生蛭兒、雖已三歳、脚猶不立、故載之於天磐樟船、而順風放棄、次生素戔嗚尊【一書云、神素戔嗚尊、速素戔嗚尊】此神、有勇悍以安忍、且常以哭泣爲行、故令國内人民、多以夭折、復使青山變枯、故其父母二神、勅素戔嗚尊、汝甚無道、不可以君臨宇宙、固當遠適之於根國矣、遂逐之」(『日本書紀』卷第一第五段)
この引用分の「読み下し文」は、こうなっている。
「次に海を生む。 次に川を生む。 次に山を生む。 次に木の祖(おや)句句廼馳(くくのち)を生む。 次に草(かや)の祖(おや)草野姫(かやのひめ)亦の名は野槌(のづち)を生む。 既にして伊奘諾尊(いざなぎのみこと)・伊奘冉尊(いざなみのみこと)共に議りて曰く、「吾(あれ)已(すで)に大八洲國(おおやしまのくに)及び山川草木を生む。何ぞ天下(あめのした)の主(きみ)たる者を生まざらん」
是に於て共に日の神を生む。 大日貴(おほひるめのむち)と號す。【大日貴、此を於(お)保(ほ)比(ひ)(る)(め)能(の)武(む)智(ち)と云う。の音は力丁の反し。一書に天照大神(あまてらすおおみかみ)と云う。一書に天照大日尊(あまてらすおおひるめのむちのみこと)と云う】 此の子(みこ)光華明彩(ひかりうるわ)しく、六合(くに)の内に照(て)り徹(とお)る。
故、二神(ふたはしらのかみ)喜びて曰く、「吾(あ)が息(こ)多しと雖(いえど)も、未だ若此(かく)靈(くしび)に異(あや)しき兒(こ)は有らず。久しく此の國に留めるべからず。自(おのず)から當(まさ)に早(すみやか)に天に送りて、授(さず)くるに天上(あめ)の事以ちてすべし」。 是の時、天地(あめつち)相い去ること未だ遠からず。 故、天柱(あめのみはしら)を以ちて、天上(あめ)に擧ぐ也
次に月の神を生む。【一書に云う、月弓尊(つくゆみのみこと)、月夜見尊(つきよみのみこと)、月讀尊(つきよみのみこと)】 其の光彩(ひかうるわ)しきこと日に亞(つ)ぐ。 以ちて日に配(なら)べて治(しら)すべし。 故、亦た天に送る。 次に蛭兒(ひるこ)を生む。 已(すで)に三歳(みとせ)になると雖も、脚(あし)猶(な)お立たず。 故、天磐樟船(あめのいわくすふね)に載せて風の順(まにま)に放ち棄(う)てき。 次に素戔嗚尊(すさのおのみこと)を生む。(一書に云う、神素戔嗚尊(かむすさのおのみこと)、速素戔嗚尊(はやすさのおのみこと))
此の神、勇悍(いさみたけ)くして安忍(いぶり)なること有り。 且(また)常(つね)に哭(な)き泣(いさ)ちるを以ちて行(わざ)と爲す。 故、國内(くにのうち)の人民(ひとくさ)を多(さわ)に夭折(し)なしむ。 復た青山を變じ枯しめき。 故、其の父母(かぞ・いろは)の二神(ふたはしらのかみ)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)に勅(ことよさし)く、「汝(なむぢ)甚(はなはだ)無道(あづきな)し。 以ちて宇宙(あめのした)に君臨(きみ)たるべからず。 固(まこと)に當(まさ)に遠く根の國に適(い)ね」。 遂に逐(やら)いき。」
これにあるように、生まれたのはあくまでも「日の神」であり、その名は「大日霎貴」(おおひるめのむち)だということになっている。ところが、「「一書に云はく」の注意書きがあって、他の伝承に「天照大神」とあったり、「天照大日霎尊」とあったりすることにも触れる。ついては、これらも正しいとするなら、以上はどうやら同一人物のことらしい、というのが、『日本書記』編集者の見解なのだろう。つまり、ここでは、アマテラスは正面から肯定されてもいないし、否定されてもいない。そう読むのが、自然な読み方であり、解釈なのではないだろうか。
同様の天地創造の物語は、『古事記』に出ているが、それよりも、『日本書紀』の方は、それよりはるかにこみ入った書きぶりとなっている。要は、一神だけの神が天地を創造したのではなく、いろいろに方向からの多数の神々が、あれやこれや、よってたかってこの列島の一つひとつ、細かく言うと、島々に至るまでつくっていったのだとされる。
もちろん、実際には全体としてはつくり話なのであっても、当時のこれをつくっている、もしくは数々の伝承を再編成し、取りまとめる作業を行っている人々からすれば、いまここにある統一国家の側から見て、都合の良い話ばかりを集めることでは良くないとの抑制力、冷静な判断が働かねばならない。そこで、大方のところは真実だと思ったり、みなしたり、あるいは伝承にはこうあると見比べつつ、当時としての先駆け的な取りまとめをした結果がこの紙面に現れているのであって、はじめから決して嘘を述べ、人々を惑わそうようとしているわけではないと考えられるのである。
(続く)
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