◻️228『岡山の今昔』岡山市(21世紀、商店街の現状)

2021-11-30 21:38:10 | Weblog
228『岡山の今昔』岡山市(21世紀、商店街の現状)

 岡山には、大まかに岡山駅周辺と、岡山城近くの二つの繁華街があるとされ、表町商店街は、岡山城近くのかつての繁華街である。後者は、駅前から岡電に乗るか、1キロメートル位は歩いて行かねばなるまい。
 それと、こちらの商店街は、天井がとてもおしゃれで、ステンドグラスの豪華な装飾が施されていたりする。それにも関わらず、昼間からやや薄暗い、日光がうまく取り入れられていない気がするのだが、いかがだろうか。
  それでも、高度成長期までは、岡山を代表するデパート「天満屋」を中心に、それなりの賑わいがあった。それが今では、人は概してまばらで、祝祭日でも活気がそこそこしか感じられないともいわれる、しかも、店内も古びた感じで、人の目を引く目新しいものが見つからないとも。
 それでは、岡山の人はどこに行ったのかというと、地元の人までもが、岡山駅周辺は20年ぐらい前と比べると人が増えているというのである。 
 それでは、賑わいなり活気が感じられる場所はどうなのかというと、交通の便利、各種ホテル、洒落た食堂街のほか、イオンモール岡山(注)やビッグカメラといった大型店舗が岡山駅周辺に続々と開業したことがあろう。
 特にイオンモールのような複合施設の中には色々な工夫があって、岡山駅から地下を通り直通で行けるアクセスの良さがあろう、これを評して、店舗の多さもあってイオンだけで買い物が済み、わざわざ表町まで行く必要に乏しいともいう。

(注)(2021年11月30日でのネット情報によると、敷地面積は4万6000 平方メートル、店舗数としては イオン・スタイルと356の専門店、開業は2014年12月5日、中核店舗は イオンスタイル岡山、東急ハンズ岡山店、イオンシネマなど)

 こうしてみると、表町商店街に人が寄って来ない理由の最たるものは、交通の便利と魅力に裏付けられた集人力の優劣なのであろうか。だとすれば、21世紀も20年代をを迎えて、これらをどう補強していくか、新しい芽を育てていくかに未来がかかって、いくのだろう。

 それでは、さしあたり何をどうすれば人の流れを復活させることが可能になるのだろうか。ざっと、名案は見当たらないものの、じっと手をこまねいている訳にもゆくまい、そんなおり、イオン・モールからほど近い、市民の憩いの森を目指しての公園にも、なんとか人出をとり戻そうと岡山市の取り組みが報じられている。
 「岡山市中心部の下石井公園(北区幸町)に人工芝を張って市民の憩いのスペースをつくる市の社会実験が2日、スタートした。初日から早速、芝生の上で外遊びを楽しむ保育園児や親子連れらの姿が見られた。期間は12月18日までの48日間。市はにぎわい創出を目指しており、恒久的な芝生化も視野に、利用者アンケートで使い心地や課題を探っていく。
 実験はグラウンドの半分(約900平方メートル)に人工芝を張って市民に開放する。(中略)
 岡山市も昨年9月に下石井公園で行ったイベントの際、試験的にグラウンドの一部(約200平方メートル)に人工芝スペースを設けて好評だったことから、今回、広さを拡大。利用者の感想や課題、恒久化の是非などを検証する。事業費は130万円。
 隣接する西川緑道公園や1車線化工事が進む県庁通りと合わせ、市中心部の回遊性向上にもつなげたい考え。市庭園都市推進課は「市民が楽しめる街の実現に向け、寄せられた意見を踏まえてしっかり検討したい」としている。」(2021年11月2日、山陽新聞電子版 から引用)
 これなどは、常設ではなくて、そんなに上手くいくのかと効果を危ぶむ声もあろうが、一つひとつの試みを試行錯誤にて重ねていけばよいのかもしれない。

(続く)

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◻️227『岡山の今昔』岡山市(低成長期、交通)

2021-11-30 21:33:59 | Weblog
227『岡山の今昔』岡山市(低成長期、交通)

 1990年代からは、岡山も低成長期に入っていく。そんな中でも、交通面で、1988年3月11日には岡山県が設置・管理する「地方管理空港」空港として、開港するなど、交通面で大きな変化があった。その岡山空港(通称「桃太郎空港」)の所在地は、岡山県岡山市北区日応寺にある。こちらの滑走路中心点での標高は239.2メートルもあるというから、驚きだ。その後の拡張工事により、滑走路は2500メートルから3000メートルへと伸ばされた。
 では、そこからの交通の便利からいうと、はたしてどうなのだろうか。大方の話でいうと、岡山市中心部から空港へは車で約30分、岡山市・倉敷市とのバス定期便が出ているほか、山陽自動車道や中国縦貫自動車道といった高速道路を利用することで、神戸・大阪・広島・米子・高松・高知へは2時間程度で移動出来るという。特に、山陽自動車道の最寄り高速道路インターチェンジからは約10分ともいわれる。
 一方、鉄道の最寄り駅はJR津山線の金川駅だが、金川駅との間に路線バスは運行されていない。また、備中高松、新見などからのアクセスも、かなり制約されているのが現状だ。

 開港後の利用者については、岡山県内だけでなく県外からも多くの方が国内・海外への旅行・ビジネスに岡山桃太郎空港を利用されているとのこと。具体的には、国内定期便としてほ、札幌(新千歳)・東京(羽田)・沖縄(那覇)の3路線となっている。
 国際定期便としては、ソウル(仁川)・上海(浦東)・香港・台北(桃園)の4路線と多くのチャーター便・臨時便が運航しているとのこと。
 とはいえ、新型コロナウイルスの世界的感染拡大となってからほ、業績は大きく減じた。

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 1997年12月に山陽自動車道が完成すると、中国地方や九州地方で作られた農作物や工業製品を、関西の市場に輸送する経路として重要な役割を果たしていく。
 また、本四連絡橋を介して本州と四国を結んだり、神戸西インターチェンジでは神戸淡路鳴門自動車道で徳島県鳴門市とを結んでいる。さらに岡山県の早島インターチェンジでは、瀬戸中央自動車道で香川県坂出市と、広島県の福山西インターチェンジでは、西瀬戸自動車道で愛媛県今治市と接続していて、さながら網の目のような展開だ。ちなみに、兵庫県から岡山県に入っては、備前、和気、山陽、岡山、吉備スマート、早島、倉敷、玉島、鴨方、笠岡の各インターチェンジとなっている。

(続く)

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♦️22『自然と人間の歴史・世界篇』大陸変遷の過程(ウェーゲナーのプレートテクニクス説)

2021-11-21 22:58:13 | Weblog
22『自然と人間の歴史・世界篇』大陸変遷の過程(ウェーゲナーのプレートテクニクス説)
 
 ドイツの地球物理学者のアルフレート・ウェーゲナー(1880~1930)は、大陸の移動ということを考えた。はじめは一つしかなかった大陸が、その後分裂し、移動していく。その頃には、そのことの意味を深く考える生物はいなかったらしい。そうしていって、現在私たちが見知っている諸大陸ができたのであると。彼は、こういう。

 「南アメリカはかつてアフリカに隣接して、一つの接合した大きな大陸塊をつくっていたが、白亜紀(はくあき)に二つに分裂したにちがいない。(中略)
 同様に、かつて北アメリカはヨーロッパと隣接して、それらとグリーンランドとがいっしょになった一つの大陸塊をつくっていた。少なくともニューファンドランドとアイルランドより北の部分は合体していた。この大陸塊の分裂は第三期の後期に始まり、北部では第四期に始まった。(中略)
 南極大陸と、オーストラリアとインドとは、ジュラ紀の始めまではアフリカの南部に接していて、さらに南アメリカをも合体して一つの巨大な大陸塊をつくり、その一部分は浅い海に覆われていた。この巨大な大陸塊は、ジュラ紀、白亜紀および第三期の間にもっと小さな個々の大陸塊に分裂しそれぞれ違った方向に漂っていった。(中略)
 インドの場合には、過程は他の場合とやや違っていた。最初はアジア大陸から長く突出した陸塊があって、その先端にインドが付いていた。そのころ、そのアジアとインドをつなぐ土地の大部分は浅い海に覆われていた。そのインド陸塊はジュラ紀前期にオーストラリアから分裂し、また白亜紀から第三期に移る頃にマダガスカルから分離した。
 そして現在のインドがアジアに近づくにつれて、インドとアジアとの長い連結部分は次第に褶曲(しゅうきょく)の程度をましていった。この地域が今日地球上の最も大規模な褶曲山脈(すなわちヒマラヤ山脈とその他のアジアの高地の褶曲山脈)になっている。」(アルフレッド・ウェーゲナー著、都城秋穂・紫藤文子訳「大陸と海洋の起源」岩波文庫、1981)

 それらの大陸の上で、やがて私たち人類の祖先が発生し、育まれ、いうなれば進化を遂げていったのであろうが、この彼の大陸移動説は、大陸とその底にある「根(ね)」との関係についても、こう説いている。
 「容易にわかるように、大陸移動説は、深海底と大陸とは異なった物質からできており、地球の成層構造の中の異なった層を表わしているという推定から出発する。大陸地塊は、地球の一番外側の層を表わすものであるが、地球全体を覆ってはいない(たぶんむかしは覆っていたが、今ではもう覆っていないという方が正しいのかも知れない)。
 海洋底は、その下にある層の表面が露出しているのであって、この層は大陸塊の下方にものびていると考えられる。これが大陸移動説の地球物理学的な側面である。(中略)地球上の個々の海洋や大陸がそのままで不変に存続したのではなくて、現在分離している二つの大陸塊が直接に接触していたのである。」(同) 

 このようなウェーゲナーの大陸移動説は、本人が1930年の冬、グリーンランド(北太平洋と北極海の間にある、雪と氷に覆われた世界一大きい島)に4回目の探検をしている時遭難してしまってから約20年が経っての1950年頃、大西洋のほぼ中央などに、海嶺(かいれい)と呼ばれる海底山脈が連なっていて、その頂上に割れ目のあることがわかった。しかも、その割れ目のあるところでは、地球内部から出てくる熱の量が特別多いことがわかった。
 そこで地球科学者たちは、地殻の下のマントルと呼ばれる高温の固体の中で、ゆっくりと熱の対流が起こって、地球内部の熱が上昇してくる、その対流の頂上のところが海嶺であって、そこで沸き上がったマントルが割れ目をなし、海底の地殻を作っているのではないか、と考えるようになっていく。
 また、1955年頃からは、古地磁気学から新しい事実がわかってきた。試しに、今離れている大陸の岩石からその磁極の移り行きを調べると、大陸によって様々ながら、これらの大陸が昔一つであったであろう位置にずらしてみると、磁極が一箇所になってくるではないかということになっていく。
 
 今日「プレートテクニクス」と呼ばれ、大方の地質学者の支持を得ている。これに基づくと、現代に私たちが生き、この地上を中心にあれこれしているうちにも、この大地は動いている。地球に大陸と海ができてからというもの、その在り方は、色々と変わってきた。
 例えば、アフリカ大陸を見よう。エチオピア北部からモザンビークにかけては、ほぼ南北に約4500キロメートルにわたり大地の裂け目、アフリカ大地溝帯が確認される。その中でも、この溝帯の北部ダナキル砂漠付近では、アフリカプレートの一部としての、ヌビアプレートとソマリアプレート、アラビアプレートという3つのプレートが分裂中であるとのこと。この場所は、人類発祥の一つでもある(「ダナキル砂漠、裂けゆく灼熱の地」:雑誌「ニュートン」2013年6月号など)。
 とはいえ、アフリカ東部でのような分離力としては働いていないので、肉眼で見ることはできにくいという。

 次に、日本周辺に目を向けてみよう。驚くことに、この列島をぐるりと囲む形で、実に4枚のプレートがひしめき、せめぎ合うようにして存在している。これを短的にいうと、ユーラシア大陸に対して、弓の弦を張ったように日本列島が張り出している。その西側からはユーラシアプレートが、その北側からは北アメリカプレートが、東側からは太平洋プレートが、南からはフィリピン海プレートが押し寄せている。これらのうち、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの境界は、はっきりとはわかっていないようだ。
 北アメリカプレートを基準にした場合の各プレートの移動は、どれくらいになっているだろうか。これまでの計測では、1年間で、ユーラシアプレートは東の方向へ数ミリメートル、フィリピン海プレートは北北西から北西方向へ3~4センチメートル、太平洋プレートはほぼ西方向へ約10センチメートルといわれる(「活断層とは何か」:雑誌「ニュートン」2013年3月号)。
 
 なお、19世紀の末頃には、地球のかなり深いところまでの地殻の構造がある程度わかってきていた。それによると、マントルという固体が地球の中身としてまずあり、その上に固めの玄武岩から軽めの花こう岩などへと重なっているという。
 それが現在では、ハワイのような独立した火山群は、マントル深部から高温のマントルが上昇することにより、その上部で液体質のマグマが発生し、上昇していく、その先端がホットスポットだとなっている。その並びで、地球上でマグマが発生する場所としては、ホットスポットのみならず、海嶺、海溝などでも、そういう場所が発見されるに至っている。
 いずれにしても、地殻表面にまで上昇してくる時のマグマの原動力は、液体としてまわりの固体である岩石より密度が小さいことをもって、両者の密度の差、つまり浮力で上昇することとされるのである。


(続く)

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新◻️41『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一前・山名氏の南下(1362)

2021-11-21 09:55:30 | Weblog
41『岡山の今昔』建武新政・室町時代の三国(南北朝統一前・山名氏の南下(1362)

 まずは、1332年の、旧暦でいうと元弘2年の話から、歴史家の邦光史郎氏の説明を引用させていただこう。
 「3月7日、先帝は、牛車に移されて、都を出発することになった。お供はお気に入りの千種忠顕卿(ちぐさただあききょう)たち4人と、阿野簾子(あのれんし)たち寵姫3人、道中警護は千葉介貞胤(さだたね)、小山五郎差衛門、佐々木道誉の3将に率いられた武士たち5百騎だった。
 3月17日、加古川から美作へと入った。(中略)
 一方、後醍醐帝の行列を襲って、帝を救おうと企てた児島高徳という備前の武士がいたけれど、行列のコースが変わったため、目的をはたせず、単身、院庄の宿所の庭に忍び込み、桜の幹の皮を削って、そこに十字の詩を記していったと「太平記」は伝えている。(中略)
 意訳すると、天は姑蘇城(こそじょう)に捕えられた越王勾銭(えつおうこうせん)のごとき後醍醐帝をけっして見捨てたりしない、きっと今に越王を助けた范蠡(はんれい)のような忠臣が現れるでしょうというのである。
 先帝はこれを読まれて心強く思われたというのだが、児島高徳が実在したという記録はなく、あるいは児島山伏の一人だったかもしれない。」(邦光史郎「太平記紀行」徳間書店、1991)

 その後、関東の新田義貞が鎌倉幕府打倒に立ち上がり、足利尊氏らも挙兵する中で、幕府が滅びると、後醍醐帝が脱出先の伯耆(ほうき)から京都へ戻って新政を始めるのだが、その内実は次の評論に簡潔にまとめられているように、天皇とその取り巻き、すなわち王公貴族の専制を復活するものだった。

  「しかし、天皇親政となった政治の手始めは、まず膨大な北条一門の領地を三分したことであって、北条高時の遺領を帝が、その弟・安家の遺領を護良(もりなが)親王が、そして北条一門の中もっとも勢力のあった大仏(おさらぎ)の遺領を帝の寵姫・阿野廉子がそっくり受け継ぎ、一般武士の恩賞は二の次で、さっそく廉子の産んだ恒良(つねなが)親王を皇太子と定め、つづいて年号を建武と改め、今度は大内裏(だいだいり)の造営をするからというので全国の地頭、荘官、名主(みょうしゅ)に命じて、それぞれ収益の20分の1を、造営費として取り立てるというのだから、落首が生まれてくるのも無理はない。」(邦光、前掲書)

   新政とは、このように天皇と天皇とその取り巻き、すなわち王公貴族の専制を復活するもので、武士たちは大いなる不満をもち、足利尊氏が反旗を翻えすと、天下の大方の武士はそちらに結集、天皇親政は早くも瓦解した。その後には、室町幕府が立ち、朝廷は幕府の擁立する北朝と、廃帝となった後醍醐方の南朝とに分かれた。

 さて、それから約30年を経た1362年(康安2年)には、反幕府(南朝)の頭目の一人、山名時氏の軍勢が伯耆から美作、備前備中に侵攻してくる。南北朝期の、1362年(康安2年)のことである。  
 その時の模様について、「太平記」には、こうある。

 「山陽道には、同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々へ勢を差分つ。先、一方へは時氏子息左衛門佐師義(もろよし)を大将にて、二千余騎、備前、備中、両国へ発向す。

 一勢は備前仁堀に陣を取て、敵を待に、其国の守護、松田、河村、福林寺、浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合うては叶はじとや思けん。又讃岐より細川右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待(あいまち)けん。皆城に楯籠って未曾戦(かつてたゝかはず)。

 一勢は多治目(たじめ)備中守楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出たるに、秋庭三郎多年拵(こしらへ)すまして、水も兵糧も卓散なる松山城へ、多治目楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀(もろひで)可戦様無(たゝかふべきやうなく)して、備前の徳倉城へ引退く刻(きざみ)、郎従赤木父子二人落止って、思程戦て、遂に討死してけり。

 依之(これにより)、敵勝に乗て、国中へ乱入て、勢を差向々々(さしむけさしむけ)攻出すに、一儀をも可云様無(いふべきやうなけ)れば、国人(くにうど)一人も従ひ不付云者(つかずといふもの)なし。」(「太平記」巻第三十八「諸国宮方蜂起事付越中軍事」)


 これにあるように、この年、南朝方の山名時氏(やまなときうじ)は五千騎余りで伯耆(ほうき)から美作の院庄へ進出してくる。
 ところが、備前守護の松田氏をはじめ、河村氏、福林寺氏、浦上行景らは、これを迎え撃つことをしない。
 そこで、「その訳は、かち合ってはならないと思ったのだろうか。または幕府方の実力者細川頼之が近日中にも讃岐から児島に渡ってくると聞いて待っているのだろうか」と問いかけるのだが、わからない。


 そればかりか、ある部隊は多治部師景と楢崎氏を大将として千騎余りで備中新見に進出する。しかし、地元の秋庭重盛が、水も食糧もある松山城に、彼らを多治部と楢崎を引き入れてしまう。そのため、備中守護の高師秀は劣勢になり、備前の徳倉城へ退く。
 この時、師秀の家来の赤木父子は城にとどまり、存分に戦って討死する。こうして南党山名勢は備中を席巻し、国人で従わない者はいない始末。

 それというのも、これの少し前の1361年(安元年)には、南朝軍か京都を攻め、二代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)は近江(おうみ)に逃れる事態が起こっており、南朝はまだ勢力を保っていたからではなかろうか。

(続く)

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♦️229『自然と人間の歴史・世界篇』電磁気学(クーロン、ガウス、ポルタ、エルステッド、ファラデー、レンツ、フレミング、ローレンツ、ヘルツ)

2021-11-19 22:34:47 | Weblog
229『自然と人間の歴史・世界篇』電磁気学(クーロン、ガウス、ポルタ、エルステッド、ファラデー、レンツ、フレミング、ローレンツ、ヘルツ)

 1785年、シャルル・ド・クーロン(フランスの物理学者、1736~1806)は、電荷の間に働く力を測定し、電荷の間には電荷の強さの積とそれらの距離の2乗に反比例する力が働くことを発見した。これをクーロンの法則という。ちなみに、現在のクーロンの定義はアンペアに基づくものであって、1秒間に1アンペアの電流によって運ばれる電荷(電気量)を1クーロンという。

 このクーロンの考え方は遠隔作用といって,力は遠方に直接作用するというものであったのだが、カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1885、ドイツの数学者、天文学者、物理学者)は、電荷の周囲の空間が徐々に変化して力が伝わるという近接作用の立場から、ガウスの法則として電荷と電場の関係の整理していく。

 1799年には、アレッサンドロ・ボルタ(イタリアの物理学者、1745~1827)が、電池なるものを発明した。これにより、電気は電流という形で取り出すことができるようになり、人間の手でコントロールできるものとなった。電気というものが、実生活に大きく、かつ日常的に役立ちうることがわかった訳だ。

 それから世紀が改まってからの1820年、ハンス・クリスティアン・エルステッド(1777~1851、デンマークの物理学者、化学者)は、電流が磁石に力を及ぼす、つまりこれは、電気と磁気の間に何か関係があると気づく。具体的には、方位磁石が指す方向と平行に導線をはり、電流を流すと磁針が動いて磁場が発生することを発見する。その向きは、電流の方向に対して右回り(右ねじの法則)となる。

 1823年、アンドレ・マリ・アンペール(1775~1836、フランスの物理学者にして数学者)は、電流同士にも力が働くことを見つけ、そこから磁気の起源が電流にあると特定する。定常電流がつくる磁場の方向と大きさを決めるというこの法則を、アンペールの法則という。特に、これを線状電流の場合でいうと、電流の動きと右回りのねじの進行方向を一致させると、そのねじの回る方向と磁場の方向が一致する。こちらは、アンペールの右ねじの法則という。

 1831年、イギリスの化学者にして物理学者マイケル・ファラデー(1791~1867)は、実験を行い、コイルと磁石を近づけたり遠ざけたり(コイルに電流がコイルの中に磁石を出し入れ)すると、電流が発生するのを発見する。ただし、磁石がコイルの中に入るとしても、その磁石が静止したままだと磁場の変動がないことになって、電流は流れず誘導起電力は発生しない。
 この現象は、コイル内の磁場が変化することで電流が流れたと考えられる。また、磁石を固定してコイルを動かしたときにも、同様に電流が発生する。この現象を「電磁誘導」といい、また、これによって生じた電圧を「誘導起電力」、流れた電流を「誘導電流」と呼ぶ。理論的には、電磁誘導によってコイルに誘起される起電力の大きさは、コイルと鎖交する磁束の時間に対する変化の割合いに比例する。これを電磁誘導に関するファラデーの法則という。

 そんな彼には、次のエピソードが伝わる。


 「1850年、クリミア戦争がおこった時、英国政府はファラデーに、毒ガスを作ることができるか、と問い合わせました。ファラデーは、できるけれども、自分は絶対にその仕事はやらないと答えました。毒ガスは第一次世界大戦になって使われ始めたのてすが、世界の科学者がみんなファラデーのような、はっきりした態度をとったら、戦争の悲惨さはかなり防げたに違いありません。」(米山正信「子どもと一緒に楽しむ科学者たちのエピソード20」黎明書房、1996)


 さらに、電磁誘導によって生じる誘導起電力の向きは、その起電力による誘導電流の作る磁束が、もとの磁束の変化を妨げるような方向となる。かかる電磁誘導現象によって発生する磁場の向きについての理論は、「レンツの法則」の名で呼ばれる。これをいったハインリッヒ・レンツ(1804~1865)は、ドイツの物理学者であって、1834年に発表した。

 この電場誘導現象を人々の生活に役立て、利用したものが発電機であって、磁場の中にあるコイルを動かした時に発生する電流の向きを判断するにつき、後にロンドン大学の電気工学教授であったジョン・フレミング(1849~1945)が学生用に考案したのが、「フレミングの右手の法則」にほかならない。彼はこの他にも、1904年に、熱イオン管または真空管「ケノトロン 」を発明する。なお、ファラデーの電気分解の法則との混同のおそれのない場合は、単にファラデーの法則と称されることもある。
 それに加えて、この同じ電磁誘導現象において、これまでの話とは逆に、磁場の中においたコイルに電流を流すと、コイルが固定されているなら磁石に、磁石が固定されているならコイルに「ある力」が加わる。その加わりようは、その電流が発生する磁場を打ち消すような方向の磁場を発生するように、コイルを動かす力が発生する。その時、磁石をコイルに挿入した1つの回路に生じる誘導起電力の大きさは、その回路を貫く磁界の変化の割合に比例している。
 この時、磁場の中にあるコイルに電流を流したときに発生する力の向きは決まっていて、これを覚えやすくするために、前述のフレミングが同じく考案したのが、「フレミングの左手の法則」である。

 なお、磁場がどの様に電流に対して力を及ぼすのかという、この左手の法則に関連して用いられる言葉として「ローレンツ力」というのがある。これは、磁場の中を運動する荷電粒子に作用する力をいい、速度ベクトルに垂直に作用し、粒子の電荷・速度・磁束密度の積で表されるというもので、1895年に、ヘンドリック・ローレンツ(1853~1928)が提唱した。
 ローレンツは、「電流の正体が負の電気を帯びた粒子の流れ(電子)である」とする仮説を基礎に、「磁界が、電流を担う粒子に影響を及ぼす」と仮定することで、いわば磁気現象と電気現象との融合・合成によって発現した、この新しいタイプの力、すなわちローレンツ力は、方位磁石を用いて調べることができる磁力とは異なるものである。

 これを、人々の生活に役立てるため利用したものがモーターであり、今二つに磁石の中間にコイルがあるとしよう。その線はブラシに挟まれた電極(黄色)につながっている。電極をよく見ると、竹を立てに割ったように切れこみが入っていて、お互い接触しないようになっている(これを「整流子」という)。
 このコイルに電流が流れると、フレミング左手の法則にしたがって、磁力中にある電流には一定の力が生じる。この場合、コイルの右側には下向きに、コイルの左側には上向きに力が働く。この力の合成で、回転子はぐるりと右向きに回転する。途中で電極が分かれているため電流は流れず力は働がないが、回転の勢いで半回転し、再び電流が流れる位置にやってくる。後はこの繰り返しで、これを繰り返すことになっている。
 また、この電磁誘導現象を説明するために、電磁気学に電気力線・磁力線と電場・磁場という新たな概念を導入する。空間には電場及び磁場が存在し、これらの変化が様々な現象を生み出すと主張する。

 1835年には、前述のガウスが電気には電荷が存在する、言い換えると、電荷があると電場ができると発表する。1種類の電荷の力は放射状に直線的に広がることをいい、これを「電場に関するガウスの法則」という。ガウスはまた、電流は磁場を生み、その磁気の力はループ状(環状・同心円状)につながっているとした。これを「磁気に関するガウスの法則」と呼ぶ。ここに磁場とは、磁気的な性質をもつ空間の各点のことであり、その各点の磁場の方向を繋げたものを磁力線と呼ぶ。そして磁気には、NとSとが分離できるような磁荷は存在していない。

 そして迎えた1864年、ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831~1879)が、以上の電磁気学の成果の取りまとめ役として、登場する。彼は、スコットランドの貴族の家系に生まれ、イギリス内の大学で教授を務めた間、先達の研究成果を踏まえ電磁場の概念を物理学に導入し、光が電磁波の一種であることを理論的に予想したほか、 気体運動論では速度の分布という統計的概念を用いる。
 前者では、ガウスやアンペール、ファラデーらの業績から、電気と磁気の性質を取りまとめを試みる。そして、これまでの法則を次の4つに整理して発表する。
 その1として、電気には電荷が存在する、言い換えると、電荷があると電場ができる。1種類の電荷の力は放射状に直線的に広がることをいい、これは前に述べた「電場に関するガウスの法則」に当たる。
 その2として、電流は磁場を生み、その磁気の力はループ状(環状、同心円状)につながっている。これは、先に述べた「磁気に関するガウスの法則」に当たる。
 その3として、マクスウェルはこのアンペールの法則(前述)を一般化した。それによれば、あるところに電気が変化すると磁気が生まれる、言い換えると、電場の時間変化と電流が磁場を生み出すというのだ。
 その4として、磁気が変化すると電気が生まれる、つまり磁場の変化が電流をもたらすことを挙げている、これは、ファラデーが発見した電磁誘導の法則を指している。
 これらの、つごう4つのマクスウェルの取りまとめた数式(マクスウェルの方程式)は、総体として、電気と磁気が一体となって伝わる電磁波という波が存在することを意味する。そして1864年、彼はこの成果を基に光は電磁波の一種であることを予言する。
 ただし、ここでのマクスウェル自身は電磁気現象をエーテル媒質の力学的状態によるものと捉えていたようで、現代の考え方とはかなり異なっている。1888年、ドイツの物理学者ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(1857~1894)は、このマックスウェルの電磁気理論をさらに明確化し発展させた。1888年に電磁波の放射の存在を、それを生成・検出する機械の構築によって実証した。

 なお、今日「マクスウェル方程式」と呼ばれる一連の方程式は、彼自身が書いたものとは異なっており、後にヘルツやヘヴィサイドらによって整理されたバージョンとして語り継がれているものだ。

(続く)

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新343の1『自然と人間の歴史・世界篇』内燃機関の発明(18~19世紀)

2021-11-19 10:40:03 | Weblog
343の1『自然と人間の歴史・世界篇』内燃機関の発明(18~19世紀)

 1769年、フランス陸軍の技術将校ジョゼフ・キュニョー(1725~1804)が自動車の構想を示し、試作をおこなったものの、わずかしか動かなかった。

 1824年、フランスの物理学者のニコラ・レオナール・サディ・カルノー(1796~1832)は、フランスの軍人、物理学者、技術者で、熱力学第二法則(熱の流れは高温部から低温部に向かって不可逆に起きることを表す)の原型を導いた。そして、これを「熱の動力についての一考察」として発表した。ついては、これを含めた熱機関について、一般に成り立つ、最も効率的な「カルノーサイクル」を考案し、以降今日まで、熱力学の基本法則の一つとして参照される。そうはいっても、あくまでも理論的な仮想空間レベルのものにて、現実的にカルノーサイクルを持つエンジンを作ることは不可能である。
 その骨子のさわりとしては、「等温膨張」 → 「断熱膨張」 → 「等温圧縮」 → 「断熱圧縮」の4工程を繰り返す。それと、このサイクルでは、シリンダーは断熱状態にあり、熱の出入りがある時のみ熱交換が行われる仮定が置かれる。
 具体的には、①等温膨張とは熱の出入りが可能な膨張のことで、動作的には、膨張すると内部の気体の温度は下がる道理ながら、熱が流入するため温度が一定に保たれる。②断熱膨張は、完全に断熱されている状態で、気体が膨張して外部に仕事をし、そのことで気体温度は低下する。③番目の等温圧縮は、熱の出入りが可能な圧縮であって、圧縮すると内部の気体の温度は上がるものの、熱を吐き出すため温度が一定となる。おしまいの ④断熱圧縮では、完全に断熱されている状態で、気体が圧縮され、そのことにより温度は上昇するというもの。このように、カルノー考案の熱力学サイクルは、「等温変化」 と 「断熱変化」とを繰り返す中で、仕事を成していく。

 1860年、フランスのエティエンヌ・ルノワール(1822~1900)が「ガスエンジン」の特許を取った。石炭ガスをシリンダー内で燃焼させて、そのことで電気火花で点火、爆発させて動力を取り出すもので、初めての実用的な内燃機関だった。しかも、機関外部の熱源を利用する蒸気機関に比べ軽量。けれども、燃料ガスが圧縮されずに爆発することから、燃料を食う割に出力が小さいので、効率が低かった。

 1876年、ドイツの発明家ニコラウス・オットー(1832~1891)は、ボー・ド・ロシャが提案していた4サイクルで一循環する内燃機関の原型を発明した。これは、燃料および空気の注入、断熱圧縮、等積燃焼、断熱膨張、等積冷却、それに廃ガス放出の6つのステップから成っており、彼は現在に続くガソリンエンジンの基礎を固めた。 

 1880年代になると、オットーの助手のゴットリープ・ダイムラー(1834~1900)が、独立した後も研究を進め、1883年に軽くて効率のよりエンジンを試作した。こちらの原理では、ガソリンをシリンダーに入れる前に気化し、空気と反応させる気化器を備える、そのことで高速度で回転できることになった。のみならず、ダイムラーは、これを自動車として売り出す、つまり実業家となった訳で、そのことにより、今日では「自動車の父」と呼ばれる。

 1897年には、さらなる技術が現れた。ドイツ人のルードルフ・ディーゼルが、ディーゼル・エンジンの原理を発明する。これのガソリンエンジンとの違いは、ガソリンエンジンがシリンダ内の圧縮した混合気体、つまり霧状のガソリンと空気が混合になったものに点火プラグを用いて火花を飛ばして着火し、爆発させる。その時の圧力でクランク軸を回して走らせるのに対し、ディーゼルエンジンの方は、燃料に軽油を用い、シリンダ内で圧縮することで高温となった空気にその燃料を霧状にして噴射することで着火し、爆発させるものだ。いずれも、燃料が持つ熱エネルギーを解放することを通じて車輪につながる軸のピストン運動に変換する。

(続く)

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新161『岡山の今昔』新見市街とその周辺

2021-11-17 22:38:55 | Weblog
161『岡山の今昔』新見市街とその周辺

 さて、このあたりの戦後からの発展の経緯を顧みると、1954年(昭和29年)6月からに、阿哲郡新見町・上市町・美穀村・草間村・豊永村・熊谷村・菅生村・石蟹郷村が大同合併し、元の新見市となる。その翌年の1955年(昭和30年)5月には阿哲郡千屋村を編入合併した。さらに1957年(昭和32年)4月からは、豊永赤馬小字坂尻を上房郡北房町へ分離する。そして21世紀に入っての2005年(平成17年)3月31日をもって、(旧)新見市と阿哲郡大佐町・神郷町・哲多町(てったちょう)・哲西町(てっせいちょう)の、つごう1市4町が合併したことで、新たな広域・新見市へと移行し、現在に至る。
 そこで2017年4月現在の新見駅に立って、北の方角を仰ぎ見ると、周囲は中くらいの高さの山にすっぽりと囲まれているではないか。無理もない、おのが立ち位置を確認するため地図を広げてみると、中国山地のほぼ真ん中に位置しているのが見て取れる。ついでに地図で新見市街の東側に追っていくと、しばらく行ったところに「豊永赤馬」(とよながあこうま)という珍しい地名のところ、高梁川上流県立自然公園に隣接して満奇洞(まんきどう)が見つかる。
 この洞窟は、ほぼ水平に450メートルの奥行きを持つ。その中位には「千枚田」(せんまいだ)と呼ばれる幅広の空間、かなり奥に入った所にはいかめしい形相の鬼が住んでいそうな「鬼の居間」があるとのこと。大正期のここに歌人の与謝野晶子(よさのあきこ)が旅してきた。夫の鉄幹と二人でここを訪れたのだと、土地の人に聞いた。その彼女が、「満奇の洞千畳敷の蝋(ろう)の火のあかりに見たる顔を忘れじ」と詠んだことから、こう命名されたと伝えられる。そして迎えた本番、最奥の洞内湖には、かの浦島太郎の物語「竜宮城」にある「竜宮橋」が架かっているのだというから、驚きだ。
 さて、この山間の新見の地に江戸期に入府してきたのが、関長次(森長継の九男にして森忠政の甥)の次男、関長政(せきながまさ)であった。彼は、森藩2代目の森長継(もりながつぐ)から1660年(万治3年)頃、宮川の墾田を分知される。その支藩の美作宮川藩(関家1万8900石)として立藩していたのだが、その実績を認められ1697年(元禄10年)8月、関長治が藩主の時、新見藩に転封される。この藩は城を持たない小藩ながら、その歴代の藩主による治世は比較的穏便であって、明治までの約3百年をほぼ大禍なく過ごす。なお、新見の町並みは、1938年(昭和13年)に市内に大火があったようだが、それでも江戸期の町並みの雰囲気の多くを現代に伝えているように思われる。
 この新見駅から程近いところ、中世の新見庄であった時代の名主屋敷跡には、入母屋(いりもや)・銅板葺きの屋根を持った、日本風の美術館が建っている。所蔵作品(千点を超えると、美術館のホームページに見える)のうちには、横山大観、川合玉堂など有名画家のものが含まれるとともに、中でも点数で約80点と群を抜いているのが、文人画家の富岡鉄斎(1836~1924)のものだという。富岡鉄斎の号の由来は、「仏説四二章経」に「仏曰くもし人、鉄を鍛え滓(かす)を去りて器成(つく)りなば、器すなわち精好ならん。道を学ぶ人、心の垢染(こうせん)を去りなば、行いすなわち清浄(せいじょう)なり」との条(くだり)にあった。ここからは、彼の持論であった「人格を研かなけりゃ画いた絵は三文の価値もない。(中略)新しい画家に言うて聞かしたい言葉は、「万巻の書を読み、万里の道を行き、もって画祖となす」と、ただこれだけじゃ」(大坂毎日新聞)との戒めが明かされる。
 この型破りの人は、幕末に向かい始める頃の京都、そこの法衣商、十一屋伝兵衛(富岡維叙)の次男として生まれた。家は、裕福であったのではないか。幼少の頃から国学、漢学、詩文などをよくした。19歳頃よりは、文人としての教養を身につけるために絵を学んだ。つまり、当初から絵師を目指したのではない。1861年(文久元年)に長崎に遊学し、南画を学んでいる。30歳代から40歳代半ば頃までは、大和石上神社や大阪の大鳥神社の神官を勤めていた。儒学と神学(日本のもの)との修学がどう結びつくのかは、不明だ。神職はさほどに忙しいことはなかったらしく、その間かなりの日数をかけて全国を行脚し、「万巻の書を読み、万里の道を行き」、さらにまた画業に精出して、気儘な文人生活を送っていたらしい。さしずめ、池大雅(いけのたいが)のような悠々たる旅であったのか、どうか。
 1881年(明治14年)には、兄、伝兵衛の死に伴い京都に戻って、ここを安住の地とした。1897年(明治30年)には、日本南画協会の創立に参加する。画風としては、細かなことにはこせこせしない性格が投影しているというか、自由大胆な水墨と多彩な色彩による独特の作風である。多くの桃源もしくは仙境を題材にした画や、中国の文人・政治家の蘇東坡(そとうば)に取材した作が有名だ。本美術館に所蔵の「武陵桃源図」(ぶりょうとうげんず)は70歳台の作といわれるが、これに似た構図は33歳の時の傑作「越渓観楓図」(えっけいかんぶうず、紙本着色)にも見られるのであり、おそらく終生のテーマの一つであったのだろう。面白いのは、「十六羅漢図」(じゅうろくらかんず)の方であって、どれもこれも、ほのぼの、ぼかぽかと温か、そして融通無碍の表情が見て取れて、何やら楽しくなってくるのである。自由奔放かつ儒者としての志を貫くことができたのは、政治向きの事は避けながらも、ほかのほとんど全ての面での真っ正直、精進の賜(たまもの)であったのだろうか。
 なにしろ、ここは山間の地なのであって、地図を広げているだけでは、どこに何があるやらはっきりしない。そんな中にも、新見市西部の満奇洞近く(隣接か)に豊永(とよなが)という地名が見える。この地域で、1986年から葡萄の栽培が行われているという。それまでのこのあたりは、備中高梁と同様に葉タバコの産地として知られていた。なにしろ、このあたりは標高400~500mの石灰岩地帯からなるカルスト台地の上にあり、岩にしみいる加減で水はけがよいのだと。そればかりか、土地の人に話をうかがっていると、ここは昼夜の温度差が大きいこともあって、県南部に負けない位の高品質の葡萄が栽培できるとのことである。まるで、ここが山梨の甲府盆地での葡萄栽培であるかのような土地柄なのではないか。
 ここでの葡萄の栽培品種としては、ピオーネや翠峰(すいほう)だと紹介された。ピオーネは、巨峰とカノンホールマスカットを掛け合わせたもので、大粒で種が無い。岡山県は、今ではピオーネの作付け面積、生産量ともに全国一位という。交配(こうはい)することで新味が出るとしても、例えば高級品種だと思われる巨峰と比べてみたら、何がどう違っているのだろうか。翠峰(すいほう)は、ピオーネとセンティニアルを交配させた品種なのだという。インターネットに上げられているところでは、黄緑色の大粒葡萄であって、福岡県農業総合試験場の園芸研究所で育成され、1996年に品種登録された。これも種無し処理をされていて、食べやすいらしい。葡萄栽培の他にも、新見産のキャビアの出荷が伸びているとのこと。これは、チョウザメの卵を加工してつくることから、これを生産している養魚場には絶えず新鮮な水が供給されなければなるまい。豊永の西にある新見市唐松(からまつ)に設けられている養魚場では、中国山地の伏流水をポンプでくみ上げてチョウザメを養殖していると聞く。
 さらに、畜産の分野での千屋牛(ちやうし)を育てることにかけては、このあたりは、我が国での和牛生産の先駆的な土地柄であった。そのパイオニアな精神は今も受けつがれる。その一例では、新見市内でこのブランド牛を育てる哲多和牛牧場が、無料でもらえるおからを原料にした自家製の飼料を使っている。具体的には、「隣接する広島県庄原市の豆腐工場から出るおからと、発酵飼料などを牧場内の加工施設で混ぜて、飼料としている」(朝日新聞、2015年6月11日付け)とのことだ。
 こうすると、「年間の飼料代を約2割削減でき、肉の質が良くなる効果もみられるという」(同)から、驚きだ。あわせて、「キノコ園で使い終わったトウモロコシの芯で作った培地も飼料に使う。輸入した牧草ではなく、県内産の稲ワラを使い、できるだけ輸入物を減らしていくことで、為替変化に影響されにくい経営をめざす」(同)という徹底ぶりだ。

 なお、有名どころということでは、日本の中世において、新見庄は備中国北部、新見市西方付近から千屋、神郷高瀬に広がる大きな荘園で、平安時代の終わりに、現地の豪族・大中臣孝正によって開発が行われた。 やがて皇室の領地である最勝光院領となり、しばらくを過ごす。鎌倉時代後期には、皇室から東寺へ寄進され、以後、荘園の歴史の終わる戦国時代末期まで、東寺の支配下におかれる。その間には、荘内では鉄、漆、ろう、紙などの特産物を有し、高瀬舟による物資の運搬も開かれていく。


(続く)

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新22『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(大和説、北九州説以外の説) 

2021-11-17 22:30:37 | Weblog
22『岡山の今昔』邪馬台国と吉備(大和説、北九州説以外の説) 

 前置きとして、まずは、在りしその頃の国際関係の一端を振り返ってみよう。改めていうならば、239年(景初3年)に、卑弥呼の使者が帯方郡に来る。この頃、現時点での多数説でいうと、倭国内で前方後円墳の築造が始まった模様である。ちなみに、大和の箸墓古墳に関しては、残存炭素測定の方法により、一説には、3世紀後半の築造ではないかと考えられている。

 240年(正始元年)には、帯方郡の使者が倭国に来る。243年(同4年)には、卑弥呼の使者が再度、朝貢してくる。
 245年(同6年)には、魏が倭国に軍旗を下賜する。かの「倭人伝」(書き下し文)でいうと、「正始6年(245年)、皇帝(斉王)は、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜するよう詔した」となっている。
 246年(同7年)には、卑弥呼が狗奴国と交戦のあったことを報告する。同年、帯方郡の使者が派遣される。248年(同9年)に卑弥呼が死ぬと、「倭国」では内乱が起き、壱与が即位するまで続く。

 このように、少なくとも239年から248年までの「倭国」(中国から見たこの「ウー」という呼び方は、当時の邪馬台国連合なりの全体を指している)においては、邪馬台国を中心として連合したり、その結束力が弱体化して部族国家の間で争うことになったりしていた。すなわち、当時の日本人列島では、数十との部族国家が緩い形で大方連合志向で並立していたのではないだろうか。


 もう一つ踏まえておきたいのは、「倭人伝」に記されている「伊都国」(その位置について、大方の専門家の見解が一致している)から「邪馬台国」(「女王国」とも)までの行程の解釈だろう。


 その中でも、伊都国から東南に行って奴国に至るのに要すのが百里とあって、そこには2万余戸が有るという その次の行程というのは、こうである。

 「東行至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家」
 「東行、不弥国に至る。百里。官は多摸と曰い、副は卑奴母離と曰う。千余家有り。」
 (奴国から)東に行き不弥国に至る。百里。官はタボといい、副官はヒドボリという。千余りの家がある。

 「南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸」
 「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
 「(不弥国から)南、投馬国に至る。水行二十日。官はビビといい、副はビビダリという。およそ五万余戸。」

 「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸
 「南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮と曰う。七万余戸ばかり。」
 「(投馬国から)南、邪馬壱国に至る。女王の都である。水行十日、陸行ひと月。官にイシバ(イキマ)がある。次はビバショウ(ミマショウ)といい、次はビバクワクシ(ミマカクキ)といい、次はドカテイ(ナカテイ)という。およそ七万余戸ばかり。」(以上、「三国志」魏書巻三十・東夷伝・「三国志」魏書巻三十・東夷伝・倭人の条(通称は「魏志倭人伝」))


 これらを含めて踏まえて、といったらいいのだろうか。ちなみに、邪馬台国が大和の地にあったとする説に従うと、投馬国辺りが吉備国であったということになるのかもしれない。それと、今度は大和説(狭義では、大和の地に勃興した政権をいい、他の地域から移ったとのではない)、北九州説いずれにもつかないとする立場もあり得て、実は邪馬台国そのものが吉備にあったのだという説とがあるようだ。

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 それでは、なぜ吉備説(狭義)、もしくは吉備東遷説でなれればならないかという理由付けなのだが、これまた、前項で紹介した大和説、北九州説同様に、誰もが納得せざるを得ないような決め手となるものは、残念ながら見あたらない。強いてその近辺となりそうなものを拾うと、前方後円墳墓の前期といえそうな墳墓の形態的特徴、及び特殊な土器がこの地において、全国に突出して出土していることであろう。しかして、後者については、別のところでこう紹介しておいた。


 「(前略)そして、この倉敷にある墳丘墓の発掘(岡山大学が中心、1976~1989)を行ったところ、様々な土器類が供献されていることが判明した。
 その中には、大型の壺や器台が含まれていた。それらの壺や器台は、特殊壷形土器・特殊器台形土器(略して、「特殊壷・特殊器台」とも)と呼ばれる。
 これらのうち特殊器台は、器高が70~80センチメートル程もあるものが少なくない。さらに、大型のものでは1メートルを越えるものもあるという。また、器体の胴部は文様帯と間帯からなり、文様帯には綾杉文や斜格などが刻まれている。そのかなりに、極めて精密に紋様が施されているのには、おそらくこれらが、埋葬するにあたり祭礼を行う時に用いられたのではないか。そして、そのあと一緒に埋められたのではないか、と考えられている。
 このような特珠壷・特殊器台は、一部を除いたはとんどが、吉備地方の同時期の遺跡からかなりの数が出土しており、これらの全体がこの地に特有のものであるといって差し支えない。
 次に紹介するのは、宮山墳丘墓という、総社市の山懐近くにあり、その案内板には、こうある。
「県指定史跡宮山墳墓群 昭和39年5月6日指定 
 およそ1700年前の弥生時代から古墳時代の初め頃の墳墓遺跡です。全長38メートルの墳丘墓と、箱式石棺墓・土棺墓・壺棺墓などで。、される『むらの共同墓地』です。東端に位置する墳丘墓は、盛土でつくられた径23メートル、高さ3メートルの円丘部と、削り出して作った低い方形部をもち、全体として前方後円墳状の平面形をしています。
 この墳丘墓には石が葺かれ、特殊器がたてられていました。円丘部の中央には、円礫や割石を用いた竪穴式石室があり、鏡・銅鏃・ガラス小玉・鉄剣・鉄鏃などが副葬されていました。(中略)このような埋葬施設の規模や構造、副葬品の相違は、当時の社会にすでに支配する者とされる者の差をうかがわせるもので、やがて首長が卓越した存在として村人に君臨し、巨大な古墳を造営する時代の歩みを示しています。」」



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 次に、青銅器や鉄器については、これまでのところ有望とみられる遺跡からの出土状況は、それほどではない。それというのは、鉄の場合、この辺りでは数が特に少ない。それと、5世紀後半には、列島でたたらによる製鉄が始まったようなのだが。中でも、吉備での製鉄年代の開始は、現実問題としてどうであったのだろうか。


 参考までに、上相(かみや)遺跡と鍛冶屋逧(かじやさこ)古墳群(現在の美作市勝央町岡山県古代吉備文化財)は、津山盆地の東の端、中国山地から続くなだらかな丘陵上に、隣り合わせで見つかっている。前者はひとかたまりなのだが、後者は中国縦貫道を境に二つに分かれている。
 こちらは、古墳時代後期から飛鳥時代(6世紀後半~7世紀前半)のものと推定されており、その7世紀と見られる地層から、多量の鉄滓(てっさい)といって、たたら製鉄の時に出る鉄のかすが出土しているのみならず、そのすぐ西側で製鉄炉跡が見つかっている。
 これは、鍛冶屋逧古墳群の一角において日常的に製鉄が行われたことを窺わせる。また、この両方の遺跡において刀子(とうす・工具)、鏃(やじり)、馬具など多種の鉄製品見つかっていることから、この地域に埋葬されている人物は、当時の鉄生産者の集落の首長ではないだろうかと推測されているとのことだ(さしあたり文化庁編「発掘された日本列島ー新発見考古速報、2015」共同通信社に、カラー写真入りの解説がある)。


 見られるように、これらの遺跡は、邪馬台国の時代からかなり後にずれてのものであり、当面の話に加えるのは難しいようである。それでも、一方では、弥生時代後期(1~3世紀)に鍛冶工房が急増することを根拠に、列島での製鉄の開始時期を前倒しにする説も、少数ながらあるという。


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 これらを受けて、それでは、これら学説が林立している状況をなるべく収束に導き、この列島の古代史を世界水準へとしていくには、一体どうしたらよいのだろうか。
 それには、やはり、これまで大王なり天皇なりの陵墓と目されている遺跡を、現代世界で行われているような科学的な見地から、発掘ないし再発掘することではないだろうか。少なくとも、そのことで得られる有益な情報が何かしらあると信じたい。
 しかして、その際には、幾つもの歴史観が平行して語られるべきであろうし、その辺り、例えば次のような見方が提出されているのが、参考になるのではないだろうか。


○「仁徳天皇の実在性も、聖帝とされる事蹟(じせき)の評価もその事蹟が「陵墓」に反映することも、そもそも古墳時代の「陵墓」の存在自体も、いずれも現代の科学において、証明されたことはありません。」(今尾文昭・基調講演「陵墓限定公開」40年と現状から考える」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)


○「仁徳天皇陵というのは漢風諡号の「仁徳天皇」と倭の王墓との結合であって、そうした歴史認識は、天皇制が巨大であった、律令国家の形成期と、それから1889年に秩序ができた近代の二つの産物に過ぎないものです。」(高木博志「近代天皇制と陵墓」、「陵墓限定公開40周年記念シンポジウム実行委員会「文化財としての「陵墓」と世界遺産」新泉社、2020)


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 とはいえ、日本の史料において、当時のことを正確に伝える記述にはなかなか行き当たらず、ある物理学者はその理由の一端をこう評価している。

 「最後に日本古代に生まれた「国史」についてもおなじことが言える。多分に中国の影響を受け、その正史に匹敵するものを示したいとの意図から生まれた「国史」においては、修史に当たる者が官制上定められ「第一に大臣、執行参議一人、大外記ならびに儒士のうち筆削に堪うる者一人を択(えら)んで之を作制せしむ。諸司官人事に堪うる者四、五人をして其の所に候わしむ」という有様であった。
 したがって「日本書記」においてもだれが中心となってできた書かが明らかでなく、できたものは政府の立場から必要とされた史実の編纂(へんさん)にすぎない。かようなところに本当の歴史家や歴史叙述を求めるのがそもそも無理であろう。」(村上堅太郎「歴史叙述の誕生」、責任編集・村上堅太郎「ヘロドドス、トゥカキュディデス」中央公論社、1980、中公バックス「世界の名著5より引用」)



(続く)


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序言

2021-11-17 09:06:56 | Weblog
序言
💛額に汗して働き、ふるさと・地域を愛し、かつ切磋琢磨の人たちであった、父・丸尾登と母・丸尾定子、父方の祖父・丸尾安吉と祖母・丸尾とみよ、母方の祖父・為季文蔵と祖母・為季せきに、この文を捧げる💛

 私は、岡山県の山間部の農家に生まれた。子供のころの一番の疑問は、家(うち)はどうしてこんなに朝から夜まで働かなければならないのだろうか、というものだった。そうなるとねがうのは、家族が安心して暮らせるように世の中もかわってくれたらいい、というものだった。
 小学校、中学校までは、自分からはほとんど態度を決めるようなことはできなかった。そんな中でも、社会科の勉強と歌を歌うのが大好きで、これで何かできたらいいな、というのが秘めたる思いではなかったか。中学生の時の独り道になると、よく歌謡曲の「人形の家」やアメリカ民謡の「スワニー・リヴァー」、同ジャズの「デキシーランド」などを繰り返し口ずさんでいたのを思い出す。
 転機は、工業高専の4年生の時学生運動があり、それに参加するうちに何かしら世の中のことを、それまでよりもやや広く眺めるようになった。学業の方は、工科系はなんとかついていっていた程度で、大方振るわなかった。
 20歳からは、県外に生活の糧を求めた。次男坊であったから、あれは中学生の時であったろうか、祖父の安吉(やすきち)から、「おまえはここを出てやって行け」との言葉に、「そんなものかなあ」と身の引き締まる思いに駆られた。以来、たぶん失敗の方が多くて、それでもめげずに、これまでなんとか暮らしてきた。
 顧みると、故郷の野や山そして川(吉井川の支流の加茂川)に向かって、我が胸を張れるようなものなどあるのだろうか。それというのも、私にとってこれまでの人生行路たるや、判断を迫られるような時にも、何かしら臆するところもあり、不本意なままで過ごすことが多かった。
 それと、日々の暮らしをなんとかやっていくには、自分や家族の力のみならず、社会との関わりからも相当の影響を受けてきたのではないだろうか、いまようやく時を得て、万感迫るものがある。
 私に、きみのふるさとの岡山はどんなところかと問いかけてくれたら、とても良いところですよ、というほかはない。では、どのように良いのかと問い直されるなら、この地は、そもそもは吉備の国、やがて美作・備前・備中の三つに分かれ、さらに岡山県となったのです。それらの土地名は、今も岡山人の心の拠り所となっているのです、とでも答えたい。
 そんなふるさとの悠久の歩みを回想しながら、今までお世話になった皆さんのお顔を想い起こしつつ、これまで私を支えて戴いたこの郷土のすべてに感謝を捧げる一環として試みたのが、この地を通る道を案内役に見立てたこの物語である。
 岡山県内には、まだ自身が歩くか、車に乗って通ったことのない道が万を数えるほどにあれども、これから機会に恵まれれば、愛用のリュックサックを背負って、それらをあわせてのできるだけ多くの道を巡り歩きながら、あれこれの名所旧跡などにも挨拶してゆきたいものだ。

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新445『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

2021-11-16 18:40:10 | Weblog
新445『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、馬越恭平)

  馬越恭平(まごしきょうへい、1844~1933)は、実業家。備中国後月郡(現在の井原(いばら)市)の医者の家に生まれる。
 どういう気持ちであったのだろうか、興譲館に学び、13歳にして、母方の叔父に当たる播磨屋仁平衛の世話にて、大坂の豪商・鴻池家(こうのいけけ)で丁稚奉公して働く。二年後にその働きぶりが認められ、仁平衛は自らの養子に恭平を迎え入れる。
 その播磨屋は、徳川時代から諸大名の金銭の用達を務める商家であった。各藩が軍費を調達するのに、金銭を貸し付けていたという。
 明治維新後は、表向き公宿になったらしいのだが、本人は何とか東京に出て新時代の経済界で飛躍したいと考える。それを養家が承知しなかったため、妻子と別れ播磨屋を去って上京する決意を固める。
 播磨屋の事業で知り合いとなっていた大阪造幣寮の益田孝(ますだたかし、後の三井物産社長)の世話にて、東京の井上馨(かおる)の設立した先収会社(せんしゅうかいしゃ)に入るのが、1873年(明治6年)であった。やがて同社の解散を経て、その後身の三井物産が新設されてからはその社員として活躍をあらたにし、横浜支店長(1876)、本社常務理事、売買方専務を務める。その間、1871年勃発の西南戦争では、政府の政府軍を支援する仕事を引き受け、食糧調達に奔走する。
 と、トントン拍子の出世であったようなのだが、やがて創立の時からの古参社員であった三井物産を退社して日本麦酒の経営立て直しに専念する。三井物産が大株主を務めていたため、馬越にその大仕事が託されたのである。
 その後の1906年(明治39年)には、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の三社の合同により設立した大日本麦酒の社長になる。新会社は、当時の日本ビール市場の7割以上を占めることで、互いに競争するよりは、それだけ独占的な経営を目指したのだろうか。中国に中国に工場を設立するなど海外にも進出、本人は「東洋のビール王」と呼ばれるまでの有名人になったようである。
 そればかりか、帝国商業銀行頭取をはじめ、100以上の企業の役員を歴任したというから、驚きだ。衆議院議員にもなり、1924年(大正13年)には、勅撰の貴族院議員に選ばれる。
 茶人としても知られる彼にして、何かしらの安らぎを得ていたのではないか。

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66『岡山の今昔』』備中松山城の修復・改築(江戸時代~現代)

2021-11-16 10:27:08 | Weblog
66『岡山の今昔』』備中松山城の修復・改築(江戸時代~現代)

 さて、この備中高梁には天下に名高い山城・備中松山城がある。2016年に建てられたという駅ビルの3階テラスから北の方角を仰ぎ見る。すると、確かに直ぐの山頂に城らしきものが見通せる。かなり、遠くにあるようでもある。こんな風な角度で見えるだから、あそこまで登るには、かなりがんばらねば、と思われるのだが。交通の便では、JR伯備線高梁駅から車でふいご峠まで約10分だという。天守までは、そこから徒歩20分位というから、散歩の気分で登ってみるのはいかがであろうか。
  この城は、現在の高梁市の市街地の北端にある、標高430メートルの臥牛山(がぎゅうざん)に乗っかっている。現存する山城としては日本一高いところに設けてある。今でも、城好きの人々の間で天下の山城を語る時には欠かせない。天守閣と二重堀は、17世紀後半の1683年(天和3年)に建築された当時のまま、国の重要文化財に指定されている。
 
 顧みると、高梁の地は、江戸期以前から備中の政治の中心地であった。政治的な中心としての高梁城のそもそもの場所は、鎌倉時代(1240年(仁治元年)頃か)に現在の城がある松山から東北方向の大松山に構えてあった。因みに、この二つは牛が横たわっている姿からの命名とされる、臥牛山を構成する4つの峰に含まれる。
 その景観だが、ここでは、戦国時代に三村氏が居城としていた時代からやや経って、江戸時代の初め、関ヶ原の戦いの後、西国目付として備中代官が置かれてからの城の拡張普請以来の姿を振り返ってみよう。
その時は、小堀正次、政一(後の遠州)親子が赴任してきて、主に修築が進められた。その後の展開では、水谷勝隆が城主となってから本格的な整備を進めていく。その中で、この城の天守が築造されるなど普請が鋭意進められ、ほぼ現在目にするような全容になったもののように考えられている。
 なお、この城は明治維新後にしばらくほぼ捨て置かれてあったのを、1873年(明治6年)に城の建物が払い下げられた時には、天守以外は放置され腐朽もしくは倒壊していた。ほぼ捨て置かれてあったのを、やがて諸般の厚志により再建・復興が取り組まれ、現在私たちが鑑賞できるような姿になっていった。
 そののちも、1997年に本丸の二つの建物が復元された。また櫓や門構えでいうと、1994年から本丸の五の平櫓、穴の平櫓、本丸腕木門(裏門)、本丸路地門と土塀などが復元されているという。
 いま幾つかの写真を並べてみると、現在の天守は小ぶりですっきりと、しかも凛々しい姿をしているではないか。大仰なものでないことが、かえって心地よい。麓なり遠くからは、三角帽子のような山容にも馴染んで写っている。数ある解説からは、「盆地にある高梁は、晩秋から冬にかけて濃い朝霧が発生します。雲海の中で陽光に輝く天守は神秘的」(雑誌「ノジュール」2017年9月号。「岩山に築かれた天空の要塞」国宝/現存天守、日本100名城。)と絶賛される。
 なぜそうなるのかというと、この時期は寒暖の差が相当にあって、城下の西を流れる高梁川から霧が発生しやすいからだと聞く。2階建ての小さな天守のたたずまいもさることながら、「大手門跡から三の丸、二の丸方面の石垣群を仰ぎ見る」(同)のは、これを撮ったカメラマンの目の付け所の良さを物語る、古武士然の趣(おもむ)きさえ感じさせる。
 そこでもう少し城に近づいての景観を伝える文と写真の中から、幾つかの場面を訪ね、眺めてみよう。最新の技術を凝らしてであろうか、新しく撮影されたであろう写真には、こんな解説が付いている。

 「この近世松山城は小松山に本丸、二の丸、三の丸を階段状に配した構造で、大松山との間には巨大な堀切が設けられている。天守は現存12天守の一つで二重二階構造となり、一階には暖をとるための囲炉裏が設けられている。また二階には宝剣を祀(まつ)った御社壇と呼ばれる一室が設けられている。」(中井 均「新編、日本の城」山川出版社、2021)

 「備中松山城の天守は初階に囲炉裏を設ける特異な構造となるが、なかでも二階には舞良戸によって仕切られた神棚が置かれ、十六神と三振の宝剣が祀られていた。天守が神の場となったことを示している。松本城では二十六夜様が、姫路城では刑部姫が祀られ、小田原城では最上階に摩利支天が祀られていた。」(同)

 なお、三の平櫓東土塀(国の重要文化財)は、四角いのと丸いのと二種類の鉄砲狭間を備えた土塀(造営は、1681~1683)を体感できる。また、二十櫓(国の重要文化財、1681~1683の造営)は質素ながら、今でも本丸を守ろうとしているかのようだ。さらに、よく引用されるのが「番所跡の高石垣」であって、こちらの手元では、シャッター・チャンスに恵まれた晴天に似つかわしい写真となっている、多数の書物などにて程よいアングルでさまざまに紹介されているだろうゆえ、その美しさを是非ご覧ありたい。

(続く)

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新383『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田伝三郎)

2021-11-15 22:51:54 | Weblog
新383『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田伝三郎)

 藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう、1842~1912)は、実業家にして「政商」の顔をも持つ。生家は、長州の萩(現在の山口県萩市)において酒造業を営むほかに、掛家(かけや)と呼ばれる金融業を営んでいて、その辺りでの資産家であった。その四男として、のんびりというか、自由奔放に育ったようである。
 幕末期には萩藩の尊王攘夷運動に加わり国事に奔走する。高杉晋作が率いる奇兵隊に参加することはなかったものの、その周辺で支援の行動をしていたようだ。
 維新後は、政府に任官せずに大阪に移る。1869年(明治2年)、たまたま軍靴製造を始め、陸軍用達業者となる。そのきっかけは、長州藩が陸軍局を廃止したおり、不用になった大砲や小銃、砲弾、弾丸などの払い下げを受けたのが、その後の商売の元手を与える。これを請けた伝三郎は、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の混乱がなお残る大阪に搬送し、転売して巨額の儲けを得た。
 1880年(明治14年)には、藤田組を創設する。それからほどなくの1883年(明治17年)には、官営小坂鉱山の払下げを受けて、これまた莫大な利益を得る、それからは、事業を拡張していく。要するに、鉱山業を中心に諸事業を興す。その間、1877年(明治10年)に勃発した西南戦争や朝鮮への出兵などにも、三井、三菱などに伍して関与し、政府軍に軍靴や軍服などを納入して、政治家との人脈も拡大していったに相違あるまい。
 1878年(明治11年)に西南戦争が終結すると、軍需からの脱皮を図る。それからは、長州閥を生かしての商売スタイルにより、小阪鉱山、十和田鉱山、大森鉱山などを手にしていく。やがては、それらにあきたらず、大阪紡績、阪堺鉄道の創設に参加するなど、幅広の分野で事業を手掛けていく。果ては、実業家の間での紛争などでの調停や斡旋を手掛けていく。大阪商法会議所頭となるなど、関西財界の巨頭に登っていく。
 そんな藤田が、児島湾開墾事業(現在の岡山市)に食指を動かす。ここでの干拓は、もともと備前岡山藩がすすめていたのだが、廃藩となって工事が止まっていた。そんな話は、1880年頃から始まったようなのだが、旭川沿岸の水利権や漁業保証の問題が絡んでいた。しかし、狙いを定めたからには、諦めない。おりしも、「干拓を進めたい旧藩士たちは、資金難に陥って伝三郎を頼った。これによる儲けはさほど見込めないが、伝三郎は了承した」(宮本又郎編著「明治の企業家」河出書房新社、2012)とされていて、1899年(明治32年)に着工する。こうして藤田は、やがて児島湾淡水湖化までの発展と、干拓による数千町歩の耕地造成へと、そうした藤田組の取り組みの基礎をつくる。
 そんな私生活では、どういうことであったのだろうか。珍しいところでは、現在の大阪市都島区綱島町に藤田美術館があって、こんな説明文がある。
 「明治の終わりごろ、大阪の実業界で幅広い活躍をした長州出身の豪商、藤田伝三郎の宏壮な邸宅がこの地にあった。彼は事業のかたわら、資力に物をいわせ多くの古美術品を買い集めていたが、第二次世界大戦で、倉庫三棟と高野山から移した多宝塔をのこして邸宅は焼失してしまった。
 昭和25年(1950)、残った倉庫を改造し美術館を設立、同29年から公開している。
 所蔵品のなかには、「紫式部日記絵詞」「玄奘三蔵経」などの国宝9点、重要文化財43点などがある。また、庭園には築山やすぐれた石造美術が配置されている。」(造幣局泉友会編「通り抜けの桜」創刊元社、1985)
  その人付き合いということでは、「伝三郎は人前に出ることを嫌い、会社へも出社せず、財界の集まりにもマスコミの取材にも応じていない。自邸で多くの人に応接したという」(前掲「明治の企業家」)から、かなりの人見知りであったのだろうか。珍しいところでは、「一方、慈善事業にも金を惜しまなかった。早稲田大学の理工科の創設、慶應義塾大学の旧図書館の建設など、教育関係にも多額の寄付をしている」(同)というから、晩年は、自分だけの栄達でもって満足していないことでは大いに評価されて然るべきだろう。

(続く)
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新64『岡山の今昔』津山城築城(1616)

2021-11-12 08:40:28 | Weblog
新64『岡山の今昔』津山城築城(1616)


 津山城は、岡山県津山市山下にある梯郭式平山城で、通称には鶴山城(かくざんじょう)とあり、国の史跡に指定されているとのこと。

 まずは、城址に立つ案内板のから紹介したい。

 「国指定史跡(昭和三八年九月二八日指定)

 津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長九年(一六〇四)に起工し、元和二年(一六一六)の完成まで一三年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。
 往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない実戦的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等数多くの櫓が立ち並び、本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園がありました。
 この城が築かれた当時は、我が国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。(以下、略)」(現在の鶴山公園に立つ案内板より)

 その位置は、南部を流れる吉井川と支流・横野川、そして西を流れる藺田川(いだがわ)の3川を外郭として、その内側に城下町などの主要部を構成しているとのこと。

 そんな次第の津山城の区割りは、鶴山の自然の盛り上がりを基礎に三の丸、二の丸、本丸と石垣を設け、往時には五層の天守閣がそびえていた。平山城のようにもいわれるが、正法城絵図には「本丸 山城」と記されている。この天守閣は破風の付かない五重五階地下一階の層塔型で、弓狭間・鉄砲狭間・石落し等の備えを持ち、唐破風・千鳥破風等の装飾のない、本丸の一角に天守曲輪を備える構造にて、天守台に穴蔵を設けるという、実戦的なもの。

 関連して、堅固な守りということでは、城の西側、宮川に面した名うての石垣(穴のう衆の作と伝わる)もさることながら、それだけではない。その一つ、「本丸の東面は斜面を石垣にするだけではなく、本丸内側にも壁のように立ち上がる長大な石塁にいち早く駆けつけるため、合雁木と呼ばれる石段が設けられている」(前掲書)とある。筆者も以前、その珍しい名前の石段を上ったことがあるのだが、足下に注意が必要だ。最新の階段の写真(同、前掲書)には危険回避の配慮からであろうか、正面に柵が設けられているように見受けられる。

 また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓など計60基もの数多くの櫓が立ち並び、さほど広いとはいえない本丸には七〇余の部屋からなる御殿と庭園が設けられていた(最新の説明としては、中井均「新編、日本の城」山川出版社、2021など)。


 表からの通常であったであろう順路を追うと、冠木門(現在その跡横に津山城趾碑)があり、広い石段から入ると三の丸で素晴らしい高石垣が迎えてくれる。見上げると高石垣が視野に入る、そんな石段の桝形虎口を登っていくと二の丸入口の四脚門に出る。ここから備中櫓を見上げながら切手門跡を通り、表鉄門跡へ、横から備中櫓を眺めることになっている。
 鉄門を入ると本丸で、東側の太鼓櫓跡、矢切櫓跡、月見櫓跡と続く大きな要塞のような石垣群が構える。本丸西側には備中櫓、その奥に天守台の石垣、そして天守が見える。そこから下るには、裏鉄門跡から降りていくと本丸下へ出て、西側の高石垣が見られる。


 話を戻して、この築城にあたっては、「領民、婦女子をはじめ、重臣以下」、藩の力を結集して取り組む。それでも足らないところほ、外からの知見を得ようとした。しかして、たとえば、設計については、小倉城を範としたことが、こう伝わる。 

 「工事に先立って、家臣の薮田助太夫ら絵師大工の一行が豊前小倉(ふぜんこくら)に密行、海上から城の見取図を作っていたところ、役人に発見され、城は軍事上の秘密、小倉城では大騒ぎとなった。
 しかし、城主細川忠興は一行を城内に招き、詳しい図のみか、築城の注意まで与えて帰国させた。
 城が完成すると忠興から朝顔の花形の半鐘が贈られ、この半鐘は天守の最上部に釣られ、大切に保管された。」(野口冬人「女のひとり旅2、城下町」文化出版局、1971で引用されている大類伸監修「日本城郭事典」秋田書店刊行より)


 一応の完成を見たのは1616年(元和2年)であり、幕府へ絵図面を持参したところ、5日ほどして「天守の五層はあいならぬ」と言われ、驚いた津山藩の担当・作倉孫十郎はとっさに頭を巡らし、絵図面の4層目の屋根を塗りつぶして「先に提出したのは間違っておりました」と申し開きをした模様。
 ところが、それから約2か月経過して、幕府のや役人3名が津山に向けて現地視察の旅に出たと知り、大いに慌て、江戸を出発するのだが、あえなく病となる。事の重大さに気づいた江戸屋敷の伴唯介が江戸表を出発する。
 運よく馬を乗り継ぎ、なんとか「一昼夜余りで美作土居」の宿に到達し、そこで幕府役人一行を追い抜き、国元たどり着き注進したという。

 それからは上を下への大騒ぎであったのだろう。一説には、急ぎ大工を集め、一夜のうちに五層のうちの一つを張りぼてでおおい隠して、一行を迎えた由。その結果は「不都合なし」とされ、これでなんとか面目を保つことができたという。
 なお、別の説では、「四層目の屋根を切り落とし難を逃れた」(津山城築城400年記念事業実行委員会「津山城ーよみがえる郷土の誇り」)とも言われており、いずれの説も「天守にまつわる伝説」の類いに留まっていて、はたして歴史的事実がどうかはわかっていない。

 こうして、途中3年間の普請中断があったものの、13年の長きにわたってこの築城は完成を見ているとのこと。

 かくて、その全容ということでは、城郭は本丸と天守閣、二の丸(周囲約480メートル)、三の丸(同約830メートル)、それに外郭に分かれ、櫓(やぐら)77、城門41にして、南は吉井川、東は宮川を自然の要害とし、東と北の急斜面など自然の地形を生かそう、との造りだ。
 また、三の丸の下の「西側に馬場、さらにるもとから外堀へかけて藩主の一族や重臣たちの屋敷を配し、その外へ土塁と掘をめぐらした」(日高一「津山城物語」山陽新聞社、1987)という。


(続く)


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新63『岡山の今昔』岡山城の築城(14~17世紀)

2021-11-11 22:06:46 | Weblog
新63『岡山の今昔』岡山城の築城(14~17世紀)

 まずは、その前史から、かいつまんで紹介しよう。岡山城は、南北朝時代に後醍醐天皇を船上山に迎えた名和長年の一族、上神高直が、正平年間(1346~1369)に石山に築城したのが始まりという。城地も、石山の自然の台地をそのまま利用した位だったのではないだろうか。


 その後、この地の豪族である金光氏の金光与次郎宗高が、石山に城砦を築く。それが、1573年(天正元年)に、上道郡沼城主であった宇喜多直家が時の城主金光宗高を謀殺し、石山の城砦に入城して城を大改築する。


 次に、今日見るような形での岡山城の姿とは、1594年(文禄3年)に、宇喜多秀家の家臣、角南隼人を普請奉行として修築が始まったのだという。いつ竣工したのかを伝える確実な史料は見つかっていないものの(一説には1597年)、天守閣について、こんな話がなされている。


 「岡山城天守はいわゆる複合式天守の典型的なもので、西方に塩蔵という二層櫓を付属させ、四層六階の極めて複雑な外観で、変化に富んでいた。
 一般に天守は五階が望楼の役目をするが、この天守は五階が望楼所で六階には祭神三体が祀られ、それを模しにという信長の安土城天守の最上階には何が祀られいたのであろうか。」(大類伸監修「オールカラー日本の名城」上巻、人物往来社、1968)



 17世紀に入ってからは、一風変わった構築物が岡山城本丸下段に構えられた、それが月見櫓であって、二重二階・一部地階の隅櫓だ。元和年間から寛永9年(1615~1632)にかけての建造だという。その時代の藩主・池田忠雄は、1610年(慶長15年)に幕府より淡路洲本6万3000石を与えられたが、1615年(元和元年)、兄忠継の死により岡山藩31万5000石を相続した人物だ。

 その月見櫓だが、名前からして秋の月見をしている、魅惑的な景色を感じるのだが、その土台部分の石垣天端に小さな凹面が彫り込まれていて、「石狭間、笠石銃眼などと呼ばれるもので鉄砲狭間の一種」(中井均「新編、日本の城」山川出版社、2021)なのだと解説される。


(続く)

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新8『岡山の今昔』岡山の山(中国山地)

2021-11-11 10:37:13 | Weblog
新8『岡山の今昔』岡山の山(中国山地)

 まずは、この辺りの山の形成を振り返ると、極大まかにはどのようであったのだろうか。
 現在では、そもそも海底で山地なりが形成されていたのが、プレートの移動と相俟って隆起してユーラシア大陸の東端に張り付いていたところ、その一部が、新生代の新第三紀(約2303万年前から533万3000年前)中のおよそ中頃のある時期(一説には、2000万年前、別の説では1500万年前とも)に、大陸から離れて弧状列島になったのではないかと考えられている。
 その時には、両者の間に海ができた。その海がだんだんに広がっていく。それだけではなく、その前の大陸縁の南西部は九州西部付近を要として時計回りに回転して西南日本になる一方、東北部は反時計回りに回転して東北日本になったという。
 このような日本列島の回転がいわれるようになったのには、現在の日本列島各地において、岩石が獲得した地磁気の方向を調べたところ、ほぼ1500万年前前後を頃を境にして、代の古地磁気の方向がどこでも異なることからわかったことがあるという。

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 そのことはさておき、岡山県の最高峰とされているのは、後山から船木山、駒の尾山(こまのおやま)辺りと見えて、「後山連山」とも言い慣わされる。
 その延長で暫く西へ向かえば、那岐山があって、この辺りまでは「氷ノ山後山那岐山国定公園」の峰続きとなっており、まさに壮観だといえよう。


 次に見えてくるのが人形仙(にんぎょうせん)で、この山は、鏡野町上齋原にあって、鳥取県にまたがる。 山頂からは、南西には津黒山、北東には三国山とある、そのほぼ中間にある。名前が一風変わっているのは、江戸時代の「伯耆民諺記」に登場する人形仙越に由来するという、この宿は、倉吉・三朝のある東伯耆と津山を結ぶ「津山往来・伯耆往来」の一つだったことからだという。


 それからも休む間も無くというか、さらに西へ行っての新庄(しんじょう、真庭市)の毛無山(けなしがせん)は、鳥取県にまたがる、大山隠岐国立公園の一部を成す。こちらの山頂から北東へは、大山(だいせん) の南壁、右へは三平山(みひらやま)、蒜山の三つの山へとつながっていく。天候が良ければ、壮大な景色を満喫できるとのこと。

 この山については、かねてから登山やトレッキングで人気があるようで、例えば、こんな風に紹介されている。

 「岡山と鳥取の県境に位置する毛無山は、両県から登山道があり、360度の展望と尾根を彩(いろ)どるカタクリの群落などで人気の山だ。
 俣野川(またのがわ)を挟んで15km(キロメートル)先にある大山をさえぎるものはまったくない。
 特に鳥取側の四号目にある展望台からは、俯瞰(ふかん)するように谷底の集落が眺められ、山裾から中国地方の最高峰、伯耆(ほつき)富士頂稜まで見渡せる絶好のビューティーポイントだ。タタラの痕跡(こんせき)やブナの森を楽しめる、白馬山(はくばやま)を周回する岡山県側からのコースもよいが、大山展望をメインにするならサージタンク広場から登るコースがオススメ。」(写真と文は岡本民治氏、山と渓谷社「山と渓谷」2021年8月号)に所収から引用)


 なおも西へ向かえば、剣山(けんざん)を経て花見山(はなみやま)が見えてくる。これでもって、かれこれ岡山県の北西、新見市千屋花見(ちやはなみ)まで来たことになろう。この辺りは、鳥取県日南町にまたがり、1000メートル級の八つ8連山の最高峰(1188メートル)とのこと。
 山の概要あるや、どっしりち構えて見える。山頂には、一等三角点が設置されているという。そこからの展望だが、南西には三国山、北の向こうに伯耆大山、そればかりか天候が良ければはるかに目を凝らすと島根半島やら隠岐の島まで眺められるという。


(続く)


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