137『自然と人間の歴史・世界篇』十字軍がたどった道
そこで東に向かって進軍したのが、世に「十字軍」と呼ばれるものにして、つごう7回にわたる執拗極まる軍事行動なのであった。もっとも、一説には、8回と算える場合もある。その場合は、1218年に行われたものをもって5回目としているようだ。
これに参加した人びとの共通する動機は何であったか。それは、ひとまず宗教的情熱がかかわっていたことに間違いなかろう。しかし、それだけではなかった。呼びかけたローマ教皇、運動に参加した国王、諸侯、商人、一般民衆と、実に多様な人間たちであった。彼らのそれぞれは、違った思惑をもって参加したことがわかっている。
1回目の十字軍は聖地の回復に成功し、その地にエルサレム王国を建設する。この地は、キリスト教徒にとっても、聖地にほかならない。これだけの予想外の獲得があったのだから、ともあれ大成功といえる。とはいえ、コンスタンティノープルに到着した十字軍に対してアレクシオス1世は臣従の礼をとることを要求する。おまけに、きみらが回復する領土はすべて東ローマ帝国に組み入れると命じたことから、十字軍はうまく利用されたともいえよう。かれらは反発したものの、東ローマ帝国の協力は必要だったので渋々その要求に屈した形であった。
この勝利の報が届いたヨーロッパの人びとは、さぞかし拍手喝さいしたであろう。ローマ教皇の権威は絶大なものとなり、12~13世紀のローマ教皇の最盛期を出現させる原動力ともなっていく。獲得した新しい土地には、西からの入植者が相次ぐ。しかし、まもなくイェルサレムはイスラーム側に奪回される。そのため、2回目と3回眼の遠征が行われる。またもや、よりあわせとしかいうほかのない大軍団が西へと押し寄せていく。
そして迎えた13世紀初めの第4回十字軍だが、これには商業的な目的からコンスタンティノープルの攻撃が含まれるにいたる。これを占領し、本来の目的から大きく外れ、経済的目的が強くなっていく。それ以後の十字軍の足取りだが、一時を除いていずれも聖地回復に失敗する。それにつれて、教皇権のだんだんな衰退にもつながっていくのだが。やがてビザンツ軍は戦線をだんだんに離脱していく。これにより、十字軍は単独で戦わざるをえなくなっていく。
最後の7回目の十字軍にもなると、果たせるかな、軍律などというものの半ばは失われつつあった。そして迎えた1291年には、十字軍の拠点アッコンが陥落したことで、約200年間にわたる「十字軍時代」に幕が降りる。
(続く)
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138『自然と人間の歴史・世界篇』10~11世紀のイベリア半島(ポルトガルの独立など)
10世紀の初頭、イベリア半島のアストリアにレオン王国が生まれる。サラセン人のこの半島への侵入の際、その西北端に逃げ込んだ西ゴート人たちが王政を立て、レオンに都した。
11世紀のはじめ、レオン王国の東側の同国の辺境領であった地に、カスティラ王国が独立する。
それからすこし後には、ポルトガルがほぼ同じ経緯をたどって独立をはたした。
それらの北方、ピレネー山脈の麓の中央山地にいたバスク人は、10世紀初頭にナヴァラ王国をつくる。さらにその一部は東方に分かれ、11世紀前半には同国の南に接する形でエブロ川沿いにアラゴン王国をつくるのであった。
それに加えて、ピレネー山脈の東方に位置するバルセロナでは、カール大帝(カロリンガ王朝)のスペイン辺境領があったところ、そこは13世紀末まで、フランス王の領有するところとなっていた。
(続く)
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56『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(旧約聖書の「出エジプト記」)
たまには覗いてみる「旧約聖書」には、「出エジプト記」という下りがある。この部分は、いわゆる伝承に多くを依存するのだが、そこでの主人公はモーセと呼ばれる。彼は、神との間でなかなかの体験をし、それをイスラエルの民に説いて聞かせ、神の意に従う行動をさせる役割を担う。
そもそもの話はどのあたりにあったのだろうか。そこで巷の歴史書を少し紐解くとしよう。すでに紀元前14世紀頃、パレスティナ(パレスチナ)あたりには、ヤコブ一族(イスラエル)の民が、ヨルダン川を越えて侵入していた。先住のカナン人を制圧し、沢山の部族国家を形成していた。
ところが、その別派の人々はこの地に止まらず、より豊かな土地を求めてエジプトへと向かうのであった。そして到達した彼の地では、しばらくそれなりの生活をしていたのであろうが、詳しいことはわからない。
そこで「出エジプト記」を読み進めていくと、イスラエルの人々はファラオの抑圧を受けて、国外に脱出をしようと思い詰めるようになる。異民族ということから、いじめなどもあったらしい。彼等の指導者モーセは、ファラオに対し、ユダヤの民を連れてカナンの地に戻るのを承諾してもらう。そして、ついに行動を起こす。
その時期については諸説あるも、ここではひとまずラメセス2世(在位は紀元前1304年頃~同1237年頃)の統治下のことであったとしておこう。妻子を含めたユダヤの民の総数は、伝承ではかなりの人数であったらしい。
しかし、彼らが紅海へと出て、まさに対岸に渡ろうとしていた時、翻意したファラオの軍隊が渡航を阻止するため追ってくるではないか。「このままでは囚われの身となってしまう」ということであったろうか、モーセ(モーゼ)らは意を決して前進あるのみの行動に出るや、なんと海がまっぷたつに割れて海に道ができるのであった。その海は、エジプトの軍隊をのみこんでしまう。
その後の彼らは、シナイ半島を放浪の末、やがてパレスティナの故郷にたどりつき、懐かしき同朋たちに合流することができたのだという。
この聖書伝承上の「出エジプト記」のもつ歴史上の意義につき、歴史学者の富村傳氏の著作には、こうある。
「物語の中では、モーゼは、しいたげられたイスラエル人を救う偉大な予言者であり、ファラオは、悪の張本人ということになっている。しかし、エジプト人の側からすれば、何のことわりもなく異民族が国内に入り込み、はびこるだけでも迷惑であった上に、さらに彼らの中からモーゼのような指導者があらわれ、随意気ままに国内を歩きまわって、扇動的な行動をとったとすれば、ファラオならずとも腹にすえかねたであろう。何らかの抑圧手段がせられて当然である。」(富村傳「文明のあけぼの」講談社現代新書、1973)
(続く)
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