(51)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の仏教建築と仏像(1)

2016-04-26 21:12:41 | Weblog
(51)『自然と人間の歴史・日本篇』飛鳥、白鳳、天平期の仏教建築と仏像(1)

 大化の改新によって国政が一新(中央集権化)の過程に入った後、飛鳥から白鳳そして天平へと、文化が流れて行った。それらの先駆けとされる飛鳥文化は、ほぼ推古朝に位置する。仏教伝来の頃からの我が国文化の発展を含める。この時期の文化の多くは、仏教をはじめ、多くのものが外国との関わりの中で、多くを採り入れ、あるいは吸収しつつ、発展していったことが窺える。そこで外国からの技術がどのように伝わっているか、そこへこの国の人々の創作がどのように加えられているか、これらを垣間見たい。だが、自前の文化形成の一貫した流れをそこに見出し、眺めるのは、かなり難しい。興味深いことに、この時期には、絵画の面では、かなりの独自性へ繋がる展開が見られる。
 これを寺社の造営でいうと、聖徳太子が四天王寺と法隆寺(斑鳩寺(いかるがじ))、蘇我氏(蘇我馬子)が法興寺(飛鳥寺)、平城京に移ってから元興寺を、朝鮮系氏族の秦氏(秦河勝)が広隆寺を、和気氏が神護寺(高雄寺とも呼ばれ、元は和気清麻呂が建立したと伝わる神願寺とも)を、大化の改新後に政権の中枢に取り入り力を伸ばしていくことになる藤原氏が興福寺(創建時は山階寺・厩坂寺として、平城京への遷都後は興福寺と改称)を、それぞれ造営したことで伝わる。なお、聖徳太子は実在がはっきりしていない人物なので、彼が四天王寺と法隆寺の造営を命じたとの断定は差し控えておきたい。
 これらの中での代表格は、法興寺(飛鳥寺)と法隆寺なのであろうか。飛鳥寺は、日本最古の寺とされる。今日に残っているのは、本堂ばかりだ。その中に鎮座する飛鳥仏はといえば、1940年に「銅造釈迦如来坐像(本堂安置)1躯」として国重要文化財に指定されている。この像高は275.2センチメートルという。鞍作鳥(止利仏師)作の本尊像であると伝わる。製作(完成)年代には2説があり、『日本書紀』によれば606年、『元興寺縁起』によれば609年であるが、後者が有力のようだ。画集でこの像を観賞していると、どうやら日本人を写したたものとは考えにくい。当初部分とみられる頭部は、面長の顔立ちや杏仁形(アーモンド形)の眼の表現などは現存する他の飛鳥仏に共通する表現が見られる。とにかく鼻が大きくて、盛り上がっている。顔全体の印象はやや「強面」(こわもて)であって、厳格な人柄なのだろうか。
 7世紀中頃の飛鳥仏のうち変わったところでは、正眼寺(現在の愛知県小牧市)に伝わり、現在は奈良国立博物館なら仏像館に展示され、「誕生釈迦仏立像」と題される銅造りの仏像がある。全身の鍍金(ときん)がかなり残っていて、地味な金色を醸し出す。大きさは、8.2センチメートルという小ぶりながら、不自然に頭が大きい。顔は面長で、目はなんだかなにかんでいるようでもあり、眩しそうでもある。口元には微笑があり、まだ10歳に満たない位の少年のあどけなさと覚える。裳(も)に刻まれた左右対称の襞が、中国の北魏彫刻の様式を採り入れているとか。しかも、立ち姿のポーズが変わっていて、右手で天、左手で地を指さしているのは、誕生時に「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)と唱えたという、作り話を物語っているようだ。
 寺自体が国宝の法隆寺において柱群が有名なのは、これら柱が「エンタシス」という中央が太くなっている特徴を備え、遠く西洋のヘレニズム文明にも通じる様式となっている点だとされる。ここにある五重塔は、インドでストゥーパで呼ばれたもので、日本では「卒塔婆」(そとうば)と訳される。心柱(しんばしら)と屋根などが独立している構造で耐震性に優れ、この巻の地震でもくずれなかった。塔の先端から相輪(そうりん)を下りていった処のふっくら、丸くなっている部分・伏鉢(ふくばち)にブッダその人の舎利(しゃり)が納められているかどうかは、分からない。この法隆寺金堂の本尊は、「釈迦三尊像」であり、623年鞍作鳥の作とされる。この作者がわかるのは、同三尊像の光背銘に「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されていることから来る。
 およそこの時期に造営された他の寺に安置される仏像の類でいうと、例えば、2016年6月、日本と朝鮮に伝わる二つの半跏思惟像(はんかしいぞう)が、東京の上野美術館で並んだ。日本のものは、奈良県の中宮寺門跡(ちゅうぐうじもんぜき)に伝わり、木造の国宝に指定されている。また、韓国の国立中央博物館所蔵の銅製の半跏思惟像は、国宝78号像としてある。
 伝承によると、この像が日本で造られたのは聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の発願によるとの伝承もあるものの、事実かどうかはわからない。中宮寺蔵のものは、『日本書紀』(巻第廿渟中倉太珠敷天皇敏達天皇)に「十三年春二月癸巳朔庚子、遣難波吉士木蓮子使於新羅、遂之任那。秋九月、從百濟來鹿深臣闕名字、有彌勒石像一軀、佐伯連闕名字、有佛像一軀。」となっていることから、その類推で百済から倭に持ち込まれたとする説も否定できない。ともあれ、この日本国宝の像の安置された中宮寺は、同太子の宮居である斑鳩宮(いかるがのみや)を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に合わせる等のけじめをつけて創建されたのではないか。

(続く)

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(230*160)『自然と人間の歴史』江戸期の民衆社会思想家(安藤昌益、山片蟠桃)

2016-04-09 20:10:26 | Weblog

(230*160)『自然と人間の歴史』江戸期の民衆社会思想家(安藤昌益山片蟠桃

 江戸期の市井に身を置いた、民衆の中から出て活躍した社会思想家といえる人物というのは、何人いただろうか。なにしろ、今のような言論の自由がなかったのを初めとして、封建社会の厳しい現実に晒され生きねばならなかった時代のことである。一部でそのたがが緩んでいた地域なり、時期があったろう。とはいえ、相当に幸運な出会いなりに恵まれなければ、その才能なり能力を発露させるためには困難が伴ったのは否めない。一言でいうならば、そういう「与件」としての時代であったのだ。ゆえに、支配階級の武士や貴族、その周りにいた一部の僧侶や知識階級、文化人、技術者などを覗いた一般人の場合、総数としてはかなり少なくしか個人の事績として伝わっていない、と考えてもよいだろう。中でも、民衆の生活に分け入って、その継続的改善を志し、実践した人物としては、何人かが現代に生きる人々に伝えられており、ここでは其の中から何人かの事績を紹介したい。
 安藤昌益(あんどうしょうえき)は、1703年(元禄16年)に東北に生まれた。長じては八戸の医者になっていく。社会思想に関与しているものの、どちらかというと理論家であったのではないか。1762年(宝暦12年)に死ぬまで、多くの書物をものにしていた。その多くは、明治になってから世の中にあらわれる。奥羽地方では、18世紀の半ばに飢饉が相次いで起こる。主なものだけでも、1749年(寛延2年)、1755年(宝暦5年)、1757年(宝暦7年)の3度あった。関東より一帯にかけて間引きが広く行われるようになったのもこの頃である。おそらくは1755年(宝暦5年)頃書かれ、明治に入って見つかったものに『自然真営道』(しぜんしんえいどう)がある。
 これによると、「平土の人倫は十穀盛りに耕し出し、山里の人倫は薪材を取りて之を平土に出し、海浜の人倫は諸魚を取りて之を平土に出し、薪材十穀諸魚之を易へて山里にも薪材十穀諸魚之を食し之を家作し、海浜の人倫も家作り穀食し魚菜し、平土の人も相同うして平土に過余も無く、海浜に過不足無く、彼(かしこ)に富も無く此に貧も無く、此に上も無く彼に下も無く」云々と、当時の財の循環に言及している。
 その後に「上無ければ下を攻め取る奢欲(しゃよく)も無く、下無ければ上に諂(へつら)ひ巧(たく)むことも無し、故に恨み争ふこと無し、故に乱軍の出ることも無き也。上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く、・・・・・五常五倫四民等の利己の教無ければ、聖賢愚不肖の隔も無く、下民の慮外を刑(とが)めて其の頭を叩く士(さむらい)無く、考不孝の教無ければ父母に諂ひ親を悪み親を殺す者も無し。慈不慈の法教(こしらえおしえ)無ければ、子の慈愛に溺るる父も無くまた子を悪む父母も無し」云々と、身分制批判が続いており、これで捕らえられないのかと心配にもなる。
 さらにその後に「是れ乃ち自然五行の自為にして天下一にして全く仁別無く、各々耕して子を育て壮んに能く耕して親を養ひ子を育て一人之を為れば万万人之を為して、貪り取る者無ければ貪り取らるる者も無く、天地も人倫も別つこと無く、天地生ずれば人倫耕し、此外一天の私事為し。是れ自然の世の有様なり」とあって、すべての人が自ら耕作する「自然の世」を理想視するに至っている。より根本思想としては、「五常五倫四民」を掲げるに至っていることから、「陰陽五道」によるものだろうか。しかし、いわゆる「自給的小農生産」の社会を理想社会とみなしている点では、次なる時代を見通せなかったことで限界があった。なお、以上の文言は、丸山眞男『日本政治思想史研究』東京大学出版会、1952年に掲載されたものから引用させていただいた。
 山片蟠桃(やまがた ばんとう、1748~1821)は、商人でありながら懐徳堂で儒学や天文学、それに蘭学も修めた。天文、地理、歴史など広範囲な分野についての評論を、1820年(文政3年)に著した。自分の師である中井竹山、履軒の二人の教えをまとめた。風変わりな書名となっているのは、夢に託して述べることで幕府の弾圧を避ける狙いがあったらしい。
 「生熟するものは年数の長短あれども、大ていそれぞれの持前有りて死枯せざるはなし。生ずれば智あり、神あり、血気あり、四支心志臓腑皆働き、死すれば智なし、神なし、血気なく、四支心志臓腑みな働くことなし。然ればいかで鬼あらん。又神あらん。(中略)人の死したるを鬼と名づく。是れ又死したる後は性根なし、心志なし、この鬼の外に鬼なし」(『夢の代』)
文中に「鬼」とあるのは、「霊魂」のことで、中国流の「人の死したるを鬼と名づく」の用法と見える。「死すれば智なし、神なし」とあるので、唯物論を採用しているのがわかる。ただし、ほぼ同時代にカール・マルクスによって主導された弁証法的唯物論との
関わりは見あたらない、素朴な人間物質論の類であろうか。

(続く)

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