◻️211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、米井源治郎) 

2021-04-30 21:08:40 | Weblog
211の4『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、米井源治郎) 


 米井源次郎(よねいげんじろう、1861~1919)は、現在の津山市下高倉の生まれ。
 やがて、地元の政治家にして文化人でもある、仁木永祐の籾山校に学ぶ。その後、津山藩の豪商磯野氏の世話になり、慶応義塾に学び明治18年3月同校を卒業する。


 津山藩出身の磯野計が創業した磯野商店(主に食品を扱う)の番頭として仕事を行う。そのうちに、三菱銀行の岩崎久彌に信頼され、麒麟ビール、明治ゴム、株式会社ヨネイなどの経営にも携わる。それとと共に明治屋(旧磯野商店)の二代目社長をも務めていく。


 1897年(明治30年)には、機械・金属・雑貨の輸出入を手掛ける米井商店(現在の株式会社ヨネイ)を、磯野計と創業して社長に就任する。日露戦争当時には、イギリス産の無煙炭を海軍に納入していた模様だ。


 1900年(明治33年)には、合資会社明治護謨製造所(現在の明治ゴム化成)の創業に参加、社長に就任する。


 1903年(明治36年)には、明治屋の2代目社長に就任する。1907年(明治40年)には、「機を見るに敏」とでも形容しようか、明治屋が一手販売権をもつ「麒麟ビール」の製造会社ジャパン・ブルワリー社を、岩崎久彌の協力を得て買収する。その上で、麒麟麦酒株式会社(現在のキリンホールディングス)の設立に参加して、初代の専務取締役になるという目まぐるしさであって、驚くほかはない。
 
 そういうこともあって、本人には過度の負担がかかって、いわば、ほとんど休みなくして人生航路をひた走ってきたのではないだろうか。50代での急逝ということがなければ、本人の激動人生を振り返り、何かしらまとめる時間があったのではないかと、日本の産業史に一石も二石も投じてもらいたかった気がして、惜しい。


(続く)

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◻️211の38『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森下精一)

2021-04-30 20:43:32 | Weblog
211の38『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森下精一)

 森下精一(もりしたせいいち、1904年~1978)は、和気郡日生村(現在の備前市日生町)の生まれ。父親は雑貨販売と漁網の製造を営む。
 高等小学校を卒業すると、家業を手伝い、関西や九州でも漁網の売込みを行う。
 1929年(昭和4年)に、父親のあとを継ぐ。東洋麻糸紡績の漁網用ラミーの特約販売を担う。

 西日本から朝鮮半島にまで販路を拡大し、漁網用ラミーではシェア80%を占める。戦時中には、大砲や戦車を覆う擬装網なども手掛ける。

 戦後になっては、生産拡大を目指して動力編網機を導入する。1947年(昭和22年)には、有限会社森下製網所を設立する。1948年(昭和23年)からは、東洋レーヨンが開発した新合成繊維のナイロンの製造を担う。 

 1956年(昭和31年)には、株式会社に変更。1957年(昭和32年)には、ラミネート製輸送袋などを製造する森下化学工業を設立する。他にも、20社位の企業を設立する。レジャー用品、ゴルフ練習場、フェリー運航、ガソリンスタンドなど、経営の多角化を行う。

 そんな仕事一筋の人かと思いきや、彼の名前による美術館が、故郷に建つ。1975年3月に開館する。

 古代中南米専門美術館ということで、中南米に商用で出掛けたおり、せっせと買い集めたものを収蔵しているとのこと。
 中でも、インカ・マヤなど、古代南アメリカ大陸で作られた土器、土偶、石彫、織物が観れるということで、有名だ。

 その魅力としては、折に触れて収集したものが基(もとい)となる。中南米11カ国約1600点におよぶコレクションは学術上、美術史上、大変貴重な物ばかりだというから、驚きだ。
 その建物としても、外壁にはなんと1万数千枚もの備前焼の陶板をあしらっていて、なんとも興味深い。


(続く)

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◻️23の4『岡山の今昔』女性視点からの岡山の戦国時代(金山城、三星城の悲劇)

2021-04-30 10:05:49 | Weblog
23の4『岡山の今昔』女性視点からの岡山の戦国時代(金山城、三星城の悲劇)

 そもそも、宇喜多直家が登場以前は松田氏が金川城を拠点に西備前に揺るぎない勢力を誇り、東備前の浦上氏に対抗していた。その松田氏を重臣として支えていたのが宇垣氏であったのだから。
 その前からも、松田氏の領国経営は、当主元輝の強引な宗教政策によって人心は離れてきていて。これにつけこんだのが直家であって、「備前軍記」には、こうある。

 「金川城中にも日蓮宗の道場を建立しければ、家中の兵士も領内の百姓も左近将監をうとみ退去するもの多し。直家是を幸の時なりとはかり討たんと思へども、老臣に横井土佐・橋本某・宇垣市郎兵衛・其弟与右衛門などいふよきものありて、家をとり治めける故亡しがたし。この横井土佐は医術をよくして此薬をのめば病も則平癒するやうにいひふらしける。其上正直仁愛の生れつきにて、敵といへども薬をあたへ療治しける。又宇垣兄弟も謀などよくせしものなりし。
 直家ある時沼より金川に到りて鹿狩を所望して城主と共に狩をしける。其時鹿をうつとて誤りて宇垣与右衛門を討殺す。誰うちしともしれず。実は直家の臣に搏(う)たせし事なりとぞ。」(「備前軍記」巻第三「宇喜多松田を討ち金川落城の事」)

 つまるところ、主君の松田元輝からすれぼ、嫡男の義父である宇喜多直家に誘われて鹿狩りを行ったが、この時、あってはならない、宇垣与右衛門が誤射され死亡したことから、相当に悩んだのではないだろうか。


 以下は、一部繰り返しになるが、松田元陸(まつだもとみち)の代の時には、第12代の室町幕府将軍・足利義晴より侍所所司代に命じられる。 
 1531年、足利義晴の命により天王寺の戦いに参陣するも、赤松政祐の裏切りを受けて、浦上村宗、細川高国と共に討死する。 松田元輝の代の1562年には、子の松田元賢に直家の娘と婚姻させ、姻戚関係を結ぶ。南と東の方から、宇喜多直家の力が強大になってきたのに、脅威を感じていたのであろうか。
 月山富田城の尼子晴久に味方するも、明禅寺の戦いにて、宇喜多家に援軍を出さず、関係が悪化していく。
 また、領内の寺には、前述のように、領民に日蓮宗への改宗を強要したり、これに従わない吉備津彦神社を焼き払うなど、寛容さに欠けていたのではないかと。さらに、前述の宇垣兄弟への仕打ちがあった。
 そして迎えた永禄11年(1568年)、宇喜多直家は松田家の重臣である虎倉城主の伊賀久隆を内応させ、頃合いをみて金川城を包囲させ、軍勢も派遣する。松田元輝は伊賀久隆の鉄砲隊によって討死する。子の松田元賢は、金川城の落城から、弟・松田元脩と共に、夜闇に紛れ城を脱出するのだが。


 そして、西の山伝いに下田村まで落ち延びたところを、伊賀勢の伏兵によって発見され、奮戦して後討死する。そればかりか、この知らせを聞いた正室である宇喜多直家の娘も、自殺したという。

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(続く)


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◻️95『岡山の今昔』備前、備中及び美作の戦乱のあらまし(~戦国時代、領国支配をめぐって)

2021-04-28 22:28:01 | Weblog
95『岡山の今昔』備前、備中及び美作の戦乱のあらまし(~戦国時代、領国支配をめぐって)

 ここに最初に居城していたのは、備中の有漢郷(現在の上房郡有漢町)の地頭であった秋庭重信(あきばしげのぶ)であった。この居城、秋庭氏(あきばし)が5代続いた後の元弘年間(1331~33)には、高橋氏にとって替わり、高橋九郎左衛門宗康が城主となる。
 折しも、南北朝の動乱期の只中で、宗康は松山城の城域を大松山から小松山まで拡大し、外敵の侵入に備えた。この九郎左衛門にちなむ逸話としては、自分の名前と地名が同じなのは気に入らなかったのか、高橋改め松山と号す。
 ところが、明治になってこの松山が伊予国の松山と紛らわしいという声が上がる。一悶着(ひともんちゃく)があったのかどうかはつまびらかでないものの、結局は、前々のものとは区別する意味も込めてか、橋梁もしくは中国王朝にあった「梁」(りょう、中国語名では「リアン」)にあやかってか、梁を採用することにし、高梁(たかはし)で落ち着いたらしい。

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○折しも、備中では、高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏など、めまぐるしく守護が交代していくた。
 1375年(永和元年)、渋川満頼が守護職を継承する。その在職中の1381年(永徳元年)には、川上郡を石堂頼房が分郡支配し、明徳元年から川上郡と英賀・下道の各郡賀細川頼元の統治下に入った模様だ。
 細川頼之は、1392年(明徳3年)、明徳の乱鎮圧後ほどなく没し、三郡は備中守護の統治下に置かれる。同年哲多郡は頼之の子頼元の支配となる。
 1393年(明徳4年)には、渋川満頼は守護を罷免され、守護には細川頼元の弟満之が補任される、以後、頼元の子孫が世襲していくものの、次第に勢力を失っていく。
 そうこうするうちにも、守護やその被官としての守護代、国人衆などは、荘園・公領を押領したりで、自己の所領化していく。備中国の細川氏支配の守護代としては、庄氏・石川氏が代表的だろう。国人衆なども含めることでは、成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などが有名だ。

○1461年(寛正2年)の新見荘では、守護被官を務める安富氏の代官支配を退け、東寺の直轄支配を要求する土一揆が発生する。

○1461年(延徳3年)には、守護代の庄元資が細川氏に反旗を翻す。ひとまず、これは細川氏の勝利に終わるものの、以後、守護の勢力は衰え、有力国人勢力が台頭していく。

○1470年(文明2年)頃、美作は赤松氏の支配下となる。

○1467年(応仁元年)、京都で応仁の乱が勃発する。

○1470年(応仁4年)には、応仁の乱が大方収まる。すると、山名氏が美作の奪回に動く。

○1480年(文明12年)、山名氏が美作東部を奪回する。その山名氏は、赤松氏の内紛とに乗じる形で、翌年には美作全域を勢力下におく。ただし、山名氏は守護に任じられることはなかった。

○1486年(文明18年)、赤松氏は守護代浦上伯耆守口により美作の支配拠点である院庄を回復する。翌1487年(長享元年)には、美作全域を支配下におく。

○1488年(長享2年)には、山名軍が美作から退き、赤松軍が入って領国に組み込み、支配を始める。

○1477年に応仁の乱が終わってからは、室町幕府の権威はあらかた失墜していた(その時の九代将軍の足利義尚(あしかがよしひさ)は足利義政の子。放蕩の末にか、1489年(延徳元年)に近江守護大名六角氏討伐の陣中で病死。)。
 その頃の備前、備中そして美作をふくめての次の記述たるや、そのことを生々しく、こう伝える。

 「文明九年十二月十日、・・・就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し。近国においては近江、三乃、尾帳、遠江、三川、飛騨、能登、加賀、越前、大和、河内、此等は悉く皆御下知に応ぜず、年貢等一向進上せざる国共なり。其の外は紀州、摂州、越中、和泉、此等は国中乱るるの間、年貢等の事、是非に及ばざる者なり。
 さて公方御下知の国々は幡摩、備前、美作、備中、備後、伊勢、伊賀、淡路、四国等なり。一切御下知に応ぜず。
 守護の体(てい)、別体(べったい)においては、御下知畏(かしこ)入るの由申入れ、遵行等これを成すといえども、守護代以下在国の物、中々承引に能(あた)はざる事共なり。よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(興福寺の大乗院の尋尊による「大乗院寺社雑事記」)


 これにあるのは、「就中天下の事、更に以て目出度き子細これ無し」(現代訳は、うまく政治が行われているといったことはまったくない)に始まり、「よって日本国は悉く以て以て御下知に応ぜざるなり」(現代訳は、日本国産中においてはことごとく幕府の命令を受け入れようとしない)で締めくくるという具合にて、致し方ないといったところか。

○1518年(永正15年)頃から、赤松氏被官であった浦上氏が、美作に入ってくる。

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○浦上則宗は、政則と一時対立したものの、和解して山名勢を撃退し、政則の没後に起った領国内の紛乱も、則宗が政則の子義村を奉じて鎮圧する。 やがて、浦上氏は赤松氏から実権を奪い、勢力を拡大していく、その基盤をつくって浦上則宗は、1502年(文亀2年)備前国三石城(現在の備前市三石)で亡くなる。

○1519年(永正6年)、赤松政則の後を継いだ義村は、浦上氏の居城三石城を攻めるも、大敗を喫し、 1521年(大永元年)には、赤松義村は浦上村宗によって自害に追い込まれる。

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○1520年(永正17年)には、赤松氏の美作支配の拠点である岩屋城を攻撃し、城は数日で落城、浦上氏被官中村則久が入城する。赤松氏は、岩屋城奪回の兵を挙げ城を囲む。城将中村氏は奮戦する。浦上氏被官の宇喜多能家の援軍もあり、逆襲に転じ、赤松軍は敗走する。以後、浦上氏が美作国を支配する。

○1521年(大永元年)には、浦上氏の浦上村宗が、赤松氏の赤松義村を殺した、美作を支配する。

○1531年(享禄4年)には、浦上氏のあとを継いでいた浦上村宗は 細川氏に加勢して、摂津へ出兵し天王寺の合戦で討死する。 村宗の後は子の政宗が継いで、本拠を室山城に移す。しかし、政宗は弟の宗景と不和になり、宗景は政宗から独立する。

○1532年(天文元年)には、出雲の尼子氏が美作に侵攻し、数年の間に美作東部・中部を制圧する。

○1532年(享禄5年)に、浦上宗景は天神山に城を築く。その宗景は、播磨西部と備前で主家を圧倒する力を得て、守護代から戦国大名化していて、播磨西部と備前東部を支配するにいたる。

○1533年(天文2年)、備中の猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城を取り込んだ。同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中への進出の機をうかがっていた。三村氏はまた、庄氏のバックである鳥取の尼子氏(あまこし)と敵対関係にあった。そこで西の毛利氏と連絡し、この力を借りて松山城へ侵攻しこれを奪取した。
 備中に拠点を得た三村氏は、その余勢をかりて1567年(永録10年)、備前藩宇喜多直家の沼城にまで足を運んでこれを攻め立てるのを繰り返していた。さらに三村家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に襲われ、落命するという珍事が起こる。

 この事件について、「備前軍記」には、こうある。

「としも明け永禄九年(1566)の春になりて、重ねて三村家親作州へ働き出、備前へも打入べきよし聞えければ、宇喜多安からず思ひ、何とぞ謀を以て三村を打取べしと工夫ありて、津高郡加茂に居住せし浪人侍に遠藤又次郎・同喜三郎という兄弟の者あり。(中略)
 三村家親此度は穂村の興禅寺を本陣として其辺に皆々軍兵ども陣取ける。常に其寺の便宜案內はよく知りたれば、敵陣の間を忍び入て兄弟申合せ鉄砲にてねらひ搏殺さんとぞ謀りける。二月五日の夜の事なれば月も入り、夜廻りの者に紛れて客殿の庭へ忍び入りうかゞへば、本堂の方に家親が声聞ゆれば、椽へ上り唾にて障子の紙を湿し押破り見れば、家人を集めて家親は仏壇の前に寄添て軍評定をせしと聞ゆ。

 又次郎かくし持たりし短き鉄砲に二ツ玉込たるにて是をうたんと、かの障子の破よりねらひけるに火縄立消して玉出でず。則鉄砲を引きその筒を椽の下へかくし置き、又夜廻りの番所へ行て篝火によって寒き夜のうさなど物語り、しづかにして羽織の裾を火の中へ入る。番人物焼け臭しといふ。喜三郎麁末にて某が羽織を焼たりとて、もみ消すふりにて其所をさりげなく立さり、小蔭にて其火を火縄にうつし付て又次郎に渡す。

 又次郎是をとりて又元の椽に上りてのぞき見れば、今度は家親はじめの仏壇にもたれかゝり眠り居たるを幸とて、ねらひ澄し搏たれば脳を打貫きぬと見ゆ。兄弟ども是をよく見極めて堂の後の藪に隠れてゐたるに、寺中大きに騒ぎけるが程なく静りぬ。」(「備前軍記」より)

○1536年(天文5年)には、尼子晴久の軍が備中に侵入し、1554年(天文23年)、晴久は名目上ではあったが備中守護に任じられる。

○1543年(天文12年)、守護の赤松晴政は、備前に侵攻し、浦上氏を攻めたが、宗景はこれを撃退する。

○1545年(天文13年)、尼子晴久は岩屋城・高田城を攻め、岩屋城主中村則治は尼子方になる。1549年(天分文17年)には、 高田城も尼子方に落ち、尼子氏は美作の大半を支配する。そしての1553年(天文21年)には、その尼子氏が美作守護に任じられる。

○1540年代に美作を制圧した尼子氏は、今度は、その勢いをもって備前侵攻をはかっていく。

○1545年(天文13年)での浦上氏の被官・宇喜多直家は、かかる尼子氏への対抗関係もあってか、吉井川河口に乙子城を築き居城とする。直家の祖父興家の代に没落していたのを、直家の代に再興したものである。
 その宇喜多氏は、乙子城から新庄城、亀山城へと拠点を移し、備前南部に勢力をもつようになる。以後、備前は東備の浦上氏、 西備の松田氏、南備の宇喜多氏の勢力が鼎立(ていりつ)する図式となる。

○1552年(天文21年)には、出雲(いずも)に拠点をおく尼子晴久(あまこはるひさ)が、美作の守護となる。

○1552年(天文21年)には、中山神社(現在の津山市一の宮にある)を本拠として土一揆があり、出雲を本拠とする尼子晴久が神社に侵入して焼き払う。それから程なくの1554年(天文23年)には、尼子に対して、大隅宮で土一揆が起きる。1558年(永禄元年)には、尼子晴久が、中山神社の本殿を再建する。

○1561年(永禄4年)には、宇喜多軍に浦上氏の浦上宗景か攻められ、浦上氏は滅亡する。

○1564年(永禄7年)には、浦上政宗が赤松政秀の襲撃に遭い討ち死にし、政宗の子の浦上誠宗が継ぐも、1567年(永禄10年には宗景が誠宗を暗殺し、浦上宗家の乗っ取る形となる。
 しかし、その浦上宗景も、1577年(天正5年)に家臣の宇喜多直家に居城の天神山城を攻められ、宗景は播磨に遁走をし、備前は宇喜多直家の手中に収める。ここに、天神山城は、浦上宗景一代で廃城となった訳だ。


○1566年(永禄9年)には、毛利氏が尼子氏を攻め滅ぼす。


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○家親亡き後を継いだ子の三村元親(みむらもとちか)は、よほど悔しかったのだろうか、1568年(永録11年)に弔(とむら)い合戦のため再び備前に攻め込む。一説には、総勢2万の軍勢を三手に分けて、5千を擁する宇喜多勢を撃破しようとしたのであったが、かえって地の利のある宇喜多勢に撃退されてしまう。この合戦を、「明禅寺崩れ」(みょうぜんじくずれ)と呼ぶ。
 この大敗によって敗走した三村氏であったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力をつないでいく。
 この同じ年、三村氏に率いられた備中の軍勢が毛利氏の九州進攻に参加していた隙をつき、宇喜多直家は備中に侵攻した。備中松山城を守る庄高資や斉田城主・植木秀長などは、この時に宇喜多側に寝返った。猿掛城も奪還されることとなり、ついに備中松山城を攻撃し庄氏を追い落とした。それからは城主であった三村元親が高梁に戻って奮戦、備中松山城をようやく奪還し、同城に大幅に手を加えて要塞化するのだった。

○1568年、松田元輝の家臣にして津高郡徳倉城主の宇垣市郎兵衛(うがきいちろうびょうえ)の弟、宇垣与右衛門(うがきようえもん)が、宇喜多直家側に謀殺された。金川城周辺(現在の岡山市北区)で開かれた鹿狩りの際に、松田家臣宇垣与右衛門が「鹿と間違えた」という理由で宇喜多側の人間によって弓で射ち殺されたのだ。
 その時、さすがに家中から「宇喜多の手の者の仕業ではないか」という声が挙がるが、主君の元輝は、宇喜多との友好関係が乱れる事を恐れこれを黙認してしまう。この元輝の処置に激怒した宇垣市郎兵衛は、元輝に絶縁状を突きつけて出奔したという。この頃には、もはや元輝と家臣団との溝は決定的なものになっていく。


○1569年(永禄12年)には、毛利元就(もうりもとなり)が、総社宮(現在の津山市総社)の本殿を建てる。

○1570年(元亀元年)には、宇喜多方の花房職秀(はなるさもとひで)が、荒神山に城を築く。花房は、天台宗の極楽寺(現在の津山市小桁)をうち壊す。

○1574年(天正2年)、毛利氏の山陽道守将で元就の三男の小早川隆景が、宇喜多直家と同盟を結ぶ。。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ元親は毛利氏より離反するのを余儀なくされる。
 あえて孤立を選んだ当主の三村元親は、叔父の三村親成とその子・親宣などの反対を押し切り、中国地方に進出の機会をうかがう織田信長と連絡するに至る。戦いの火蓋が切られると、備中松山の城ばかりでなく、臥牛山全体が要塞化される。

○1576年(天正4年)には、三浦氏は毛利輝元によって滅ぼされ、高田城は毛利氏、篠向城(現在の真庭市三崎)は宇喜多氏の所領となる。

○この城が毛利軍に包囲されて後は、内応する者が次々と現れる。明けて1575年(天正3年)には、最後まで残った家臣の説得により、元親はついに城を捨てることに決める。落ち延びていく途中で元親死んだことにより、備中松山城と三村氏の領地はついに毛利氏の支配下に編入された。この一連の戦いを、備中全体を揺るがしたという意味を込め「備中兵乱」(びっちゅうひょうらん)と呼ぶ。

○1578年(天正6年)には、宇喜多方の日蓮宗の宗徒たちが、浄土宗の誕生寺(現在の久米南町)を焼き討ちにする。

○1579年(天正7年)には、宇喜多方の美作の拠点たる、吉井川を隔てた南側の荒神山(こうじんやま)を拠点とする花房助兵衛職秀(はなふさすけのひょうえもとひで)の軍が、毛利方の神楽尾城を攻める。これについては、毛利氏配下の神楽尾城側が、この年織田方になった宇喜多氏に対し攻撃を仕掛ける計画であった。ところが、これが花房側の密偵に事前に察知されていたという。
 そこに夜襲を決行した神楽尾城側(かくらおじょうがわ、毛利方)は、待ち構えていた敵に敗北し、逆に今度は、荒神山城の伏兵からの攻撃により、神楽尾城が火を放たれてあえなく落城してしまう。

○1579年(天正7年)、宇喜多の軍が、大小寺城(現在の真庭市勝山)、篠向城(現在の真庭市久世)を攻略する。同年、宇喜多軍が、鷲山城(現在の柵原)、鷹巣城(現在の美作市)を攻略してから、後藤氏の本拠である三星城を攻め落とし、後藤勝基は自殺する。


○1579年(天正7年)には、毛利氏は織田氏と結んだ宇喜多氏と決裂する。そして、毛利が方の吉川元春が宇喜多の諸城を攻める。この時、大寺畑城、小寺畑城に籠もっていた宇喜多氏の家臣江原兵庫親次は、1580年(天正8年)には、城を明け渡して篠向城に移る。

○1580年(天正8年)には、宇喜多軍が、医王山城(現在の津山市吉見)を、また矢筈城(現在の津山市加茂)を攻めるも、両城はこれを防ぎ、宇喜多軍は撤退する。

○1580年の春頃からの医王山城(祝山城(いおうやまじょう)、現在の津山市吉見、因幡に通じる街道沿いにある)を巡る攻防では、毛利が方と宇喜多方が渡り合う。それというのも、「高田城(勝山町)が毛利の手に落ち、東の三星城が宇喜多の手に落ちると、中央部にあり山陰への道を押さえる」(津山市中学校社会科協議会・津山市学校教育研究所編「郷土津山ー中学校社会科(歴史)資料集」1981)といわれるこの城が、両陣営の最前線になっていく。
 はじめは枡形(ますがた)城主の福田盛雅(ふくだもりまさ)があずかっていたのを、毛利氏は湯原春綱(ゆはらはるつな)を送って籠城させた。それからは、双方にらみ合いの持久戦に入り、毛利の本拠からは励ましと奮戦への褒美の約束をする。かたや宇喜多側からは、味方になるよう誘われるうち、宇喜多側はやむなく攻撃をやめ、引きあげる。


○1581年(天正9年)には、毛利方の葛下城主・中村頼宗が、宇喜多方の岩谷城を夜襲し、落城させる。
 その実、彼らの後ろには、高田城(現在の真庭市勝山)を拠点にして、美作での勢力回復を狙う毛利氏がいた。
 その時の岩屋城は、宇喜多氏の一族・浜田家織が守っていたのだが、中村頼宗は、地侍の32名を連れ、夜陰に紛れて北の絶壁をよじ登り、城に火をかけたから、浜田方はたまらない。右往左往する間に、本丸へとなだれ込み、浜口家職を追いやり、岩屋城を奪取してしまう。この戦功により、毛利輝元は中村頼宗を美作・岩屋城主とする。


○1581年(天正9年)には、宇喜多方の篠向城も、毛利方に城を空け渡して退去する。

○1582年(天正10年)には、毛利輝元が、羽柴秀吉と和議を結び、その中で美作は宇喜多氏の領地とする。

○1583年(天正11年)には、これに美作の大方の武将が与しなかったことから、話は進まなくなる。毛利軍は、美作と備中から撤退する。

○1584年(天正12年)、宇喜多直家が、あくまで抗戦する竹山城(現在の美作市大原)の新免弥太郎を攻め、新免家を滅ぼす。これにて、美作の全域が宇喜多のもとなる。

○1584年(天正12年)には、毛利氏と羽柴氏との講和が成り、美作国は宇喜多氏の所領となると再び江原親次が城主となる。


(続く)

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◻️204の8『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、伊原木藻平)

2021-04-28 08:53:26 | Weblog
204の8『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、伊原木藻平)

 伊原木藻平(いばらぎもへい、1866~1945)は、商業、今日でいう百貨店経営の実業家だ。
 備前の上道郡西大寺村(現在の岡山市西大寺)の生まれ。天満屋呉服店店主・2代目伊原木藻平の養子となる。

 やがて、岡山商法講習所に学ぶ。1896年(明治29年)、家業の呉服商をつぐ。

 1897年(明治30年)には、養父から伊原木呉服店の経営を譲られる。それから、合名会社化や正札販売・クジ付き大売り出しなどの新商法に打って出る。36年には養父の引退に伴い3代目藻平を襲名する。

 1912年(大正元年)には、西大寺から岡山市に進出する。1918年(大正7年)には、同地に天満屋(てんまや)を設立する。

 1918年(大正7年)には、同店を天満屋株式会社に改組し、13年には岡山市に洋館木造3階建ての新店舗を建設する。

 そのうちに新時代への機運を感じてのことであろうか、中之町に呉服店を出した。百貨店としてのスタイルを整えるのは、13年後の1925年(大正14年)のこと。下之町の現在地に、十間四方(縦横約18メートル)の洋風木造3階建ての店舗を建設し、呉服、洋品雑貨、子供服など、実に多くの品を扱う。開店日の3月10日は大混雑となり、やむなく入館制限をしたという。

 1936年(昭和11年)には、地下1階地上6階・冷暖房とエレベーターを備えた天満屋百貨店を開業する。しかし、戦時体制で売り場面積の縮小を余儀なくされる。

 とはいうものの、戦争色が濃くなる1936年(昭和11年)3月11日、天満屋は大火に襲われる。本館3階から出た火は全体に燃え広がり、軍隊まで出動して、なんとか消火させたのだという。

 さらに、1945年(昭和20年)6月29日の岡山空襲で百貨店が全焼してしまう。

 果たせるかな、終戦後直ぐ、その再建をはかろうと準備していた、やに聞く、そのことでは、本人の思いたるや、さぞかし心を突き上げる、待ち焦がれたものであったのではないだろうか。


(続く)

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◻️211の38『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾崎小太郎)

2021-04-28 08:29:53 | Weblog
211の38『岡山の今昔』岡山人(20世紀、尾崎小太郎)

 尾崎小太郎(1910~1991)は、衣服関係の実業家だ。四国の讃岐(現在の香川県)の生まれ。
 いつ頃からだろうか、自分も被服を作って売ろうと考えていたようだ。
そんな意思を持つようになったのには、児島が岡山繊維業の伝統産地であることが大いに影響してのことだろう。

 1940(昭和15年)年、尾崎は、児島(現在の倉敷市児島)に縫製業を立ち上げる。学生服・作業服などを縫製する「マルオ被服」(現在の「株式会社ビッグジョン」の元々の前身)。


 戦後は、1957年に衣料品の輸入が解禁されるや、新たな動きを見せる。翌年から、アメリカ製の中古衣料の輸入販売を始める。その中でも、ジーンズの受託販売に並々ならぬ情熱を傾けていく。


 1960年(昭和35年)には、会社を「マルオ被服株式会社」として法人化する。翌1961年(昭和36年)には、香川県詫間町に大浜工場を設置する。


 1965(昭和40年)からは、念願のジーンズの生産を開始する。国産初のジーンズのファーストモデルを発表した模様だ。


 1967(昭和42年)には、「ビッグジョン」ブランドを立ち上げる。そこでの生地のほぼすべては輸入物であったようだ。このブランド名だが、小太郎すなわちリトルのジョンではなかろうということで、ジョンの頭にビッグを被せた、という。


 1973(昭和48年)には、「純国産ジーンズ」の生産を始める。その頃の国内には、かなりの同業他社が同様の取り組みを準備するなりしていたことだろう。


(続く)

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◻️23の2『岡山の今昔』岡山の下剋上(赤松氏と浦上氏(~1521))

2021-04-27 15:11:43 | Weblog
23の2『岡山の今昔』岡山の下剋上(赤松氏と浦上氏(~1521))

 浦上氏は、竜野(現在の兵庫県たつの市)の地名をルーツとする、と言われる。南北朝時代には、赤松氏のもとで活躍する。
 赤松氏が、播磨・備前・美作の守護となると、その被官として支える。浦上氏の方は、行景、宗隆、それに助景らが備前守護代を任され、本拠も備前東部の和気郡三石城に移る。

 それが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の乱で、その赤松氏が没落する。この乱の発端につき、「看聞御記」から暫し引用しておこう。
 
 「嘉吉元年六月廿四日、雨降、赤松に公方入り申す。猿楽ありと云々。晩に及んで屋形に喧嘩出来すと云々、騒動の是非いまだ聞かざるの処、三条手負て帰る。公方の御事は実説分明ならず。赤松炎上す。武士東西に馳せ行き、猥雑いわんばかりもなし。夜に至りて伊予守の屋形炎上す。家人共の家は自ら焼く。公方を討ち申し、御首を取りて落ち下ると云々。仰天周章中々に是非なし。
(中略)
 廿五日、晴、昨日の儀、粗聞く、一献両三献、猿楽の初の時分、内方とどめく。「何事ぞ」
と御尋ねあり。「雷鳴か」など三条申さるる処、御後障子引きあけて武士数輩出て、則ち公方を討ち申す。三条、御前の太刀 御引出物に進ずる太刀也 を取りて切り払い、顛倒して切り伏せらる。山名大輔・京極加賀入道・土岐遠山、走衆三人討死す。細川下野守・大内等は、腰刀ばかりにて振舞と雖も、敵を取るに及ばず、手負いて引き退く。
 管領・細川讃州・一色五郎・赤松伊豆等は逃げ走る。その外の人々は右往左往して逃げ散る。御前に於て腹切の人なし。赤松落ち行くに、追い懸けて討つ人なし。未練いわんばかりもなし。諸大名同心か、その意を得ざる事なり。所詮赤松を討たるべきの御企露顕の間、遮て討ち申すと云々。自業自得、果して無力の事か。将軍の此の如きの犬死、古来その例を聞かざる事なり」(「看聞御記」から)

 これにあるように、赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した事件だ。
 当時の室町幕府の「三管」(幕府のNo.2・管領に就ける家柄としては、細川氏、斯波氏、畠山氏の三氏)、それに「四職」(侍所のトップに就ける家柄として、赤松氏、一色氏、京極氏、山名氏)が、あった。

 では、かかる赤松氏の赤松満祐が、なぜ室町幕府6代将軍足利義教を、結城合戦勝利祝賀のためと称して、京都の自邸に招いて殺したのだろうか。なにしろ、足利尊氏挙兵に際して功労があり、幕府に忠勤にはげんできた、古参の重鎮の一人だというのに、である。

 というのは、どうやら足利義教は、権力の強化をしたかったのではないか、と考えられている。その一環として、幕府に功労のあった一色義貫らを討つ。また、赤松満祐の弟の所領を没収し、赤松貞村に与える。

 幕府は、その後、足利義教の子義勝を後継の将軍とし、山名持豊を中心に赤松追討軍を編成し、本拠の播磨に逃れていた赤松満祐を攻めて自殺させる。

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 それからは、浦上則宗が、没落したとはいえなお有力な豪族で残った、赤松政則を補佐していく。浦上にとっての主家の赤松氏をもり立てていく。
 それから、応仁の乱などに苦楽をともにしていくうちに、浦上氏は、赤松政則が播磨、備前、美作の3国の守護及び侍所所司に復権するのに、大いに貢献した。その功績から、みずからも参謀格の所司代となる。

 戦国時代(1480年頃から)に入っての1488年(長享2年)には、美作(作州)を支配していた山名軍が退き、代わって、赤松氏が勢力を伸ばしていく。

 しかし、その頃には、両者の間にはすきま風が吹くようになっていて、浦上氏(浦上村宗)は、守護赤松氏を凌ぐ力を持つようになっていたやに、伝わる。

 そして迎えた1521年(永正18年)には、浦上氏が、守護の赤松義村を殺す。この下剋上(げこくじょう)によって、実質的に西播磨をはじめ、その西隣りの美作など(現在の岡山県北東部)の支配者に、とって代わる。

🔺🔺🔺


 なお参考までに、その後の浦上氏については、これまた込み入っている。すなわち、村宗の二男・宗景が隣の備前国に移って赤松氏から完全に独立したことで、浦上氏は、本家と分家で分裂してしまう。本家を継いだ村宗の長男、浦上政宗は、黒田(小寺)氏と結んで子・清宗の妻として「おたつ」を迎える。
 その婚礼の夜に、赤松氏に襲われた浦上本家は、如何せん、この時をもってたちゆかなくなってしまう。その所領は、前述の如く備前に移っていた宗景が引き継く。やがて、宗景は備前・西播磨から美作の一部まで支配する大名に成長していく。とはいうものの、さらに後には、家臣の宇喜多直家の下剋上にあって、今度は浦上氏自体が滅亡してしまう。


(続く)

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◻️23の1『岡山の今昔』山名氏の南下(1362)

2021-04-27 09:23:36 | Weblog
23の1『岡山の今昔』山名氏の南下(1362)


 さて、1362年(康安2年)には、反幕府(南朝)の頭目の一人、山名時氏の軍勢が伯耆から美作、備前備中に侵攻してくる。南北朝期の、1362年(康安2年)のことである。  
 その時の模様について、「太平記」には、こうある。

 「山陽道には、同年六月三日に、山名伊豆守時氏五千余騎にて、伯耆より美作の院庄へ打越えて、国々へ勢を差分つ。先、一方へは時氏子息左衛門佐師義(もろよし)を大将にて、二千余騎、備前、備中、両国へ発向す。

 一勢は備前仁堀に陣を取て、敵を待に、其国の守護、松田、河村、福林寺、浦上七郎兵衛行景等、皆無勢なれば、出合うては叶はじとや思けん。又讃岐より細川右馬頭頼之、近日児島へ押渡ると聞ゆるをや相待(あいまち)けん。皆城に楯籠って未曾戦(かつてたゝかはず)。

 一勢は多治目(たじめ)備中守楢崎を侍大将にて、千余騎備中の新見へ打出たるに、秋庭三郎多年拵(こしらへ)すまして、水も兵糧も卓散なる松山城へ、多治目楢崎を引入しかば、当国の守護越後守師秀(もろひで)可戦様無(たゝかふべきやうなく)して、備前の徳倉城へ引退く刻(きざみ)、郎従赤木父子二人落止って、思程戦て、遂に討死してけり。

 依之(これにより)、敵勝に乗て、国中へ乱入て、勢を差向々々(さしむけさしむけ)攻出すに、一儀をも可云様無(いふべきやうなけ)れば、国人(くにうど)一人も従ひ不付云者(つかずといふもの)なし。」(「太平記」巻第三十八「諸国宮方蜂起事付越中軍事」)

 これにあるように、この年、南朝方の山名時氏(やまなときうじ)は五千騎余りで伯耆から美作の院庄へ進出してくる。
 ところが、備前守護の松田氏をはじめ、河村氏、福林寺氏、浦上行景らは、これを迎え撃つことをしない。
 そこで、「その訳は、かち合ってはならないと思ったのだろうか。または幕府方の実力者細川頼之が近日中にも讃岐から児島に渡ってくると聞いて待っているのだろうか」と問いかけるのだが、わからない。


 そればかりが、ある部隊は多治部師景と楢崎氏を大将として千騎余りで備中新見に進出する。しかし、地元の秋庭重盛が、水も食糧もある松山城に、彼らを多治部と楢崎を引き入れてしまう。そのため、備中守護の高師秀は劣勢になり、備前の徳倉城へ退く。
 この時、師秀の家来の赤木父子は城にとどまり、存分に戦って討死する。こうして南党山名勢は備中を席巻し、国人で従わない者はいない始末。

 それというのも、これの少し前の1361年(安元年)には、南朝軍か京都を攻め、二代将軍の足利義詮(あしかがよしあきら)は近江(おうみ)に逃れる事態が起こっており、南朝はまだ勢力を保っていたからではなかろうか。

(続く)

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◻️192の4の23『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、与田銀次郎)

2021-04-27 08:23:58 | Weblog
192の4の23『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、与田銀次郎)

 与田銀次郎(よだぎんじろう、1858~1915)は、実業家、そして輸出織物の先駆者だ。

 当時の児島郡日比村(現在の倉敷市)の生まれ。幼少の時に父母を亡くし、叔父の家で育てられる。8歳で他家へ奉公に出る。


 やがての1878年(明治11年)には、叔父の店、児島で小倉真田や醬油の製造・販売に働く。
 1890年(明治23年)に朝鮮半島を視察する。その際には、韓人紐の存在を知る。折しも1877年(明治10年)の西南戦争の後は、武士からの需要は止まり、新たな開拓が望みであったのだろう。


 帰国すると、早速その製造と輸出を工夫し、真田紐を改善しての製品化に成功する。販路の拡大にこぎ着ける。


 さらに日露戦争後には、中国人の腿帯子や弁髪紐にも目をつけ、製品化する。量産体制を整え、1905年(明治38年)には、中国大陸でのビジネス・チャンスをはかって拠点を大連に築く。


 これを機に、児島とその近辺の織物業者が、続々と海外に進出するようになっていく。児島の織物業界は、この頃、韓人紐、ランプ芯、足袋、厚司、袴地、腿帯子、ゲートルなどの国内及び海外販売を伸ばしていく。


 与田はまた、染料の開発・製造も行い、第一次世界大戦の影響で輸入が激減した硫化黒の国産化にも着手したという。 


 とはいえ、1918年頃からは、腿帯子の輸出やランプ芯の内外需要が先細りになっていく。背景としては、腿帯子は中国での生活習慣の変化、ランプ芯は電気の普及があろう。 

 それからの岡山南部の繊維業界は、松井武平(まついぶへい)が、姫路や浜松にも助けを求めて、畳縁の製法を学ぶなど、新たな需要の開拓へと動いていく。

(続く)

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◻️192の4の21『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、浮田佐平)

2021-04-26 10:46:04 | Weblog
192の4の21『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、浮田佐平)
 
 浮田佐平(うきたさへい、1867~1939)は、実業家だ。津山・伏見町の商家の生まれ。伏見町は、江戸期においては、津山城の南に位置する。東は材木町、西は京町、南は吉井川、北は山下に接する地域である。

 父の卯佐吉は、幕末に筑後屋という屋号で米仲買頭をしていた。明治に入ると、貨幣改方手代を命じられる。明治21年(1898)には、津山銀行の支配人となる。
 母の柳は、明治10年に津山にあった岡山県勧業試験所を習了後、助教を命じられる。明治13年、同所が廃止されると、夫の卯佐吉とともに養蚕所・製糸場を設立する。  
 やがて、家業の製糸業をつぐ。新進気鋭というか、機械製糸の導入など改良と近代化につとめる。大正元年には、津山市に浮田製糸を設立する。
 そのうちに、植林業や果樹園経営、さらには奥津峡の観光開発なども手がけていく。
 それだけでは満足しなかった、ということだろうか、やがては、津山(鶴山)城東麓に窯をつくり「佐平焼」の窯元となる。こちらは、1922年(大正11年)、55歳のとき、陶磁器製造業を始める。
 なにしろ、その動機か奮っていたらしい。浮田は、九谷焼・清水焼・伊万里焼など、全国的に有名な焼物のどれにも似ていない、独自の焼物を開発し、美作の特産品にしたいという目的を持っていた、というのだ。それも、海外にも通用する美作特産の焼き物が完成すれば、津山の工業の展開にも一役かうことがてきるのではないかと。


(続く)

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◻️192の4の22『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、服部和一郎)

2021-04-26 10:39:52 | Weblog
192の4の22『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、服部和一郎)

 服部和一郎(はつとりわいちろう、1894~1989)は、実業家にして社会事業家 だ。
 邑久郡牛窓村(現現在の牛窓町)の生まれ。服部家はこの牛窓に基盤に活動をする、岡山に名前の知られた商家であった。


 11歳の時、なんと、祖父・服部平五郎から家督を譲られたという。そうであるなら、よんどころのない事情かあったのだろう。

 1912年(明治45年)に、津山中学校を卒業する。それからは、家業である土地経営や製塩業に従事する。


 おりしも、日本は、朝鮮を1910年に併合していた。これに乗ろうとしたのだろうか、1917年(大正6年)より、朝鮮での土地経営を開始する。朝鮮服部合資会社や京城服部合資会社・朝永土地株式会社を設立する。


 国内でも、意気揚盛んであったらしく、土地や塩田の経営を進め、邑久農事株式会社・鹿田塩田・千里山永楽園住宅土地合資会社などを設立する。
 
 1942年(昭和17年)には、郷里牛窓町の山林にオリーブ園を開く。温暖な気候が幸いするとの読みがあったに違いあるまい。そして、「オリーブは栄養もよく、薬用にもなり、灯火にもなり、自然も守る」とし牛窓の丘陵地にオリーブ畑を広げていく。


 戦後になっては、日本オリーブ株式会社を創業する。1949年に日本オリーブ株式会社を創立し、第一号商品の「オリーブマノン バージンオイル」(純粋オリーブ100%の化粧用油)を発売する。

 1992年には、スペイントルトサにも自社オリーブ園を開園する。事業範囲も、栽培から加工、販売を一貫して行う。


 また、牛窓信用組合・備前信用金庫・両備バス株式会社・岡山県共同石炭株式会社などの経営にも加わっていく。


 その一方で、社会事業家の列にも参じていく。老人福祉・貧困者救済などの社会事業に携わり、大正12年に財団法人服部養老会を設立する。


(続く)

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新◻️40『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴、1798)

2021-04-25 10:24:25 | Weblog
40『岡山の今昔』江戸時代の三国(美作寛政の国訴、1798)

 18世紀の後半の岡山は、どのようであったのだろうか。1783年(天明元年)の美作・津山町中で「うちこわし」が度々起こっている。豪商などへの民衆による襲撃があった。おりしも関東では、1783年6月25日(天明3年5月26日)に浅間山の噴火が鳴動して噴火を始め、8月3日(旧暦7月6日)には全山が崩れる惨事が起こっていた。同じ年の津山町内に、連続して「米一揆」があったことが伝わっている。

 続いて、1797年(寛政9年)まで、幕府は美作に残る幕府天領の搾取を強めた。その翌年の1798年(寛政10年)、美作の天領228か村の代表格に広戸村市場分庄屋である竹内弥兵衛がいて、彼を中心に各村々の実情がつぶさに解き明かされ、5月には、総代5人の庄屋を江戸表に派遣することに決めた。

 ここに美作の天領228か村の構成は、播州竜野脇坂氏の一時預り領としての勝南、英田、久米南条、久米北条四郡のうち77か村が一つのグループ。二つ目は、久世代官所所管の大庭、西々条郡二郡66か村のグループ。三つ目は、但馬生野代官所所管の勝北、西々条、吉野、東北条、西北条五郡のうち五五か村のグループ。四つ目は久美浜代官所所管の吉野郡35か村のグループであった。

 そのことの起こりを簡単にいうと、当時、幕府領の年貢の3分の1は、毎年収穫時の津山城下にての米価に換算して、銀で納めることになっていた。ところが、1797年(寛政9年)のおり、幕府勘定方の勝与三郎がこの地・津山にやってきていうのには、それまで津山相場を割り引いて課税していたのを、そのことなくして課税するのに改めると。

 折しも、当年の米相場は急騰したため、これではならんと農民たちは悲鳴をあげた。激震が走ったと見えて、かかる村村の庄屋たちは、倉敷(現在の美作市林野)の福島屋や高瀬屋に集まって、どうしたらいいかを話し合う。取り急ぎ、なんと江戸へ出て、元に戻してくれるよう直訴をしようということになったという。

 1798年6月18日(寛政10年5月5日)、大庄屋を務める代表5人が、江戸へ向けて旅立つ。その面々とは、岡伊八郎(池が原村、現在の津山市大崎)、竹内弥兵衛(広戸村、現在の津山市広戸)、福島甚三郎(目木村、げの真庭市久世町)、国広利右衛門(中山村、現在の美作市大原町)、小坂田善兵衛(海田村、現在の美作市美作町)にて、同月7月6日(旧暦5月23日)には、江戸に到着したという。

 次いでの7月18日(旧暦6月5日)には、幕府勘定方の勘定奉行柳生主膳正に嘆願書を提出したものの、所管役所の添書きがないとの理由で受取りを拒否されてしまう。
 そればかりか、その翌日には国広が奉行所へ囚われてしまい、残る4人は禁足のあと、7月24日(旧暦6月11日)には帰国を命じられ、箱根越えの通行切手を渡されたというのだが、とにかく、「とりつく島がない」ままに門前払いされてしまった。
 しかし、4人は、これで諦めなかった。帰途の途中から引き返して、密かに、直訴の機会を探った模様だ。

 かくて、このときの百姓の税減免の訴えは、紆余曲折の末というか、同年9月2日(旧暦7月22日)、老中松平伊豆守信明の籠を待ち受けての直訴に及んだ。ちなみに、ここにいう松平信明は、三河・吉田藩主で、奏者番、側用人を経て老中となり、定信とともに寛政の改革を進め、定信をして才知・才能のするどき人物と言わしめた。1803年(享和3年)に辞職するも、1806年(文化3年)に再任され老中首座となった。

 この直訴は幕府に認められ、咎(とが)めもなかったと記されている。これを「美作の寛政の国訴」と呼んでいる。

 1817年(文化14年)、幕府により津山藩の禄高が5万石から10万石に復した。この5万石加増の理由として、津山藩7代藩主松平斉孝に継嗣(けいし)がなく、この年、将軍家斉の子斉民を8代藩主として迎えた。1837年(天保8年)、但馬、丹後国中の一部と美作国、讃岐国との間で村替えをするよう幕府の命令が下された。1838年(天保9年)、この幕府の命令による領地村替えで小豆島のうち、西部6か郷(5千9百余石分)が津山藩領となったことがある。

(続く)

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新◻️162『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、河原善右衛門)

2021-04-24 22:47:46 | Weblog
162『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、河原善右衛門)

 河原善右衛門(かわらぜんえもん、1631?~1685)は、江戸時代の寛永年間に、当時の久米南条郡弓削(ゆげ)村(現在の久米南町の下弓削)に生まれた。このあたり一帯は、広くは旭川沿いの農村地帯だといえよう。家は、そこら内では、裕福な部類であったのだろう、長じては大庄屋となった。

 それからの彼は、この地に住んでいる人びとの暮らしの発展のために、様々な事業を興し、先導するのであった。ところが、脂ののりきった時に無実の罪を着せられ、一族連座して処刑されたためか、その事績の全容は必ずしも明らかになっていない。
 1996年には供養塔が発見され、2005年その横に設置された、久米南町文化協会による石碑には、河原の生涯にわたる事蹟(じせき)について、こう記されている。

 「河原善右衛門は、寛永八年(1631年)久米南条郡弓削村(現久米南町下弓削)に生まれた。度量篤く、進取の気性に富み、経世の才に長じ、国主森長継より大庄屋を命ぜられ、よく善政を施し、地方の開発と、民の利益増進に努めた。
 その経営した事業は厨神社の移転、佐良川、弓削川など数多河川の改修、道路の開設、堤防改築、新地開墾。誕生寺池、長万寺池を始め、十六を超える貯水池の新築修築を行った。これらの池は今日に於いても、なお満々たる水を湛え、四百町歩の田畑を潤し、住民の生活を支えている。それら独特非凡の手腕は、領主よりの一層の信任と寵遇を得たが、その盛名を妬んだ心なき者の讒訴(ざんそ)により、無実の罪を着せられ、貞享二年(1685)四月二十六日、五十五歳を以て、一族九人と共に磔台の露と消えた。」

 これにあるよう、河原が一重に願いとしたのは、貧困にあえぐ農民たちを何とか救済したいということであった。協力者や支援者がどの位いたものかつまびらかとは言えないまでも、数々の事業に私財を投じて取り組んだ。家族も、そんな彼をけなげに支えたのだという。

 この地での当時最大級の事績として現代に伝わるのは誕生寺池(旧名称は坪井池)であって、「天和年間、美作国久米南条郡上弓削村の大庄屋河原善右衛門によって築造」(「角川日本地名大辞典」より)と現地に刻まれているとのことである。

 また、前述の佐良川の改修については、延宝7年には森藩に建議したのだという。当時のこの川は、元一方村より井口村へ迂回して流れ、しかも、二筋に岐れて津山川に注ぎ、その流程一里に及んでいたのを、一方村の土地180間ばかりを掘削して、津山川に注ぐように工事を指導した、と伝わる。

 而(しか)して、断罪されてからしばらくの間は、津山藩(時の藩主は3代目の森長武)から善右衛門の供養は禁じられていたらしい。そして断罪に至った理由や経緯についても、真相を求めて多くの歴史家(郷土史家を含む)が努力してきた。とはいうものの、いまだに定説らしきものはなく、ましてや確証となる史料は見つかっていない。

 一説には、後に4代藩主となる森長成派の面々(家老の一人、長尾隼人など)が、3代藩主長武の「側用人政治」を攻撃するために、藩主の寵愛を一身に背負って土木工事に邁進していた河原善右衛門の追い落とし(「隠田」の罪とかで)をねらったとされるものの、なお憶測の域を出ていないように感じられる。

 幕末の1856年(安政3年)、下弓削村の大庄屋、宮本勘三郎古建立により「善右衛門頌徳碑」(ぜんうえものしょうとくひ)が建てられたことで、本来の面目、その人となりが現れ、以来郷土史家らの熱意と努力とによって、その大いなる事績と「久米南の義人」とも形容される精神とが緩慢ながらも明らかになりつつある。

(続く)

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♦️225『自然と人間の歴史・世界篇』トリチェリーの真空の発見(1644)とパスカルの原理の発見(1653)

2021-04-23 22:15:55 | Weblog
225『自然と人間の歴史・世界篇』トリチェリーの真空の発見(1644)パスカルの原理の発見(1653)

 パスカルの原理というのは、密閉した容器の中で静止している流体(液体あるいは気体)の圧力は、高さに変わりがないならば一定であるが、その高さが高くなれば減少するというもの。密閉容器の一部に圧力pが作用すると、その圧力pが増減することなく容器の形状に関係なく液体内の全ての箇所に伝わる、といってもよい。

 まずは、その前史としての、イタリアのトリチェリー(1608~1647)が1644年に行った実験から紹介しよう。彼は、長さ1メートル程のガラス管に水銀を満たしてからふたを被せる。そして、同じく水銀を満たした皿にそのガラス管を逆さにして立てる。その後、ガラス管のふたをはずしてみる。


 すると、ガラス管の中の水銀はすっと下がり、お皿の水銀面か約76センチメートルの高さで止まるではないか。これは、お皿の水銀面を押す大気圧(空気の重さ)と、ガラス管の中の水銀柱の重さが釣り合っている。

 また、この間、水銀柱の上には何も入り込めないのであるから、真空になっていると考えられ、この部分を「トリチェリーの真空」と呼ぶ。


 さらに、フランスのパスカル(1623~1662)は、ガラス管の太さや形を変えても、あるいはガラス管を傾けても、ガラス管の中の水銀柱の高さは一定になることを発見する。かくて、ここで釣り合っているのは一定の面積に加わる圧力であるということがわかった訳だ。

 では、この原理を使っては、何ができるだろうか。ここでは、簡単な図を描くとしよう。
 この原理の実用化の例としては、流体を入れた密閉容器に断面積の違う二つのピストンを用意してみよう。すると、断面積の大きな方に重いものを置いても、面積が大きい、なので、圧力はそれほど大きくならない。
 かたや、断面積の小さな方では、軽い力を加えただけでも大きな圧力を掛けることができる。

 要は、細い方のシリンダーから押し出した流体の量と同じ分だけ、その押し出された流体が太い方のシリンダー側に入ることになるのだから、ピストンの移動距離は断面積に反比例することになっている。

 この場合、かたやp′とA′、かたやp′′とA′′の圧力及び断面積とすると、両方のピストンに働く力は同じとなるので、次式が成り立つだろう。
p′/A′=p′′/A′′
仮に、p′′を100kN(キロニュートン)、A′′を200平方センチメートル、A′を20平方センチメートルとおいて、この式に入れてみよう。
p′/20=100/200
p′=20×1/2=10kN


 ちなみに、その場合の力の在り方は、断面積に比例するというのだから、距離と力の積をもって仕事と規定するエネルギー保存則を破らない。
 

(続く)

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♦️69の4『世界の歴史と世界市民』アルキメデスの原理(ギリシア)

2021-04-23 20:24:39 | Weblog
69の4『世界の歴史と世界市民』アルキメデスの原理(ギリシア)

 アルキメデスの原理というのは、「流体内にある物体は、その物体が押しのけた流体に作用する重力に等しい大きさの浮力を受ける。すなわち、そのことにより流体の重さだけ軽くなる」ことをいう。

 いま、密度ρの流体の中に、円柱状の物体が浮かんでいるとしよう。すると、物体の表面には、この流体からの圧力が働くだろう。すなわち、下面に対して上向きにp′A、上面に対しては下向きにp′′A。したがって、この場合の浮力(上向きの合計力)は、p′A-p′′Aとなる。
 ここで、流体の密度ρは一定とすると、体積VがhAであるから、質量mが密度ρ×体積hA=ρhAの物体に下向きに作用する重力の大きさはmg=(ρhA)g、なので、鉛直方向の力が下向きと上向きとで釣り合う条件としては、p′′A+ρhAg=p′A、したがってp′A-p′′A=ρhAgの関係にある。
 しかして、この右辺のうちではm=ρhAであり、これは、体積hAの円柱状物体が押しのけた密度ρの流体の質量であるといえよう。
 したがって、浮力の大きさp′A-p′′Aは、物体が押しのけた流体に作用する重力の強さρhAg=m=ρhAgに等しいことになっている。

 ところで、この発見には逸話(伝承)があって、古代ギリシアのアルキメデスは、シラクサの王から、神々に捧げる冠が本物の金で作られているが、銀が混ぜられているかを確かめてもらいたい、との依頼を受けていたという。なお、条件として、冠を傷つけないことになっていた。
 以来、いつも、これを思案していたのだろうか、ある時、すなわち公衆浴場に入浴していてアルキメデスは、突然、「ヘウレーカ(見つけた)」と叫びながら、急いで実験室へ向け走って帰ったというのだから、もし本当なら驚く。
 さっそく、空気中で、この冠と同じ重さの金塊と冠の両方を糸で水の中に吊るして重さを測ってみたところ、水中ではかの方が軽かったことから、冠は純金ではないと結論したという。


(続く)

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