○341の2『自然と人間の歴史・日本篇』対米英開戦へ(1941、対米英戦争遂行内閣の登場と対米交渉)

2020-12-29 22:09:18 | Weblog
341の2『自然と人間の歴史・日本篇』対米英開戦へ(1941、対米英戦争遂行内閣の登場と対米交渉)

 そしての10月18日、東条英機陸軍大臣が首班になっての後継内閣の成立は、もはや連合国相手の戦争回避への方向転換が不可能な時点が来たのを意味したようだ。
 この内閣は、11月5の御前会議において、まずは開戦の予定を12月初めと定めた。陸軍と海軍は、それまでに作戦準備を整えることが求められる。もっとも、12月1日午前零時までに対米交渉が成功すれば、武力行使を行うのを中止するとした。
 この会議では同時に、今後の対米交渉で想定されるシナリオを考え、甲乙二案を採択したという。
 ところが、甲案の主要点は中国駐兵について、華北および蒙疆(もうきょう、現在の中国西北部に広がる自治区一帯をいう慣用語)の一定に地区と海南島に日本軍は駐留し、その期間としてはおおむね25年を目標とすることにしていた。
 次に、この案では交渉そのものがどうにも双方でのテーブルにこつけぎられなかったところから、妥協案としての乙案を設けた。こちらの主要点は、日本側が一として、南部仏印に駐留している日本軍を北部仏印に撤退させる。その見返りとして、アメリカ側は、日本が蘭印から必要な物質を獲得するのを妨げない。
 また、日中の間の和平実現の努力を妨害しない。さらに日米は、通商関係を資産凍結以前の状態に復すとともに、日本が必要とする石油を供給するというもの。
 そうして東郷外相からアメリカのハル国務長官宛に出された乙案に対しては、アメリカは肯定的な返事をくれなかった。そうしてからアメリカ側が作ったのが、いわゆる暫定協定案である。
 その枠組みとしては、まず一として日米は武力をたづさえての太平洋地域への進出を控えること、二として日本は南部仏印から軍隊を撤退するとともに、北部仏印の兵力を最大2万5千人以内にとどめること。
 その三としては、7月26日の資産凍結令を日米両国は解除し、輸出制限も自国の自衛のたてに必要な範囲にとどめること。その四として、アメリカは、日本がイギリス、オランダ両国に同様の措置をとるよう彼らと交渉する。その五としてアメリカは日中間の和平交渉ならびに同交渉期間中の休戦に友好的態度をとることであった。

 また、これに付属する一般協定要項の第一節には、当時の国際関係の一般原則たる、他国の国内問題への不干渉や通商での無差別主義など。第二節として、アメリカ側、日本側の双方が協定本文にのっとり子細にとるべき措置が記されていた。

 しかして、アメリカは、まずこれを11月22日、イギリス、中国国民党政府、豪州、そしてオランダに示したところ、中国を除いて了承されたものの、中国側は、同案がいう3ヶ月の平和期間中、日本軍がさらに中国に進撃しないよう保証させることはできないかと持ちかけたものの、ハルはそれは出来ないと返事した。
 これを踏まえハルがまとめた同協定の第二案(11月24日)では、前のものに比べ、アメリカからの輸出制限が強化されるものとなっている。具体的には、原綿は毎月60万ドル、石油の供給は漁業用などの民需に限るものとしつつ、その量はイギリス、オランダと相談の上決定するというものであったという。
 ところが、これに対しても、中国の蒋介石からは、「アメリカが妥協しないこと、日本が中国から撤退しないかぎり対日禁輸、封鎖の解除は考慮よ余地がないことを宣言するのをわれわれは要請するだけである」と打電してきた。
 また、イギリスのチャーチル首相からルーズベルト大統領宛には、同案を承認するとともに、「一つの不安は、蒋介石はどうかということてす。蒋総統の食卓はきわめて粗末ではないでしょうか。中国の崩壊は、われわれの危険をきわめて増大させます」と返信してきたとのこと。
 
 おりしもアメリカ本国では、ルーズベルト大統領は、10月9日(アメリカについては現地時間)の商船に、交戦地域への貨物の輸送をする場合の武装を許す中立法の改正を議会に要請、11月中に上下両院にて僅差で可決された。
 12月初めに行われた、中立を維持することと枢軸国(ドイツ、イタリアおよび日本)を打倒することといずれかを問うた世論調査では、その年の5月には64%を占めていた戦争に巻き込まれない平和を第一においた者が、今度は32%に減少したのだと紹介される(尾上一雄「増補アメリカ経済史研究1」杉山書店、1969)。
 とはいえ、大統領の選挙公約としては、「われわれは、攻撃を受けた場合のほかは、外国の戦争に参加しない、外国で戦うためにわれわれの陸・海・空軍を送りもしない」(同)との話であったことから、特段のことが起こっていないそれまでの状況では、対日参戦は積極的な話にはなっていなかったのではないだろうか。


(続く)

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○341の1『自然と人間の歴史・日本篇』対米英戦争へ(1941)

2020-12-28 21:56:56 | Weblog
341の1『自然と人間の歴史・日本篇』対米英戦争へ(1941)

 はたして、近衛首相の辞表(1941年10月16日)には、日中戦争のまだ解決していない状況でさらに戦争に突入することへの大いなる恐れが、「重大なる責任を痛感しつつある臣文麿」の言として読み取れる。

 いわく、「国連の発展を望まばむしろ今日こそ大いに伸びんがために善く屈し、国民をして臥薪嘗胆(がしんしょうたん)ますます君国のために邁進せしむるをもってもっとも時宜(じぎ)を得たるものなりと信じ、臣は衷情をひれきして東条陸軍大臣を説得すべく努力したり」と。

 しかしながら、このままでは自分はもはや新たな戦争開始への防波堤になり得ないと認識したのなら、なぜもう一度閣僚らに対し個別に説得を試みるなり、天皇に直訴してでも対米英戦争突入を避ける努力をしなかったのだろうか。
 そこまで至らずして、あっさり首相を辞めるということではなかったのか。だとすれば、早すぎる辞表提出は、軍部強硬派にとって「渡りに船」になるであろうことは明らかで、疑問なしとしない。

 そうはいっても、なにしろ急なブレーキを踏むにはそれなりの理由がいる、ということであったのなら、「英米に対し事を構えるのなら、国力の差があまりにも大きい」という抗弁があり得るだろう。
 政治家というものは、自らの所信を貫くためには、説得力が大事に違いあるまい。事ここにおよんでは、あくまで最後まで諦めない気概を持って臨むべきであったろう。

 けれども、それは結局なされなかった。仮にアメリカとの合意が成立して、日本軍が中国から撤退する道が開けるとしても、中国軍がどう出てくるかは未知数であり、数十万人もの日本軍兵士が全員が無事に本土に帰れるかどうかはわからない。だからといって、そのような意味のある撤退が、はじめからあり得ないと決めてかかってよいものだろうか。

 例えば、次のような話が現代に伝わる。それは、あの満州事変を引き起こした片割れの関東軍の当時幹部であった石原莞爾(いしはらかんじ、彼は当時、板垣征四郎とともに参謀であった)にまつわる話である。

 「昭和十三年三月下旬頃だったと思う。私は緋田と二人で、当時関東軍副参謀長をしていた石原莞爾に会った。会ったのは官邸であった。石原という人は、日本一すぐれた戦略家だときいていた。会った印象は、まことにものしづかな宗教信者の感じであった。鬼をもひしぐというようなごつい感じは、およそ縁遠いものであった。この人は日蓮宗の信者だったとも聞いている。
 私はこの日、もう一人面会する人があったので、それをすませて行った時には、石原と緋田との間の話は、もう終わりに近づいていた。だからこれからのべる石原の話は、緋田からのまた聞きである。」(「川崎堅雄(かわさきけんお)遺稿集」、この本は「自家本」ということで2000年に発行された、なお本人は、戦後の日本労働総動同盟幹部)
 こう川崎は前置きしてから、二人の会話をこんなふうに紹介している。

緋田「戦争の見とおしについて・・・。」
石原「長期戦ということがいわれているが、長期戦は、手をぐっとひきつけて、にたにた笑っていなければやっていけない。日本の手は、もう伸び過ぎている(この話は、徐州会戦(現在の江蘇省徐州市において、1938年に戦われた・引用者)前にしたものである)。」
緋田「長期戦をするには手が伸び過ぎているとなると、どうすればよいでしょうか。」
石原「日本軍を無条件に引きあげして、戦争のはじまる前の状態に戻してしまう。その上で蒋介石政府と今後のことを話しあう、そのほかに途はない。」
緋田「それには軍人が承知しないのではないですか。」
石原「軍人は口ではブウブウいいながら、腹では喜んでみんな引きあげていく。」
 彼は、東条と仲が悪かったと聞いている。関東軍副参謀長をやめさせられ、一時済州島(現在は韓国の、韓国語でチェジュド・引用者)の要塞司令官をやっていた。その後中将になり、京都師団長を最後として退役した。」(以下、略)

(続く)

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○33『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

2020-12-27 21:03:31 | Weblog
33『自然と人間の歴史・日本篇』古代日本語と漢字の伝来

 話言葉(はなしことば)としての古代日本語は、そのまま文字を具備することにはならなかった。つまりは、生まれたばかりの日本語(古代日本語)は、固有の文字を持っていなかった。

 ちなみに、「隋書」倭人伝には、「文字無し。ただ木を刻み、縄を結ぶのみ」とあり、また平安時代に記された斎部広成(いんべひろなり)の「古語拾遺」(こごしゅうい)にも、「上古の世、いまだ文字なし」と語られる。

 というのも、「日本民族」と呼べるものはまだ存在していなかった時代、日本列島に暮らしていた人々は、その日暮らしで文字を編み出すまでの生活の余裕がなかったのかもしれないし、或いは、考えあぐねていたのかもしれない。
 これまでの古代遺跡の調査で、記号のようなものは見つかっているらしいのだが。それでも、ある程度の信頼性をもった、真相に近いところはわかっていない。
 では、外部から文字を何をもらったのかといえば、それこそは然り、それよりはるか以前の時代に中国で成立していた漢字なのであった。

 それでは、日本列島に漢字という文字が伝わったのは、いつのことであったのだろうか。それへの回答としては、いまだに確固としたものは掲げられていないものの、弥生時代の中期の古墳から、篆書(てんしょ)で書かれた「貨泉(かせん、円形で角穴の貨幣にして、左右に文字を記す)」が発見されている、これは、前漢を滅ぼした王もうが立てた国、新の貨幣であることがわかっている。

 しかして、それ以外に伝来、導入の状況が窺えるものとしては、日本列島にまつわる伝説をまとめた「古事記」に漢字と漢文表記の書名が、倭(後に大和)朝廷編纂の歴史書の「日本書紀」に年代付きで、それぞれ記されている。

 そこて、この二つの記述を関連していると見なしてドッキングさせてみると、中国から最初に伝わったのは、「論語」と「千字文」であり、時代としては第15代応神大王(おうじんだいおう、この人物が実在していたかどうかはなお不明、実在人物だとしても、当時「天皇」の称号はまだ存在していない)の「十六年春二月16年」であったというシナリオが導かれる。
 合わせるに、「日本書紀」の記述の前後の関係から、大王の在位は西暦に直して270~310年頃とも計算でき、これをたどって漢字の輸入はその内の286年(西暦)頃の出来事であったのではないかとも考えられているところではないだろうか(ただし、同書であてがわれている各々の王の在位年については、諸家によりかなりの修正が加えられているところ)。

 では、この時代の漢字は、中国からどのような伝わり方をしたのであろうか。「日本書紀」の該当部分を参照すると、こうある、

 「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始也。」

 この文中に王仁(わに)とあるのが、漢字で記された書物を伝えた人物なのであろうか。当時、百済(くだら、朝鮮語ではペクチェ)から倭に来て滞在していた。ところが、「古事記」」に述べてある「論語」はそれまでに成立しているのでよしとして、もう一つの「千字文」については、中国の南朝・梁(リアン、502~557)の武帝((464~549)が、文官・周興嗣に命じて字の学習用にと文章を作らせたものだ。

 したがって、これでは、数十年どころか、それ以上の開きがあり、漢字伝来の時期の点で辻褄(つじつま)が合わない。したがって、これらの『訓紀』の記載は、歴史的事実ではなく、言い伝えに過ぎないとも考えられる。

 そこで別の面から考えてみたい。それに関する情報は、地中からやってきた。わが列島素人々に文字が伝来したのは、冒頭に述べたように、弥生時代のことであった。
 これまでの発掘なりで見つかっている最古の漢字としては、もう一度いうと、「貨泉」の二文字が刻まれた硬貨が見つかっている。これは、中国の前漢が倒れた後の「新」(しん、中国語読みでシン(第1声))の時代(9~25年)に皇帝を語っていた王もうが14年(中国の暦で天鳳元年)に鋳造させたものだ。

 さらにひとつ、これと並ぶものとして、江戸時代に博多(はかた)沖の志賀島(しかのしま)で発見された後漢の光武帝時代(25~57年)の金印、「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)がある。

 更に時代が下ると、1994年には、京都府竹野郡の大田南五号古墳から、中国・魏の年号「青龍三年」(235年)の銘文が入った銅鏡が発見されている。それには漢文で、「顔氏」という鏡作りの工人の名前が長寿や出世を祈る吉祥句(きっしょうく)とともに記されている。

 ほかにも、「景初三年」(239年)や「正始元年」(240年)の銘の読み取れる三角縁神獣鏡などが見つかっていて、これらの鏡は当時の中国の王朝から当時の倭の某かの勢力(蓋然性としては古代の国)に「下賜」として渡されたものなのだろう。

 これらに加えて、傍証になれるのかどうなのかはわからないものの、その頃の社会において、骨をもって占う「骨卜」の習慣があった。そのことが、「魏志倭人伝」にこう記されている。

 「其俗舉事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火、占兆其會同坐起父子男女無別人性嗜酒見大人所敬但搏手以當脆拝」
この前半部分は、「其の俗、事を挙げ行来するに、云為する所有れば、輒ち骨を灼いて卜し、以て吉凶を占う」と書き下される。

 これに、○末之(はいしょうし)の注に、「魏略」に曰く・・・・・其の俗、正歳四時を知らず」とあるのを重ねると、「中国の亀卜とは似て非なる獣骨卜を行い、暦も持たない弥生人の姿が見える」(湯浅邦弘編「テーマで読み解く中国の文化」ミネルヴァ書房、2016)と結論づけようとも、あながち誇張ではあるまい。
 これから推し量っても、当時の倭人にはまだ文字を使う社会的習慣は育っていなかったのではないだろうか。

 もちろん、書物にせよ、物的なものであるにせよ、刻印が残っているとしても、そのことが漢字が遣われていたということには、そのままでは繋がらない。実際に、日本人が日本語の表記にも使用し始めたのは、6世紀に入ってからのことであったのではないかと見られている。

 その後には、漢字を日本語の音を表記するために利用した万葉仮名(まんようがな)が作られ、やがて、漢字の草書体を元に平安時代初期に平仮名(ひらがな)が、漢字の一部を元に片仮名(カタカナ)がつくられていったというのだ。

(参考)現時点で参照させてもらっている本として、最も分かりやすいものとしては、山田勝美・松清秀一「漢字のはなしーことばから漢字へ」ポプラ・ブックス60、ポプラ社、1982)を推奨したい。

(続く)

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○339の2『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムと戦争への突入(南方への進出、1936~1941)』

2020-12-26 22:22:21 | Weblog
339の2『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムと戦争への突入(南方への進出、1936~1941)』


 1936年(昭和11年)8月、広田弘毅(こうき)内閣の五相会議で「国策の基準」が決定された。この内閣が成立する前の2月26日の早暁(そうぎょう)、降り積もる雪の中を青年将校たちとその配下が立ち回り、猛威を奮った。
 そのために岡田内閣が倒れ、広田外相が首相になっては、まず共産軍の山西省への進攻を脅威とし、従来二千人の支那駐屯軍をいっきょに五千人にまで増加充実させた」(臼井勝美「日中戦争」中公新書、1967)というから、その反共産主義の姿勢たるや、並々ならぬものであったろう、

 1939年(昭和11年)2月には、海南島を占領した。3月になると、当時の南部仏印(フランス領インドシナ)の新南群島を占領する。6月には、汕頭(スワトウ)、福州などにも進出を果たす。

 同年9月に、第二次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)すると、ヨーロッパ戦線の拡大により英仏勢力がアジアから後退する、その間隙を狙っての日本軍の南へと進攻していく。
 華南、そして仏印と蘭印(らんいん)(オランダ領インドシナ、現インドネシア)の二方面に進められた。
 米内光政(よないみつまさ)内閣も、南方への経済進出外交を推進、蘭印からの戦略物資輸入を部分的に実現するとともに、40年6月の日タイ友好条約で大いなる足場を確保する。

 1940年(昭和15)年7月22日に成立した第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は、外務大臣に松岡洋石(まつおかようすけ)、陸軍大臣に東条英機を迎えた。その組閣直後には、「基本国策要綱」を閣議決定した。その中にて示された大東亜新秩序建設には、南方地域が包含されていた。

 これを踏まえ、7月23日には、南支那方面軍を支那派遣軍の管轄からはずし、大本営直轄に移す。

 それに、7月27日の大本営政府連絡会議は、「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決めた。仏印に対し、国民党政府への援助行為を遮断するとともに、日本軍の通過や飛行場の使用、さらに日本が必要とする資源の獲得を目指す、そのために必要なら武力行使を行うと。

 その辺り、7月30日の昭和天皇が発したの言葉として伝わるのは、「近衛首相は支那事変はなかなか片付けかないとみているもののごとく、むしろこのさい支那占領地域を縮小し、南方に向かわんとするもののようだ。言い換えれば、支那事変の不成功による国民の不満を南方に振り向けようと考えているらしい」と評した、と伝わる。



 この年の9月に入っての5日には、先の7月に大本営の管轄に移行した南支那方面軍に対し、北部仏印への進駐の任務が付与されるのであった。

 9月22日には!北部仏印進駐を強行する。そしての9月27日には、日独伊三国同盟を締結した。日本は、ヨーロッパ戦線で英仏と死闘を演じているドイツの正式な同盟者となった。

 ついては、これらにより、たとえ日中戦争が膠着状態のままでの推移であっても、南へ向かって進み、イギリス(ひいてはアメリカ)との開戦を回避しない、という、いわば「二正面戦争」まで視野に入れようとしつつあったのではなかろうか。これをあえていうならぱ、自己誇大症とでも形容しようか、それまでとは比較にならないほどの危険な賭けに出てきたのが窺えよう。

 さらに10月8日には、イギリスは、日本の仏印進駐と三国同盟を理由に、ビルマ・ルートを再開し、中国の国民党政府への援助を続行すると、日本側に通告してきた。

 そして迎えた1941年7月の御前会議は、「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」を決め、南進政策をさらに強化、列強の権益のある東南アジアにも力をのばして、その面からも、いよいよ対米英戦も辞さない方針を最終的に固めていくのであった。

(続く)

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○339の3『自然と人間の歴史・日本篇』中条山会戦(1941)から長沙会戦(1941、第一次、第二次)にかけての中国軍の変化

2020-12-25 21:46:37 | Weblog
339の3『自然と人間の歴史・日本篇』中条山会戦(1941)から長沙会戦(1941、第一次、第二次)にかけての中国軍の変化

 1938年に漢口(ハンコウ)を占領してからの日本軍は、この地から出撃した空軍機が、現在の四川省の中心都市、重慶(チョンチン)に繰り返し爆撃を行う。

 やがての山西省(シャンシーション)の中条山(チョンティヤオシャン、山脈の
の一つ、近くに黄河が流れる)会戦(晋南会戦ともいう)が戦われた、これは、1941年(昭和16年)5月、山西省南部で行われた日本軍と中国軍の戦闘である。北支那方面軍が中国第1戦区軍の包囲殲滅を狙い、大きな戦果を上げたもので、日本側では、百号作戦とも呼ばれる。

 その内容としては、1941年5月7日、日本軍北支那方面軍が6個師団、3個旅団を動員して、現在でいう山西省黄河北岸の中条山地区に展開している中国国民政府軍9個軍に対し、陸と空から攻撃を行ったもの。
 日本軍は、黄河を背にした中国軍に対し、東西北からの包囲攻撃をかけ、中国国民党軍はこれに反撃を行う。
 5月12日になると、日本軍に中央突破され黄河南岸との連絡を断たれた中国国民党軍は山岳の隘路で苦戦したようだ。13日には撤退を開始し、5月19日には各主力は日本軍の包囲網をすり抜け戦線後方へと後退、そのことで5月27日には、事実上戦闘は日本軍が圧倒的な勝利のうちに終結した。

 そして迎えた1941年9月18日から10月6日にかけて、湖南省長沙周辺のおいて、第一次の長沙会戦(ちょうさかいせん)が戦われた。
 これは、長沙(チャンシャー、現在の湖南省)を拠点とする中国国民党軍第9戦区軍に、日本の第11軍が打撃を与えた。あわせて、日本軍の長沙方面への作戦に対して中国国民党軍は、宜昌(イーチャン、現在の湖北省西部)方面への反攻を進めるも、これを迎えうつ側の日本軍は苦戦の末撃退した。

 この戦闘が日中の戦力及びその展開における一つの変化をもたらしたであろうことは、疑いあるまい。それというのは、10月20日の国民党政府の南嶽での第三次軍事会議において、蒋介石は、「日本軍の最近の攻撃は、長くとも10日ないし2週間程度のあいだしか戦闘力を持続できず、われわれの拠点を占領しても、これを固守する能力を持たない」と評価したという。
 そればかりか、その場で行われた長沙会戦の賞罰令たるや、渡河長沙新攻の先頭に立った者に賞与を与えるは反面、勝手に戦線離脱した者には厳罰をもって臨むという軍律の厳しさを新たにしたというから、その意気込みがうかがえよう。


 第二次の長沙作戦とは、日中戦争中の1941年12月24日から1942年1月16日まで、湖南省の長沙周辺で行われた戦いである。日本側は、太平洋戦争の開戦(1941.12)により始まった香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的第11軍が実施した。ただ前回の第一次長沙会戦より小さな兵力にとどまった模様。
 始めとしては、広東(カントン)方面へ南下した中国軍を牽制するのが、いっそのこと長沙攻略へと発展した。しかし、日本軍は第一次に比べ、二回目の作戦では、弾薬や食料、医療品、それに輸送手段などの準備が整わないまま長沙への進攻を開始したのではないか、そのため、長沙の周辺で予め陣を敷いて待ち構えていた国民党軍の抵抗を受け、あえなく撤退する。

(続く)

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○340『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムへの突入(対米英蘭仏へ、1939~1941)

2020-12-24 21:37:09 | Weblog
340『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムへの突入(対米英蘭仏へ、1939~1941)

 この間の日本の軍国主義の急傾斜に対して、国際連盟は1938年9月、連盟規約第16条の制裁規定の日本への適用を決議する。
 アメリカは、その前の1938年10月には、日本の中国への経済的な権益拡大を非難する覚書を日本に手渡していた。アメリカが既に持っている、中国に対する関税改正措置、アメリカ人の居住そして往来、経済活動に加えられている各種制限を即時撤廃を日本に要求してきた。同年11月になると、イギリス、アメリカ、フランスは、揚子江の開放、自由航行を日本に要求してくる。さらに12月になると、アメリカは、国民党政府に2500万ドルの借款を供与すると発表するに至る。


 そして迎えた1939年(昭和14年)7月、日米通商航海条約の廃棄を日本に通告し、半年の猶予期間の後の1940年(昭和15年)1月には、同条約は失効した。この条約には、日本に対する貿易上の「最恵国待遇」がふくまれていた。
 日本としては、それまで原材料や原料をアメリカから自由に買うことができていた。それが、無条約だと、アメリカは自由に日本向けの輸出を制限したり、禁止したりできることになったのだ。
 案の定、条約の廃棄の最初には、アメリカは工作機械の輸出禁止に踏み切った。
 あわせて、このアメリカの措置は、同じく中国への強い権益をもつイギリスなどへの側面からの援助でもあったろう。

 おりしも世界では、1939年(昭和14年)、ドイツがポーランドに電撃的に進駐した。1940年(昭和15年)5月には、ドイツがヨーロッパを席巻してフランス、イギリスと戦争状態に入った、かくして第二次世界大戦が勃発する。イギリスとフランスは、勢い、極東からのかなりの部分での撤退を余儀なくされていく。

 世界情勢がこのような激変の中、アメリカによる航空機ガソリンを含むガソリン、石油、屑鉄などへの輸出禁止の措置は、さしあたり、いざというときのために残されたものの、アメリカは日本への経済的な圧力をさらに強めていく。

 1940年(昭和15年)3月に、日本傀儡政権の範疇である汪兆銘(おうちょうめい)政府が成立の時、アメリカのハル国務長官は、こう述べた。

 「1931年以来、中国各地で発生した事態からみて、南京汪兆銘政権の成立は、一国が武力によって隣国にその意志を押しつけ、広大な地域を、世界の他の部分との正常な政治的、経済的関係から閉鎖してしまう一連の措置である。」

 1940年(昭和15年)7月22日、日本陸軍は軍事的な海外進出に慎重な米内内閣を倒し、第二次近衛内閣を発足させた。
その内閣成立直後の7月27日の政府大本営連絡会議において、「世界情勢ノ推移に伴フ時局処理要綱」が決定された。この中には、ドイツとイタリアとの提携を密にするとともに、次第によってはイギリス、アメリカとの戦争を構えることが盛り込まれていた。

 続いての同年9月には、日本は北部仏印(現在のベトナムのハノイ、ハイフォン地区)に進駐するとともに、ドイツ、イタリアとの間で「三国同盟」を締結した。
 これらにより、日本のアメリカ、イギリスとの間は決定的に悪化する。特にアメリカは、日本の南部仏印進駐の報復として、日本に対する石油輸出を全面的に禁止するとともに、日本の在米資産を凍結した。経済面で、国交断絶に踏み切ったのである。
 ちなみに、1941年(昭和16年)10月時点の日本の石油保有量は840万キロリットルといわれ、それだけが「虎の子」の石油ストックであったことが覗われる。

 1941年(昭和16年)4月、アメリカとイギリスの対日経済封鎖を打開すべく、日本は日ソ中立条約を締結する。これには、2正面の的と戦うことを避けようとする意図が働いていた。ところが、この作戦は、ドイツが秘密裏に独ソ不可侵条約を結んでいるソ連に侵攻したことらより破綻する。この報告に接した政府の狼狽ぶりは、大変なものであった。
 第二次近衛内閣は、1941年(昭和16年)7月にいったん総辞職した。この内閣は、この年の春から極東問題についてアメリカとの交渉を開始したが、「和戦」を巡る日本の支配層内の対立が解けぬままに、時間を浪費していた。
 この総辞職の直前、松岡外相が「我が国が三国同盟の誼(よしみ)を弊履のごとく棄て、多数同胞の血と涙と巨億の犠牲とを顧みずして、着々武を進め来たりたる大陸政策を断念せざるかぎり」ということで、アメリカとの交渉にもはや展望が見出し得ない」としたことで、政策の行き詰まりが露わとなったのである。そこで、外務大臣を松岡から豊田貞次郎に交替して、近衛は第三次内閣を組閣するに至る。

 その第三次近衛内閣が発足して間もない1941年7月22日、独ソ戦開始後の世界情勢についての、昭和天皇と杉山参謀総長とのやりとり(問答)があり、彼によるメモには、こうある。
 
 「御上
 支那事変に何かよい考えはないか。
総長
 この前にも申し上げましたとおり、重慶側は戦力戦意とも衰え、軍は低下し、財政経済的にも困○(こんばい)しており、あたかも瀕死の状態と考えられ、命だけを保って長期抗戦をしているのであります。この長期抗戦ができるのは、英米等敵性国家の注射または栄養を与えるためであります。すなわち英米が重慶の起死回生をやっているのでありまして、英米を抑えなければ支那事変の解決は困難と考えます。
 第二次欧州戦の発生前は支那事変のみを考えてよかったが、これが始まり、また独ソ戦が始まりましてより以来は、世界戦争の動きにより、反枢軸諸国をいためることが重慶を長つづきさせぬものと考えます。従って、活力を与えるものをおしつける必要があるものと思います。・・・・・やはり機をとらえて撃たなければならぬと思います。」(出所は『杉山メモ』、引用は臼井勝美(うすいかつみ)『日中戦争ー和平か戦線拡大か』中公新書、1967)

 一国の軍事力は、その国の経済力の問題でもある。相手があることから、彼我の経済力格差がどのくらいあるかが最重要な問題であったろう。
 このやりとりでは、事態の深刻さが、さして問題とされなかったのかもしれない。ここからは、経済力で余りにも差のある英米を相手に安易に構えるという道に踏み出しつつある姿が読み取れる。これにかぎらず、日本側には、先を見通す力量にかけていたと評価されても仕方あるまい。
 この頃には、米英の対日経済封鎖と、すでに対中国戦争の長期化とのダブル・パンチをくらって混迷を深めていた日本経済は、いよいよゆきづまりの状況を呈してきており、この難局を打開すべく思い切った決定を下そうという空気が満ちていくことになったのである。

そして迎えた9月6日の御前会議では、重大決定がなされた。いわく、「10月上旬になっても対米交渉において進展の見込みがなければ、米、英、蘭に対し開戦やむなし」というのだ。それを受けた13日では、かかる決定の基礎となる「日中和平の基礎条件」が決定された。

 これにて目新しいのは、第三項中での「六蒋介石政権と汪兆銘政権との合流」及び「八満州国承認」、それに第三項での日本軍駐留の地点及び期間につき「従前の取決めおよび慣例にもとづく」とし、明示するのを拒んだことであろう、これではアメリカなどが納得するはずもな かったろう。

 案の定、9月22日にこれの提示を受けたアメリカ大使館は、本国にこれを伝えたことだろう。すると、アメリカは10月2日に日本に覚書を渡し、その中で、日本側が要請した日米首脳会談を行う前に、「日本はアメリカが提示した原則を実際に適用する場合に、制限ないし例外をもうけようとしているとみられるので、会談の前にさらに討議が必要である」と突っぱねた形だ。

 このような交渉の膠着化に直面しての近衛首相は、、10月12日の五相会議において、「(英米などとの)戦争に私は自信がない、今どちらかをやれといわれれば外交でやるといわざるをえない」と述べた。

 そうした流れでこれからはいこうと思っていたのか、その後の14日の閣議において、近衛が「日米交渉は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みはあると思う」と言ったところ、東条陸軍大臣から激しい反論があった、それの一節には、次にみられるような調子が含まれていた、とのこと。

 東条はその場でいわく、「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか、陸軍としてはこれは重大視しているものだ。米国の主張にそのまま服したら支那事変の成果を壊滅するものだ。満州国をも危うくする。さらに朝鮮統治も危うくなる。帝国は聖戦目的にかんがみ非併合、無賠償としておる。
 支那事変は数十万の戦死者、これに数倍する遺家族、数十万の負傷兵、数百万の軍隊と一億国民に、戦場および内地で辛苦を積ましており、なお数百億の国幣を費やしているものであり、普通世界列国なれば領土割譲の要求をやるのはむしろ当然なのである、しかるに帝国は寛容な態度をもってのぞんでいるのである。駐兵により事変の成果を結果づけることは当然であって、世界に対しなんら遠慮する必要はない。巧妙なる米の圧迫に服する必要はないのである」と。


(続く)

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○337の3『自然と人間の歴史・日本篇』「東亜新関係方針」(1938)と近衛声明(1938)

2020-12-23 22:10:41 | Weblog
337の3『自然と人間の歴史・日本篇』「東亜新関係方針」(1938)と近衛声明(1938)

 1938年、日本政府は、中国をうまいこと自己の思惑に合致するように誘導、なんとかして実質的な支配の網をかけたいと願い、かつ行動していた。

 具体的には、日本は、国民政府に対し、脅したり、無視したりを繰り返していく。
 近衛内閣の第一次声明では、その時点では「国民党政府を交渉相手と認めない」態度をとしていた。

 それが、武漢そして広東を占領すると、それまでの強硬姿勢一点張りを修正するにいたる。11月3日には「御前会議」が開かれ、昭和天皇が参加の下で、つぎの新方針を決定した。

 「日満支三国は東亜に於ける新秩序建設の理想の下に相互に善隣として結合し東洋平和の枢軸たることを共同の目標と為す之が為基礎たるべき事項左の如し
一、互恵を基調とする日満支一般提携就中善隣友好、防共共同防衛、経済提携原則の設定
二、北支及び蒙彊に於ける国防上竝経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の設定
  蒙彊地方は前項の外特に防共の為軍事上竝政治上特殊地位の設定
三、揚子江下流地域に於ける経済上日支強度結合地帯の設定
四、南支沿岸特定島嶼に於ける特殊地位の設定
  之が具体的事項に関しては別紙要項に準拠す
別紙
 日支新関係調整要項
 第一 善隣友好の原則に関する事項
日満支三国は相互に本然の特質を尊重し渾然相提携して東洋の平和を確保し善隣友好の実を挙ぐる為各般に亘り互助連環有効促進の手段を講ずること
一、支那は満洲帝国を承認し日本及び満洲は支那の領土及び主権を尊重し日満支三国は新国交を修復す
二、日満支三国は政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般に亙り相互に好誼を破壊するが如き措置及び原因を撤廃し且将来に亙り之を禁絶す
三、日満支三国は相互提携を基調とする外交を行い之に反するが如き一切の措置を第三国との関係に於いて執らざるものとす
四、日満支三国は文化の融合、創造及び発展に協力す
五、新支那の政治形態は分治合作主義に則り施策す
  蒙彊は高度の防共自治区域とす
  上海、青島、厦門は各々既定方針に基づく特別行政区域とす
六、日本は新中央政府に少数の顧問を派遣し新建設に協力す特に強度結合地帯其の他特定の地域に在りては所要の機関に顧問を配置す
七、日満支善隣関係の具現に伴い日本は漸次租界、治外法権等の返還を考慮す
 第二 共同防衛の原則に関する事項
日満支三国は協同して防共に当たると共に共通の治安安寧の維持に関し協力すること
一、日満支三国は各々其の領域内に於ける共産分子及び組織を芟除すると共に防共に関する情報宣伝等に関し提携協力す
二、日支協同して防共を実行す
  之が為日本は所要の軍隊を北支及び蒙彊の要地に駐屯す
三、別に日支防共軍事同盟を締結す
四、第二項以外の日本軍隊は全般竝局地の情勢に即応し成るべく早急に之を撤収す
  但し保障の為北支及び南京、上海、杭州三角地帯に於けるものは治安の確立する迄之を駐屯せしむ
  共通の治安安寧維持の為揚子江沿岸特定の地点及び南支沿岸特定の島嶼及び之に関連する地点に若干の艦船部隊を駐屯す尚揚子江及び支那沿岸に於ける艦船の航泊は自由とす
五、支那は前項治安協力のための日本の駐兵に対し財政的協力の義務を負う
六、日本は概ね駐兵地域に存在する鉄道、航空、通信竝主要港湾水路に対し軍事上の要求権及び監督権を保留す
七、支那は警察隊及び軍隊を改善整理すると共に之が日本軍駐屯地域の配置竝軍事施設は当分治安及び国防上必要の最小限とす
  日本は支那の軍隊警察隊建設に関し顧問の派遣、武器の供給等に依り協力す
 第三 経済提携の原則に関する事項
日満支三国は互助連環及び共同防衛の実を挙ぐるため産業経済等に関し長短相補有無相通の趣旨に基づき共同互恵を旨とすること
一、日満支三国は資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信、気象、測量等に関し前記主旨竝以下各項の要旨を具現する如く所要の協定を締結す
二、資源の開発利用に関しては北支蒙彊に於いて日満の不足資源就中埋蔵資源を求むるを以て施策の重点とし支那は共同防衛竝経済的結合の見地より之に特別の便益を供与し其の他の地域に於いても特定資源の開発に関し経済的結合の見地より必要なる便益を供与す
三、一般産業に就ては努めて支那側の事業を尊重し日本は之に必要なる援助を与う
  農業に関しては所要原料資源の培養を図る
四、支那の財政経済政策の確立に関し日本は所要の援助をなす
五、交易に関しては妥当なる関税竝海関制度を採用し日満支間の一般通商を振興すると共に日満支就中北支間の物資需給を便宜且合理的ならしむ
六、支那に於ける交通、通信、気象竝測量の発達に関しては日本は所要の援助乃至協力を与う
  全支に於ける航空の発達、北支に於ける鉄道(隴海線を含む)、日支間及び支那沿岸に於ける主要海運、揚子江に於ける水運竝北支及び揚子江下流に於ける通信は日支交通協力の重点とす
七、日支協力に依り新上海を建設す
一、支那は事変勃発以来支那に於いて日本国民の蒙りたる権利利益の損害を補償す
二、第三国の支那に於ける経済活動乃至権益が日満支経済提携強化の為自然に制限せらるるは当然なるも右強化は主として国防及び国家存立の必要に立脚せる範囲のものたるべく右目的の範囲を超えて第三国の活動乃至権益を不当に排除制限せんとするものに非ず」


 見られるように、「日満支三国は東亜に於ける新秩序建設の理想の下に」というのであるから、排除の論理はとっていない。

 すなわち、それまで日本に抵抗するべく共産党との合作(1937年からは第二次)を固執するかぎり国民政府は壊滅されるという態度をやや後方にずらしつつ、一方においては、国民政府が人的構成を替えて日本の方針に近づいてくるのであれば、これを拒否しない、という二面性をとるに至っている。
 具体性をもって臨もうとしているのは、中国の政治形態を「分政合作主義」というのであって、その味噌は「強力な中央政府を作らせない、それが日本の国益だとしている。
 二つめの特徴は、かかる新中国の経済を日本が牛耳ろうとの意思が「見え見え」となっていることだ。すでに、巨大な二つの国策会社、「北支那開発」と「中支那振興」が運営を開始していることから、政治支配ばかりか、経済的な支配も念頭に置くものだといえよう。


(続く)

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○337の3『自然と人間の歴史・日本篇』「東亜新関係方針」(1938)と近衛声明(1938)

2020-12-23 22:10:41 | Weblog
337の3『自然と人間の歴史・日本篇』「東亜新関係方針」(1938)と近衛声明(1938)

 1938年、日本政府は、中国をうまいこと自己の思惑に合致するように誘導、なんとかして実質的な支配の網をかけたいと願い、かつ行動していた。

 具体的には、日本は、国民政府に対し、脅したり、無視したりを繰り返していく。
 近衛内閣の第一次声明では、その時点では「国民党政府を交渉相手と認めない」態度をとしていた。

 それが、武漢そして広東を占領すると、それまでの強硬姿勢一点張りを修正するにいたる。11月3日には「御前会議」が開かれ、昭和天皇が参加の下で、つぎの新方針を決定した。

 「日満支三国は東亜に於ける新秩序建設の理想の下に相互に善隣として結合し東洋平和の枢軸たることを共同の目標と為す之が為基礎たるべき事項左の如し
一、互恵を基調とする日満支一般提携就中善隣友好、防共共同防衛、経済提携原則の設定
二、北支及び蒙彊に於ける国防上竝経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の設定
  蒙彊地方は前項の外特に防共の為軍事上竝政治上特殊地位の設定
三、揚子江下流地域に於ける経済上日支強度結合地帯の設定
四、南支沿岸特定島嶼に於ける特殊地位の設定
  之が具体的事項に関しては別紙要項に準拠す
別紙
 日支新関係調整要項
 第一 善隣友好の原則に関する事項
日満支三国は相互に本然の特質を尊重し渾然相提携して東洋の平和を確保し善隣友好の実を挙ぐる為各般に亘り互助連環有効促進の手段を講ずること
一、支那は満洲帝国を承認し日本及び満洲は支那の領土及び主権を尊重し日満支三国は新国交を修復す
二、日満支三国は政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般に亙り相互に好誼を破壊するが如き措置及び原因を撤廃し且将来に亙り之を禁絶す
三、日満支三国は相互提携を基調とする外交を行い之に反するが如き一切の措置を第三国との関係に於いて執らざるものとす
四、日満支三国は文化の融合、創造及び発展に協力す
五、新支那の政治形態は分治合作主義に則り施策す
  蒙彊は高度の防共自治区域とす
  上海、青島、厦門は各々既定方針に基づく特別行政区域とす
六、日本は新中央政府に少数の顧問を派遣し新建設に協力す特に強度結合地帯其の他特定の地域に在りては所要の機関に顧問を配置す
七、日満支善隣関係の具現に伴い日本は漸次租界、治外法権等の返還を考慮す
 第二 共同防衛の原則に関する事項
日満支三国は協同して防共に当たると共に共通の治安安寧の維持に関し協力すること
一、日満支三国は各々其の領域内に於ける共産分子及び組織を芟除すると共に防共に関する情報宣伝等に関し提携協力す
二、日支協同して防共を実行す
  之が為日本は所要の軍隊を北支及び蒙彊の要地に駐屯す
三、別に日支防共軍事同盟を締結す
四、第二項以外の日本軍隊は全般竝局地の情勢に即応し成るべく早急に之を撤収す
  但し保障の為北支及び南京、上海、杭州三角地帯に於けるものは治安の確立する迄之を駐屯せしむ
  共通の治安安寧維持の為揚子江沿岸特定の地点及び南支沿岸特定の島嶼及び之に関連する地点に若干の艦船部隊を駐屯す尚揚子江及び支那沿岸に於ける艦船の航泊は自由とす
五、支那は前項治安協力のための日本の駐兵に対し財政的協力の義務を負う
六、日本は概ね駐兵地域に存在する鉄道、航空、通信竝主要港湾水路に対し軍事上の要求権及び監督権を保留す
七、支那は警察隊及び軍隊を改善整理すると共に之が日本軍駐屯地域の配置竝軍事施設は当分治安及び国防上必要の最小限とす
  日本は支那の軍隊警察隊建設に関し顧問の派遣、武器の供給等に依り協力す
 第三 経済提携の原則に関する事項
日満支三国は互助連環及び共同防衛の実を挙ぐるため産業経済等に関し長短相補有無相通の趣旨に基づき共同互恵を旨とすること
一、日満支三国は資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信、気象、測量等に関し前記主旨竝以下各項の要旨を具現する如く所要の協定を締結す
二、資源の開発利用に関しては北支蒙彊に於いて日満の不足資源就中埋蔵資源を求むるを以て施策の重点とし支那は共同防衛竝経済的結合の見地より之に特別の便益を供与し其の他の地域に於いても特定資源の開発に関し経済的結合の見地より必要なる便益を供与す
三、一般産業に就ては努めて支那側の事業を尊重し日本は之に必要なる援助を与う
  農業に関しては所要原料資源の培養を図る
四、支那の財政経済政策の確立に関し日本は所要の援助をなす
五、交易に関しては妥当なる関税竝海関制度を採用し日満支間の一般通商を振興すると共に日満支就中北支間の物資需給を便宜且合理的ならしむ
六、支那に於ける交通、通信、気象竝測量の発達に関しては日本は所要の援助乃至協力を与う
  全支に於ける航空の発達、北支に於ける鉄道(隴海線を含む)、日支間及び支那沿岸に於ける主要海運、揚子江に於ける水運竝北支及び揚子江下流に於ける通信は日支交通協力の重点とす
七、日支協力に依り新上海を建設す
一、支那は事変勃発以来支那に於いて日本国民の蒙りたる権利利益の損害を補償す
二、第三国の支那に於ける経済活動乃至権益が日満支経済提携強化の為自然に制限せらるるは当然なるも右強化は主として国防及び国家存立の必要に立脚せる範囲のものたるべく右目的の範囲を超えて第三国の活動乃至権益を不当に排除制限せんとするものに非ず」


 見られるように、「日満支三国は東亜に於ける新秩序建設の理想の下に」というのであるから、排除の論理はとっていない。

 すなわち、それまで日本に抵抗するべく共産党との合作(1937年からは第二次)を固執するかぎり国民政府は壊滅されるという態度をやや後方にずらしつつ、一方においては、国民政府が人的構成を替えて日本の方針に近づいてくるのであれば、これを拒否しない、という二面性をとるに至っている。
 具体性をもって臨もうとしているのは、中国の政治形態を「分政合作主義」というのであって、その味噌は「強力な中央政府を作らせない、それが日本の国益だとしている。
 二つめの特徴は、かかる新中国の経済を日本が牛耳ろうとの意思が「見え見え」となっていることだ。すでに、巨大な二つの国策会社、「北支那開発」と「中支那振興」が運営を開始していることから、政治支配ばかりか、経済的な支配も念頭に置くものだといえよう。

 これに基づき、11月22日には「第二次近衛声明」が出され、日本は中国において経済を独占する意図はないこと、また当面共同して共産主義勢力を防ぐべく特定地点に日本軍が駐留するにとどまる、けれども、日本軍の撤兵については言及していない。
 これについては、国民党副総理汪兆銘(おうちょうめい/ワンチャオミン)を擁立する意図が暗に盛り込まれていた。そこで、汪兆銘ら中国国民政府投降派は、これに呼応して国民党へ対日和平の決断を促すものの、国民党政府内で汪に呼応するものは少数でに過ぎなかった。そのため、国民政府の分裂、屈服を画した日本側の思惑は外れた形となった。のみならず、翌年(1939年)1月の国民党中央常務委員会臨時会議は、汪兆銘らの党籍を剥奪、一切の職務から罷免したという。



(続く)

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新337の2『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムと戦争、徐州会戦(1938)、漢口会戦(1938)と広東占領(1938)

2020-12-23 09:35:29 | Weblog
337の2『自然と人間の歴史・日本篇』ファシズムと戦争、徐州会戦(1938)、漢口会戦(1938)と広東占領(1938)


 1938年(昭和13年)4月から6月にかけて、日本軍が、中国の徐州付近に集結した中国軍70個師団、約50万の中国軍を狙った軍事作戦を徐州会戦と呼ぶ。
 その前の1938年3月、南京占領後戦線拡大を意図した日本の現地軍は、大本営が乗り出す前に、台児荘(たいじそう)に進出したが敗北を喫す。
 そこで、日本軍4個師団は、徐州を攻略することで、華北、華中(江蘇省・山東省・安徽省・河南省の一帯)を結ぶと同時に、この地に集結中の、約50万とも言われる中国国民党軍の全滅をねらう。
 日本軍は、それを包むように、南北から挟撃する作戦に出る。まずは、4月下旬より南北からの激戦で徐州に接近した。しかし、中国軍は正面衝突を避け、退却戦術をとり、国民政府は重慶に撤退する。
 そのことで、日本軍としては、5月19日に徐州を占領したものの、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。日本政府は、不拡大方針を改めなければならなくなる。

☆☆☆☆☆

 次に移りたい。1938年10月27日には、日本軍のうち中支那派遣軍が、中国側の軍事拠点「武漢三鎮」に対する攻撃を行う。
 その少し前の1938年8月には、日本軍によるこれらへの攻略戦が開始される。それは2カ月に及んだ。
 これら拠点は、南じん鉄道と揚子江に近い交通の要衝に地にあるのであって、日本軍は四隊に別れて攻撃に出た。
 
 主なる経過としては、中国軍は頑強に対陣したものの、9月15日に馬頭鎮要塞が、29日には、田家鎮要塞が陥落して、漢口の防衛線が突破されたという。それからは、日本軍有力が増して、10月25日には、中国軍は漢口からの撤退を余儀なくされる。

 かくして、日本側は、26日に漢口と武昌、27日に漢陽城に入城を果たし、これら地域のおおよそを占領した。

 国民党政府は、同年6月の段階で首都機能を重慶に移転させていたので、退却は始めから頭にあったのではないか、日本側の国民政府に大打撃を与えるという当初の目標は、大方達成できなかった。
 それと呼応するかのように、日本軍の攻撃の矛先は華南へと向かっており、迎えた10月12日、日本の第21軍は大亜湾(バイアス湾)に奇襲を、かけ、上陸を果たす、そして21日には広東を占領する。


 なお、以上のおおよその経緯(戦況)については、当時の両軍の位置関係などがあり、これらを踏まえての文献として、さしあたり臼井勝美「日中戦争」(中公新書、1967)が便利で、推奨したい。

(続く)

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○331『自然と人間の歴史・日本篇』戦争への道(満州事変(1931)、5.15事件(1932)と満州傀儡国家(1932))

2020-12-21 21:55:45 | Weblog
331『自然と人間の歴史・日本篇』戦争への道(満州事変(1931)、5.15事件(1932)と満州傀儡国家(1932))

 こうなると、歯車は容易に止まらない。1931年(昭和6年)9月18日には、日本軍が奉天(現在の瀋陽(シェンヤン))郊外で、南満州鉄道の線路を爆破した、これを「柳条湖事件」と呼ぶ。「爆破したのは中国軍だ」とするのであった。
 かねてからの計画に基づき、関東軍(この地、中国東北部に進駐していた日本軍の呼び名)が、満鉄沿線の主要都市の一斉占領をはじめ、満州全域の全面支配に乗り出す。これをきっかけに軍事行動を開始し、そのことが、満州事変の発端となった。 

 これに対し、当地の群閥の張学良軍は、全面戦争回避へと動く。蒋介石(しょうかいせき)が指導する中華民国、国民政府も、ほぼ同様な理由から概ね不抵抗の方針を採る。
 一方、日本政府は、中国をめぐってアメリカをはじめとする諸外国の反発を恐れ、戦争を拡大しないとの方針を立てる。しかし、「日本の権益がおびやかされないための自衛の戦い」とした関東軍はこれを無視し、満州全域を支配してしまった。これを止められなかった若槻内閣は退陣せざるを得なく、一方で世論もこの成果を喜んだため、その後の政府もこれを認めざるをえなくなっていった。

 1932年(昭和7年)3月1日には、清朝廃帝たる溥儀(ふぎ)を執政(しっせい)とする満州国が、日本の肝いりで建国され、中国からの独立を宣言した。

 これについては、満州国執政(その前は、清国最後の皇帝に地位にあった)の溥儀(ふぎ)より、関東軍司令官の本庄繁に次の書簡が提出される。表向きには、日本が強制したのではなく、双方の頃合いが整ったところで、溥儀が自主的に依頼したという主旨になっている。

 「書簡ヲ以テ啓上候。
 此次満洲事変以来貴国ニ於カレテハ満蒙全境ノ治安ヲ維持スル為ニ力ヲ竭サレ為ニ貴国ノ軍隊及人民ニ均シク重大ナル損害ヲ来シタルコトニ対シ本執政ハ深ク感謝ノ意ヲ懐クト共ニ今後弊国ノ安全発展ハ必ス貴国ノ援助指導ニ頼ルヘキヲ確認シ茲ニ左ノ各項ヲ開陳シ貴国ノ允可ヲ求メ候。
一、弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ其ノ所要経費ハ総テ満洲国ニ於テ之ヲ負担ス。
二、弊国ハ貴国軍隊カ国防上必要トスル限リ既設ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理並新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スヘキコトヲ承認ス。
三、弊国ハ貴国軍隊カ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス。
四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任シ其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スヘク其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ要件トス。
 前項ノ規定ニ依リ任命セラルル日本人参議ノ員数及ヒ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当リ貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スヘキモノトス。
五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ正式ニ締結スヘキ条約ノ基礎タルヘキモノトス。
以上。大日本帝国関東軍司令官本庄繁殿
大同元年三月十日、溥儀」(『日本外交年表竝主要文書』)
 それからほぼ2か月後の5月12日付けで、関東軍司令官・本庄繁より、満州国執政の溥儀に出された書簡には「三月十日附貴翰正ニ受理ス。当方ニ於テ異存無之ニ付右回答ス。
昭和七年五月十二日、関東軍司令官本庄繁。執政溥儀殿」(『日本外交年表竝主要文書』)とあって、なにから何までまさに予定どおりでよろしい、というところか。


 そして迎えた1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋近くで何者かが発砲したとして、日本軍が中国軍を攻撃するに至る、これを「盧溝橋事件」という。と、およそこれまでを勘案するに、日本の歴史学では日中戦争を盧溝橋事件から約8年間ととらえる見方が有力できた、しかし、近年は満州事変から日本敗戦までの約15年間を一連の動きととらえる説も有力になってきている。

 この間の国内においては、1932年(昭和7年)2月には「血盟団事件」が起こり、井上前大蔵大臣がピストルで撃たれた。3月には、三井財閥の専務理事を務めていた団琢磨が襲撃される。そして、1932年(昭和7年)5月15日に起こったのが、「5.15事件」であった。
 
 この事件は、それまでの事件とは異なり、陸軍の士官候補生と海軍将校の一部が手を結び、愛郷塾という茨城県の農民塾の塾生からも加わっていた。首相官邸を襲撃して犬養首相を殺害したほか、失敗したが牧野内大臣を襲い、さらに変電所を機能不能にして東京市内を暗黒にする事まで計画していた。
 こうして、政党内閣ではもはや無理とみた元老西園寺公望(さいおんじきんもち)は、後継首相に、海軍大将にして国際政局にも明るいという理由で、斉藤実を推薦した。1932年(昭和7年)9月15日には、日本と、日本がでっち挙げた傀儡国家であるところの満州国との間で、『日満議定書』が締結される。これに調印した日本の斎藤実(さいとうみのる)内閣は、満州国を正式に承認した。

 「日本國ハ滿洲國ガ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ。
 滿洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ滿洲國ニ適用シ得ベキ限リ之ヲ尊重スベキコトヲ宣言セルニ因リ。
 日本國政府及滿洲國政府ハ日滿兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センガ爲左ノ如ク協定セリ。
一 滿洲國ハ將來日滿兩國間ニ別段ノ約定ヲ締結セザル限リ滿洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民ガ從來ノ日支間ノ條約協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ權利利益ヲ確認尊重スベシ。

二 日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衞ニ當ルベキコトヲ約ス之ガ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス。
 本議定書ハ署名ノ日ヨリ效力ヲ生ズベシ。本議定書ハ日本文及漢文ヲ以テ各二通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釋ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ據ルモノトス。
 右證據トシテ下名ハ各本國政府ヨリ正當ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ。昭和七年九月十五日卽チ大同元年九月十五日新京ニ於テ之ヲ作成ス。
日本國特命全權大使武藤信義(印)、滿洲國國務總理鄭孝胥 (印)」

 これの文中「滿洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民ガ從來ノ日支間ノ條約協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ權利利益ヲ確認尊重スベシ」とあるのは、この議定書の力関係が日本による帝国主義的侵略によるものであることを語って止まないものであった。

(続く)

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♦️140の4『自然と人間の歴史・世界篇』ハンザ同盟(1241~1648)

2020-12-20 21:59:28 | Weblog
140の4『自然と人間の歴史・世界篇』ハンザ同盟(1241~1648)


 中世が後期にさしかかる12世紀初期頃からは、ロンドンやブリュッヘ、ノブゴロド、ベルゲンに根拠地を置く「外地ハンザ」が形成されていく。ここにハンザとは、元来「商人仲間」の意味だ。彼らは、某かの盟約を結ぶもので、11世紀以降のフランスや、毛織物工業の盛んなフランドル地方にもみられよう。

 ドイツで台頭したのは、当初北ドイツ商人とライン、ケルン商人が北海やバルト海沿岸貿易を牛耳ろうという「商人ハンザ」であった。
 これらが、しだいに本国都市との間に政治的・軍事的同盟である都市ハンザを形成していく。1241年には、リューベックとハンブルグが同盟を結ぶにいたる。

 その甲斐あって、特に 1358年フランドル商業封鎖の宣言に際して都市同盟の性格が明確化し、ドイツ・ハンザと名のることになっていく。
 
 それというのも、彼らは中枢的地位を占めていたリューベックを盟主として、その力の及ぶ範囲たるや、市場権、都市防衛権、租税徴収権、度量衡監督権、裁判警察権、市会設置による自治権など、これらを総称して広く「都市権」というべきだろうか。

 そればかりではない。14世紀中頃以降、貿易における彼らの独占的な地位が脅かされるようになると、デンマーク戦争 (1368~1370) での制圧後は最盛期を迎えた。 皆が協力することで、対外的な地位を増していく。
 その活動範囲たるや、ウラル山脈から大西洋に至るヨーロッパ大陸のほぼ北半分をカバーして、加盟都市も100余市というから、凄い。

 15世紀以降になっては、絶対王政国家の権力にしだいに押されていく。時に、イギリスとオランダで外来商人排斥の風潮が広がっていく。それに伴い、ドイツ商人による、かかる地域での独占貿易が圧迫されていく、という構図であったろう。

 また、それ以外にも、加盟都市内での商人と手工業者の争いや、加盟都市間の利害の不一致が表面化、同時に常設統治機関をもたない組織上の脆弱さも露見したという。


 その終末については、1818年からの三十年戦争 1669年リューベックでハンザ会議が開かれた。ところが、出席したのはリューベック、ハンブルク、ブレーメン、ブラウンシュワイクの代表のみであり、衰退を押し進めた、やがての三十年戦争後に解散に追い込まれる。


(続く)

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♦️360の5『自然と人間の歴史・世界篇』電話の発明(1837~1876)

2020-12-20 09:55:41 | Weblog
360の5『自然と人間の歴史・世界篇』電話の発明(1837~1876)

 有線通信というのは、銅線を空中に張って端末に電源を繋げれば、送信機の手指の操作によって電気信号を相手に送ることが出来る。
 そのとっかかりは、1837年のサミュエル・モールス(1791~1872)に始まる、電信機を使っての電信の原理は、長い導線の一端から電流を断続させて、他端にある電磁石の磁気を変化させることにより信号を送る仕組みのことだが、その原理としては電磁誘導(でんじゆうどう)作用といって、ヘンリーが発見した物理法則だ。
 それを知ったモールスは、ヘンリーの技術指導により電信機を発明。その機械は、文字や数字をdot(トン)、dash(ツー)の組み合わせで表現する信号を考案、1840年に特許を得た。
 この信号は、電流の短点トン(・)と長音ツー(-)の」組合せで、アルファベット或いは、イロハ48文字、それに数字なとを表現する訳だ。
 発明者の名をとって、「モールス信号」といわれるこの伝達方式は、1844年には、世界初の遠距離(ワシントン-ボルチモア間)電信が行われた。当初は、直接トン・ツーを打鍵していたが、キーボードからモールス符号を紙テープに穿孔して送信する自働電信機や、受信側で音響器の送信音でモールス符号を聞き分けて通信文を記録する音響電信機など、多様な改良が行われた。
 その後の1850年にドーバー海峡を結ぶ海底ケーブルが敷設され、今日に続く国際通信の基礎となっていく。
 その基礎工事でいうと、アメリカの西部劇「西部魂」(フリッツ・ラング監督、1941)でのように、電信会社の労働者と技師が銅線を鉄道網に沿って空中に張っていくのだが、なにしろ架設の距離たるや大変な長さであったことだろう。

  そして迎えた1876 年2月14日、アメリカのグラハム・ベル(1847~1922)とエリシャ・グレイ(1835~1901)は、わずか2時間の差でもって電話の特許を申請し、本人ではなく彼の弁護士が代行して申請したベルの方が特許を取得、電話の発明者と認められたという。しかも、ベルはその時まだ電話の完成にいたってなかった。なぜなら、彼の特許申請範囲の大半が「多重電信装置」関係にとどまっていたというから、驚きだ。
  そして迎えた3月10日、実験室にてベルの「ワトソン(トーマス・ワトソン)君、ちょっと来てください。用があります」という声が、電線を通じて聞くことができたとされている。
 その実験中、うっかりしてズボンに希硫酸をこぼしてしまったことから助手に助けを求めたということらしい。そのため、その希硫酸はグレイが申請した内容、つまり適度な電気抵抗を持つ液体に針を立て、音声信号に針の動きが連動することとの関連性があったのかもしれないと。
  その後も、各方面で開発競争が続く。ベルの電気振動の実験の中では、電磁石に近接して置いた鋼鉄ばねの振動が電流を誘発し、それが電線を伝わって受信側の電磁振動板を動かし音が伝わる筈だった。
  1877年4月には、トマス・エジソンがベルの電話機を改良し、炭素型マイクロフォンの特許を申請した。一方、ベルと彼の最大の支援者ハバードは協力して電磁石形の電話機で大衆の前でデモンストレーションを行うなどして自信を深め、1877年7月にはリース制で電話機を顧客に提供する任意組合ベル電話会社(後のAT&T)を設立する。
  これに対して当時最大の電信会社であったWU社は、グレイの受話器やエジソンの受話器の特許を手に入れるとともに、エジソンを顧問に迎え、1877年12月にAST社を立ち上げる。こうした経緯の下に迎えた1878年2月、両社はうまみのある電話市場の争奪に突入していく。
  1878年9月、ベル社は特許権侵害をAST社に向け提訴、その中で炭素式マイクに関するエジソンの特許は無効であると主張した。あれやこれやの論点が出てきて、後世に「ダウド訴訟」と呼ばれた、この裁判は、引き続いて電話機の開発競争が進められる中で進められる。そして1879年5月にいたって、和解が成立する。
  その主な内容は、AST社はベル特許の優先権を認め、電話事業から撤退する、一方、ベル社は電信事業への参入を控える。AST社が保有する5万6千台の電話機をベル社が買い取るとともに、ベル社は電話事業から上がる利益の20%をWU社に17年にわたって支払うというもの。
  こうしてベルは、「電話機の原理的発明者」として名をはせることができた。
 
(続く)

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○251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

2020-12-19 21:34:26 | Weblog
251の3『自然と人間の歴史・日本篇』盛岡藩・三閉伊一揆(1847~1853)

 1847年(弘化4年)の冬に勃発した盛岡藩での三閉伊一揆(さんぺいいっき)というのは、同藩領地内、太平洋沿岸の一帯を占める、三閉伊通と呼ばれる一帯の農民・漁民1万数千人が蜂起したもの。大方でいうと、いわゆる「日本三大一揆」の一つに数えられる。
 
 この辺りは、江戸時代後期に商工業が盛んになっていたので有名だ。
 その騒動のきっかけとしては、藩が専売制を強化し,臨時に御用金を課したことに対して、彼らが我慢ならないとして立ち上がったことにある、 
 かれらは、この要求をまとめてから、藩の重臣のいる遠野(とおの)に強訴した。遠野には、横田城があった。

 「願い上げ奉り候こと
この度仰せつけられ候御用金三千二百両、宮古通り。二千四百八十両、大槌通り。一千四百三十両、野田通り。
 ほかに毎年大豆御買上げにて候にて迷惑、なおまた塩買上げにて百姓ども一同迷惑まかりおり候ところ、五か年の軒別銭仰せつけられ、やむをえざることと納め上げ奉り候。
 この軒別銭があいすみ申さざるうちは御用金等いっさい仰せつけられまじく候との御沙汰にござ候ところ、近ごろにいたり一か年に三度四度ずつの御用金にごさ候。
 したがっておそれ多い願い上げにござ候えども、なにとぞ御定役御年貢のほかの新税御役立過金など御免下さたく願い上げ奉り候。
おそれながら願い上げ奉り候。
弘化四年十二月
大槌通御百姓共
宮古通御百姓共
野田通御百姓共

弥六郎様
土佐様」

 この年、南部藩は、領内におよそ5万2千両の新税(軒並別銭)を課し、見られる通り、そのうちの約7千両を三陸海岸地域の村々に割り当てていた。そこでこの書状は、見られる通り、この間の藩政への不信を募らせ、税の減免を訴えている。その半年に及ぶ交渉の結果、新たな課税や流通の統制の廃止など多くの要求が通り,また一揆の指導者を処罰しないことも約束させたのであったのだが。
 
 
☆☆☆☆☆☆
 
 1853年(嘉永6年)、今度は、田野畑村の畠山太助、喜蔵らを指導者とし、再び一揆が起る。
 
 今度の一揆の立ち上げは、沿岸北部・田野畑村でもって押し出し、亡き佐々木弥五兵衛を慕う畠山喜蔵、畠山多助(太助)、三上倉治らを頭領として、普代・野田村方面へ向かうという、一旦北上する道を選んだ。
 その出で立ち姿としては、赤だすきの肩に、筵(むしろ)を立て、それには「小○」(困るの意味)と書き、のぼり旗とした。そればかりか、彼らは、竹槍や棒をたづさえての役割を与えられる部隊もあって、それなりの隊列を組んで行進していたというから、驚きだ。そして、浜通りを南下する頃には、大群衆となっていた。
 
 さらに、大槌方面では、三浦命助の率いる一揆軍と合流し、やがての一揆衆は1万6千人とも言われ、釜石から藩境を越え、政治的三ヶ条と具体的な四十九ヶ条の要求を仙台藩に訴える。

 まず、願いの三ヶ条には、一、南部藩主を交迭せしめること、一、三閉伊通の百姓を仙台領民とされたいこと、一、三閉伊通を幕領とされたい、若しできなければ仙台領とされたい、とある。

 その原文としては、こうある。
 
「一、御隠居遊ばされ候甲斐守様、御入口なさせられ度、偏に願上げ候事。
一、三閉伊通に罷り在り候百姓ども一統、御慈悲を以て御抱へ、露命御助け下し置かれ度く、偏へに願上げ奉り候事。
一、三閉伊通、公儀御領に仰せ付けられ下され度く、この義御成り兼ねに候はば、仙台様御領に成し下され候様、願上げ奉り候事。
 右箇条、御慈悲を以て、願の通り仰付けられ下し置かれ候はば、一統重畳有りがたき仕合せと存じ奉り候、恐れながら此段願上げ奉り候。以上」

 このような思いきった、しかも越訴になったのには、水稲生産力の弱い地帯に、この不利を克服するようにおこった新産業に、これをも押しつぶすように重税をかける盛岡藩政への著しい不信があろう。

 この交渉では、45人の代表を仙台藩に残し、一揆衆は村に帰る。その後も粘りづよい交渉が続けられての半年後、前記の45人衆と仙台藩と盛岡藩の度重なる交渉の結果、三十九ヶ条の要求を認めさせる。さらには一揆参加者の処罰も行わないとの「安堵状(あんどじょう)」を得て、解散する。
 
 なお参考までに、本一揆での双方及び一揆参加者内部の関係を見知るものとして、(1)「南部弥六郎奥書黒印状」、(2)「奉差上一札之事写」、(3))「乍恐奉申上候口上書之御事写」、(4)契約書(「嘉永6年6月25日」付け)などの文書が現代に伝わる。
 そのうち(1)とは、一揆に参加した三閉伊通りの農民に対する布告にて、一切の処罰は行わないので安心して帰村するように、盛岡藩の目付2名の連名捺印で約束し、さらに藩の大老である南部弥六郎の奥書を付し記名捺印してある。
 (2)については、(1)と同時に一揆側が藩に対して、約定がなったうえは間違いなく帰村する旨を約束した証文であり、また(3)とあるのは、双方代表を押し立てての折衝中に、一揆側が仙台藩気仙郡代官に対し、盛岡藩はこれまで重過ぎる税を課してきた家老・用人が更迭されず、心ある重臣は未だ閉門の有様、したがって帰国してもどのような処罰が下るかわからないので、仙台藩の百姓にしてほしいと訴えたものだという。
 さらに(4)は、一揆参加の面々が仙台範の仲介を受け入れて、代表45人を残し、帰国するにさいし、仲間うち後者に出した契約書であって、万一の時の家族の暮らし向きについて約している。ちなみにその文言は、次のようであった。
 いわく、「契約書 浜三閉伊通村々のため、身命相捨て候事も図り難く、若し右様の節は、一か年につき金十両ずつ十か年の間、その子孫の養育料として、村より取立て其当人に相渡すべく候事。嘉永六年六月二十五日、盟助殿、太助殿、喜蔵殿。三閉伊惣百姓中」と。
 
☆☆☆☆☆
 
 
 参考までに、一揆の指導者の一端について、数多き人物中から少し紹介しておこう。
 
 まずは、前篇の一揆から一人を取り上げると、佐々木弥五兵衛(ささきやごべい、1787?~1848)は、浜岩泉の切牛村(現在の田野畑村島)の生まれたとされるが、どのような親の下に生まれ、どのような少年時代までを過ごしたのか、正確にはわからないという。
 この地方の沿岸部でとれた塩を、牛の背中にのせて内陸部に運ぶ塩売り商人であった。
 1814年(文化11年)、隣村の岩泉・中里村で農民一揆が起きると、陰ながら応援したという。それが成功してからも、この辺りの農民を守る話わ行動に、自らも様々な関わっていく。
 そして迎えた1847年(弘化4年)には、本人が呼び掛けに加わり、6万両という膨大な御用金取立ての達しを下した盛岡藩に対して、農民たちの先頭に立って闘う。
 代官所から「オオカミを退治するから」と言って鉄砲や槍を借り受け、武器としたというから驚きだ。
 三閉伊の山里から狼煙を上げた一団は、村ごとに人数を増やし、宮古を過ぎ、難所である笛吹き峠を越え、遠野へと進軍する。藩庁のある盛岡に向かわない作戦であったという、

  大挙した農民軍に直面した南部藩家老新田小十郎(遠野南部家)は、善処することを約束し、一揆は成功裏に解散する。

 しかし、弥五兵衛はその先を見越していた、同藩が約束を守らない場合に備えて次の闘いを準備していたところを、密告されたのだろうか、藩の差し向けた刺客に襲われ、囚われた弥五兵衛は打ち首にされ生涯を終える。
 
 
 
 もう一人、この物語の後篇たる嘉永一揆にまつわる人物像のうち、三浦命助 (みうらめいすけ、1820~1864)には、その当時の時代の流れが乗り移っていたのかもしれない。

 それと、そもそもこの人は、陸奥国(むつのくに)盛岡藩領、その三陸海岸側といおうか、上閉伊(かみへい)郡栗林村の肝煎(きもいり)筋の分家に生まれであったという。天保の頃より、小規模なから塩や海産物を仕入れ、三閉通り沿いの農漁村を回って、いわゆる荷駄商いを行っていたとのこと。
 こちらでの一揆には、命助は指導者45人衆の一人として、途中の大槌通りへ入ってから嘉永一揆に加わった由(よし)、それには彼なりの心づもりがあったのだろうか、それとも急な思いが募ってのこと、もしくは人物を見込んで誘われてのことであったのだろうか。

 弁舌のみならず、文をつくるにたけ、それに類い稀といってよいほどの知恵が働くことで、仙台、盛岡の両藩との交渉に加わるうちに、三閉伊通りの人々にとってなくてはならぬ人となっていったようだ。

 大方勝利のうちに一揆が終息した後は、一時、村役人などを務めたという。しかし、自分を陥れる話を認めたのだろうか、京都へ出奔したという。  
 1857年(安政4年)、二条家の家臣と称して盛岡藩領に戻ろうとして捕縛される。新たな志をもって、雌伏していたのだろうか。

 それからの約6年を牢にいれられて、1864年(元治元年)に獄死するのであったが、残されるであろう妻子に生計の道などを説いた「獄中記」を書いた、その一節には、「人間と田畑をくらぶれば、人間は三千年に一度さくうどん花(げ)なり」とあるという。

(続く)


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(続く)


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♦️946『自然と人間の歴史・世界篇』イラン核兵器合意(2015~)

2020-12-19 09:41:20 | Weblog
946『自然と人間の歴史・世界篇』イラン核兵器合意(2015~)

 2020年もおしづまった今日、「火花を散らす」とは、このことをいうのだろうか。世界平和にとって一番の脅威と目されているのが、中東、中でもイランの核兵器開発をめぐる問題であろう。

 この合意というのは、2015年、イランのロウハニ政権が、米英独仏中ロの6カ国との間でかわした核関連活動に関する制約の取り決めをいう。国際原子力機関(IAEA)の規定より厳しい内容で、濃縮ウランの貯蔵量を300キロ以下、濃縮度は3.67%に制限し、遠心分離機の稼働数の削減などが入っている。
 これにより、米欧は義務履行の見返りとしてイランへの経済制裁を解除した。
 ところが、である。イランを敵対視するトランプ米大統領が2018年5月に核合意からの離脱を一方的に表明し、イラン産原油の全面禁輸など制裁を再開する大統領令に署名した。そもそも2017年に就任したトランプ政権は、合意内容にイランの弾道ミサイル開発規制が盛り込まれていないことなどを問題視し、「史上最悪の合意」と批判したのだ。

 それからは、イランは核合意が事実上崩壊していると反発し、2019年5月以降、義務の履行をなおざり、もしくは破り始める。特に、合意で定められた低濃縮ウラン貯蔵量の上限を突破させるなどの逸脱行為を繰り返してきた。
 2020年1月5日には、第5弾の措置として「制限なしに技術的な必要に応じてウラン濃縮活動を続ける」とする声明を発表した。それでいて、制裁解除を条件に再び核関連の義務を履行する考えも示していることから、米欧の譲歩を狙い、揺さぶりをかける作戦のようだ。


(続く)
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新257『自然と人間の歴史・世界篇 』イギリスの19世紀文学(ディケンズ) 

2020-12-19 08:46:38 | Weblog
257『自然と人間の歴史・世界篇 』イギリスの19世紀文学(ディケンズ) 

 チャールズ・ディケンズ(1812~1870)は、イギリス南部のポースマス近郊に生まれた。一家がロンドンに移転後には、父が借財不払いで投獄される。そのため、ディケンズは、幼くして靴墨工場ではたらき、家計を支えたという。
 そんな彼が成長して新聞記者になってからは、あちらこちらで見聞した風俗をスケッチ風にして発行したところ、これが当たって、めきめき頭角を表していく。
 その中での出世作の一つ、「クリスマス・キャロル」の筋は、ロンドンに住む、ケチで無慈悲、それに人間嫌いのスクルージ老人が、クリスマス・イブの夜、相棒だった老マーレイの亡霊と対面し、翌日からは彼の予言どおりに第一、第二、第三の幽霊精霊に伴われて知人の家を訪問していく。
 そこそこで、炉辺でクリスマスを祝う、貧しいけれど心暖かい人々に出会うのであったが、自分の将来の姿を見せられる思いもしてきて、さすがのスクルージも心を入れかえざるを得なくなる。そして迎えた「大団円」(第五章)、晩年を迎えた老人の姿を、こうまとめている。
 「(前略)好い古い都なる倫敦ロンドンにもかつてなかったような、あるいはこの好い古い世界の中の、その他のいかなる好い古い都にも、町にも、村にもかつてなかったような善い友達ともなれば、善い主人ともなった、また善い人間ともなった、ある人々は彼がかく一変したのを見て笑った。
 が、彼はその人々の笑うに任せて、少しも心に留めなかった。彼はこの世の中では、どんな事でも善い事と云うものは、その起り始めにはきっと誰かが腹を抱えて笑うものだ、笑われぬような事柄は一つもないと云うことをちゃんと承知していたからである。
 そして、そんな人間はどうせ盲目だと知っていたので、彼等がその盲目を一層醜いものとするように、他人ひとを笑って眼に皺を寄せると云うことは、それも誠に結構なことだと知っていたからである。彼自身の心は晴れやかに笑っていた。そして、かれに取ってはそれでもう十分であったのである。」(森田草平訳「クリスマス・カロル」岩波文庫を、青空文庫で現代仮名遣いにしたものから引用)
 このように、拝金主義にまみれた状態からの脱出でしめくくる作品が見られる一方、晩年にさしかかるにつれ、後期の作品群には複雑な人間心理が見てとれるようになっていく。
 たとえば「大いなる遺産」は、主人公ピップの人生遍歴を通して、莫大な財産が転がりこんでくる夢に翻弄される若者を、これでもか、と描いている。
 そもそもが、幼いピップが、遊びにくるように言ってくれた老婆ミス・ハヴィシャムの家を訪れた時、その彼女から「さあ、私を見なさい。お前の生まれた頃からこの方、一度も日の光を見ていない女がお前は怖いのかね」(神山妙子編著「はじめて学ぶイギリス文学史」ミネルヴァ書房、1989)というのであった。


 もう一つ、今度は、ディケンズ自身が自分の代表作に任じている「デイビット・コパフィールド」を取り上げよう。こちらは、そのおおくの部分が一人称での自叙伝的な長編小説であって、紹介される登場人物は多彩、かつ個性的だ。例えば、ミコーバー夫妻の印象的なシーンから紹介するとしよう。

「ミスタ・ミコーバーの貧乏は、とうとう、行き詰ってしまって、ある日、朝早くつかまると、バラ区の債務者拘置所へ連行されていった。家を出るとき、彼は、天道、我に非なり、と私につぶやいたが―さぞかし彼も断腸の思いだったろうが、私も悲しかった。だが、その後聞いたところによると、午後にはもう、元気に九柱戯をやって遊んでいたという。」(新潮文庫 中野好夫訳「デイヴィッド・コパフィールド㈠」、349ページ)

 「あの主人ひとを捨てるなんて、そんなことできませんとも。あの主人も、初めのうちは、困ってること、わたしには隠してたらしいんですのよ。とにかく、呑気な楽天家だもんですから、なんとか、乗り切れるつもりだったんでしょうね。母親の形見だった真珠の首飾りも腕輪も、相場の半値で、手放してしまいますし、結婚のとき、父からもらった一揃いの珊瑚珠まで、ただ同様で売り払っちまったんですからね。
 それでも、あの主人ひとを捨てるなんて、そんなことできませんとも。あの主人も、初めのうちは、困ってること、わたしには隠してたらしいんですのよ。とにかく、呑気な楽天家だもんですから、なんとか、乗り切れるつもりだったんでしょうね。母親の形見だった真珠の首飾りも腕輪も、相場の半値で、手放してしまいますし、結婚のとき、父からもらった一揃いの珊瑚珠まで、ただ同様で売り払っちまったんですからね。それでも、あの主人を捨てるなんて、そんなことができるもんですか。ええ。そうですとも」彼女は、いよいよ、興奮してきて、叫んだ。「絶対、そんなことはできません!いくら頼まれたって、そんなことできません!」

 「そりゃ、あの主人にも、落度はありますわよ。前後の考えも、何もない人だってこと、また財産のことも、借金のことも、一切わたしには、知らしてくれなかったってこと、そりゃ、別に否定いたしませんとも」じっと、壁を見つめながら、言うのだ。「でも、それでも、あの主人を捨てるなんてことは、断じてできません!」
 その頃はもう、すっかり金切り声になっていた。私は、驚いて、クラブの部屋の方へ、飛び出していった。ミスタ・ミコーバーは、長テーブルの司会席に坐って、
  はい、どう、子馬
  はい、どう、子馬
  はい、どう、子馬
  はい、どう、しっしっしっ!
 と、今しも陽気に、合唱の音頭をとっているところだったが、私は、とりあえず、制して、ただならぬ奥さんの様子を、話して聞かせた。と、たちまち、彼は、ワッとばかりに泣きくずれ、いままで食べていた小エビの頭や尻尾を、いっぱい、チョッキにくっつけたまま、私と一緒に、飛び出してきた。
「エマ、わしの天使!どうしたというのだ!」彼は、部屋へ駆け込むなり、わめいた。
「ねえ、ミコーバー、あなたを見捨てるなんて、絶対にできません」
「ああ、大事なエマ、そんなことは、ようくわかっとる」彼は、奥さんを両腕に抱いて、言う。

「この主人はね、この子供たちの父親!この双生児の親なんですもの。わたしの大事な、大事な夫」ミセス・ミコーバーは、身悶えしながら、叫ぶのだった。

 「この主人を―捨てる―なんて―絶対に―できるもんですか」
 この深い愛情の告白に、すっかり感動してしまったミスタ・ミコーバーは(そういえば、私も、すっかり涙ぐんでいたが)、激しく、上から抱き締めるようにすると、さあ、顔を上げて、そして、もっと落着いてと、まるで哀願でもするように言うのだった。だが、顔を上げてと言えば言うほど、奥さんの方は、いよいよ、ありもしない虚空を見つめ、落ち着いてと言えば言うほど、これまた、いよいよ、興奮してくのだった。とうとう、しまいには、ミスタ・ミコーバーの方が参ってしまって、すっかり私たちと一緒になって、泣き出してしまった。」(新潮文庫 中野好夫訳『デイヴィッド・コパフィールド㈠』、360~363ページ)

 この例からも、当時の工業先進国イギリスといえども、「ピープル」たる人々の日常からは、浮きつ沈みつ、なんとかまっとうな生活を送りたいとの心情が窺えるのではないだろうか。
 合わせるに、この国の後の作家モームが1954年に公にした「世界十大小説」中のディケンズの当該項においては、次のような含蓄ある賛辞が添えられている。

 「小説の世界は、神の国と同様、住みかが多いのて、そのどの住みかへ読者を案内しようと、それは作家の自由である。どの住みかであれ、すべてが同様に存在の権利を持っているのである。
 だが、読者その案内された環境に適応するようにしなければならない。たとえば「黄金の鉢」を読む場合と、「ビュビュ・ド・モンパルナス」を読む場合とでは、かける眼鏡を違えなければならない。
 「デイビッド・コパフィールド」は人生について自由奔放な空想を働かせた。ある時は賑やかで、ある時は哀れ深い作品で、活発な想像力と暖かな感情の持主が、その過去の思い出と願望充足とから作りあげたものである。
 この作品を読むには、シェイクスピアの「お気に召すまま」を読むのと同じ精神をもってしなければならない。事実「デイビッド・コパフィールド」は、「お気に召すまま」とほぼ同様な、心地よい楽しみを与えてくれる作品なのである。」(W・Sモーム著、西川正身訳「世界の十大小説」上、岩波新書、1958)

(続く)

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