341の2『自然と人間の歴史・日本篇』対米英開戦へ(1941、対米英戦争遂行内閣の登場と対米交渉)
そしての10月18日、東条英機陸軍大臣が首班になっての後継内閣の成立は、もはや連合国相手の戦争回避への方向転換が不可能な時点が来たのを意味したようだ。
この内閣は、11月5の御前会議において、まずは開戦の予定を12月初めと定めた。陸軍と海軍は、それまでに作戦準備を整えることが求められる。もっとも、12月1日午前零時までに対米交渉が成功すれば、武力行使を行うのを中止するとした。
この会議では同時に、今後の対米交渉で想定されるシナリオを考え、甲乙二案を採択したという。
ところが、甲案の主要点は中国駐兵について、華北および蒙疆(もうきょう、現在の中国西北部に広がる自治区一帯をいう慣用語)の一定に地区と海南島に日本軍は駐留し、その期間としてはおおむね25年を目標とすることにしていた。
次に、この案では交渉そのものがどうにも双方でのテーブルにこつけぎられなかったところから、妥協案としての乙案を設けた。こちらの主要点は、日本側が一として、南部仏印に駐留している日本軍を北部仏印に撤退させる。その見返りとして、アメリカ側は、日本が蘭印から必要な物質を獲得するのを妨げない。
そしての10月18日、東条英機陸軍大臣が首班になっての後継内閣の成立は、もはや連合国相手の戦争回避への方向転換が不可能な時点が来たのを意味したようだ。
この内閣は、11月5の御前会議において、まずは開戦の予定を12月初めと定めた。陸軍と海軍は、それまでに作戦準備を整えることが求められる。もっとも、12月1日午前零時までに対米交渉が成功すれば、武力行使を行うのを中止するとした。
この会議では同時に、今後の対米交渉で想定されるシナリオを考え、甲乙二案を採択したという。
ところが、甲案の主要点は中国駐兵について、華北および蒙疆(もうきょう、現在の中国西北部に広がる自治区一帯をいう慣用語)の一定に地区と海南島に日本軍は駐留し、その期間としてはおおむね25年を目標とすることにしていた。
次に、この案では交渉そのものがどうにも双方でのテーブルにこつけぎられなかったところから、妥協案としての乙案を設けた。こちらの主要点は、日本側が一として、南部仏印に駐留している日本軍を北部仏印に撤退させる。その見返りとして、アメリカ側は、日本が蘭印から必要な物質を獲得するのを妨げない。
また、日中の間の和平実現の努力を妨害しない。さらに日米は、通商関係を資産凍結以前の状態に復すとともに、日本が必要とする石油を供給するというもの。
そうして東郷外相からアメリカのハル国務長官宛に出された乙案に対しては、アメリカは肯定的な返事をくれなかった。そうしてからアメリカ側が作ったのが、いわゆる暫定協定案である。
その枠組みとしては、まず一として日米は武力をたづさえての太平洋地域への進出を控えること、二として日本は南部仏印から軍隊を撤退するとともに、北部仏印の兵力を最大2万5千人以内にとどめること。
その三としては、7月26日の資産凍結令を日米両国は解除し、輸出制限も自国の自衛のたてに必要な範囲にとどめること。その四として、アメリカは、日本がイギリス、オランダ両国に同様の措置をとるよう彼らと交渉する。その五としてアメリカは日中間の和平交渉ならびに同交渉期間中の休戦に友好的態度をとることであった。
また、これに付属する一般協定要項の第一節には、当時の国際関係の一般原則たる、他国の国内問題への不干渉や通商での無差別主義など。第二節として、アメリカ側、日本側の双方が協定本文にのっとり子細にとるべき措置が記されていた。
しかして、アメリカは、まずこれを11月22日、イギリス、中国国民党政府、豪州、そしてオランダに示したところ、中国を除いて了承されたものの、中国側は、同案がいう3ヶ月の平和期間中、日本軍がさらに中国に進撃しないよう保証させることはできないかと持ちかけたものの、ハルはそれは出来ないと返事した。
これを踏まえハルがまとめた同協定の第二案(11月24日)では、前のものに比べ、アメリカからの輸出制限が強化されるものとなっている。具体的には、原綿は毎月60万ドル、石油の供給は漁業用などの民需に限るものとしつつ、その量はイギリス、オランダと相談の上決定するというものであったという。
ところが、これに対しても、中国の蒋介石からは、「アメリカが妥協しないこと、日本が中国から撤退しないかぎり対日禁輸、封鎖の解除は考慮よ余地がないことを宣言するのをわれわれは要請するだけである」と打電してきた。
また、イギリスのチャーチル首相からルーズベルト大統領宛には、同案を承認するとともに、「一つの不安は、蒋介石はどうかということてす。蒋総統の食卓はきわめて粗末ではないでしょうか。中国の崩壊は、われわれの危険をきわめて増大させます」と返信してきたとのこと。
そうして東郷外相からアメリカのハル国務長官宛に出された乙案に対しては、アメリカは肯定的な返事をくれなかった。そうしてからアメリカ側が作ったのが、いわゆる暫定協定案である。
その枠組みとしては、まず一として日米は武力をたづさえての太平洋地域への進出を控えること、二として日本は南部仏印から軍隊を撤退するとともに、北部仏印の兵力を最大2万5千人以内にとどめること。
その三としては、7月26日の資産凍結令を日米両国は解除し、輸出制限も自国の自衛のたてに必要な範囲にとどめること。その四として、アメリカは、日本がイギリス、オランダ両国に同様の措置をとるよう彼らと交渉する。その五としてアメリカは日中間の和平交渉ならびに同交渉期間中の休戦に友好的態度をとることであった。
また、これに付属する一般協定要項の第一節には、当時の国際関係の一般原則たる、他国の国内問題への不干渉や通商での無差別主義など。第二節として、アメリカ側、日本側の双方が協定本文にのっとり子細にとるべき措置が記されていた。
しかして、アメリカは、まずこれを11月22日、イギリス、中国国民党政府、豪州、そしてオランダに示したところ、中国を除いて了承されたものの、中国側は、同案がいう3ヶ月の平和期間中、日本軍がさらに中国に進撃しないよう保証させることはできないかと持ちかけたものの、ハルはそれは出来ないと返事した。
これを踏まえハルがまとめた同協定の第二案(11月24日)では、前のものに比べ、アメリカからの輸出制限が強化されるものとなっている。具体的には、原綿は毎月60万ドル、石油の供給は漁業用などの民需に限るものとしつつ、その量はイギリス、オランダと相談の上決定するというものであったという。
ところが、これに対しても、中国の蒋介石からは、「アメリカが妥協しないこと、日本が中国から撤退しないかぎり対日禁輸、封鎖の解除は考慮よ余地がないことを宣言するのをわれわれは要請するだけである」と打電してきた。
また、イギリスのチャーチル首相からルーズベルト大統領宛には、同案を承認するとともに、「一つの不安は、蒋介石はどうかということてす。蒋総統の食卓はきわめて粗末ではないでしょうか。中国の崩壊は、われわれの危険をきわめて増大させます」と返信してきたとのこと。
おりしもアメリカ本国では、ルーズベルト大統領は、10月9日(アメリカについては現地時間)の商船に、交戦地域への貨物の輸送をする場合の武装を許す中立法の改正を議会に要請、11月中に上下両院にて僅差で可決された。
12月初めに行われた、中立を維持することと枢軸国(ドイツ、イタリアおよび日本)を打倒することといずれかを問うた世論調査では、その年の5月には64%を占めていた戦争に巻き込まれない平和を第一においた者が、今度は32%に減少したのだと紹介される(尾上一雄「増補アメリカ経済史研究1」杉山書店、1969)。
とはいえ、大統領の選挙公約としては、「われわれは、攻撃を受けた場合のほかは、外国の戦争に参加しない、外国で戦うためにわれわれの陸・海・空軍を送りもしない」(同)との話であったことから、特段のことが起こっていないそれまでの状況では、対日参戦は積極的な話にはなっていなかったのではないだろうか。
(続く)
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12月初めに行われた、中立を維持することと枢軸国(ドイツ、イタリアおよび日本)を打倒することといずれかを問うた世論調査では、その年の5月には64%を占めていた戦争に巻き込まれない平和を第一においた者が、今度は32%に減少したのだと紹介される(尾上一雄「増補アメリカ経済史研究1」杉山書店、1969)。
とはいえ、大統領の選挙公約としては、「われわれは、攻撃を受けた場合のほかは、外国の戦争に参加しない、外国で戦うためにわれわれの陸・海・空軍を送りもしない」(同)との話であったことから、特段のことが起こっていないそれまでの状況では、対日参戦は積極的な話にはなっていなかったのではないだろうか。
(続く)
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