◻️171の3『岡山の今昔』岡山人(18世紀、池田継政)

2019-12-31 20:42:49 | Weblog
171の3『岡山の今昔』岡山人(18世紀、池田継政)

 池田継政(いけだつぐまさ、1702~1776)は、岡山藩主にして、画家、書家。綱政の四男として岡山に生まれる。なので、幼少期は、影が薄かったようだ。やがて、一族の家老・池田由勝の家を継ぐ。兄二人が父に先立って亡くなり、もう一人の兄も病弱であったため後継ぎとなり、1714年(正徳4年)に、父・綱政の死去により岡山藩主となる。
 以後およそ40年の間、藩主にある。享保~明和年間は全国的に一揆が頻発していた。その中で、岡山藩は大きな事件や飢饉などは起きなかったかのように言われるのだが、果たしてその通りなのだろうか。
 全国的に大変な世相であった、藩全体がこの頃には貨幣経済にどっぷり浸かっていったに違いない。そのはずなのに、かれが政務に勤しむ姿、領内に安定と繁栄をもたらしたのかどうかは、まとまった形では後世に伝わっていかなかった。そこに、歴史での存在感の薄さがあろう。
 だからして、現代人にまず伝わってくるのは、絵画や書に始まり、能楽や和歌にまで通じる文化人の姿ではないか。江戸の湯島聖堂の孔子像や宇治平等院の源頼政像は継政の筆によるというもので、インターネットでも閲覧できるようだ。他にも、藩内の神社仏閣にも自筆の書画を数多く奉納しているらしい。
 そしての1751年(宝暦元年)、67歳の禅僧(臨済宗)、白隠(はくいん)は、岡山市の少林寺まで接化(せっけ・師家が学人を親しく教化し指導すること)の旅に出る。そして、「川老金剛経(せんろうこんごうきょう)」を講じるのであった。その時、継政はこれを聴講したやに伝わる。以来継政は、参勤交代で沼津を通る際には、度々松蔭寺(現在の静岡県沼津市)に立ち寄り、親睦を深めたと伝わる。
 そんなある日、松蔭寺で白隠と話をしていたところ、寺の小僧があやまって、擂鉢(すりばち)を割ってしまう。そこで帰りしなに、「何か差し上げたいが、お望みの物はございませんか」と申し出る。すると、白隠は 「これといってないが、擂鉢を壊してしまったので、一つもらいたい」と答えたのか、どうか。
 継政は、人生の師匠と仰ぐ人からそれを聞いて、「それほどまでに信頼してくれるのか」と喜んだのではないか。帰国して、早速備前焼の大擂鉢を数個、松蔭寺へ送り届けたという。その後、境内の松が大風で枝が折れている、その切り口に雨風が当たらぬよう、白隠は大擂鉢の一つを懸けたという、心温まる逸話が残る。


(続く)

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○○504の1『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

2019-12-31 18:13:39 | Weblog

504の1『自然と人間の歴史・日本篇』元号と国歌と日本の文化

 2016年からは、天皇の生前譲位の意向を受けての、新元号制定の話が広がりっていった。その法的根拠だとされる元号法には、こうある。
「1、元号は、政令で定める。
2、元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附則
1、この法律は、公布の日から施行する。
2、昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。」 
(法律第43号(1979年6月12日))
 では、これまでどんなやりとりが為されてきたのだろうか。顧みるに、この元号法制化の時には、幾つかの論点が出された。具体的には、敗戦から30年余りが過ぎた1979年2月、皇位継承があった場合に改元すると定めた元号法案が、政府(大平正芳首相)により国会に提出された。

 毎日新聞(2017年1月6日付け)に、その時の論点整理がしてある(表の紹介に当たっては、筆者により適宜、番号、句読点などをつけてある)。

 「(1)法制化について。政府・与党:「元号制度を明確で安定したものとする。」/社会・共産党:「天皇を神格化させることによって、戦前の天皇主権へ道を開く。」
(2)法制化後の元号の扱い。政府・与党:「一般国民に元号の使用を義務づけているわけではない。」/社会・共産党:「事実上の強制が行われようとしている。」
(3)一世一元制について。政府・与党:「象徴天皇と国民とを結ぶ深いきずなとしてふさわしい。」/社会・共産党:「絶対主義的天皇制の専制支配を支える役割を果たしてきた。」
(4)元号は文化か。政府・与党:「わたしたちの日常生活に根をおろしている尤も身近な国民文化。」/社会・共産党:「法制化しなければ存続し得ないものは、受け継ぐべき文化の名に値しない。」
(5)憲法との関係。政府・与党:「憲法は象徴天皇制を定めており、憲法違反は生じる余地がない。」/社会・共産党:「憲法の国民主権の清新に反する。」」
 これらの5項目の論点の他にも、「西暦で充分」とか、「日本でだけしか通用しない元号では、西暦との換算が大変」、「元号は天皇の一代限りであるこので、元号間の通算でもわかりづらい」、さらに「国際化時代において元号に拘るのはわからない」など、多様な意見が国民から出されていた。

 かつて、財政学者の大内兵衛(おおうちひょうえ)は、元号存続に難色を示していた(『1970年』もしくは『実力は惜しみなく奪う』などの評論集を参照されたい)。彼があえて述べたのには、いわゆる「元号問題」は政府や著名人から成る「有識者」が議論し決めて、上からおろすものでなく、主権者である国民がどうするかを決めるべきだとの思いからであった。
 かたや、新聞紙上では、国民からの意見がチラホラながら散見される、その中から、一つ紹介しよう。
 「天皇陛下の退位を巡り、新元号に関する議論が進んでいる、2019年1月1日付で新元号にする案もあるようだ。
 しかし、私はあえて言いたい。国民生活への影響を最小限に抑えるというのなら、いっそ元号を廃止すべきだ。そして今後は西暦一本でいけば、国民の利便性は確実に高まると思う。
 現在は、元号と西暦が併用され、特に役所関係の書類は、元号しか書かれていないことが多い。ケースに応じて西暦を元号に換算したり、その逆をしたりすることが、どれほど面倒か。元号を廃止した場合、どれほどの不便があるのか、私にはわからない。
 そもそも、もうわが国は天皇主権の国ではない。国民主権となって70年が経つ。天皇が代替わりしたら元号を変えるという制度は時代錯誤もはなはだしく、民主主義にもそぐわない。
 国民生活を不便にする上、日本はあたかも天皇が治める国であるかのような錯覚を生じさせる元号は、この機に根拠となる元号法とともに廃止する勇断をすべきだと思う。みなさんの意見を知りたい。」(2017年1月18日つ付け朝日新聞、『声』欄、H氏)

 その後のことだが、2019年には、それまでの元号「平成」が、「令和」になり変わった。以来、これを「西暦」に替え第一に用いたり、唱えたりする向きがかなり多いようだ。もちろん、私生活では、これまで道り各人の自由にすればよいのだが、社会で時をいう場合には、不便さがつきまとう。

 それというのも、21世紀に入った現代では、「西暦」はもはや「世界暦」として大抵の国や国際機関で用いられている。東洋の、我が国に近くでは、中国や朝鮮の二つの国もそうしている。この道理とは、すでに1970年の大内兵衛も提唱したのであって、今さらのことではない。かれは、当時、保守層からも一目おかれる存在としてあり、国際感覚にも長けていた。

 しかして、時代は変わったのかもしれないが、その変わりようが、日本人の国際感覚の後退と軌を一つにしていると思う。あの中華思想であった中国でさえ、現在に通じる建国後は、「世界暦」を用いている。かの国のような、「四千年」の歴史を世界に認められているところがそうなのに、文明ということでは、その半分かそこらの歴史しか持っていない我が国が、なぜ「日本暦」にこだわり続けるのであろうか。

 ちなみに、仏教学者の中村元(なかむらはじめ)は、我が国ではじめて仏陀の肉声を体系的に伝えた。その彼は評論にて、日本人の権威や権力に対しての受動性、その民族としてのひ弱な特徴を指摘している。彼の偉大なところは、最晩年において、日本の伝統的な「縦社会」の中での、天皇を頂点とする、人間存在のクラス分け(この場合、天皇その人はその体制的な人間支配に利用されているのではないか)に、あえて警鐘を鳴らす一筆を投じたことにあろう。

 そこでもし、元号の制度が、これからの日本、日本人の精神世界を狭める傾向を持つとするならば、憲法がこの国の主権者であると認める日本国民は、これの暴走に民主的な方法で、その運用に歯止めをかけるべきではないか。かの福沢諭吉の、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とは、額面道りの解釈であらねばなるまい。

 はたして、この種の問題は、優れて日本の文化と関わりがあろう。それらは、国民の間で大いに議論すべきであって、立憲君主制ではなく国民主権の戦後体制の今、遠慮すべきではあるまい。国の未来は、国民自身が責任を持って切り開いていくべきものだろう。

 元号法制化からはや30年以上が経過し、世界での日本を取り巻く状況も大きく変わった。元号も日本と日本人の持つ一つの文化であるというだけで模様眺めでいるなら、これを巡っての変化はこれから、さらに大きなものになっていくであろう。

 また、これに関連した出来事として、この度の天皇の即位式についても、簡単に触れたい。それというのも、新たな天皇が2019年10月の「即位礼正殿の儀」で昇った「高御座」(たかみくら)というのは、八角屋根の頂点に、鳳凰(ほうおう)という中国古典に出てくる伝説上の生き物がくっ付けてあると伝わる。

 参考までに、これまでは、天皇の代がわりの際に挙行されてきた最初の新嘗祭(にいなめさい)のことを「大嘗祭」(だいじょうさい)といい習わしてきた。国家と人民の安寧や「五穀豊穣」を願って行う、とされてきた。そして、かかる儀式に用いられる主要な舞台が高御座なのであって、これに新天皇が昇って即位の儀式を行う。その大元をたどれば、中国の古代王朝が代がわりに泰山に登り行っていた「封禅の儀」なのであろうか。今回のそれの高さは約6.5メートル、重さは約8トンもあるというから、驚きだ。

 ついては、8世紀になりまとまる日本神話との関係にて、この一大構築物が天上世界とを繋げる空間だというのなら、もはやこの地球上の物理法則は役に立たないであろう。そればかりか、これを作らせたのは時の政府であり、国税が投入されたというのであって、そうなれば憲法で定められている政教分離との関係はどうなるのだろうか。

 ちなみに、これを擁護する説からは、「大嘗祭は皇位継承に不可欠な伝統儀式を行うことが目的で、効果も特定宗教の援助に当たらないから、憲法違反ではない」(日大名誉教授の百地章氏の弁、2019年11月15日付け毎日新聞での4人の専門家へのインタビューから抜粋)という。だが、このような論理付けでもって人々を説得できるほど、世界は狭くない、近代世界では文句なしの政教分離なのであって、決して通用しないであろう(たとえば、アメリカ第2代大統領ジェファーソンの所見を参照されたい)。

 また、これを「現実にはあり得ない」とする人(筆者を含む)の中には、「表だっていえば、睨まれる」と非公式な場を選んで述べたり、「真実を語ると我が身が危なくなる」、さらには「生きるため」肩をすぼめているしかないなどと、心配げに語る人もいるなどして、今更ながら、この国は「時代閉塞」に向かっているかのような感じがしてならない。

 もう一つ、いわゆる国旗国歌法(こっきこっかほう)は、1999年8月13日に公布・即日施行された。
 「第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
附則、施行期日の指定、商船規則(明治3年太政官布告第57号)の廃止、商船規則による旧形式の日章旗の経過措置。
別記 日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲。」
 国旗は、平たくいうと「日の丸」で、要は太陽によって命を吹き込まれている国という意味合いであろうか。デザインや単なる配置のことではない。大まかな輪郭として、この国の太陽との関わりの一断面を切り取って図案化したものだと考えている。
 もう一つの国歌を巡っては、賛否両論がある。戦後、純粋な音楽論を展開してきたのは、多くは反対論の側であって、その一つにこうある。
 「よい楽曲は、言葉(歌詞)とメロディーがよく合っていて、自然に聞こえなければなりません。海が膿(うみ)になっては困ります。これを歌うと、君が代は、でなくてどうしても君がぁ用は、と聞こえます。それに音楽的フレーズが、千代に八千代にさざれ、で切れて、さざれ石という言葉が、さざれ、と石、と真中で割れてしまうように、歌われやすいのです。最後の所、こけのむすまで、が、むうすうまああで、と無理な引き伸ばしが、さらにこの曲を不自然なものにしています。

 要するに、歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎるので、無理に引き伸ばしているのです。ですから、この曲を大勢で歌うと、お経のように意味がわからなくて、間のびした、だらしのない感じになってしまいます。」(中田喜直『メロディーの作り方』音楽之友社刊)
 ここに述べられるのは、楽曲としての『君が代』には、「歌詞の長さとメロディーの長さが全くつりあわず、メロディーに較べて歌詞が身近すぎる」という、作曲の上での問題が認められる、だから、『君が代』は歌としていい歌ではないことになっている。要するに、日本伝統の音楽というのは自然に歌え、かつ意味が通じるものなのであって、『君が代』が日本伝統の音楽であるというのは間違いだ、というのである。
 その一方で、『君が代』の歌詞は、雅楽朝のメロディーであってこそ冴(さ)え冴えとする、という擁護論がある。また、既に長いことこの歌を耳にし、時には歌っている向きにあっては、「親しみが感じられる」「馴染みがある」との声も根強くあることだろう。

 げんに、オリンピックの表彰式で日の丸が掲揚され、国歌のメロデイーが流される時、それを口ずさんでいる国民は、相当数おられるのではないかと推測する。それでも、この歌の歌詞が、人びとが権威にひれ伏す類から完全に逃れているとは言い難い。また、メロディーも、日本の山河や晴れたる平野の美しさなりを思い起こさせてくれるような響きがあればよいのだが、それがない。

 やはり、国歌というのは、この先の大いなる国民の経験の中で(それには、いみじくも先の東日本大震災において、秀麗な「花は咲く」の歌が自然に広まったようにして)、国民の大いなる体験とその中から生まれるであろう、国民総意の見守る中で創られてゆくものではないかと考えられるのである。


(続く)

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◻️44の2の2『岡山の今昔』豪商による藩財政の立て直し(岡山藩、1776~1790)

2019-12-30 21:07:19 | Weblog

44の2の2『岡山の今昔』豪商による藩財政の立て直し(岡山藩、1776~1790)

 岡山藩においても、天明年間(1781~1789)は、多難な時期であった。1786年(天明6年)に上道郡海面村(現在の岡山市東区)と和気郡八木村の農民が、凶作を理由に、租税減免を訴える。藩は、諸藩での不穏な動きをも考慮したものと見え、「八厘減免」で事態を収拾する。
 とはいえ、城下では、物価を安定させるための取り組みを急ぐ必要が増しつつあった。その中でも、「町方は、物価を安定させるため銀札の下落を防ぐことが急務であった。豪商の協力を得て、商用の銀の売り出し、銀札二百十貫目の焼却などによって銀札の下落をくいとめようとしたが、あまり効果はなかった」(片山新助「岡山の町人」岡山文庫117、日本文教出版、1980)と語られる。
 そういう次第から、藩は、札場の立て直しを藩内の豪商に相談した。これには五人の豪商が応じ、1787年末、札場立て直しの企画書を提出したといい、その主な内容としては、豪商を札場の実質的な管理人に押し上げるものだったと推測されている(同)。これを例えるなら、1732年(享保17年)の広島藩が地元豪商に札場の再建を託したのが、頭をよぎったであろうか。
 これを決断したのは、藩主の池田治政とみられ、五人の豪商を新設の銀元(ぎんもと)に任命するとともに、1778年(天明8年)の途中から高額十匁(もんめ)札の新規発行などを決めるも、新札の製造が間に合わず、新札と旧札との混在となる。それでも、新札については銀と交換でき、また旧札は銀札の4割の相場にて交換できることにしたという。
 とはいっても、これを実効のあるものとするには、札場のバックアップが不可欠であり、まずは銀元五人が大量の金と銀を同場のために調達しなければならない。そこで、かれらの手で札場立て直し用に融資されたのは、金にて三万位、銀で換算すると1770貫であったというのだが、これだけでは足らない。そこで札場としては、どうしても、大坂の銀主である鴻池両替店にその足らない分をなんとか融資してもらいたい。
 そういうことで大坂に交渉に行ったのは、銀元の一人、藤田安之介であり、鴻池に事情を説明して「出銀」を請う。その願いが通じたのであろうか、新札の流通、そして旧札の相場はひとまず安定に向かったようだ。

(続く)

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◻️120の2『岡山の今昔』ベンガラ、炭など

2019-12-29 20:58:32 | Weblog

120の2『岡山の今昔』ベンガラ、炭など

 また、吹屋は、重要伝統的建造物群保存地区に認定されている。そこで一番有名なのは、明治から大正時代にかけて、酸化第二鉄を主成分とするベンガラの生産が盛んにおこなわれた。その原料としては、この地方でとれる磁硫鉄鉱という鉱物であった。陶器や漆器の顔料に用いたり、防腐剤としての用途もあったらしい。
 当地のベンガラは、馬の荷駄となったりして、吹屋往来を通って成羽の廻船問屋(かいせんとんや)に運ばれた。それからは、高瀬舟に積まれて成羽川そして高梁川を下って、玉島港(現在は倉敷市か)から大坂などへ向かった。
 ちなみに、この町には、ベンガラ工場を忠実に再現したしたという、ベンガラ館がある。また、ベンガラの製造、販売で財をなした片山家の屋敷や、ベンガラの原料であるローハ製造て財を築いた広兼邸、「赤の中の赤」を追及してベンガラ製造を発展させた西江邸など、かつてを偲ばせる建物などが残っている。

 さらに、山間地で炭が生産され、それが高瀬舟などで運ばれ、南の消費地に運ばれていたようだ。その炭というのは、木材や竹材を密閉空間としての炉や穴に入れたうえ、火をつけ、材木を炭化してつくる。それからは、小さな穴を開けておく他は、土などで空気穴をほとんどふさぐ。そのことで、化学的には、木材や竹材を還元条件でつくる、つまり、木や竹を燃やしつつも、空気の少ない、ギリギリの状態で燃焼させることで、それらを炭素原子ばかりの状態に持っていく訳だ。それが、現代でいう「備長炭」(びんちょうたん)のような良質な産地を形成していたかどうかは、よくわからない。 
 とはいえ、高価で売れる備長炭にするには、かなりの高温を実現するのが必要にして、なおかつ、最後は炎のつくる余熱、いうなれば熱風で摂氏1000度からの温度が必要とのことであり、それらの頃合いは「匂い」とかを頼りに見いだすしかないようだ。


(続く)

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◻️2『岡山の今昔』吉備の三大河川

2019-12-27 19:57:13 | Weblog

2『岡山の今昔』吉備の三大河川

 そういえば、瀬戸内を西へと進んできた人びとが、そのまま播磨へと通り抜けずに、内陸部へ向かっていった、またはその逆があったろう。その際には、さしあたり高梁川(たかはしがわ)、旭川(あさひかわ)、そして吉井川(よしいがわ)の三大河川に沿って北上していったのではないかと想像される。)(中略)
 あるいは、東の方からやってきた人々が、吉井川が瀬戸内海に注ぐ地点、岡山の九蟠(くばん、岡山市と合併する前は西大寺市(さいだいじし)、1969年に岡山市になる)から出発し、児島湾の東端河口からほぼ北上することもあったろう。

 現在の和気郡和気町(わけぐんわけちょう)の辺りで金剛川などの支流と別れ、赤磐市(あかいわし)の辺りで吉野川と分かれる。それからは、吉備高原(きびこうげん)の谷底平野に向かって北上する。この辺りまでの、吉井川は、旭川の東10キロメートルほどのところを流れている。
 それからもまた、人々は北上していく。1960年(昭和35年)から1997年(平成年)に倉敷に移転するまで、津山作陽音楽大学のあった津山市横山(よこやま)まで遡ったところで、北東から流れてきた吉井川と合流する。その後はU字形の蛇行(北から西へ)を描いて、進路を西にとる。このU字形をとっているところは昔から河畔を含め50メートルを超すくらいの川幅となっていて、その深い淵の底には「ごんご」という魔物が棲みついている、と言われてきた。
 今度は津山盆地から吉井川に沿って西にたどって行こう。これは、出雲街道を西へと辿ることでもある。すると、院庄(いんのしょう)と到達する。吉井川は、このあたりから北へと遡る。そこから10キロメートルばかり西には旭川が流れており、この二つの川に挟まれた地域(現在の久米郡久米町、その南に久米郡旭町がある)に古代の人々は到達し、そこかしこに定住していったのではないか。
 そこからの吉井川は、津山盆地を横切って、しだいに美作の地を離れていく。西への行程で香我美川(かがみがわ)や加茂川といった支流とたもとを分かち、なおも西流してから再び北へと遡る。現在で言うと、国道179号線沿いといったところか。やがて奥津渓谷(おくつけいこく)を抜けたあと、英田郡鏡野町上斎原(あいだぐんかみさいばらむら)に至る。そして、この村の、鳥取県との県境近くの三国山(みくにやま、標高1252メートル)の山間が源流とされている。

 これを北から南に向かっての話にまとめると、吉井川は、岡山県の東部を流れ、幹川延長が約133キロメートル、支川を含むと1061.1キロメートルあるその。流域面積としては、2110平方キロメートルだという。加茂川、吉野川等214の支川を合わせる形にて、津山市、久米郡、赤磐市、瀬戸内市を経て、岡山市の西大寺地区に至り、ほどなく児島湾へ注ぐ。吉井川水系での、岡山県土木部が所管するダムは、八塔寺ダム、津川ダムのほか、国(国土交通省が管轄)のダムとして、苫田(とまた)ダムが設けられている。
 これらのうち苫田ダム(鏡野)の建設では、紆余曲折があったことで知られる。21世紀にはいりダムが建設、完成するまで、約40年にわたる反対運動が続く。立ち退きを迫られたのは504世帯だともされる。これには、奥津町の役場も反対した程だ。1957年に国による計画がスッバ抜かれる。1986年からは、国や県当局による「きり崩し」などもあり、賛成派、慎重派、反対派が入り乱れていく。

 そんな中、当初は建設反対派であった奥津町当局も、1990年にはその旗を下ろす。1994年の奥津町議会も、これに同調する。2001年には、最後の水没地地権者が立ち退き契約にサインし、2003年にはすべての地権者が移転する。
 総工費は、約2035億円とのこと。主な用途としては治水や「利水」か言われるのだが、2019年現在も、計画に比べ水の需要が高まらない。供給できる水量は日量で40万トンとも。県や市町村でつくる県広域水道企業団が、県内の市町村に水を売る仕組みとなっているのだが、岡山市も含め買い手の顔は渋いという。企業団は、ダム建設費の一部を借金しているので、経営が苦しいという。

 次なる旭川は、岡山県の中央部を流れる。その幹川延長としては、約142キロメートル、それに流れ込む支川を含むと825.3キロメートルある。流域面積は、1810平方メートルだ。源流があるのは、鳥取県境の真庭市蒜山の朝鍋鷲ヶ山であって、その標高1081メートルの山懐に発す。それからは、新庄川、備中川、宇甘川等146もの支川からの水を合わせ、久米郡を経る頃には大きな流れとなり、やがては岡山と同市内の岡山城を通って児島湾へ注ぐ。
 しかして、この旭川水系での、土木部所管ダムは、湯原ダム、旭川ダム、鳴滝ダム、竹谷ダム、河平ダムがつくられている。これらのうち旭川には、1954年(昭和29年)に旭川ダムが完成し、発電が始まる。
 そこで、こちらのダムにちなんでの楽しい話を一つ拾うと、次のものがある。

 「岡山県美咲町の旭川ダム湖に“冬の使者”として知られるオシドリの群れが飛来した。時折、甲高い鳴き声を山あいに響かせ、水面を優雅に泳いでいる。

 カモの仲間で体長40~50センチほど。地味な灰褐色の雌に対し、雄は銀杏羽(いちょうば)と呼ばれる鮮やかなオレンジ色の羽を持ち、愛鳥家に人気が高い。岡山県内では主に中北部の渓流や山間部の池で見られ、餌のドングリが豊富な旭川ダム湖周辺も越冬地となっている。」(2019年11月18日、 山陽新聞デジタル)

 このオシドリだが、元来寒いところを好むのであろうか、日本の春から秋にかけては中国東北部、ウスリー(シベリア東南部)、サハリンなどに分布して暮らし、繁殖してからの日本の冬、こちらの各地に飛来してくるという。果たして、「観光大使」になってくれるのだろうか。

 さらに、西方を瀬戸内海へ向けて流れる高梁川は、標高1188メートルの花見山(新見市)に源を発し、大まかには南に向かって111キロメートルを下り、瀬戸内海に注ぐ一級河川だ。その流れの特徴としては、中流域にては、カルスト台地を貫通するため、カルシウムを含む。なので、その道筋の至るところで断崖、絶壁の類いの地形をみることができる。それらに目を奪われ、魅せられての文学、絵画といった作品が多いのも、この川ならではの物語を現代人にかもし出す。

 そしての下流域には、上流から運ぶ大量の土砂が積み重なり、肥沃な土壌を形成してきている。このあたりまで来ると、高梁川を水源とする現代の10市町で、農業から鉱業、工業などにいたるまで幅広くに人びとに生活の糧を与えてきた。
 ここで留意されたいのは、今から200年より少し前までの高梁川は、酒津のあたりで東西に分かれて、それぞれ瀬戸内海に注いでいた。そんなこの川を酒津で締め切り水路を設けて一本化しようとの計画が明治末期の政府により、立てられた。それから、18年の歳月をかけ1925年(大正14年)に工事が完成し、川の流れは一本化された。

 ちなみに、郷土の詩人永瀬清子は、一編の詩をこの川に寄せている。

「高い切り崖(ぎし)にはさまれた高梁川は/気性のいさぎよい末の娘/奇(めず)らしい石灰岩のたたずまいに/白いしぶきが、虹となる/山々はカナリアの柔毛のように/若葉が燃えだし/焔(ほのお)のように紅葉がいろどる/そそり立つ岩壁の足もとに/碧(あお)い珠玉(たま)をところどころに抱いて/歴史をちりばめ、地誌を飾り/いつもお前の魅力は尽きない。」


(続く)

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◻️269の1『岡山の今昔』南海地震(1946)

2019-12-26 20:17:32 | Weblog

269の1『岡山の今昔』南海地震(1946)

 ここに南海トラフというのは、日本列島がある大陸(ユーラシア)プレートの下に、フィリピン海プレートが南側から年間数センチメートルの割合で沈み込んでいる場所(境界)だ。かかるプレートの沈み込みに伴い、それに引きずられる形で両プレートの境界にひずみが蓄積していく。その蓄積された歪みを解放するものとして大地震が発生してきた。
 現在に一番近いところでは、1946年(昭和21年)12月21日午前4時20分頃に起きた昭和南海地震が挙げられよう。その規模は、マグニチュード8.0と言われる。また、震源地としては、南海トラフの紀伊半島から四国沖沖だとされる。三重県や高知県、それに瀬戸内海に沿っての兵庫県淡路島や岡山で震度4~6の激しい揺れを観測したとのこと。
 その被害は甚大で、
約1万1500戸が全壊、1350人もの死者が出たと伝わる。大揺れのほか、津波による被害も大きく、静岡から紀伊半島、四国を経由して九州に至る太平洋岸には、30分~40分後には、津波が押し寄せる。
 中でも、三重から徳島、高知にかけての沿岸に押し寄せた波は、高さが4~6メートルにもなったという。そればかりか、室戸から紀伊半島にかけては南上がりの隆起を呈し、特に室戸(むろと)と潮岬(しおのみさき)での隆起はそれぞれ1.3~0.7メートルになったという。一方、高知県の須崎(すざき)あたりでは、それらと同程度の沈降があり、わけても高知付近の平地では、田園約15平方キロメートルが海面下に沈んでしまったらしい。
 このように和歌山県潮岬南方沖を震源に発生した南海地震なのだが、太平洋とは直接に接していない、瀬戸内海沿岸の地域においても、大きな被害が出た。なぜそうなったのか、その詳しいメカニズムについては、必ずしも明らかになっていないのではないか。
 例えば、岡山県では、児島湾周辺の干拓地、高梁川下流域の新生地、笠岡湾沿岸など、県南の平野部一帯に軟弱地盤地域の液状化によって地盤沈下が生じる。その時からの模様は、「地震時に沈降した高知平野は急速に隆起する一方、瀬戸内海沿岸部が地震後5年程度で最大50センチメートル程度沈降したというから、なんとも不思議だ。

 岡山県では、この地震により、死者52名、負傷者157人、建物でいうと全壊が約1200戸、半壊が2346戸の被害が出たという。その他、堤防や道路などの損壊がかなりの数に及んだことになっている。


(続く)

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◻️123の1『岡山の今昔』岡山市(明治から現在、その全体)

2019-12-26 10:31:51 | Weblog
123の1『岡山の今昔』岡山市(明治から現在、その全体)

 1871年(明治4年)に廃藩置県の令が発布され、岡山藩は岡山県になり、県庁が設置される。それからは、幾つか周りの県を吸収していく。
 1889年(明治22年)6月、面積5.77平方キロメートル、人口4万7564人で市制を施行、「岡山市」が成る。以後、山陽鉄道の開通や第六高等学校・医科大学の開学などもあって、岡山市は政治経済から交通、教育文化、医療などまで、さまざまな都市機能を備えた、岡山県の中心都市として発展していく。
 戦後になっての1969年(昭和44年)には、西大寺市との合併があった。その西大寺市は上道郡、邑久郡に属していた町村(一部)が合併して1953年(昭和28年)に誕生して以来、しだいに岡山市のベッドタウン化していたこともあり、岡山市との合併に活路を求めたのようで、その後は岡山市東区西大寺地区となる。
 1971年(昭和46年)には、9町村(一宮町、津高町、高松町、吉備町、妹尾町、福田村、上道町、興除村、足守町) との合併が行われる。1975年(昭和50年)には、藤田村との合併が実現する。
 このような市域の拡大に合わせるかのように、交通の便利も、飛躍的によくなっていく。1972年(昭和47年)には、高度成長期の波に乗っての山陽新幹線が開通する。人口は、50万人を超える。この間、瀬戸大橋、岡山空港、山陽自動車道、岡山自動車道など広域高速交通網の整備が進む。
 交通での特色としては、「オカデン」こと、岡山電気軌道の路面電車が便利であろう。開業されたのは、1912年(明治45年)5月5日だと聞く。当時の路線は、岡山駅前~上之町(現城下)及び番町線の一部であったという。それが、同年6月に西大寺町まで延長された。1923(大正12)年7月になると、メインの東山本線が旭川を越えて東山まで開通する。それから、清輝橋線(せいきばしせん)の開業は1928年(昭和3年)3月ながら、清輝橋まで路線が延びたのは1946年(昭和21年)年9月のことであったという。
 
 聞けば、1968年(昭和43年)5月には、上之町から北に延びる番町線が廃止された。それからは、2019年の現在に至るまで路線の変化はないとのこと。今は、3.1キロメートルの東山本線と、途中で別れて南へ向かう1.6キロメートルの清輝橋線、二つ合わせて総延長4.7キロメートルの規模だという。
 参考までに、停車駅を並べ、おおよその位置関係を述べておこう。東山線は、西川緑道から柳川、ついで城下、県庁通り、西大寺町、小橋、中納言、門田屋敷とやって来て、東山が終点だ。
 二つ目の清輝橋線の方は、柳川までは同じで、そこを過ぎて直ぐに右折して行路を南へとる。郵便局前から田町、新西大寺町筋、大雲寺前、東中央町(市民病院入口)を経て、清輝橋に電車は滑り込む。
 およそこれだけをいうならば、限られた範囲での小さな営業ということで済まされるかもしれない。けれども、岡山駅を起点に市内の主要な場所を繋ぎ、なおかつ、乗客となりては路面電車でしか味わえない楽しみも多々ある。これまで数度しか乗っていないにも関わらず、はや「わが街」との思いにも浸ることができる、不思議だ。
 それから、2005年3月には、御津町、灘崎町と、2007年1月には建部町、瀬戸町とそれぞれ合併し、発展していく。市域面積は789.95平方キロメートル、旧備前国、備中国、美作国3カ国にまたがる広大な市域に、約70万人を擁するにいたる。そして迎えた2009年4月1日には、全国で18番目の政令指定都市になる。
 市内には、北区、東区、中区そして南区の四つの行政区がある。まずは北区だが、その範囲は広く、岡山市街地の中心部から旧御津町、旧建部町までの広い範囲にわたる。岡山駅前や県庁、市役所などの行政機関があり、また人口でも市の中心をなす。市役所内に区役所がある。
 また、中区は、町の中心部ということではなく、4つの区に分けたときに真ん中だからこう呼ばれるという。面積は最小で人口密度は最大だ。
 さらに、東区は、西大寺地区(1967年までは西大寺市だった)や旧瀬戸町を合わせた領域だ。
 それから南区は、南へ向かって児島湾埋立地までを含む。幹線道路としての国道30号線は住民の動線として利用されている。また鉄道は、JR西日本の宇野線や本四備讃線が通っており、玉野市や倉敷市方面へ通じるほか、バスも充実しているという。

 観光では、瀬戸内海国立公園に含まれる金甲山や貝殻山が、近世以来名高い。金甲山は標高403メートルの山で、展望台から瀬戸内海や香川県を見ることができる。他にも岡山市サウスヴィレッジやなださきレークサイドパーク、岡山ふれあいセンター、さらに岡山市総合文化体育館や小串スポーツ広場といった大型のスポーツ施設も備わる。

 産業としては、岡南工業地帯を構成している。戦後の農地改革で、海沿い、岡山港までの広範な地域に、軽工業や運輸、倉庫などの工場が並び、水島地区と並び岡山県最大規模の活動。また、農業が盛んで、米や麦に始まり、スイートピー、千両ナス、レンコン、レタスなどが栽培されているとのこと。さらに、区内の国道30号沿線などには住宅街が形成されており、若者層の定着が進む先進地域だ。
 このように大都市として発展著しい岡山市ながら、多様な問題を抱えているという。まずは、合併絡みでこんな話が持ちあがっている。
 「岡山市北区の「福渡病院は、深い緑の山並みに囲まれた52床の小さな公立病院だ。「肝臓の数値が悪いね」。10月末の診察室。塩田哲也院長は耳に補聴器を付けた男性患者(85)にかおを近づけ、検査結果をゆっくりと伝えた。
 福渡病院はもともと岡山市に隣接する久米南町と旧建部まで運営され、自治体合併で住所が岡山市になった。大病院の集まる市中心部から車で30分以上。高齢者の肺炎や骨折、人口透析など幅広く対応するが、地域の過疎化で患者は減っている。介護施設が増え高齢者の長期入院が減ったこともあり、昨年度の病床数は35%にとどまる。とはいえ、住民には大事な医療機関だ。(中略)
 病院には2市町から年間2億円の公金が投入されるが、赤字が続く。(中略)国がリスト化したのは、公立病院と国立病院機構や赤十字などの公立病院のうち、重症患者を扱う「急性期」病床を持ちながら急性期の診実績が少ないと判断した病院で、地域事情は考慮していない。」(「毎日新聞」2019年11月12日付け)
 
(続く)

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◻️232の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森本慶三)

2019-12-25 10:41:38 | Weblog

232の18『岡山の今昔』岡山人(20世紀、森本慶三)

 森本慶三(もりもとけいぞう、1875~1964)は、無教会キリスト者の事業家だ。津山伏見町(現在の津山市)の呉服商の家の生まれ。裕福な家庭環境ながら、多感な子供であったようだ。1884年(明治27年)には、京都府立一中を卒業する。
 兄が夭折していたので家業を継ぐ。内村鑑三のキリスト教信仰に惹かれ1890年(明治33年)に上京する。1895年(明治38年)に、東京帝国大学農科大学を卒業すると、香川県と岡山県の農業技師になる。それからは、故郷に戻り、再び家業に従事する。
 1900年(明治43年)には、呉服商を廃業する。やりたいことを暖めていたようだ。1926年(大正15年)には、津山基督教図書館を設立する。その1月3日の内村鑑三の日記には、はるばるこの地にやって来た。そして、「地は高く、山陰道に隣し、風雪が時々襲来し、寒気が強い」と感じつつも、参会者200人あまりの盛況であった由(よし)、津山キリスト教図書館の開館式が行われた中、自身が賛辞を述べたと記す。

 大戦中は、戦争と距離をおきつつ過ごす。戦後になっての1950年(昭和25年)には、津山基督教学園を創立する。1963年(昭和38年)には、津山科学教育博物館を開館する。写真で見る表情には穏やかながらも、内面に某かの闘志を暖めているかのようで興味深い。

(続く)

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◻️3の2『岡山の今昔』旧石器・新石器・縄文・弥生時代の吉備社会の構造

2019-12-23 22:21:47 | Weblog

3の2『岡山の今昔』旧石器・新石器・縄文・弥生時代の吉備社会の構造

 そもそも、このあたりの生活の最初は、最終氷期が終わり、間氷期が始まった頃であろうか、一説には、約1万3000年BP(西暦にして今や世界暦2000年を基準、すなわち0(ゼロ)BP(Before  Present)とする表記。これは、考古学や地質学の用語で、2000年を「現在」とする年代測定の単位。放射性同位元素や地層などによる測定法をいい、「2000 years BP」のように略語のBPを後置するのが習わし)から始まったのではないかと見られているようだ。
 そのあたりを、旧石器時代(約1万5000年BP~約1万3000年BP)とそれ以降の新石器時代(地質学の文献に、この時代は取り上げられていない場合が見られる)及び縄文時代(約1万3000年BP~約3000年BP)との境界と考える向きもあろう。なお、北海道と沖縄では、縄文時代からの年代の定義が相当に異なることになっている。

 おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、例えば、大まかに北(日本海側)からと西(瀬戸内海側)からの渡来ルートのうち、前者の道、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。
 ちなみに、この列島に最初の人々が到来したのは、約3万8千年前ともされている。かりにそうであれば、このあたりにもほどなくやって来ていたのではないか。ちなみに、国立科学博物館の見解(2016)によると、人類がこの列島に渡ったの道筋としては、第一に北海道ルート(2万5千年前頃)、第二に対馬からのルート(3万8千年前頃)、第三に沖縄ルート(3万年前頃)が考えられるとのこと。なお、同館では、「クラウトファンティング」の助けを借りて、三番目のルートで実証を試みているという。

 やがての弥生時代(約3000年BP~1800BP、その後には古墳時代)の中期(紀元前400年位~紀元前後)にさしかかるまでは、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。

 それでは、こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の到来にはいたっていない頃は、どのようにして暮らしていたのだろうか。例えば、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
 そんな彼らの活動の規定的要因となっていたであろう社会のあり方につについては、ここで文化人類学者のジャレド-ダイヤモンド(「銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎」)によりたい。彼によると、人間社会は、最初の「小規模血縁集団(バンド)」から「部族社会(トライブ)」、「首長制社会(チーフダム)」、そして「国家(ステイト)」へと発展してきた。
 このカテゴリー分類でいうと、私たちが今問題にしている、本格的農耕以前の社会というのは、「部族社会」か、精々首長制社会までの範囲のものであったのではないだろうか。それというのも、首長の統治する社会では、人々は村落数が一つもしきは複数集まっての定住生活を営んでいた。その社会の基本的関係とは、階級化された地域集団にして、大局的な意思決定は集権的・世襲的なものであったもの、官僚組織はまだないか、あっても精々一つか二つ位であったのではないか。


(続く)

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◻️211の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐々廉平)

2019-12-23 21:06:12 | Weblog

211の8『岡山の今昔』岡山人(20世紀、佐々廉平)

 佐々廉平 (さっされんぺい、1884 ~1979 )は、医師。津山市湯郷生まれ。  湯郷尋常小学校から勝間田高等小学校業に通う。その後は、津山中学校に入学する。ところが、その途中にして、「医者になれ」と父親に言われ退学だというから、驚きだ。 
 静岡県で開業していた親類の眼科医に寄宿し、医学を学ぶ。内務省の医術開業試験の前期試験に挑戦して、合格する。 後期試験は臨床の学科、実地があり、それも合格する。18歳だったという。けれども、医師開業免状は20歳にならないともらえず年が足りない。 
 そこで、今度は一高を経て東京帝国大学へと進む。内科教室(青山胤通教授)に入局し、内科医を目指す。秀才を認められていたのであろうか、 国費でミュンヘンとウィーンへ留学する。
 約2年半後に日本に帰国する。そして迎えた 1914年(大正3年)には、東京 神田の名門杏雲堂病院の心臓、腎臓、新陳代謝科の科長として迎えられる。 それからは、国内でも数少ない心臓、脳卒中、腎臓の専門医として名を馳せるかたわら、一般向けにも医学を啓蒙していく。
 そんな中でも、日本腎臓学会誌一巻一号に見える佐々77歳の時の記念講演においては、「ウィーン大学の内科臨床講義で心臓病、腎臓病、糖尿病などを勉強して帰ったが、生涯で一番腎臓病に親しみを持っておりました」と話す。

 その集大成であるかのように、「medicina」 1巻2号 (1964年5月)中の「佐々廉平氏に聞く」(発行は1964年)には、こうあるという。

 「臨床家の心がけなければならないことはまず懇切ていねいということですね。そのつぎには、日進月歩の進歩に遅れないようにすることです。それには本や雑誌を読むことが必要です。読んでわからんところは先輩に聞くとかして、不審なことをそのままにしておかないで、はっきりさせないといけません。
 不審なことは多いものですから、そのままにしておきますと、年中わからんということになります。ところが、いまは健保の診療ですから、数が相当ないとやってゆけない、したがって急ぐ、懇切ていねいにできない、また勉強する時間もないということになります。」
 と、なかなかに味わい深い言葉でもって、医学のみならず、他の道にも通じる案内人の役割を果たしているかのよう。


(続く)

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◻️145『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線(児島~下津井、倉敷~下津井)

2019-12-22 08:34:45 | Weblog

145『岡山の今昔』瀬戸大橋線沿線(児島~下津井、倉敷~下津井)

   児島駅を出発して市街をしばらく走ると、列車は鷲羽山(わしゅうざん、倉敷市)トンネルに入る。
 鷲羽山は、瀬戸内でも有数の景勝地とされる。児島半島の南端付近、備讃瀬戸に乗り出すような地形の先端にある。標高133メートルの山が、海面から屹立している。山姿が類稀である。両翼を広げ大空を羽ばたいている鷲に見えるとことから、江戸時代中頃に誰彼となくこの名が付けられた。

 ごつごつした岩石肌の露わな山頂の「錘秀峰」からは、180度ある程の広角度で見晴らしがよい。ここから見下ろす風景は、文豪・徳富蘇峰により「内海の秀麗ここに集まる」と絶賛された。

 それというのも、かかる山の全体が、1930年(昭和5年)に「下津井鷲羽山」として国指定名勝に指定、さらに1934年(昭和9年)には、この地区を含む瀬戸内海一帯が日本最初の国立公園「瀬戸内海国立公園」に指定された。
 この辺り、霞がかっていない日には、瀬戸内海に浮かぶ釜島、櫃石島、六口島、松島、与島、本島、広島、豊島などの島々が眼下に広がって見えた筈だ。そして、それらの向こうには、四国の山々まで見渡たせたであろうか、あれは小学校の遠足時であったろうか、その時の記憶をたぐり寄せてみるのだが。

 もちろん、瀬戸大橋(児島・坂出ルート、瀬戸中央自動車道・JR本四備讃線⦆はなかった。それでもバスで鷲羽山に上る時、下るとき、あれは水島の工業地帯の海沿いの尖端部あたりであったのかもしれない。その時のきらきらした白いタンクや、赤白まだらな煙突群などをちりばめた光景が、あれから半世紀余が過ぎた今でも、ほとんど色褪せることなく脳裏に焼き付いて離れていない。
 このあたりの海は、古代、近世から明治の中期位までは、瀬戸内地域の天然の良港として栄えたことで知られる。向かって左、東側には田之浦(たのうら、倉敷市)が、向かって右の西側には下津井(しもつい、倉敷市)の港町である。ここで参考までに、1913年(大正2年)には、下津井軽便鉄道の茶屋町~下津井間が開通し、沿線に住む人々に利便であった。けれども、やがての乗客の減少のために、1972年(昭和47年)4月には茶屋町 - 児島間の14.5キロメートルの運航が廃止され、また1991年1月には児島から下津井の間が廃止されたことにより、下津井電鉄は鉄道事業から撤退した。

 後者の下津井は、東隣の田之浦と結んで、備前を通る西海航路の起点となっていた。江戸中期以降は北前船が盛んに寄港して交易していた。萩野家などの多数の問屋の蔵が建ち並んでいた。当時の遊山や金比羅参りへの中継地にもなっていて、当時四国へ向かう旅人の多くはここから讃岐へ渡っていたらしい。

 かのドイツ人医師のケンペルも、1691年(元禄4年)に長崎から瀬戸内海を経由して畿内そして江戸へ向かうおり、海上から下津井港を描いた、その絵を『江戸参加府記』に掲載している。

顧みれば、1640年(寛永17年)には、牛窓にもあった幕府の異国船遠見番所が下津井に出来た。1660年(万治3年)になると、さらに在番所が設けられたことで、海上警備や出入りの船の監視・取締まりが強化されていった。

 さらに、参勤交代にここを通る西国大名や将軍の代代わりにやってくる朝鮮使節団の接待の場所としても、あれやこれやで便宜であったらしい。さらには、漁港としてもなかなか羽振りが良かったようで、『下津井節』なる漁歌に、こうある。
 「1.下津井港はヨー、入りよて出よてヨー、まとも巻きてよ、よぎりよてヨー、トコハーイ トノエー、ナノエーソーレソレ。
 2.下津井港に、錨を入れりゃ、街の行灯(あんど)の灯(ひ)が招くよ(以下、略)」
 念のため、これに出てくる「まとも巻きてよ」とは、追い風をまともに受けて船が走ること、また「よぎりよてヨー」とは、向かい風に向かって船がジグザグに進んでいく様をいう。

 さて、本線に戻ろう。この鷲羽山トンネルを抜けると、いよいよ瀬戸大橋の始まりとなる。橋の構成は、6つの橋と4つの高架橋で本州と四国とを結ぶ。自動車道を通っての場合、橋を通って観光客が立ち寄れるのは、パーキングエリア(休憩所など)と観光施設が設置されている与島(よしま)とのことだ。

(続く)

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◻️232の17『岡山の今昔』岡山人(20世紀、棟田博)

2019-12-21 23:03:47 | Weblog

232の17『岡山の今昔』岡山人(20世紀、棟田博)

 棟田博(むねたひろし、1908~1988)は、小説家だ。英田郡倉敷町(現在の美作市)の伊藤家に生まれ。母の実家棟田家(現在の津山市)の養子となる。神戸市内の学校を卒業後、早稲田大学に入学する。
 ところが、中退してしまう。1932年(昭和12年)には、陸軍に招集される。岡山師団に配属され、中国戦線に出征する。翌年除州作戦中に戦傷を負い、帰還する。この時の経験を「分隊長の手記」として1939年(昭和14年)から雑誌に連載して、作家の道に入る。1942年(昭和17年)には、中国軍との戦場に取材しての「台児荘」で野間文芸奨励賞を受賞する、その場所をこう説明する

 「台児荘―という、何の変哲もない、支那の田舎の街の名を、かくまでに、忘れ得ず胸に肝にきざみこまれ彫りつけられようとは、いったい何処の誰が思っていたであらう。
 如何にも台児荘は、なんの変哲もない小さな街である。人口はやっと一万というところであつた。たゞ、こゝが、往昔からの古い城市であつたことは、その城壁が話して聞かせて呉れる。この街には惜しいほどのまさに端厳たる城壁である。」 
 まさに、棒漠たる大地に迷い込んだ、ということであったろうか。


 戦後になっては、何に拠るべを巡らせていたのだろうか、後に映画化される「拝啓天皇陛下様」などの拝啓シリーズを世に送り出していく。美作を題材にした小説「美作ノ国吉井川」(1971)も、ドラマ化される。後者の文中には、中国鉄道の列車の様子が温かな視線で、こう描いてある。
 「ビィーッという初めて聞く汽笛のかん高い音が、盆地の天と地を震わせ、皿山の山裾から五平太(石炭)の煙が勢いよく噴き上がり、汽車が姿を現在わしたのだった。ダンジリの囃子は、とっくにぴたっと止んでいた。」

(続く)

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◻️64の1の1『岡山の今昔』明治、大正時代の岡山市街

2019-12-21 22:20:02 | Weblog

64の1の1『岡山の今昔』明治、大正時代の岡山市街

 明治に入ると、岡山城下町は「岡山区」になりかわる。1889年(明治22年)6月には、岡山市となって、岡山県の中心にふさわしい位置づけられる。当時の市の面積は、5.77平方キロメートル、人口は4万7564人であったらしい。ちなみに、2019年現在の市の領域は、東西35.1キロメートル、南北は47.8キロメートルに拡大している。
 当時は、大まかには商業都市といってよいだろう。商店の数は、3487店あったというが、その大半は中小零細であった。
 続いての1891年(明治24年)には、山陽鉄道の三石~岡山市間が開通する。鉄路は、それまでの市街地よりもかなり北そして西へとずれることになっていく。現在でいうと、上町、中町それに下之町といったところか。
 このような市街地の広がりの中心となったのは、これまた商業であり、その象徴的な位置づけとされるのが、大規模店舗の出現であった。その代表格として語り継がれるのが「天満屋」であり、そもそもは、1829(文政12年)に、初代の伊原木茂兵衛が備前西大寺に「天満屋小間物店」を開く。その後の1896年(明治29年)には、呉服業にも進出して小売専業となる。
 商売のやり方も、正札販売といい、駆け引きにより値段を決めるのが当たり前の当時、「一厘もまけなし」の経営を打ち出す。1912年(大正元年)には、三代目当主の伊原木藻平が中之町(現在の北区表町一丁目)で支店を開く。1925(大正14年)には、下之町(現・北区表町二丁目)に本店舗を新築し、岡山初の百貨店へと発展していく。

 そればかりか、鉄道が船による人や物資の運搬になり代わり、主役を担うようになっていく。わけても、旭川に近い橋本町(現在の京橋町)は寂しくなっていく。
 そしての1910年(明治43年)には、岡山駅を起点にする、岡山電気軌道が創業し、1912年(大正45年)その名前の路面電車が開通となる。後日談だが、それ以来少しずつ路線を広げて現在の体制になるのは1968年(昭和43年)だ。これにより、岡山市の商業圏は南方面へも延びていく。


(続く)

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◻️192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大岡熊次郎)

2019-12-21 20:52:07 | Weblog

192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、大岡熊次郎)

 大岡熊次郎(おおおかくまじろう、1842~1920)は、美作国勝南郡池ケ原村(現在の津山市池ケ原)の地方政治家にして、この地方での郷土史家の先駆けでもあった。家は、元は宇喜田氏家臣にして、岡家といい、代々庄屋を務める。幕末期に中庄屋、郷吏正待遇兼津山藩外交掛をつとめ、精力的に働く。
 明治時代になっての1870年(明治3年)には、庄屋制度が廃止となる。1871年(明治4年)に北条県が発足すると、郡中用達に任命され、北条県第十番会議所副戸長(1872)、1873年第二十区、二十一戸長(1873)から、北条県会議員(1874)と要職をこなしていく。1876年に岡山県に合併すると、第八番会議所戸長(1876)、勝南郡役所の郡書記(1879)などを渡り歩く。
 それに、1882年(明治15年)に結成された美作自由党の委員としても活動していたというから、驚きだ。これへの歩みについては、まずは1881年(明治14年)2月の美作同盟会の結成に加わる。また、同年3月の美作親睦会が開催された時には、発起人の一人として、こんな弁舌をしている。
 「広く一国の精神を集結して民権、即ち吾人の自由を振張するにあるなり。元来我美作の国たる土地僻遠に位し、目に文明の物を視る希れに
、耳に開化の事を聴少なきを以て、人知の開進も随って其遅々たるを免れずといえども、亦又交際の広からざると奮発心の足らざるに由(よ)るなきを得んや。」云々と、格調が高い。

 その間、1888年(明治21年)からは、大岡に改姓する。その後、実業界にも打って出る。勝北勝南両郡蚕糸業組合長、山陽蚕種製造合資会社社長取締役を務める。とにもかくにも養蚕については、自宅に養蚕伝習所を設置する程の熱心さであったらしい。また、勝南勝北農事会を設立し幹事長となるなど、こちらの方面も何かと忙しい。 

 それらにおいては、およそ誰かに命じられたものであろうか、それとも任意の仕事ということであろうか、このあたりの政治の変遷を記すのにも怠りなく、公文書関係の記録を数多く残していく。圧巻は、明治政府の1888年(明治21年)度予算の書き写しだという。
 このような政治向きのもの以外にも、文芸を含め各種資料を写したものから、自作の詩文をまとめて「随筆」と名付けたり、季節に関わる記事、植物期節などもまとめているとのことであり、これまた驚かされる。

(続く)

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◻️59の3『岡山の今昔』電力とガスと水道

2019-12-20 21:52:48 | Weblog

59の3『岡山の今昔』電力とガスと水道


 まずは、岡山における電力事業の経緯から始めよう。1894年(明治27年)には、岡山電燈会社が設立される。
     1909年(明治42年)には、倉敷電燈会社が発足する。当初の電燈数は、641燈とのこと。その2か月後には、倉敷紡績での、自家発電所(火力)の増設に認可がおりる。同社は、それよりかなり前の1891年(明治24年)頃には、自家発電で工場の照明を行っていた。他社工場においても、動力としての電源を必要とするようになっていく。
 1910年(明治43年)、津山電気会社が操業を始める。水力を使う。当初の電灯数は、1442戸。
 1913年(大正元年)になると、倉敷電燈は、倉敷近郊の早島、妹尾地区に電気を供給していた中国電燈株式会社を吸収合併する。
 1913年(大正2年)6月時点での岡山県下では、倉敷電灯、津山電気会社、井原電気会社など、13もの電力会社があったという。
 1916年(大正5年)には、倉敷電燈と津山電気が合併して、備作電気会社が発足する。
 1920年(大正9年)には、吉井川電力が、入発電所の運転を始める、その時の出力は700キロワットであった。1922年(大正11年)には、山陰と山陽地方の広範囲に水利権をもっていた岡山水電との合併話がまとまり、中国水力電気会社が発足する。そしての1926年(大正15年)には、その中国水力電気と姫島水力電気との合併がなり、中国合同電気会社が設立される。また同年、山陽中央水電が吉井川電力を吸収合併する。
 1935年(昭和10年)には、山陽中央水電が入発電所の出力を900キロワット増やして、合計1600キロワットとする。1941年(昭和16年)には、中国合同電気と山陽中央水電とが合併し、山陽配電が発足する。1942年(昭和17年)になると、中国配電が稼働する。そして迎えた1951年(昭和26年)には、中国配電と日本発送電とが合併し、中国電力が発足する。

(続く)

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