◻️156『岡山の今昔』岡山人(15世紀、たまかき)

2019-07-30 08:28:38 | Weblog

156『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(15世紀、たまかき)

 「たまかき」(?~?)という名前の女性は、当時の新見荘、三職の一人である福本の姉妹で、代官としてやって来た祐清の身辺の世話をしていた。
 その彼女が、おそらくは民への苛酷な取り立てが起因して殺害された祐清の弔いを済ませ、その遺品を整理した。そして、祐清の遺品の形見分けを所望する手紙を東寺へ送る。その手紙が、「東寺百合文書」の中の「ゆ函84号、たまかき書状并備中国新見荘代官祐清遺品注文」として、現代に伝わる。

 彼女はこの手紙の中で、祐清が生前に所持していた品を目録として書き上げ、葬儀などの諸費用に充てたことを事細かに報告している。その上で、残った白小袖・紬の表(紬糸で織られた絹織物)・布子(綿入れ)の3品を、祐清の形見として貰い受けたいと願っているとのこと。

 そこで二人の間柄だが、「ゆうせいの御事、かやうに御なり候事、御いたバしさ、なかなか申はかなく候」とあることから、かなりの親しさであったのではないか。祐清が新見荘にやって来てから、たった約1年間ながらというのに、亡き人を偲ぶ女性の想いが伝わってこよう。

 

(続く)

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◻️248『岡山の今昔』岡山人(20世紀、坂野鉄次郎)

2019-07-29 19:39:39 | Weblog

248『岡山(備前、備中美作)の今昔』岡山人(20世紀、坂野鉄次郎)

 坂野鉄次郎(さかのてつじろう、1873-1952)は、津高郡菅野村(現在の岡山市北区菅野)のうまれ。明治から昭和時代前期までの官僚、実業家として、広くら知られる。家は、かなり裕福であったのだろうか、京都の第三高等中学へ、しばらくすると仙台第二高等学校に転入する。
 東京帝国大学法科を出て逓信省にはいり、大阪を皮切りに、東京郵便局長、大阪逓信管理局長などの要職についていく。その間、郵便物区分規程の制定、年賀郵便の特別扱いなどの考案に加わり、郵便事業の整備につとめた。
 1915年(大正4年)に退くと、こんどは実業界に出る。大阪電灯の常務を皮切りに、片上鉄道の社長(1919~1944)などをこなしていく。

 中国合同電気会社を創設したのも彼だ。その間、三蟠火力発電所及び吉井川の水源地をを守るべく、恩原に貯水池を建設する事業を行った

 それから、かの藤田組の理事にもなっていたともいうから、根っからの仕事好きだったのであろうか。

 それだけに留まることなく、さらに貴族院議員にもなったというから、驚きだ。

1953(昭和28年) には、郵政省が、かれの故郷に逓信総合博物館分館「坂野記念館」を建設し、その労に報いることもあった(後に岡山市北区に移転)。

 波乱万丈の人生にして、彼の随筆なり、回顧録なりが伝わっているなら、是非一読したいのだが。

(続く)

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◻️190『岡山の今昔』岡山人(19世紀、光後玉江)

2019-07-29 18:56:23 | Weblog

190『岡山(備前、備中、美作)の今昔』岡山人(19世紀、光後玉江)

 そしてこの地は、幕末維新のひとにして女性蘭法医の先駆け、光後玉江(ごうごたまえ、1830~1905)の故郷でもある。1830年(天保元年)、久米北條郡錦織村(今の久米郡美咲町)に生まれた。父は津山藩医の箕作阮甫とも交流の深い医師であった。

    医者の子は医者にというべきか、玉江は15歳ながらも向学心に燃えていて、津山藩医の野上玄雄に入門するのだった。そこで医学と産科を学び、28歳で開業したことが伝わっているが、産科はどのようにして履修したのであろうか、はっきりしない。

    以来47年にわたり、当時まだ数少ない女性の医師としての生涯を生き抜いたことで知られる。

 彼女が記した「処剤録」(1880~1902)が興禅寺に伝わっており、玉江の医療活動がどんなであったかを伝え、時代が大きく変わっていく中、その人柄がうかがえよう。

(続く)

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