406の2*◎123の7の3『自然と人間の歴史・世界篇』欧州戦線(独ソ戦争、独ソの死闘)

2018-10-31 07:41:35 | Weblog

4062*123の7の3『自然と人間の歴史・世界篇』欧州戦線(独ソ戦争、独ソの死闘)

 

 ドイツとソ連との戦いは、ヨーロッパ戦線のみならず、第二次大戦の一番の激戦だったことで知られる。1941年から1942年にかけては、ドイツはイギリスへの空爆、海戦を続けていた。しかし、そのことは、彼らの思うようには進んでいなかった。その同じ時期に、ドイツは独ソ不可侵条約締結当初からの狙い通り、ポーランドからさらに東へ向かって攻めて出る作戦を興した。

 そして迎えた1941年6月22日、ソ連に対する電撃的な作戦の幕がきっておろされた。大平原を東へとドイツ軍の機動部隊が進んでいく。350万と号する精兵を投入するとした。攻略の目的は、ソ連の首都モスクワとされていた。つまり、ソ連を武力でもって屈服させることを狙っていた。

最初の数か月に、ソ連軍は西部地域の奥深くまで、ドイツ軍の侵入を許してしまう。これには、スターリンらソ連指導部とソ連軍の側で油断があったらしい。独ソ不可侵条約をかくも早くドイツがかなぐり捨て、国境を越え猛スピードで進行してくるとは考えていなかったのだ。

 しかし、その後の戦局は、しだいに膠着状態に陥っていく。1941年10月になると、ソ連領のドイツ軍は沼地のぬかるみに加え、気候変化にも直面を強いられる。これには、ソ連軍のがんばりがあり、多くのソ連兵が自国の大地に倒れていった。「祖国防衛」に国民が一致団結した。そのうちに戦線が伸び、ドイツ軍の補給路の確保が問題となってくる。

 ドイツ軍は、やがて厳寒期に入っての1941年11月初旬から12月にかけて、ドイツ軍はモスクの攻略を一時棚上げするに至る。寒波とともにぬかるみも凍ったうえ、補給路を断たれる恐れが出たからだ。

明けての1942年、ドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、スターリングラード(現在のボルゴグラード)へと攻めていった。ただし、ドイツ軍の陣容は前の年の威容からは相当に減じていた。それでも息を吹き返しての再進攻であって、これらを落とせば、ソ連の首都モスクワはもうわずかなところにあると、彼らは先を急いだ。

 それというのも、またもや冬が近づいていたのである。ぐずぐずしてはおられない、極寒の地では、やがて軍を展開するどころではなくなることは彼らの頭に入っていたのだろうが、今度のドイツ軍もそのことを軽視していたのは否めない。

 まずは首都モスクワから北西へ約700キロメートルのところにあるレニングラード、その攻防戦では、ソ連軍と市民がドイツ軍の包囲になおも耐えていた。一方、より南にあるスターリングラードはそもそも戦略的要地とはみなされなかったのだが、ヒトラーの肝いりで1943年9月からは最大の激戦地となり、やがて市街戦に入っていく。

両軍とも譲らなかった。そして迎えた1943年1月、スターリングラードでドイツの第六軍団が、当方からの新部隊を迎え入れ、勢いを盛り返したソ連軍の前に降伏を余儀なくされた。

これが大戦の転換点となって、ヒトラーの軍隊は東方戦線で総崩れとなっていく。一方、西部戦線ではアメリカの参戦で戦局は連合国側に大きく傾いていく。その意味では、独ソ両軍によるモスクワ近郊、レニングラードそしてスターリングラードでの攻防戦は、人類史的な意義を伴う有史以来最大級の戦いであったといえよう。

 

(続く)

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617*◎153の3の1『自然と人間の歴史・世界篇』アルゼンチン(1960年代~)

2018-10-30 18:38:08 | Weblog

617*◎153の3の1『自然と人間の歴史・世界篇』アルゼンチン(1960年代~)

 アルゼンチンでは、1973年3月に民政移管のための選挙が実施された。続いての9月に再選挙が実施され、ペロンが18年ふりに政権の座についた。インフレとゲリラの暗躍に悩んだという。その彼が1974年7月に急逝し、夫人のイサベル・ペロンが大統領に昇格したのだが、1976年のクーデターによりビデラ軍事政権が成立する。

 以来1983年までの軍政下において、主として左翼そして自由主義撲滅のために、当局による誘拐、拷問、殺人などが行われ、一説には、この間に約3万人が犠牲になったという。

 1977年には、「5月の広場の母たち」が街頭行動をスタートさせる。軍政下で行方不明になった息子や娘、孫たちを探す母親、祖母たちのデモなど活動の模様は、アルゼンチンのドキュメンタリー映画「オフィシャル・ストーリー」(1985)でも紹介された。

   1983年、前年の1982年に大統領に就任していたビニョーネ将軍が、民政移管の作業を急ぎ、1983年10月の大統領選挙実施にこぎつけた。この選挙では急進党を率いるアルフォンシンが大統領に就任する。同年、真相究明委員会が報告書「二度と再び」を公表する。

   1985年、先の軍事政権トップ5人に終身刑を含む有罪判決が出される。その後、1990年に「終止符法」が定められる。続いての1987年には、「正当な服従法」を制定して市民殺害の加害者の訴追を制限する。

 1989年には、メネム政権が発足する。その後のことだが、1990年に有罪判決になった軍政トップ5人が特赦で釈放される。1998年には、子ども誘拐罪で訴追が始まる。1999年には、人権団体の連合体「メモリアル・アピエルタ」(開かれた記憶)が設立される。

 2001年には、連邦地裁が「終止符法」と「正当な服従法」の二つの法は、米州人権条約、拷問禁止条約などに違反し、違憲かつ無効だとの判決を出す。

 2003年には、キルチネル政権が発足する。国会は、二つの免責法を無効とする法律を採択する。2005年、最高裁が、人道に反する罪に対する二つの免責法は違憲であるとの判決を下す。先の軍事政権下で行われた人権侵害を、性暴力も含めて裁く。2007年には、最高裁が、メネム大統領の特赦に対して意見だとの判決を下す。そして、官民のアーカイブが共同で申請していたアルゼンチンにおける人権侵害の記録が、国連ユネスコ記憶遺産に登録される。

 

(続く)

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338*◎97の2『自然と人間の歴史・世界篇』ミレー

2018-10-30 09:07:00 | Weblog

338*◎97の2『自然と人間の歴史・世界篇』ミレー

 フランソワ・ミレー(1814~1875)は、フランスの「バルビゾン派」の画家だ。この派の名は、パリ近郊のバルビゾンという農村からとったものだという。

 裕福な家の生まれではなかったらしい。18歳の頃から、シェルブールの画家の下で絵の修行を始めた。1837年には、パリにでて、国立の美術学校で学んだ。

 画家となってから当分の間は、主に肖像画や女性の裸体画を製作して生活していたという。1849年には、バリからバルビゾンに移って、先にこの地に滞在していたルソーらの仲間とともに、自分本来の道を歩み始める。

   その作品には、額に汗して働く人々がたくさん出てくる。「種まく人」(1851)や「落穂ひろい」(1857)そして「晩鐘」をはじめ、農夫をよく描いた。1864年のサロンに出費した「羊飼いの少女」が画壇で人気を博すと、注文が集まるようになっていく。1867年のパリ万博には、9点を出品し、これまた名声を高めたという。

  1870年の普仏戦争と、その後の1871年のパリ・コミューンの時期には、シェルブールに疎開していたという。

 

 

(続く)

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385*◎120の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ムンク

2018-10-29 21:23:20 | Weblog

385*120の1の2『自然と人間の歴史・世界篇』ムンク

 

エドバルド・ムンク(1863~1944)は、ノルウェーの人。由緒ある家の生まれであったようだ。ところが、5歳の時、母が結核で死ぬ。続いて14歳の時には、姉も結核で亡くなるという不幸に見舞われた。

 そんな孤独に陥ってもおかしくない彼にして、いつ頃から絵心が芽生えたのだろうか、17歳で絵の学校に入学した。それから26歳で初の個展を開き、パリに留学する。そのパリで研鑽を積み、プロの絵描きとなっていく。同年、父が死去した。これで、身の回りがずいぶん寂しくなったに違いない。

1892年、29歳の時にベルリンで個展をひらく。ところが、その個展の評判は、かんばしいものではなかった。青年期の気負いがあったのかもしれない。「マドンナ」(1895)

1902年、ノルウェーに帰国した時には46歳になっており、それからが油の乗った時期といえようか。それから80歳で没するまで精力的に動いた。

1910年頃からだろうか、「叫び」を何枚も描いたという。厚紙にテンペラ、油彩で作られていて、橋の上の人物が幻聴に晒されているかのよう。「森の吸血鬼」(1916~1918)も、この時期の作品だ。これらを「退嬰芸術」という批評の向きもあったのかもしれない。

その一方では、光をふんだんに取り入れた作品も発表している。「太陽」(1910~1913)は、クリスチャニア大学(現在のオスロ大学)の講堂に描かれた大作だ。画面上の方から強烈な光線が降り注いでいる。まさに、生命の賛歌というべきか。

それから晩年にかけては、自画像をよくものにした。「自画像、時計とベッドの間」(1940~1943)からは、ぼっーとしているようでいながら、部屋に光が差し込んでいることから、健康的な気分になっていたのだろう。

 (続く)

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384*◎118の3『自然と人間の歴史・世界篇』フォービズム(マティスなど)

2018-10-29 21:22:32 | Weblog

384*118の3『自然と人間の歴史・世界篇』フォービズム(マティスなど)

 絵画の世界でフォービズム(野獣派)という名の由来は、いささか変わっていた。時は20世紀初頭の1905年、パリで催された展覧会サロン・ドートンヌに出品された絵のうち、アンリ・マティス(1869~1954)、ドラン、ヴラマンテ、マメケの絵が一堂に集められていた。それらを観賞した美術批評家の弁に、まるで「野獣のようだ」という意味の言葉があったのだという。
 なにしろ、彼らの絵は、色使いがやたらと派手に感じられた。色彩によって明るさを造造形するかのような手法が取られているようであった。少なくとも、印象派絵画のような、光に揺らめくような、微妙な色使いではなかった。
 それらの代表格としてのマティスは、自身の出発点は「生きる喜び」にあったと明らかにしている。画家を志したのは、21歳の1890年に虫垂炎をこじらせ、1年間の静養をしていた時のことであったという。
 それからは、絵画の学校に通い、1896年には早くも国民美術教会に出品使徒、準会員となる。1907年には、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」が世に出て、そちらに注目をさらわれた。そのため世間では、「マティスは色だったが、ピカソは形」だと評された。
 ほどなく、ヨーロッパに苛酷な時代がやってくる。第一次世界大戦での、ヨーロッパ列強の激突であった。マルヌの戦いの少し前、マティス一家はパリを離れるのだが、また戻ってきて画業に精出すのであった。その頃、キュービズムの影響もあってか、マティスの画風に、幾何学的単純化のバリエーションが登場してくる。例えば、1916年の「モロッコ人たち」などは、キュービズムの作風とかなり似ているのではないだろうか。

(続く)

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880*◎213の1の4『自然と人間の歴史・世界篇』カンボジア内戦と和平への歩み(1970~2018)

2018-10-28 23:00:09 | Weblog

880*213の1の4『自然と人間の歴史・世界篇』カンボジア内戦と和平への歩み(1970~2018)

 1970年、親米のロンノル将軍の率いる軍がクーデターを起こす。元国王のシアヌークは国家元首であった人物なのだが、弾圧を恐れて中国の北京に亡命。

この年、親中国のクメール・ルージユ(KR)との間でカンボジア内戦が始まる。1975年には、KR・共産党側がプノンペンを制圧する。ポル・ポト書記らが権力を行使し、私有財産廃止などを行う。これによる政権は、強制移住や虐殺もためらわなかった。一説には、その後数年間に200万人以上が死亡と推定される。

1977年、フン・センらは、ポル・ポト派から離脱してベトナムへ亡命する。1979年、ベトナム軍の支援でヘン・サムリン政権が成立する。1982年、シアヌーク派、ポル・ポト派を含む反ベトナムの連合政府が発足する。内戦が激化する。
 1989年、米ソ首脳が冷戦の終わりを宣言する。1990年9月、国連安全保障理事会の常人理事国5か国が、カンボジア最高国民評議会(SNC)を設置する。これは、シハヌークを議長とし、ヘン・ サムリン政権6名、ソン・サン派2名、シハヌーク派1名、ポル・ポト派2名から成る。この下で、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)による停戦監視・総選挙実施などの枠組みで合意に漕ぎ着ける。
 これを踏まえての1991年10月、紛争当事者4派と関係18か国(国連常任理事国や日本を含む)が、「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(パリ平和協定)に調印することで、カンボジアにようやく和平の道筋がつく。12月、ポル・ポト派による反対行動が多発し、国際的な和平プロセスに暗雲が垂れ込める。
 1992年3月、国連PKO(平和維持活動)に新国家樹立の準備が任される。日本からは施設部隊、停戦監視要員、文民警察官らが現地に派遣される。1993年5月、国連カンボジア暫定機構の下での制憲議会選挙を実施した。恐れていたポル・ポト派の攻撃はなかった。6日間にわたる選挙は投票率89%。シアヌーク派のフンシンペックが第1党、親ペトナム勢力の流れをくむ人民党が第2党となる。6月には、両党による共同首相制の暫定政府が発足する。具体的には、ラナリットが第一首相に、フン・センが第二首相に就任する。
 1993年9月、新憲法が公布される。立憲君主制によるカンボジア王国が成立。シアヌークが再び国王になる。これにより、UNTACの任務が終了する。1997年、プノンペンで両首相陣営が武力衝突し、ラナリット側が失脚する。1998年、ポル・ポトが死亡したことで、ポル・ポトが消滅する。

2004年、シアヌークが退位し、実子のシハモニが新国王となる。2008年、人民党のフン・セン首相による事実上の単独政権が成立する。2012年、シアヌーク前国王が北京で死去する。2013年には、総選挙で救国党が躍進する。2016年、国連の支援を受け、元ポル・ポト派幹部を裁くカンボジア特別法廷が開かれる。同派の元幹部らに、最高刑の終身刑などを言い渡し、ようやくにしてカンボジア内戦に政治的決着がつけられる。

2017年、最高裁が救国党の解党命令を発す。2018年7月には、総選挙(下院の定数125議席)でフン・セン率いる人民党が全議席獲得で躍進する。投票率は83.02%で前回の69.61%を上回ったものの、無効票の割合は前回の1.6%から8.54%に急増した。同党は、2月の上院選挙(定数62)についても、国王の指名などで決まる4議席を除く全議席を得ている。

(続く)

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888の4*◎213の6『自然と人間の歴史・世界篇』クルド人独立の夢遥か

2018-10-28 21:12:32 | Weblog

8884*213の6『自然と人間の歴史・世界篇』クルド人独立の夢遥か

 

 独自の言語と文化とを持つということでは、クルド人は一つの民族だといえよう。宗教的には、イスラム教スン二派に属する。2018年時点の総人口は、推定約3千万人。

 今日のクルド人の置かれている状況は、第一次世界大戦後につくられた。彼らの居住地域に国境線が引かれたのだ。まずはイラクで、2018年の現時点での推定約600万人。多くが北部に住む。次はトルコで、2018年の現時点での推定約1500万人。これは、トルコの総人口の約2割に当るという。居住地域は、さらにイラン、シリア、アルメニアに分割されてしまう。

 こうなると、クルド国家として一つにまとまって独立するのは、大変に難しい。しかして、独立への夢は、第二次世界大戦後に引き継がれていく。1991年の湾岸戦争を経た1992年、クルド人によるクルディスタン地域政府が発足する。2003年のイラク戦争後でイラクのフセイン政権が崩壊すると、2005年のイラク新憲法でクルディスタンの自治を承認するにいたる。

 2014年、アラブ過激派組織の「イスラム国」(IS)が台頭し、クルド人自治区政府の軍事組織と交戦する。2017年にはイラク軍とともにISを攻め、モスルを奪還する。

 2014年、アラブ過激派組織の「イスラム国」(IS)が台頭し、クルド人自治区政府の軍事組織と交戦する。2017年にはイラク軍とともにISを攻め、モスルを奪還する。9月25日には、クルド人自治政府が独立の賛否を問う住民投票を実施する。選挙結果の発表では、投票率が72%で賛成が93%であった。トルコ政府はこの結果を認めず、自国領土からの分離独立運動に警戒感を募らせている。

 9月29日には、イラク政府がクルド自治区内にある空港の国際線発着を禁止する。10月16日には、イラク軍などが係争地のキルクーク州などを制圧する。

 

(続く)

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295*◎90の4の5『自然と人間の歴史・世界篇』ロダンとその弟子

2018-10-28 18:59:45 | Weblog

295*◎90の4の5『自然と人間の歴史・世界篇』ロダンとその弟子

 オーギュスト・ロダン(1840~1917)は、19世紀を代表するリアリズム彫刻家とされる。「近代彫刻の父」とも呼ばれる人物だ。

   彼の彫刻は、ごつごつして男性的なものから、柔らかな感触を感じさせるものまで、多彩だ。前者に属すると考えられる作品には、代表作「地獄の門」(1917)とその一部を取り出したかのような「考える人」(1901~1904頃)を始め、「カレーの市民」(1889)、「青銅時代」(1875)などがあろう。

   それらのテーマとしては何があるのだろうか。察するに、それらにあるのは天国とか楽園とかの反対に位置する情景であって、人間の持っている業を抉り出して大衆の目の前に持ってくる。勢い、重苦しいものにならざるを得ないのではないか。逆に言うと、解き放たれることによる爽快さが感じられない。

   また、後者に属するものとしては、「接吻」(1882)などがあろう。彼の弟子に、カミーユ・クローデルという彫刻家の女性がいた。ロダンと相思相愛というのは聞こえがよいが、彫刻の師匠のロダンはあくまで厳格で、自己中心的だ。

   そんな二人の愛のシーンを描いたのが「接吻」なのではないだろうか。大理石の上に座っている男女、そして女性が相手の男性に身を寄りかからせ、男性はその女性をやさしく抱きとめている。ふくよかな裸身の女性と、たくましい裸身の男が、一つに結ばれている情景。艶のある仕上がりだ。すでに愛のマークがともっている場面であり、もはや言葉はいらないようだ。これを観ることで、みんなが幸せな気分になれるとしたら、幸いだ。

 

(続く)

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(519の1*393)『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災と福島原発事故(原発の経済性をめぐって)

2018-10-28 14:56:54 | Weblog

5191*393)『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災と福島原発事故(原発の経済性をめぐって


 福島原子力発電所の廃炉が俎上に上るにつれ、国民の関心が「原発神話」への疑問が数々芽生えつつある。これまで関心のなかった人々も、間近な課題として自分の頭で考えようとするように変わってきつつある。
 この数十年の間、原発は経済的だと言われて来た。曰く、「原発は安定して発電でき、コストが最も安いとされる」(朝日新聞、2016年9月21日付け)等々。これらで気にかかるのは、「・・・される」というところだ。要は、他人任せのコストの試算であって、これをそのままに信用してきたところに、長きにわたる誤りがあった。
 その根拠とされる数字は、政府や電気事業連合会などによるものが使われてきた。その中でも一番の拠り所とされてきたのが2015年時点の政府試算であったのだが、2018年になって、その欺瞞性が明らかになった。その道理を、東京新聞はこう伝えている。

「経済産業省が16日に公表した2030年に向けた新しいエネルギー基本計画の素案で、将来の電源構成を決める際に大前提となる各電源のコスト推計に、近年の原発建設費の高騰を反映していないことが分った。政府が4年前に前回計画を策定した際に前提とした一基4400億円から建設費は、原発メーカーや商社によると倍の1兆円以上になっているが。経産省は「最も安い電源」とした前回推計は堅持。電源構成に占める原発の割合を2%弱から30年度に20~22%に拡大する方針を維持する。(中略)

素案が前提にしているのは15年にまとめた試算。一基あたりの建設費を4400憶円と推定。原発の発電コストを「1キロワット時当たり10.1円以上」と推計し、このうち3.1円が建設費に相当する計算で、石炭火力(12.3円)や水力(11円)より安い電源と位置付けた。

しかし、その後、三菱重工がトルコで進める計画や東芝が米国で着手した事業(現在は米企業が継承)では建設費が一基当たり1兆円を超えている。」(東京新聞、2018年5月17日付け)

(続く)

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(507*382)『自然と人間の歴史・日本篇』福島原発の経緯(1960~2018)

2018-10-28 14:28:09 | Weblog

(507*382)『自然と人間の歴史・日本篇』福島原発の経緯(1960~2018)

 東京電力の福島原発はどのようにして設立されたのだろうか、そしてどのように運営されてきたのだろうか。

 その発端は、1960年11月に福島県が原発の誘致を表明したことにあった。1967年9月、東京電力福島第一原発(福島県双葉町、大熊町)の1号機が着工となる。1971年3月には、同1号機が運転を開始する。

 1974年6月、田中角栄を首班とする自民党内閣下で、電源開発促進税法、電源開発促進対策特別会計法、発電施設周辺地域整備法の電源三法が成立し、同法に基づく発電所立地の自治体並びにその周辺地域に対する補助金が解禁になる。

 1975年11月、福島第二原発1号機が着工される。1982年4月、同第二原発1号機が運転を開始する。1987年には、第二原発4号機が運転を開始した時点で、福島県内において合計10基の原子炉が稼働することになった。

 2011年3月、東日本大震災と福島第一原発事故が発生する。5月には、東京電力が第一原発1~4号機の廃炉を決定した。2013年12月、東京電力が第一原発5~6号機の廃炉を決定する。

 2014年8月、福島県が中間貯蔵施設を大熊、双葉の二つの町で受け入れると発表した。

 ちなみに、福島県内の原発である、福島第一、第二原発に対する電源三法に係わる交付金は、1974~2011年度でみると約2970憶円だったという。それが2012年度以降、福島県は原発分の電源三法に係わる交付金の受取りを辞退する。国は、第一原発分は特例措置として、2013年度~2014年度について各市町村へ交付した。

 そして迎えた2015年度からは、従来からの電源三法交付金に加え、代替措置が新設される。こちらは、福島特定原子力施設地域振興交付金といって、中間貯蔵施設を申しでた第一原発にかぎり、2015~2044年度の30年間につき最大2530憶円が支給されることになっている。

 一方、これまで原発立地・周辺自治体を大いに潤してきた電源三法交付金は継続扱いとされ、福島県内の第二原発、火力、水力発電所につき、2015~2016年度については約140憶円が割り当てられたという。

 2018年6月、東京電力が福島第二原発(福島県富岡町、楢葉町)の廃炉方針を発表する。

 およそ以上の経緯をたどって、福島県県内の全10基の原発が廃炉、解体への道を歩み始めたのであって、このような事態の到来を2011東日本大震災の前に一体だれが予想したのであろうか。


(続く)

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518*『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災と福島原発事故(核廃棄物の行方)

2018-10-28 14:06:26 | Weblog

518*『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災と福島原発事故(核廃棄物の行方)

 福島原子力発電所の廃炉にする予定の原発には、その時核廃棄物となる、1基当たり約100~200トンもの放射性物質がある。核廃棄物とは、使用済みの核燃料(「核の灰」や「核の廃液」)ばかりでなく、制御棒などもある。後者は取り外してから廃棄することになる。
 それらのうち放射能レベルが高い物は、現在の技術では地中深く埋めるしかない。制御棒など放射能レベルが「高い」ものは70メートルより深い地中へ、廃液のような放射能レベルが「極めて高い」ものは300メートルより深い地中へ埋める。一旦埋めたら、概ね最大10万年はそのままにして管理しないといけない。廃棄物中の放射性物質の半減期(量が半分になるのにかかる時間)は、セシウム137で30年、セシウム243で7380年、プルトニウムで2万4千年、ハフチウム182に至っては900万年等々、
気が遠くなるような話だ。
 廃棄物の処理場選びは困難を極める。日本のような地震の多いところでは、活断層が縦横に走っている。これを避けて処分場を設置することになる。候補地はなかなか決まらないだろう。
 これらを管理する者は誰か。電力会社とされるが、最初の300~400年間は原発施設から放射能漏れがないかもチェックする。その後は国が引き継ぎ、少なくとも建屋への立ち入りや掘削ができないような管理が必要となる。
 さて、2016年10月25日の経済産業省の発表で、これまで約2兆円だった福島第一原発の廃棄費用見積もりが、約4兆円増えるとの内部資料が示された。とはいっても、あくまで「費用が増えそうだ」という憶測のレベルであったが、同省は、廃炉費用の新たな想定金額を示すことも検討したが、見送った形だ。代わりに示したのが、東電が払う廃炉費が年800億円から数千億円に増えるという試算であって、これが単年度ベースの廃炉にかかる費用になる。一方、東電の営業利益は約3700億円であることから、なんとか自主の努力で払い続けることができる金額の範囲内だといわれる。
 そこで今度は、同省の有識者委員会が4素案の中からこれを選んだもの、その骨子は「東電が廃炉費用を負担できる制度を国が用意する」案を発表した。先行する他の三つの素案だが、第1のものは、国が廃炉費用を肩代わりする。これだと、東電は債務を免れることから、廃炉費用はゆくゆく新電力利用者など国民が負担を強いられよう。第2のものとは、公的資金を注入する。公的管理の間に公的資金返済の目処が立たない場合は、実質的な国民負担が強いられよう。第3のものは、当面放置するとなっていて、これだと法的整理で関係者に再建放棄を求め、それで足りない文は国民負担となる理屈だ。
 この日、同省が示した第4案によると、柏崎刈羽原発などの原子力事業を含めた東電事業の再編・分社化(他に火力発電会社、小売会社、送配電会社など)ことになっている。これには尾ひれもついていて、例えば柏崎刈羽原発(新潟県)の再稼働ができないと、国民負担もあり得るという選択肢も入って来る訳だ。
 一方賠償費や除染費用については、これまでの9兆円が3兆円規模で増えそうだといっている。9兆円というのは、2013年2月の数字であって、うち賠償費が5.4兆円、除染費が2.5兆円、汚染された土地の保管などに1.1兆円を見込んでいたものだ。これまで、賠償費については東電と他の大手電力との負担で、除染費は政府が持つ東電株式の売却益で、汚染された土地の保管する中間貯蔵施設の建設などの費用については、原発の立地自治体への交付金に充てるため電気料金に上乗せされる電源開発促進税でそれぞれ賄う筈であった。ところが、今回、それらの総額より3兆円も費用が膨らむという。
 つまり、これらをまとめると、東京電力福島原発事故に伴う経費の総額としては、廃炉費が2兆円プラス4兆円で小計6兆円、賠償や除染の費用が9兆円プラス3兆円で小計12兆円、つごう合計では18兆円にも膨らむ。さらに2016年末での同省による見解では、これに全国で予定より早く廃炉する原発などの廃炉費用の不足分1.3兆円を上積みしたい(福島原発事故で顕在化したということか)ことに変化した。そして、これらの総費用を賄うためには、これまでとは異なる、抜本的な仕組みを導入する必要があるという。いわく、電気料金に含まれる「送電線の使用料」に上乗せする形で、東電管内の消費者、その他の消費者(原発のない沖縄を除く)にふり分けて追々負担してもらいたいとのことである(詳細な按分内容は別に譲る)。
 つまり、東京電力とその他大手電力、それに新電力会社につながる全国(同)の一般家庭の毎月の上乗せ額として、消費者から徴収させる案となっている。これらのうち新電力の契約者に対しては、「以前は使っていたのだから、大手の契約者と同じように負担するべきですよ」(経済産業省)との論理を組み立てて、この新しい費用負担の仕組みを導入する。そのことで、今後ますます増大するだろう原発費用(現在の費用見積もりは、あくまでその時点での試算であって、しかもその内容には不透明かつ整合性のない見積もりの多いことが、専門家により指摘されている)を今後長きにわたって「国民負担増」で払い続けよ、という訳なのだろう。

(続く)

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283*◎90の1の5『自然と人間の歴史・世界篇』ベルギーの独立と植民地経営へ

2018-10-28 08:32:52 | Weblog

283*90の1の5『自然と人間の歴史・世界篇』ベルギーの独立と植民地経営へ

 1831年は、オランダから、その南部の地域がベルギーとして独立する。独立を指揮したのは、ブリュッセルにおいて力を増してきた自由主義者たちであった。その中心力としては、やはり経済があった。北部は商業が盛んであったが、南部は農業と工業が中心であった。独立後のオランダは、商業国家づくりが大方の政策の根本に据えられたから、南部の人々の反感が増していく。
 これに、北部と南部での宗教と言語をめぐる問題が加わる。まず宗教面では、オランダ(ネーデルランド)の南部においては、カトリックが根ざしていた。そのため、カルヴァン主義を信仰の柱とする北部とは、そりが合わなかったのは否めない。
その一方、言語面でも、北部はオランダ語を用いていた。それ対し南部は、オランダ語とフランス語が共存し、どちらかというと後者を用いる方が一般的であった。特に、指導層はフランス語の方を常用語としていたことから、事あるごと北部ともめていく。
 さて、独立の成った国政では、代議制と君主制とがミックスされたことがある。ドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ公レオポルドが議会によって国王に選出され、シオポルド1世(在位は1831~1865)を名乗る。
 独立直後からのベルギー王国は、なんとかして小国として生き延びる道を考えていたのであろう。イギリスやフランスといった周辺の大国の勢力争いに巻き込まれることのないようと、中立国としての立場をとる。
 そのベルギーは、元々産業が盛んであったことがあり、大陸での産業革命に伍して力を伸ばしていく。19世紀も後半にさしかかると、ヨーロッパ有数の工業地帯を形成していく。ちなみに、歴史家・河井田研朗の説明には、こうある。
 「たとえば、人口は1860年の500万から1910年の740万に増え、農業は中央平原の穀物とフランドルの商業作物のおかげで1870年ころにはヨーロッパ最高の収益率を誇り、リエージュ・シャルルロワ・ボリナージュの石炭産出は、1880年の1700万トンから1910年の2300万トンになり、ムーズ河谷の鉄鋼生産は、1880年の10万トンから1912年の250万トンに急上昇した。
 このような生産の上昇を支えたものは、19世紀末に世界最高の密度を誇った鉄道網の完成、蒸気機関やディーゼル機関の使用、製鋼におけるベツセマー法からトーマス法への転換などであった。蓄積された資本は、国内の企業ばかりでなく、ヨーロッパ諸国の鉄道や、ブラジル・中国・南アフリカなどの海外の企業へも投資された。」(河井田研朗「ベルギー」:今来陸郎編「中欧史・新版」山川出版社1971)
 さらに、国王レオポルド2世(在位は1865~1909)の治世に入ると、列強に遅れてはならにいと中央アフリカに着目し、コンゴを中心に植民地経営へと進出していく。そのやり方は実に巧妙なものであり、1876年、「中央アフリカ文明と開発のための国際協会」を設立する。その上で王は、コンゴ盆地を探検した探検家スタンレーを用い、
ベルギー単独にて「上コンゴ研究委員会」をつくる。現地の多数の有力者たちと協定をむすんで新国家を樹立し、自ら国王となる。
 この新国家だが、イギリスとフランスによって牽制され、阻止される。とはいうものの、1885年に開催されたベルリンでの国際会議において、中立の厳守と門戸解放(もんとかいほう)を条件に、ベルギーによる私的な国家領有を認める。それからのベルギーは、おおっぴらに苛酷な原住民支配を敷くのであった。そんな非道な植民地経営法が国際世論の非難の的となると、1908年これを王の個人的所有から切り話し、ベルギー領コンゴ植民地とする。

(続く)

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(519の5*393)『自然と人間の歴史・日本篇』使用済核燃料の再処理をめぐって

2018-10-28 08:21:01 | Weblog

(519の5*393)『自然と人間の歴史・日本篇』使用済核燃料の再処理をめぐって

 

我が国の原子力行政は、2011福島原発事故の後、大いなる停滞と混乱に直面しているといえるだろう。そもそもの話、原子力発電の後では、いわゆる使用済み核燃料が残る。そうなるのは、まずはウラン235の原子核に中性子をあてて核分裂を起こし、核分裂生成物の生成とともに中性子を放出させる。すると同時に熱エネルギーが発生する。原子力発電では、主にこの熱エネルギーを利用し蒸気タービンを回して発電を行う。
 一方、ウラン238は、ほとんどが核分裂をせず、中性子を吸収してプルトニウム239という物質に変わる。この元素は毒性が強く、放っておくと厄介である。
 通常の発電では、3年程度の間、発電に使われた燃料棒は取り出されるという。これが使用済燃料だ。これには、核分裂せずに残ったウラン235やウラン238、そして新たに発生したプルトニウム239が合わせて95~97%含まれているという。
 そこで、一つの話が持ち上がる。このウラン・プルトニウムを、「もったいない、原子力発電にもう一度使おう」ということで再処理という工程で回収し、プルトニウムとウランを混ぜた、新たな燃料に仕立て上げる。これを混合酸化物燃料(MOX燃料、Mixed Oxide Fuel)といって、再び原子力発電所で使用(プルサーマル)することができるようにしようと。

これが、核燃料サイクルの考え方であって、日本はながらくこの方式でうまくやることを目指してきた。ところが、である。福島第一原発の事故を境に、全国的な原発の稼働状況の先行きが怪しくなるか、廃炉に向けた話が続出し、その分プルサーマルに黄信号が出てきている。

一方、プルトニウム消費の本命とされてきた高速炉も、原型炉「もんじゅ」の廃炉決定で開発が行き詰まってしまった。今のところ、後継の実証炉をつくる目途は立たないというのだが。

 

(続く)

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(519の2*393)『自然と人間の歴史・日本篇』福島原発の廃炉に向けて(汚染水の処理をめぐって、~2018)

2018-10-28 08:19:59 | Weblog

519の2*393)『自然と人間の歴史・日本篇』福島原発の廃炉に向けて(汚染水の処理をめぐって、~2018)

 

 かかる事故を起こした福島原発をめぐる経緯については、およそ次の通りだという。2011年3月の事故発生の翌4月には、高濃度の汚染水が海に漏れているのが見つかる。

~4号機の地下には、放射能が極めて高い高濃度汚染水が約6万トンあるという。これは、放射性セシウム換算で1リットルあたり数千万ベクレルにもなるレベルだという。

 その高濃度汚染水は、地下からせっせとくみださないといけない。そのうえで、溶け落ちた核燃料(デブリ)の冷却のために処理施設を経由して再び原子炉に戻していく。 

 それだけなら水の量は増えない理屈だが、実際には地下水が流入して混じってしまっている。その分、全体の汚染水量は増している。

 その増えた分は、できるだけ放射性物質を取り除いたのちに、「処理汚染水」ということで次から次へと大型タンクにためられていく。その処理汚染水の量は、「この秋、100万トンを超えた。敷地内の大型タンクは約800基に及ぶ」(朝日新聞、2017月11月26日付け)という。なお、東京電力は2020年までに130万トンまで増設する計画だという。

 それから、原子炉建屋周辺の地下水については、別途、井戸からくみ上げ、放射性物質を取り除いたのちに海に放出するという。

  2011年6月には、汚染水の処理設備が設置される。しかし、トラブルが相次ぐ。2013年3月には、汚染水に含まれる放射性物質をほぼ除去できるとの想定でつくられた設備が一応完成した。

 7月には、高濃度汚染水が再び海に漏れたと東京電力が発表する。9月、安倍首相がIOC(国際オリンピック委員会)総会での招致に向けて、汚染水は「完全にコントロール」されていると、事実に反した演説をする。

   同月、凍土壁への国費の投入が閣議決定される。ここに凍土壁とは、1~4号機の原子炉建屋やタービン建屋などの地下に地下水が流れ込むのを抑えるためのものであり、それらの建屋をぐるりと囲むように地中につくる、「氷の壁」だという。ただし、技術上、その効果がいかほどのものかは明らかでない。

   2014年6月には、凍土壁の建設が開始される。2015年4月、凍土壁の試験凍結が開始される。10月になると、護岸に鋼管を打ち込んだ遮水壁の凍結が開始される。2017年8月、最後の7メートルの凍結が開始となる。

 こうした汚染水処理の今後については、国と東京電力が2018年9月に廃炉計画を改定している。それによると、2020年を目途に、原子炉建屋地下の高濃度汚染水をほぼ除去したい。とはいえ、流れ込む地下水があるのでこれを減らし、デブリの冷却水と合わせた高濃度汚染水の発生量を、2018年現在の数分の一にまで減らしたいという。2021年には、燃料デブリ(溶け落ちた核燃料)の取り出しを始めたい。そして事故後30~40年後を目途に、すべての廃炉作業を完了させたいという。


(続く)

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(349*256)『自然と人間の歴史・日本篇』占領統治下での積極的平和主義(憲法草案など)

2018-10-27 19:11:51 | Weblog

349*256)『自然と人間の歴史・日本篇』占領統治下での積極的平和主義(憲法草案など)

 こうしてポツダム宣言が受諾され、第二次大戦に敗北してからは、連合国軍に占領された。占領政策を実行したのは、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部:GHQ/SCAP,General Head Quarters,Supreme Commander for rhe Allied Powersの略)である。そこでの最高司令官には、アメリカ大平洋陸軍司令官のダグラス・マッカーサーが連合国の同意の下に就任した。そのGHQの上部に、1945年(昭和20年)12月には、対日占領政策の最高意思決定機関として、アメリカ、イギリス、中国(国民党政府)、ソ連など11ヶ国(後に13ヶ国)からなる極東委員会(FEC:Far Eastern Commission、本部はワシントンに設置)ができた。
 なお、GHQ最高司令官の諮問機関として、アメリカ、ソ連、イギリス、中国(国民党政府)からなる連合国対日理事会(ACJ:Allied Council for Japan、本部は東京に設置)が設けられた。とはいえ、実質的にはGHQはアメリカの指導力が群を抜く形で組織され、アメリカの意向に添った政策が実施された。そのため、米ソによる冷戦時代にはいると極東委員会、対日理事会はソ連が反発したため急速に機能しなくなっていく。
 こうして日本政府の上に立つ最高権力が与えられたGHQの下で、数々の改革が行われていった。そのGHQは参謀部の他に民政局など多数の部局を持ち、日本の民主化をすすめる改革の立案にもあたった。形式はGHQによる間接統治であったが、その権限は強く、日本政府はその指示によって民主化政策の実施にあたった。なお、館林については、しばらくGHQによる「直接統治」が行われ、その後撤収がなされた。その意図、その実際については、今もその全容はわかっていない。このような占領統治は、1952年(昭和27年)4月27日の日本のいわゆる「単独講和」により連合国による占領が一応終わり、独立が回復されるまで、日本全体としては、いわば二重権力ならぬ、外部権力による間接統治が続いた。
 1946年(昭和21年)2月3日、GHQが日本国憲法の草案作成を民放局に指示した。その10日には草案が完成している。表向きは、僅か一週間ほどで基本的な考え方と編成が凝縮して出来上がったのだとされる。

これに至る前、GHQは占領開始直後に、日本側に憲法改正を求めていた。ポツダム宣言受諾直後に成立していたのは東久邇(じ)内閣であったのだが、同内閣は敗戦処理しか眼中になかった。そもそもこの内閣においては、戦後の混乱の中、食糧をはじめ、生活必需物資が極度に不足していたことから、憲法改正を考える余裕はなかったものと推察される。
 1945年(昭和20年)10月9日に幣原内閣が成立すると、その翌日の10月11日、マッカーサー最高司令官は憲法改正の素案を示すよう支持を与えた。同内閣は、10月末に憲法問題調査委員会(憲法調査会)を設け、憲法改正の調査に着手する。

だが、彼らは、国民主権の原理に立つ新憲法の制定を行う気概に乏しかった。そんな内閣であるから、日本側作成の憲法改正草案作りの中身は、明治憲法のごく一部の修正に留まっていた。
 1946年(昭和21年)2月8日、同内閣の松本大臣は、「憲法改正要綱」及び説明書をマッカーサーに提出するに至る。ところが、2月1日にはこれがマッカーサーの知るところとなっており、「改正草案は、明治憲法の字句の最も穏やかな習性にすぎず、日本国家の基本的な性格はそのまま変わらずに残されている」と評価された。それゆえ2月3日、マッカーサーは民政局長ホイットニー准将(じゅんしょう)に対して、憲法草案の起草を命じた。起草に当たって、彼は次の3つの原則を示しつつ、GHQ民政局に文案作成の自由裁量を与えることを伝えた。 
 ところで、アメリカ政府は、1945年10月頃から日本の憲法改正の項目に関する案を考えていた。その結果を、いわゆる「SWNCCー228」(国務・陸・海三省調整委員会文書228号「日本統治制度の改革」)に取りまとめ、翌1946年(昭和21年)1月11日、これをマッカーサーに送付していた。
 話を戻して、マッカーサーからの命令を受けた民政局は、かかる「マッカーサー3原則」と「SWNCCー228」を指針として、日本政府とは関係なく、独自に日本国憲法草案を起草した。2月10日にこれが出来上がると、GHQは2月13日に日本政府に提示するに至った。これが「マッカーサー草案」と通称されるものである。

その第8条には、こう書かれていた。

「国民の一主権として戦争は之を廃す他の国民との紛争解決の手段としての武力の威嚇又は使用は永久に之を廃棄す。

陸軍、海軍、空軍又は其の他の戦力は決して許諾せらるること無かるべく又交戦状態の権利は決して国家に授与せらるること無かるべし。」

これを受け取った日本政府は、その内容に驚愕するのであったろうが、秘密裏に交渉を試みるも跳ね返され、結局占領軍の強固なる意思に従うほかないと悟るに至る。かくて同草案が踏襲されての新たな「憲法改正案要綱」が日本政府により作成され、3月6日には国民の前に発表された。マッカーサーは同要綱を指示するとの声明を発表し、これでGHQの了承を取り付けたことになる。
 同年4月10日、衆議院選挙が行われ、この憲法改正草案要綱が論議の的になったが、3月6日まで従来の天皇制(天皇主権)護持を掲げていた自由党、進歩党は一転この草案要綱に賛意を表すに至った。4月17日、日本政府はかかる草案要綱を上部に整理して、11章100条にわたる、口語体で書かれた「日本国憲法草案」が発表されるに至る。1946年(昭和21年)5月には、第一次吉田内閣が成立し、この内閣の下で同憲法草案を枢密院の諮詢(しじゅん)に付し、6月8日に可決され、5月16日には第90議会が招集され、6月20日開会の日が提出された。衆議院での審議はおよそ2か月にわたり、その後の8月24日若干の修正を加えて可決した。貴族院は、8月26日から同草案の審議に入り、10月6日、若干の修正を加えて可決した。10月7日、衆議院は、貴族院の修正分を可決し、ここに帝国議会での議決が完結した。こうして議会の議決を経た憲法改正案は、10月29日枢密院で可決された。
 日本国憲法が公布されたのが、その年の11月3日、その翌年の1947年(昭和22年)5月3日、天皇の裁可を経て、「朕(ちん)は、日本国民の総意に基づいて、親日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」なる「上諭」を付して施行された。
 こうして日本国憲法が制定されてから70年を経た頃、制定当時の制定者しての国民の意思を振り返る観点を含め、またぞろこの憲法は「借り物」だとか、「日本国民が原案をつくったのではなく、GHQがつくった」だとか、主体性に触れる議論が止まない。その中には、憲法の平和条項、基本的人権の保障を守る立場からのものもあるので、一概に言えないものの、そのことの内容抜きに、概観だけを殊更に強調することに傾いているのではないかと思われる。なぜなら、制定前の日本政府案は旧態依然のもので話にならない水準であったのに加え、日本国憲法案の制定手続き、内容に国民には大きな反対はなかったのだし、その後これら基本条項の主旨は国民の理解と協力、そして研鑽(けんさん)などの自主的努力によって今日まで保持され、国民に根付いてきたと考えられるからである。

(続く)

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