406の2『自然と人間の歴史・世界篇』欧州戦線(独ソ戦争、独ソの死闘)
ドイツとソ連との戦いは、ヨーロッパ戦線のみならず、第二次大戦の一番の激戦だったことで知られる。1941年から1942年にかけては、ドイツはイギリスへの空爆、海戦を続けていた。しかし、そのことは、彼らの思うようには進んでいなかった。その同じ時期に、ドイツは独ソ不可侵条約締結当初からの狙い通り、ポーランドからさらに東へ向かって攻めて出る作戦を興した。
そして迎えた1941年6月22日、ソ連に対する電撃的な作戦の幕がきっておろされた。大平原を東へとドイツ軍の機動部隊が進んでいく。350万と号する精兵を投入するとした。攻略の目的は、ソ連の首都モスクワとされていた。つまり、ソ連を武力でもって屈服させることを狙っていた。
最初の数か月に、ソ連軍は西部地域の奥深くまで、ドイツ軍の侵入を許してしまう。これには、スターリンらソ連指導部とソ連軍の側で油断があったらしい。独ソ不可侵条約をかくも早くドイツがかなぐり捨て、国境を越え猛スピードで進行してくるとは考えていなかったのだ。
しかし、その後の戦局は、しだいに膠着状態に陥っていく。1941年10月になると、ソ連領のドイツ軍は沼地のぬかるみに加え、気候変化にも直面を強いられる。これには、ソ連軍のがんばりがあり、多くのソ連兵が自国の大地に倒れていった。「祖国防衛」に国民が一致団結した。そのうちに戦線が伸び、ドイツ軍の補給路の確保が問題となってくる。
ドイツ軍は、やがて厳寒期に入っての1941年11月初旬から12月にかけて、ドイツ軍はモスクの攻略を一時棚上げするに至る。寒波とともにぬかるみも凍ったうえ、補給路を断たれる恐れが出たからだ。
明けての1942年、ドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、スターリングラード(現在のボルゴグラード)へと攻めていった。ただし、ドイツ軍の陣容は前の年の威容からは相当に減じていた。それでも息を吹き返しての再進攻であって、これらを落とせば、ソ連の首都モスクワはもうわずかなところにあると、彼らは先を急いだ。
それというのも、またもや冬が近づいていたのである。ぐずぐずしてはおられない、極寒の地では、やがて軍を展開するどころではなくなることは彼らの頭に入っていたのだろうが、今度のドイツ軍もそのことを軽視していたのは否めない。
まずは首都モスクワから北西へ約700キロメートルのところにあるレニングラード、その攻防戦では、ソ連軍と市民がドイツ軍の包囲になおも耐えていた。一方、より南にあるスターリングラードはそもそも戦略的要地とはみなされなかったのだが、ヒトラーの肝いりで1943年9月からは最大の激戦地となり、やがて市街戦に入っていく。
両軍とも譲らなかった。そして迎えた1943年1月、スターリングラードでドイツの第六軍団が、当方からの新部隊を迎え入れ、勢いを盛り返したソ連軍の前に降伏を余儀なくされた。
これが大戦の転換点となって、ヒトラーの軍隊は東方戦線で総崩れとなっていく。その時のソ連軍の様子の一コマが、あるドキュメントとして、むろん創作の部分も含まれようが、こう述べてある。
「二月二日は深い霧とともに明けた。日が差しはじめて風が出てくると、霧は四散した。風は細かい雪を吹き上げる。全面降伏のニュースが第六二軍に広まると、信号弾が早速空に打ち上げられた。ヴァルガ小艦隊の水兵や左岸にいた兵士たちはパンの塊や缶詰食糧を抱えて氷の河を渡った。五か月も地下室や穴蔵に押し込められていた一般市民に配るためである。(中略)
戦争終結は予測されていたし突然でさえなかったけれども、ソ連軍守備兵にとつてスターリングラードの戦いがついに終わったとは信じがたかった。戦闘を思い死者を思い出すにつけ、生きている我が身は驚異でしかない。ヴァルガ河を渡った各師団のうち、生き残ったのは二三〇〇名ほどにすぎない。スターリングラードの戦いを通じて、赤軍は一一〇万の死傷者を出し、そのうち四八万五七五一名が戦死した。」(アントニー・ビーヴァー著、堀たほ子訳「スターリングラードー運命の攻囲戦1942-1943」朝日新聞社、2002)
一方、西部戦線ではアメリカの参戦で戦局は連合国側に大きく傾いていく。その意味では、独ソ両軍によるモスクワ近郊、レニングラードそしてスターリングラードでの攻防戦は、人類史的な意義を伴う有史以来最大級の戦いであったといえよう。
(続く)
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