マイコー雑記

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なんで「神様」を囲う必要があるの?と子供、「差し出す」場としての寺院

2016年02月13日 | ファミリーディナー

昨夜はファミリーディナー。

 

週に一度、哲学や、科学や、バリュー、宗教心などについて、話し合う時。

我が家は今のところ、宗教組織には属していないのだけれど、

宗教的テキストを用いることも多い。

 

 

米国では、どの街を訪ねても、必ず、いくつもの教会に出合う。

子供達のお友達にも、キリスト教徒やユダヤ人の子がたくさん。

 

『神様』というものがそれほど偉大で、

どこで何をしていようが、常に見守っているとするならば、

どうして、こうした建物で囲い、ここに『神様』がいる、

ということにしないといけないんだろう?

 

先日、子供の一人が、そんな疑問を口にしていた。

 

そこで昨夜は、

キリスト教会ほど数は多くないけれど、寺院を持つユダヤ教の観点から、

話し合ってみた。

 ( 'The gift of giving' by Lord Jonathan Sacks を参考テキストに)

 

 

確かにユダヤでは、

「『神様』は建物ではなく、ひとりひとりの内に宿る」と考えられている。

 

それでも! とラビLord Jonathan Sacks氏曰く、

「グランドキャニオンなどの壮大な風景を毎日見ていたら、

『畏敬』といったような気持ちも自然と湧くかもしれないけれど、

そうした気持ちって人は往々にして忘れてしまうもの。

だから、建物は、そうした気持ちを定期的に思い出すためにある」と。

 

 

建物は、『神様』のためではなく、人のためなんだね。

 

 

それで、そうして建物に集まって何をするかというと、

「差し出す(giving)という行為」とSacks氏は言う。

お供えして、収入の○パーセントを貢献し、ボランティアに励み、

そうした「差し出すという行為」を通してこそ、「神」を近くに感じられると。

 

なぜなら、「神様」は、

宇宙の始まり、そして命の始まりから、

ずっと「差し出し続けている存在」だからというんだよね。

だから、「差し出す」という行為は、「最も神に似た行為」だと。

 

 

 

 

量子空間での変動によって宇宙が生まれ、

遺伝子コードの中の情報によって人間の身体が、

脳の電子的な信号によって人のマインドが成り立っているわけだけれど、

こうした宇宙や人の命の背景に、

それらを『差し出し続ける存在』があると信じるなら、

確かに、

感謝の気持ちも湧き上がって、

自らもこれだけ与えられている分、差し出したいなと思うかもしれないね。

 

 

ママは、日本で育って、キリスト教やユダヤのように、

確固とした「神様」のイメージを持ってはいないのだけれど、

あなた達の命や、皆がこうして暮らせていることを思う時、

感謝の気持ちがひしひしと湧き上がってくる。

これって確かに、それらの背景に「差し出し続ける存在がある」という前提を、

心の内に抱いている、ともいえるのかもしれないなあ。

宗教や文化によって、「差し出し続ける存在」のイメージって変わってくるんだよね。

 

 

 

 

日々どれほど「差し出されているか」を思い出し、

自らも「差し出す」ために集まる場が、

街角にいくつもあるというのは、素晴らしいことだね。

 

教会や、寺院に通うということは、今のところないのだけれど、

普段から、「差し出す」ということ、思い出し、見習っていきたいね。

 

 

 

子供達、

こちらの社会で、教会に囲まれ成長する中、

自分なりの立ち位置を見つけていってくれたらなと願いつつ!

 

 


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