石油と中東

石油(含、天然ガス)と中東関連のニュースをウォッチしその影響を探ります。

(連載)「挽歌・アラビア石油:ある中東・石油人の随想録」(6)

2013-04-16 | その他

2013.4.16

悲願の石油精製進出

 石油産業では開発・生産を「上流部門」、精製・販売を「下流部門」と呼びならわしている。欧米ではExxonMobilなど上流・下流を合わせた総合石油企業が大半であるが、資源の乏しい日本では戦前から原油は輸入に頼り精製・販売を専業とする企業が殆どであった。しかも終戦間近の昭和20年に大半の製油所が空襲により灰燼に帰し、戦後は製油所再開および原油輸入の判断はすべて連合軍総司令部(GHQ)が握り民間の石油企業は手も足も出なかった。

 息を吹き返すきっかけとなったのが昭和25年の朝鮮戦争である。同年、日本石油(日石)・下松、東亜燃料工業(東燃)・清水、大協・四日市、丸善・下津などの製油所が次々と操業を再開した。しかし原油は欧米企業に握られており、日石はカルテックスと委託精製契約を結び、東燃はエッソ、モービル(後のExxonMobil)の傘下に入ることとなった。精製販売業は日石、丸善、出光のような国内資本と、エッソ、モービル、シェルなどの外国資本が併存した。前者が民族系、後者が外資系である。また精製事業と販売事業を分離する業態が一般的となり「精製」、「元売り」と言う呼び方が一般的となった。

 70年代の高度成長期に入ると各社は製油所を次々と新設或いは増設した。さらに日本各地に石油化学コンビナートが林立するようになった。そこでは大型製油所が建設され、コンビナート内の石油化学工場にナフサが、また発電所には重油が供給され、ガソリンは石油元売り会社に卸された。

 アラビア石油が中心となって千葉県袖ケ浦に建設された「富士石油」もそのような製油所、いわゆるコンビナート・リファイナリーの一つであった。上流企業として出発したアラビア石油は自ら下流部門の製油所を持つことが悲願であった。それによって上流から下流まで一貫操業するExxonMobilのようなメジャーな石油企業になることができると考えたからである。勿論ExxonMobilには及ぶべくもないが「和製メジャー」を目指したのである。

 実はアラビア石油が自前の精製会社を持とうとしたのはもう一つ別の切実な問題があった。同社が生産し輸入するカフジ原油は硫黄分が多くガソリン溜分の少ない重質油であり日本の精製会社に歓迎されない原油であった。日本の石油市場ではガソリンだけが高く売れ、その他の重油、軽油、ナフサなどは儲けの薄い商品であった。ガソリン溜分の多い軽質油を好む精製会社はカフジ原油を敬遠したのである。ただ通産省(現経済産業省)は日本企業であるアラビア石油が生産する「日の丸原油」だからと言う理由で精製各社に半ば強制的に引き取らせた。民間企業としては設備の新増設の許認可権を握るお役所に逆らえなかったのである。

 アラビア石油は早くから日本国内に製油所を建設することを計画していた。静岡県の太平洋沿岸の埋立地が最初の候補地となり設計図が出来上がり製油所の名前も地元の富士山にちなんで「富士石油」と決められた。この計画は結局実を結ばす、千葉県袖ケ浦の石油化学コンビナート建設計画に姿を変えて実現した。しかし製油所の名前はそのまま「富士石油」が踏襲された。

 親会社の名前が「アラビア」石油であり、子会社の名前が「富士」石油。創立者の山下太郎は戦前満州で活躍し「満州太郎」と呼ばれ、戦後は「アラビア太郎」と呼ばれた。「アラビア石油」と「富士石油」は世界を股にかけた彼らしい命名と言えよう。

 高度成長の最後の名残の1970年代はアラビア石油グループにとって黄金時代であった。その後70年代末のイラン革命とそれに続くイラン・イラク戦争及び第二次オイルショックに続く80年代以降の石油消費量の減少によりグループはサウジアラビア現地と日本国内の双方で苦闘するのであるが、当時のアラビア石油の社内でそのことに思いを致す者は少なかった。

(続く)

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