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(目次)
第1章 民族主義と社会主義のうねり(14)
030.イスラエル独立(その3):流入するユダヤ移民に押し出されるパレスチナのアラブ人(3/3)
ユダヤ人入植者たちは札束を積んで不在地主から土地を買い取った。彼ら自身がそのような大金を持って移住してきたとは考えられない。それはヨーロッパに住み続けた豊かな同胞(ロスチャイルドはその典型であろう)、或いはアメリカにわたって成功した同胞からの義捐金である。豊かなユダヤ人はヨーロッパに残り、才能や学歴のあるユダヤ人はアメリカに移住した。パレスチナに移住したユダヤ人のほとんどは金も才能も学歴も乏しい貧しい者たちだった。1909年、帝政ロシアのポグロム(ユダヤ人に対する迫害。「破滅・破壊」を意味するロシア語)を逃れたユダヤ人が社会主義とシオニズムを結合した形で始めた共同農場「キブツ」はその後ユダヤ人入植地に広がっていった。
彼らが土地を手に入れると次に始まるのは既にいるアラブ人小作農の追い出しである。土地の権利はユダヤ移民のものであるからアラブ人は文句のつけようがない。アラブ農民は賃金労働者としてユダヤ人の下で働くか、それが嫌なら都市難民、さらには親類縁者を頼ってヨルダンなど周辺アラブ諸国に逃れるしかなかったであろう。パレスチナ経済難民の始まりである。
ただパレスチナ難民の中でも多数を占める政治難民は第二次大戦後のイスラエル独立戦争(第一次中東戦争)で生まれた。イスラエル独立後の3年間に70万人近いユダヤ人が流入、それとほぼ同数のパレスチナアラブ人が政治難民となってヨルダンに雪崩れ込んだ。アラブ人がユダヤ人に押し出された格好である。ヨルダン川西岸のトゥルカルムの町で隣同士であった教師のシャティーラ家と医師のアル・ヤーシン家の2家族もそのような難民の一つであった。シャティーラ家は当時16歳の息子アミンを伴ってヨルダンに逃れている。
(続く)
荒葉 一也
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