森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
花・髪切と思考の
浮游空間
カレンダー
2007年1月 | ||||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | |||
7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | ||
14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | ||
21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | ||
28 | 29 | 30 | 31 | |||||
|
goo ブログ
最新の投稿
8月6日(土)のつぶやき |
8月5日(金)のつぶやき |
6月4日(土)のつぶやき |
4月10日(日)のつぶやき |
2月10日(水)のつぶやき |
11月12日(木)のつぶやき |
10月26日(月)のつぶやき |
10月25日(日)のつぶやき |
10月18日(日)のつぶやき |
10月17日(土)のつぶやき |
カテゴリ
tweet(762) |
太田光(7) |
加藤周一のこと(15) |
社会とメディア(210) |
◆橋下なるもの(77) |
◆消費税/税の使い途(71) |
二大政党と政党再編(31) |
日米関係と平和(169) |
◆世相を拾う(70) |
片言集または花(67) |
本棚(53) |
鳩山・菅時代(110) |
麻生・福田・安倍時代(725) |
福岡五輪幻想(45) |
医療(36) |
スポーツ(10) |
カミキリムシ/浮游空間日記(77) |
最新のコメント
Unknown/自殺つづくイラク帰還自衛隊員 |
これお・ぷてら/7月27日(土)のつぶやき |
亀仙人/亀田戦、抗議電話・メールなど4万件突破 |
inflatables/生活保護引き下げ発言にみる欺瞞 |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/国民の負担率は低いというけれど。 |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/[橋下市政]健康を奪い財政悪化招く敬老パス有料化 |
最新のトラックバック
ブックマーク
■ dr.stoneflyの戯れ言 |
■ machineryの日々 |
■ えちごっぺのヘタレ日記 |
■ すくらむ |
■ 代替案 |
■ 非国民通信 |
■ coleoの日記;浮游空間 |
■ bookmarks@coleo |
■ 浮游空間日記 |
過去の記事
検索
URLをメールで送信する | |
(for PC & MOBILE) |
太田光の藤田嗣治をみる眼
回顧展を機に藤田嗣治の戦争画が話題にのぼっているようだ。
「アッツ島玉砕」で有名な藤田だが、戦争画の是非をここで論じようとしているのではない。以前に、太田光の憲法観を私はとりあげ、安倍晋三のそれと比較した。そこには鮮やかな差異があって、それを落差という言葉で私は表した。むろん私は太田の視点を買うのだが、そんな経過もあるものだから、太田光が同じ著書で藤田に言及していることをいまスルーするわけにはいかない。
まず太田が藤田をどのように受け止めるのか、言及部分をみてみよう。
戦争画を描いた戦犯だと言われ、日本を追われるようにして、戦後フランスに渡った藤田嗣治という人の周辺の事情は知っていたけれど、実際に僕が絵を見たのは、ずいぶん後になってからなんです。藤田が描いた他の絵は見られても、「アッツ島玉砕」などの戦争画は、いまだに展覧会すらできない状態です。初めて画集で「アッツ島玉砕」を見たときは、衝撃的でした。まさに地獄絵図と言っていい。
(注・対談の後日、2006年3月28日から5月21日まで、東京国立近代美術館にて、生誕120年 藤田嗣治展~パリを魅了した異邦人~」が開催され、展示された百点あまりの作品のうち、藤田が日本を離れるきっかけとなった戦争画も一部公開された)
あの絵を、戦意高揚の絵だとして、藤田嗣治を戦犯だと言った人たちの感受性とは、一体何なのだろうと思います。あの絵からは、戦争はもう嫌だということしか伝わってこない。なのに、いまだに日本の美術界がそれを封印しているのは、彼を戦犯と言った人たちと同じ感性だということじゃないですか。(『憲法九条を世界遺産に』154ページ)
というわけだ。
この太田の評価にどうわれわれは反応するのか。
戦争画という以上、まずそれが定義されないといけないが、それを仮にここでは戦意高揚のために準備された絵画とする。
藤田は、陸軍報道部から要請をうけ描いた。そして、それを描くとき、国のために戦う一兵卒と同じだ、と藤田はいった。だから、先にあげた仮の定義にしたがえば藤田は戦争画を描いたことになる。そして、一兵卒として戦うという意識がたとえ純粋であったとしても、それは寸分ではあっても結果的に侵略に結びついているだろう。その反省がなければ、おそらく戦後にいながら、肉体と精神が分離されたといってもいい環境で生きてきたのだろう。だからこそ、この何とも居心地の悪い、分離した状態を脱したいがために、おそらく安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」をさけぶのだ。
一方で、太田は藤田の作品に厭戦の叫びをみたのだ。藤田が反戦の意思を絵画において示す方法があるとすれば、陸軍からの要請を断るか、要請を受けた上で反戦の意思が他者に受け止められるよう作品を描くことだろう。その描き方のいちいちをここでは問わない。
要するに、「アッツ島玉砕」を描いた藤田はその入り口で戦争に足を踏み入れ、出口において作品に厭戦の意味を込めたことになるだろう。ちょうど、一兵卒のふるまいと同じように。
だから、太田は一兵卒をみつめる眼差しと同じように、藤田にもその眼光を投げかけたのだ。
藤田を戦犯よばわりをしたものがいることはいま横に措くとして、ただわれわれが知りうるのは、藤田が陸軍の要請を受け、絵を描いたという重たい事実だけである。
【参考エントリー】
安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差
安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差2
安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差3
NHK番組改ざん 政治家の関与に弱いNHK
うれしい判決が出た。
「慰安婦」問題を取り上げたNHK番組「ETV2001 問われる戦時性暴力」(2001年1月30日放送)の改ざんをめぐり、バウネット(「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク)がNHKなどに賠償を求めた訴訟の控訴審判決だ。
控訴審では政治介入と番組の改ざんが争点となっていた。判決は、NHK幹部が議員から「番組は公正に」といわれ、「必要以上に重く受け止め、その意図を忖度して、当たり障りのないような番組にすることを考え」、修正を重ねたとしている。政治家と職員の接触は番組の改変に無関係としてきたNHKの主張は退けられた。
こうした改ざんに至る過程では、右翼団体の抗議やNHK予算の国会審議を控えていたことがある。その結果、放送当日に日本軍元兵士、慰安婦女性2人の発言が削られた。
2004年1月の一審判決では制作会社のみの責任が問われ、原告の請求は棄却されていた。控訴審では長井暁元デスクが政治介入を内部告発し、NHK幹部と会い「公正に」と注文をつけたのが安倍晋三であることも明らかになった。
判決は、「政治家が一般論としてのべた以上に……具体的な話や示唆をしたことまでは、認めるに足りない」と直接には言及しなかったが、安倍(当時は官房副長官)の介入と、それが影響し改ざんに結びついたことを認めていることが重要だ。とくにNHKが自主的改編と主張し、政治家の関与を否定してきたことを退けた意味は、大きくNHKが政治介入にいかに弱いかを示しているといえる。
【参考エントリー】
安倍さんちの事情 -その6・言語能力と封殺(06・09・24)
翻訳で思想を知った日本人は不幸なのか?
攻防戦は、高畠素之による『資本論』の翻訳本がでたことが発端だ。この翻訳本は、高畠流の工夫がほどこされていた。当時としては、異端ともいえるし、別の言葉でいえば、それは異彩を放つものでもあったのだ。逐語的に訳すところにこそ当時の権威はあった。彼は「翻訳をなによりもまず商品と見なし、商品の質を購買者である読者の目から読み直し、批判的に検討」したのだった。ここに、高畠の天才があったのだろう。
だが、この一文からも分かるように、商品である翻訳本の質を決める要因の一つが、読者にあることを鈴木は指摘している。要するに、当時の西欧思想の受容の歴史が鮮やかにここに示されているといえるだろう。難解な哲学書や経済学書の翻訳本を読者もまた、つくってきたのだ。「問題にしたのは、個々の訳者の力量とは別の次元で、この国の思想・哲学書の翻訳と受容を拘束してきた、いわば暗黙の共通了解の方だ」と鈴木がいうのはこのことだ。
マルクスならば、『資本論』は「なによりも労働者階級にこそ読んでほしいと願った」だろうに、日本の労働者階級ははたして不幸だったのだろうか?
鈴木の抑制の利いた文体が心地よい。
注;「攻防戦」は、川上肇をはじめ青野季吉、三木清が加わっている。
―――――――――――――――――
鈴木直『輸入学問の功罪』(ちくま新書)
格差社会は健康をむしばむ
健康にも不平等がある――近藤克則氏が著書『健康格差社会』でその可能性をずばり指摘したとき、視野がぐっと広がる気がした。社会的な地位や収入の差がどのように健康を脅かし、さらには寿命をも左右するのか、近藤氏の言説によって議論が飛躍的にすすんだように思う。
社会保障や税負担が所得の再分配にかかわり、その結果がおそらく個々人の健康に影響を与えるだろうことは頭の中では理解しているつもりだったが、上記の『健康格差社会』で豊富なデータにもとづき暴かれる日本の実態に正直驚かざるをえなかった。
格差社会は確実に日本国民の健康をむしばみ、それだけではなく寿命をも縮めているといえそうだ。
たしかに、所得水準が低ければ、受診する機会は相対的に少なくなるだろう、負担があるために受診を減らさざるをえないという心理が必然的に働くだろう。受診の機会がなければ、お年寄りの転倒が増えるだろうし、費用のかかる健康診断は敬遠されるだろう。いや、そうせざるをえなくなるのだ。ましてや命に直接かかわらない歯の治療などしないし、治療するにしても結果的に最後に回されるだろう。
――日本社会でも格差への関心が高まっています。格差がその国の平均寿命にも影響するというのは本当ですか。
「米国とキューバを比較するとわかりやすい。国民一人あたりの国内総生産(GDP)は米国が5倍以上だが、両国の平均寿命はほとんど変わらない。貧富の差が激しい米国はGDP比で世界トップの医療費水準だが、医療保険のない無保険者が4000万人以上いる。一方で富裕層中心に100歳以上の超長寿者も多い」
「国民一人あたりのGDPが5000㌦までは、額が伸びるほどその国の平均寿命は右肩上がりで上昇する。国が豊かになり栄養・衛生状態が改善してくるからだ。ただ、5000㌦を超すとほぼ横ばい。むしろジニ係数のような所得分配の不平等の差が国民の健康状態や寿命を左右するようになる。これが相対所得仮説と呼ばれる考え方だ」
競争社会になれば、「勝ち組」はいつ自分も「負け組」になるのかという不安に苛まれる。格差が大きい社会ほどストレスは大きくなるだろう。自分におきかえたらよい。
近藤氏は講演会でいつもつぎのように質問をするという。
あなたの年収が600万円で周囲の人の平均より100万円少ないケースと、年収が500万円で周囲より100万円多いケースとでは、どちらがストレスを感じなくてすむか? 8、9割の人が絶対額が少ないのに後者を選ぶというのだ。
社会的な弱者が健康に不安を感じるような社会は少なくとも是正されないといけないだろう。
議論はこれから尽くされないといけない。だが、格差社会は「健康の不平等」を生む可能性をもっていることだけは確かなようだ。
注;等価所得は、世帯所得を世帯人数の平方根で割ったもの。
■blogランキング・応援のクリックをお願いします。⇒
「民主主義のコスト」って? 冗談じゃない
CS放送をみていると、白鳥令(日本政治総合研究所)が「民主主義のコスト」にふれ、政党助成金制度を擁護していた。
「民主主義のコスト」とは、政党は議会民主制において不可欠の存在であり、その担い手である政党は「公的機能」を果たしているのだから、その政党に助成することは「民主主義のコスト」として認められるという理屈だ。もっともらしい議論だが、はたしてそうか。
経団連・御手洗富士夫が企業献金の全面復活を公言してはばからない今、この議論が誤りを二重三重に重ねた議論であることを指摘せざるをえない。
もともと政党助成金は、「政党の資金を企業・団体献金から個人献金に移行していく」という口実で1995年から国民の税金を財源として新たに導入された。当時の非自民政権・細川護煕首相(日本新党)はこれを「政治改革」と称し、「政治腐敗事件が起きるたびに問題となる企業・団体献金については、腐敗のおそれのない中立的な公費による助成を導入することなどにより廃止の方向に踏み切る」(1993年8月23日、衆院本会議)とまでいいのけた。
しかし、いまだに企業・団体献金の全面禁止が実現しないばかりか、逆に御手洗ら財界が企業献金をだしにした「政党支配」に乗り出しており、「政治資金の二重取り」は依然としてつづいている。
政党交付金が民意を反映しないことについては、これまで政治改革オンブズパーソンなどによって厳しく指摘されてきた。政党助成法によると、政党交付金を受け取る資格を有し、かつ受け取るための手続きをした「政党」に対して、人口数に250円を乗じて算出した、政党交付金の総額310億円超を確保した上で、その総額から各「政党」の議員数と得票率(議員数割と得票数割)を基準に政党交付金の配分額が決定される仕組みになっている。
この仕組みの問題点を、政治改革オンブズパーソンの整理にしたがって列記すると、
- 選挙権を有しない未成年者や外国人を含めて総額を算出している点で、そもそも民意を反映した算出方法になってはいない。
- 民意を正確に反映するわけではない選挙制度の選挙結果を基準にしてその総額が各「政党」に配分されている点で、民意を正確に反映して政党交付金が配分されているわけでもない。日本共産党のように、政党交付金を受け取る資格を有する政党でありながら一切の手続きを行わないため、当該政党の分がその他の「政党」によって山分けされている
- 国会において比例代表選挙で選出された議員の党籍変更が禁止されたものの他の選挙で選出された議員の場合には党籍変更が放任されたままである
となる。その結果、全体で200億円近くも過剰に給付を受けているということが明らかにされている。そもそも政党助成など「どの政党」にもしたくない、と考える国民がいるのだ。このようなことを考えると、政党交付金の配分基準は、「民主主義のコスト」を賄うとの建前に明らかに反している。
政党助成の発端になった企業献金に話を戻すと、そもそも企業・団体献金は、政治腐敗の温床となってきたという共通認識が当時少なくともあったはずだ。まさに、それは政党助成という「政治改革」をすすめてきた政党の、いわば公約にほかなるまい。この意味で、政党助成制度に依存しつづけ、その上、企業・団体献金の全面禁止を実現しないことは、明らかに公約違反、「政治資金の二重取り」といわなければならないのだ。
政党は、いかなる国家機関でもなく、あくまでも私的結社にすぎない。責任ある政党ならば、多くの問題を抱える政党助成制度に依存すべきではない。事務所費問題の要因など所詮、政党助成制度にどっぷり依存する体質のなかにこそ潜んでいるのだ。
注;過去10年間に各党が受け取った政党交付金
- 自由民主党 1470億2,100万円
- 民主党 619億5,000万円
- 社会民主党 266億5,400万円
- 公明党 211億1,800万円
- その他政党(二院クラブ、新社会党、新党護憲リベラル、自由連合など) 558億5,400万円
(ウィキペディアから引用)
改憲手続き法案 -これだけは知っておきたい
安倍晋三首相は26日、内閣発足後はじめての施政方針演説を行った。それは、「美しい国」づくりと改憲を前面におしだしたものだった。
戦後レジームを見直したいという安倍のメッセージは、戦後政治のはじまりであった侵略戦争の否定を消し去ることを意味している。
改憲するには憲法で定める国民投票をおこなわないといけないが、そのための手続きを定める改憲手続き法案は与党と民主案が明らかにされている。すでにこの国会会期中での手続き法案の成立を与党はめざしており、民主党へも協力をよびかけている。民主党はあきらかにゆさぶられている。
自民党案と民主党案の中身はどうなっているか、そして違いがあるのかをみるのによい資料が、自由法曹団によって作成されている(⇒ここ)。よく整理されていて理解しやすい。これによると、両案に基本的なちがいはない、と率直に思う。
比較表の区分はつぎのとおり
- 完全一致 ●
- ほぼ一致 ○
- 民主党の検討による △
これで一目瞭然なように、ちがいはほとんどない。この作成された表をもとに、差がみられるものについて簡略化してみた。簡略化したものがこの表だ。
両案の比較から明らかになってくるのは、
- 投票そのものの有効票を増やそうという意図があること(表;項目の3、4参照)。投票総数をみると、賛成票+反対票となっていて、白票や棄権票を算入しないものとなっている。
- 放送、広告を政党のみに限定していること。
- 運動のための広告放送が認められており、運動がカネによって動くこと。賛成、反対平等の扱いで制度を確立しない限り、禁止する必要がある。
両案とも、以上のように、国民の意思表示が平等に扱われておらず、その限りでは基本的人権が保障されているとはいいがたい。広告放送がカネの力でゆがめられるようなことは認めてはいけない。
安倍が改憲を強くうちだし、その前段で国民投票法案の成立をめざしている。国民的な共同を広げることが重要になっている。その上でも、この国民投票法案=手続き法案がいかなる内容のものか把握しておくことも必要だろう。
「密告」社会ニッポンになるのか - ゲートキーパー法案
弁護士にうかつに秘密なんてしゃべったら、とんでもないことになる――と、思い浮かべるような法案が準備されている。「ゲートキーパー(門番)法案」(犯罪収益移転防止法案)というらしい。法案が成立すれば、弁護士依頼そのものの存立が危うくなる。だから、日本弁護士会は組織をあげ法案に反対している。
まず弁護士制度の崩壊を招きかねないと思うのだが、もっと深刻な問題を孕んでいるようだ。
法案は、犯罪組織のマネーロンダリング(資金洗浄)などを防ぐ社会の「門番役」として、弁護士など50業種に「疑わしい取引」の届け出を義務づける。人権を守る立場の弁護士らは「密告」することになる。しなければならないのだ。
弁護士にかぎっていえば、
- 弁護士の守秘義務との関係はどうなるのか
- 基本的人権を守り社会正義の実現をめざすのが弁護士の使命だとすれば、知りえた情報を国家機関に密告するというのは、弁護士そのものの否定につながるのではないのか
密告が常態化した社会はかつていくつもあった。
ナチスが秘密警察を置き、批判者や反対者が報告された。政敵、特に共産党および社民党員が政治犯として収容所に収容された事実は周知のことだ。KGBもしかり。日本でも、隣組があった。とんとんとんからりんの隣組♪ という歌詞からは想像もできないが、内務省が布告した「部落会町内会等調整整備要綱」によってうまれた。近所づきあいを盾に、国民の国家管理に利用されたといえる。
ネットの広がりで匿名性が広がる一方で、依然、国家公安委員会などの監視は続いている。この法案でいったいどこまでがんじがらめの社会になってしまうのか、不安は尽きない。人間の社会がコミュニケーションにもとづくものだとすると、社会そのものが成り立つのかどうかも疑わしい。疑心暗鬼の世界だ。
今回の法案は50業種を対象にしている。だが、これはその普遍化に道が開かれているといって差し支えないだろう。しかもその上、政府与党は、これを年度内に成立させようとしているらしい。こんな重要な法案を十分な審議も保障せずに成立させようとする心理が私には少しも分からない。
国民の知らぬ間につくられた法律で国民をしばる。ここにこそ法案の性格が凝縮されているようでしかたがない。その道は、まさに「いつかきた道」につながっている。 ■blogランキング・応援のクリックをお願いします。⇒
追記1;「隣組」制度については、水島朝穂;住民管理の細胞「隣組」が詳しい。
東京新聞(1・26)によれば、対象職種は金融機関、ファイナンス・リース業者、クレジットカード会社、宅地建物取引業者(不動産業)、貴金属取引業者(宝石店、貴金属店)、郵便物受取業者(私書箱を運営する会社)、電話受付サービス業者(電話秘書サービス会社など)、弁護士、司法書士、行政書士、公認会計士、税理士などなど。
追記2;私なんかは、門番といえばすぐにカフカの「掟の門」を思い起こす。門番がたちはだかるのを前に、農夫が下した結論は、門の中に入ることを決定しないことを決定するという面白い話だ。法にしたがうのではなく、法に近寄らないことだった。こんなことが、たとえば弁護士ができるかどうか不明だが。
中央と地方の間で政治をみる
本日25日、通常国会が開会しました。いっせい地方選、そして参院選につながる国会での論戦を各党にのぞみたいものです。今国会は、今後の政局をいかようにも左右する、そんな可能性を秘めています。
ところで、短いスパンでとれば、小泉構造改革のもとで、地方政治はいま直接、間接にその押しつけにさらされているといえるでしょう。地方自治体の本旨は、地方自治法でつぎのように定められています。
第1条の2 地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。
ですから自治体は、住民の健康と生活をまもるために働かないと元々いけないのです。この立場にたって、数少ないとはいえ粉骨砕身奮闘している自治体首長が全国にはいることを私は承知しています。一度はおそらくこの地方自治法の精神に則って行政にあたろうと、どの自治体首長も心に誓ったであろうと思ってみたいのですが、現実の地方議会と行政の実態は、この立場からかけ離れているように正直なところ考えざるをえないのです。
とくに都道府県議会の実態は深刻ではないでしょうか。東京都も、大阪府も、京都府も、およそ議会という議会は、実態として「オール与党」と称されるものになってしまいました。住民の立場にたって本来の自治体の役割である健康、福祉の増進が図られているのであれば何もいうことはありません。でも、こうした立場ではなく、往々にしてこの本来の役目をないがしろにされ、たとえばムダという言葉がぴたりと当てはまる大型開発を優先する行政が全国方々でおこなわれているといえるのではないか。そんな思いがしてなりません。また、国の悪政を自治体がもてる力でくいとめるのではなく、国の悪政を先取りする自治体すらある始末です。この地方政治の実態をまず、私たちは直視する必要があると思うのです。
私は、別のエントリーで「政治とカネ」の問題をとりあげました。公明党議員の政務調査費不正使用問題に関連して、地方議会での各党会派の態度を調べてみると、多くの会派が、不正をただす第一歩といえる領収書の添付に地方議会で反対をしているのです。
国と地方とではちがうという意見もでてきそうな気配ですが、しかし、私は先にのべた政局を左右する時期にさしかかるということを考えると、一つひとつの議案に各党会派がどんな態度をとったのか、いまこそ厳しく監視する必要があるように思います。あなたの住んでおられる自治体の政党配置はどんなふうになっているのでしょう。そこで、各党各会派はどんな態度をとっているのか、一度見渡してみることは決して損にはならないと私は思います。
国政とちがって地方政治では、それぞれの政党のとる対応が表面上は一様でなく複雑で、見えづらい点もたしかにあります。しかし、地方政治を全国一つの総体としてながめたら、「オール与党体制」がそこにみえてくるのです。
いくつかの県で発覚したような汚職・腐敗は、それこそ議会のチェック機能が低下し、十分な審議もしないまま議案が可決される「オール与党体制」にその一因があるように思えてなりません。
この「オール与党」といわれる政党配置が、中央政治にもちこまれようとしている。それは自民、民主という二大政党制の名で、とくに最近、財界がその旗振り役をひきうけ前面にでて強引に道を開こうとする形で、です。この間の政治資金規正法の改悪にみられるように、アメリカと財界の思うように中央の政治をコントロールしようという意図を「敵」は隠そうとしていません。また、経団連が政党の点数づけをおこなって政治資金をばらまくという構図はもはやだれにでも容易にみえるようになりました。
こんな策動にやすやすと乗っていく政党があるとしたら、それには厳しい審判を下す必要があるでしょう。そう強く思います。重ねていえば、一つひとつのとる行動をじっと監視すること、これがいま国民に求められているように思えるわけです。
この意味では、国政もまた、ちょっと目をそらすとオール与党体制がすぐにでもできあがる下地がすでにできているとみなくてはならない。だから、そうであるとすれば、民主党の小沢さんが与野党逆転といっている意味もまったく変わってくる。与党、野党の区別すらつかない実態にいまあるのに、これはいったいどういうことか。与党である、野党であるという枠組みではいま、自民党の政治に反対だという国民の思いにこたえることはできないのではないか、こんなふうに思うのです。
いっせい地方選の結果が参院選にも大きく影響することを考えると、地方政治にいま目をむけておくことが重要だといえるのではないでしょうか。
ブログに何ができるのか
『ウェブ進化論』をものした梅田望夫を時代の寵児とよんでも差し支えはないだろう。その梅田と、気鋭の小説家・平野啓一郎の対談に興味をもった。もっと突っ込んでいうならば、私の関心は、さきにのべた社会の変容をどのように平野がとらえるのかにあって、そこをつまびらかにしたいという思いにとらわれたのだった。その対談は、『ウェブ人間論』(新潮新書)に詳しく記されている。
そこで、私は、このエントリーのタイトルを「ブログに何ができるのか」としたのだが、それは裏を返せば、ブログでは何ができないのかを明らかにすることにほかならない。2人の対談はその理解を深めるのに大いに役立った。
平野が本書「はじめに」で、対談では「見解の相違が鮮明になることはあったし、議論がそれぞれのアイデンティティに触れるような場面では、緊張を孕むこともあった」と率直にのべるように、対談者2人の意見の相違があちこちで散見される。そこが面白い。
その象徴的な部分を一つあげておきたい。それは、ブログで何ができ、何ができないのかに大きくかかわっていると思うからだ。
まず平野はこのようにのべている。
独り語り型のブログって、他者の存在を切断した、一種の真空状態で紡ぎ出される言葉でしょう?
リアル世界では、他者の思惑に翻弄されて、自分の言いたいことがうまくいえない、あるいは場の雰囲気で喋らされているようなところがある、だから、独りになったときに吐き出す言葉こそが本当の自分なんだっていうのは、分かるんですけど、正しくないように思うんです。やっぱり、ある人がどんな人かっていうのは、結局、他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている。誰もいない場所であれば、どんなことでも言えるけれど、そういう人間は、ネット上で一見言葉によって実在しているように見えて、本当はどこにも存在していないんでしょう。
この問題提起に、梅田はつぎのように応えているのだが、二人の意見に大きな差異を見出すのは容易だ。
梅田 そういう面はたしかにあるんだけれど、島宇宙化していっても、ネット上でのオープンソースが一つの例ですし、それから趣味の世界でも、深まっていく創造の喜びをネット上で追求できますよ。
平野 趣味の島宇宙的なコミュニティに属するというのは、僕は基本的に微笑ましいことだと思いますけど、そこで得られる同じ島宇宙の住人からの承認っていうのは、なんていうか、見て見ぬような感じだと思うんです。
同じ音楽が好きな人と会えば、……会っているとそこを突破口にして相手のもうちょっと深いところに手が届きそうな感触もありますけど、それがネット上のやりとりだけの場合はどうなのかな、と。そうして認められることに他者からの人格的な承認の幻想を託して、現実は結局何も変わらないまま放置されているという状態が、他人にとって幸せなのかなと。
梅田 うーん。ネットとリアルをそこまで区別しなくてもいいと思うんだけれど……。じゃあたとえば、リアル世界の現実は何も変えないかもしれないけど、ネットの世界で補う、っていうのはどうですか。
・・・・・・
「リアルの世界って生きにくいな、こんなところでサバイブしていかなきゃいけないんだな、じゃあ仕方ないから生きるために知恵を身につけなくちゃ」と何とかやり過ごすことって、生きていくうえで重要なことなんじゃないのかな。
平野 今の世の中は、他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属していることの安住感というのは、その外側を存在させなくなってしまうんじゃないか。僕はやっぱり、現実が嫌な時には、改善する努力をすべきじゃないかと思いますけど。
梅田 努力して、自分に適した場所に移るということですよ。ネットの情報がそのきっかけになるということかもしれないでしょう。それはいけませんか。
平野 合わないから移る、というのはいいと思いますけど、変えるべき現状があって変えないというのはどうですか? これは、政治の問題まで含めてのことですが。
議論は交差していて、少しも交わってはいない。どこまでも空転している。
しかし、このやりとりの後で、梅田がつぎのように語っている。あまりに楽観的なといえるような梅田のものいいであると私は思う。
「リアルの現状は改善する方向へ努力しなさい」というテーゼより、「今の環境が悪いんだったら、他の合う場所を探して、そちらへ移れ」という方が時代に合った哲学のような気がしています。
これは一見、まともな主張のように受け取れるが、「他の合う場所に移る」条件が等しく与えられている場合にこれは妥当する。が、現実には移動できる条件が一様ではなく、異なっており、それが問題なのではないか。平野はむしろそこに言及しているのではないか。だから現状をかえなければならないのだ。
ブログに何ができるのかという問題の設定はこの点にかかわるだろう。より議論を精密にするためには、独り語り型のブログとおそらく対極にあると思われる政治ブログに絞らないといけないのだろう(こういってしまうと政治ブログを定義をしないといけないのだが、ここではそう自認するブログすべてのことととりあえずしておく)。
要するにいいたいことは、2人の対談で明らかなように、「他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属」しないブログ世界をどうお互いにつくっていくか、ということに尽きる。それは、換言すれば、ともすればそうなりかねないブログの「島宇宙的な世界」と現実の社会との緊張関係をいかにお互いが保つかということだ。多くのブロガーが現実社会と対峙していることを知っているつもりだ。だが、そこをいったん踏み外すならば、それはおそらく政治ブログとはよべないだろう。なにより政治とは、現実社会の「他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている」(平野)のだから。
―――――――――――――――
梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書)
NHK受信料の徴収を外部委託に -総務相が意見書
菅総務相は、NHK受信料の徴収について外部委託をふくめた見直しを、NHKに要請する考えを示した(朝日新聞1・23web版)。これはどんな意味をもつのか。
記事は、「通常国会に、08年度からNHK受信料の支払いを義務化する放送法改正案を提出する予定で、義務化の見返りに受信料を2割程度下げるよう要請する方針。受信料徴収の外部委託を通じてコスト削減を進め、値下げの原資にする狙いもあるとみられる」とのべるが、この間のNHKにからむ問題の経過を考えると、肯くわけにはいかないように思える。
そもそも受信料の徴収については、これまで専門家をふくめさまざまな意見が出されてきた。たとえば、一昨年4月、学識者など111名のよびかけ人連名の「『公共放送』NHKの再構築に向けて」という提言が発表されている。それによれば、NHKが表明している、裁判所の民事手続きを使った受信料の「支払い督促」は、事実上の「強制徴収」であるとの認識を示し、現行制度内での受信料の「強制徴収」は止めるべきだ、という提言を最初にかかげた。
提言は、(強制徴収は)視聴者との信頼関係を基礎にした現行受信料制度の精神に反する。支払い督促は、未契約者には適用できないなど、視聴者の受信料に対する不公平感をさらに拡大させ、ひいては受信料制度を自ら破壊し、NHKの存立基盤を脅かすものとなる、と懸念を表明している。
この提言の立場に賛成であれ、反対であれ、いま思い起こされるのは、NHK改革論議の密室性だ。ふりかえってみると、一昨年の「通信・放送の在り方に関する懇談会」(竹中懇=座長は松原聡・東洋大学教授)から「規制改革・民間開放推進会議」(議長;宮内義彦・オリックス会長)につづく流れのなかで、政府や与党がすすめてきたNHK「改革」の議論は、国民・視聴者の声に耳を傾け、放送の公共性の問題に正面から向き合うという点では、少なくともなかった。国民にはマスメディアをとおした断片的な情報しか耳に入らず、議事録も公表されない、まったく密室の作業としか写らなかったのだ。
「民間にできることは民間にの原則」をNHKにも適用することを明言し、公共放送として受信料収入で行うものは報道に限定、芸能や音楽、スポーツ等は切り離すこと、としてきたのが先の2つの懇談会・推進会議だ。文化やスポーツに公共性はない、とまるでいわんばかりの答申だった。「懇談会」も「規制改革会議」も、全国で地上波デジタル化が展開する2011年に照準を当てていた。デジタル化で通信と放送の乗り入れが技術的には自在になるため、その時の「自由な事業展開」ができる条件を整えたいという意向だったのだ。
そして最近、受信料義務化がうちだされた。受信料は、政治権力や大企業スポンサーに依存せず、国民が支える公共放送の財源といえるだろう。それが義務化されれば、一方的に視聴者だけが支払いの責任をおしつけられることになる。公共放送の解体にもつながる。
一昨年来、職員の不正経理問題や番組内容に自民党の政治家が圧力をかけ改ざんしたなどの問題が相次ぎ、受信料の支払いをストップする視聴者が急増した。NHK改革に求められるのは、何よりもこうした国民・視聴者の不信や批判にこたえることではないのか。
受信料の支払い義務化や不払いへの罰則の導入は、あたかも受信税ともうけとれるような義務化が国民の負担という観点から無視できないばかりでなく、政府いいなりの「国営放送」化への道をひらく危険と背中合わせだといえる。
財界の意をうけた政府与党のすすめているNHK「改革」は、つまるところ、公共放送であるNHKを解体・縮小するねらいがあって、それが経過に見え隠れしている。国民の共有財産であるのが公共放送ならば、国民の声も聞かずにNHKを解体することには異をとなえざるをえない。
放送の公共性を考える際に大事なことは、何よりも放送が一部の大企業の利益、時の権力のためではなく、国民の利益に役立つものという視点だろう。改革をいうならまず視聴者の声を聞け。それに耳を傾け、信頼を取り戻し、公共放送としての役割を発展させる道をさぐることではないか。
受信料を義務づけるのではなく、受信料が個人との契約である以上、公共放送を支えるという視聴者の主体的な意思が発揮できるような改革こそ望まれる。いわんや番組への政治の介入などは国民は認めることはできない。
こんな文脈で考えると、今回の受信料の外部委託は、さらに公共放送の解体へすすむ道をまた一歩前に踏みだしたと思えてならない。
「非小泉化した安倍」とは正しいのか? -安倍政権の評価
安倍晋三が総理とよばれるようになって、まもなく4カ月になろうとしている。わずか4カ月という思いもあって、それだけにこの時期にその力量をうんぬんするにはためらいがある。だが、割り切っていってしまえば、安倍をとりまく状況はまさに内憂外患といえるだろう。
たしかに安倍はヨーロッパ、中国、韓国を訪問した。また、先の東アジア首脳会議では、拉致問題の解決のために努力することを盛り込んだ議長声明の確認に「成功」した。
こんな経過があるからだろうか、つぎのような論評が新聞に掲載されており、それを目にした。それは、とくに小泉時代の東アジアでの孤立状況から脱出したかのように主張したものだ。
論評とは日経新聞(1・21)「風見鶏」の記事だ。「小泉外交を対米従属、アジア軽視を批判した人は、安倍外交を評価しないと一貫性を欠く」という大上段に構えた書き出しではじまるこの記事は、つづけてつぎのようにのべている。
彼らが求めた対米自立、アジア重視を意外にも安倍晋三首相が実践した。2006年9月に就任、アジアを3回訪れたが訪米はまだない。
この記事は、日本側の離米の姿勢を強調しているのだが、その論拠にしているのは、以上にみられるような米国以外を初外遊先とした歴代首相の訪米した時期の比較だ。これによると、安倍が訪米を予定をしても早くて(連休の)4月末だから、これは鈴木善幸の就任10カ月後につぐ遅れだと指摘する。しかし、このことを根拠にはたして離米の証拠といえるのだろうか。
外交だから、もとより関係国の思惑がそれぞれある。東アジアで拉致問題が声明に盛り込まれた背景には、日本の意図がどうであれ、それとは別に、たとえば中国の、そして韓国の外交的な思惑がそこにあったはずだ。それにあえてつけ加えるならば、拉致問題が具体的に何かが前にすすんだわけでは決してない。これをもって「アジア重視を意外にも安倍首相が実践した」と「日経」の論評が言い放つのは早計にすぎるだろう。
何よりも私が不思議に思うのは、安倍の離米をこの論評がとりわけ強調することだ。「小泉外交を対米従属、アジア軽視を批判した人は、安倍外交を評価しないと一貫性を欠く」と断言するには、安倍政権が対米従属でなく、アジア重視であることが証明されなければならないだろう。だが、「非小泉化」とは、とてもいえない安倍政権のこれまでである。私は率直にこう思う。
むしろ、安倍政権においても対米従属の関係は依然として維持されていると私は思う。それだけではなく、当ブログでは再三のべてきたつもりだが、アメリカの世界戦略のもとに目下の同盟者としての役割を日本は忠実に果たしているように思えてならないのだ。例をあげると、補助金まで出して米軍基地再編をすすめる政府の精神性は何なのか、あるいは対日年次要望書を受けてつぎつぎに分野を広げ規制緩和をすすめる精神性は何なのか、これほどまでにアメリカにひれふす日本の姿が私は不思議でならない。実態は、喜八さんがいうように日本はアメリカの属国なのである。論評は、意図的かどうか定かではないが、この点を明確に欠落させている。
それだけではない。東アジア共同体をほんとうに日本政府が考え視野に入れているいるのかどうか。私はいまだに確信がもてない。朝日新聞社説(1・16)が「東アジア 同床異夢の船旅だが」という社説をかかげたが、私のいまの感想はこれに近い。この社説はつぎのようにのべていた。
13カ国案を掲げて主導権を握ろうとする中国。これを牽制(けんせい)するため、インドなどを加えた構想を推し進める日本。一連の会議は、東アジア共同体をめぐって日中が異なる絵を描き、今の段階では中国が押し気味であることを印象づけた。
しかし、もともとが遠大な構想である。10年やそこらで実現するものでもない。目先の星勘定に一喜一憂するのでなく、それぞれが共同体づくりに向けて知恵を出し合っていけばいい。
少なくとも東アジアにおいて日本のイニシアチブが発揮されているとは誰も思っていないのではないだろうか。
安倍首相を取り巻く環境は、就任以来の閣僚をはじめ安倍が任命した人物にまつわる「不祥事」が安倍自身の任命責任を顕在化させ、あるいはたとえばタウンミーティングのやらせ質問にみられる前政権からの尻拭いなど、きわめて厳しい。教育基本法は無理やり成立させたものの、「教育再生会議」の議論の無内容性など、ことごとく公表してきた政策が「期待はずれ」であり思い通りに運んでいないのは、衆目の一致するところだろう。その最たるものだが、ホワイトカラー・エグゼンプションは打ち上げたものの提出することすらできなかった。つまり、このほぼ4カ月の内政は芳しいとはとてもいえない現実がある。
現在の日本の政治状況を以上のように考えるならば、この「日経」の論評は特異ではないか。世論調査の結果では、支持率の低下が著しい現内閣である。記事は安倍カラーをどこかに見出そうとして、外交の「非小泉」ということにいきついたのだろう。
だが、現実にはわれわれの前に現われているのは、よりアメリカに寄り添う安倍政権の姿勢である。その意味では、「日経」のこの記事がいう「非小泉」とは誤認だと指摘せざるをえない。本来、ただしく今の政治状況をとらえるための判断材料を国民に提供するのがジャーナリズムの使命だと思うのだが、国民をミスリードするように思えてならない。
納豆ダイエット捏造番組にみるマスメディア
ところが、番組はフジテレビ系で放映されたのだが、この番組が捏造であることが明らかになった。問題の番組は、「発掘! あるある大事典Ⅱ」(1月7日放映、関西テレビ制作)。
関西テレビは20日会見し、「事実とは異なる内容が含まれていることが判明した。おわびを申し上げます」と謝罪した。同テレビが明らかにした点は、①3枚の比較写真が被験者とは無関係だった、②アメリカの学者の日本語訳コメントが紹介されたが、内容をふくめてこのような発言はなかった、③測定していない8人の被験者の中性脂肪値などが紹介された、④血中イソフラボン値は測定されていない架空のもの、⑤血液は採取したものの架空の値―の5点。あきれるばかりのでっちあげ番組だったわけだ。
マスメディアにはいま、権力の側からも、そして市民の側からも厳しい批判の目が向けられている。今日のメディアの現状を憂いつつもどうしようもないていたらくぶりに常に直面せざるをえない現状から、たとえばブロガーのなかで、マスメディアは「マスゴミ」などと称されてきた。
今回のフジ系の捏造は、このように酷評されてきたメディア界が今日も依然として改善されず存在していることをあらためて示す結果になった。
こんな捏造番組ややらせ番組がなぜ起きるのか。梓澤和幸『報道被害』が、日本のマスメディアの現状をよく分析している。タイトルで明らかなように、梓澤の著書は直接には、報道被害を軸に、今日のメディアの現状をふまえて今後の報道のあり方を提言したものだ。無実の人を犯罪者のように扱ったり、「悲嘆の極致にある遺族の心を傷つけたりするような取材や報道」がなぜ繰り返されるのか、それを明らかにしている。その意味で今回の捏造問題をとらえる上で梓澤の著書はヒントを与えてくれた。
今回の捏造番組が報道被害だというのではない。しかし、捏造を生むメディアの報道姿勢にはおそらくその延長線に報道被害を生む要素をすでにはらんでいると考えるからだ。その要因は、ひとくくりにすれば商業主義といえるのではないか。このなかで、メディアの取材が過度の競争のもとにおかれ、各局・各社が争うのは視聴率と販売部数だ。しかも利益優先の経営のもとで効率的な取材が要求される。ここに捏造を生む素地がある。そこには視聴者・読者、市民の視点はない。たしかに、仕事柄、マスメディアの取材やインタビューを受けたりすることが私自身もあるが、その経験からも、しゃべったこととは異なる内容で活字になったり、こちらの意図している部分とはまったく関係のないところが放映されたり、扱いに不満をもつようなことがなかったとはいえない。
梓澤はつぎのようにいう。
ジャーナリズムの本来の役割は、権力監視であり、人間の社会環境の監視です。民主主義社会の権力とは、議会の多数派、市民や住民の多数派によって支えられた権力です。ジャーナリズムが、真摯にその使命を達成しようとすると、少数者が切実に必要とする真実、多数派によって隠蔽された真実を明らかにすることになります。それはときとして、多数派のもつ理念、意思、感情と、矛盾や衝突を来すことになりますし、それを貫いてゆけば、多数派の読者、視聴者によって好まれることにはならないでしょう。それでもあえて本来の役割を貫く覚悟がメディアの経営者たちに求められているのです。
そうであるならば、私たち市民にもとめられているのは、みずからの社会と運命をえらびとっていく主体として権力や社会環境などあらゆる分野への関心を高め、報道と取材に反映させていく力をつけることに尽きるといえるだろう。
マスメディアの役割は決して小さいものではない。だからこそ、梓澤のいう権力監視、人間の社会環境の監視という立場にしっかりと立つようメディアが自己変革するためにも、われわれ市民の自己変革もまた求められているといえそうだ。
追記;梓澤によれば、報道被害をつぎのように定義できる。
報道被害とは、テレビ、新聞、雑誌などの報道によって伝えられた人々がその名誉を毀損されたり、プライバシーを侵害される人権侵害のことで、生活破壊、近隣や友人からの孤立をもたらすもの。
―――――――――――――――――――――――――――
梓澤和幸『報道被害』(岩波新書)
■blogランキング・応援のクリックをお願いします。⇒
- トラックバックピープル・安倍晋三、AbEndフォーラムもよろしかったらご覧ください。
機会の平等 -差別を伝えるいくつかの記事にふれて
結果の平等・不平等を論じる際は、人が就職活動や経済活動などを行うことによって得られた成果は、すなわち所得や資産といった経済成果などに注目して、それに格差があるのかないのかを論じます。
一方、機会の平等・不平等の場合は、人が職業活動や経済活動を行うための機会について格差があったのかなどを論じます。たとえば、人は学校で教育を受け、やがて就職し、企業の中で昇進をしていきます。そのような3つの教育・就職・昇進のそれぞれの段階において、みんな平等に機会が与えられているのか、与えられていないのかということに注目するのが、機会の平等・不平等です。
このように橘木氏はのべて、機会の平等について2つの原則があることを説いています。ここでは最近のいくつかの事件をとおしてみて、機会の平等について考えたいと思います。
この2つの原則とは、「全員参加の原則」「非差別の原則」です。
「全員参加の原則」とは、人が教育を受けたい、就職したい、昇進したいと希望した時に、望む人であれば全員参加できる、すなわちそのための候補者となる機会がすべての人に与えられるという考え方です。いまひとつの「非差別の原則」とは、教育を受けたいとか、就職したいとかを考えたときに、そこに選抜は避けてとおることはできません。この選抜をおこなう際に差別してはならないという考え方です。性別や年齢によって差別されることがあってはならないということです。
この2つの原則が保たれていれば機会の平等が与えられているといってよいのでしょうが、しかし、現実にはそれが保たれていないことが多い。別のエントリー(教育貧困国ニッポン -格差拡大もたらす)でふれた、大学授業料をめぐる問題は、まさにこのうちの「全員参加の原則」が貫かれていないことをさしています。親の経済的理由によって、入学選抜から除外されているのです。
そこで、一昨日19日の新聞では、石川島播磨重工業の40年の思想差別に関して労働者168人と和解したことを報じています(朝日新聞1・19電子版)。
この思想差別は、日本共産党員やその支持者とみなした労働者にたいするものでした。今回、石川島播磨は、労働者にたいする思想差別を反省し、詳細な再発防止策を約束しました。
この和解について朝日新聞は以下のように伝えています。
労働組合活動や特定政党への支持を理由に昇進などの差別を受けたとして、従業員ら計168人が石川島播磨重工業(本社・東京)に謝罪や損害金の支払いを求めていた問題で、19日、和解が成立した。会社側が差別を認めて再発防止を約束し、解決金10億円程度を支払う。
差別を受けたと主張していたのは東京、神奈川、愛知、兵庫、広島の6事業所の従業員44人と元従業員124人(5人は遺族が訴えを継承)。
従業員側の弁護団によると、会社側は共産党の支持者であることや組合活動を行ったことなど思想信条を理由に、60年代後半から差別を続けてきた。昇進が阻まれ、職場の懇親会からも排除されたという。
和解協定書で会社側は「いやしがたい苦痛を感じたことを、重く受け止める」と反省の意を表明した。従業員側の弁護団は「企業による思想信条差別を巡る問題では、和解の対象者が過去最大規模。会社側が反省の意思を明確にしたのも画期的」としている。
これは、橘木さんの論脈にしたがって考えてみると、共産党員あるいは支持者であることや組合活動を行ったことなど個人の思想信条を理由に、「全員参加の原則」も「非差別の原則」も踏み外しており、許されてはならないことです。「職場八分」にあって40年も差別に苦しみ、裁判をたたかうこと自体、私たちの想像を超えており、当事者のみなさんの苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったにちがいありません。
けれども日本の現実は一様ではないようです。
このような職場に自由を取り戻すために思想差別と労働者が長年たたかい勝利した反面で、玉川大学では時代錯誤の差別がおこなわれています。神奈川朝鮮中高級学校の高級3年の男子生徒が今春の玉川大(東京都町田市)一般入試に出願しようとしたところ、大学側から「朝鮮学校の生徒には受験資格がない」と拒否された事件です。
この事件については、非国民通信さんの記事「学力よりも気になるものがあるらしい」が秀逸です。さらに、ぜひ一度ご覧いただければと思います。これもまた、先の2つの原則を逸脱した典型だといえます。非国民通信さんの記事は、理由を開示することなく、門前で拒否をする玉川大学への痛烈な批判となっています。(「多文化・多民族・多国籍社会で『人として』」さんも丁寧にこの事件を追っておられ参考になります)。
これら2つの事例は、思想・信条における差別、そして在日外国人という差別によって、機会の均等を奪うものだといえます。玉川大学の受験拒否は、国際的、そして日本の今日の到達をふまえても前時代的な姿勢であって、即刻ただされなくてはなりません。
しかし、いまの安倍政権のもとですすんでいる事態は、私たち国民が無関心でそのまま放置すれば、いっそうの「格差」、すなわち個人の責任に帰することのできない、社会的な「機会の平等」を脅かす事態をさまざまな面でもたらしかねない様相をすでに呈し、いっそう深刻化するといっても過言ではありません。たとえば教育再生会議で検討されている内容はどうでしょうか。そして、共謀罪で企まれていることは、いうまでもなく個人の思想・信条と無縁ではなく、その自由を根底から脅かすものでしょう。
こうした「機会の平等」という一つの視点にかぎってみてもそこに現れる「格差社会の現実」は、すなわち憲法の精神の侵食にほかなりません。
■blogランキング・応援のクリックをお願いします。⇒
- トラックバックピープル・安倍晋三もよろしかったらご覧ください。
- AbEndフォーラムもあわせてご覧ください。
憲法99条-一分(いちぶん)ということ
地方紙の短いコラムを紹介したい。首相が改憲への意欲を示したことにふれている。
短いが、政局をぎゅっと凝縮して核心を衝いている。
「国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」。こう定めている憲法九九条をないがしろにしていないか。
安倍首相の言動である。年頭所感では憲法改正に前向きの姿勢を鮮明にした。「憲法は国の理想、かたちを物語るものです。新しい時代にふさわしい憲法を今こそ私たちの手で書き上げていくべきものです。憲法改正について国民的な議論が高まることを期待しております」
北大西洋条約機構(NATO)理事会では、白本の首相として初めてスピーチしてこう述べたという。「国際的な平和と安定のためなら自衛隊の海外活動をためらわない」。防衛省発足や自衛隊の海外派遣が本来任務となったのを受けたのだろうが、憲法九条は健在だし、集団的自衛権は認められていない。
「憲法は国の基本法です。私の内閣は憲法の平和、国民主権、人権尊重の理想を実現するために全力を尽くします」。九九条の理念からすると、これくらいの年頭所感を出してもらいたい。首相たる者は、憲法の重みを受け止め、これを愛する心がほしい。
== 『西日本新聞』(「潮風」、1・17夕) ==
とりあえずは憲法96条にかかわって国民投票法案=手続き法案が国会の焦点となる。だが、このコラムはそれ以前の「憲法を尊重し擁護する義務」にたちかえることをよびかけたものだ。国民投票法案をめぐる状況は決して予断を許さない。
いろいろと批判の的となるマスメディアだが、こんな記事もあるのだ。マスコミは改憲であっても格差社会であっても国民にとって重要な問題で、政府与党はどんな態度をとっているのか、あるいは各党がどんな態度をとっているのか、その違いを明らかにし、国民に判断の材料を与える役割がある。現状は国民が正しく判断するにたる記事は少ないといわざるをえない。短いコラムだからすべてを尽くしているわけではないが、この記事はポイントをよく伝えている。
そうこうしているうちに安倍晋三が19日、共謀罪の成立を関係閣僚に指示したことが伝えられた。手続き法案でも共謀罪についても、マスコミにはその役割にふさわしく正確な報道をのぞみたい。
最近、映画『武士の一分』をみた。「武士の一分」とは、侍が命をかけて守らねばならない名誉や面目をいうらしい。
首相にも「一分」があるとすれば、この記事はその一分について見事に指摘している。
追記;憲法99条は以下のとおり。
第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
■blogランキング、もっとガンバレの声を右記バナーのワンクリックで。↓
- トラックバックピープル・安倍晋三もよろしかったらご覧ください。
- AbEndフォーラムもあわせてご覧ください。
イラク増派・ブッシュの後を追う安倍政権
朝日新聞(1・18、web版)によると、米大統領・ブッシュが発表したイラクへの2万人の米軍増派にたいして、増派に反対する超党派の決議案が準備され、来週にも採択される見込みだ。
ブッシュの増派発言については米議会内では民主党だけでなく、共和党からも反対の意見がでていた。大統領の孤立ぶりが明らかにされた格好だ。
決議案は「米軍のイラク駐留は、米国民と超党派の議会の支持がなければ維持できない」との認識を示した。そのうえで「イラクへの軍事的な関与を深めること、特に米軍の増派は国益にかなわない」としている。
田中宇氏の手にかかると、このブッシュ発言もちがった色合いをみせる。田中氏はこの発言はさして目新しくはなく、人々びとを驚かせたのは、演説の最後の方で述べられた別の戦略だったという。ブッシュは「イラクの近隣国であるイランとシリアは、イラクの反米ゲリラに資金や武器を供給したり、ゲリラを軍事訓練したりして、アメリカのイラク再建を邪魔している。イランとシリアの妨害工作を潰すため、戦線を拡大する」という戦略を明らかにしたのだ。この田中氏の指摘どおりだとすれば、戦火はさらに広がる。
話をもとにもどすと、イラク戦争での死者数に関する、民間団体の「IRAQ BODY COUNTER」による調査がある。それによると、民間人死亡者は、最大59606人、最小53988人(日本時間;19日15時30分、左表)。
また、朝日新聞(「イラク民間人死者3万4千人 国連報告」、1・16)が報じたところでは、イラクで06年に殺害された民間人が3万4000人を超えることも明らかになった。激しい宗派対立の続くバグダッドでの犠牲者が特に多いという(バグダッドの国連事務所発表)。
イラクからの帰還自衛隊員の自殺者について幣ブログでも言及した。コメントをいただき、すでに死亡者について報じたメディアが存在することを知らせていただいた(『週刊現代』06・7・15、「『イラク派兵』自衛隊員『戦死者(自殺)5人とPTSDに囚われた“帰還兵たち”」)。自殺者の増加は戦争の残した大きな傷跡だと私にはみえる。真相はこれから明らかにされるのだろうが、これは無視できない、重大な問題だと思う。
これほどの犠牲者を現にうみだしている局面で、当事者であるアメリカのなかでも先にあげた議会内の議論のようにイラク戦争の評価は定まりつつある。少なくとも増派について米国内で6、7割が反対ともいわれ、いよいよブッシュは窮地に立たされているようだ(米CBSニュースが11日に公表した世論調査では、ブッシュ大統領のイラク増派方針について「反対」が63%で、「賛成」31%を大きく上回った)。
しかし、わが安倍晋三は12日、日本首相として初めて北大西洋条約機構(NATO)本部で開かれた理事会で演説し、日本とNATOとの継続的な協力を訴えた。その安倍を、仏紙リベラシオンは、「ふんぞり返る日本」と題した記事で「経済大国に対応する政治的、軍事的な地位を得ようとする意思は、超国家主義的発熱を伴っていなければ何の問題もなかっただろう」と書き「平和主義に背を向ける」日本に厳しい目を向けた。
たしかに、決議案には米大統領を拘束する力はない。これをよいことに、ブッシュは決議案無視を決め込んでいるようだ。しかし、米議会内でイラク増派反対の決議案を超党派で提出する事態にいたったことは、明らかにイラク戦争の新しい段階への移行を示すものだろう。
この情勢の変化のなかで、はたして、アメリカ国民には安倍と日本のこの姿はどのように映っているだろうか。
NATO発言だけでなく、安倍政権は、アメリカ・ブッシュの戦略のもとで米軍再編を補助金をちらつかせ、遮二無二すすめようとしている。どこまでもどこまでもブッシュのあとをついていく影法師・安倍晋三だ。イラクの惨状を一度直視せよ。あろうことか、と私は思うのだが、イラク派遣部隊隊長が自民党公認で参院選出馬を予定しているという。
政府・与党がどのような行動をとるのか、よく見極めることが必要な、たいへん重要な時期になっている気がしてならない。
- トラックバックピープル・安倍晋三もよろしかったらご覧ください。
- AbEndフォーラムもあわせてご覧ください。
« 前ページ |