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不破哲三「マルクスは生きている」
日本共産党の書記局長・委員長・議長を務めてきた人物。共産党と聞いただけで、触手が動かないという人がいるかもしれません。が、一読の価値はある。平凡社が新書で出したものです。
マルクスは生きている。もう一昨年になってしまいましたが、米国発の金融危機の影響が一気に全世界を覆い尽くしました。当の米国では、最近までは考えられなかったような世界に名立たる米国の大企業が倒産に至りました。この現象をふまえ資本主義の限界を指摘する論調が現れてきたのは周知のとおりです。ゆきづまりの観を呈する今日の事態に、有効な処方箋を描けない資本主義。
反して、だからこそ、かつて搾取という資本主義の秘密を明らかにし、その資本主義からの脱却の筋道を示したマルクスが一方で注目されはじめたのは当然といえないこともありません。
しかし、不破さんが書くようにマルクスほど誤解の多い人物もないだろうと私も思いますが、今日、マルクスに反対の人も賛成の人も、マルクスのいうところに着目してみようと主張する人が目立っている。まさに、「マルクスは(現代に)生きている」という意味で、ふりかえってみようというわけです。
マルクスを嫌いであろうと好きであろうと、マルクスが歴史上、もっとも有名な思想家であり、経済学者であり、そして革命家であることに反対する人はいないでしょう。
私たちが不幸なのは、社会主義がソ連という国家をとおして理解されてきたということでしょうが、そうした歴史的経過が、社会主義像とマルクスへの誤解を拡大してきたといえます。
ところが、今日、資本主義からの社会的発展を図ろうとする国ぐには、南米諸国連合にみられるように、新自由主義のはたんを経て、地球上に次々に誕生しつつある。それぞれの国の事情も反映し、一色で表すことはできないにしても、米国という覇権主義の支配、くびきから脱却し、新自由主義に反対する地域的共同体をめざそうとしているのです。この動きは、かつてのソ連を先例にしているわけでもありません。
世界のこのような現在の動きは、資本主義の限界が露呈するという現実政治の中で、資本主義にとってわかる新しい進路選択という形で、社会主義をめざす方向が模索されているのではないでしょうか。この意味で、マルクスが生きているのです。
章立ては、第1章 唯物論の思想家・マルクス、第2章 資本主義の病理学者・マルクス 第3章 未来社会の開拓者・マルクス、という具合に構成されています。不破さんは、マルクスのこの3つの顔を平明で、かつ興味深いエピソードを交え紹介しているように思います。
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『理論劇画 マルクス資本論』- 現代の難問をマルクスはどう解く
そんな出来事があった時期、彼は着々と出版の準備をしていたわけです。
その本は『理論劇画 マルクス資本論』。彼は、漫画評論を日ごろものし、『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』を著していますし、彼自身が自らマルキストを名乗っているわけで、この2人の彼がほどよく調和され『理論劇画 マルクス資本論』を世に問うたということになるでしょう。彼は、この本の構成・解説を担当しているのです。
世界的な金融危機といわれて久しいものです。経済指標は時を追って下方修正しないといけないほど影響が深く広く広がり、まるでボディーブローのように日本社会を襲っています。IMFなどは先進国の中で日本がもっとも深刻だと言い切っているほどです。もちろん日本だけでなく、たとえば米国では、一昔前には考えられないような巨大企業が経営破たんに陥り、つい最近はあのクライスラーも倒産する羽目に至りました。こうした状況に、現代の資本主義が実効ある対策をなかなか打ち出せずにいて、資本主義の危機が語られることも少なくありません。日本では、小林多喜二の『蟹工船』が広く読まれ、誰も想定しえなかったブームが訪れました。つまり若者がまったく知らないはずの蟹工船の時代を、自らの置かれている環境に重ねて読んでいるわけでしょう。そして、資本主義がこれだけのほころびに直面しているからこそ、対極にあるマルクスの思想が注目を世界中で浴びている。
紙屋さんは、マルクスが資本論で叙述した資本の行動を今日に移し変え、今日を理解する上でも資本論に親しんでもらおうと考えたにちがいありません。それでも、資本論は並大抵ではありません。挑戦することはできても、挫折を経験しないではいられないのかもしれません。挫折に至らなくても、挫折と深刻にとらえる前に、すでに投げ出すのが圧倒的なのかもしれません。
そこに、紙屋さんは今回、挑戦したともいえる。
彼の解説(の表題)を列記してみましょう。
- 金融危機で一挙に200兆円もの損失が生まれた理由
- 資本の目的はもうけにある。人びとのためではない
- 資本家にもいい人がいるという議論があるけれど……
- 日本の最低賃金を『資本論』で検証すると?
- マルクスの時代にも請負・派遣業者はいたのか?
- 日本の労働時間は『資本論』の世界そのままだ!
- “大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”
- 時代を超えてよみがえった資本家の悪知恵=派遣法
- マルクスが予見していた正社員と派遣との分断策
- 豊かさの一方の貧困 生産力を社会のために使えば解決
興味深いテーマだと感じられませんか。私たちの今いきている現代の直面している難問がここに設定されています。つまるところ、紙屋さんは、マルクスにかわって、現代の難問を『資本論』で読み解こうとしているのです。マルクスはいやだ、どうもという人も一度は読んでいただいて損はないと私は思います。
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*1;紙屋高雪。漫画評論サイト「紙屋研究所」を主宰。
湯浅誠『反貧困』-「すべり台社会」から脱出するために
たしかに横山源之助が工場労働者をはじめ職人・都市の極貧者などの生活を、詳細な調査で世に問うたことを、私たちは知っている。1890年代後半の当時の社会を描いたものだった。しかし、横山の本が当時の社会にインパクトを与えたとは想像しがたい。むしろ今日、あえていえば貧富の差が格段に広がると同時に、貧に近いところに位置するものが多数を占めるという実態が明らかにされてきた。この変容を後押ししてきたのは、いうまでもなく新自由主義的諸政策を政府がとってきたことにあるだろう。その意味で、今日ほど、貧困の問題がさまざまな視覚から語られることは、かつてなかったといってもよいのではないか。
これほどに貧困がジャーナリズム、メディアで語られ、報じられる状況をつくり出した一人に、湯浅誠とその実践と言説があると私は思う。別のいいかたをすれば、彼の言説は、実践にうらづけられていて、動かしがたい重みをもっている。したがって、現状を少しでもよい方向へ打開しようとするときの、方法論もまた、現実的でクリアでもある。
その湯浅の新著に『反貧困』(写真)がある。タイトルが、湯浅の実践の立脚点そのものだ。貧困であってはならないのだ。
湯浅によれば、今日の日本社会は「すべり台社会」ということになる。ようするに湯浅の実践は、サブタイトルにあるように、「すべり台社会」からの脱出と位置づけられる。
新自由主義というものは、自身の路線を支えるためのイデオロギー強化を一方で図りながら推進されるわけで、日本でも、自己責任論は今でも深く浸透している。
湯浅がつぎのように語っているとおりだ。
どうしてもっと早く相談しなかったのか、と言うのは簡単だ。しかし、ほとんどの人が自己責任論を内面化してしまっているので、生活が厳しくても「人の世話になってはいけない。なんとか自分でがんばらなければいけない」と思い込み、相談メールになるような状態になるまでSOSを発信してこない。彼/彼女らは、よく言われるように「自助努力が足りない」のではなく、自助努力にしがみつきすぎたのだ。自助努力をしても結果が出ないことはあるのだから、過度の自助努力とそれを求める世間一般の無言の圧力がこうした結果をもたらすことは、いわば理の当然である。自己責任論の弊害は、貧困を生み出すだけでなく、貧困者当人を呪縛し、問題解決から遠ざける点にある。 |
ブログをはじめたての頃、見える貧困、見えない貧困というものにふれたことがある(参照)が、まさに貧困をみえにくくする要因には、この自己責任論が深く関与している。
だから、湯浅のいう「すべり台社会」からの脱出をめざすには、自己責任論の払拭が避けてはとおれない。
本著『反貧困』でも、繰り返し自己責任論の「まやかし」に言及、反論している。
前後するが、「すべり台社会」とは、湯浅によれば、一度転んだらどん底まですべり落ちていく社会である。なので、アリ地獄社会ともいえる。アリ地獄とは、トンボに外見がよく似たウスバカゲロウという昆虫の幼虫の呼称である。
この幼虫は、たとえば寺社の軒下や廊下等の風雨が入り込まない、乾燥した砂地にすり鉢のようなくぼみを作る。そのすり鉢状の中心部、つまり最底部に潜んで、迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の昆虫などの体液を吸って成長する。大あごを使って砂を浴びせ、中心部に滑り落として捕らえるのだ。
日本社会は、ちょうどこのアリ地獄に似ている。誰でも、まちがえばこのすり鉢の斜面を転げ落ちる可能性を持ち合わせている。一端落ちてしまうと、ちょうどアリのように這い上がろうとして、もがいてももがいても、次第に底に落とされるというわけだ。働いても働いても貧困から這い出せないワーキングプアは、さながらアリと同じ宿命をつきつけられているようでもある。
二部構成の本書は、いくつもの事例をとおして貧困の現場に光が当てられている。そして、貧困の根絶をめざした実践が紹介されている。湯浅のいうように「貧困は、誰にとっても望ましくないもの、あってはならないもの」だ。
そうであるならば、本書は多くの人に共感をひろげうるものだ。一読に値する。
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追記;mahounofuefuki さんのご指摘にもとづき、「1890年代後半の当時の社会を描いた」と訂正しました。
大澤真幸「逆説の民主主義」-北朝鮮の民主化のために。。
が、以下のような切れ味のある見解を記したものはさすがになかったように思う。
憲法を活きたものにするためには、われわれには、その前にやらなくてはならないことがある。この憲法には、ほとんどの人が半ば気づいている明白な弱点があるからである。弱点とは、日本国憲法の精神と日本の安全保障政策の基本的な方針との間の矛盾である。日本の安全保障政策の中核は、言うまでも泣く、日米安全保障条約にある。憲法と日米安保とは、相補的であると同時に、拮抗的な関係にあるのだ。 |
こうのべるのは大澤真幸だ(「逆説の民主主義――格闘する思想」22ページ)。
安保条約と日本国憲法の関係をこうとらえる大澤は、本書のなかで憲法についていくつか提案している。
さらに大澤は、憲法だけにとどまるのではなく、グローバル化という社会変動が今日われわれにもたらした極端な貧困や暴力、犯罪という困難の克服を問題意識として、その解決法を提示する。
その際の処方箋の立脚点を大澤がどこに置いているのかはつぎの文脈で明確となる。
真に求められているのは何か。個別の要求ではなく、普遍的な要求、社会の普遍的な構想を含んだオールタナティヴ(選択肢)ではないか。行政的な選択ではなく、(社会体制の全体としての改変に関わるという意味での)真に政治的な選択ではないか。 |
以下は、本書の構成なのだが、いずれも刺激的なテーマとして押し出されている。
- 第一章 北朝鮮を民主化する――日本国憲法への提案①
- 第二章 自衛隊を解体する――日本国憲法への提案②
- 第三章 デモクラシーの嘘を暴く――まやかしの「美点」
- 第四章 「正義」を立て直す――「みんなのルール」のつくり方
- 第五章 歴史問題を解決する――隣国とのつきあい方
- 第六章 未来社会を構想する――裏切りを孕んだ愛が希望をつくる
一つだけ紹介すれば、北朝鮮を民主化するためにわれわれは何をすべきか。この問いにたいする大澤の回答はこうである。
日本は、外交上の努力によって、北朝鮮の国境を可能な限り開放的なものにするのだ。 |
たとえば、日本自身が北朝鮮からの難民を、いくらでも受け入れる用意があることを宣言する。そうすれば、大量の亡命が可能であるという事実そのものがつくられるわけで、北朝鮮国内での、自立的な民主化運動を駆動するというものだ。この着想は、大澤のこれまでの著書ですでに言及されていたことだが、以後の北朝鮮を取り巻く環境の変化を考えると、あらためて東欧諸国の一連の民主化の経過を引き合いにだすまでもなく、より現実味を帯びる提案になってきたように私は思う。
著者・大澤の言葉を借りると、一般には、民主主義とは、多様な利害のある種の集計であり、それらの間の「平均」や「妥協点」を見出す意思決定の方法であると考えられている。つまり、そうした「平均」や「妥協点」を、全成員の意思の普遍化された代表と見なす方法が民主主義である。
これに対して、本書のタイトルである逆説の民主主義はどのように措定されるのか。
制度化された社会秩序の中で位置づけをもたず、公認の誰の意思をも直接には代表しない、排除された他者を、普遍的な解放性を有する社会の全体性と妥協なく同一視してしまうこと |
ということになる。だから、これは、すべての意思の平均的な集計という、通常の意味での民主主義を否定するものといえる。別の言葉でいえば、逆説の民主主義は、排除された特異点を特異点としない、無にするということである。
われわれの中に浸透している受け入れがたい他者がいることが、開放的で逆説的な民主主義の展望を開くというわけだ。
上にのべた大澤が提示する「北朝鮮を民主化する」方法は、まさにこの具体的な表現の一つにほかならない。
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永遠のバイブルになるか。 『カミキリムシの魅力』
カミキリを観察するには、もちろん技能が要る。
だから、カミキリに興味をもつ者は常々、先人たちの技を盗もうという意思を密かに抱いているといっても過言ではないでしょう。
端的にいえば、このカミキリはこうすれば採れるという具体的で、実践的な手法を体得することが、多くのカミキリに接するためのいちばんの近道だといえます。
ということで、たとえば超有名な九州のカミキリ屋さんがいます。彼は同県人でもあるのですが、私にとっていうまでもなく神様みたいな存在でした。同行しようと声もかけていただきましたが、残念ながらいまだに実現していません。
結局、カミキリ屋としての力量というものは、おそらく他の昆虫屋さんもそうなんでしょうが、他から技を盗む、この「技術」の巧拙に大いに左右されるのかもしれません。カミキリ屋として名を馳せた人は、カミキリの生態にとても深く精通しているという点で共通している。そして通常、先人たちからその技を盗むには、採集会でそのお目当ての人に同行するか、あるいはその人の書いた採集記から学ぶということでしょうか。
ですから、カミキリ屋さんたちは、さまざまな名人たちの採集記に目がないのです。
私の場合、これまで『カミキリムシの魅力』(築地書館)を幾度となく読み返してきたので、これが結局、いまのところ最良の手引書、愛読書だといえるかもしれません。いくつものページに書き込みとマーカーの痕跡がある。数えるに余りあるほどです。なかでも、私がなんども繰り返して読んだのは入江平吉さんの採集記でした。「南西諸島カミキリムシ採集記」というタイトルがついています。
入江氏は文章の末尾で、カミキリの採集法についてふれています。
カミキリムシは、植物を生活の糧としていて、種によって植物もかなり限定されてくる。ヒメスジシロカミキリが、オオハマボウに集まるとわかっていても、オオハマボウを知らなければ採るのが難しい。ヨツスジカミキリがクロツグで、イリエシラホシサビカミキリがナシカズラで、ムネモンウスアオカミキリがヤンバルアワブキと、集まる植物がかぎられているので、まず植物を同定できなければ話にならない。樹木図鑑などを熱心に読むことだ。 カミキリムシの活動には、季節、時間、天気、気温、湿度、風速などが多少なりとも関わっているので、それらの要素を考慮した採集が、効率よくカミキリムシを採る秘訣ではないかと思う。訪花性のカミキリムシの多くは、午後になると花への飛来が少なくなるので、花での採集からほかの採集に変えるなどがその一例である。 |
こう簡潔に方法論を氏は披瀝しているのですが、これだけ無駄なく圧縮され整理された方法の背後には、おそらく膨大な情報の集積と実践があるのでしょう。
これだけの名人がそのあとで、つぎのようにのべています。
私は花を楽しみながら、のんびりと採集するのを好むので、どうしても単独行動が多くなる。 ……… 車で採集ポイントからポイントへと駆け回ったほうが収穫は多いだろう。しかし、採集の楽しさといった点ではどうだろうか? |
名人が採集というものを、本来の採るという行為からこれだけの奥行きのあるものとしてとらえていることに、どことなくほっとするのです。
入江氏の文章はまさにバイブルでした。記された一文字一文字を追っていくと、まるで自分がその場にいわあせたかのような臨場感があふれる文章です。
そこで、珍種を追い求めてめぐり合ったその歓喜の一瞬を、筆者である入江氏と読者である私たちは共有するのです。または逆にこういうこともある。往々にしてカミキリ屋が経験してきたように、抑えがたく、名状しがたい敗北感。何度も味わってきました。期待に胸を高鳴らせて挑戦したものの、成就しなかったときのそれです。
カミキリ屋は結局、こんな起伏に富んだ人生を歩んでいるし、歩みつづける宿命なのですね。
PS;カミキリの浮游空間日記;『カミキリムシの魅力』のこと。 を一部加筆修正しました。
「無党派」は保守だった-高村薫の見立て
氏が言及しているのは2005年の総選挙である。小泉自民党の圧勝だった、あの選挙。
冒頭、こんな調子ではじまっている。
昨夜、私はぽかんとして開票結果を見ていた。そして初めて気づいた。今まで投票に行かなかった「無党派層」は保守だったんだと。おそらく世間はこれまで、無党派層はリベラルだとみなしていたのではないか。それが大いなる勘違いだということが証明された。
この見立てはあながち的外れだとはいえまい。無党派を自認する人のなかには、これに立腹される方もおられるかもしれない。けれど、私は高村氏を支持する。
もともと無党派層の定義など最終的にできないと私は思っているが、それは措くとして、それをリベラルだと見る立場よりも保守だとしてこそ筋がとおるというものだ。
この小泉圧勝の選挙から、ほぼ2年後の今年の参院選では、民主党が大勝した。高村氏の文脈で考えると、この結果も理解しやすい。もともと民主党がリベラルだという意見には大いに疑問を持つ立場からすると、2年前と今回とは基本線で同じということになる。
そして、ここ数回の選挙で得票率という数字上で、自民、民主の累計が概ね一定していることはこの高村氏の見立てを支持するだろう。
むろん自民・民主以外を支持していた人が民主党に投票したり、自民党に投票した結果も含めた得票率の推移なのだけれど、自民、民主のいずれかに投票するという行動が繰り返されていると推測されるわけだ。
現に投票の対象となる自民、民主の両党がここにきて大連立を一度は協議したという事実は、選ばれる側が、選ぶ側の実態、つまり保守というくくりで纏められることをも見抜いている結果ともいえなくはない。別の言葉でいえば、高村氏が他から切り分ける保守という選ぶ側は、自民でも民主でもどちらでもよいのだ。
あいかわらず硬質な筆致の高村氏が最後にこう書いている。
少なくとも新聞は、投票日直前まで「一歩立ち止まり冷静に考えよう」とよびかけていた。だが、言論は無力だった。一部政治家とテレビが作り出すムード無党派層が乗るという21世紀の政治のかたちを分かりやすく提示したという意味で、「9・11選挙」は文字通り歴史的だった。
9・11選挙後、この無力さを反省するメディア関係者、言論人の発言をいくつか目にしたことがある。私の理解では、今、さらに言論は力をなくしているようにみえてならない。ダイナミクスを読者に提示できなくなっている。
言論が力をなくすとき、人の眼は極端な場合、英雄やカリスマを求め、フィクサーや「悪の親分」の動向に関心を集中・特化させるという具合に。
たとえば、大連合ではナベツネが動いたといわれ、頭にのって当の本人が(党首会談の)内幕をあとで書くみたいなことをしゃべり、メディアがまた動く。
重要なのは、ナベツネの動向の一々ではなく、ナベツネをそのように動かす、あるいは動かざるをえない背後の構造に着目することだろう。その構造とは60年余つづく自民党政治という、保守政治を支えてきたそれであり、それが今、社会の変動のなかで従来と同じ形では立ち行かなくなっているということではないか。保守政治を保持するためにしかけられたのが小選挙区制であり、二大政党制のプロパガンダと推進であった。
このゆきづまりから変化を求めるかどうか、それは近々予想されている総選挙で一つは試されるということだろう。高村氏のいう「多くは無意識に保守」の日本人もまた、この意味で変化を迫られている。
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*1;この文章は、「朝日新聞」(2005年9月12日、大阪夕刊)に掲載されたものです。
岡田斗司夫『いつまでもデブと思うなよ』
人間のからだは、食物をとおしてカロリーを摂取し、労働や運動をすることによってカロリーを消費し、維持されている。平たくいってしまえば、(カロリーの)摂取量>消費量の場合、その差が脂肪となって蓄積され肥満するということだ。だから、肥満をあらためるべく減量しようと、あるいは肥満にならないようにしようと思えば、摂取量と消費量の差を少なくとも縮めなければならない。要は、摂取量を減らすか、消費量を増やすか、の2つの方向が考えられる。でも、消費量を増やすといっても、所詮、一日の、あるいは1週間、1カ月のうち融通の利く範囲は通常限られているのだから、これはなかなかたいへんだろう。なかには運動で減量に成功した人もいるにはいるだろうが。
岡田氏が勧めるのは、したがって、摂取量を減らす方法である。
といっても、権威づけられた特別の手法によるわけではない。自らレコーディング・ダイエットと名づける方法を推奨している。命名から容易に分かるように、食べた物、食べた時刻、カロリーなどのデータをひたすら記録するのだ。メモをとるというわけだ。
この行為のなかに実は秘密がある。先に欲望の赴くままに、とのべたが、これをあらためるのである。つまり、自分の食生活を可視化するのだ。肥満は、食べたいという欲望の赴くままに食べることによってつくられる。ならば、記録を重ね、肥満のもとになる自分の食の習慣をつまびらかにする。記録によってそこが明らかになるにつれて、食べたいという欲望も萎えてくるらしい。自らの実践をとおして氏はそうのべている。食べたいと思わなければ、もちろん摂取するカロリーは減るし、ダイエットできるというわけだ。実に理に適っているではないか。だいいちシンプルだし、ダイエットのための器具もむろん要らない。
寄る年波に勝てず-この物言いもすでにまちがいだけれど-最近、お腹の周りのぜい肉が気になりだした。メタボ(*1)予備軍、いや正規軍かもしれないという、他に置き換えがたい不安に苛まれてこの本を手にした。
少なくともこれまでは自分には無縁だと考えてきたくらいだから、減量に成功する喜びなんてむろん経験したことはない。
これを手中にしようと、氏にならってせっせとメモをとる毎日が続く。
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*1;2008年4月から、健診制度は、メタボリック症候群と糖尿病に特化し、アウトソーシング化されるなど、大幅に改変されます。特定健診・特定保健指導制度というものです。
けれど、働く者からすれば、メタボリック症候群より、長時間労働など不適切な環境をなくす方が先のような気もします。不安定雇用や失業も心身の疾患に強く結びつくし、長時間労働の人ほど糖尿病や心疾患になりやすいことを示すデータさえあるようです。社会全体をながめると、こういう「撹乱因子」をなくす必要があると思います。
ハーヴェイは新自由主義をどうみたか。
そこで、意外と面白い情勢に思われる今のこの時期に、日本社会を覆って久しい新自由主義について、そもそも新自由主義とは何かを歴史的に、そして世界的視野でながめてみることも悪くはないように思います。そのための好著を紹介します。興味ある方はぜひご一読ください。
=====
新自由主義路線の象徴ともいえる郵政民営化が昨日、持ち株会社・日本郵政株式会社のもとでスタートした。日本を席巻して久しい新自由主義が、社会の亀裂を生み出したばかりに参院選では手痛い仕返しを結果的に食らうことになった。その中での民間会社の発足であるだけに今後に関心を寄せざるをえない。 デヴィッド・ハーヴェイがその自由主義について、歴史的に俯瞰し、その現在までを分析している((ISBN:4861821061:title・作品社、原題;NEOLIVERALISM))。
各章タイトルを列記する。
- 自由とはこういうこと
- 合意の形成
- 新自由主義国家
- 地理的不均等発展
- 「中国的特色」のある新自由主義
- 審判を受ける新自由主義
- 自由の展望
以上(引用)は、coleoの日記のエントリー(10月2日)をそのまま転記したものです。
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本棚の一冊=その1=
これから折をみて、私の読んだ新書を紹介することにします。紹介するといっても、新書にくっついているオビについてふれるに留まります。必要だと感じたものについては、本ブログではその感想を「本棚」というカテゴリーにまとめています。
本の読み方は、十人十色。それぞれ違ってかまわない。おそらく著者、あるいは出版する側の「売り」とするところが凝縮されているであろうオビを単に紹介する、これに私は徹したいと思うのです。とはいえ、脱線し、自分の思いがややもすれば露に出るかもしれませんが、どうぞ宜しくお願いします。本の良し悪しを確かめるのは、いずれにせよあなたにおいて他にありません。
あえていえば、もとより皆さんと私の読み方が一致しないといけないとは、私は毛頭思わないのです。
では、どうぞ。
平野啓一郎『本の読み方』(PHP新書)
オビ;作者が読むと、本はこんなに面白くなる。
小説は、そうした私たちの人生に不意に侵入してくる一種の異物である。それをただ排除するに任せるか、磨き上げて、本物同様の一つの経験とするかは、読者の態度次第である。(同書142ページ)
この著者にちょっと今、注目しています。該博な、私の好みでいえば石川淳、加藤周一に迫れるか。その意味で、私には平野啓一郎は楽しみなのです。
武田徹『NHK問題』(ちくま新書)
オビ;受信料、なんで払うの? この巨大メディアに巣くう「問題」の本質とはなにか。歴史に新たな光をあて、ウェブ時代の公共放送像を描く。
つい最近、政治の介入が取り沙汰された「慰安婦問題」報道。NHKの姿勢が問われました。政治に弱いその体質は、判決そのものの報道にも、あらためて「発揮」されました。エントリー「NHK番組改ざん 政治家の関与に弱いNHK」で言及しています。
武田は、ジャーナリスト・評論家。
鈴木直『輸入学問の功罪』(ちくま新書)
オビ;権威主義は文体に宿る。日本語として問題のある思想・哲学書の翻訳が放置されてきたのはなぜなのか。日本の翻訳文化に今、メスを入れる!
西欧思想の受容。明治以降のキャッチアップと結びついています。そもそもチャッチアップそのものの過程が「翻訳」という作業を反映せざるをえなかった。なかなか面白い、興味つきないテーマです。
ところで自然科学と社会科学とを対比させ、あたかも社会科学は「科学的でない」かのような議論もしばしば見受けられます。いったい、この受容過程はどのように把握されているのか。そもそも自然科学そのものが人間の頭を経由してしか言語で表現されないことをどのようにとらえるのか、この新書を経由して私の「空想」はどこまでも広がります。教えられることの多い新書でした。
関連して、本ブログではつぎのエントリーを公開しています。
翻訳で思想を知った日本人は不幸なのか?
「いのちの危機管理体制」はなぜできないか
BSC問題、JR尼崎大惨事、エレベーター死亡事故――人々のいのちを奪う事件・事故に対して、政治家と官僚たちの当事者意識はあまりに薄い。国家として最優先すべきは行政改革ではなく、国民の「いのちの安全保障」なのである。
だが、こう主張する氏の考えとは裏腹に、政府与党は「行政改革」に血道をあげてきた。著者はこれを俯瞰して、のべている。
この国の政策課題として、行政改革が叫ばれて久しい。1990年代末の橋本内閣は、行政改革を自らの重要課題にして、大規模な省庁の統合と分割をはかった。2000年代の小泉内閣の改革とは、郵政と道路公団の分割民営化だったと、これら一連の改革の中には、旧大蔵省の財務省と金融庁への分割など、行政と金融業界の癒着を切断する有効な改革もあったが、全体としては要するに行政組織の合理化と公務員数の削減だった。
だが、行政における形式主義や国民のいのちを第一優先にしない体質を百八十度変えることをねらいにした、行政官の意識と行政組織の改革は発想すらされなかった。この国に生きる者の立場から見るなら、そういう改革こそ求めているものなのに。
この「形式主義」や「体質」は、いったいどこからくるのか。さかのぼれば中曽根内閣にもいきつく。新自由主義は「小さな政府」を主張した。この立場に立てば、氏のあげる「テロや侵略や戦争や外国における邦人の重大な危機などにたいする危機管理体制」は当然、重きを置かれる。行き着く先は「夜警国家」だと他のエントリーで私はのべた。防衛・治安はもっとも重視される分野なのだ。一方で「国民の生命・財産の尊重を憲法で謳っているのに、政府がそのために必要な制度を作っていない」という現実がある。
つまり、「いのちの安全保障」を優先課題にする立場をいまの政府は現にとっていないし軽視される。人もカネもそこに厚くあてられることはない。
その結果は、氏がのべているとおりだ。
日常の中で国民のいのちを奪う事故、災害、特異な労働災害、公害、薬害、食品中毒、新型感染症などにたいする危機管理は、省庁ごとに態勢がバラバラになっていて、政府が高い理念に沿って統一的に取り組む体制はできていない。
柳田氏に教えられるのは、40年間の事故の取材・分析をとおして、日本の事故調査のあり方に疑問を呈するだけではなく、その代替案を提起しているということだ。しかも具体的に。
事故調査というものは、指導・監督行政から独立した常設の機関が産業界との利害関係を断ったところで取り組まない限り、信頼感を得られない。本当の再発防止の勧告や提言もできない。また、犯罪捜査における捜査刑事や捜査検事のように、事故に関する特別の知識と経験と眼を持った専任の事故調査官をかかえなければ、事故原因の解明はできない、と著者はいう。この立場、要するに第三者機関の設置は今日、あらゆる事故の事実の解明と再発防止をすすめる際のいわば共通認識となっているといってよいだろう。
氏はさらに、捜査と事故調査の違いについて強調する。ようやく今日、再発防止のために事実解明を重視することが定着しつつあるように思うが、それでもまだ、ややもすれば犯人さがしに汲々する例も後を絶たない。たとえば期限切れ原料使用問題における、不二家の初期の対応をみよ。事故調査は、責任問題をとりあえず横におき、事故が起きる構造的問題や要因などをすべて洗い出し、事故の未然防止を不可能にした原因に迫り再発防止の対策をたてる目的をもっている。いのちの安全保障のためには、起きてしまった事故から得られる教訓を普遍化して生かす必要がある。
柳田氏は、「2.5人称の視点」を提案している。氏によれば、それは、被害者(一人称)や家族(二人称)の立場に立って考える、つまり自分が被害者あるいは家族だったらどうだろうか、そんな冷酷な線引き主義で対応されたらたまらないだろうと考える意識の持ち方であり、具体的な行政対応の義務のことだ。
与党と財界は格差をさらに広げようとさえしている。社会保障を例にとると、たとえば疾病さえも自己の責任であるかのように宣伝し、改悪してきた。しかし、この立場は氏の主張する「いのちの安全保障」とは相容れない。なぜなら、自己の責任に一切を帰してしまうのは、起きてしまった事故から得られる教訓を普遍化する立場と逆立ちしたものだから。
翻訳で思想を知った日本人は不幸なのか?
攻防戦は、高畠素之による『資本論』の翻訳本がでたことが発端だ。この翻訳本は、高畠流の工夫がほどこされていた。当時としては、異端ともいえるし、別の言葉でいえば、それは異彩を放つものでもあったのだ。逐語的に訳すところにこそ当時の権威はあった。彼は「翻訳をなによりもまず商品と見なし、商品の質を購買者である読者の目から読み直し、批判的に検討」したのだった。ここに、高畠の天才があったのだろう。
だが、この一文からも分かるように、商品である翻訳本の質を決める要因の一つが、読者にあることを鈴木は指摘している。要するに、当時の西欧思想の受容の歴史が鮮やかにここに示されているといえるだろう。難解な哲学書や経済学書の翻訳本を読者もまた、つくってきたのだ。「問題にしたのは、個々の訳者の力量とは別の次元で、この国の思想・哲学書の翻訳と受容を拘束してきた、いわば暗黙の共通了解の方だ」と鈴木がいうのはこのことだ。
マルクスならば、『資本論』は「なによりも労働者階級にこそ読んでほしいと願った」だろうに、日本の労働者階級ははたして不幸だったのだろうか?
鈴木の抑制の利いた文体が心地よい。
注;「攻防戦」は、川上肇をはじめ青野季吉、三木清が加わっている。
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鈴木直『輸入学問の功罪』(ちくま新書)
ブログに何ができるのか
『ウェブ進化論』をものした梅田望夫を時代の寵児とよんでも差し支えはないだろう。その梅田と、気鋭の小説家・平野啓一郎の対談に興味をもった。もっと突っ込んでいうならば、私の関心は、さきにのべた社会の変容をどのように平野がとらえるのかにあって、そこをつまびらかにしたいという思いにとらわれたのだった。その対談は、『ウェブ人間論』(新潮新書)に詳しく記されている。
そこで、私は、このエントリーのタイトルを「ブログに何ができるのか」としたのだが、それは裏を返せば、ブログでは何ができないのかを明らかにすることにほかならない。2人の対談はその理解を深めるのに大いに役立った。
平野が本書「はじめに」で、対談では「見解の相違が鮮明になることはあったし、議論がそれぞれのアイデンティティに触れるような場面では、緊張を孕むこともあった」と率直にのべるように、対談者2人の意見の相違があちこちで散見される。そこが面白い。
その象徴的な部分を一つあげておきたい。それは、ブログで何ができ、何ができないのかに大きくかかわっていると思うからだ。
まず平野はこのようにのべている。
独り語り型のブログって、他者の存在を切断した、一種の真空状態で紡ぎ出される言葉でしょう?
リアル世界では、他者の思惑に翻弄されて、自分の言いたいことがうまくいえない、あるいは場の雰囲気で喋らされているようなところがある、だから、独りになったときに吐き出す言葉こそが本当の自分なんだっていうのは、分かるんですけど、正しくないように思うんです。やっぱり、ある人がどんな人かっていうのは、結局、他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている。誰もいない場所であれば、どんなことでも言えるけれど、そういう人間は、ネット上で一見言葉によって実在しているように見えて、本当はどこにも存在していないんでしょう。
この問題提起に、梅田はつぎのように応えているのだが、二人の意見に大きな差異を見出すのは容易だ。
梅田 そういう面はたしかにあるんだけれど、島宇宙化していっても、ネット上でのオープンソースが一つの例ですし、それから趣味の世界でも、深まっていく創造の喜びをネット上で追求できますよ。
平野 趣味の島宇宙的なコミュニティに属するというのは、僕は基本的に微笑ましいことだと思いますけど、そこで得られる同じ島宇宙の住人からの承認っていうのは、なんていうか、見て見ぬような感じだと思うんです。
同じ音楽が好きな人と会えば、……会っているとそこを突破口にして相手のもうちょっと深いところに手が届きそうな感触もありますけど、それがネット上のやりとりだけの場合はどうなのかな、と。そうして認められることに他者からの人格的な承認の幻想を託して、現実は結局何も変わらないまま放置されているという状態が、他人にとって幸せなのかなと。
梅田 うーん。ネットとリアルをそこまで区別しなくてもいいと思うんだけれど……。じゃあたとえば、リアル世界の現実は何も変えないかもしれないけど、ネットの世界で補う、っていうのはどうですか。
・・・・・・
「リアルの世界って生きにくいな、こんなところでサバイブしていかなきゃいけないんだな、じゃあ仕方ないから生きるために知恵を身につけなくちゃ」と何とかやり過ごすことって、生きていくうえで重要なことなんじゃないのかな。
平野 今の世の中は、他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属していることの安住感というのは、その外側を存在させなくなってしまうんじゃないか。僕はやっぱり、現実が嫌な時には、改善する努力をすべきじゃないかと思いますけど。
梅田 努力して、自分に適した場所に移るということですよ。ネットの情報がそのきっかけになるということかもしれないでしょう。それはいけませんか。
平野 合わないから移る、というのはいいと思いますけど、変えるべき現状があって変えないというのはどうですか? これは、政治の問題まで含めてのことですが。
議論は交差していて、少しも交わってはいない。どこまでも空転している。
しかし、このやりとりの後で、梅田がつぎのように語っている。あまりに楽観的なといえるような梅田のものいいであると私は思う。
「リアルの現状は改善する方向へ努力しなさい」というテーゼより、「今の環境が悪いんだったら、他の合う場所を探して、そちらへ移れ」という方が時代に合った哲学のような気がしています。
これは一見、まともな主張のように受け取れるが、「他の合う場所に移る」条件が等しく与えられている場合にこれは妥当する。が、現実には移動できる条件が一様ではなく、異なっており、それが問題なのではないか。平野はむしろそこに言及しているのではないか。だから現状をかえなければならないのだ。
ブログに何ができるのかという問題の設定はこの点にかかわるだろう。より議論を精密にするためには、独り語り型のブログとおそらく対極にあると思われる政治ブログに絞らないといけないのだろう(こういってしまうと政治ブログを定義をしないといけないのだが、ここではそう自認するブログすべてのことととりあえずしておく)。
要するにいいたいことは、2人の対談で明らかなように、「他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属」しないブログ世界をどうお互いにつくっていくか、ということに尽きる。それは、換言すれば、ともすればそうなりかねないブログの「島宇宙的な世界」と現実の社会との緊張関係をいかにお互いが保つかということだ。多くのブロガーが現実社会と対峙していることを知っているつもりだ。だが、そこをいったん踏み外すならば、それはおそらく政治ブログとはよべないだろう。なにより政治とは、現実社会の「他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている」(平野)のだから。
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梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書)
ファシズムを撃て -『茶色の朝』がきたらどうする
だが、これは単なる起こりそうもない話と突っぱねることはできない。日本のいまの動いている状況をじっくりみわたせば、その可能性がまったくないわけではない。つれあいが薦めてくれた『茶色の朝』という本はそれをテーマにしている。
話の主人公、俺はシャルリーと一緒にコーヒーを味わっているところから、この寓話ははじまる。
俺とシャルリーは、とくに何を話すというわけでもなく、お互い顔に浮かんだことをただやりとりしていた。
それぞれ相手がしゃべる中身に
たいした注意は払っていなかった。
コーヒーをゆっくり味わいながら、時の流れに身をゆだねておけばよい、心地よいひとときだ。
シャルリーが犬を安楽死させなきゃならなかった
と言ったときはさすがに驚いたが、ただそれだけだ。
静かに時が流れ、そのなかにゆったりと身を置いておく。こんな日常がしだいに変わっていく。すでにその予兆はこの一節の中にも現れている。
この寓話の背景には、1980年代以降の極右政党・国民戦線の台頭がある。作者・フランク・パヴロフが本書『茶色の朝』を書いたのは、フランス社会がやがて茶色に染まっていくのにたいする不安とそれへの抵抗を喚起するためだ。これを理解するには、フランス人にとって茶色のもつ意味を予備知識として入れておく必要がある。本書には、高橋哲哉氏による秀抜なメッセージ「やり過ごさないこと、考えつづけること」が加えられている。
それによれば、フランス人にとっての茶色brunとは、つぎのようにナチスを連想させるものらしい。
ヒトラーに率いられたナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党)は、初期に茶色(褐色)のシャツを制服として着用していたので、茶シャツ隊 les chemises brunes はナチスの別名になったのです(もっとも、細かいことを言えば、後にナチス党内で勢力を強めたヒムラー率いる親衛隊SSが黒の制服を着用したため、「茶シャツ」は、ヒトラーによって粛清されるレーム率いる突撃隊SAに限られた征服になりました)。
「茶色」は、ナチスを連想させるだけではありません。そのイメージがもとになり、今日ではもっと広く、ナチズム、ファシズム、全体主義などと親和性をもつ「極右」の人びとを連想させる色になっています = 以上、メッセージから引用 ==
話に戻ると、犬の安楽死に驚いたものの、「ただそれだけ」と主人公・俺はやり過ごしていく。安楽死とは、「ペット特別措置法」で茶色でない犬や猫が処分されることをさしている。だが、そんな中でも、不安を感じつつ茶色に守られている心地よさを感じ、時は過ぎてゆくのだ。そして、だからこそ、この寓話の最終盤で、主人公・俺はこう考えなければならなかった、こういう結末を迎えざるをえなかったのだ。
ひと晩じゅう眠れなかった。
茶色党のやつらが
最初のペット特別措置法を課してきやがったときから、
警戒すべきだったのだ。
けっきょく、俺の猫は俺のものだったんだ。
シャルリーの犬がシャルリーのものだったように。
いやだと言うべきだったんだ。
抵抗すべきだったんだ。
でも、どうやって?
政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、
毎日やらなきゃならないこまごまとしたことも多い。
他の人たちだって、
ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?
だれかがドアをたたいている。
こんな朝早くなんて初めてだ。
……
陽はまだ昇っていない。
外は茶色。
そんなに強くたたくのはやめてくれ。
いま行くから。
この主人公・俺をわが身に置き換えてみるがよい。だれでもがこの俺にすり替わることはそんなにむずかしいことではない。いまの日本社会は、こんな条件を次第につくりつつあるのではないか、われわれがこの俺になる条件を。
本書はとても短い。そして、はじめて日本版にヴィンセント・ギャロの挿絵「Brown Morning」がつけられたという。この挿絵が楽しい。何よりも全編が、マルチン・ニーメラーの言葉(別エントリー)を想起させる構成となっている。
ファシズムにたいする直接的批判や告発を本書は含まない。だが、そのことで逆に絶妙なファシズム告発、全体主義批判となりえている。
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フランク・パヴロフ『茶色の朝』(大月書店・メッセージ:高橋哲哉、訳:藤本一勇)
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「悪夢のサイクル」 -格差社会にどう立ち向かうのか
しかし、目にみえないゆるやかな変化を人が気づくことはなかなかありません。
1週間前のあなたが世界をどうみていたのか、世界がどうあったのかは、今日のあなたがどうであったのか、そして1週間の世界がどうであったのかとはほとんど変わりがないようにみえます。(プロローグ)
こんな書き出しで本書『悪魔のサイクル』ははじまる。この書き出しを読んで、マルチン・ニーメラーの言葉をにわかに思い出す人もいるだろう。ニーメラーの言葉はよく知られているように、ファシズムに世の中が移行しようとするその姿を表したものだ。世の中はかわっていくが、その際の一つひとつの小さな変化に、すでに本質的な変化が含まれていることをそれは示している。また、少しの変化に気づいてはいても、わずかの変化だから、と考え、眼をつぶろうとする人間の心理を、それでよいのかと問いかける言葉でもある。わずかの変化をみのがしてはならない。
おそらく内橋氏は同じ立場で、先の一節を書いているのだろう。わずかな変化を見通せなかった日本でも、さすがに10年、15年と時が流れていけば、もはや誰の眼にもその変化、ちがいが分かるようになった。無視できなくなった。
しかし、格差が単にそこにあるということではない。格差社会という言葉で表され皆が思い浮かべるのは、その格差が広がり、普遍化している今日の事態だろう。日本の社会が単純に二極化されているわけでもない。これから一握りの高額所得者と、そうではない層に、分りやすくいえば分断させる社会に移行しようとしているのである。大多数の一方の側は、この意味で貧困化に向かうといっても過言ではないだろう。
これからの日本の姿をおよそこのように描くことができるのだろうが、著者・内橋克人氏は日本の未来図をすでにみていた。同氏はそれをアメリカに求めたのだ。70年代のアメリカでの政策的変化である。
当時、アメリカでとられた政策はほとんど今日の日本で具体化されているものと同じだ。列挙すれば、1.規制下にあった産業を自由化する、2.累進課税をやめる、3.貿易の自由化だ。3を除けば、日本がアメリカの後追いをしていることがただちに分かる。
内橋氏があげる、アメリカでとられた政策によってもたらされた結果はドラスティックだ。
1959年に上位所得者トップ4%の総収入は、下位所得者の下から35%の総収入と同じだったという。それが規制緩和後の91%には、トップ4%の総収入は下位51%の人びとの総収入と等しくなった。これこそ先にのべたように単純に二極化されているわけでなく、二極分化がすすみ、上に行くのはわずかだということだ。日本もそのあとを追い、同じような変化を辿るというわけである。
内橋氏が著した『悪夢のサイクル』は、このように、日本に格差社会をもたらす結果になった新自由主義=市場原理主義を料理する。同氏にはすでに『規制緩和という悪夢』という書物もあるので、本書はその続編ともいえる。
この『悪夢のサイクル』は8章からなるが、私はその論点を大きく4つの部分に分けることができると考えている。
1.市場原理主義の起源と日本への導入
2.市場原理主義によって何がもたらされるのか、予測しえたのになぜ受け入れられたのか
3.市場原理主義の循環サイクル(悪夢のサイクル)
4.市場原理主義をどう克服するのか
しかし、なぜ日本では市場原理主義が受け入れられていったのか。「みずからの首をしめるような政策変更」(内橋氏)になぜなびいていったのか。内橋氏によれば、その理由は以下のようである。
①「規制緩和」を戦後の官僚支配を打破する特効薬といて錯覚したこと
②学者をメンバーにいれた一見中立にみえる政府の審議会、あるいは首相の私的(!)諮問委員会の口あたりのいいキャッチフレーズにまどわされたこと
③これら審議会の意見を大きくアナウンスしたマスコミの存在
④小選挙区制度の導入
この同氏の整理と指摘にはいろいろな意見があるだろう。これら4つの相互関係はどうか、どれが主たる要因なのか。近くで我われ自身が経験した、一昨年の「9・11」、衆院選での国民の判断はこれを再び繰り返したことにはならないか……。しかし、氏のあげた4つの点のどれもが要因の一つになっていることだけはまちがいなさそうである。
そして、本書のタイトルである「悪夢のサイクル」が解き明かされる。内橋氏は、アメリカ、南米、アジア、そして日本、1960年代から起こった変化の波を俯瞰して、「ネオリベラリズム(新自由主義)循環」あるいは「市場原理主義の循環運動」とでもいえる一つの「法則性」があるという仮説を立てる。これは、佐野誠氏(新潟大学)によって、アルゼンチンの80年代以降の経済研究をもとにした「ネオリベラリズム・サイクル」と名づけられることになる。
それではこれにどう打ち勝つのか。それが、第8章に示されている。氏はそれを「国家でもない、市場でもない、第三の道がある。国家が市場を計画し、すべてをきめるのではなく、市場が人間を支配するのでもない、第三の道。それは、人間が市場をつかいこなすという道です」と説いている。新自由主義は、それ以前の経済政策を「国家が市場を計画」と表現すれば、いうまでもなく「市場が人間を支配」するといえるだろう。
その上で北欧の経験も紹介しながら、氏は「市民参加型資本主義」という、「市民社会的制御の下に市場メカニズムというものを置き、その市場のメカニズムの幸福を増してゆく方向」を提起している。要するに、人間が市場をつかいこなすのだ。
本書は、このように検討するに足る論点がいくつも提起されている。議論はこれからだろう。だが、はっきりしているのは、これは、国民自身が深め、決めなければならないということだ。
内橋克人氏は本書の末尾で「賢者の勇気」の話に言及している。話は元に戻るのだ。歴史と現実をみつめることをやめれば、どんなに奮い立ってもそれは「愚者の勇気」にすぎないだろう。内橋氏は、そうではなく、すこしの変化をもみすえるような、歴史と現実を見る眼をもとうとよびかけているのではないか。
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内橋克人『悪夢のサイクル』(文藝春秋社)
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格差社会のなかの「政治家の息子とプロ野球選手の息子」
そして、「格差の何が悪い」といい放ったのが小泉純一郎だというのも、多くの人が知るところにちがいない。
「格差社会」を論じては第一人者といわれ、日本経済学会会長を務めた橘木俊詔が著書『格差社会-何が問題なのか』で「政治家の息子とプロ野球選手の息子」について書いている。面白い論点に目をうばわれた。
少し橘木のいうところをみてみよう。
象徴的に言えば、小泉首相の後を継ぐ自民党の総裁選挙において、2006年6月の段階で候補となっていた「麻垣康三太郎」と言われる5人の政治家(麻生太郎、谷垣禎一、福田康夫、安倍晋三、河野太郎)は、全員、親も国会議員です。親が政治家で子どもも政治家というのは、一つの階層固定化の典型例です。 |
その上で、橘木は、政治家とプロ野球選手を例として、階層の固定化について説いているのだ。階層の固定化とは、ようするに親の階層を子どもが受け継ぐということである。
政治家の息子とプロ野球の息子とを比べてみると、この2つには大きな違いがある。たとえば、長嶋一茂と野村克則は父親ほどに野球選手としての能力に恵まれてはいなかった。注目はされたが、選手としてそれほど活躍することがなかったことは、プロ野球のファンはだれもが知っている。注目をあびた一時期に比べれば、今日、一茂も克則もマスコミやファンにおいかけられることは極端に少なくなった。つまり、野球選手の場合、親の地位が最初の段階で有利に働いたとしても、その後の地位は本人の能力と努力次第で決まるというわけだ。
一方、政治家の場合はどうか。子どもが政治家になろうとすると、親が政治家であれば有利となる。親の後援者、人脈、地盤を引き継ぐ、二代目、三代目の政治家は少しも珍しくはない。橘木はこのようにいっている。
しかし、野球選手の場合と同じく、親が優秀な政治家であっても、子どもが優秀な政治家とは限りません。にもかかわらず、野球選手と違って、わかりやすい形でその能力を判断することは難しいのです。したがって、プロ野球選手の息子の場合のように、自然と淘汰されるということはありません。 |
橘木は、日本社会が現在、このような階層の固定化に向かいつつあるという。多くの職業でこの階層の固定化現象がみられることを説く橘木は、このまま格差を拡大させて、日本を階層固定化社会に導くことに警鐘を鳴らしている。
橘木は、麻垣康三太郎をあげた。そして、「親が政治家という理由のみで、もし無能な政治家が誕生し、万が一その人が指導的な地位の政治家になったのであれば、国民にとって危機的な状況さえ引き起こす可能性もあ」るとも説いている。
いま、日本国民は安倍晋三という、まさに橘木がいう「階層の固定化」-別の言葉でいうと世襲だろうが-が端的にあてはまる政治家を首相として「仰いで」いる。格差社会がこんな形で国民にはねかえってくることも振り返る必要がある。
橘木の懸念はほとんど現実のものになっている。
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橘木俊詔『格差社会ー何が問題なのか』(岩波新書)
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