森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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2つの党首選と「維新」の軌道修正~日本はかわるのか
「日本維新の会」のことです。
伝えられているようにたしかに今年のはじまりの勢いはいまやないように思えます。その要因には、大きく分けると2つの要因らしきものがあるようにみえる。
すなわち、政党としての形を整えるまでの右往左往というか、未熟な組織力が1つ。これが、(維新にとって)マイナスに働いてもプラスには到底なりません。
2つ目。9月には、民主党代表選、自民党総裁選がおこなわれました。この結果、維新の存在はメディアからも後景に押しやられ、衆目もそれだけ関心を寄せなかったといえるでしょう。この党首選の中で埋没してしまったのです、維新は。
少し立ち入ると、維新の稚拙な党運営はほとんど素人の域をでないように外からはみえてなりません。
たとえば、つぎのような疑問をこれまで私は抱いてきました。
1.八策の確立の過程と位置づけが右に左に大いに揺れました。とどのつまりは八策は綱領だと決定されたようですが、これを綱領とよぶことは、おそらく他の政党ははばかれるくらいの恥ずかしいものでしょう。その程度のものです。ようするに内容の良しあしは別にしても、八策は維新の政策の骨子にすぎません。自らの政治思想にもとづき、国の政治をどのようにかえるのか、どのような手段、方法でいつまでにかえるのか、この点を少なくとも盛り込んでこそプログラム、綱領だといえると判断するのですが、だとすると八策は失格。これを欠いているわけですから。
2.規約もまた判然としません。維新という政党はどのように構成されているのか、党員の権利や義務はどうなっているのか、意思決定のあり方はどうか。これらは規約に定められてしかるべきですが、維新はこれがきわめてあいまいでしたし、今もそのままでしょうからこそ、例の国会議員と他との確執が露呈したといえるでしょう。
つまるところ、維新は政党としての体をなしていない。まちがっても、そこいらの訳のわからぬ結社を橋下がめざしているのではないでしょう。しかし、現実はそれに毛のはえた程度の未熟な政党、いやでたらめな「国政政党」だといえるでしょう。
維新は、「国政政党」の要件を整えるだけのために国会議員数を確保しなければならず、その打算と、かたやまったく先のみえないほどの状況に置かれてしまった民主党や「みんな」の一部の連中の、自らの議員のバッチを保持しようとする意図がまさにぴったりとあった段階で、「日本維新の会」が結成されてきたいきさつは、急ごしらえの感が少しもぬぐえないものです。
維新は、上に提示した疑問がおそらく維新の周辺からも強く寄せられているとみえて、八策を綱領とすることを止め、新たな綱領をつくることを決めたそうです。八策が綱領といえない内容である以上、いわば当然のなりゆきです。もっとも発展をするかどうかは、また別の話です。
また、いったんは「みんな」との協力を断った橋下ですが、向いている方向が同じだから、選挙協力するのは一つの選択肢として「みんな」との協力の可能性を打ち出しました。これは、明らかに2つの党首選の中でかすんでしまった「維新」のたたかいを修正したものにほかなりません。現状は、総裁選をとおして自民の支持率が上昇する一方で、維新の低下が強調されているのですから、軌道修正、「みんな」との選挙協力発言は換言すれば外から迫られた窮余の一策といえなくもありません。
維新はさかんに第3極になる旨の発言をくりかえしています。
ここでいう第3極とは、単に自民でも、民主でもない、これ以上のものではありません。唯一、維新の政策を検討できるものとしてはさしあたり八策しかないわけで、それをみても既成政党がいってきたことを、ただ寄せ集めたにすぎません。橋下の好む既成政党批判はこの点でも的外れにほかなりません。八策の一つひとつがまさに保守の枠組みの中にあるもので、つまり維新は既成の保守政党と少しもかわらないといえる。
2つの党首選は、保守の枠組みの中でその路線をより右に競う争いだったと私はみています。安倍が総裁に選出されたのはその一つの象徴でしょう。メディアがそれぞれ一つの結社にほかならない民主、自民の党首選の一部始終を中継するのにも唖然としますが、結果的にそうして世論があおられた結果が、世論調査の政党支持率に明確に反映していると思えます。
この中で、維新は埋没してしまった。自縄自縛もあいまって。だからこそ、橋下は選挙戦術を変えざるを得なかったわけです。
こうした情勢の変化のもとで私たちが考えた方がよいのは、民主も、自民も、ましてや維新や「みんな」の間に、われわれが思っているほどには違いはないということでしょう。誤解を恐れずにいえば、これらは保守という大きな枠組みの中にあるといえるでしょう。
消費税増税は決まってしまいましたが、あらためて税をどのように確保していこうとするのか、つまり税をどこからとろうとするのか、各党の政策をまさに聖域なしに、予見なく判断しなければならないように思えます。この点にこそ、政党の本質的なちがいが表れると私は思います。
そして、表裏の関係にある税のつかい途。これまた政党のほんとうに意味での違いが表現されると思います。
決められる政治が強調されますが、税のとり方、使い途を抜きにしてそれを求めても点睛を欠くのではないかと思えるのです。この点での国民的な議論が求められるのではないでしょうか。
無定見で、無責任な「維新」の言動は、上記でふれたとおりで、こんな政党が何かしら日本を変えると考えるとしたら、ほんとうの意味で日本を変える行程が大きく遅れるのは確実なように思えます。綱領すら確定できない、規約もあいまいな「政党」が日本をかえられるはずがありません。橋下はよいが、周りの取り巻きが、なんていう意見もでてこようというものでしょうが、それも正確にとらえていないでしょう。橋下に力がほんとうにあるのなら、今日までの政党結成の稚拙さはありえないでしょう。ただ、外形だけで出発した橋下「維新」とはここらで決別したほうがよい。
そうしてこそ、日本の政治のあり方をかえるスタートにつけるというものです。
日本をほんとうにかえなければならないと思うのなら、少なくとも自民、民主が続けてきた大企業や財界に甘すぎる税のとり方と税の配分にメスを入れなけれならないでしょう。それを欠いては、日本はかわらないのです。
【関連記事】
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2つの党首選
自民、民主の主張に関心などもともと私にはありませんが、あらためて両党の根本的な相違がテレビニュースで伝えられるわずかな時間をとおしてさえ、はっきり伝わってきます。
それは、おおげさにいえば政党としての成熟度のちがいだといえるかもしれません。結論をいえば自民党は政党の体をなすが、民主党はそれを欠くということです。つまり、民主党の成熟度ははるかに自民党に及ばない、こう私にはみえます。
具体的には、良し悪しは別にして、根幹をなす主張については自民党の5人はほとんど相違がなかった。一方の民主党。やはり唖然とします。私は、政権交代前から民主党が何かしら日本をかえるなどという期待は幻想にすぎないと考え、主張もしてきましたが、この政党にそんな期待すること自体がほとんど誤り、無意味だったといってよいと結果的にも思えました。代表選の候補者たちは4者4様、別の言葉でいえば好き勝手をのべているにすぎません。そもそも民主党という一つの政党の党首を選ぶ選挙に彼は臨んでいるはずなのに、その自覚の一かけらもないように私にはみえました。民主党を推してきた人たちの中には、この「民主性」がよいのだと数年前、いっていたようにも思いますが、それにしても(政党として)何も成長していません。だから、一方では、かじとりの方向すら定まらないこんな政権党の政治がうまくいくはずないともいえそうです。政党は、サロンではない。同好会ではない。
むしろ、民主党そのものが思想で集まるのではなく、あるいは信条を一つにする者が集まるのでもなく、少なくない部分が、ただただ選挙に勝つためのメームバリューのみが欲しかった、その限りで俗物である議員候補者の集まりにすぎなかったわけでしょう。その彼らが今、崖っぷちにたたされているのは結局、身から出た錆だといってもよいでしょう。
こうしてみると、風をよむことに敏な松野頼久などの維新への「転籍」の動きは、民主党議員の象徴だといえるかもしれません。
民主党は、そもそも綱領をもたない。綱領で一致するのが政党。だから、綱領がアイデンティティになるはずですが、民主党は、寄せ集めだから綱領を定めることができないという反転をしていても、何の苦痛も感じてこなかった。こうみてくると、どんな口実をいおうと、小沢の離反劇もさもありなんということが分かるでしょう。
2つの党首選はこうしたこの3年あまりの「激変」を私たちが振り返ることを可能にしました。
政権交代は、小選挙区制にもとづく二大政党制の名で、こうした政党とは到底いえない政権党を生み出したという皮肉です。
しかし、日本の政治は同じ平面を何度もくるくると回るようにも思えます。
民主党の姿が維新にダブってきませんか。
民主党議員らしく松野はいち早く維新に鞍替えしましたが、これこそ一つの分かりやすい一例で、3年前の民主党の役割をこんどは維新が担おうとしているということではないでしょうか。
率直にいえば、有権者は政権交代という言葉にあおられ、民主党の何たるかも後景におしやって、同党を政権につかせました。その結果が今日。
維新は、二大政党のこの危機を橋下のパフォーマンスに象徴される形だけで回収しようとする役割を果たそうとしているように私にはみえます。
しかも、維新もまた綱領とはとてもいえない「八策」を綱領とよんでいるという点で、民主党と同じでしょう。プログラムすら明確でない「政党」をまたぞろメディアがもちあげ、それに有権者があおられるのなら、先にのべたように、また同じ平面を繰り返す結果になってしまう。
外形にとらわれてしまうととんでもない、しっぺ返しを被るのは有権者なのです。
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幻の政権交代と有権者の決意
結局、有権者が期待した政権交代による変化、それ自体がきわめてあいまいなものであったと私は考えてきましたが、それがもはや幻にすぎなかったことが明白になったといいきってもまちがいなさそうです。
それというのも、自民党とのちがいを強調し交代をその手に引き寄せたはずの民主党が自民党と手を結ぶことで政権運営の危機を乗り切ろうとしていることこそが、政権交代というものの無意味を物語っているからにほかなりません。
窮地の民主党。次期選挙では大方が同党の大敗を予測するという局面を、自民党はまさに好機としてとらえ、みずからに有利な状況を作り出すための、大げさにいえば権謀術数のかぎりを尽くす。ラフに描くとすれば今現在はこのようにあるといえるようです。
いうまでもなく政権交代に期待をかけ3年前に民主党に投票した人たちは、結果的に裏切られた感覚に今ひたることになった。けれども、それは裏返しにいえば、裏切られたのではなく、自ら招いたといえなくもない。投票によってはじめて交代が可能になったのですから。ここに、単に裏切られたと総括してしまうと、再び同様のことを繰り返してしまう危険が潜んでいるように思えます。民主党がダメなら他の政党で、という単純なものではないのはもちろんです。
そもそも民主党の出自を考えてみる必要があるのではないか。
たしかに旧社会党や民社党系などの議員がふくまれてはいるものの、打ち出される政策は、基本は自民党の政策を根本からかえると表現できるものはなきに等しかったとみてよいように思います。何よりも、民主党の中核を担う少なくない人たちが自民党を経由して、まさにたまたま民主党に合流しているだけといってよいような政党状況を考えておかねばならなかった。政権交代をメディアまでもがいわば過大評価するかつての時期に、この民主党の出自にふれるものはほとんどいなかった。まあ共産党くらいのものでしょう。
ようするに民主党(の政治)はそれまでの長きにわたった自民党政治と同じ枠組みにあったといえる。誤解を恐れずにいえば、そうであればこそ、有権者もほぼ違和感なく民主党を大勝させることができたはずです。まるで予定調和のように。
民主党と自民党とが公明党を吸収しながら「協議」した上で、消費税増税を強行しようとしている今の構図は、以上の見取り図でふれた政権運営の危機、それは広い意味で旧来の自民党政治の危機がいっそう深化する中で生まれ出ているものだと私は考えます。
財源確保には消費税増税以外に方法はないのか。
これは今でも問われてしかるべきだと思えます。ですが、今の時期、これを問う言説もまたほとんど目に入りません。半年ほど前の状況を思い返せば、増税の前にやるべきことがある、わが身を切れがメディアの主流論調でした。このきわめて怪しいレトリックをふくむ論調によって成し遂げられたものといえば、つきつめれば国家公務員の給与削減、定員削減がすべてといってよいくらいだと思えてなりません。公務員といえども国民・有権者にちがいはなく、国民・有権者の身が切られたにすぎない。わが身に置き換えればただちに分かるように、切られた彼らはたまったものではありません。
そして、この延長で今、メディアの多くが3党協議を結実させよと迫る。決められない政治を片方で叫びながら。おかしな話です。やるべきことがあるといっておきながら、増税のための協議を逆に迫るのですから。もっともほとんどが増税路線に身を置くメディアですし推してしるべきなのかもしれません。貫かれているのは彼らがネオフィリアの一種だということくらいか。
しかし、高額所得者(有価証券取引・配当による利得など)への課税強化、法人税税率引き上げなど消費税以外にも検討できる余地は少なくありません。経団連がことあるごとに消費税増税をけしかけるのは、法人税課税強化への牽制とあわせて、これまで法人税税率引き下げ分を消費税が事実上穴埋めしてきた経過があるからにほかなりません(参照)。法人税税率を今、元(99年当時水準)に戻してもおかしくはないといえましょう。
3党協議は、消費税増税をなしとげるための装置であることはまちがいありません。が、それだけではない。
東京新聞が報道しています。「安全保障に資する」の文言を入れたことは核の実質的な軍事利用を担保することだといえるのではないでしょうか。
二十日に成立した原子力規制委員会設置法の付則で、「原子力の憲法」ともいわれる原子力基本法の基本方針が変更された。基本方針の変更は三十四年ぶり。法案は衆院を通過するまで国会のホームページに掲載されておらず、国民の目に触れない形で、ほとんど議論もなく重大な変更が行われていた。
設置法案は、民主党と自民、公明両党の修正協議を経て今月十五日、衆院環境委員長名で提出された。
基本法の変更は、末尾にある付則の一二条に盛り込まれた。原子力の研究や利用を「平和の目的に限り、安全の確保を旨として、民主的な運営の下に」とした基本法二条に一項を追加。原子力利用の「安全確保」は「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的として」行うとした。
追加された「安全保障に資する」の部分は閣議決定された政府の法案にはなかったが、修正協議で自民党が入れるように主張。民主党が受け入れた。各党関係者によると、異論はなかったという。
「原子力の憲法」こっそり変更
3党協議なるものは、ようは消費税増税だけでなく、こうした国民にとって安全・安心を脅かすような核の軍事利用に踏み込む法改定を陰で、こっそりとやるわけですから、悪政推進のためのしかけだともいえるものです。
国会の形骸化ともいいかえることのできる3党協議。
現実にしかし、この3党で議席の9割を上回るのも事実。あえていえば公明党は、民自の連合が取りざたされるや、協議には加わらないといっていたそれまでの態度を翻し、参加することを決定、今にいたっています。これまでの経過からみても政権の座亡者ともいえるような公明。その態度豹変は、おそらく取り残されるのを恐れた結果にすぎません。一方で少数とはいえ、そのほかに議席をもつ政党は少なくない事実もまたみないわけにはいきません。
が、政権党と自民党の協議そのものが、今や危機の深まりのあまり、密室談合協議を排除するという要諦すら投げ捨て去ったかのようにみえなくもないのです。
民自の議席の配分がかわるだけでは何もかわらないのは、すでに私たちは経験ずみです。
そう振り返れば政権交代がまさにそうだったのですから。同じ枠組みの中にある政党が、有権者の前でいかにちがいを強調しようとも、そのちがいというものが本質的なものでなく末節にすぎない程度のものであるのですから。
ならば橋下「維新」ではどうか、ですって?
「維新」もまた、彼らがこれまでどの立ち位置にあったか、それをみれば一目瞭然でしょう。もっとも、すでに橋下市長自身が大企業・財界や「大物」を前にすると、いつもの饒舌は影を潜めまったくおとなしくなってしまうではありませんか。そこに「維新」のよりどころがどこにあるのか集中的に表現されているように思えます。
市民が許さないと口実に言い出すのを、少し置き換えてほんとうは財界・大企業が許さないと解釈すべきではないでしょうか。
一例をあげると、たとえば消費税ではなく税源を根本から見直しうるのかどうか。
それを判断基準にしてこそ、はじめて変化とは生まれるものでしょう。
変化をほんとうに望むのなら、有権者にはそれくらいの決意が必要だといえるでしょう。
【関連エントリ】
一体改革修正協議が茶番にみえてしまう
朝日社説への違和感と二大政党制
二大政党による政権交代の破産
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長老の敗北宣言または二大政党制のゆくえ
民主離党騒動「泣きたい気持ち」 渡部最高顧問が二大政党論の敗北を宣言
二大政党制は日本に政治の安定をもたらすものだと渡部自身は考えていたことになる。だが、この渡部の思惑はそもそも正しかったのかどうか。二大政党制は日本の政治の安定に寄与するものかどうか。
下記エントリでふれています。ご一読いただければ幸いです。
二大政党制は政治の安定をもたらすか
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消費税増税と政党再編の可能性 - つぶやき#4
- 消費税増税を軸に。政党再編あるか。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20111123k0000e010005000c.html
キモはリードとこの部分
>衆院議員の任期満了後の13年10月か14年4月に8%、15年4月か同10月に10%にする案を軸に検討する見通し。また、増税で低所得者の負担が増す「逆進性」対策では、所得税や相続税で高所得者の課税を強化するなどし、理解を得る考えだ。(2011.11.24) - 石原発言の不確実性。多くの問題で、党内一致とはならない民主、自民両党。1年前に私自身は再編の方向を主張したのだが、現状では発言の確実性は高くないといってよい。したがって、不確実性=可能性はあるということ。(2011.11.23)
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011112201002510.html
民主党政権も野田が首相になって、消費税増税路線がいっそう明確になった。その意味で新しい段階だろうが、いくら税と社会保障の一体改革といってみても、以前の自民党政権をふくめて主張の本質は少しもかわっていない。
2つのことを強調したい。1つは、消費税の逆進性をさすがに否定できずに記事にある方向を臆面もなく提起していることだ。つまり、「所得税や相続税で高所得者の課税を強化する」とはいえても、法人税課税強化はいってはいない、いえないという同党の立場を反映している点。別のことばでいえば、これは階級的な基盤が大企業の側にあるということだ。いうまでもなく、たとえ所得税、相続税で高所得者の課税強化といっても、消費税の逆進性そのものが解消されるわけではもちろんない。
2つ目は、石原発言にかかわって、たとえば民主党のなかには消費税増税に少なくとも表向きには賛成を表明できない議員がいるだろうから、増税が具体的に俎上にのぼれば、動揺がおきる可能性はあるということ。この点で、自民党内の動揺よりはるかに民主党内の動揺は大きいと想定され、石原はそれを承知の上で発言している。
ボクは昨年、当ブログを「再開」してのちすぐに政党再編にふれた。その前提は、以前に再三、強調してきたこれまでの自民党と民主党の合計得票率に大きな変化がないという1つの特徴である。それぞれの議員の態度や主張に仮にちがいがあっても、有権者の側は、自らの選択の許容範囲として民主・自民を同じように位置づけていると推測される。このような有権者の推測は、民主・自民の政党の階級的立場が基本的に一致しているということと表裏の関係にあるとボクは思う。
消費税が今後、政局の重要な環であることはまちがいないだろうから、この議論でもサヨクががんばれるかどうか、それが岐路にたったこの日本政治を国民の側に引き寄せる条件になっている。
*消費税と税制についてのボクの見解は、カテゴリ「消費税/税の使い途」をご覧いただければ幸いです。
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名護市長選のもたらしたもの
名護市長選の結果は、民主党中央をさらに困惑させることになったのではないでしょうか。それは、たとえば平野官房長官のひとこと(参照)に尽くされているような気がします。民主党にとっては、いっそ基地受け入れ容認の候補が勝利したほうがよかったのかもしれません。
明確に地元県民の基地移転反対の意思が示されたというのに、首相自らあらゆる可能性を探るとあえていっていることも同様に、民主党内への選挙結果の波紋の大きさと同時に民主党の苦悩を示すことになったと私には思えます。
平野長官はいったい何といったのか。選挙結果を前にしてこういった。
「選挙結果を斟酌してやらなければならないことはない」
まあ、言葉どおりに受け止めると、これは沖縄県民にたいする挑戦ともいえますし、世論に背をむける言質だといってよいでしょう。これまで普天間基地移設問題における民主党の迷走ぶりは、さんざん指摘してきましたから、読者のみなさんは、民主党という政党がいかに芯のとおっていない政党か、ご承知のことと思います。名護市長選が控えていることを、鳩山由紀夫首相は移転問題決着を先送りにする理由にわざわざあげてきたところですが、平野博文の発言がすべてを露にしてしまった感じですね。つまり、民主党は、県民の意思がどこにあろうと、それとはおかまいなしにこの問題を決着させるという道筋です。当然、その道筋を決定づけるものの一つに米国との関係を民主党は置いているにちがいありません。先にのべた鳩山由紀夫のあらゆる可能性などという言い回しもまた、米国を慮る方便にすぎないと私は考えたくなります。
民主党の選択は、あるいは政権のとる方向は、沖縄県民の明確な意思とは裏腹に、いっそう混迷を深めるのではないでしょうか。平たくいえば、あきらかに国民に背を向けたと思える態度をとるのは躊躇するし、さりとて米国の意向は強く、重たいものとして受け止めているにちがいないのですから。
いよいよ沖縄県民の思いを広げることが重要な時期をむかえたのではないでしょうか。率直にいえば、当選した稲嶺氏も世論に押され、辺野古に新しい基地をつくらせないという態度を明確にしたと私は考えていますが、ともあれ、氏自身が県民の思いをわがものにして仕事にとりくめるような世論を築き上げることが重要になってきました。そのことが民主党の中央政府への圧力となる。民主党政権に、たとえば平野発言のような県民無視の態度を二度ととらせることのないような環境をつくりあげることが、夏の参院選にむけた課題になるにちがいありません。私はそう思います。
(「世相を拾う」10019)
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2009年回顧- 政権のゆくえと社民党
今年2009年の元旦、大企業を規制できる年にとエントリーで願いました(参照)。
今年の晦日、この元旦の願いがはたして叶ったのかどうか、それに思いを馳せました。
この1年の最大の出来事は、やはり政権交代でしょう。戦後ずっと続いた自民党政権に民主党がとってかわった。自民党政権がとりあえず下野しました。国民・有権者は、新たに政権につかせた民主党に、少なからぬ期待を寄せたはずです。それは、大きくいえば2つの方向からの期待であったように私には思えます。一つは、自民党政権によって少なくない痛みを押し付けられた立場から、政治を変えてほしいというものでしょう。今一つは、自民党ではムダの排除、「官僚政治からの脱却」はできない。もっと構造改革をすすめてほしいというそれでしょう。いずれも民主党はその切り札だととらえず、何かしらやってくれるだろうという、ある意味で淡い、消極的な支持だったといえる。
大企業を規制できるようにと私がいうのは、労働者をモノとして扱ってきた結果、2009年問題に集中的に象徴されるような矛盾が噴き出してくるからでした。私たちに伝えられ、そして眼に飛び込んできたのは、昨年末から年明けにかけて、その矛盾に押しつぶされるようとしている人びとに救済の手を差し伸べようとした湯浅誠、宇都宮健児らの年越し派遣村の経験でした。今年のはじまりは、この経験を全国に広げることからはじまったし、国会の論戦でも、民主党ではありませんでしたが、取り上げられ、政府は追及の的となったのです。労働者派遣法の相次ぐ改悪の中で、労働者のうち最も弱い部分に集中して、まるで消耗品同様に思いのまま雇っては解雇し、契約を打ち切り、路上に放り投げ捨てる。ここに、この日本国での資本主義の姿が、新自由主義的改革のもたらすものが見事に映し出されています。
資本のあくなき利益の追求。そのために政治を支配する。小泉の時代に、経済財政諮問会議という、政府の意思決定の基本方向を財界代表とともに決定するしくみができあがったのはその象徴でした。財界や大企業は、政府に彼らを手厚く優遇するための施策を求めてきた。結果、使い捨ての労働者が街にあふれる片方で、正規労働者を非正規雇用労働者に置き換えることによってかつてない内部留保を溜め込んできたのです。自民党政治は言葉をあえて選べば財界や大企業に牛耳られてきたといってよい。年収200万円に満たない賃金しか得られない労働者の数が伝えられるたびに、それは増え続けてきたし、日本の消費が温まるはずはなく、冷え込んでしまった。規制とは、このゆがみを正さなければ、日本経済の再生もありえないと考えてきたからです。
政権がかわることで、それまでの財界偏重の政治からの脱却が期待されました。たとえば労働者派遣法の抜本的な改正が求められてきた。大企業のいいなりではなく、きちんと働いていれば、日本国憲法にいう健康で文化的な生活をすることができるようにしてほしいというのは、実際に解雇された派遣労働者だけではなく、解雇への不安を抱きつつ働いている正規労働者の願いでもあったでしょう。民主党政権になって、湯浅が内閣府参与に登用されたように、あるいは派遣法が改正されたように、雇用環境を考える上でも、一定の前進がありました。ただし、実際に前に動かしていくには、政府が具体的に足を踏み出すように国会の外からの働きかけと監視が欠かせません。2つの積極面も、何もしなければ実効が上がるものではありません。
こうした一定の評価できる側面以上に、実感されるのは、これまでの自民党政治を規定する財界に目をむけた政治から脱却をしようという意思より、これを継承しようとする意思が、ひきつづき民主党政権にもはっきりみてとれるということです。話題となったあの事業仕分け。これに賛意を示した民主党支持者は、冒頭でのべた改革推進力として民主党に投票した人びとをはじめ少なくはなかったのかもしれません。しかし、この仕分けは、手法そのものが構造改革推進勢力がとってきたものでしたし、実際の採用された仕分け人のなかには構造改悪を支えてきた人物が数多く、そして行程そのものが財務省の考えたものと伝えられるにいたって、その性格ははっきりしたといえるでしょう。むろん私たち国民には、電波で流される官僚を厳しく追及する蓮舫に代表される登場人物がいわば役者となってくりひろげる、胸のすくような芝居のようなものではなかったか。
けれど、この仕分けがはじまるとき、聖域は設けないと華々しくいわれましたが、終わってみれば結果はけっしてそうではありませんでした。思いやり予算にも手をつけるなどといいながら、米国・米軍への直接的影響はない、手がつけられたのは、日本人従業員の賃金カットでした。ましてや、財界・大企業にたいして、あの蓮舫が大鉈を振り上げることができたでしょうか。そうではなく、事業仕分けをへて、閣議決定された来年度予算案にはこれまで同様に聖域のまま、たとえば法人税減税は維持されたのです。年の初めの願いは、いまだ叶えられていないといわざるをえないでしょう。
政権ができて100日を過ぎ、支持率の低下が顕著です。ただ、世論調査やTVから流される国民の声による限り、低下の要因は首相と民主党政権の姿勢にかかわるもののようです。一つひとつの問題で、統一した政府見解が示されることがほとんどなく、閣僚がそれぞれ異なる発言をする。態度を決定できない。その典型が、普天間基地移転問題ではないでしょうか。民主党は連立を組んだ社民党の態度への配慮を、この問題での態度決定が困難な要因の一つのようにすら聞こえる発言もある。
しかし、そもそもの政権の出発点で連立を戦術としてとってきたのは、ほかならぬ民主党です。07年参院選、そして今年の衆院選と、民主党のそれまでの主張に沿うことより、まげてでも支持を得ることを厭わない、たとえば生活第一のスローガンに表現されるような、小沢のまさに主導による選挙戦術が続きました。民主党自身はこうした自らとった戦術によって縛られざるをえません。矛盾は同党が引き受けざるをえないし、2つの選挙以来の民主党の右往左往の一因はここによるでしょう。連立も、こうした戦術に連続したものだと私は理解します。この2つの選挙と、来年の参院選までを一連の過程として描くことができ、民主党は、衆院選で絶対安定多数をはるかに上回る議席を得たわけで、参院選で単独過半数を得るのが当面の、最大の政治目標であることは、小沢が繰り返しのべているとおりです。そのために、ウイングは自民党支持者だけでなく、より左の社民党支持者にも広げざるをえません。そして国民新の支持者までも。結局、連立はそのための手段にすぎない。それは、来年度以降の民主党の運動方針案に明確に示されたといってよいでしょう。社民、国民新は来年参院選で戦力外通告を下されるというわけです。
こうした戦術重視、政局重視をとる小沢と民主党だからこそ、社民党とはこれまでの同党の理念をもってすればありえないはずの連立が成り立った。むしろ社民党が連立に乗ったのは不可解だといえなくもありません。政権誕生後、民主党の矛盾と同じように、社民党もまた矛盾を抱え込まざるをえませんでした。話を元に戻すと、普天間基地移設にからんで、これらの矛盾は誰にも分かるように表面化しました。民主党内で意見はもちろん分かれるし、社民党もまた、連立に留まるか否かが実際に迫られ、福島瑞穂は自らの進退もからめざるをえませんでした。福島が連立政権を組むとき、その理由に内部から政権を動かす旨の発言をしましたが、ことはそう簡単ではありません。たしかにこの普天間問題では、社民党の意思を慮って年内決着を放棄し、態度保留を今のところ続けているようにみられがちですが、そうでしょうか。民主党が態度決定できなかった最大の理由は、沖縄県民の明確な意思があったからでしょう。逆の場合を仮定すれば容易に分かることです。県民が仮に辺野古移転を認めていたならば、社民党が反対しても、年内決着したでしょう。
社民党の今日の矛盾について、エントリー;中道の憂鬱- 社民党の場合で言及しました。民主党の態度がその運動方針案で明確になった今、社民党が問われています。態度決定しなければなりません。来年参院選で民主党が議席を伸ばす状況ができれば、社民党はまさに戦力外通告を宣告されるでしょう。そのとき、あるいはそのときまでに社民党はどんな態度決定できるか。広くその概念を考えた場合、社民党の立場は反戦であったでしょう。その立場を堅持するのならば、普天間問題にからんであらためて日米同盟強化を明言し、米軍の抑止力という言葉を臆面もなく使う鳩山由紀夫とどうして同じ政権を担えるのか。それだけではなく、ついに首相は改憲すら口にしたではありませんか。現状は、私に社民党の決断の中身を推測させるものです。原点に立ち戻るのは容易でないように思えてならないのです。
理不尽と思える態度を理由づけるには苦しい福島の弁明でした。内部からかえるなど、できない相談です。同じように、社民党支持者は事態がここに至って、同党(の態度)を支持すべき根拠を見出さざるをえません。ちょうど民主党による政権交代を至上のものとして叫びつづけてきた者が、小沢の、そして鳩山の「政治とカネ」問題の表出、あるいは政権について以後の迷走に直面してうろたえ、それを弁護するために、きれいごとでは解決しないかのように語ってみたりしたように。福島の弁明にそって、内部から変えるというのでしょうか。政権にいてこそ、存在意義があるとでもいうのでしょうか。社民党とその支持者たちには、いうまでもなく民主党との連携を合理化するか、それとも決別するか、2つの道しか残されていません。そして今のところ、後者の可能性は少ないでしょう。
元旦のエントリーでふれなかったもう一つの難問は、日米関係です。少しも変わらぬ米国追従。口では思いやり予算も手につけるといったものの、民主党政権はできなかった。いえるのは、日米同盟の強化であって、信じてくださいという、これこそ隷従を意味しているだろうとも思える言葉にほかなりません。大企業の規制、日米関係の見直しという2つの難問を前に、政権の内部に軋轢が生じたことはいうまでもありません。民主党内だけでなく民主と社民の関係においてもまた。おそらく、来年は、矛盾と軋轢はいっそう加速するだろうと思います。多くの難問を先送りにしただけに。
民主党は、そもそも財界をふくめた勢力が志向する二大政党体制づくりの過程で生まれでた。それは、自民党がつづけてきた財界のための政治、日米同盟の強化という2つの条件を保持するためのしくみだともいえるでしょう。だから、政権交代とは、自民党にとって安全にかわりうる政党によるものでなければならない。民主党はそんな宿命をもっています。自民党の政治がとことんゆきづまっているのだから、その意味で、財界からみればまさにピンチヒッターの役割をもたせるという位置づけにかわりありません。
二大政党政治と小選挙区制度は切り離せません。ですから、民主党自身、小選挙区制をさらに拡大し、比例部分をなくそうという方向です。二大政党制は、多様な意見と少数政党を排除する。政権の中でかえるとか、少数では意味がないなどという見解は、まさに二大政党政治をめざしてきた勢力の意図してきた、収斂させようとする方向でしょう。
2010年は、以上の意味で、日本国の将来を決める年になる。すでに、小沢の国会改革案、普天間問題での動向、そして改憲、消費税増税にからむ首相と閣僚らの発言に表れているように。民主党の単独過半数確保は、これらをすすめる方向に働きこそすれ、阻止する方向には働かないだろうと予測します。ただし、繰り返しますが、政権は参院選まで矛盾の中に置かれることもまた事実。民主党政権への期待の中には、自民党政治からの転換を願った人は少なくないでしょうから。その方向を動かし、決定するのは、国会の外の力ともいえそうです。
(「世相を拾う」09295)
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政権交代の頂からみえる光景
私は山登りが好きなので、こんなことを想像するのです。私の経験では、頂をめざすまでの間、最も苦しい時間に一面では私自身があるとき、私の頭にはただただ頂上をめざすことしかなく、一歩一歩、少しでも前へ前へ、高く高くすすもうとする意思に私自身は支配されるのです。前提には頂に達すれば、適度の達成感に満たされるだろうという思いがある。
こんな登山にたとえると、とにかく自民党のやる政治はもういやだという思い、そこから抜け出そう抜け出そうと多くの人が考え、この一点で、歴史的な選挙結果を導き出したわけです。そうして、現実に、長年続いた自民党政権から民主党という、自民党ではない政党が政権を握るという変化がもたらされました。
ところで、山登りでは、疲れたあと、頂上で一服するのはとても心地よく、平時の、あるいは平地で食べるインスタントラーメンでさえ、山の頂で食すると格別なものなのですね。しかし、政治の世界は登山と同じようにはいかない。極端なことをいえば、今日は今日でしかなく、明日はまったくみえない境遇にさらされている人びとがこの日本ではたくさんいるのですからね。まったなしといわねばなりません。頂から遠くをながめ、どのように次の峰をめざすのか、あるいは下山していくのか、決めなければなりません。
昨日のエントリーで強調したかったのは、政権交代がすなわち政治の変化と等しいということではまったくないということでした。これまでの自民党がやってきた政治からの変化は、国民が導き出す以外にないのかもしれません。昨日は、国民本位という言葉を使いました。が、そんな国民が主人公になる政治を手にしようと思えば、まず国民が声をあげないといけない、かかわらないといけない。たとえば民主党政権に有権者に約束をしたことを守らせる働きかけが必要です。それにそむくのならば、倒閣も辞さないくらいの決意を国民がもちうるかどうか、これが重要な気が私はしてなりません。
国民が主体的に状況を切り開かないといけないと強く私が思うのは、つぎのような理由があるからでもあります。
懸念するのは、自民党以上に改憲や消費税増税に道を開く役割を民主党が果たすのではないかということです。かつての15年戦争に日本がそれに突入する際の翼賛体制と同じものを今日、形成する上で、民主党政権が役割を担う可能性を少しも否定できないと考えるからです。政党の再編をふくめて。
そもそも私は民主党の結党そのものを二大政党制とかかわるととらえていて、自民党と民主党の政権の交代があろうとなかろうと、それにはかかわりなく二大政党制というのは安定装置であって、保守政治の枠組みのなかに日本の動向をおしとどめようとする支配勢力の強い意思をみておかなくてはならいないと考えているからです。
そのような立場から限定して今回の政権交代をみるならば、交代の政治的な意味あいはほとんどないに等しい。政権が交代するといっても、派閥の交代ほどのものでしかない。むしろ民主党にたいする国民・有権者の期待を逆手にとって、一気に支配層の思惑を達成しようする契機に、今回の政権交代が位置づけられる、位置づけようとするねらいすら最悪の場合は考えざるをえないと私は思うのです。
しかし、それは同時にこうもいえます。
長年の自民党政治の反国民性が暴露されつつあると。
ですから、これまでの自民党と同じように民主党もふるまうのであれば、たちまち国民・有権者からの離反を招かざるをえないというものです。民主党は、当ブログで再三、強調するように、支配層からの使命を受けて政権を運営せざるをえないという一面と、反面で自民党とはちがう政治をおこなう可能性をいくらかでも期待させる政権として生まれでたという一面、この相反する2つの側面をもちつつ誕生しているといえるでしょう。
その意味で、だからこれから国民・有権者が役割を果たさなければならないと考えるのです。自民党が長年、財界・大企業と米国の意向に軸足をおいてやってきた政治を民主党が継承するならば、民主党もまた自民党と同じ運命を辿るようにしなければなりません。
そうした国民が状況を支配しうる、ある面でおもしろい光景が、山の頂のむこうにみえるのではないでしょうか。
自民党から民主党に政権が移るという今回総選挙のたどりついた結果、その頂からのながめは以上のように私にはみえるのです。
(「世相を拾う」09173)
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有権者の眼- 政権交代でも政治は変わらない
以前に私は、参院選終了後、参院選結果をながめてみるというエントリーをアップしました。
そこで数回の参院選比例区の各政党の得票率を比較し、つぎのようにのべました。
2つの点をあげたい。 自民・民主の総和は表にあげた3回の参院選でほぼ変化はないとみてよいだろう。 これから、有権者は自民、民主の間を往復していると推測される。先に振り子が逆にふれたといったのはこの点である。 もう一つは、自民党の退潮傾向は止まっていないということである。 この点は、昨日、午後2時の投票率を中心に感想程度にのべた。そこでふれた点が結果に表れている。民主党は都市部の中間層だけでなく、従来自民党の地盤とされていた地方の農村部などでも自民党の票を掘り崩したと推測される。地方の農村部の1人区ではほとんど民主党が占めた。 以上の結果をもたらす上で、今回もまた、メディアは一役かった。「政権選択選挙」、あるいは安倍か小沢かという強調は各紙、各テレビ局に共通するものであった。 |
それから、ちょうど一月ほど後に、朝日・東大の共同調査の結果が公表されています。それに私は言及しました(参照)。
上記の私の観測は、朝日・東大調査でも確認されるようにあながちまちがってはいなかったということでしょう。まあ、数字を並べてみれば分かることではあります。
この結論は、そのまま今回、朝日が記事にした調査にもあてはまるようです。
数字上は等しいといってよいくらいの誤差の範囲ですね。まさに見事なものです。
問題は、何回かの検証でこのように自民・民主の得票率や「投票予定率」がほぼ横ばいであるのはいったい何を意味するのかということでしょう。
厳密にいえば、自民・民主の率の上での総和が等しいからといって、常に同じ人々が自民か民主のいずれかに投票しているということを意味しているわけではむろんありません。それを知るには、特定の選挙で自民党を支持した人の、たとえばその次の選挙で民主党に投票した人の割合をすべて算出する必要があります。
しかし、選挙ごとに自民・民主の総和がほぼ等しい、あるいは等しいといってよいくらいの誤差しか見出しえないということは、自民・民主の間をブランコのように移動している人と自民、民主それぞれを常に支持する固定層の和がそう大きくは変動しないということを意味するとみてよいと私は思います。
つまり、有権者の投票行動は、小選挙区制という相対的に小さな政党を排除していくしかけが定着しつつあるということを意味するということでもあるでしょう。
だから、その限りで支配層の思惑は貫かれているということでしょうか。
ところが、こうした有権者の投票行動とは裏腹に、朝日調査が示す、もう一つのポイントがあります。むしろ、この点こそ重要なのかもしれません。
それは、政策(またはその実現)に期待していないという意識です。それなのに、比ゆ的にいえば、2つの政党の間を揺れ動くという意識です。言い方をかえると、こうした意識こそが、上にのべた数字上の結果をもたらしているということでしょう。
調査結果に表れている「関心が高い」ということは、たぶんに長年の自民党政権が終わりを迎えるかどうか、という一点にあるのでしょう。が、調査結果による限り、政権が変わることを期待するが、政治が変わるとは考えていないということになる。有権者はこの意味で正確に政党の主張をとらえているのではないでしょうか。
だから、日本政治にとっては、今回の総選挙は、自民党の政治の終わりの始まりであって、文字どおりの終焉を意味していないということです。同時に、民主党では自民党の政治を終わらせることができないと(有権者が)了解しているということをも結果は示しています。自民党政治の終焉をめざす勢力の存在はこの点にあるのでしょう。
有権者の意識が自民党政治の終焉にゴーサインを出すことにもちろん私は賛成ですが、今回の選挙でその領域にまでは達していないということでしょうか。
自民党政治の終焉をめざす勢力はこれをどうこれから打開するのか、これが特別の課題となるのではないでしょうか。
(「世相を拾う」09163)
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「政権選択」といってもこの程度。
民主公約修正:にじむ「迎合路線」…説明会での指摘を反映 民主党が衆院選マニフェストで米国との自由貿易協定(FTA)を巡る表現など5項目を修正・補強した背景には、農業関連団体など関係団体からの猛抗議を受けた対応に加え、3日から11日まで行われた説明会での指摘を取り入れようとの姿勢があった。直嶋正行政調会長は記者会見で「政策が変わったわけではない。修正には当たらない」と釈明したが、度重なる軌道修正は票目当ての「迎合路線」の感が色濃くにじむ。 「さまざまな意見をいただきながら、多少の手直しをしていく。メディアは『ぶれた』と言うが、分かりやすくするための努力だ」 岡田克也幹事長は11日、水戸市で開いた最終回のマニフェスト説明会のあいさつで強調した。「有権者の意見を聞いて『進化』させるのは当初方針通り」(政調幹部)との論理で「ぶれた」印象を少しでも払しょくしたい思惑がうかがえた。 |
読売の記事は以下のとおり。
民主マニフェスト5か所修正…要望や反発受け |
民主党のあまりの主体性のなさに、メディアもこんな書き方を強調しているようです。
迎合路線。
たしかに、意見が出るとその意見に揺さぶられ、その結果、取り入れる。すでに同党のマニフェストの修正は幾度繰り返されたのでしょうか。最後には、当初発表したものがまったく姿をかえてしまうなんてことがまったくないとはいえない、これが大げさでなくなってしまうような塩梅です。
メディアがいうこの迎合路線とは、つまるところ時の流れに乗ることを指しています。政権交代のために支持を広げる、今後の支持基盤になってもらう必要がある、などなどの思惑もからんで、マニフェストの修正なんてわけないとまるで考えているかのようです。結局は、民主党のこの対応は、バンドワゴン。これからも、さらに修正はつづくかもしれません。
機を見るに敏というのは、よい意味でも、悪い、消極的なふくみをもたせても用いられることもある。
昨日、とりあげた橋下や中田宏の記者会見における態度表明は、この類と私は受け取る。もちろん後者の意味であって、そもそも自民、民主に視野をかぎり、てんびんにかけ、気をもたせる。このやり口がいかにも、と思わせてきました。
ようは、どちらを選択しても、たいした彼らにとって実害をこうむらないという判断が最初からあったにちがいありません。おるいは大きなちがいはないという判断です。まさか、彼らの選択肢に自民党政治に対抗しうる共産党や、あるいは社民党ですら入るわけなどないのですから。
点数が示されていますが、有意の差がるとは私には思えません。
結局、民主党に決まりで、これまで気をもたされてきた自民党からはこんな反発があがっています。
自公府議ら「裏切りだ」…首長連合・民主支持で |
繰り返しになりますが、橋下や中田が2党のうちいずれを選ぶかでもっとも重視してきたのは地方分権の位置づけでした。しかし、地方分権の名でどんなことをやるのか、この点に着目しなければなりません。名とは裏腹に地方自治は無視、誇張すれば財界・大企業に地方政治を思いのままにさせるようなもの、こう表現してよいと私などは思うくらいです。
メディアを介して大々的に伝えられる、こうした政治ゲーム自体が、選択肢を2つの政党、自民か、民主かにかぎり、政権選択の選挙だという繰り返し発信されるフレーズに国民・有権者も浸っているわけですね。刷り込みともいえるでしょう。
政治というものが、声の大きい者の発言をとりあげ、それがあたかもすべてであるかのように報道されていく。こうしてメディア選挙といわれるものが、またも今回、繰り返されています。
現実は、マニフェスト一つをとっても以上のような水準の議論であって、政権選択選挙とは名ばかりのもの。外形上だけの政権選択選挙をあおり、ほんとうの問われている問題から国民・有権者の目をそらすようなしかけに思えます。
自民党の今日の窮状は、自民党自身の政治の軸足の置き方そのもの、いい換えると、国民の生活より大企業や米国の利益を優先する姿勢からきているものだと私は思います。
ですから、政権交代という以上、この自民党の軸足を転換できるかどうかが問われなければならず、そこを不問にふしたままではこれまでの自民党内の派閥の領袖たちによる政権の交代と根本的には同類のものになる。
民主党にはしたがって、この自民党の軸足を踏襲するのか、それともこれを断ち切るのか、その点を明確にすべきではないかと思うのです。財界・大企業にしても、米国にしても、即時に関係を転換するか否か、これも問われることでしょうが、ひとまずどうするのか、これをはっきりさせる必要がある。
メディアの報道は、その点を欠落させることで各社一致しており、まさにメディア合戦がしくみとして、政治支配戦略として機能しているということです。この実態こそを二大政党推進体制とよんで差し支えないでしょう。
昨日のエントリーでとりあげた福島党首の発言は、この現状で(同党が)取り残されないようにという意図が自明であって、社民党の存在、立ち位置をあらためて今の時期に表明したものでした。しかし、以上の点を民主党にあらかじめ問うことなしに連立の中でただそうというのは、順序が逆転しています。
民主党が共産党に連立をよびかけることはないでしょうが、共産党もまた、二大政党推進の嵐のなかでいかに自らの主張を有権者にとどけるのか、けっして容易ではありません。
小選挙区という選挙制度とメディア選挙といわれるくらいにメディアの言説が先行する今の選挙のあり方。共通するのはきわめて不公正な制度設計と扱いによって、2つの政党に国民の意識を収斂させていくという手段だということです。
(「世相を拾う」09153)
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今日の政党模様-終焉か、再編か、それとも
自民、総選挙分裂含み 21日の「懇談会」開催決定
もはや解党状態の自民党。
党内のさまざまな動きは、その先頭に立っている人物はともかく、各議員にとっては次の身の確保から思考がはじまる人も多いでしょうから、当選できる条件のそろっている方向になびくのでしょう。したがって、自民党という政党にたいする帰属意識は希薄になり、新しい条件を探してマニフェストも乱立するというところでしょうか。
麻生首相の求心力などもはや微塵もありません。
そこで浮上する再編。民主党に身を寄せる者、新たな潮流に吸収される者、いろいろでしょう。しかし、どのような再編があろうと、今のたとえば自民、民主の総合を一つのフィールドとしてみるならば、民主党(の一部)が仮に再編にからんだとしても、再編後の姿がそのフィールドの枠組みに収まっているのは確実でしょう。そこにその他の政党がからんだとしても、基本的には同じでしょう。
こうして、総選挙を前に繰り広げられる騒動は、いよいよ堕ちていく自民党の姿をいっそう貧相にみえさせます。考えてみると、しかし、その自民党は絶対多数を保持できなくなって久しく、高度成長期の支持基盤は、すでに自らの政治と政策によって堀り崩し、今日では公明党の力も借りながら政権についてきたのですから、すでに自民党の力は地に堕ちたものだったといってもよいかもしれません。
そして、ゆきづまりがさらに深化し、この状態です。
この記事をみても、自民党という政党はこの時点ですでに終わったという感想を私はもちます。
それならば、自民党政治が終わるのか。
それには疑問符がつきます。自民党がおしまいになれば、自民党政治の終焉を意味するかといえばただちにそうとはいえません。読者の皆さんは、すでにご承知のとおり、党ブログは自民党政治の象徴を、財界・大企業優先、米国追随という政治姿勢にみてきました。この2つの、財界・大企業と米国のいいきればいいなりの政治を続けてきた結果、今日、日本社会は見事に引き裂かれ、分裂しています。どの面をとっても、一部の優遇された者、苦しまずにすむ者と、痛みをおしつけられ、苦しむ大多数の者という具合に。
こうした現状は直ちに手をつけただしてほしいのですが、そのためには、財界・大企業優先、米国追随という政治姿勢をあらためなければなりません。自民党にとってかわる政治、とってかわるのは民主党が想定されるのでしょうが、その民主党がこれを見直せるかどうか、それが問われるでしょう。
その点で、数日来、言及している民主党の直近の対応をよく観察しておく必要があるのではないでしょうか。
このエントリーでは、それに今一つ、次の事例を挙げておきたいと思います。
民主:一転「給油継続」 特措法期限まで 米国に配慮 民主党は16日、海上自衛隊によるインド洋での米艦船などへの給油活動について、政権獲得後は、これまでの反対姿勢を転換し、当面は継続する方針を固めた。同党はこれまで、活動の根拠となるテロ対策特別措置法や、給油を継続するための法改正に反対してきた。だが米国側が公式、非公式に民主党の主張への懸念を繰り返し伝えたことを受け、日米関係を重視する立場から方針を転換した。 |
日本のジョーシキは世界の非常識ともいわれます。日本の米国追随ぶりは、米軍への思いやり予算一つとっても、常軌を逸している。世界中ながめても、それだけの国は見あたりません。
この現状は一刻もあらためるべきだと私は思うのですが、そうでなくても、米国追随をやめ、対等な関係を構築するために民主党に働いてほしいものです。
けれども、この記事によれば、米国を慮り、給油継続を認めるのだそうです。こうして、一つひとつの問題で、自民党との連続性があらためて民主党の対応から読み取れる。こうしたなし崩しは、世界と日本の平和と安全に寄与するものとは到底、私は考えません。
民主党の動きに注目すべき。私はこの点で、昨日のエントリーにふれたとおり国民・有権者の綱をゆるめない努力が必要なことをのべました。ようは、国民に目をむけた政策を政党がかかげるよう、国民自身がより政治にかかわる努力を払うことです。期待を裏切れば即、審判を下すという・・・
(「世相を拾う」09129)
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【関連エントリー】
綱を緩めれば民主は彼方に。。
自民党を右寄りに乗り越える? 民主党
民主党は財界とどうつきあうのか。。
都議選が終わって矛盾は深化する。
何が変わるか不明だが政権交代?!- 山口二郎
政権交代で何を変えるのか
政権交代を何よりも懇願してきただろう山口二郎氏は今、何を考えているのでしょうか。
エントリー;政権選択という前にで、この間の山口氏の所説の揺らぎにふれました。氏は、何のための政権交代かという文章につづいて、冒頭のエントリーを公開しています。そこで、あらためて繰り返されているのは、民主党が何をかえようとしているのかということがみえてこないという事実です。そこに、じれったいものを感じているのです。
しかし、民主党が政権交代をいいつづけて相当の時間を費やしていますが、その内実にふれていないのは、この間のことではなく、これまでも一切語ってこなかったといって過言ではないでしょう。
民主党による政権交代を誰よりも強く願う氏自身が、「民主党政権が日本をどう造りかえるのか、具体的な言葉は伝わってこない」というのですから、いったいこの場合に語られる政権交代とはいったい何なのかという疑問が沸いてきて当然です。
そうした国民の間の疑念を前に、山口氏は不安を抱えて込んでいるのではないでしょうか。以下のように。
民主党には政権担当能力がないという自民党の批判に同調することは、私も望まない。麻生政権の政権担当能力の欠如の方が深刻である。それにしても、政権交代を起こして民主党はどのような政策を実現し、日本の世の中をどう変えたいのか。その点が具体的に見えてこないところに、不安の原因がある。(何のための政権交代か) |
一方で、氏は、こう言い切っています。
日本人にとって、選挙による本格的な政権交代を初めて経験するかもない機会である。 |
しかし、こういうためには、長年の自民党政治のなかには、「政権交代」によって自民党が下野した時期も現にあるし、仮に民主党が政権についた場合はそれとは異なることが立証されていないといけないでしょう。これはまったく論理的には成り立たちません。
なにしろ(民主党が)どう変えたいのか分からないといっているのは氏自身なのですから。先行きが皆目分からないのに、「本格的な政権交代」だとどうしていえるのでしょうか。
こうしたところに、氏の政権交代至上ともいうべき姿勢を感じるのです。
むしろ私は、これまで繰り返しのべてきましたが、両党のちがいを探しだそうとするよりも、両党の重なりにこそ目をむけないといけないと思います。自民党の政治のもたらした日本社会のゆがみを民主党政権が是正できるのでしょうか。それに否定的な態度を私は取らざるをえません。
なぜなら、ゆがみをもたらした要因たる現に米国追随や大企業優先をただそうと語れないし、今後、米国追随・大企業優先の基本姿勢を民主党がとらないという保障はほとんどないでしょう。両党の重なり、同じところは政治路線上の本質を示す部分です。
山口氏はここを一切、語りません。語っては話がすすまない。そこに政権交代論の最大の矛盾がある、こう私は思います。
(「世相を拾う」09123)
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政権選択という前に
自民党と「政権を争うはずの」こうした民主党の実態は、メディアの論調にも敏感に反映しています。
西日本新聞が衆院選挙を政権交代の機会ととらえる視点から、政党の実態をふくめて言及しています。
この社説は、2つの側面をもっていると私はとらえます。その一つは、従来のメディアの論調、世間で語られる論点を引きずっている点です。それは、今回の衆院選を政権選択選挙ととらえているところです。つまり、政権選択がこの選挙の性格づけだとすると、たとえば政権を争う2つの政党の論点のちがいが有権者に示されていて当然でしょうが、はたしてそうか。これまで、明らかにされたためしがあるのか。たとえば財源問題の表現のちがいは自民党と民主党でたしかにあるでしょう。しかし、たとえば財源を今後、求めるのに、税をどこからとるのかという点では両党にちがいはないわけです。 このように、この社説の主張の重要な側面は、政権を争うかのように表現はするのですが、争うのなら、両党の間の本質的なちがいを示し、有権者の判断に委ねるというメディア本来の役割を果たしてはいないという点です。むしろ逆に上記のようなたとえば個別の論点で両党の間にちがいがないことは捨象するか、もともと本質的ちがいがあるのかどうか、それを追求しようとする姿勢が欠落しているのではないでしょうか。
同じ政党内の派閥間の政権交代ではあるまいし、ならば政党のちがいが政策的にも明確であって、しかも、実際の政治的対応のなかで両党にちがいが存在し拮抗し、そしてそれが熟して、はじめて政権選択選挙と性格づけられるものでしょう。現実は厳しいもので、ここ数日の報道にみられる自民、民主の動向はほとんどそれを打ち消しているのではないでしょうか。もう一つの側面。それは、やや大げさに評価すれば、社説が光彩を放つのは、政党本来の責任と使命という視点から今日の両党のありようを論じようとしている点です。政党というものは、社会的請託を受けて活動するもの。つまり、政治とは、己の社会的要請が普遍的な妥当性を有することを示そうとする闘争(大澤真幸)と表現できる。その点に政党の責任がある。だから有権者に政策的理解を求めなければならないのに、彼ら両党の現実はそうなっているでしょうか。その責任を両党は果たしえているのか、社説はこの点を説いています。
「○○党首では選挙が戦えない」という泣き言にも似た悲鳴は、民主党でも聞かれました。西松建設の献金事件で小沢一郎氏の秘書が逮捕・起訴され、政党支持率が急落したころです。民主党は小沢氏の代表辞任と鳩山由紀夫氏への代表交代で辛くも窮地を脱しましたが、いまの自民党の騒動と重ねると既視感は否めません。そこに共通するのは、切磋琢磨(せっさたくま)して練り上げた理念や政策の真価を国民に問う-という政党本来の責任と使命を見失い、民意の審判におびえる政党の自信喪失ぶりではないでしょうか。 |
民主主義とは、多様な利害のある種の集計であり、それらの間の「平均」や「妥協点」を見出す意思決定の方法であると考えられている。つまり、そうした「平均」や「妥協点」を、全成員の意思の普遍化された代表と見なす方法が民主主義と前述の大澤はのべています(参照)。
同じことを、社説は「完全無欠の民主主義があり得ないのと同様に、完全無欠の政権政党もまた、あり得ない。私たちはそんな政治的リアリズムから出発すべき」と表現しています。そうであるならば、自らの信条に合致させるために、各政党に政党の政策を明確にするよう迫るところから民主主義もはじまるといえるでしょう。その点で、両党がはたしてこれに応えているかどうか、衆院選を政権選択選挙だと鵜呑みにするのではなく、あらためて問うことが有権者に求められていると考えることができるのではないでしょうか。政党は政策を語り、これからの日本をどうするのかを語らなければなりません。その点で、来るべき総選挙は、一般にいわれるような自、民の政権選択ではない。自民党政治という枠組みをこれ以上続けさせるのか、それともこれを転換させるのか、これが問われるのではないでしょうか。自民党の政権は終わりにし、自民党政治を転換できる政党はどの党か、これが問われる選挙だと私は考えます。
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世論は9条改定に反対
改憲派のみなさんは、よほど世論調査の結果が気になるらしい。
結局、読売の調査結果発表の際のバイアスはそのことを端的に示すものでしょう。繰り返しになりますが、改憲派が標的にしてきたのは日本国憲法第9条。少なくとも9条が改定すべき条項の重要な一つであることは疑いを入れないでしょう。
自民党にとって改憲はいわば党是ともいえるもの。与党が今、憲法審査会の規程をなぜ急ごうとしているのか、それを示す格好の記事をみつけました。話すのは日大教授・百地章。露骨に、改憲派の胸の内を語ってくれています(参照)。
百地の見立てでは「憲法改正こそ自民党の結党以来の悲願であり、わが国が当面している防衛・安全保障問題の抜本的解決は、まず憲法を改正して対処するしかないからである。しかも、これらの問題は民主党にとってのアキレス腱(けん)であることを考えれば、秋までにある総選挙対策としても格好のテーマとな」るということですから、総選挙前のこの時期がねらい目というわけです。
さらに、自民党にけしかけようとする百地はこうのべています。
「集団的自衛権の行使」を容認し、自衛隊法に「領域警備」規定を定め、「任務遂行のための武器使用」を承認することができれば、自衛隊はまた一歩、普通の国の「軍隊」へ近づくことになる。そうなれば、憲法に「自衛軍の保持」を明記するのは、もはや時間の問題であろう。これこそ、憲法9条2項改正の突破口と呼ぶゆえんである。 |
この文脈からみても、海賊法案は自衛隊出動と武器使用を認めた点で、憲法を逸脱するものであって、改憲にむけた一歩を踏み出すものです。参院に送付された今、同法案がまさに違憲立法であることにもっと関心をもってよいのではないでしょうか。
冒頭で、読売世論調査に言及しましたが、同様の調査をこんどは朝日がおこない、結果を発表しています(参照)。世論調査は、一過性のものとしてながめても、世論の動向を判断するにはもとより限界があるでしょう。調査の方法や質問の仕方などが結果に反映することも否めません。しかし、同様の調査をいくつかの地点でおこない、比較検討することによって世論の移り変わり、傾向は判断できるでしょう。数日前のエントリーで指摘したのは、調査の方法、質問の仕方を横に措いたとして、結果を報道する際の読売の姿勢でした。一般的な憲法改定に賛成かいなか、の問いにたいする結果に言及はするものの、個別の重要な論点であるはずの、9条の改定に賛成か反対かという問いについては口をつぐんでいることにふれたのでした。
こうした読売の姿勢と比較すれば、今回の朝日の調査結果に関する記事は、9条の改定についての態度を紹介しています。朝日によれば、9条改正に反対64%、賛成26%で、「今回も昨年から大きな変化はなかった」と評しています。
それだけではなく、「憲法改正が「必要」とする人は53%いるが、その中で9条を「変える方がよい」とする人は42%、「変えない方がよい」が49%だった」とのべ、改定賛成の人たちのなかの9条にたいする態度についても言及しました。
作為的に結果を切り取る読売と比較して、朝日調査の記事がより丁寧な方法で読者に伝えようとしているのが伝わるのではないでしょうか。
ここ数年の世論調査結果はいずれも9条改憲にたいして、反対または改定の必要なしが上回っています。そこに世論がある。
ですから、海賊法案を口実に、現実に9条に違反して、自衛隊の出動を可能し、武器使用基準を大幅に緩和しようとする動きは国民の思いに反するものでしょう。
海賊法案のゆくえを監視しつつ、同時に各政党に国民の思いにそった行動をとらせることが求められています。
重ねていえば、憲法審査会を急ぐ背景には、民主党とは派兵恒久法の基本線で一致していること、したがって時期衆院選までの時期を憲法改定にむけた好機としてとらえ、民主党にゆさぶりをかけようという判断があるでしょう。
だからこそ、野党にしっかり国民の立場に立って奮闘するよう監視し、圧力をかけなければなりません。反すれば、選挙で厳しい審判が下るのですから、たとえば民主党が国民の立場に立つ条件は皆無というわけではなく、またあるといえるのはないでしょうか。
(「世相を拾う」09089)
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また腰砕けか。白旗か!?
西松事件を国会はまるで素通りしているような気配です。
お互いを気遣っているからにほかなりません。
朝日の記事が指摘しています。
小沢民主、国会予算攻防もう収束 西松事件で鈍る
民主党の、お決まりの腰砕けなのですが、腰砕けという表現を私がもちいるのは、私の見立てからすると、民主党の国会対策が軟弱なものに(かわったと)映るからです。局面局面では時折、過激なまでの姿勢を強調するものの、これまでも終盤になると法案成立に手を貸すことがしばしばでした。
結局、たびたび民主党の対応がぶれるのは、本来の同党の政策と自民党の政策との本質的なちがいがないからでしょう。ちがいがないので、国会の戦術上は自民党に抵抗しよう、ちがいをはっきりさせようとしても、その姿勢は確固としたものでは当然ありませんから。
つまるところ、腰砕けという言葉には、民主党の政治的立場とこの言葉を使う側のそれが異なるものだという認識、違和がこめられています。
その腰砕けは、朝日記事によれば、西松違法献金問題でいっそう加速したということです。
けれども、自民も、民主もお互いに「気遣って」論戦を回避すること自体、政治がやせ細っていくことにつながるものでしょう。民主党は、今国会を捨てた、あるいは白旗をあげたと読み取れなくもありません。
企業献金は悪くないと言い切る人もいるようです。
しかし、政治献金という概念がそもそも反対贈与を期待する行為である以上、その点で税金の配分に影響を与え、政治にバイアスをかけるのです。だとするなら、企業献金の部分的禁止はそもそも成り立たない議論です。この際、企業献金の全面禁止を実現してほしいものです。
小沢氏の全面禁止発言にもちろん私は懐疑的です。繰り返してきているのが同党なのですから、可能性はむしろ口先だけのほうに広がっているでしょう。
しかし、その発言がまた、腰砕けであってはならない。
発言する前に、小沢氏自身が疑惑に100%応えてこそ、その発言は輝くというものです。だって、オレは今後、企業献金は受け取らないと、国民にむかって発信することは今すぐにでもできるのですから。
(「世相を拾う」09063)
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【関連エントリー】
山岡賢次氏は民主党の体現者または民主党の腰砕け。
補正予算案は賛成できるシロモノか。
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