森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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非寛容の跳梁
百田の発言で思うのは、非寛容の姿勢の広まりです。「2つの新聞はつぶさないといけない」とのべた百田。自分と意見が違うのだから、つぶれて当然、異なる意見は消せということにほかなりません。しかも、片方で「言論は自由であるべき」とのべる欺瞞と抱き合わせなのですから始末が悪い。(参照)
そもそも、言論人を名乗るのなら、平気で見え透いたウソと矛盾を語る厚顔無恥が問われてしかるべきだし、彼は言論人の資質を欠くといわれても仕方ありません。
百田のみならず、今、国会においても非寛容を私たちは感じ取ることができます。たとえば応答不能のまま質問を遮り、ただ紋切型の言葉を連ね一方的にまくしたてる首相の「答弁」にみられるように。百田発言の発端となった与党自民党の勉強会とやらの議員たちの発言も、もちろん非寛容であふれていました。
つけ加えると、あの橋下大阪市長もまた非寛容を繰り返し露わにしてきたことはいうまでもありません。
合意による意思決定を前提にするのが民主主義だとすれば、異なる意見を排除しようとする姿勢はそもそも民主主義と相容れません。
日本では今、非寛容が跳梁する日本の姿は、私には体制翼賛体制にすすむ戦前のそれと重なってしまうのです。非寛容は、民主主義を抹殺し、再びそんな体制に国民を組み込むための、アクセルとしての態度だといえるでしょうか。
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政党の離合集散=橋下「維新」も「新党」も民自と同じ枠組
したがって、今も政権党からまさに櫛の歯が欠けるように離脱し、他会派に、そして小沢一郎が率いる「新党」に移ったとしても、それ自体が日本政治にインパクトを与えるような重大事などでは少しもない、こう私は見立てます。
ましてやたとえば小沢新党の内実が完全に国民から見透かされている事態は、これらの政権党からの離脱劇の無内容さを端的に示したものだといってよいのではないでしょうか。
橋下や石原が新党をいいだせば、メディアは当然のことのように既成政党批判の表れだと指摘します。なるほど政権党の政党としての体をなしているかどうかさえ問われかねない党内の実態と、だからこそ政権そのものもまたなんら統治能力がないかのようにもみえるていたらくは誰の目にも明らかです。一方の自民党も民主党の党内実態ほどではないにしろ自慢できるようなものではないのはおよそ一致できる見方だといえそうです。
先にふれたように、この事態は、ようするに3年前の政権交代劇に端的にあらわされるような二大政党制がゆきづまった結果、もたらされたものだととらえてるのが妥当だと判断します。
別のいいかたをすると、政権交代の無内容が明らかになったのです。付け加えると、当時、政権交代をあおったのが、新党が動き出すとそれは(当時の政権交代の当事者たちを指す)既成政党批判だと報じる、ほかならぬメディアでもありました。
ようは今、あの政権交代についての性格づけをはっきりしておくことが必要なように思えます。
自民・民主の間に垣根がほとんどなくなったかのような今日の状況であらためて確認できるのは、政権党の民主と自公を一つの大きな政治勢力ととらえる、大きな枠組みいを措定しておけば、3党合意があのような形で成立したのだと理解できますし、以後のあたかも国会の機能を無視するかのような3党の合意を優先する政治、今日の議員離脱劇も正確にとらえられるのではないでしょうか。
民主党も、自民党も、そして小沢新党も、その他の政権党から出て新会派をつくった連中も、この大きな枠組みの、分かりやすくいえば一つの潮流にすぎません。
たしかに政権党民主党には、かつての社会党に位置付けられる連中も、民主党の流れをくむ連中もいます。社民連を引き継いだ者もいます。こうした現民主党の出自こそが、いまだに綱領すら確立できないという、およそ政党とはいえないような「政党」であることを一面では示しています。ですから打ち出される政策も右にゆれ左にもゆれながら推移してきたのが実情にちがいはないようです。この実態が、「国民の生活が第一」のほとんど無内容なフレーズをめぐって、自ら政権交代の意味を否定するような事態をまねき、四散してしまったといえそうです。
同時に、メディアはこれをまとめて既成政党批判に結びつけようとしていますが、この事態はむしろ二大政党制を推進した勢力の政治的な矛盾が露呈した結果であって、私たちの眼前でくりひろげられる一つひとつは矛盾が生み出す現象にすぎないととらえたほうが妥当なように思えます。自民党政治の継承は、政権交代による民主党の政治でも困難に直面し、二大政党制推進勢力には、新たな対応を迫られている。これが現状なのでしょう。
大きな流れで日本政治をふりかえれば、55年体制といわれるような自民党単独政権時代が終わり、自民党中心の連立政権の時代を経ても、自民党の退潮傾向に歯止めがかからなくなったとき、保守政治の維持に危機を感じた財界をはじめ支配層は、選挙制度の「改革」に乗り出し、少ない支持率であっても政権維持が可能となる小選挙区制を導入しました。さらに(新)民主党を結成する動向もにらんで、自民党にかわりうる(自民党政治を維持できると読み替えなければならない)政治というメッセージを有権者に発信しながら、保守政治の保持をはかろうとしてきたのが今日までの姿だと考えられるでしょう。
こう考えると、もともと政権交代に質的変化を求めること自体がナンセンスだった。けれども有権者向けには、保守政治の維持という大きな枠組みの中での争いに過ぎない事の本質を隠さなければ成り立ちません。結果、あたかも何かがかわるようなキャンペーンがはられ、政権交代の強調がおこなわれました。自民党から万が一かわっても「安全な」民主党を押し出す世論形成がおこなわれたといってよい。そのために民主党はつくられたといえる。
政権交代そのものが、保守政治の枠組みの中での現象にすぎなかったし、「何かかわるのでは」という素朴な願いは幻想にすぎず、現に何もほとんど変わっていないのが実情ではないでしょうか。むしろ今、政権がやろうとしていることは、かつての自民党がやれなかった消費税再増税を「不退転」の課題と位置づけ、3党合意の名の下に通すことが当たり前のレールとして敷かれています。この課題が法人税増税の阻止とあわせて財界・経団連の強い要求であることを直視しておかねばなりません。
消費税増税にとどまらず、集団的自衛権の解釈変更、オスプレイ配置、核の軍事利用などなど、現政権の姿勢を自民党がやってきた政治と区分しようと思っても困難なのはもはや明らかです。
つまり民主党政権の政治は自民党政治の継承にほかならないわけで、政権交代そのものに期待をした有権者は、事ここに至って完全に「裏切られた」といえるのかもしれません。が、有権者の選択が政権交代をつくりだしたのもまた事実であることは論をまちません。
次期衆院選はいずれ実施されるわけで、その有権者の選択が問われます。
国会の議席をみると、いわゆる改憲勢力が議席の9割を占めているの実情の一方で、各種世論調査をみれば民主、自民いずれも政党支持率10%を上回る程度の水準です。
あわせても30%にみたない勢力が議席の圧倒的部分を占める結果をもたらす現在の選挙制度はいうまでもなく問われなくてはなりません。
その上で、政党選択にあたって、現状政治のまさに転換をのぞむのなら、先ののべた大きな枠組みの中での選択では不可能です。
まさに3年前の政党選択が幻想であったのですから。
3年前とは異なる条件がただし、ある。橋下「維新」の存在です。では、この政党に期待できるか。あるいは、別のいいかたをすれば橋下の政治姿勢に期待できるのか。
これを考えるのに私たちはまったく前例をもたないわけではありません。
小泉純一郎の時代を振り返ってみることです。小泉改革の残したものの多くは、かつていわれたように国民に痛みを強いるものだと私は理解しますが、この小泉と現在の橋下市長の政治姿勢を比べてみることです。もとより橋下の主張は、保守政治の枠組みを出てはいませんし、その右からの「改革」を民意をだしにつかって実行しているのが今日ではないでしょうか。いうまでもなく異なる意見を認めないのが橋下。もともと、この立場は議会制民主主義と対極にあるものだと理解します。
民主・自民・公明など大きな保守の枠組みとは異なる政党、つまり保守の枠組み以外といえば共産、社民しか存在しません。いずれも支持率数%の現状で、むしろ両党は退潮傾向にあると率直にいえるでしょう。これもまた、一人を争う小選挙区制のもたらす一つの結果だといってもまちがいではないようです。
現在の政治からの転換を望むのなら、それは、次期衆院選では、この共産、社民も選択肢に加えて考えてみる以外に別の方法があるわけではありません。やり方にちがいはあるにせよ、自民党政治を継承する点で同じ枠組みにある民主や自公、橋下「維新」やその他の諸党では、政治の転換はのぞむべくもありません。彼らの議席配置に変動があったからといって、政治の転換がもたらされるわけではなく、保守政治継承という枠組みの中での議席の平行移動にすぎません。
私たちの目の前の、同じ枠組みでの離合集散や「新党」に目を奪われたのでは政治の転換はどこかに遠く飛んでいく、こう考えるのです。
【関連エントリ】
危機に直面しているのは二大政党制
幻の政権交代と有権者の決意
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危機に直面しているのは二大政党制
しかし、冷静に考えれば、単に民主党単独政権が崩壊の危機に直面しているのであって、民主党が分裂するからといって国民・有権者に何かしら直接、影響を及ぼすものでもありません。
むしろ、直視する必要があるのは、自民党長期単独政権から政権交代をへて野田民主党政権が窮地にたっている現在までの基本的な経過をふりかえり、事の本質をしっかりみることでしょう。
その経過とは、ごくごくラフにスケッチすれば、つぎのように描けると思います。
長年の自民党単独政権が維持できず、途中で連立政権をはさんだものの、自民党中心の連立政権の時代にかわり、その後、政権交代に至りました。ここまでの筋書では、従来の自民党政権が拠って立ってきた支配層、たとえば財界や大企業にとって、自民党政権でなくても自民党政権にかわりうる範囲で政権交代が起きても差し支えないような選挙システムとして小選挙区制がとられたと考えてよいのでしょう。
しかしながら、今は、その選挙制度にもとづいていったんは政権交代ができあがったにもかかわらず、政権交代そのものを無意味化するような3党合意を選ばずには政権運営を維持できないような危機に政権党が立たされているということでしょう。危機に立たされているのは政権党である民主党のみならず、自民党、そして公明党もその中にふくめざるをえない。
なぜなら、政権交代そのものが自民党政権にかわりうる範囲でという前置詞が想定されていたのですし、その枠組みそのものが機能しなくなったともいえるのですから。ましてや、一方で、大連立が取りざたされているのは、自民党単独政権から二大政党制という想定の否定を意味します。
結局のところ、政権交代は幻にすぎなかった。こう今、ふりかえることができるのではないでしょうか(参照)。
二大政党制そのものが根本から問われているといいきってよいのでしょう。
民主党が分裂しようとしまいと、小沢新党ができようとできまいと、旧来の自民党政権という枠組みを前提にしたものにすぎません。その器の中での矛盾解消のために、再編にむけて各潮流が動かざるをえなくなったというのが今日の事態です。
ですから、民主党の分裂の強調は、むしろこうした二大政党政治の危機を覆い隠す役割を果たしているともいえ、その点で一種の欺瞞を感じてしまうのです。
問われているのは、自民党政権にかわりうる範囲という枠組みから脱皮できるかどうかであって、これが日本政治の課題だと考えるのです。
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一体改革修正協議が茶番にみえてしまう
修正協議にかぎっていえば、野田首相にとってハードルは身内にあるともいえるでしょう。
12日に始まった一体改革関連法案の修正協議に関する民主党の党内議論では、消費増税での合意を急いで社会保障分野で譲歩を重ねる執行部への不満が噴出した。とりわけ最低保障年金制度の棚上げなどマニフェスト政策の後退には「民主党の旗を降ろすな」と批判が続出。党内の反対論は、野田首相が目指す早期の修正合意の足かせになるのは確実で、合意後に想定される党内手続きの行方にも早くも暗雲が垂れこめている。
「まずは社会保障、そこをしっかりと成立を期さなければならない」
社会保障分野の実務者協議を担当する細川前厚労相は12日、国会内で開かれた党一体改革調査会などの合同総会の冒頭、「社会保障重視」の強調から切り出した。だが、約1時間半の会合では反発が相次いだ。
クローズアップ2012:一体改革修正協議 急ぐ民主、相次ぎ譲歩 合意、首相前のめり
選挙戦で、増税そのものに少なくとも半数は反対しているといわれる有権者の矢面に立たされる民主党議員ですし、その増税で自民党と手を組むという事態は、そもそも政権交代の意味はもちろん、民主党の存在意義すらかすんでしまうものととらえても不思議とはいえない。
だいいち、この状況下では民主党議員は総じて再選が厳しいといわれているのですから、反発の声が大きいのも頷けないわけでもありません。
が、旗は降ろすな、というかけ声がはたして意味をもつのか。
その旗は旗幟鮮明だといえるのでしょうか。もとより、画然としたものだったのでしょうか。民主と自民の間で一つひとつの政策の細部で異なることはあっても、根本のところでは同じといえなかったでしょうか。
だって、消費税増税で一致していればこその修正協議であるはずなのですが。
こんなどうみても怪しい光景のはず。ですが、いまやメディアは、消費税増税賛成の立場で、修正協議はいわば暗黙の了解事項であって、合意するようによびかけ、けしかけている状況です。3年前はあれほど政権交代を伝えていたにもかかわらず、です。
この修正協議をへて合意をめざそうとする民主、自民の動向は、まさに政権交代というものに意義があるとしてきた数年前の自分たちの主張を、自らの手によって否定するものにほかならないように思えます。
もっとも、これまでのその主張自体が欺瞞的であったとも、ふりかえればいえるかもしれません。
だから、「旗を降ろすな」という発言もまた、奇異に聞こえてしまう。
その旗は、表は民主党のロゴが入ってはいても、裏側には自民党の党章が染め抜かれているのではと疑うに十分です。
民主党のかかげている旗色はいったい何色と呼べばいいのでしょうか。
そして、旗そのものがすでにくたびれてしまって、もつのも恥ずかしいくらいなのではないでしょうか。
ようするに、有権者をごまかそうとするためだけに旗を降ろすなというに等しい。
この2党に加え公明もふくめて政治のゆきづまりと糊塗しようとしている姿に、なんとも醜悪極まりないものを感じてなりません。
これこそ茶番というにふさわしい国会状況ではないでしょうか。
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「苦情は公共機関に」では無責任だろう
規制緩和により同社が参入して以来、久しくなりました。最近は、いわゆるLCCの参入が相次ぎ、価格競争に一段が拍車がかかった中での出来事でした。
――スカイマークにとって顧客とは。
「当社とお客様の関係は対等と社員に教えている。顧客からお金をいただく一方で、当社は輸送を提供する。両方が納得した形で初めて取引は成立する。もちろん航空会社を選ぶのはお客様。だが我々は提供できる価値、できない価値というのを事前に示さなければならないのではないか」
――スカイマークのサービスコンセプトが嫌ならば他の会社を選ばれても仕方がないと。
「そうですね。表現を改めますが新しいサービスコンセプトを理解していただいたうえで、スカイマークに乗っていただければと思う」
「苦情は公共機関に」 スカイマーク社長に聞く真意 「『ヘビークレーマー』つくらないため」
日経新聞で同社社長がインタビューにこたえています。
上記の発言は、顧客との関係を会社側がどのように考えているのか大筋でy読み取ることができます。
思惑は、スカイマークのコンセプトで提供するサービスの範囲はここまでと明記し、了解してもらったら顧客と(サービス)提供者の関係が成立するというわけです。
したがって、コンセプトがいやなら、どうぞ他をお探しにということになる。資本の運動からすると、競争原理を貫こうとすれば他者との差異を強調するのが常でしょうから。同社にしてみれば、国内先行2社との比較の上で安さこそが差異化の切り札だったはず。
そこで低価格を実現するために、犠牲にするのがサービスの質。
航空運賃には、乗務員の人件費、空港着陸料、燃油代などのコストがもちろん見込まれていますし、それに加えて航行距離や需変動なども勘案されています。
したがって、低価格は、コストを以下に削減するかによって可能になるともいえる。徹底的に削減しなければ、LCCなどありえないことになってしまいます。
スカイマークの文書は、こうした価格競争のなかで起きた、ある意味では競争が引き起こした必然ともいえるかもしれません。
問題は、文書に記された「機内での苦情は公共機関に訴えてください」というくだりでしょう。なぜ、苦情を公共機関にと自ら対処するのを回避しようとするのか。
それに同社社長が答えていますが、苦情対処には時間を要する。なので出発前から着陸まで、それこそ過密にルーチン化された乗務員の業務に少なからず影響を与えます。
ましてや低価格を保障するには、客室乗務員が機内清掃など従来、持ち場でなかった業務まで担当し、総体で人件費圧縮を図ることが前提となっているのですから、それが壊れてしまうわけです。
その結果、会社にとっては商売にならない苦情処理を公共に押し付けようという思考が働いたのです。まったく見勝手なものです。
常日頃、公務員にたいするバッシングのなかに理不尽で、かつ不可解なものが多いのに首を傾げることが多かった者にとっては、別の形でも、理不尽で不可解なバッシングにも重なってみえるようなものです。
一般的にいえば、労働やサービスを提供する対象が人間自体である教育や医療でのモンスター化、モンスターペアレントやモンスターペイシェントがこれまで話題にのぼってきましたし、当ブログでも言及したことがありました(参照)。
医療においても、(公)教育においても、サービスを受ける側は公的な制度の枠組みでサービスを受けて当然という思いがまずあって、自らのサービスにたいする思い、別の言葉でいえばその人の理想なのかもしれない思いと現実のサービスの落差が厳然としてあるということです。
したがって、現場ではサービスの供給側と需給側との間に軋轢が起こる。ただし、供給する側の努力だけでは解決しない、たとえば医療にたいする患者側の期待と医療技術の限界という矛盾にも起因している場合もある。人間の死への不安と、医療の不確実性との矛盾のように。
医療とは医療従事者と患者との共同の営為であるという認識に立てるかいなか、立つような努力こそが求められるわけでしょう。
通り一遍の文書で『ヘビークレーマー』をつくらないためなどと言い出す認識はほとんど周回遅れだと思えてなりません。
私たちの頭は、あらゆるものを(金で買う)商品・サービスだとつい考えてしまう構造に次第になってきたといえるでしょう。すべてが、商品・サービスをつくる・生み出す、消費するの関係。売る、買うの関係にしてしまうのです。
だから、なおさらこうした複雑な人間自体を対象とする労働やサービスを商業ベースでとらえてしまう限り、資本の運動が本来、相互に関係を理解するような余裕を与えないのです。
ムダを徹底してなくそうとする結果、サービスの低下をもたらす。低価格は、安かろう悪かろうを前提としなければならないということです。
それでも、苦情処理における当事者性をまったく排除して、他に転嫁するというのは劇的で、無責任にすぎますが、競争原理の行き着く先を今回の一件は象徴しているといえるのではないでしょうか。
あとは野となれ山となれ、というわけにはまいりません。
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朝日社説への違和感と二大政党制
しかし、メディアはまさに消費税増税ありきという言葉が見事にあてはまるような後押しをやってのけています(*)。
朝日新聞社説はこうのべています。
遅きに失した感は否めない。
それでも、社会保障と税の一体改革関連法案の成立に向け、野田首相がようやく自民党との協調にカジを切る覚悟を鮮明にしたことを歓迎したい。
首相はきのう小沢一郎元代表と2度目の会談に臨んだ。
首相は一体改革への協力をあらためて求めた。これに対し、小沢氏は会談後、法案の採決では反対すると記者団に語り、造反する姿勢を明確にした。
首相にすれば、代表経験者に礼を尽くす形をとるためにも2度の会談を重ねたのだろう。だが、会談が事実上決裂したのを受けて、首相はいよいよ野党、とりわけ第1党の自民党との修正協議を急がねばならない。
すでに問責決議があがっていた閣僚の交代は遅きに失したという指摘は妥当だとしても、結論が修正協議を急げというのでは、ちょっと待てといざわるをえません。いうまでもなく修正協議とは、消費税増税を可とする立場を前提にしたものですから。
今もなお国民の半数は少なくともどの世論調査でも反対しているのですから、議論を尽くしてしかるべき。
内閣改造へ―修正協議進める好機だ
社説のいう、国会の動かない状況は、議論に時間をかけ過ぎるのでも、また無意味な議論をやっているからでもありません。
そうではなく、政府・政権党の思惑と、あるいは自公の思惑がからみあって、いわば党利党略が今、働いているからでしょう。
しかし、それだけではない。
かえって二大政党制などといって、政策の細部のちがいはあっても、本質的なちがいのない政党が小選挙区制のなかで政権の維持か交代かのみを自己目的に争ってきたからではないのか。
だからこそ、選挙のたびに議席の上でのねじれを引き起こし、今日の事態があるといえるのではないでしょうか。この状況を、少し先走った表現で二大政党制の破産だと指摘しました(参照)。
この点でいえば、朝日はまた以下のようにのべています。
ここで、あらためて2大政党に求めたい。
「動かない、決められない」政治の惨状をただす。2大政党が協力して、具体的な果実を生む政治文化を築く。今回の内閣改造を、それを促す大きなチャンスととらえるのだ。
首相の側から譲るべきを譲れば、自民党も強硬姿勢ばかりでは国民に愛想を尽かされよう。
互いに譲り合って、まずは一体改革法案の修正協議を急ぐ。合意できた法案は粛々と採決する。合意できないものは自民党が提案する「国民会議」でさらに話し合う。一体改革以外の法案・条約の審議も加速する。
しかし、国民の側からながめて、悪政とよぶにふさわしい内容が盛られた法案の審議が加速されたらたまったものではありません。
この際、今いちど振り返って考えてみたほうがよいと思うのは、あるいは、二大政党に問うべきなのは、そもそも今日の事態を生んでいる小選挙制のもとでの二大政党による政治のあり方です。
二大政党化は、競争者が少ないために、実現困難な政策はもちろんのこと、政策で争う必要はなく、政策を取り上げなくてもそれが問われることが少ない。それでも選挙には勝てるのです。政策の内容ではなく政権交代の有無を問うことで選挙がたたかえ、有権者もそれを判断する結果になると思われます。だから、選挙は劇場型になり、いよいよそれが深まる方向に収斂してしまうともいえるでしょう。
今日の国会の状況はまさにこれを延長したものにほかないないと考えられるものではないか。
朝日社説は、本質的なちがいのない二大政党にむけて修正の協議で増税を成立させよとよびかけているようなものです。しかし、それは少なくとも現状で半数の、増税に反対する世論と大きな隔たりがあるはずです。
そもそも政策で争っていない2つの政党が本質的なちがいのない政策を協議したところで、国民世論と大きな乖離が生じている現状を打開できるわけがないのです。
国会の現状が問ういているとすれば、それは、小選挙区制をもとにした二大政党制のあり方にほかなりません。
* 朝日と比較すると、むしろ地方紙の主張が健全なように思えます。日本新聞協会のまとめ記事から拾ってみました。
《消費増税ありきか》
北海道「昨年の衆院選で民主党はどう主張していたか。鳩山由紀夫前首相は『消費税の議論は任期中の4年間はしない』と繰り返していた。それが首相が代わった途端、公約の一番手に据えられる。国民は戸惑うほかはない。(略)このままでは増税だけが先行し、一方的に国民が負担を強いられることになりはしないか」、
信毎「増税は本当に『強い経済』に結び付くのか、根本的な問題がある。安易な増税論に流れれば、公務員改革や無駄の削減がおろそかになる懸念が捨てきれない。仮に増税が必要としても、なぜ消費税なのか。消費税率の引き上げは、低所得層には大きな負担となる」、
中日・東京「仮に超党派で消費税率引き上げに合意しても、行政の無駄をぎりぎりまでなくせなければ、国民の理解は得られまい。穴の開いたバケツにいくら水を入れてもたまらないからだ。(略)消費税よりも、まず行政の無駄をなくすことに、党派を超えて力を合わせるべきではないか。あえて提案としたい」。
6月29日付 増税の根拠・効果示せ(日本新聞協会)
二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書) | |
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二大政党による政権交代の破産
野田佳彦首相は1日午後、民主党の輿石東幹事長と首相官邸で会談し、消費増税を柱とした税と社会保障の一体改革関連法案の採決時期などを話し合う。首相は6月21日の国会会期末までに衆院で採決できるよう自民党などとの修正協議入りを指示しており、党分裂を懸念して早期採決に慎重姿勢を示す輿石氏に理解を求める。
藤村修官房長官は1日午前の記者会見で、首相と輿石氏の会談について「会期末に向けてのことが当然、さまざま議論されると思う」と語った。会談では、参院での審議時間を確保する会期延長のほか、参院の問責決議を受けた2閣僚の交代を含む内閣改造も議題に上るとみられる。
一方、自民党の谷垣禎一総裁、石原伸晃幹事長ら幹部は1日午前、東京都内で協議し、(1)輿石氏から石原氏に改めて協議を申し入れる(2)6月の国会会期末までに衆院で採決する日程の提示(3)強引な国会運営をやめる--の3条件が満たされなければ修正協議に応じない方針を確認した。
消費増税法案:野田首相、輿石氏と会談へ
このように、3者会談をへて首相の関心は法案成立の条件をつくるための方途を定め、それを実行することにあるのでしょう。記事から読み取れるのは、成立させるためには、あらゆるとはいわないまでも相当の譲歩をせざるをえないと判断しているだろうということ。
一方の自民党はこの際、政権党にたいする条件を提示し実行をせまるという強気の姿勢です。
したがって、政権党と自民党との協議が設けられれば、自民党が上記で示している3条件はもとより、政府・民主党の大幅譲歩で連立が成り立つだろうという見方ができます。
けれども、仮に大連合ができたとしたら、単に消費税増税のための民主・自民の連合という意味にとどまらないだろうと思えます。いうまでもなく消費税増税は国民生活の将来にまで影響の及ぶ大きな問題であるにちがいはありません。
その上で、強調したいのは、民主・自民の連合の歴史的な意味です。
このエントリでふれたように、今の民主党政権はいわば政権交代を最大の、あるいはほとんど唯一の(といってよいと私は思ってきましたが、)売りにして今日にいたっています。なるほど、小沢一郎は政権交代を前にして生活第一という、ほとんど何も語っていないに等しいスローガンをかかげて全国を行脚したことは承知してはいます。が、政権についてのちの民主党は、およそ自民党と異なるところを探し出すのがむずかしいくらいに、基本線は自民党とかわらない政治姿勢であったといえるでしょう。
それに加えて、私たち国民に追い打ちをかけるかのような大連合志向です。
もはや自民党とのちがいの強調など眼中にない、別のいいかたをすれば思考停止ともいえるような、消費税増税ありきの現状ではないかと表現したとしても少しもおかしくはないと思います。
なので、自民党政権から民主党への政権交代に何らかの意味あいを感じつつ、政治の転換を期待し、民主党に投票した人びとは完全にことここにいたって裏切られたと察するべきでしょう。
そもそもあの当時の政権交代劇をあえていえば懐疑的に、そして小沢をカリスマのごとく信奉する連中を冷ややかにみてきた私は、さもありなんとこの事態に接しあらためて感じています。
ともかく、自民党と民主党の政権交代に積極的な評価を与えてきた人たちはこの大連立をどうみるのでしょうか。
時が移り、当時の民主党と同じようにメディアにもてはやされているのが橋下市長でしょう。あの当時のメディアの論調をふりかえると、ちょうどまた今、同じようにメディアがふるまっているのが分かるのではないでしょうか。
一つの民主・自民の連合の歴史的な意味とは、小選挙区制をもとにした民主、自民の政権交代論が極論すれば破産したということです。同じ枠組みにある政党選択がいずれ無意味になってしまうのは理の当然でしょうし、今回の大連合はなるべくしてなったともいえるかもしれません。
消費税(増税)をめぐって増税派が連合するという事態は、反対派を浮き彫りにするでしょう。反対派のなかに、小沢もそう主張しているのですから入れざるをえませんけれど、ただ、どのような世論調査でも有権者のほぼ2人に1人は反対しているのが現状でしょう。
そこで、
- 消費税に賛成か反対か
- 反対ならば、消費税でなく財源を確保できる方途を提示できるのか
この観点から、政党の主張をみくらべ、政策のちがいを今度は見極め判断したいものだと思います。
そうでなければ、これまでのように、ややもすればメディアの断片的な報道に一喜一憂しつつ、しだいに私たちの心をつかまれ、ほんとうの争点を横においたまま、政党を選択するなんて事態が繰り返されることになるわけですから。
二大政党制批判論 もうひとつのデモクラシーへ (光文社新書) | |
吉田徹 | |
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民・自は翼賛体制で増税を強行するな
しかし、国民の側からすれば、今後、自らの生活に少なからず影響を与えるにちがいない消費税増税のゆくえを、この3人の話し合いに決定づけられるというのも変な話で、釈然としません。
今国会の会期末までひと月足らずの押し迫った時期のこの三者の会談の帰趨を傍目で関心をもってながめているのは自民党なのかもしれません。自民党は、この内容次第では、消費税増税法案に賛成する意向であることを隠そうとしていないのですから。
むしろ自民党は、会談をまえに小沢と手を切れと首相に迫っているくらいです。
消費税反対と主張している小沢。しかし、彼がかつて消費税増税を口にしていたことを忘れもしませんから、それは戦術上の、表向きの作戦だとうけとめているのですが。そして、その小沢との決別を首相につきつけ不退転というのなら大連立でやろうではないか、こう迫っているのが自民党でしょう。
これは異常な状況でしょう。
3年前までは互いに小選挙区制を推進してきた立場であって二大政党による政治を口にしてきたのですから、このこれまでの主張はどこに置き忘れてきたのか、と問わなければなりません。消費税増税はマニフェスト違反というのが小沢流の消費税増税反対の理由ですが、しかし、そもそも民主党も増税を政策に位置づけていたにもかかわらず、政権交代のためにそれをあえて引っ込めたといってよい。つまり、小沢が何といおうと、単に3年前の衆院マニフェストに増税を書き込まなかっただけのことにすぎません。
いずれにせよ、これまでの民・自2党がさも争うかのように国民にむけて発信してきたことを思い起こせば、大連立を辞さないと主張するに至った今日の状況は、自ら馬脚を現したわけで、二大政党制による政治というものの欺瞞を映して余りあるのではないでしょうか。
民・自の間での政権交代による政治の転換など、ここに至ってまったくの幻想にすぎなかったと結論づけられることになるのではないでしょうか。
したがって、別のいいかたをすると、今は、日本政治の一つの画期、民・自という守旧派の危機なのかもしれません。この危機を前に、国民の不満を吸収しようとするのが、橋下「維新」や石原新党の存在となるように思えます。
この危機的状況のなかでメディアの多くはすでに消費税増税を唱えています。日経が世論調査を実施しています。結果は以下の記事のとおり。
消費増税「与野党合意で成立を」48% 本社世論調査
設問自体が政府案、与野党合意の(増税に)賛成と廃止・見送りをひとまとめに尋ねるのですから誘導的だともいえるでしょう(参照)。また、政府案と与野党合意を比較するのも、政権支持率が減少傾向が続く現局面できけばどうなるのか、はじめから分かっているようなものです。
結局、設問にある与野党合意という文言を読みかえれば、民・自(公)の連立を意識したものとよんでもまちがいではないし、世論を最終的にそこに誘引する役割を担っているといわれもしかたがないようにみえます。
この記事だけではなく、増税にむけたいわば翼賛体制を側面から応援するのが、残念なことに今のメディアの状況です(参照)。
政権交代に期待を寄せた人びとも悪政の推進を是としているはずではないだろうと思えます。けれども政権交代で生まれた民主党の政権もすでに3年が経過し、いまの状況をもたらしました。この政権の現状が今後、劇的にもちろん国民にとってよい方向にかわるなどと想定できる人はまずいないでしょう。
かえって政権交代とはほとんど意味のないものであったということを証明する結果になったとさえ思える今、それを乗り切ろうとして大連立を公然と主張しはばからない勢力にはお返しをしないといけないでしょう。
消費税に頼らなくても税源はほかにもあるのですから、聖域をつくらないというのなら、今からでもすぐに見直すべきでしょう。
大連立とは、増税を強行するための体のいい別称。それに与したり、支持をしようとは寸分も考えません。
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生活保護引き下げ発言にみる欺瞞
小宮山洋子厚生労働相は25日午後の衆院社会保障と税の一体改革特別委員会で、生活保護費の支給水準引き下げを検討する考えを表明した。生活保護の受給開始後、親族が扶養できると判明した場合は積極的に返還を求める意向も示した。
消費税の増税や年金額の切り下げなど、国民に痛みを強いる改革を進めているため、生活保護も聖域視せず、削減する必要があると判断したとみられる。
過去最多の更新が続く生活保護をめぐっては、自民党が10%の引き下げを求めており、見直しの議論が加速するのは必至だ。
生活保護支給引き下げ検討 厚労相、見直し表明
指摘しなければならないのは、生活保護水準の引き下げの理由に「聖域視はしない」をあげていることです。
とってつけたような理屈です。なぜなら、聖域をもうけない姿勢を政府は貫いているわけではないからです。
聖域を設けないというのであれば、消費税増税を提起する前にそのほかの税目を見直したでしょうか。法人税の引き上げはどうか。一部に富裕税を導入せよという声があがっていましたが、高額所得者への課税強化に手をつけたでしょうか。そんなことはありません。
他方で、経団連からの消費税の税率をさらにあげよ、法人税の税率を下げよという牽制があって、政府の態度はこれをそのまま引き受け、まさに大衆課税の途を選択したではありませんか。
だから、小宮山厚労相のいう「聖域視せず」という言葉は欺瞞にほかなりません。
厚労省のこの発言は、むしろ今、河本準一氏の親族の生活保護受給をめぐって「不正受給」の嫌疑がかけられ、同氏が釈明をしたのを契機に発せられたとみてよいようです。
この一件は周知のとおり、自民党・片山さつき氏が取り上げたことに端を発しています。しかし、この件をふりかえり、冷静にそもそもの経過をふりかえり不正受給ではないと判断した意見もみられます(参照)。この意見で整理されている論点には頷けることが少なくありません。
が、「これをきっかけに生活保護が『困っている人たちにまんべんなく』与えられるようになることを願う」とした筆者の願いもむなしく、むしろ逆に生活保護を現に受給している人たちの生活を困難にする方向に、さらにこれから生活保護を受給しようと思う人たちや受給しなければならない人たちを排除する方向に事態を動かそうと政府は考えているということです。
同時に、生活保護水準は事実上、最低賃金とリンクしているので、労働者の賃金動向に少なからず影響を与えかねません。生活保護水準引き下げは、たとえば非正規労働者の時給に波及してしまうでしょう。
こう考えてみえてくるのは、民主党と自民党という二大政党が国民に痛みをおしつけることを競いあう構図です。
表面上はあたかも政権党と自公が対決しているかのようにふるまいながら、消費税増税でも、社会保障水準の切り下げでも基本路線は同じで、つけを国民に回すことでは一致しているといえます。
これまでも生活保護が切り捨てられる口実に常に「不正受給」があげられてきました。増税案を通すために、同様に今回、自民党の片山議員がとりあげ問題として煽る。政府がこれに応じて切り下げを表明する。こんな茶番といえるような筋書で、社会から排斥を強いるかのように、人権侵害の疑いすら感じざるをえないほどに追い込んだあげく、多くの国民に痛み広げ押しつけようとしているのですから、これら政党には厳しい審判を下すほかありません。
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低所得者対策をいうなら消費税増税を見直せ
不退転と気を吐いてはみたものの、首相の思い通りにはいっこうにいかないようにみえてしまいます。消費税法案の成立は常識的に考えると会期内成立はムリなようですし、そこで出てくるのが懐柔策。
消費税の場合、国民の少なくない部分が反対の意思をもつのですから、受け入れられるための条件を政府はつくらざるをえなかった。そこで、名を社会保障と税の一体改革とし、あたかも社会保障の維持のためと印象づけようとして今日まできたものです。
しかし、それでも消費という行為ごとに課税されるという消費税の性格は消すことができません。自給自足がいうまでもなく不可能な今日、消費なしには生きていくことはできません。ということは、衣食住にかかわる一定額以上の消費から万人はのがれることはできないわけですから、貧富にかかわりなく一定額以上の消費税を支払うことを免れえないと、誰でも理解することができるでしょう。
この点こそ、消費税の宿命だといえます。社会保障のためが増税の目的だとすると、社会保障により本来、守られないといけないはずの人びとにとっては、その一定額の消費税のウエイトは相対的に高くなるのは決まり決まったことです。
この決定的な欠点(逆進性)を隠すことはできません。ですから、政府・民主党も低所得者対策(簡易な給付措置;現金支給)を形の上で提示しましたし、消費税増税に賛成する自民党もやはり低所得者対策(軽減税率)を主張しはじめました。
この両者の主張は、しかし、内容が異なる。縮図があるといったのは、この内容をめぐって両者が不毛の議論をつづけているからにほかなりません。
こんな状況ですから、さすがに朝日社説がとりあげました。
先にのべておくと、今や大手新聞各社は消費税増税に反対するどころか、増税は不可避とする立場で共通しているのが、まったく情けないところです。百歩譲って税源を確保しないといけないにしても、消費税増税だけが選択肢ではないことも今さらふれる必要はないはずです。
朝日の主張は、結局、政権党と自民党との軋轢を前に、困惑気味に折衷案を示したとでもたとえられるような程度もののようにさえ思えます。
- (自民党などが唱えはじめた)軽減税率は先送りにせよ
- 税率10%までは低所得者対策は給付金で対処すべき
社会保障と税の一体改革の柱である消費税の増税には、さまざまな課題が残っている。最大の懸案は、所得の少ない人への対策だろう。
消費税は、家賃や医療費、学校の授業料など一部の例外を除き、モノやサービスへの支出に幅広くかかる。
所得の少ない世帯は食料品など生活必需品を中心に消費の割合が高く、家計に占める消費税の負担率は高所得の人より高い。いわゆる「逆進性」だ。
政府案の通り消費税率が14年4月に8%、15年10月には10%へと上がれば、問題は深刻になっていく。
与野党を問わず声が上がり始めたのが、軽減税率の導入だ。食料品などは増税の対象から除き、税率を5%にすえ置くべきだ、との主張である。
しかし、その長所と短所をあわせて考えると、軽減税率は消費税率を10%超に上げる必要が生じた時の課題とし、今回は別の対策をとるべきではないか。
消費増税と低所得層―軽減税率は将来の課題に
しかし、朝日にしても消費税増税派ですから、本来のいわば致命的な欠点を避けることはできないわけで、その論脈で考えたとしても民主、自民案の域を出でおらず、主張もどことなく腰が引けているように思えます。
ようするに逆進性という欠点は消費税である以上、避けられないのですから、いかなる低所得者対策であっても、それはいくらか緩和するだけのことであって、それを排除するための決定打があるはずがありません。
仮に政府・民主、自民両者の主張にそって考えた場合、現金給付はその財源を何処で捻出するのか明らかにされなければ絵に描いた餅で食べることはできません。また、軽減税率は、朝日主張がのべるとおり、条件整備が容易ではなく、実現にむけては少なくない歳月を要すると考えたほうがいい。何よりこの案でいえば、軽減した税収をどのような形で補うのか、これまた明らかにしないでは提案の意味をなさないといえるでしょう。
両者の主張は、このように低所得者対策という形を意識したものの、中身を伴っていないといわざるをえません。
ほんとうに低所得者対策というのなら、消費税の増税はやめるのがもっとも理屈にあう選択肢ではないか。消費税増税を選ぶ以上、逆進性は不可避で、低所得者の高い負担割合を前提にしたものにほかならないわけですから。
低職者対策をいい出すくらいなら、不毛な議論ではなく、本気で聖域なく税の取り方を検討してほしいものです。
【関連エントリ】
消費税/税の使い途カテゴリ
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歴史を逆戻りさせる「日本維新」構想
この2人にたいして「歌手や俳優だから支持される」とはあまりにも見下した物言いですが、この橋下という人物は、言行不一致の最たる者かもしれません。なぜなら、自分にたいしては呼び捨てにするな、などと誰彼かまわず逆に罵倒し返すのに、この上から目線。橋下を日本では知る人はいるのでしょうが、日本からいったん出てしまえばどれほどの人が知るのでしょうか。かたやガガもデップも知らない人のほうが少ないと考えるのが順当です。しかも、「歌手や俳優だから支持される」というのも橋下市長の見識の無さを端的に示しており的外れだといわなければならないでしょう。
不特定多数に接し市民全体の「奉仕」者という立場だから入れ墨はいかがかという意見もありえましょうが、しかし、入れ墨という今の時代、嗜好にかかわる事項で全職員を対象に調査をするという、たとえばその費用は物的・人的経費のまったくの浪費としか私には見えないくらい、あえていえば馬鹿馬鹿しく大げさな事態に発展させてしまったといえなくもありません。日頃、さまざまな補助金削減を市民に迫っている市長ですからなおさら釈然としないものが残ります。
この入れ墨問題で、石原都知事が応じています。橋下弁護です。
曰く
入れ墨をしている職員が非常に多いということが表象するように、市の職員組合は年間10人を超す刑事犯が出る、それも傷害、詐欺、麻薬、そういう人間が数多くいる組合の中に、入れ墨している人が多いというのは、ある意味象徴的な現象だと思う。その人間の人格をはかる、能力をはかるのに、入れ墨を有無をメジャースティックにするというのは、人によっていろいろ意見は違うだろうが。
「日本維新の会つくりたい」 第三極は「小沢一郎と手を組むことはまったくない」
一部の不祥事をとりあげ、それが全体であるかのように映し出すのは、ためにする組織攻撃の常套手段でもあるのでしょうが、ちゃんと組合攻撃に話を落とすのが石原都知事らしいとも思えます。
前置きはこれくらいにして、この石原都知事が大阪「維新」との連携の意向を明らかにしました。
東京都の石原慎太郎知事は18日の記者会見で、新党構想に関連し、橋下徹大阪市長が率いる地域政党・大阪維新の会との連携を念頭に、6月にも政治塾「日本維新の会」(仮称)を設立したいとの意向を表明した。
政治塾はたちあがれ日本の人材育成塾を母体とする予定で、次期衆院選をにらみ、第3極の結集を目指す。
石原氏は先月、新党構想の「白紙」を宣言していたが、構想の具体化に向けて再始動した形だ。
石原氏は、昨年1月に開講したたちあがれ日本の人材育成塾について、「すでに優秀な人材を修練している。さらに拡大した形で、積極的に手伝って人材を育てたい」と述べた。
大阪維新の会については、「東京と大阪が連携して新しい人材を政界に送り込む。全体で『日本維新の会』のようなものを作っていきたい。6月に大阪とも話して具体的なメッセージを発したい」と語った。民主党の小沢一郎元代表との連携に関しては、「手を組むことは全くない」と強調した。
(2012年5月18日23時34分 読売新聞)
石原知事「日本維新の会」設立へ、橋下氏と連携
「たちあがれ」がすでに政治塾を開講していて、それを実体にしたものを構想しているそうです。大阪「維新」と手をつなぎ、日本維新にするとか。
ひと月くらい前に都知事と大阪市長との会談が報じられた際、エントリで2人が手を握ったらどうなるのか、想定しました(参照)。今回の石原発言はこれを少し前にすすめたものといえるでしょう。
以前のエントリでふれたことの一つは、石原・橋下両氏ともに改憲の意思を明確にしており、改憲の環境づくりに走るだろうということでした。2人が手をつなげば、その条件が形として出来上がるということです。その懸念をエントリではこうのべました。
==========
戦争することに加担したいとはまったく思いません。9条の改定に賛成するのは、明確に戦争に加担することに道を開いたにほかならないようにみえます。
私たちはリスク社会のなかに生きているともいわれています。だから、少なからず予期せぬ死への可能性のなかで生きているといいかえることもできるでしょう。しかし、戦争は、われわれが絶対にしないという意思を固めれば、安易に戦争の道にすすむことを阻止する手立てがまったくないわけではありません。戦争する国にかえようとする動きは、記憶に新しいところでは安倍首相の時代にもありましたが、結局、彼の新しい国づくりは潰え去りました、
夫や子、恋人、あるいは自分ではない他者を戦場に送れるでしょうか。送るということは死の可能性を容認することです。ただ、それでも生きて帰る可能性がないとはいえませんが、しかし一方では、それでもその彼らが戦場で他者を殺す可能性もむろん存在します。
9条の改廃に賛成するということは、つまるところこの問いの含意する(死の)可能性を現実のものにしてしまうということでもあるのではないか。この2人が手をにぎることはその可能性を増幅させることにつながるのではないか。
ですから、憲法改定を主張する動きには反対の意思表示を明確にしておくことが大事だと思うのです。
(前掲エントリ)
==========
憲法改定を口にしてはばからない2人。それを報じはしても厳しく批判するメディアの姿勢がそれほど感じられないだけでなく、見当たらないというのが率直なところです。それは、たとえば消費税増税問題でも強く感じるところです。
権力の監視が一つの存在意義であるはずのジャーナリズムが、表現やウエイトの置き方が多少ちがってはいても、権力に迎合しているかのような論調で通底する昨今です。ですから、ある意味でメディアの体制翼賛状況といっても少しもおかしくはないような現象に今あるのではないかと恐れてしまうのです。
石原都知事によれば、「6月に、大阪とも話して、具体的なメッセージを発したいと思っている」ということですし、片方で橋氏市長がこの都知事の発言にエールを送っています(参照)。
以上のメディアの状況は、たとえばネット上での言説にも影響を与えているのではないか。改憲を主張する、あるいは擁護する発言が少なからず散見され、これが日本の現実の一面であることもたしかです。
2人の合流は、この風潮をより加速するだろうと思えます。
だからこそ、戦争をする国にすることも、加担する国にする選択肢もとってはならないと今、あらためて主張する意味は大きいのではないでしょうか。
「維新」とは、今までにない国民のための何かしら新しい政治を志向するものではなく、むしろ歴史を逆もどりさせようとするところに維新の意味を見出そうとする動きなのですから。
【関連エントリ】
石原と橋下が手を組めばどうなるか
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基地の島・沖縄は依然かわらない
沖縄の人びとが眼の前の現実をどのように考えているのか。
それを、以下の調査は端的に示しているように思えます。実に7割を超える回答者が、「本土の人は沖縄の人の気持ちを理解していると思うか」という質問に「理解していない」と答えたそうです。10年前の世論調査での同様の質問では、「理解していない」と答えた人が57%だったというのですから、「理解していない」と答えた人の割合が14ポイント増えたということになります。このポイント増の背景に、基地移転先問題があり、しかもその解決が方向すら沖縄の人びとに届いていないことがあるのは容易に推測できることです。
沖縄のアメリカ軍基地が依然として減らない中、沖縄の人たちが、「本土の人は自分たちの気持ちを理解していない」と考える傾向を強めていることが、NHKの世論調査で判りました。
NHKは、ことし2月から3月にかけて、沖縄県に住む20歳以上の男女1800人を対象に調査員が面接する方法で世論調査を行い、62.4%に当たる1123人から回答を得ました。
その結果、「本土の人は沖縄の人の気持ちを理解していると思うか」という質問に、「理解している」と答えた人が26%だったのに対し、「理解していない」と答えた人は71%に上りました。
10年前の世論調査で同じ質問をした際に、「理解している」と答えた人が35%、「理解していない」と答えた人が57%だったのに比べると、「理解していない」と答えた人の割合が14ポイント増えています。
この間、特に基地問題に関して沖縄の人たちを失望させるような出来事が相次いでいます。
アメリカ軍普天間基地の移設先を巡って、「最低でも県外」を掲げた鳩山政権に沖縄県民の期待は膨らみましたが、最終的に政府が出した結論は「県内移設」でした。また、おととし、沖縄の基地問題を巡って臨時に開かれた全国知事会で、沖縄県の仲井真知事は「いくらなんでも負担が多すぎる。応分の負担をはるかに超えている」と訴えました。
そうしたなか当時の鳩山総理大臣が、出席した各知事に対し、アメリカ軍の訓練の受け入れに協力を求めましたが、受け入れを明確に表明した知事はおらず、全国知事会として基地問題に「真摯(しんし)に対応していく」と表明するにとどまりました。
沖縄の基地負担を減らすことには総論として賛成するものの、みずから負担を受け入れることには消極的とも言える姿勢が明らかになったのです。
沖縄の人たちが、「本土の人は自分たちの気持ちを理解していない」と考える傾向を強めている現実を、本土の人たちがどう受け止めて行動していくのかが、復帰から40年を迎えた今、改めて問われています。
沖縄“本土は理解不足”と考える傾向
何よりもそれまでの冷戦構造といわれてきたものが崩壊し、先にふれたように世界は大きくかわりました。ですから、米国の世界戦略も当然かわったわけですし、したがって、東アジアにおける米軍基地の位置づけもいうまでもなくそれまでとは違っています。それでも沖縄の米軍は依然、かわることなく沖縄にいつづけてきました。ベトナム戦争の最前線基地として沖縄の米軍基地はその役割を果たしてきました。それだけでなく、アフガニスタンやイラク戦争でも出撃・兵たん拠点としてアメリカの世界戦略のかなめ石の名のもとでむしろ強化されてきたのではないでしょうか。そして日本の米軍基地の7割以上を沖縄が占めている。わずかに面積比1%にも満たない沖縄にこれだけ集中するのですから、県知事の「いくらなんでも負担が多すぎる。応分の負担をはるかに超えている」との言葉は現地の声を代表するものとして当然なのかもしれません。
政府はいまだに普天間基地の辺野古「移設」に固執しています。一方で、普天間基地の補修費用一部について日本側負担を認めてきました。これは、見方によっては、記事にもあるとおり普天間基地の固定化に道を開く布石だとも考えられます。
日米両政府は19日、在日米軍再編計画の見直しに関し、在沖縄海兵隊のグアム移転費における日本側の財政支援の上限額について、海兵隊グアム移転協定(2009年締結)に盛り込まれた約28億ドル(約2280億円)に米国の物価上昇分を積み増し、約31億ドル(約2530億円)とすることで合意した。19日に外務省で開いた両政府の外務・防衛当局の審議官級協議で一致した。
協議ではまた、25日にも発表する中間報告に、沖縄の米軍普天間飛行場の補修実施とその費用の一部を日本側が負担することを明記することも確認した。
普天間飛行場は、滑走路への誘導路や格納庫、管制塔などの老朽化が進んでいるが、1996年の日米返還合意後、代替施設が新たに建設されることを見越して、大規模な補修を控えてきた。このため、今回の補修実施は、普天間の固定化につながるとの懸念が地元で出ている。米側は補修費用として、今後8年間で総額約200億円を見込む。(2012年4月20日 読売新聞)
普天間補修実施明記へ、グアム移転費日本負担31億ドル
沖縄から基地をなくし、基地の島から基地のない島にするためには、日米安保条約のもとでは不可能だと思えます。米国の世界戦略は冷戦後、その侵略的な性格がいっそう深まったともいえそうです。
日本の安全保障を理由にして犠牲にされてきた沖縄。1995年の少女暴行事件のみならず、米軍人が頻繁に起す事件・事故や爆音被害に県民が苦しめられ続けているのは周知の事実です。県民のこうした安全と暮らしを脅かす現実をみつめ直し、米軍基地の存在を根本から問うことこそが、沖縄の人の気持ちを理解する第一歩ではないでしょうか。
その意味で日米安保条約の廃棄、普天間基地返還、辺野古移転中止を避けて通れない課題だとあらためて考えたいものです。
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就活が原因で自殺を迫られる若者たち
就職活動の失敗を苦に自殺する10~20歳代の若者が、急増している。
2007年から自殺原因を分析する警察庁によると、昨年は大学生など150人が就活の悩みで自殺しており、07年の2・5倍に増えた。
警察庁は、06年の自殺対策基本法施行を受け、翌07年から自殺者の原因を遺書や生前のメモなどから詳しく分析。10~20歳代の自殺者で就活が原因と見なされたケースは、07年は60人だったが、08年には91人に急増。毎年、男性が8~9割を占め、昨年は、特に学生が52人と07年の3・2倍に増えた。
背景には雇用情勢の悪化がある。厚生労働省によると、大学生の就職率は08年4月には96・9%。同9月のリーマンショックを経て、翌09年4月には95・7%へ低下。東日本大震災の影響を受けた昨年4月、過去最低の91・0%へ落ち込んだ。(2012年5月8日15時25分 読売新聞)
就活失敗し自殺する若者急増…4年で2・5倍に
記事によれば、就活が原因と見なされた自殺のケースが07年比で3倍以上になり150人になったというのですから、尋常ではありません。
おそらく、そもそも日頃から自己肯定感が弱いと指摘されることもある若者ですから、就職できないことを自己否定としてとらえ命を絶つに至るのではないかと推測するわけです。もっといえば、そのように就職できないことを自らに帰してしまうような考え方をこれまで強いられてきた一つの結果でもあるように思えます。ようするに自己責任をあらゆる局面で教え込まれてきた世代ですから。
自己責任。
この言葉が日本社会を覆ってずいぶん経ちます。
自己責任の強調は、裏をかえせば、社会的な無責任を意味するともいえます。この立場にたってしまうと、自ら命を絶つのは、就活が原因であったにせよ、自分の責任だということになります。
かつては有名大学を出れば、ある種のステイタスを得て将来が約束されるともいわれてきましたが、そんな時代はすでに去っています。その背景は、企業の雇用方針が大きくかわり、たとえば大企業のように新卒の大量雇用を前提にした形態から、即戦力が求められるものに変化したということだと思えます。
戦後まもない1947~49年に生まれた団塊世代が65歳に差し掛かり、労働市場の表舞台から姿を消しつつある。本来なら労働力不足に陥ってもおかしくない状況だが、若年失業率の改善はごく緩やかで、企業にも若者の採用を急ぐ機運は乏しい。若者に出番が回らないのはなぜか。長引く景気低迷だけでなく、企業の即戦力志向や若者の技能・技術の低下といった要因も見え隠れする。
団塊退職でも若年失業の怪 企業、新卒より即戦力
総務省が20日発表した労働力調査の詳細集計(岩手、宮城、福島3県を除く)によると、2011年平均の非正規労働者の割合は前年を0・8ポイント上回る35・2%と、2年連続で過去最高を更新した。企業が若年者の正社員採用を抑制していることや、定年した社員を契約社員などとして再雇用する企業が増えたことが要因とみられる。
非正規労働者数は1733万人で、前年に比べて48万人増えた。年齢別の非正規割合は、15~34歳の「若年層」が32・6%、55歳以上が51・5%でいずれも過去最高となった。
非正規労働者の割合が最高更新 35%、正社員の抑制響く
したがって、新卒での就職に失敗したら、非正規雇用の枠組みに入るしかない。さらにいったんそこに入れば、そこから脱出できる可能性は限られてくるという構図を若者たちは知っています。だからこそ、就活にいわば自分の将来すべてをかけるかのように、いちだんと熱を帯びることになるのでしょう。
人間は生まれたら同じスタートラインに立ち、平等な条件でスタートを切って競争する。そして、人生の上での選択は、競争をしている自分の選択なのだから、その結果にたいしては本人が責任を負うべきという考えを前提に育った若者たち。
したがって、就職という一つの社会的に承認される機会を逸した彼ら若者は、自分自身の生きている根拠を見失うことになるのではないか。
若者の雇用拡大にかかわって(パッションで)「氷河を溶かせ」と指示をしたのは野田総理ですが、他方で国家公務員の新規採用数を削減するのですから、まさに言葉の上だけのことで欺瞞に近いものを感じさせます(参照)。いや自らの言葉を裏切っているとさえいえるでしょう。
そうではなく、今すぐにでも必要とされるのは、一人の若者の死も生まないような強力な雇用政策であることはいうまでもありません。
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震災復興まで口実にする改憲派
超党派の新憲法制定議員同盟(会長・中曽根康弘元首相)は1日、都内の憲政記念館で「新しい憲法を制定する推進大会」を開いた。現行憲法が縦割り行政の温床になっているとの観点から「東日本大震災からの復興の遅れの根本原因は現行憲法にある」として、改憲に向けて国民的議論を盛り上げていくことをうたった決議を採択した。(2012/05/01-20:52)
復興遅れ、憲法に原因=超党派議員
もうここまでくると異常としかいえないでしょう。なにしろ「現行憲法が縦割り行政の温床になっている」のは現行憲法だといっているのですから。
分かりやすくいえば、こうした改憲の動向は、なんでもいいからすべてを現行憲法のせいにしておけといわんばかりの程度のものだといえそうです。こんな議論を国会議員の集団で語るというのですから到底、尋常とは思えないし、ここにこそ日本の政治の深刻さの一端があるように思えます。
冒頭のエントリで暑かったのは、決められないと表現されている、たとえば遅々として審議がすすまない(国会の政治の)現実を逆手にとって、一院制を主張した動きでした。その結果、もたらされるのは多数派の専横ではないかと見立てました。
今回の記事は、それ以上に非論理的であって、震災からの復興の遅れも憲法が原因としてやり玉にあげるもの。
改憲の目的はあえて表にはでてこないところに着目しておかないといけないように思えます(*)。少なくとも縦割り行政ではないはず。
日本は不戦を明記した世界にも例をみない憲法をもっています。改憲の動きに通底するのは、おそらくこの9条改定の扱いだろうと推測されるところです。
誰もが願う震災からの復興を口実にし、しかもほんとうの目的はちがうところにありながら改憲を主張する議員連中にはノンという言葉こそふさわしいように思います。
日本国憲法をかえることではなく、現憲法に価値を見出すのなら、そうしたきっぱりとした態度が求められているのではないでしょうか。
* 新憲法制定議員同盟は2008年3月の総会で「九条の会」に対抗すべく、「よほどこちらも地方に拠点を作っていかねばなりません。そこが今後の活動の大きな焦点となる」と主張し、地方支部づくりなどが提案されています。
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厳罰で事故をなくすことはできない
車をなくすことが少なくとも今すぐには到底できない以上、私たちは車との共生をとりあえず考えざるをえません。事故の再発はどうすればできるのか。
産経新聞が主張でこの点をとりあげています。
悲惨な自動車事故が後を絶たない。大型連休の関越自動車道では金沢市からディズニーランドに向かっていた高速バスが大破し、乗客ら46人が死傷した。
花見客でにぎわう京都の繁華街や登校児童の列に暴走車が突っ込む事故も続いた。楽しい時間や将来の夢を一瞬にして奪われた被害者の無念や、家族の嘆きはいかばかりだったろう。
同じ悲劇を少しでも減らすために、危険運転致死傷罪の適用範囲を広げるなど、厳罰化で安全運転への意識を高める必要がある。
京都・祇園で観光客ら7人の命を奪った軽ワゴン車の運転者は、てんかんの持病があり、医師に運転を禁じられていたが、運転免許更新時に申告していなかった。
京都府亀岡市で集団登校中の児童らの列に突っ込んだ軽乗用車の運転者は無免許だった。
千葉県館山市でバスの停留所にいた小学生の列を襲い、1年男児を死亡させた軽乗用車の運転者も、愛知県岡崎市で横断歩道を集団登校中の小学生の列に突っ込んだ軽ワゴン車の運転者も、「ボーっとしていた」と供述した。高速バスの運転手は「居眠りをしていた」と説明しているという。
………
悲惨な交通事故 厳罰の適用拡大で抑止を
事故を厳罰で抑止しようとする考えです。
これは、刑事罰を強化すればそれが「抑止力」になって事故が減るという想定をもちろん前提にしたものです。
しかし、これにただちに賛成するわけにはいかないだろうと考えます。
たとえば関越自動車道での事故は、運転手が居眠りをしていたとされています。その上で、バス運行会社の労働管理に問題はなかったのか、この点が疑問視されてもいます。業界ではたとえば運転手2人体制をとる会社も少なくないようですが、当社は事故当時、一人の運転手でした。
規制緩和の時流のなか過当競争に至った結果、安全対策が後景に押しやられてきたという指摘があるくらいです。また、行程所要時間短縮が競われる中、車両の軽量化がすすみ、それが事故を重大化させたという見方もあります。
ですから、この事故は少なからず運輸行政・労働行政とかかわっており、省庁の監督のあり方などの見直し検討が不可欠ではないかと思えるのです。あるいは、規制緩和の行き過ぎがあったと指摘されてもまったく不思議ではないようにみえます。
京都亀岡事故も、たしかに運転者が無免許であったという事実があったものの、小学校近辺の道路が狭い上に車歩分離もない状況がまずあらためられなければならないのではないか。また、時間帯で車の通行禁止という措置がとられてもよかったかもしれません。つまり、社会環境を今いちど点検しなおすことが今後の事故防止の可能性を具体的に広げることにつながるだろうと推測するわけです。
悲劇をもたらした事故はそれぞれ背景がありそうにみえます。一律に厳罰という手段でくくろうとすることは、むしろ原因の追求という点で誤ることになりはしないか。その恐れがかえって大きいように思えますし、厳罰化で再発の防止もほぼ期待できないと推測されます。何よりも行政のあり方やインフラの整備をふくめた社会環境を根本からとらえ直し改善することが先決ではないでしょうか。
同じ悲劇を少しでも減らすためにという産経がいうのなら、事故の科学的な原因究明に万全を尽くし再発を防止するに足る方策を具体化する、この当たり前の手順をふまえた提案を出し世論をリードしてほしいものです。ですから、逆に産経の主張は、「犯人」以外をまったく視野に入れない、安直な厳罰という手段に訴えるものといわざるをえず、賛成はできません。
追記;朝日が夜間走行体制について伝えています。
「起きると思っていた事故」 TDRでバス運転手に聞く
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