森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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メディアと市民─「マスコミの人間に心はあるのか」に思う
本日,京都府亀岡市で悲しい事故が起こりました.当ドクターヘリも出動し対応しています.検証されるべき事項は沢山ありますが,1つの命をすくい上げようと誰しもが全力をしくしました.結果,望まない終末になることもあります.その後のご家族の心のケアには人として,医療者として十分な対応を心掛けております.当然,院内や病院敷地内に勝手に入り込み,勝手に取材,写真をとるマスコミには取材の許可を出しませんし,取材拒否の旨をきちんと伝えております.もちろん必要があれば病院から情報を伝えます.
しかしながら,読売新聞,毎日新聞,朝日新聞など各社の記者(個人名を出しても良いと思いますが)は霊安室の前にカメラをかまえ,お帰りになるご家族の映像を勝手に撮影していました.再三にわたって取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず,一番大切にしたい瞬間に,ズカズカと土足で割り込んできました.
ご家族,医療者,関係者の心情を考えられないくらいマスコミの人間の心は腐っているのでしょうか.このブログが多くの方に読まれていることは十分に存じ上げております.だからこそ敢えてここで述べます.
4月23日 マスコミの人間に心はあるのか
タイトルにあるように、メディアの報道姿勢に強く疑問を呈しています。
人の命と健康に常にむきあっている医療にかかわる側からすれば、むろんその家族や知人、関係者への配慮もふくめてはじめてケアとして成り立っています。ですから、診療施設内を、たとえばわが者顔に行動するメディアの姿勢は、それを阻害するものとしてとらえられるのは避けがたいものだと思えます。その側からの厳しい批判が、(マスコミの人間に)心はあるのかという一つの言葉に象徴されています。もちろんそこには、人間ならば、「ご家族の映像を勝手に撮影」するようなことはない、「取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず,一番大切にしたい瞬間に,ズカズカと土足で割り込」むことはないという判断があってのことです。
だから、ある意味で、これはマスコミは人間なのかというに等しい、これ以上の強烈な批判はないのではないかとさえ思えるものです。
寄せられているコメントから察すると、この記事に賛同し、メディアの姿勢への厳しい反発を明らかにし、批判するものが大半だといってもよいのではないかと推測されます。
記事が問うように、家族、医療者、関係者の心情を考えられないくらいマスコミの人間の心は腐っているのか。これは、知る限り、つねに語られ、両者の間に超えがたい困難をもたらしてきた一つの命題のような気がしてなりません。つまり、市民とメディアの間の信頼関係というものが著しく損なわれていることを示している。それは、先にふれたこの記事にたいするコメントにも表れています。そこでは報道にたいする不信の根深さがみてとれます。
そしてこうした報道不信は、恐れていたように、報道にたいする規制を求める声に連なっていきます。コメントのなかの一つをひろってみます。
マスコミは同様のことを繰り返してきて、批判を受けると自分たちの都合の良い形で検証番組で反省している素振りを見せるだけです。何かというと、「報道の自由」だとか「我々には報道する義務がある」だの正義ぶるのはやめて欲しい。加えて、マスコミは他の業種については「質が悪い」などと執拗な批判を加えますが、最も質が悪いのは新聞記者をはじめ、マスコミの人間ではないでしょうか。なんらかのマスコミを規制する法制化が必要だと思います。
たしかに、報道の自由と市民の人権があたかも対立しているかのようにもみえます。しかし、ほんとうに両者は対立するものなのか、緊張しつつ、相互に高めあう関係は築けないのでしょうか。
もちろん私たちには表現の自由が憲法で保障されています。ならばメディアにも表現の自由があると考えて不自然ではもちろんありません。ただ、メディアは社会の公器ともいわれるように、それが公共性をもつことについて誰も否定しないでしょう。むしろ公共性をもつメディアだからこそ報道にまつわる人権侵害がもたらされる可能性をはらんでいるともいえます。
すると、メディアが公共性をもつ以上、個人の自由と同じようにこの表現の自由をとらえられるのか、という問題が派生するように思えます。表現の自由がもともと個人がもつ自然権だと解釈すれば、これを前提にしてはじめてメディアの表現の自由がもたらされるというものではないか、と考えたいのです。
個人が自らの将来、そして社会の将来を選びとるための必要な情報を提供するのがメディアです。だとすると、メディアには、とりわけ権力にたいする監視と、社会や個人をとりまく環境にたいする監視という役割が課せられるのではないでしょうか。
この点で、救急救命センターの提起は、あらためてメディアのあり方を鋭く問うものだと受け止めなければならないように思えます。
その上で考えるのは、つぎのようなことです。
私たちは誰でも好奇心をもっています。しかし、その好奇心がメディアのセンセーショナルな報道という競争や商業主義に煽られることもときにはありそうです。だとすると、それを一方で反省しつつ、市民のための報道を求めうるのは私たち以外にはありません。マスコミの人間の心を腐らせないようにするのは私たちだともいえるのでしょう。メディアに権力にたいする監視を求める以上、心を腐らせないようにするのは規制によっては不可能にちがいありません。
なによりも自らと社会の運命を選びとるのは私たちなのですから。
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ねじを元に巻き戻そうとする日経社説
その議席配置がもちろん以後の日本の政治を左右する。民主党にしてみれば、参院選でも多数を握ることがいうまでもなく目標となるでしょう。逆に自民党は巻き返しの転機にすることができるのか、それが課題なのでしょうが。
衆院選では、二大政党推進の立場からすれば、自民政権から民主党政権に交代したということですから、外形的には一つのめざしてきた方向にちがいなかったのでしょうが、交代という現象を具体化した内実は、想定をはるかに超えていたということでしょう。それは、自民党の「構造改革」に痛めつけられた国民のしっぺ返しの強度と深度において。そうであっても、結局、議席配置の上では自民・民主の議席占有総数自体はそれほど変化しなかった。つまり、構造改革に反対してきた共産、社民の議席数も大きな変化はなかったのです(参照)。
だから考えられるのは、国民の批判は、政権交代に向かいましたが、その理由は、構造改革路線そもそもに反対する、そのものを否定するというよりむしろ、国民をこれ以上痛めつけるなという「程度」のものであったといえるかもしれません。その結果、小選挙区制度も後押しして、そもそも自民党と政策的には大差がなく、しかも政策自身をそれほど支持されているわけでもない民主党が議席を大幅に伸ばしたわけです。
選挙後の民主党のやつぎ早の政策的対応はこうした背景を反映しているのでしょう。ねじを国民寄りに一まず巻いているのです。消費税の据え置きや日米関係の見直し、労働法制の見直しを口に出すのも。
構造改革を自民党とともに競うあうという組み立てであったのですから、財界やマスメディア応には戸惑いもあった。それゆえ、その結果、民主党にたいしては、現実路線を求めたり、あるいはマニフェストに拘るなと主張も現れました。朝日が消費税増税を社説でけしかけたり、読売にいたっては自民党の路線を引き継げと露骨に主張してきました(参照)。現実路線という言い方をしたり、マニフェストに拘るなという主張は、選挙後の民主党の対応の変化を元に引き戻そうという意図で共通しています。
一方で、こんな議論もあります。
マニフェストどおりにやれというやつ。これは、マニフェストに拘るなということと反対のことをいっているのですが、これは、上の議論と意図は同じ。つまり、自民党とかわらない部分をやるべき、というものです。
日経の社説がこう主張しています。
社説2 参院定数は枠組みから正せ
社説の結論は、最後の一行に尽くされています。「マニフェストで掲げた「参院選挙制度の抜本改革」を実行しなければならない」ということです。「抜本改革」とは、以下の部分でいっていることです。
衆議院の比例定数を80削減する。参議院については選挙制度の抜本的改革の中で、衆議院に準じて削減する。 |
結局、参院も衆院に準じて改革をやるというのですから、定数の削減のこと。しかも、比例代表部分を衆院では80削るというものですね。これは、民意をもっとも反映をしない方向に「抜本改革」をしようというものだといいきってよい。
財界の意向を受けた日経ですから当たり前でしょうが、論旨の定まらない社説の主張は、ただの一点、マニフェストどおりにやれとけしかけるもの。社説がいうのは、一票の格差是正→現行選挙制度を正す(選挙区割りと偶数の定数配分の是正)→マニフェストの実行(定数削減)ということです。が、現行選挙制度を正すことは定数削減と同じことではもちろんありません。民意を反映しないように選挙制度をかえようというのが民主党のマニフェストであって、それを断行せよと日経社説は迫っている。
民主党にマニフェストに拘るなといったり、逆に断行せよと主張するのも、選挙後の事態の動きを前にした、ねじを元に戻そうという勢力の巻き返しを象徴するものではないでしょうか。
(「世相を拾う」09207)
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朝日社説- あおった後では輝きも半減する。
今日までほとんどの予想が政権交代の実現を指摘していますが、選挙の情勢は刻々とかわり、最終盤といわれる状況下で、メディアの論調にも以下のようなものがみられるようになりました。
総選挙あす投票―未来を選ぶ夏の結びに
朝日の前回の世論調査にもとづく論調です。この社説は、吉野作造の言葉で、こう結んでいます。
総選挙だからとて俄(にわ)かに馬鹿騒ぎをするのは不必要のことだ。本当の憲政の要求するところは選挙だからとて少しも騒がず、国民が平常と変らず各々(おのおの)その業にいそしむということである。……憲政の道徳的の重みは決して騒々しいところからは生まれない。冷静であればある程、選挙民の政界に対する威力は増すものである |
まあ、こんな吉野と同じように達観できればよいのでしょうが、これだけの情報過多のなかで外部から飛び込んでくる情報に左右されるのが普通で、そうでないというのは少数なのでしょう。
あえてつけくわえれば、社説はその情報社会の中で情報を発信する側にいて、その意味で重大な社会的責任を負ってきたし、負っているということを自らのべ、その立場から論じるべきではなかったか。
なぜか。
一月前、二月前、半年前、一年前という具合に現在から過去にさかのぼってみましょう。
当の朝日新聞の論調は、日本政治、こと解散・総選挙に関連する記事の多くは二大政党が中心であって、主張の基本的な道筋もそれを支持するのものではなかったでしょうか。
この指摘が仮にあたっているとすると、今回の社説の主張が当をえたものであっても、その輝きは鈍いものにならざるをえない。自民か民主かの二者択一を他社同様に朝日も国民にむかって発信してきたのであって、何をいまさらという実感をもたざるをえません。
たしかに、世論調査に国民の意識動向が映し出されているとすれば、記事も国民の意識をもとに書くことになるのでしょうから、その点で判断にまちがいは少ないのでしょう。しかし、その調査以前のメディアの態度が問われなくてはなりません。私の実感では、二者択一を迫る主張の洪水のようなものでした。
ジャーナリズムは、先の吉野のいうような意味で、国民が冷静に判断するための良質の材料を提供することがその社会的使命の一つだと私は考えるのですが、その点で、この朝日の社説の主張は共感できる部分をふくみながら、素直にうなずけない何かが残るのです。
何かが残ってしっくりこないのは、あの郵政選挙をへてジャーナリズムの反省が多々のべられてきながら、また同じ時点から出発し、二者択一を迫る、あのときは民営化推進か反対か、今度は自民か民主かという具合に、同じ誤りを繰り返しているからにちがいありません。
現状は肯定すべきか。否定して変えるべきか。変えることにすぐ飛びつくのではなく、変えた先のことにも考えをめぐらす |
この主張は、私は、ただしいと思います。
それだけに、今こそ自問しないといけないのは、マスメディアではないでしょうか。メディア選挙からいかに脱却するのか、それは国民自身が考えないといけない課題ですが、同時に、そうした劇場をつくることの是非も、メディアに問われています。
以上のようにメディアのとってきた態度をふりかえると、社説の主張もしたがって、筋道をつくったあとで正論をのべてその場をとりつくろうようにみえて、輝きも半減しているのです。
(「世相を拾う」09171)
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朝日社説- 本音か建前か
09総選挙・終盤へ―民主党へと風は吹くが それが実現可能な政策なのか。その党に本気でやり切る能力と覚悟があるか。多くの有権者が目を凝らしているのは、マニフェストの文言を超えた、政党としての基本的な信頼度だ。 |
つまり、政党、この場合は民主党への信頼がないということでしょう。が、では、小泉郵政選挙のとき、彼の語った政策への有権者の信頼があったのでしょうか。私はそうは思いません。だいいち、彼が政策を語ったでしょうか。まとまった形で政策を強調するというよりむしろ、選挙後、大勝の要因としてあげられていたように、彼はワンフレーズで有権者を誘ったわけです。政策は語られず、状況をつくりあげるのに敏だったといえるのでしょうか。
もちろん民主党が政策を語っているとは私も思いません。そうではなく、都合の悪いことやまとまらないことは不明瞭でお茶を濁すか、あるいは不問に付してしまう。そして極端なことをいえば利益誘導的な政策のうちあげに民主党は腐心しているようにすら私は感じるのです。
有権者の意識が現状をつくっているのは、ただ現在の自民党の政治はとにかく止めにしよう、この一点でしょう。止めにした後の展望は見出しえない。これではないでしょうか。
私はこれをつぎのように表現しました。自民党政治の文字どおりの終焉を政治課題に掲げる共産党への叱咤激励の意を込めて。
日本政治にとっては、今回の総選挙は、自民党の政治の終わりの始まりであって、文字どおりの終焉を意味していないということです。同時に、民主党では自民党の政治を終わらせることができないと(有権者が)了解しているということをも結果は示しています。自民党政治の終焉をめざす勢力の存在はこの点にあるのでしょう。 |
現状は、おそらく共産党の考えていることが有権者に届いていないことを意味するでしょう。届いていないというよりも、選択肢に入ってこない要素の一つとしてあるのは、小選挙区制という選挙制度のあり方です。共産党にかぎらず、小数政党にはより小さくなるようなインセンティブが働くと考えてよいのでしょう。「主張はいいが、小さいからね」みたいな意見に象徴的なように。
小選挙区制は、一議席を争う選挙ですから、多様な意識をむしろ排除する。したがって、その結果、世論調査にみられるように、自民・民主に現状では投票行動を収斂させる結果になる。入れても入れても当選に結びつかないのでは、主権者としての権利はたとえ行使できても、主権者が政治を動かすという実感を手にするにはほど遠いからです。
でも、有権者は、二大政党でよしとしていないことは、今回の世論調査でも明らかでしょう。有権者が期待するに足ると実感しうるような訴えを、たとえば共産党が有権者に届けることができれば、状況はかわる。
その点であらためて、思い返すのは、小泉選挙をのちに定着した感すらあった劇場型選挙に仕立てたのに、メディアが大きな役割を果たしたということです。
今回もまた同様。二大政党しかないような扱いを繰り返しています。
その上での今回の社説をどう理解するのか。額面どおりに受け取ってよいのかどうか躊躇するところです。
私は、建前で一般的な解釈にもとづき、この社説の論旨がまとめられたと考えています。
つまり、朝日の主流もまた、二大政党推進の立場は明確でしょうから、その意味で、有権者が最終的には、自民であろうと民主であろうと、どちらかに投票してくれれば初期の目標は達成されることになるのですから。
有権者の期待薄という意識が、いずれはつぎの段階にすすむだろうということを期待しつつ、そう考えるのです。
(「世相を拾う」09164)
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朝日社説- まるで民主党機関紙のよう。。
一言でいえば、このエントリーの表題にあるとおり、朝日の主張は、民主党の機関紙かとみまがうほどだということです。社説には副題が2つあり、「これまでの官僚依存の政治はもはや限界だ」、「政党が主導権を発揮できる体制が問われる 」とかかげられています。
しかし、限界に直面しているのは、はたして官僚(依存)の政治でしょうか。そうだと立証するための入り口で、たとえば朝日はつぎのようにのべています。
官僚が国益を考え、最適の政策をつくり、それを実施する。明治以来の「天皇の官吏」から戦後の「全体の奉仕者」に変わっても、官僚機構が政策づくりの主導権を握り、政権党がそこに乗っかるという基本構図はあまり変わらなかった。
党利党略や選挙区利益に左右されがちな政党、政治家と違って、官僚は純粋に国益を考え、仕事をこなす。多くの官僚はそうした気概に支えられ、国民の信頼も得ていたと言っていいだろう。そんな姿を描いた城山三郎氏の「官僚たちの夏」が最近、テレビドラマになった。 |
けれども、誰でも分かることは、明治以来といっても、第二次大戦の前後で、日本の環境は大きくかわった。日米の関係が日本の政治・経済、社会の構造をある意味でいえば決定づけるような重要な位置を現実に占めてきました。戦後の日本政治は、あるいは経済は、良し悪しは別にして米国抜きでは語れないという具合に。そうした日米の関係を規定しているのは、いうまでもなく日米安保条約と経済条項でしょう。
今、日本が直面している「困難」の一つは、まさに日米安保にもとづく両国関係のもとでゆがめられてきた政治が、もう立ち行かなくなっているということでしょう。換言すれば、米国の要求にそって、たとえば毎年、軍事費を肩代わりしたり、経済規制緩和要求を甘受してきた結果、これまで自民党を支えてきた、社説がのべるような階層はおろか、国民生活をないがしろにし、多くの国民と自民党との対立の構図ができあがってきたのです。国民・有権者が今、自民党にたいして抱く感情は、自民党の政治がこのままつづいたら自分の生活は壊れる、将来はないというものではないでしょうか。
「官僚が国益を考え、最適の政策をつくり、それを実施する」。仮にそうであったにしろ、おおもとの日米関係の存在を欠落させるわけにはいかない。比ゆ的にいえば、日米安保と国民生活が拮抗し、その対立が飽和、臨界点に達して、いよいよ爆発する、こんな現状にあるのではないか。厳密にいえば、日米安保条約という一つの法体系と日本国憲法を規範とする法体系が併存してきた、させてきたのですが、いよいよ安保と憲法との拮抗が対立し、そもそもの併存そのものが問われているといえる。明文改憲の動きはその矛盾を解消しようという意思の表れだといえるでしょう。
戦後このかた、現象面はたしかに朝日のいうとおりなのかもしれません。
たとえば、自民党とともに道路などに膨大な資源を投入し続け、世界にも珍しい土建国家を築き上げてしまった公共事業。日本社会が高度成長の青年期から低成長の熟年期に入ってきたのに、道路予算は聖域化され、根本的な方向転換ができない。
社会保障や暮らしの分野への予算配分を増やすべきだという民意は高まっているのに、族議員と国土交通省が待ったをかける。それを押し戻す力が首相にはない。 |
ジェラルド・カーティスと石川真澄のかつての共著が語る土建国家という言葉まで持ち出していますが、それさえも官僚が決定づけたのではないでしょう。
自民党の政策を決定づけてきたのはもう一つの、財界・大企業にほかなりません。戦後の支配構造は、自民党が財界・大企業からの要求を社会的要請として政策に具体化してきたことで構築されてきたと私は思います。ですから、高度成長期はもちろん、その後も低成長期も、そしてたとえば自民党をぶっ壊すといった小泉の「構造改革」の時代も、米国から金融危機が世界に伝播した今日まで、常に自民党政策の中心的存在は、財界・大企業の権益をいかに守るかという点にあった。当ブログが繰り返すように、それは税のとり方、つかわれ方を経年的にみてみればよく理解できるのではないでしょうか。
こうしてみると、朝日の主張は、民主党の政策的強調点とうり二つ。その域を出ていません。
いいかえると、民主党政権が仮にできたとしても、その立脚点が、日米安保を是認し、財界・大企業との関係を清算しない、段階的であれ即時的であれ変区しないというところにあれば、これまでの自民党がすすめてきた政治と大きくはおそらく変わらないというのが私の見立てです。そして、その可能性がそうでない可能性よりはるかに大きい。朝日のいう官僚の存在がどうであろうと。
昨日の読売は、分かりやすくいえば、旧来の自民党政治、自民党の側からの視点でものをみて、結果的に民主党に同じ立場にたてと主張するものでした。一方、同日のこの朝日の主張は、民主党の主張に極力寄り添って、同党のいう「何をかえるか」にふれているのですが、そもそも自民党政治を規定してきた2つの構成にたいしてどんな態度をとるのかを欠いている。まさに画竜点睛を欠くというのでしょうか、もっとも大事なところを放っておいて、他をいかように扱ったとしても、日本政治はかわりようがない、こう私には思えます。
アプローチの仕方がまったく異なるとはいえ、言葉に出してはいないものの、自民党政治の継続が論調の機軸にある。メディアが表現のちがいはあれ、同じ二大政党による政治を推奨する立場の表れを2つの社説、主張にみることができるのではないでしょうか。
(「世相を拾う」09150)
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読売社説- 自民党政治の継承を要求
民主党の公約の話です。
以下の記事にあるように、各方面からの意見が出る。すると、それに順応するのが民主党、こうした構図がどうも定着した感がありますね。
民主、政権公約を修正 日米FTA・成長戦略・分権
これは、一面では、民主党の政権の可能性を多方面が意識していることの反映でもありましょうし、他の角度からみれば、いったいこの党の主体性が存在するのか、こんな疑問もわき出てこざるをえません。さらにいえば、この政党の政策論議の水準が問われる問題でもある。組織的な議論が存在するのか、はたしてあったのかないのか。ない、と誰もが思うような、変更ぶりではありませんか。あったとしても、深められた政策論議など、到底考えられないような状況にある。政調会長は一体誰でしたっけ? 直嶋政行です、ね。さも…。
しかし、こうした事態を招来するのは、結局のところ、この政党の政策的立脚点がどこにあるのか、有権者に示しうるものがあるのかどうか、そこに尽きるでしょう。この辺りの問題を前にふれましたが(参照)、その立脚点にふれずに、選挙戦術として国民よりのアピールを、たとえば07年参院選時のように、生活第一などと唱えて勝利してきたというのが実情でしょう。よくいわれるように小沢の政局主義。これが典型でしょう。
この間の当ブログの主張は、そうした立脚点を隠しつつ、時々の情勢に応じて政策を打ち出すやり方が、この歴史上の特定の一時期、つまり自民党政権の終焉の可能性を誰もが想定するようなときには、もうこれまで同様には採れないということでした。
つまり、国民・有権者の支持は失えない。一方で、政権をとるというのだから、旧来の自民党政権を支えてきた階層の支持を得なければならない。民主党は政権を担当するに足るということを認識してもらわねばならない。これが、民主党につきつけられている今の課題です。
しかも、国民・有権者の支持をとりつけるベクトルと旧来の自民党政権を支えてきた層の支持をとりつけるというベクトルが、小泉構造改革以来の日本社会の亀裂のなかで、誇張すれば正反対の方向を向いているといえる。
結果、民主党は矛盾のなかにあるというわけです。
最近の民主党の政策の手直し・修正はこの表現だと私は思います。
民主党にたいする要求はどんな形で表されるのか。露骨にそれを示しているのが、つぎの読売の本日の社説でしょう。
政権公約選挙 正しい方向なら変更は当然だ(8月8日付・読売社説) 公約を「守る」ことが大切なのは確かだが、金科玉条のごとく「守る」ことだけにこだわれば、現実の政治には不具合が生じよう。 各政党が政策ごとに財源や実施期限を明示した政権公約を掲げて衆院選を実施するのは、2003年以来、3度目となる。これを提言した学者らは、衆院選のたびに過去の公約を点検することが重要だと説いた。 この提言に沿って、与党の05年公約の達成度を検証する集会が先日、開かれた。参加した各団体は「小泉内閣の構造改革路線が、なし崩し的に修正された」と批判した。 だが、4年前の公約通りに実践したかどうかだけを判断基準にするのは危険だ。 |
この社説の主張は堂々と、これまでの自民党政治の継承を要求していることと同じことです。まあ、「小泉改革の『影』の部分が問題化したのは、前回衆院選以降のことだ。経済が急減速したのも、世界同時不況の影響が広がった昨年秋以降である。もし「小泉後」の歴代内閣が、格差拡大を生んだ市場原理主義的な構造改革の弊害を省みず、景気動向を無視して緊縮財政路線を続けていれば、日本の経済は今ごろ大混乱していただろう」などと、他人事みたいに、小泉構造改革のもたらした影響をよくも語れるものです。いったい小泉構造改革推進の旗をふってきたのは誰だったでしょうか。メディアもこぞってといってもいいくらいの礼賛状態にあったのではないか。その反省もなくこうのべると、深刻なジャナーリズムの欠如にふれたくもなります。ただし、二枚舌のような気がしないわけでもありません。「小泉改革の『影』の部分」という表現は、すなわち改革には「光」の部分があると認識しているわけであって、小泉改革にたいする積極的評価を今でも持ち合わせていることを暗に表明していることにほかなりません。
「ただしい方向」というのは、すなわち上にのべた旧来の自民党政権を支えてきた層の方向と推測されますから、有権者・国民の側からみれば、それはまちがった方向ということになるでしょう。
この2つの方向の選択に、民主党は決断を下すべきときがいよいよ迫っている。
そのことを、私は、体が2つに裂けそうと表したのでした。
(「世相を拾う」09149)
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たらい回し報道とメディア
生活保護相談者を「たらい回し」 伊東→熱海→小田原 生活保護を受けようと役所を訪れた相談者に対し、住民票がないことを理由に他の自治体に行くように仕向けたとして、NPO法人自立生活サポートセンター・もやいは28日、静岡県伊東、熱海両市に「生活困窮者のたらい回しをやめて」と書面で抗議した。 …… |
たらい回しという言葉は、メディアが率先して用いて、熟したそれになりました。その場合、私たちの多くが想起するのは患者のたらい回しということでしょう。カッコつきの「たらい回し」ではなく、最近まで純粋な、むきだしのたらい回しとして語られてきました。つまり、この言葉のもつ響きは最初からネガティブなもの。否定すべきものとして、医療機関の、医師の「たらい回し」がマスコミによって忌み嫌うものとして衆人の前にさらされてきたといえます。
結局、記事になれば、あらかじめマスコミは医療機関の、あるいは医師の行為を否定し、断罪すべきものとして扱っている、こう考えてまちがいはありませんでした。
しかし、批判の矢面にさらされてきた医療機関や医師の地道な反論がしだいに知られるようになり、いつのまにかカッコをつけて語らざるをえないところまで、マスコミが押し返されてきた、これが流れでしょう。
そして、現場での患者の受け入れが可能ならざる現実は、何よりも政府の社会保障切り捨て政策に結びつくことが次第に知られるようになって、カッコなしのたらい回しを目にすることはめったになくなり、せいぜいカッコつきの表現か、あるいは医療機関・医師側の主張のように受け入れ不能と記すのが趨勢になったのではないでしょうか。
対する冒頭の記事の場合は、どうでしょう。
記者はこれにカッコをつけています。一般に、単語にカッコをつけて表記するとき、我われはそこに特殊な意味を付加します。たいていは、カッコをつけることで、本来のその語のもつ意味とはまったく反対の意味をもつ場合になどのように。たとえば、税制「改正」と表記した場合、それは税制改悪をほとんど同義だと考えてよいように。意味が反転しているのです。
だとすると、冒頭の記事はどうでしょうか。
記者は、カッコつきで表現している以上、この場合の行政の姿勢を本来のたらい回しとは別物、異なるものだと少なくとも判断したということでしょうか。本人に聞いてみなくては、正直なところはっきりしませんが、あえてカッコをつけて標記していることをみれば、記者はいわゆるたらい回しとは別物を想起しているにちがいない、こう考えざるをえません。
この記者の判断は正しいのでしょうか。
私は、そう思いません。これこそたらい回しと断定してもよいと。
こう思うのです。
たらい回しとは、近づいてくる人、モノを拒絶し、排除すること。こう解釈すれば、記事が伝えるのはそれ以外の何者でもない。何かを求めて近づいてくる人に寄り添うのではなく、有無をいわさず否定する、コミットしないというあからさまな意思表示を示したところに、いくつかの行政の姿勢の共通点がある。
けれども、自治体、すなわち行政のとる姿勢というものは、地方自治法に示されている一つひとつに準拠しないといけないのでしょうから、そうすると、自治体は、本来、住民の健康と安全を守るべき存在、こう考えてよい。だとすると、この記事のような行政の態度は、本来の自治体のとるべき行動とは乖離していたと判断せざるをえません。
私たちは、たとえば生活保護に関して水際で受給申請を排除するような厚労省の指示が通達という形で徹底されてきた事実を知っています。すなわち、自治体は、先にのべたように、本来の自治体のとるべき指針が地方自治法に明記されているとすれば、それとは相反するような厚労省通知にこそ従順であったといわなければなりません。
結局、この記事が表現する「たらい回し」の事実は、厚労省の社会保障削減と密接に結合していて、その方向は、現場でカッコつきでない、真のたらい回しという行為で弱者を、(弱者の)希望するものから遠ざけ、排除するものにほかならないといえそうです。
こう考えると、マスメディアの仕事に、連続性、一貫性というものがあると考えられるのしょうか。
つまり、医師の(患者)受け入れ不能についても、この記事のように役所、いいかえると行政の困窮者排除も、同じたらい回しという言葉でくくって表現する。しかも、患者受け入れ不能も、この弱者の窓口からの排除も、根底には社会保障切り捨てが密接に絡んでいるという点で共通するにもかかわらず、片方にはカッコ抜きで正真正銘のたらい回しと表現し、一方ではまさに本来のたらい回しにもかかわらずカッコつきで表現するという矛盾はどう解消されるべきなのでしょうか。
メディアに求められているのは、いくつかの事象に通底する本質を明らかにし、それを読者に提示し、評価、判断を促すことにあると私は考えるのですが。
我われ自身の情報(の多く)が、極度にマスメディアから発信されるものによらざるをえないという、ある意味で決定的な陥穽をはらまざるをえません。
だから、このようにえてしてメディアとは、連続性、一貫性において不安定な存在でもあるということを知っておいて損ではありません。
(「世相を拾う」09026)
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国民無視でも増税をというに等しい朝日社説
税制改正関連法の付則に消費税増税を明記することは、法案がとおれば増税を基本方向として確認するということにほかなりません(昨日エントリー)。手続き上、国民に是非を問わないこうしたやり方をまず問わなければならないでしょう。そのまま認めてしまえば、民主主義も何もあったものではありません。
社説は、明記自体の問題に一切ふれていません。むしろ、明記することは当然のこととして、自民党内の意見が分かれていようと、決意を示せと、増税推進の立場を鮮明にしているのです。
いうまでもなく、自民党はこれまで、消費税増税を国民に問うたことはありません。そうではなく、選挙の際には増税しないとのべ、争点にもせず、(消費税関連)法案を多数を借りて強行してきた、これが事実でしょう。こうした消費税導入とその後の税率改定の一連の経過を考えるならば、今回の明記方針が、国民の審判を仰がないという意味で、その繰り返しというばかりでなく、付則に増税方向を盛り込むという手続き自体、国民の意見をいわば無視するものといってもよいでしょう。付則は拘束力をもつのです。
消費税増税が不可避だと朝日新聞はいいます。
不況から脱出した暁には、福祉を安定させるために、その費用を国民が増税で広く負担することは避けて通れない |
この朝日の認識の是非はひとまず横に置くとしても、不可避か否か、国民の間で意見が分かれるところでしょう。不可避とは、歳入歳出を徹底して見直した結果でなければ、いえるものではないでしょう。第一、税のとり方と税の配分で、選択肢がないならば、その中身を提示し、消費税増税の審判を仰ぐものでしょう。不可避を朝日が決めるわけではありません。もちろん消費税増税を是とするか否とするか、朝日はどちらか一つの立場をとりうるし、とるでしょう。けれど、政治が国民の審判を仰がないで、国民の間の議論を経ずに、増税を強行しようとすれば、その不正を政治に問うのがその際も、ジャーナリズムではないでしょうか。
私たちは、朝日新聞の綱領を知っています。
その綱領には、第一項、同二項にこう謳っています。
不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
正義人道に基いて国民の幸福に検診し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。 |
実際の朝日の言論は、この社説の主張をみるかぎり、綱領との乖離を思わざるをえません。すでに、このエントリーで朝日が明確に消費税増税の旗幟を鮮明にしたことをのべました。
朝日は、そこから飛躍して、今度は国民無視でも増税のスタートに自公政権も立たせようとしている、こう表現できるのではないでしょうか。
この姿勢の背景には、やはり消費税増税が今日の自民党政治を支える財界・大企業の要求であって、その財界・大企業にモノがいえないような非対称の関係が形づくられているからです。
その意味で朝日は、ジャーナリズム精神をどこかに置き忘れてしまったのです。
(「世相を拾う」09015)
朝日新聞「資本主義はどこにいく」の語りかけるもの
もし今、この二人が生きていたら。大恐慌下の73年前、その後の経済学を変える「一般理論」を書いた経済学者のケインズと、同じく恐慌を経験し「マネジメントを発明した男」と呼ばれる経営思想家のドラッカー。経済政策に企業経営に、どのような分析と提言をするのだろうか。詳しい2人に聞いた。 資本主義に基づく経済や社会はどう変化するのか。シリーズで考える。 |
こんなリードではじまる。
この企画もまた、表題に端的に尽くされているように、「大不況」の打開の方向をいまだ明確に示しえず、グリーンスパンに借りるなら「100年に一度」の経験なのだから、あたかも拱手傍観し、ただ事態を見守るばかりであるかのような今日の資本主義を問い直す作業の一つであることは論をまたない。だから資本主義は、果たしてどこにいくのか、いきつくのだろうかということだ。
シリーズとある。初回は、ケインズとドラッカー。
一般的になぞってみれば、新自由主義の破綻が明確になったといわれるくらいだから、それならばケインジアンの登場、こう推測できるはずで、伊東光晴氏の登場である。
まちがってならないのは、ケインズとドラッカーが今日を事態を、どう分析し、打開策を提起するのか、ということではない。むろん2人は過去の人だから、そんなことはできないし、2人を知悉する人物が、2人になりかわり、それをいわば代弁するという格好だ。
伊東氏も、ドラッカーを語る上田惇生氏も、重要な論点を提示している。
まずケインズの伊東氏。
-では、ケインズはどんな失業対策を論じますか。 規制緩和がこんな事態を生んだと考えるでしょう。『派遣切り』された人や失業者に対し、生活保護に相当する額、例えば月12万円程度を渡したらどうですか。100万人で年に計約1兆5千億円。ばらまきの定額給付金をやめれば実現できます。月10万円の派遣労働なんかに行くな、と。そうして派遣をやめさせていきます。 |
上田氏。こうドラッカーを代弁している。
-もし、日本企業のトップから「ドラッカーさん、あなたの言うことはわかる。しかしこのままでは会社が立ちゆかない。それでも非正規労働者を抱えろというのですか」と問われたら? 寮から出さなければ今すぐ会社がつぶれてしまうほどなのですか、内部留保もないのですか、かつて日本企業の多くは再就職の世話をしていましたね。そう彼は答えるでしょう。……。 |
つまり、伊東氏も、上田氏も、先達2人ならこ考えるだろうということを、上のとおり語っているわけだ。
伊東氏が先の引用で語るのは、政府の派遣切りに対する実践的な支援政策の方向だし、上田氏は、企業にたいして内部留保を吐き出すことによって労働者の生活を重視する姿勢を強調しているのだ。伊東氏のコメントは、先の引用のあとで、不況時の社会保障政策の拡充に及んでいる。
伊東氏が主に、政府のなすべきこと、上田氏は企業のそれに言及しているのは企画をふまえれば想定できることだが、ケインズと、ドラッカーならばこう語るということを解説する二氏の話を今、総合することが重要だろう。
つまり、政府は、思い切って国民政策重視の財政政策をとれということ、そして企業は、貯め込んだ内部留保、つまり労働者の労働の結晶ともいえるものの一部を今こそ吐き出すことで、その責任を果たせというのは、この時期に多数が一致できる打開のための第一歩といえるのではなかろうか。
ケインジアンも、ドラッカー信奉者も、上田氏が語るように「社会を壊すようなことはするな、重要なのは人であり社会なのだから」という一点では一致しうるのだろうから。逆に、この一点を、もっとも粗末にしたといえるのが新自由主義だろうからである。現時点で、この点での一致は要となるものではないか。
特集のテーマが「資本主義はどこへ」にあるのなら、それにふさわしい、もっとも重要な人物の一人であるマルクスを欠いてはこの特集は画竜点睛を欠く。以後を期待したい。
マルクスならば、はたしてどう語るだろうか。
(「世相を拾う」09009)
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朝日見解にたいする疑問- 「対決」を強調しても。。
通常国会が5日に開会しました。たしかに冒頭から、民主党は第2次補正予算をめぐって対決の姿勢ですが、少しも自民、民主の対決の姿が私には浮かびません。つまるところ、定額給付金をはずすかはずさないか、それをめぐって両党がつっぱりあっているにすぎないのではないでしょうか。
星さんと私がよぶのは、朝日新聞編集委員の星浩氏。そう、日曜日の田原総一朗の「サンデープロジェクト」にコメンテーターとして登場している人物です。
少し、その星さんのいうところを引用してみましょう。
自民、民主両党が政権を争う事実上、初めての総選挙。基本的には勝った方が政権に就き、首相を取り、政策を実現する。まさに天下分け目の戦いだ。政治家同士の真剣勝負を期待しよう |
ということなのですが、ほとんど有権者の意識と乖離していると私は思います。
たしかに今回の選挙にあたって、自民党はダメだと思う人が多いのは事実。世論調査でそのことははっきりしています。同時に、この種の調査が示しているのは、自民党に代わりうる政党として民主党なのかといえばそうではなく、ある意味で(有権者は)消極的選択に甘んじているというところでしょう。
私にいわせれば、消極的選択であるにせよ民主党に落ち着くようにセットされているという意味で、二大政党制を志向してきた支配層の思惑は保持されている、このことが重大ではないかとも思えるのですが、しかし、当初の二大政党制のねらいは、今日にいたって、事実上やや修正を迫られているようにも思える。事実をあげてみれば、昨年の参院選後の、福田・小沢の大連立密室協議は、少なくとも自民・民主で政権を維持し続けるという意味での二大政党制の本来の目的を根底から崩すものであったはずです。そして、今日。自民党の次期選挙での退潮を誰もが否定しない状況の下で、自民、あるいは民主党の周辺で何が起こっていて、私たち有権者の前に示されているのでしょうか。
どんな形で結実するのか、それを今の段階で予測するのは並大抵ではありませんが、少なくとも、従来の自民党と民主党の枠組みを超えたところで、新しい政党の姿というものを模索し議論せざるをえないところに、自民党は、そして民主党もまた追い込まれている、これが率直な感想です。
つまり、二大政党は変容を迫られているということでしょう。
もっと以前に遡ってもいえることなのですが、ごく最近でいえば、舛添氏が製造業での派遣を否定するかのような、あるいは企業の内部留保の活用に言及するような河村官房長官の発言は、「自民党は、そして民主党も追い込まれている」と私がのべたこととけっして無関係でないように思えるのです。もはや自民、民主を区別する意味すらない、事態はこのような地点まで進んでいるというのが私の見立てです。両党の境界は、事実上溶解して区別がつかないといえる。
たとえば、河村氏の発言が仮に本音だとすると、民主党はこれにどう応えられるか。答えは、ノーです。民主党の立場では、内部留保を取り崩せとはいえない。そんな方針すらもっていないのですから。すなわちこれは、これまでの自民党の立場と同じものです。発言が逆に本音から出たものでないとしても、民主党はおそらくこれに反論すらしないでしょう。
こういうふうに考えた上で星氏の文章に戻れば、星氏のいうところはまるで絵空事に思えます。まったくの虚構の対決だといいきってもよい。
そんな架空の対決を強調するより、今は、まさに日々、深刻化している景気悪化にたいする具体的な対応、そこに政治が手を差し伸べなければならないのでしょう。たとえば、それは、解雇拡大をこれ以上、広げないことで全党が一致することではないか。それに反対する政党があれば、その政党に総選挙で明確に審判を下す。これこそ、星氏がいう私たちが「試されている」ことではないでしょうか。
(「世相を拾う」09005)
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新自由主義からの決別を語れない「朝日」社説
混迷の中で考える―人間主役に大きな絵を
しかし、「たくましい政治」とはきわめてあいまいで、いまの政治からどう転換を図るのか、まったく定かではない。結局、今の政治のゆがみを隠し、それに言及していないでおこうとする意図がそんな表現を強いるのだ。
繰り返し、当ブログは今の自民党政治の本質を、大企業優遇と米国追随だとのべてきた。これをたださないと、新自由主義から反転させることはできない。今の国会のなかの政党にも、そしてマスメディアの多くにも欠如しているのはこの点である。それは、すなわちこれまでの自民党政治の枠組みにとどまることを意味している。
もう一昨年のことになったが、サブプライムローンを引き金にしたバブルがはじけ、金融危機が昨年、世界中を覆い尽くし、たとえば解雇の横行にみられるような、日本では誰もが知る事態に至った。ここ2年ばかりの世界で引き起こされた事象が、ものの見事に、経済のグローバル化と新自由主義がもたらすものを示した。まさに劇的に。
新自由主義からの決別を多くの論者がいう。ブログ上でも。
ハーヴェイのいうように、それを下支えする運動があるのが新自由主義で、とくに小泉構造改革以後の日本はそれに覆われた。勝ち組、負け組の言葉が一世を風靡したように。自己責任がいたるところで強調されたように。
別の角度からみると、資本の論理の強調だった。戦後、高度成長とも結合した企業内で自己完結する企業社会と、新自由主義はうまく結合した。企業内の競争と正規・非正規の差別を徹底しようとする企業の思惑に、長年の企業社会を活用することはそれほどむつかしくはなかった。
そして、この企業社会の中で醸成された意識は、いまでも日本の底流に潜んでいるのではないか。
いままさに、非正規を切り捨てることで、資本蓄積の構造を維持しようとする企業の論理を問うことが、政治に求められている。自民党よ、民主党、社民党よ、いま大企業に解雇撤回をせまるべきではないのか。解雇されたものの具体的な支援を、政府と大企業に求め、実行に移させることではないか。
単なる一つの問題だが、各政党がこれまでの自民党政治からの転換を図ろうとしているのか否か、これが問われる試金石になる問題だと考える。
朝日の社説は、このような見方からすると、まったく体制内にとどまった主張だといえる。その意味であいまいなのだ。
メディアは、繰り返すと、大企業に牛耳られている。それを端的に示したのが、昨年の奥田発言、マスコミへの脅しだった。
つまり、事態は、日本の政治のゆがみを生み出す大本を照らし出す位置にいまあるということだ。新自由主義という路線は、財界・大企業優遇と米国追従にいかに日本政治が侵されているのか、それを私たちの眼前に示したのだ。
2009年は、だから支配層にとっては一つの困難に直面しているわけであって、総選挙では、国民が横暴・勝手を管理しうる政治を手にするための第一歩にしないといけない。新自由主義に賛成する政党は選ばないことだ。
国民にとって、ふさわしい政治とは新自由主義と真に決別した、財界・大企業優遇と米国追従のゆがみをただせる政治を意味している。
朝日は、新自由主義からの決別を語れない。
だから、朝日の社説はつまらないのである。
(「世相を拾う」09002)
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読売、解雇労働者の「生活保護」受給に水
当時と異なるのは、経済のグロバール化と新自由主義的な展開のなかで、企業が国内の消費より海外を重視した結果、一転、不況の深刻化のなかで解雇がうちだされていることです。一方で、当時も、今も変わらないのは、企業というものが常に労働者を使い捨て、犠牲を押し付けようとしている姿です。
そうであるからこそ、労働者にとってはまったく身に覚えもない理由で首を切られ、職につくことも、住まいも奪われ、結局、生活を奪われることになるわけですから、彼らこそは社会的に保護されなければならないと思うのです。
こうした私の考えが間違いであるかのような印象を与える記事に遭遇しました。読売新聞の本日30日付の記事です。
生活保護不正受給、過去最高の91億超…読売調査
記事が紹介する同社の調査は、はたしてどんな意図をもって実施されたのでしょうか。そこに私は疑問をもちます。
読売が扱うのは生活保護の受給について。社会的に保護されなければならないと考える私は、生活保護を今の時期こそ発動しなければならないと思う。
記事は、なるほど、昨今の情勢からみて生活保護が増えるだろうと見通してはいるのですが、その関心は、しばしば扱われる不正受給でした。結局、文脈からすると、この不正受給が生活保護の拡大を妨げる要因になる、こう指摘しているに等しいものです。不正受給の実態があろうとなかろうと、生活する術を断たれた解雇者について、セーフティネットが機能しなければなりません。
この点でまず、記事の着眼そのものに強い疑念をもたざるをえません。
ところで、生活保護費は、厚労省調べによる限りつぎのようです(参照)。厚労省データをもとに表を作成しました。
世帯あたりの保護費を算出すると、表の4年間に徐々に世帯あたりの金額は低下しています。
読売調査によれば不正総額は、総額91億5813万円、件数(07年度)は1万5993件。ですから、不正の発生率は1.4%、額は、直近の数字が得られないために03年度総額で置き換えて算出した場合でも全体の0.4%にすぎません。
確実に私たちが知らされているのは、今回の解雇・雇い止めが8万5000人に及ぶだろうという予測が今あること。彼らの全員が再就職が不可能であるかどうかにかかわらず、少なくない労働者が生活の道をたたれるだろうということは容易に想定される。不正の発生をはるかに上回る生活保護を受給してしかるべき人びとがそこにいるということなのです。
今、必要なことは、彼らを路頭に迷わせることがないようにすることです。すぐにでも公的な支援策を実行に移すことです。もちろん解雇しようとする大企業に撤回を求め、責任を果たさせる課題が重要であることは論をまちません。
読売のように今の時期に不正を問題視することが、労働者支援にどれほどの意味をもつのか。むしろ記事は、視点をそこにずらす役割を果たしているのではないでしょうか。
今回のデータが厚労省発表のものではなく、読売独自の調査にもとづくものであればこそ、その意図はより明確ではないか。
「今後、生活保護の申請増に比例して、不正受給も増えるのではないか」と自治体の担当者は語らせるあたり、いわば確信犯ともいえ、メディアがノイズの役割を果たす典型のようなものといえるでしょう。
(「世相を拾う」08276)
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トヨタがにらむと、こんな記事になる。。。
いまの日本のマスメディアが、広告宣伝費にその経営を支えられていること、したがって、その事実があることから依頼主の大企業に頭があがらぬことにふれました。
以下は、その結果、新聞社がどのような記事をつくるのか、そのことを明瞭に示す一例だと私は思います。
こんな記事の存在を、ぬるまゆにつかってすごす日々のこんたさんからのコメントではじめて知りました。
重大なことだと思います。その記事は以下。
大阪ひき逃げ 押収車は黒のワゴンタイプ 20代従業員の所在不明
大阪市北区梅田の交差点で堺市東区の会社員、鈴木源太郎さん(30)が車にはねられ、約3キロ引きずられて死亡したひき逃げ事件で、曽根崎署捜査本部が大阪市此花区内が発見、押収したのは黒いワゴンタイプの車だったことが4日、わかった。 捜査本部は、これまでの調べや目撃証言などから、鈴木さんの遺体が見つかった福島区吉野を起点に、逃走方向とみられる同区や此花区で「黒いワゴン車」を1台ずつ調べる「車あたり」を実施。今月1日、建築会社が借りている此花区内の駐車場で不審な車が止めてあるのを発見した。 これまでの調べで、犯行車両の可能性のある黒いワゴン車が、遺体発見現場から南西の此花区内の複数の防犯ビデオに写っていたことがわかっている。今回押収された車両は、当初言われていた「ホンダ・オデッセイ」とはメーカーが異なるが、よく似たタイプだという。 |
一読いただいた読者のみなさんは、どうお感じになるのでしょうか。
記事が扱っている事件は、大阪で起きたひき逃げ事件で、犯人は数キロにわたって被害者を引きずったとされるものでした。事件の鍵は、証言により黒いワゴン車ということが明らかになっており、当然、車種が何かがその一つであったことも自明でした。
記事は、すでに当該の車両が押収された以後のものなのですが、記者は車種に関して上記のような表現をしているのです。かえって、異様な記事だと思いませんか。この表現が私たちに違和感をむしろ与えないでしょうか。もやもやしたものを、読んだあとで感じないでしょうか。
あえて、点線をほどこしましたが、その部分に着目してもらいたい。
記者が意識していようがいまいが、表現から読み取れるのは二つのことです。
一つは、いうまでもなく特定自動車メーカーと車種をあえてあげていること。しかも、なぜそのメーカーが特定されなければならないのか、はっきりしません。
二つ目は、よりこちらのほうが重大なのですが、先の特定されたメーカーとは「異なるメーカー」を特定せず、あいまいな表現にとどめているということです。
根拠もなく特定のメーカーの車種をあげておきながら、犯行に使用されたメーカーと車種を明らかにしないという落差、記者のこの態度に、メーカーの圧力を感じてしまうのです。
重ねていえば、こんたさんは、その種明かしをして、幣ブログへのコメントでこう表現しています。
イプサムが、 「ホンダ・オデッセイ」とはメーカーが異なるが、よく似たタイプだという。 という表現になります |
すでに、メディアはペンを折っているのではないか。ペンは剣より強し、という言葉がありましたが、いまやその逆です。剣が強いのです。この場合、明確に剣とは大企業(の圧力)と指摘せざるをえません。
幣ブログはこうしたモノがいえない背景に経営的に広告収入に依存している実態に言及してきました。新聞協会の決算報告からもその実態の一端を垣間見ることができるように思えます(参照)。
思うのは、メディアがこのように経営的に財界・大企業に支配させているように、政治の世界でも同様の事態が進行していることも深刻です。つまり、日本の政治の世界では、財界・大企業からの企業献金という形で支援を受けていると、たちまちモノがいえなくなる病気に罹ってしまうということです。
その証拠に、キヤノンの派遣、トヨタの派遣使いまわしを共産党が追及し、現実に改善させているのですが、それとは比較にならないほどの議席をもつ民主党は、大企業の横暴をストップさせるのにどれほどの力を発揮しているのでしょうか。寡聞にして民主党が動かした事実を私は知りません。そこに、メディアと同様の、対大企業・財界の関係をみてしまうのです。やはりモノがいえない関係なのでしょうか。
(「世相を拾う」08236)
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貧困ビジネス 関連エントリー
貧困ビジネスというものがメディアでとりあげられています。古いものでは、消費者金融などを指すのでしょうが、それにもちろんとどまりません。
いまの日本では、構造改革の名によって、これまで日本を支えてきたといわれる柱を切り捨ててきました。すなわち、企業社会、利益誘導型政治、社会保障制度です(参照)。この結果、それまで必ずしも表に出てこなかった貧困が露になって、いまや日本を覆っています。
それを商売にするものがいるのが資本主義。
もっとも、日本国政府はいま、消費税増税の同意を得ようと度々、それに言及しています。しかし、貧しいものをより貧しくし、回収した税金で大企業を優遇する。これを国のしくみとしていること自体が貧困ビジネスではないか。
以下に貧困ビジネスにふれたエントリーをまとめました。
消費税増税が国家的貧困ビジネスだという意味
おめでたい言説「貧困ビジネスで稼ぐ連中!」
無保険の子ども、高齢者置き去り。関係の外部化
貧しい者はさらに貧しく- 消費税の累進性
一部が苦しむ不平等か、全部が苦しむ平等かという問い。。
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「朝日」の欺瞞 -どこに対立軸があるのか。
まるで斥力でもって物を両極に反発させるかのように、今日の日本では、富と貧困が広がってしまった。この要因は、資本による労働環境の転換、たとえば典型から非典型への置き換え、派遣労働の強化と、国家的、制度的な所得再分配の見直しにあるといってよい。
庶民は、ようするにこの構図のなかで収奪のえじきにされてきたのだ。
こんな貧困と格差を強いてきた日本の社会に反対するのなら、その大元を絶て、というのが当ブログの主張にほかならない。
分かりやすくいえば、資本、財界・大企業はどんな事態においても、その時々で最大の利益確保を追及するという習性なのだから、経済のグローバル化が叫ばれる時代にあっても、国際競争力を強化しなければならないといううたい文句でもって、労働者に犠牲転嫁し、自らの負担を極小化する手段をこうじて、つまり税と社会保障費用の負担などを極力少なくするという圧力を政府にかけ、目的を達成してきたといえるのではないか。
富は、したがって財界・大企業を一つの極にして集中し、一方の労働者のほとんどは、所得分布を仮に一つの線分に表そうとしたら、その差異がほとんど意味をもたないほどのその大勢という区分のなかに押し込められ、くくられてしまったといえるだろう。その結果、年収200万円に満たない人が1000万人を超えるという事象をもはらむ今日の日本社会という時点にわれわれは立っている。
こう考えると、今日の貧困と富の広がりを是正しなければならないという人ならば、まずこの広がりを生んできた要因を断つことが必要だと考えるのが充当というものだろうに。
けれど、日本社会の言論界はそう単純ではない。たとえば新聞。
あえていうが、社会の公器という名で、その存在を知らしめてきたであろうマスメディア、なかでも新聞の今日は、私からすればかつてない惨状にあるとさえ思える。その要因だと考えるのは、新聞経営の多くを広告収入に依存する現状にある。新聞は、経済的にすでに財界・大企業に抑えられ、支配されていると考えてよい。読売ならずとも。
ここ10年前後の、資本による労働環境の転換、たとえば典型から非典型への置き換え、派遣労働の強化と、国家的、制度的な所得再分配の見直し仁象徴されるような新自由主義的諸施策の深化は、二大政党政治という政治的枠組みと軌を一にしている。つまり、1994年以来の小選挙区制の確立とともに事実上、自民、民主の二大政党政治が維持されてきたといってよい。税制上は、消費税導入が1988年であって、ほぼ同時期であることに注目する必要がある。
元に戻る。メディアの惨状に言及したが、総選挙にむけて自民、民主の鞘当が目にし、耳にするところ激しさを増しているようだけれど、「朝日」はこれを煽っている。たとえば、以下の社説。
率直にいえば、朝日の目は確かかと思わざるを得ない。
たしかに麻生と小沢の施政方針演説と代表質問は、ポレミカルといえばそうだったが、論点が切り結んでいたのか、はなはだ疑問ではないか。二つの演説に、争点が明確にあるという人がいれば、それを示してほしいものだ。非難の応酬ではあったが、では両者にちがいがあったかといえば、そうではない。財源を問題にしても、このエントリーの論脈からすると税は大企業・財界からとれという明確な主張であってよいと考えるのだけれど、そこは両者とも外している。つまり、聖域にしているという点で両者は同じだ。そこにこそ、今日の貧困、格差を生じせしめる一因があるというのに。
たとえば、派遣横行社会ともいえるほど、今日の日本では派遣という名のルールなき労働環境がはびこっている。今日の事態は1999年の労働者派遣法の改悪にあったわけで、自民党ばかりか民主党も賛成してきた経過がある。派遣の横行する今日をつくりあげた責任の一旦を民主党を負わねばならないのだ。
あれだけ労働者の告発がつづき国会でも追及された、経団連・御手洗氏のキヤノンの横暴を、ついに民主党は追及できなかった。
政権に近づこうとすればするほど、言行不一致が目立つようになるというのが、民主党の「政権交代」のはらむ矛盾ではないか。
「朝日」社説は、今日の貧困、格差の広がりを断つにはそれを生んできた要因、つまり財界・大企業の横暴とそれを支える社会的しくみをただすことに目をむけるのではなく、そこから国民の目をそらし、あたかも生死をかけた争いがそこにあるかのように二大政党の言動をもちあげてみせうものにほかならない。
どこに対立があるのか。財界・大企業の優遇税制に一言もふれないところに争点があるのか。消費税増税は、貧困と格差をさらに広めることにならないのか、こんな大事な点を抜きにした対立などがはたしてあるのか。
景気対策も、「無駄ゼロ、地方分権、公務員制度改革、道路特定財源の一般財源化」などと叫んでも、今日の日本社会のゆがみをもたらしている「最大の聖域」にふれることさえしないという欺瞞に、「朝日」は浸りきっているというほかない。
(「世相を拾う」08197)
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