森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
花・髪切と思考の
浮游空間
カレンダー
2008年8月 | ||||||||
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | ||
1 | 2 | |||||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | ||
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | ||
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | ||
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | ||
31 | ||||||||
|
goo ブログ
最新の投稿
8月6日(土)のつぶやき |
8月5日(金)のつぶやき |
6月4日(土)のつぶやき |
4月10日(日)のつぶやき |
2月10日(水)のつぶやき |
11月12日(木)のつぶやき |
10月26日(月)のつぶやき |
10月25日(日)のつぶやき |
10月18日(日)のつぶやき |
10月17日(土)のつぶやき |
カテゴリ
tweet(762) |
太田光(7) |
加藤周一のこと(15) |
社会とメディア(210) |
◆橋下なるもの(77) |
◆消費税/税の使い途(71) |
二大政党と政党再編(31) |
日米関係と平和(169) |
◆世相を拾う(70) |
片言集または花(67) |
本棚(53) |
鳩山・菅時代(110) |
麻生・福田・安倍時代(725) |
福岡五輪幻想(45) |
医療(36) |
スポーツ(10) |
カミキリムシ/浮游空間日記(77) |
最新のコメント
Unknown/自殺つづくイラク帰還自衛隊員 |
これお・ぷてら/7月27日(土)のつぶやき |
亀仙人/亀田戦、抗議電話・メールなど4万件突破 |
inflatables/生活保護引き下げ発言にみる欺瞞 |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
これお・ぷてら/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/国民の負担率は低いというけれど。 |
THAWK/10月2日(火)のつぶやき |
THAWK/[橋下市政]健康を奪い財政悪化招く敬老パス有料化 |
最新のトラックバック
ブックマーク
■ dr.stoneflyの戯れ言 |
■ machineryの日々 |
■ えちごっぺのヘタレ日記 |
■ すくらむ |
■ 代替案 |
■ 非国民通信 |
■ coleoの日記;浮游空間 |
■ bookmarks@coleo |
■ 浮游空間日記 |
過去の記事
検索
URLをメールで送信する | |
(for PC & MOBILE) |
無保険の子ども、高齢者置き去り。関係の外部化
今の日本では、本来、守られるべき立場にある人びとを、あたかもそんな前提などないかのように扱う事態が頻繁にみられるようになりました。
まずこれ。本文全文を引用します。
無保険:子どもが20都市で約7300人 親の国保滞納で 国民健康保険(国保)の保険料を滞納して保険給付を差し止められ、医療費の全額自己負担が必要になった世帯の子ども(中学生以下)が、都道府県庁所在地と政令市計51都市中20都市で7333人以上に及ぶことが、毎日新聞の全国調査で分かった。「無保険」の子どもの人数が、全国的に把握されたのは初めて。子どもの診療抑制につながっている可能性が高く、保護者と同等に国や自治体も子どもの育成責任を負うとした児童福祉法の観点から見直しの声も上がりそうだ。 東京都区部を含む都道府県庁所在地と政令市で07~08年、給付差し止めで保険証の返還を求められ、代わりに資格証明書の交付を受けた世帯に義務教育年齢以下の子どもが何人いるかをたずねた。 人数を把握できたのは、横浜3692人▽千葉838人▽大阪748人▽和歌山407人▽大分379人--など20都市。無保険の子どもは「いない」と回答したのは山形、大津など5市。18市が「子どもは含まれるが統計がない」、8市が「不明」と回答しており、実際の人数は51都市で判明分の数倍に上る可能性がある。 7333人のうち年齢別の内訳が不明の岐阜市を除き、小学校入学前の乳幼児が少なくとも599人いることも分かった。ほとんどの自治体で子育て支援のため、乳幼児医療費の助成制度を実施しているが、無保険ではこれも対象外となっているとみられる。 政府は滞納対策の一環として00年度から、1年以上滞納した世帯に対し、保険証を返還させて給付を差し止め、資格証明書を交付するよう義務付けた。国会では民主党や共産党が制度の見直しを求めているが、厚生労働省は「ルールに基づき自治体が独自に判断するもの」と慎重姿勢を崩していない。 |
当ブログでも再三、取り上げている国民健康保険の保険料にからむ問題です。
記事なかにあるように政府厚労省は、自治体にその責任を転嫁する態度にでちますが、(保険料の)収納率を高めないと補助金をカットするようなしくみを採っているのは、厚労省自身ですから何をかいわんやということでしょう。
末尾に芝田氏の要を得たコメントがあって、「国保は保険料が高い一方で所得が低い世帯が多く、滞納者が必ずしも悪質とはいえない」と氏は指摘しています。しばしば一部の不心得をとらえて、全体の姿であると国民に刷り込ませるのが政府。年間50万円にもなる保険料を年収300万円以下の、生保水準以下の標準世帯にとってこれが重荷でないはずはありません。
この記事の児童数7333人という数字に絶対的意味はありません。「無保険の子ども」の実態は、記事がいうようにこれ「以上」であって、滞納世帯の数からいえばこれをはるかに超えるのではないかと思えるくらいです。
子どもたちにとっては、厚労省、自治体と被保険者(親)の事実上の保険はずしという非対称的な関係を強制的に引き受けざるを得ないという事実です。
別の言葉でいえば、子どもたちはその関係の埒外に置かれているのですから、厚労省は関係を外部化しているということにほかなりません。
この関係の外部化はつぎの記事にみられます。弱者がこんな結論を押し付けられるという典型をみる思いです。これも「毎日新聞」から。
ニッポン密着:無届け老人ホーム ずさん経営「夜逃げ」 高齢者置き去り ワールド社は04年4月、市内で病院を経営する院長(51)が、訪問介護などの居宅サービスを目的とする「メディカルサービス法人」として設立した。当初、別の場所に木造平屋の「宅老所」を開き、病院の患者で身寄りのない人たちを住まわせたが、老人福祉法改正で、有料老人ホームの届け出が必要になったため、旧ビジネスホテルを利用することにした。 |
と書かれていますので、医師としての必要に迫られた判断だったのかもしれません。ただ、記事な社員にこう語らせていますから、開設者の出発点での魂胆がほかにもあることを暗示しています。
1カ所に抱え込めば介護報酬も医療費も稼げるから、一石二鳥 |
けれど、そんな思惑もうまくは続かない。放漫経営も重なってか、にっちもさっちもいかなくなったようです。
結果、経営の放り出し。
ここまでくれば、結論は誰にでも分かります。矛盾を一手に引き受けるのは、入所者である高齢者です。
この経営は、記事が後段で指摘する背後関係があるようですし、まさに門倉貴史氏がいう意味での「貧困ビジネス」として存在してきたということでしょう(参照)。
介護報酬や医療費というものを媒介にした政府と開設者の経済的関係が、入居者に外部化されたといえるのではないでしょうか。
自らかかわらない関係を最後に引き受けなければならないのは弱者という日本国の現状。本来、その人びとを守るべき社会保障という制度が、現場ではこんな形にゆがんで、いびつになっている姿でよいわけはもちろんありません。
(「世相を拾う」08163)
■こちらもお願い⇒
おめでたい日本国- 姫井議員の翻意会見
パンダの赤ちゃん死ぬ 神戸・王子動物園 |
生命が絶たれるのをあざ笑う気は毛頭ありませんが、一頭のパンダの赤ちゃんの死が記事になる日本国というのはどうなんでしょうか。
日本という国は、よほどジャイアントパンダと因縁があるのでしょう。それとも極端な思い入れがあるのでしょうか。
しかし、これとて不思議な気がします。上野動物園にカンカンとランランが来て以来、日本国とジャイアントパンダの関係は、ある意味で異様な経過をたどったのかもしれません。あの愛くるしい姿と動作は、何人の心をもとらえ、日々の生活のわずらわしさから解放させてくれるだろうという絶大な期待を寄せられ、それにこたえる力を発揮してきたのでしょうか。
カンカン、ランラン来日当時の日中関係はむしろパンダを仲介に成り立っていたと大げさにいえばいえないこともない。以来、パンダは、息苦しさ、うっとうしさ、日々のわずらわしさを忘れさせる希少種として、我われの間に存在してきたのです。
以上の歴史的な経過を記事は引きずっているのでしょう。しかし、裏返しにしてみれば、記事の滑稽さもまた自明です。一人の市井の人間が息絶えたとしても、それ自体は、それだけでは記事になることはないでしょう。事件性がそこになければ。
だから、それくらいパンダのもつニュース性が依然高いということでしょうね。
こんな日本ですから、たとえば次の他愛のない事象が記事になる。
件の姫井参議院議員です。
姫井由美子参院議員、民主離党を撤回 |
昨年の参院選以来、参院で自民党、公明党が少数に転落してからは、政権のかじとりに困難が生じています。これは、参院での与野党の議席配置の逆転という表面上の「劇的な変化」に要因があるととらえるとまちがうのでは。それは、自民党ではもうダメだという国民の意識の上での重要な変化がもたらしたものでしょうが。けれど、一方で、そうした変化を期待する国民の意思は、自民党ではなくて、それならば民主党に全幅の信頼をよせて政治の変化を感じたいという、単純な図式で表現されるものでもないように思えます。
そのへんを巧みに嗅ぎ取るのは、さすがに長年政権についてきた自民党の老獪さが反映しているのでしょう、伝えられる民主党参院議員の「一抜けた」現象の背景には、陰に陽に採られた自民党側からの働きかけを誰もが推測できるはずです。
つまり、姫井氏にかぎっていえば働きかけを受けただろう一人に姫井氏がいたというだけの話です。たかだかこんな構図であって、伝えられる新しい会派が結成されたとしても、日本国の政治に与える本質的な影響はまったくないといいきってよいでしょう。しょせん、多数派をとろうとする同じ枠組みのなかでの、つまりコップのなかでの争いにすぎないと私なんかは考えているのですから。
さらにいえば、姫井氏が工作を受けるのも、そして受けたであろうのちに一旦、決意した脱党を翻すところにも、この議員の資質というものを問わざるをえない。翻意を表明する会見での彼女の発言を一度聞かれたい。唖然とするほどの低レベルではないでしょうか。
日本の政治の一面(と私は考えたい)が、ほとんどパンダの死と同様に語られるわけがここにもあって、わが日本国のおめでたさを率直に思うのです。だから、彼女の現に所属する、あるいは所属しないでおこうと彼女が一旦は考えた政党、民主党のおめでたさもまた、感じざるをえない。
陳腐なこのような構図のなかで語られる政権死守、あるいは政権交代などとはまったく隔絶したところに、庶民の日々の息苦しさはあるのですが。
さて、日本の政治はこれにどう向き合うのでしょうか。
(「世相を拾う」08162)
■こちらもお願い⇒
繰り返したたかれる生活保護
友人が毎日、たくさんの医療関係のニュースにふれたメールをよこしてくれます。じっさい、私はたいへん重宝しているのです。
届いたメールのなかにつぎの記事がありました。
厚労省が19日発表した生活保護受給者に支給される医療機関への通院移送費の実態調査によると、「不正・不適正」と見られる事例が67件見つかった。調査は、北海道滝川市で2億円を超えるタクシー代などの不正受給事件が発覚したのを受け、今年1月、月額3万円以上の支給例を対象に全国調査を実施した。
対象となった1086件で最も多かったのが「書類不備」の912件。「問題なし」はおよそ1割の107件に過ぎなかった。金額で見ると、「不正・不適切」と認定されたのが約580万円、「書類不備」は同4900万円で、不適切な事例の支給総額は同6000万円に上る。個別で見た月額支給額は同81万 8000円が最高で、平均は同5万5000円。不正事例と認められた移送費受給の主な事例は、虚偽申請、タクシー領収書の水増し偽造、同じ領収書の使い回し―などの手口が多く、特定のタクシーを使い運転手と共謀を疑わせるケースもあった。 |
これだけではわかりにくい点が多々あるため、同類の記事を検索してみると、おそらく同じソースによっているだろうと思われるものをみつけました。
生活保護の通院費支給、書類不備80%・不適正6%…厚労省調査 |
これら2つのどちらの記事も厚労省のレクチャーにもとづくものだと私は推測するのですが、強調したいのは、こうしたネガティブな情報が上からばらまかれるとき、結果的にネガティブだと判断されうる事態をとらえて全体に網をかけて抑制しようとする意思が働いているとみざるをえないということです。
つまり、今回の記事の場合、部分的に現に起こっている問題をあたかも全体であるかのように映し出す、そんな宣伝方法がとられている、こう強い疑念をもつわけです。結果的に、生活保護というのは、不正・不適切がまんえんしていると国民に刷り込ませ、制度自体を後退させようとする意思が強く働いていると私は考えるのです。こんな不正・不適切な制度は切り捨ても当然、こう国民に迫ろうとする魂胆を背後にみるのです。
書類不備は即、不正ではどう考えてもないはずです。不適正という言葉さえ、不正とは異なる範疇だと私はとらえる。不幸にも「書類不備」というカテゴリーに分類された申請者は、調査によれば(支給総額は)4900万円に達する。また、「不適切な事例の支給総額は同6000万円に上る」とう表現をつきつけられると、ああ、これはたいへん、規制を強めよとなりかねないのです。
けれど、よく考えると、これらの数字の羅列もいかがわしいといってよいのではないでしょうか。「書類不備」で申請され支給された総額が4900万円であったとしても、それがそっくり不正を示すものではありません。ようは書類不備=不正とはいいきれない。逆に、レクチャーとそれに追随する記事の、あたかも書類不備=不正という等価関係に置き換えてしまうやり口は批判されてしかるべきでしょう。
不正はもちろんただされなければなりません。けれど、仮に一部に不正があったにせよ、それを全体であるかのようにふれまわす手法には私はまったをかけたいと思うのです。
つまり、ほんとうに公的援助を必要とする人を可能なかぎり見出そうとする姿勢なのか、あるいは逆に、公的支援を求める人びとをできるだけ排除しようとしているのか、記事が伝えるところはこれをくっきり映し出していると思うのです。
政府・厚労省の姿勢はいうまでもなく後者でしょう。
生活保護の水準がこの日本国では労働者の最低賃金をも支配するようなベース、ものさしになっているという事実をもってするのなら、いまの自民党政権が後者の立場で繰り返し生活保護を押し込めようとしているのもうなづける。生活保護がなぜ繰り返したたかれるのか、分かろうというものです。
今回の記事がまず伝えているのは、そのことではないでしょうか。
だから、ゆめゆめ生活保護なんて私には関係ないなどと我われはこの際いっておれないのです。
(「世相を拾う」08161)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
総選挙は何を問うのか- イギリスの経験から
いつでも、誰でも、どこでも必要な医療を受けることができる、これを理想形とすれば、戦後、日本は国民皆保険制度といわれる枠組みをつくって、これに近づこうとしたといえるでしょう。1961年には、何らかの公的保険に国民すべてが加入することになったのです。
その国民皆保険という枠組みも、改悪がつづいて、事実上、誰もをカバーするという制度はしだいに機能しなくなっていきました。80年代の構造改革の名で、社会保障制度は国民にとって徐々に後退させられたといえます。無料だったものが、自己負担1割になり、2割になり、3割になるという具合に。こうなると、経済的に弱い立場にある人は、しだいに医療から遠ざかる。すると、医療費は増高する。こういった悪循環に陥ることになる。たとえば、国民健康保険料が年間50万円近くになる世帯も少なくない今日になったのです。
日本の社会保障制度は、以上のように保険料や自己負担割合が増えることによってアクセスを遮断する方向にだけでなく、別の角度から、医療でいえば供給する側への締め付けもまた、連続しておこなわれてきたといえるでしょう。
日本の医療は、医療行為ごとに定められた点数によって診療報酬が医療機関に支払われます。80年代以降、政府は、医療費抑制を最大に目標にかかげて、施設体系を政府の思惑どおりにコントロールしてきたといえます。総枠で医療費を抑制するための誘導がたびたび採られてきました。分かりやすくいえば、政府のいう方向に施設体系を転換しなければ、収益が格段に落ちるような診療報酬の改定をおこない、思惑どおりに医療機関の転換を推進してきたのでした。
医療従事者の養成も、ときの政府の匙加減で絞られてきました。端的には医師養成数とその結果の医師不足にそれが表れています。それとは逆に、小泉政権当時の規制緩和政策によって、「失業3割」時代の到来(*1)も語られているように、時の政権の政策に翻弄されてきたのが日本の医療であったのかもしれません。
ですから、本田宏氏は、今日の日本のこの医療のありようを医療崩壊ととらえ、それは日本崩壊の一面だと指摘しているのです(『エコノミスト』8・26、23頁)。まったく首肯せざるをえません。
本田氏は、
医師不足と低医療費政策、医療現場の実態を国民が知らずにきたことが「医療崩壊」の原因だ< |
と言い切っています。
以上に概要示される日本の低医療費を研ぎ澄ましていくと、アメリカの医療につきあたるでしょう。
一方で、アメリカと同様に一旦は医療切捨て政策を採りながら一転して公的医療費引き上げの政策を採っている国があります。イギリスです。
周知のようにイギリスは、1979年以降のあのサッチャーの時代に自由主義的改革の嵐が吹き荒れました。この保守党政権が崩れた1997年にはGDP比でいえば医療費は、先進7カ国の平均値が9.0%、日本は7.0%で6位。イギリスは日本を下回り6.8%だったといわれています。
その結果、医療の荒廃がすすみ、人員不足のため研修医の半数が労働基準法の上限を超える長時間労働に従事しているにもかかわらず、入院が必要な救急の患者が平均3時間半待たされたといいます。この時期、医師の自殺者は、他職種の2倍にのぼったといわれています。どことなく今日、日本で伝えられる医療崩壊と通底しているように感じられるのではないでしょうか。
その後を継いだブレア政権は医療費拡大に転じることを総選挙の公約にかかげ、国民の支持を受けながら医療費の拡大政策に転換していったのです。
モデルを定めて、それに近づこうとすることを私は好みませんが、少なくともイギリスのこの政策的転換は、日本が教訓にすべきところ大だといえると思います。
率直にいえば、今の日本のすすんでいる方向は、自己負担の拡大で医療費をまかなっていこうという、いわば米国型だといえる。お金がなければ指を事故で落としても手術ができない。金がなければ、医療から遠ざかる道しかないのです。昨年の全盲患者を病院職員が公園に置き去りにしたという事件は、すでに日本のなかのアメリカ化を示唆するものではないでしょうか。
結局、このアメリカ型も医療費は増高する。つまり、医療費は2つの方向で増える。アメリカ型は健康の格差をいちだんと広げて医療費を引き上げるのです。自己負担増は公的医療費の抑制につながるようにみえながら、実際にはコスト増をもたらすことは、日本よりはるかに自己負担の割合の高い米国はむしろ日本より医療費の公的負担割合が高いことに示されています。
総選挙が遅くとも来年には実施される日本では、すでに選挙目当ての政党のパフォーマンスが繰り広げられています。
しかし、先にふれた本田氏がのべるように、日本はいま「日本崩壊」に至りかねないようにゆがみが様々な面で表出しています。その一つが医療崩壊だと氏は警鐘を鳴らしているのですが、だとするなら、総選挙では、崩壊に至るか、それとも反転して崩壊を免れる道を選択するのか、それを軸に、政党選択が下される必要があります。無内容に政権交代、あるいはそれを許さじといってのけるほど簡単なことはありません。
そうではなく、崩壊に至りかねない現状にあるからこそ、政党はどんな筋道を考えているのか、国民に示し、選択を仰ぐ必要があるといえるでしょう。
逆に我われ国民は、一つひとつを知らないままにやり過ごすという危険から脱出を図らねばなりません。
崩壊か否か、そんな岐路に立つ日本。だから、来るべき総選挙は、従来の政策の延長線でいくのか、それとも反転をめざすのか、それが国民に問われているといえそうです。
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
*1;「AERA」(7・21)21頁
「星野ジャパン」第2章
ついに渡辺恒雄氏の登場です。
渡辺会長がWBC指揮官に星野監督後押し |
この人が出てきたことで、スポーツの商業化が資本の側のいかに強い要求であるのかを、垣間見るような思いです。
北京五輪で余すところなく見せつけられたのは、日本チームと諸外国チームとのチーム力の差でした。チームの力を引き出す上で、指導者の力量はむろん欠かすことのできない要素でしょうから、結果的にみても星野氏は指導者として問われたことになります。
野村克也楽天監督が、星野采配にふれています。
ノムさん「視野狭い」星野監督をバッサリ (日刊スポーツ) |
興味をもったのは、
星野、山本、田淵の首脳陣について「仲良しグループにした時点でダメだと思ったよ」とチクリ。もちろん黙っていられなかった。 |
の、部分です。そのとおりだと私は思います。
かつて、井上陽水は、こんな歌をうたいました。
※楽しいことなら何でもやりたい 笑える場所なら何処へでもゆく 悲しい人とは会いたくもないなら 涙の言葉で濡れたくはない 青空、あの日の青空、ひとりきり※ …… 仲良しこよしは何だかあやしい |
この歌詞にあるように、仲良しを強調することは、どことなくあやしいのです。そこをつきぬけようとする意思がまず感じられません。おそらく仲良しグループみたいな指導層の陣容決定は、陰に陽に選手たちの士気に影響したでしょう。個々の采配の問題についての野村氏の指摘には大いにうなづけます。
最初に戻って、渡辺氏があえて星野氏をWBC指揮官にと言い出したのも、キャンペーンを張って、もうける道筋を考えた場合、商品としての価値が星野氏に勝る人物はいない、と渡辺氏が考えたからにほかならないでしょう。むろん、この限りで指導者としての力量は二の次といえるのではないでしょうか。
来年のWBCまでの期間、あらゆるものに日本必勝と銘打って、利益を確保しようという企業の論理がここにあるのではないか。渡辺氏は、先駆けてその方向にふれ先鞭をつけようとしたということでしょう。
星野氏が、商品としての自身を自覚しているかどうかは別にして。
(「世相を拾う」08160)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
「星野ジャパン狂騒曲」
日本はすぐにたたきにかかる |
でも、これは事実誤認というものでしょう。
開催国、中国でも、スーパースター劉翔が棄権を明らかにしたとき、どうだったのでしょうか。やはり、劉翔は非難の嵐に置かれたといえるのでは。こんな記事もあったくらいですから。
「許せない。五輪前に自分の世界記録を破られて、おじけづいたに違いない」。北京市内のタクシー運転手は19日朝の新聞を読んでも、劉のけがを信じなかった。
|
これにくらべると、星野さん、(日本の批判なんて)やさしいものではありませんか。
せいぜい、非難は、あなたの采配にたいしてでしょう。そして、プロらしからぬ傍目にも簡単にみえる捕球ができなかった例にたいしてでしょう、そして打つべきところで(と誰もが考えるところで)一発がでなかったことにたいしてでしょう。さらに、抑えるべきところで(いとも簡単に、とみえる適時打をみまわれ)それができないでうろたえる姿にたいしてではなかったでしょうか。
日本チームはプロ野球選手で構成されていたので、捕球ができなかったり、適時打をみまわれる姿に、私たちは見慣れているはずです。だって、プロ野球の世界でもそれらの事態は日常茶飯事なのですから。それがくりかえされることに反発があるのは、いわば当然といえるかもしれません。
むしろ、私には、星野ジャパンと銘うって、金メダルへの「栄光の道」を刷り込れ、あたかもメダルの最短の位置に日本があるかのように描かれたシナリオを我々も真正面から受け取って、聴衆として演じきってしまったということ、これを反省すべきではないでしょうか。
つまり、それは、星野氏の過大評価につながっているように思えます。けれど、試合をみせられた私どもには、素人眼にも、明らかに彼の采配で首をかしげることがありました。たとえば、岩瀬投手の起用法。彼はたしかにいい投手にちがいないのですが、このオリンピックではよく打たれたように私には思えましたが、星野氏には特別の思い入れがあるのでしょうか、岩瀬投手をむしろこれでもか、これでもかと使って、そのたびに打ち込まれたのではないでしょうか。
日本選手団長、野球・サッカー男子・マラソンに「苦言」
星野監督が帰国…WBC監督要請に前向き
この2つの記事は、表面上、相反するようですが、実は根っこが一つのような気がしてなりません。
ここでは日本選手団長がとりあげられていますが、JOCが、星野ジャパンを起爆剤に使ってきたのは、繰り返しテレビコマーシャルに登場してきたことからもうなずけます。「苦言」を呈するより、まず持ち上げてきた自らについて深く反省すべきでしょう。ある意味でいえば、日本国民を欺いたといえなくもない。
同じように懲りないのは星野氏自身でもあるようです。
こんな雰囲気をかもし出す星野氏って、いったい何なんでしょうね。
指導者としては、より優れた人材がこの日本国にもまだまだいるような気がするのですが、いかがでしょうか。
つまり、日本とは、おめでたいJOC一部幹部と、それに乗せられて自信過剰に陥る、おめでたい自称指導者が世間をあおってきたということでしょうか。
これにメディア資本がからまって、五輪狂騒曲が奏でられてきたようです。
私は、日本国のスポーツの発展、国民の多くがスポーツに自ら親しみ、応援する土壌をつくるには、現場の指導者・コーチの環境を少なくとも食っていけるだけのものにすること、そしてスポーツを楽しめる施設・設備・環境づくりに政府がもっと予算をふりむけることなど、土台のところで転換を図らざるをえないと思います。
そうでないと、限られた舞台のなかで「活躍」した者を、あたかもすぐれたスポーツ指導者のようにみなす風潮に歯止めをかけることは不可能でしょうから。
(「世相を拾う」08159)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
政党助成金を「聖域」にするな。
太田氏の「やかましい」発言を擁護したことで、さらに反発を招いているローゼン閣下。物議をかもすことなら、けっして太田氏に負けない閣下、麻生太郎氏の身辺がきな臭い様相を呈しています。
問題になっているのは、氏が代表を務める政党支部や、麻生氏の資金管理団体「素淮(そわい)会」などおもな政治団体の政治資金収支報告書(06年)。01年から、政治家個人に対する企業・団体献金は禁止されましたが、自民党などは、政治家が支部長となった政党支部は可として企業・団体献金を引き続き集めています。
麻生氏は、支部長を務める「自民党福岡県第8選挙区支部」だけでなく、もう一つの政党支部を持っています。「自民党福岡県窯業支部」というそうで、「第8選挙区支部」と同じ麻生太郎筑豊事務所内にある。会計責任者も2つの支部は同一人物。あわせて9000万円近い企業・団体献金を集めています。
一方、「素淮会」は、「政経セミナー」という資金集めパーティーを東京で開催、一晩で8000万円以上を稼いでいます。また、地方の「素淮会」などから3670万円を上納させています。「九州素淮会」も、「政経文化セミナー」を開催、6800万円の収入です。
「第8選挙区支部」への自民党本部からの寄付があります。これは、国民の税金である政党助成金。
この麻生氏の報告書から読み取れるのは、企業・団体献金をふくめて3億円にもなろうとする多額のカネを企業や団体から集めながら、「安心実現」の政治など望むべくもないということです。これだけの大金が氏の言動は縛らないわけはありません。
あわせて強調したいのは、資金のフロー図にもある政党助成金です。麻生氏を、自民党を支持しなくても、自民党に資金が流れるという政党助成金。麻生氏も自民党も支持したことはないし、これからもないでしょうが、私の税金250円が毎年、自民党に流れる。気持ちが悪いこと、この上ありません。思想・信条の自由を憲法でうたう国で、無条件にそれとは異なる政党に自らの税金が流れるしくみは即刻やめるべきではないかと思うのです。
総務省は7月、2008年の政党助成金(総額319億4000万円)の第2回分として、総額79億8500万円を自民、民主、公明、社民、国民新、新党日本の6党に交付しました。
政党助成金の原資は、先にのべたように国民一人あたり年250円の税金。これに共産党以外の政党がまったく口をつぐんで、「聖域」扱いですね。
自公だけでなく、民主党もまた、消費税増税の地ならしとして「税金の無駄遣い撲滅」「政治家自ら身を切るべきだ」などと宣伝していますが、この落差をどう受け取るべきでしょうか。まず政党助成金を廃止すべきです。
海の外のこんなニュースを知りました。
南米ボリビアの上下両院は(8月=引用者)20日、1980年代に導入された政党助成金制度を廃止する法案を賛成多数で可決しました。これによって生じる資金は、障害者支援の基金に充てられます。
法案は、選挙が行われる年度かどうかにかかわらず「政党への国家からの財政支援を廃止する」と規定。毎年、各党に配分されていた約4000万ボリビアノ(約6億2000万円)は「連帯基金」に充て、障害者支援に活用するとしています。(しんぶん赤旗) |
先のような日本国の政治状況ですから、みたところ三大紙もとりあげていないようです。
しかし、福田内閣のいう「安心実現」の政治に近づこうとすれば、ボリビア・モラレス政権のように、大胆に政党助成金を廃止し、社会保障の財源の一部に振り向ける、これでしょう。
(「世相を拾う」08158)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
弱者に向かう「代わりはいくらでもいる」という眼
中3ら8人、知的障害者ら狙い恐喝容疑で逮捕 青梅 |
彼らの行為は許されるものではないが、たとえば「弱そうな人」を「いじめて何が悪い」という彼らの心性は、今日の日本国に横行している思想そのものではないか。
一連の社会保障抑制政策や税制改正という名で採られた選択、つまり企業減税と庶民への増税とが対になった税制面での改定、さらには物価高がこれに追い打ちをかけ弱い立場の人びとを苦しめている。三重苦のただなかに国民はあるといってよい。
ただちに分かるようにこれらの苦難は、経済的な弱者、貧困に直面する人にとっては耐え難いものになる。小泉元首相は痛みを分かち合うなどと強弁したが、その痛みの押しつけこそが、社会の隅々にさまざまな形で現れ、ゆがみを生み出した。
そこには、新自由主義といわれる弱肉強食の思想が横たわっている。
だから、社会全体のそうした思想に彼らもどっぷりと浸っているということだ。
記事にあるリーダー格の2人がいった「いじめて何が悪い」という言葉は、小泉が国民を前にしたあの語り口と、ダブってみえないか。言葉には思想の一面が反映する。
弱そうなものに向かう視線は、国家的には社会保障制度の後退や庶民増税にむかう。
昨年の参院選後の議席配置によって、政府与党の政策的「妥協」が現象的に生まれているために分かりにくくもなっているが、しかし、従来の自民党政権がとってきた基本方向があらためられたわけではない。
くりかえし生活保護受給者の一部の「不心得」や、申請の内容がいかにひどいものかという報道がつづくのは、生活保護が社会保障制度や最低賃金に深くk結びついている関係を無視できないためである。生活保護の基準を抑え込めば、他の制度も抑制できるわけだ。最低賃金改定をめぐる一連の議論を想起されたい。
その暴力が弱者にむかうのは少年だけのものではない。社会的にそれを受容する素地がある。
それは、この間も、勝ち組・負け組などという言葉に表われる、自己責任を徹底するものであった。別の言葉でいえば、それは、お前の代わりはいくらでもいるという思想でもある。だから、高齢者などという、枯れ木に水をやる必要はないということになる。だから、生活保護受給者にはジェネリックをも頭から差別を持ち込むことになる。
もっといえば、再分配の機能を認めないか、軽視する立場ということになる。
問われているのは、彼ら少年の暴力ではなく、弱者に投げかけられる社会の視線そのものである。
弱者にむけられるまなざしは、彼ら少年や政府与党の排除する視線とは反転したそれでなければならない。
(「世相を拾う」08157)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
「大野病院事件」で医師に無罪判決
「大野病院事件」で20日、福島地裁は、業務上過失致死と医師法違反罪に問われた医師に無罪の判決を下しました。
coleoの日記;浮游空間 で「大野病院事件」で無罪判決を公開しています。
『日経メディカル』の記事(「確たる証拠もなく起訴した検察に大きな疑問を感じる」)をとりあげました。判決を前に医師側の主任弁護人にインタビューした記事で、裁判での論点が弁護側から整理されています。
【関連記事】
「朝日」
http://www.asahi.com/national/update/0820/TKY200808200054.html (魚拓)
「読売」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080820-OYT1T00212.htm (リンク切れはこちら)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080820-OYT1T00370.htm?from=nwla (リンク切れはこちら)
「毎日」
http://mainichi.jp/photo/news/20080820k0000e040014000c.html (魚拓)
■こちらもお願い⇒
選挙に勝ちたい一心
インタビュー:定額減税「数千億円」では効果薄=公明党政調会長 |
麻生氏の言い出した証券優遇税制の提案に当ブログがかみついた手前、ではそれと比較してこの提案はどうかという点にふれざるをえないでしょう。
結局、麻生氏の提案も、この公明党の考えも、総選挙を前にした集票のためという大前提がある、こう思うわけです。苦戦を強いられる状況に与党があることは誰でも認めるでしょうから、事態を打開するための窮余の一策、というよりやれることは何でもやる利益誘導作戦といいきってよいでしょう。その点で同類のものだといえます。
減税ならばよい、という考えも成り立つわけですが、しかし、これらの政党、政府与党が、では半年前にとっていた姿勢はどんなものだったのか、これが問われなければなりません。
2008年度の予算案審議と連動して税制関連法案が審議されました。
その際、首相は殊勝なことに「「日本経済の現状を見ると、賃金がなかなか上がらず、消費に弱さがある」(経済財政諮問会議)とのべていました。そうであるのなら、このときに家計を温めるための税制面からの措置、減税策を大胆にうちだすべきでした。
のちの経過が示すように、首相の言葉はまさに言葉だけのもので終わったではありませんか。
なぜなら、そのとき政府が提案した税制改正案というものは、政府がどの層に立脚しているのかを如実に示すものでしたから。それは、減税額の約9割が大企業に集中する研究開発減税でした。これによって多額の研究開発費を使う大企業は税額を3割圧縮できるといわれています。つまり、ですから現行税率でいえば30%から3割の9%が減税され、21%となる。これは、中小企業の税率22%をも下回る法外ともいえる減税幅とみることもできるでしょう。
こんな優遇の一方で、庶民の税金は増えることはあっても、減ることはなかった。
こんなこともありましたね。
福田首相は施政方針演説(1月)で、消費税増税について、2009年度に基礎年金の国庫負担割合を(現行の3分の1から)2分の1に引き上げることを前提に、「早期に実現を図る」と表明しました。年金財源を理由にした増税です。
しかし、政府・与党のこれまでのやり口が、これが増税の単なる口実にすぎないことを推測させるに十分なものだと思うのです。高齢者の年金課税強化と定率減税全廃による増収分を基礎年金の国庫負担割合の引き上げ財源に充てると公約していたものの、2兆8000億円の増収分のうち、基礎年金財源にあてたのは舛添厚労相によれば6800億円にとどまっていることが明らかにされたのですから、納得せよといっても納得できなくて当然です。
ですから、自民、公明両党はまず、過去のこれらの事実の清算をしないといけない。提案理由に増税による財源が振り向けられなかったということについて。
ようは、自民、公明の態度は過去の主張にはほおかむりして、人気とりの花火をうちあげる欺瞞だと指摘せざるをえないのです。だから、私などは、「数千億円では効果は出ない」としゃあしゃあといってのける山口那津夫には、どこまで国民を欺くつもりかと強く問いたくなる。まあ、バカにするものいいかげんにしてほしい。
家計を温めることよりも、関心は選挙に勝つことしかないという本音が透けてみえるのですから。
(「世相を拾う」08156)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
余暇を考えるヒマ
レジャーを視野に入れることができる人は、基本的に日々の生活にゆとりがある人ということの裏返しの表現だといえるでしょう。
したがって、こんな見方からすれば、つぎの記事ははたして日本国全体をとらえているのかといれば、そうではない、と答えざるをえないわけです。なぜなら、日々の生活に汲々としている人は、その日暮らしという言葉があるように、明日の行方もまたはっきりしない、そんな不安定な生活を強いられているわけです。だとすると、少なくとも生きたい、生き延びたいと考える人ならば、明日をまず無事に過ごせるか否かに腐心する。それ以外に少しでも考えが及ぶのであれば、それはその日暮らしといえないのかもしれません。
若者レジャー「貧困化」 遊びの種類減少、支出に格差も |
ようするに、毎日の生活がどうなるのか、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている人にとって、生活の余剰部分、生きるための最低条件を上回る余剰を持ち得ないはずです。余暇を考えることのできる人は、以上の意味で、ゆとりのある人といってよいでしょう。
ですから、社会経済生産性本部の08年版「レジャー白書」の分析(サマリーはここ)は、もとより対象が限定されていることを念頭に置かざるをえません。最近、とくにこの種の調査にきわめて懐疑的です。池内了氏の著作を最近、取り上げましたが、それをまつまでもなく、この種の調査、統計には心してかからないといけないようです。これは、池内氏にかぎらず、少なくない識者が強調したところですが、まず調査の前提がどうなのか、はっきりつかむ必要があります。
この調査では、明らかに日々の暮らしに不安を抱えている人は除外されているといってよいでしょう。
日々の暮らしに不安を抱えている人が、たとえばそれは生活保護水準以下の収入で生活をしている人が相当のウエイトを現在、この日本国で占めていることが伝えられているわけなので、すると、この調査がわが日本国の全体をとらえていないということに誰もが気づくでしょう。
余暇を考え(たくても、考え)られない人の存在を今の日本国で無視するわけにはいかない事情がこうしてあるのです。その限りでは、この調査は無内容だといいきってよいのかもしれません。
そう態度をはっきりさせずに、この調査を好意的に受け止めるとすれば何がみえるのか。
それは、余裕のある人の中での動向です。傾向として余裕がなくなってきていることは読み取れそうです。
そのことは、つぎの社説がいうとおり、基本的には家計の硬直化に由来するでしょう。フレキシブルではない状況がある。余裕のある部分が、別の言葉でいえば余剰部分が次第にやせほそっていくということでしょうか。
社説:マイナス成長 元気な家計が何より大事だ |
実は、余暇というものは人間にとって、人間の全面的発達を考える場合、けっしておろそかにできないものです。
いま、テレビをはじめ、多くのメディアでオリンピック一色という感じさえ覚えるのですが、人間とスポーツを考えても、たちどころに余暇(時間)の意味の重要性に気づかされます。何よりもスポーツの今日的原型は国の産業革命以後にあって、そこでルールが確立されたといわれています。つまり、この時期以降、労働者は労働時間短縮をかちとり、勤労者層のなかでスポーツが急速に広がったとされるのです。
端的にいえば、時短のなかで余暇時間を労働者階級がかちとったといえるのではないでしょうか。そうして、勤労者一人ひとりがもっていた(スポーツの)潜在的能力を開花させてきたといえるように思えるのです。
まあ、以上の方向を人間の多面的な発達の方向だとすると、今日のオリンピックをみてみると、スポーツの産業化が徹底される方向に働いており、それが多面的な発達を阻害しているように思えてなりません。何よりもオリンピック報道そのものが巨大な利権に群がる資本と切り離せなくなっています。そして、競泳の水着騒動にみられるような資本のあくなき利権追求の姿が繰り返されているのです。
少し回り道をしましたが、あらためて強調したいのは、勤労者にとって余暇(時間)の意味は人間の発達にとって重要だということです。
ですから、少なくない部分が余暇を考えるヒマもない日本国の実態は、非人間的位置に勤労者が置かれていることの表現でもある。
昨日のエントリーで大澤真幸の言説をとりあげました。エントリーでは論考の要約を紹介するにとどめました。でその上に、大きく端折った部分がある。
それは、「非典型労働者たち」という章です。そこでは、昨日、とりあげなかったのですが、重要なことを大澤は指摘しています。
容易に理解できるように、余暇を考えるヒマもない層、その日暮らしを強いられている人びとに比較すると、こうしてキーボードをたたき、何がしかのブログ記事をアップできるのは、どこかに余裕があるといってもよいでしょう。それをどう実感するかは人それぞれでしょうが、明日の生活以外に考えが及ぶのは、そこに考えられない人との明確な差異があるでしょう。
ではこうした日本国の現状をどうあらためていくのかを一つの論点にとらえた場合、先にのべた少しでも余裕のある人と余裕のない人の間をどう考えるのかが、実践的には当然、問題になる。以前のエントリーで、赤木智弘氏の言説に象徴される一方の考え方にたいして疑問を呈しました(参照)。赤木氏が我々に突きつけたのは、比ゆ的にいえば、エントリーの表題の、一部が苦しむ不平等か、全部が苦しむ平等かという問いでした。換言すれば、その考えは、ちがいを強調するということでもあるでしょう。つまり、余裕のまったくない人とそうではない人の違いです。この点では私は、ちがいを強調するのではなく、一致点で共同するという立場をとります。
先ほどふれた大澤の重要な指摘とは以下の部分です。
非典型労働者とは、単純に、何かから疎外されているのではない。そうではなくて、そもそも「からの疎外」の前提となる「への疎外」の圏内に、彼らは入り込めていないのだ。こう考えると、非典型労働者の困難は彼らだけの困難ではない、ということがわかる。典型労働者(正社員)にとっても、事情は、基本的に変わらない。給与が高かったとしても、あるいは管理職であったとしても、その仕事が、普遍的な価値・使命Xとのつながりを書いているという点では、同じである。 |
それは、ここから敷衍されるものでしょう。
このように、普遍的な価値をかちとろうという点では同じ立場に立てるわけですから、あらためてちがいではなく、一致点を大事にする、その点で共同しうるということを強調したいと思うのです。
冒頭にもどれば、それはすなわち人間の多面的な発達を目指す方向と寸分もちがわないのですから。
(「世相を拾う」08155)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
大澤真幸「世界の中心で神を呼ぶ――秋葉原事件をめぐって」
coleoの日記;浮游空間に秋葉原事件についての大澤真幸メモを公開しました。今朝のNHK「日曜討論」で識者が秋葉原事件をテーマに議論していました。さて、大澤の解釈はどうでしょうか。
秋葉原の事件が起きて、少なくない論者が事件の解釈を試みている。 この人ならば事件をどのように論じるのか、聞いてみたいと私が思っていた大澤真幸が「世界の中心で神を呼ぶ-秋葉原事件をめぐって」という論考を発表している(*1)。この論考から抜書きし、書き留めメモる。 論考はつぎの6つの部分からなっている。
論考の第一で大澤がのべるのは、この章の表題にある美少女ゲーム「CROSS+CHANNEL」を当事件が連想させることである。大澤は、ゲームの主人公・黒須太一につきまとう殺人衝動に、秋葉原事件のKを無差別殺人に導いた欲望と重ね合わせ対応させている。(続く) |
http://www.yosensha.co.jp/products/9784862483157/
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
「無駄をなくせ」の限界
ブクマのコメントの一つで、「「無駄をなくせ」の無駄の中身が問題。」と書いた。たとえば、以下のような所説が新聞社説で展開される状況で、この「無駄の中身」はいったい何なのかを問うことがいよいよ重要だと私には思える。
消費増税論―「ムダボ」を肝に銘じよ |
断っておくが、メディアは消費税増税という基本スタンスだというのが当ブログの認識である(参照)。だから、上の朝日社説もその枠組のなかのものであるのだが、衆院総選挙がいずれ実施されるという、平時ではない情勢のもとでの、社説の主張だと把握することが必要である。
端的にいえば、国民の意識もふまえながら、消費税増税は避けられないのだが、国民の気分感情も慮って、無駄にまず手をつけろ、こんな朝日の主張ではなかろうか。
その際のいちばんの問題は、無駄といってもたくさんあるにちがいない、日本の政治、日本の財政をゆがめているものが何なのか、ここを問わないでは、その主張もほとんど意味を失うだろうということである。
結局のところ、主張で取り上げているのは、官庁・官僚の支出をうんぬんしているので、極論すれば、それは部分にすぎない。むしろ、国家財政のうち少なくない割合を占めるようになっている軍事費は不問に付されている。社説がそこにふれない、あるいはふれられない事態を懸念している。メディアは社会の公器ではなく、権力の道具になってしまっていると考えざるをえない。無駄をなくせという議論は、その延長戦上に消費税増税を含意している。
これまで問われることのなかった軍事費の是非や、あるいは法人税優遇の是非を正面から議論しなくては、少なくとも従来の議論の域を越え、自民党政治の限界をうちやぶるということにならない。これら一つひとつの問題について国民の意思を問えばいいし、メディアは逆に、その選択のための取材と報道が求められているのではないか。
同様に政党、とりわけ民主党には、そのイニシャチブの発揮が求められると思うのだが、はっきり言い切れば、新自由主義的施策においても、消費税増税でも、9条改憲でも、自民党と本質的な政策的相違はないわけで、その役割を同党は現に果たしてはいないし、果たしえない。せいぜい、政策的差異を国民に明らかにすることなしに、党略を優先してふるまっているのが、昨年の参院選後の国会状況でもある。
だから、あえて、われわれは各党に政策的争点を明らかにするように求めなければならない。総選挙が控えている今、いよいよその点が重要だ。
自公政権が最近、さかんに国民に擦り寄る姿勢をみせ、「ばらまき」とも揶揄されるほどの政策的妥協を打ち出しているのも、そこが要諦だと彼らが考え、一時的であっても国民を欺こうとする意図が働いているからである。
(「世相を拾う」08154)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
電車の中の光景または公共ということ
最近、よく見かけるようになりました。電車に乗るのは通勤時くらいのものですが。
電車の中の光景として記事が扱っているのは、電車という公共空間のなかで化粧という行為、つまり私事をおこなうことについてです。
【Re:社会部】電車の中の光景 |
この産経の記事は「電車内で化粧する姿はだんだん、普通の光景」になるかもしれないと予測しているのですが、つぎのように接続することによって、この光景にたいする一つの価値判断を下しています。
公共の場という意識の欠如も感心できません。周りに気配りできない人が増え、皆が自分勝手に行動したら、どんどん住みにくい社会になるのではないでしょうか。 |
たしかに、昨今というか、この10年近くは、こんな社会の息苦しさを感じてきたのではないでしょうか。けれど、「周りに気配りできない人が増え、皆が自分勝手に行動した」としてもそれは部分にすぎません。少なくとも今現在においては。
むしろ住みにくさをわれわれが感じざるをえないのは、それが社会のしくみとして、大掛かりに生活を覆い尽くしているからでしょう。
記事に即して考えると、自己責任という名で何でも私事化(privatization)してきたのが、政府のとってきた政策でした。小泉構造改革はその典型でしょう。
公共というものは私や個と相互補完的ですから、記事ものべるように、私事が公のものになることもある。個人のとる行為が、他人に利益を与えることがあればもちろん、ないとしても、不利益を生じさせるものではないと理解されはじめると、公共空間でのその行為も等しく認められていくのです。たとえば、かつて女性は男性の数歩後を歩くものとされていたのが、男女が手をつないで歩くのに違和感を感じる人は今ではほとんどいないでしょう。こんな例をあげるまでもなく、「公衆の面前で」と敬遠されていたこと、ものが今日、日の目を見ているのです。
記者の眼はこの点で、このような変化に消極的な立場です。まあ、保守主義とでもいえるでしょうか。
それは、こんなところにもよく表れています。
私の隣には中学生ぐらいの女の子と母親が座っていました母親は女の子に言いました。
「あなたには、ああなってほしくないな」 女の子にはお母さんの言葉を聞いて、素敵な女性になってほしいなと思いました。 |
新聞は社会の公器ともいわれてきましたから、そんな見方からすると、記者には「住みにくい社会」の背景にある大きなものにふれてほしいと強く願うのですが。
(「世相を拾う」08153)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
滞納立替では解決しない
校長らが給食費など滞納分立て替え 大阪府池田市 大阪府池田市の8つの市立小学校で、給食費などの滞納額が2007年度末までに約300万円に上り、校長や教員、事務職員らが立て替えて穴埋めしていたことが12日、市教育委員会の調査で分かった。 保護者らに会計報告する月末や年度末に校長らが私費で穴埋めしていたほか、一部では教員の親睦会費を無断で流用していたケースもあった。 市教委は「本来は保護者が支払うべきもので、立て替えは好ましくない。流用は憂慮すべきことで、今後処分を含め検討したい」としている。 市教委によると、立て替えていたのは全11校のうち8校で、給食費が約168万円、教材費が約69万円、修学旅行などの積立金が約53万円、学級費が約7万円。1つの小学校で最も多い滞納額は約130万円だった。 各校は保護者に督促しているが、給食業者などへの支払期限が間に合わない場合、発覚を防ぐため穴埋めしていた。市教委には報告していなかったという。 |
結論からいえば、立て替えという行為が事態を動かし、滞納問題の解決にむけて一歩でも前進するのかといえばそうではありません。ただ問題を覆い隠すにすぎません。記事による限り、発覚するということが校長らにとって不利に働く、不利益を生じるという背景があったことは容易に想像できます。
学校の管理強化がすすみ、管理者としての校長の力量の一つに、滞納を出さないということも掲げられているのでしょう。
つまり、記事の範囲で考え得ることは、教師が、発覚をした場合のマイナスと私費を投じるという(金銭的)マイナスを天秤にかけ、その結果、発覚した場合の自らにふりかかってくる負荷を払いのけようとする意思が働いたということでしょう。
少々古くなった下記の記事は、滞納の主な原因をモラルに求めているようです。
給食費滞納9万9000人、原因の6割が「親のモラル」
しかし、この点では、非国民通信さんの丁寧なエントリーがあります(脅威の回収率99.78%)。日本社会の全体をながめた場合、収納というただ一点でみると、給食費の滞納率の著しい低さをここで指摘されています。
同じ日本国に住む人間なので、ほかの問題で滞納を発生させた人と比べて、小学生をもつ親だけがモラルの低い人を特別により多く含むというのも、うなずけるわけではありません。
非国民通信さんが言及するように、
6割は「リストラなど保護者の経済的な問題」が理由だと考えられているようです。それは当然あるでしょうね、企業収益は過去最高を更新し続ける一方で、国民の所得は10年来減少を続けているわけですから |
ね。
そうだとすると、社会的な支援措置がいかような水準か、ここにも私たちの視線を注がねばなりません。そもそも義務教育と位置づけられているわけで、給食費も本来、無料であってもいいはずでもある。社会の動きがいっそうのリストラ、非正規を拡大する方向にすすみ、貧困の広がりが指摘されてきたわけですから、このことによって生徒の学ぶ意欲と条件が結果的に損なわれるようなことがあってはなりません。
校長らのとった行為は、問題を隠してしまうという意味で誤りでしょう。その上で、教師としてとるべき方向は、一人ひとりの滞納世帯の実情をつかみ-把握していたのかもしれませんし、そうではなかったのかもしれません-、丁寧に相談する、話し合い解決の方法を探る以外にないでしょう。今一つは、把握した実情に経済的要因があって、子どもの教育を受ける権利が損なわれる危険性があるのならば、支援措置を教育委員会に申し出るくらいの勇気が必要です。
丁寧な話し合いも、教師の人員削減と非常勤化で困難であろうことも推測できる。そして、支援措置を上に要求することが、すなわち自らの存在をも危うくすることもまた想像できるわけで、解決はおそらくたやすいものではないでしょう。
それだけに、問題の解決は、教師と父母と地域の共同、率直な問題提起と議論をこそ求めているという気がするのです。回り道なようでも、そのことを欠いては、おそらく一歩も前にすすまない。
今回の事件は、そんなことを教えているのではないでしょうか。
(「世相を拾う」08152)
■応援をよろしく ⇒
■こちらもお願い⇒
« 前ページ |