森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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君は、給付金にだまされるのか。
「給付金2兆円」全世帯に 追加経済対策、首相が30日夕発表へ 麻生太郎首相が30日夕に発表する、米国発の金融危機による実体経済への影響を抑えるための追加経済対策の全容が明らかになった。総額2兆円規模の「給付金」の全世帯への支給など内需拡大策や金融機関の保有株式買い取りなどの金融市場安定化策を打ち出す。確定拠出年金(日本版401k)に企業が拠出する掛け金に従業員が上乗せして資金を出す制度の導入など株式市場の活性化策も盛り込む。 国の直接的な財政支出は5兆円規模を軸に調整しているが、事業規模とともに首相が判断する。 |
政府が追加経済対策の目玉としていた定額減税だが、結局、給付金方式で実施するようだ。しかし、前評判は芳しくない。「日経」(10・30)は、「減税と経済効果に変わりはなく、国内総生産(CDP)押し上げ効果も乏しい」と指摘する声をとりあげている。実は今回も公明党の強い圧力によっている。この党は、この種の「現物給付」がよほど好きらしい。今回もというのも前例があるからだ。その前例の1998年の地域振興券がそうであったように、先の指摘のとおり、消費刺激効果は期待できない。
「日経」によれば、地域振興券(総額7000億円)の効果分析では、実質的に増えた所得2万円のうち実際に消費に回ったのは2-3割に当たる4000-6000円程度で、残りは貯蓄に回ったという。「振興券を配った月は消費が増えるが、翌月以降は逆に前月の買いだめの影響で消費が減る」というのだ。最終的な消費押し上げ効果は通常に比べ1割にすぎなかった」という結論だ。
「日経」にまつまでもなく、効果薄であると、多くの人がそう思っている。しかし、与党がここまで目玉としてもちあげるのは、もちろん選挙対策ということなのだが、それだけではない。
一方の民主党。これを、ばらまきと批判する。けれど、同党の批判もここまで、これ以上のものではない。
大事なところを欠いている。
追加経済対策もまた、大銀行優遇なのである。自公はこの点から目をそらすために、あえてこの効果なしの「給付金」を大々的に宣伝する。民主党の批判はこの点で画竜点睛を欠くということになる。
考えておいてよいのは、定額減税に喜んではいられないということだ。そもそも与党が恒久的措置としてとったはずの定率減税を、徐々に弱体化させ、ついには廃止した。そのかわりの定額減税なのだし、一度きりのもの。一年たてば実質的な増税を味わうことになる。
数日前のエントリーで、この12年間に銀行への公的資金は資本注入だけで計12兆4000億円も注入されていることをとりあげた。しかも、この間、大銀行はほとんど税金を払っていないのだから。それでも、危機打開の根幹が、大銀行救済に置かれていて、それを覆い隠すかのように設定された給付金。
首相、3年後消費税率上げを明言 解散は当面見送り |
その上に、政府は、増税を隠そうもしていないことをしっかり受け止めておく必要があるだろう。いっそうの大企業奉仕のためである。ならば、民主党はどんな対案を提出できるのか。大企業への課税強化を抜きにそれは可能なのだろうか。
(「世相を拾う」08220)
政権交代で何が変わるのか -山口二郎氏が語らないもの
山口二郎氏にとっては、政権交代こそが日本の政治の将来を左右するものらしい。 総選挙の課題と銘打って、政権交代の意義を説得するという。しかも、説得する相手は、「民主党や小沢一郎に不信感を持っている市民派」だという。この場合の市民派とはいったい何か。政権交代至上をうたってはばからない市民派も我われの周りにいるのだが、最近、市民派とか、平和・リベラルとかですべてを一くくりにすることにたいして違和感を少なからずもつようになった。
すなわち、平和とか、護憲をその人が希求しているとしても、一方で、政権交代こそ日本の政治の課題だと主張するとき、そこに欺瞞が残らないのか。あえていえば民主党への政権交代こそ命と叫ぶのは自由だが、平和、護憲と民主党は整合するのか。
「自民党も民主党も碌なものではない、選択肢がないのは嘆かわしい」と氏はいうが、選択肢がないわけではない。「自民党も民主党も碌なものではない」と思うのなら自民党も民主党も選ばなければよいだけのことである。それが選択である。「その手の純潔主義ほど政治の進歩を妨げるものはない。所詮政治というものは、より小さい悪(lesser evil)の選択」という政治学者の言葉はまことに笑わせるが、ここらあたりに、少数排除の思想が表れている。つまり、長いものにまかれろという最悪の政治思想ではないか。
こんな強がりをいう氏も、こういわざるをえない。
「民主党は信用できないと言われれば、私も全面的には否定しない」と。
以下はほとんど意味不明、素人の私からみてもおよそ政治学者の発言とは思えない代物だ。例証もできないことを願望でのべるのだから。民主党を、社会民主主義というのはそこいらのブロガーくらいだと思っていたのだが、学者先生が規定するのだから驚いてしまう。
民主党が政権を取ったら改憲に着手し、戦争の片棒を担ぐというのは、被害妄想である。民主党を軸とした非自民連立政権は、小泉政権以来の自公政治によってずたずたにされた日本の社会を再建することを最大の使命とするはずである。この点について、小沢代表は現実的発想を持っている。昨年秋の大連立騒動の時には、私も小沢代表の政治感覚を疑った。しかし、その後は改心し、民主党を軸とする政権交代の実現に政治生命をかけている。「生活第一」という民主党の政策は、社会民主主義の方向である。 |
変化を知る、変わりうることを私たちが知ることは重要なことだ。
戦後このかた、自民党の長期政権がつづいてきているのだが、そのなかでも非自民政権が生まれてきた。その限りで、われわれは政権交代を知り、非自民政権を知っているのだ。そして、そんな政権交代劇が長年の自民党政権とほとんど変わりのないものであったことも私たちは知った。
同時に、昨年の参院選で民主党は大勝し、参院で与野党の議席が逆転した。けれど、その後に待っていたのは自・民の大連立騒動だった。そんな紆余曲折があったのだが、政治は少しずつ動いている。薬害、派遣労働、過労死、名ばかり管理職、いずれも緒についたばかりの成果だが、動いている。民主党が動かしているのか。そうではないだろう。
それでも政権交代自体の重要性を氏が説くのなら、氏の頭にある民主党による政権交代が従来の政権(交代)と異なる可能性を明示すべきだろう。何がかわるのか、はっきりさせるべきだろう。
氏はいっこうに民主党結成のいきさつを語ろうとしない。「一党支配が社会を息苦しくするという法則」をいくら語っても、二大政党が同質ならば結果は同じことである。この点で、日本において二大政党政治が志向されてきた経過を横におくわけにはいかない。そして、二大政党政治が小選挙区制と両輪であることは誰もが知ることである。
自ら「私は理想主義者であり、進歩主義者」だという山口氏だが、「小選挙区に関する限り、鼻をつまんで民主党に投票しようと訴えたい」という氏自身がかつて小選挙区制度推進の論陣をはってきたことを忘れてはならない。
(「世相を拾う」08219)
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ガルブレイスの眼- 国民救済に政府は動け
昨日、平均株価が終値で7162円90銭を記録し、26年ぶりに最安値を更新したのにつづき、本日の東京市場は、午前の取引で前日終値比168円00銭安の6994円90銭まで値を下げたが、売り買いが交錯、荒っぽい値動きが続いている。
このような急激な円高・株価下落のなか、麻生首相は「市場安定化」をかかげて、緊急対策のとりまとめを政府・与党に指示した(参照)。
①株の空売り規制の強化(*1)、②公的資金注入枠を、2兆円から10兆円への拡大、③金融機関の株式取得制限の緩和などが検討されるという。結局、字面から容易に判断できるように、ようは、これらが銀行救済策であるということ、したがって、深刻な事態であるはずのこの事態の救済の対象がここにあるということは、すなわち麻生内閣の立脚点の所在がどこにあるのか、それをそのまま端的に示しているということだ。
昨日のエントリーで与謝野経済財政担当相が資金投入額について「10兆円くらい積んでもいい」と発言したことにふれたが、政権はこれをあらためて追認したことになるし、公的資金注入枠の拡大による銀行救済に余念がないことを裏付ける結果になった。
銀行救済に余念がないといったのは、一昨日もふれたとおり、この12年間に銀行への公的資金は資本注入だけで計12兆4000億円も注入されている一方で、中小企業への貸し出しが減少しているという事実があるからである。中小企業への貸し渋り、貸しはがしの実態が浮き彫りにされただけで、その対策として資金投入が機能していないということである。
大学の先輩-私の事務所と同じビルに入居する民間研究所の研究員である-がきょう、一枚のコピーを私に差し出した。コピーは、「国民救済へ政府は行動を」と題した故ガルブレイスの日経新聞掲載の一文だった。1998年10月9日付だからほぼ10年前の記事である。バブル崩壊後のものだ。
懸命な読者の皆さんならただちに察しがつくだろうが、ガルブレイスの結論は表題に尽きている。
記事には、冒頭に要約が以下のとおりごく簡単にまとめられていた。
- バブルの生成・崩壊は市場経済には付き物であり、資本主義はその反復の歴史である。
- バブルの崩壊・処理は無謀な投機の主体をあぶり出し、淘汰する点で「創造的破壊」といえる。不可避だが正常な調整過程だ。
- バブル処理に重要なのは各国政府の役割。雇用調整などを通じて罪のない国民の救済を急ぐべきだ。
このガルブレイスの指摘を、金融危機にたち至った今日に活かす立場で読み返すと、麻生政権が現局面でとる方向もまたみえてくるのではないか。
すなわちガルブレイスはいう。
破たんした企業を救済することでははない。前述したように企業の破たんは、経済の調整促進に役立つ。そうではなく、非難されるいわれのない国民の所得や雇用、福祉を改善・向上させることがより重要であり、それが使命になるからである。所得を消費に向かわせ、購買力を持続させるよう政策的に支援すべきである。 |
ガルブレイスは、機動力があって的確な判断力を備えた政府が欠かせないといっている。そして、賢明な政府に恵まれる機会は少ないとものべている。
これに、わが麻生政権が妥当するかいなかをここでのべるに足らないが、ただ明確なのは、麻生政権が少なくともガルブレイスの処方箋とは異なる別の道を想定しているということである。
つまり、国民を救済するのではなく、大銀行を救済するための。
内需主導に切り替えるのではなく、外需に依存する体質を依然、温存するための麻生政権の緊急対策と言い切ってよいのではないか。
(「世相を拾う」08218)
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*1;株の空売りとは、証券会社から株を借りて売却し、その株が値下がりした時点で買い戻す事で利益を得る投資方法
金融危機と基軸通貨のゆくえ- 岩井克人氏の所説から
東京市場の平均株価は終値で7162円90銭を記録、26年ぶりに最安値を更新した。
株価のこんな下落に象徴されるように、米国発の金融危機によって、日本の現在は、景気の先行き懸念がいちだんと強まりこそすれ、収まる気配はない。
景気は中小企業をすでに直撃しているだろう。
昨日エントリーでは、ある種喫緊の課題だといえる中小企業の資金繰りに手を差し伸べることが必要だとのべたのだが、予定されている公的資金投入の効果がいかほどのものか、どんな役割を果たすのか、これまでの実績をふまえると期待薄ということになりかねない。というのも、銀行が、中小企業相手の資金貸し出しにきわめて消極的なことが衆院委員会で明らかにされたからだ。公的資金投入に期待するのはやめたほうがよい。現実には、公的資金の投入は、本来何の責任もない国民の税金を使って、金融機関の責任を免罪するものとしてしか機能していないというわけだ。実にシビアな問題である。
しかし、昨日のテレビ番組で与謝野経済財政担当相は資金投入額について「10兆円くらい積んでもいい」と発言していたが、投入の結果、少なくとも過去においてはそれが金融機関を助けるだけのものになっているという事実を私たちはしっかり記憶にとどめておいてよい。
本日のメディア報道によれば、こんな事態を前に麻生氏は年内解散はないと公言したとも伝えられている。解散を先延ばしにする理由の一つに、首相は、今日の世界規模の危機の深刻さをあげた。二つの意味がある。この機を逃せば今の事態が将来に重大な影響を及ぼしかねないという点で、そして自民党にとって今の局面での解散がどうみても有利ではないという点で、この時期の解散は避けなければならないという判断が働いている。
ともあれ、世界を震撼させている金融危機は歴史的にいったいどのように跡付けられるのか。
この点を、岩井克人氏が日経新聞紙上(10・24)で自説を披露している。
氏の所説は、以下のように要約できる。
- 新古典派経済学の「壮大な実験」は破綻
- 貨幣は投機の純粋形で、本質的に不安定
- 機軸通貨ドルの信用、大きく揺らぐ
氏によれば、ごく簡単にこのように概括される。自由放任主義というイデオロギーから資本主義を解放し、何らかの安定化政策を導入する必要がある、これをケインズの主張の要諦だとすると、その後、復活し隆盛を極めた新古典派経済学は、あらためて自由放任主義を基調とし、規制緩和を求めグローバル資本主義を成立させた。これは、資本主義の純粋化は効率化と同時に安定化をも実現するという実験でもあった。しかし、サブプライムローンにはじまる金融危機は、その実験の破綻を意味している。資本主義の純粋化は、効率化を増す一方で、その代償として不安定化をもたらしたというのだ。
岩井氏が貨幣は投機の純粋形で、本質的に不安定というとき、貨幣には、モノとしての価値がないという認識を前提にしている。皆が貨幣として受け取るから貨幣として受けるという自己循環をそこにみている。だから、貨幣のバブルがあり、貨幣のパニックがある。このように、資本主義というシステムは貨幣なしにはそれが存在することはなかったが、その貨幣であるからこそ投機やハイパーインフレを招くという不安定性を必然化した。
金融市場の危機といわれるものは何も今回にかぎったことではないが、今回の危機は従前にない性質のものだといわれている。岩井氏は「ドル危機」とよんでいるが、もともと米国の通貨にすぎないドルを機軸通貨としているシステムの危機である。今回の金融危機が米国発であるということが、機軸通貨であるドルの信用を低下させている。
だから、いまや第二の基軸通貨としてその地位を占めつつあるユーロがはたして文字どおり機軸通貨としての役割を果たしうるのか否か、その点に関心をまた寄せざるをえない。何よりも生成の過程での、民主的なルールのもとで誕生したという事実に着目するからである。
岩井氏は、いま、ケインズにならって「自由放任主義の第二の終焉」という資本主義の処方箋が書かれなければならないと語っている。
それほどに、資本主義のシステムとしての限界がいま露呈しているということだ。
(「世相を拾う」08217)
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公的資金投入は誰を助ける
世界を揺るがしている金融危機を「一世紀に一度の危機」といったのはグリーンスパンFRB前議長だが、事態は、その指摘があながち大げさとはいえないもののようにも思える。
本日のテレビ番組では、米下院政府改革委員会での公聴会のもようを伝えていた。その中で同氏は、議長時代に「過ちを犯した」と、サブプライムローン問題に端を発した金融危機に関連して、融資監督上の誤りを認めていた。要するに、氏の発言は、金融機関側にとって、規制よりも利益追求が株主や株式資本を保護をすると考えたことが誤りだったというものだ。
グリーンスパンの想像を超えて、深化した危機。信用度の低い高金利型住宅ローンを証券化し、金融商品として売り出す。そこに世界中の投資家たちが群がる。
返済能力のない者にどんどん貸し出し、その債権を売買自由な証券にかえ売りさばくのだから、このシステムそのものがギャンブルじみている。
100年に一度の危機は、こんな形で日本にも波紋をよんでいる。
24日の東京市場は円高・株安が急速にすすみ、円相場は一時1ドル=94.75円と13年ぶりの高値をつけた。金融危機を背景にして、景気の先行き懸念がいちだんと強まったためだ。急激な円高をうけ、東京株式市場は一部上場銘柄の9割が値を下げ、平均株価は8000円を割った。
すでに米国は70兆円を超える公的資金の投入を決めた。日本では、金融機関への公的資金の投入を可能にする新金融機能強化法案を24日閣議決定し、政府は国会に提出した。法案は、今年期限切れになった旧法を4年延長するものだが、報道によれば、資本投入を活用する金融機関の枠の拡大、資本投入の条件緩和などが変更点とされている。また、最終的な損失がでた場合、血税で穴埋めする。
けれど、公的資金の投入ははたしてどんな役割を果たしているのか。衆院財務金融委員会で佐々木憲昭議員が明らかにした(参照)。
氏によれば、銀行から中小企業への貸し出しが、96年3月時点は約263兆円だったのに、今年8月には179兆円に減っている。この12年間に銀行への公的資金は資本注入だけで計12兆4000億円も注入されている一方での、中小企業への貸し渋り、貸しはがしの実態が浮き彫りにされたといえる。銀行はまともな役割を果たしていない。
だから、深刻な中小企業の資金繰りに手を差し伸べることが今求められているのだが、公的資金の投入は役にたたないことが実績で示されているわけだ。むしろ公的資金は、本来何の責任もない国民の税金を使って、金融機関の責任を免罪するようなものだ。
国民にむかっては自己責任をあれほど強調する政府だが、大銀行になると、こんな免罪も厭わないのだから、大企業・大資本優遇は極まっているといわざるをえない。
公的資金投入はいったい誰を助けるのか。
(「世相を拾う」08216)
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企業の権益を守るためにある- 社会保障国民会議
恐縮ですが、私事からはじめます。
昨日は、来年予定している全国的な、大きなイベントのために、下見を兼ね、開催予定地の皆さんとの懇談などに、青年たちとともに一日を費やしました。一日の行程を終え、最後は博多ですから、もつ鍋を一緒につつきました。青年というのは、ふだん病院などで働く医師であり、看護師であり、薬剤師、調理師などとして働く若者たちです。彼らは、医療分野で働く者たちですから、いわゆる社会的な使命感が人一倍強い。いいかえれば、彼らは自らの存在が他者によって支えられていることを自認しているということです。他者の存在を前提にしているということです。
これを一つの立場としてとらえるなら、それは本来、いわゆる自己責任論という考え方と真っ向から対立するはずのものだと私は思います。しかし、このかた、日本では自己責任を問うのが当たり前のような、それにふれないとまちがいであるかのような風潮がまかり通ってきました。
一昨日、当ブログは、日本での新自由主義のゆきづまりに言及しました。
そこで、強調したのは、この新自由主義がそれまでの日本社会の安定に寄与してきた3つの柱を、逆に侵食してきたことでした。その3つとは、企業社会と自民党の旧来の利益誘導型政治、そして社会保障制度でした。エントリでは、そのうちの企業社会について少しばかり掘り下げました。
新自由主義はそれを下支えする運動があると指摘したのはハーヴェイでしたが、ファナティックなまでの、小泉元首相の「改革を止めるな」というアジテーションへの期待、共感として、まさに運動として表されたのが自己責任論でした(参照)。
ところで、ごく最近、東京都で医療機関側の受け入れ不能も重なって、結局、妊婦が死亡するという痛ましい事故が起こりました。この件をめぐって、舛添厚労相と石原都知事が泥を投げ合っています。一方が厚労省の責任を問題視すれば、片や都の責任を追及する。こんな図式が伝えられています。醜い姿をよくここまで晒すものだと私には思えるのです。
根底に医師不足という実態が横たわっていて、それが現場の受け入れ不能状態をもたらす一因になっているのは、いわばいわずもがなであって、その限りでは石原氏の指摘はまちがいではないといえます。けれど、たしかに厚労省がすすめようとする療養病床削減計画になびくような計画を東京都がたてなかったことは私も承知していますが、当の石原氏自身の社会保障にたいするこれまでの姿勢は、居丈高に厚労省の責任を追及する姿と整合するのでしょうか。そうではない、こう思うのです。石原氏の視線が、先にあげた医療分野で働く若い労働者の視線とはたして同じものなのでしょうか。周りに自分とは異なる存在がある、それに自分が支えられているという視野を、石原氏がもちえたでしょうか。いちいちここであげることはしませんが、事実はちがうのではないでしょうか。
一方の舛添大臣。都に責任を押し付けることで、自らへの批判をかわそうという意図が明々白々です。
しかし、こんな事件も最近まで受け入れ側を単に追及するだけの報道がほとんでではなかったでしょうか。今でもこのようにその傾向は依然として残っていますが、それでも背景に社会的構造があることに目が向き始めています。医師不足に端的に表されるような医療のいたるところでの崩壊現象がある。産科崩壊の実態がある。
医療崩壊は一年、二年でつくられたものではありません。医師養成数を絞りに絞ってきましたし、診療報酬制度を最大限活用して供給側の機能再編を上から図ってきました。一方で、自己責任論の変形ともいえる受益者負担の考え方でもって厚労省は患者・利用者の負担増を迫ってきたといえます。
社会保障の面では、新自由主義は、たとえば以上のような施策に貫かれてきました。
社会保障は、財政面、財政赤字を理由にして、税金のつかいみちでより大企業を優遇する方向にするための削減の対象となってきました。その結果、大企業の空前の利益確保の一方で、貧困、格差がすすんでいったといえます。
もともと、日本の社会保障制度は欧米にくらべて脆弱だといわれてきました。労働者が企業社会という中に置かれ、いわば自己完結的な枠組みによって矛盾をそのなかに閉じ込めてしまうので、労働者の社会保障などは埒外に置かれてきたといえるでしょう。ですから、日本の社会保障は、企業社会とは無縁の、あるいは農業や中小企業などもふくめた自民党の旧来の利益誘導型政治とは関係のない人びと、つまり高齢者や健康ではなく仕事につけない人、母子家庭など限られた対象のものではなかったでしょうか。
このような役割をもってきた社会保障にも手をつけていったのが新自由主義、構造改革です。
一昨日、大企業優遇の政治を温存し、消費税もあげる方向で構造改革を手直しするのか、それとも大企業に応分の負担を求め、構造改革をやめるのか、これが争点だといいました。
社会保障のほころびが明らかになって、いよいよ国民の反発は後期高齢者制度でみられたように従来にないものとなっています。舛添氏のこの間の発言は、それを見事に反映し右往左往を繰り返したものですが、構造改革路線のいくらかの修正にみえながら、同時に、社会保障国民会議がくりかえし消費税増税をほのめかしているように、依然、大企業の権益をいかに確保するのか、この点に支配層の関心が集中していることにかわりはありません。
(「世相を拾う」08215)
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ブックマークに追加しました- ススムが進む 私の独り言
テレビとともに世論を操作するという言葉が的確にあてはまるくらいに影響力をもつ新聞。朝日新聞の姿勢について、志位質問と迷走する「朝日」、民主党でふれましたが、その際、触発されたのが、ススムが進む 私の独り言 さんでした。
紙背に、働く者の気骨というものを感じます。
下記の画像をクリックすると、 ススムが進む 私の独り言 にとびます。
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新自由主義の行き詰まり- 大企業本位を問え
小泉が辞めて、構造改革の矛盾が語られはじめ、支配層もいまや構造改革をこのまま続けることはできなくなっています。構造改革がゆきづまっているわけです。
そもそも新自由主義、構造改革とは、90年代までの日本社会の安定を形づくってきた条件を切り捨ててきました。
日本社会の安定をつくってきた条件の一つは、高度成長期とともに構築されてきた企業社会ではなかったでしょうか。
正社員として採用され、終身雇用で定年まで勤め上げる、これが当時の労働者の典型でした。この点では、不況になると首を切られ、業績に応じた賃金、40代をすぎると頭打ちになる賃金を採る西欧と異なるわけで、そのちがいをもとに日本型雇用とも呼ばれてきました。同時に、渡辺治によれば、企業社会は、欧米の福祉国家に代わり労働者を統合したのです。つまり、先にのべた雇用環境のなかですから、西欧では労働者を守るために社会保障制度の充実を柱にした労働者政権をめざす方向にインセンティブが働いたのにたいして、日本ではそうではなく、日本型であるがゆえに、激しい社内競争、昇進昇格をめざす方向に労働者の関心が向かうようになるというわけです。したがって、そこでは言論の自由や思想・信条の自由、あるいは労働組合への関心よりも、自らの企業への帰属に関心が集中するのです。その結果が、たとえば過労死やサービス残業の常態化を生み出しました。
ましてや、他人のことなどかまってられないわけです。当時もすでに非正規雇用労働者は下請けなどを中心に存在していたはずですが、失業とか非正規とは一部の問題であって、自分たちの問題ではない、として後景に追いやられてきたのではないでしょうか。
しかし、この日本型雇用がバブル崩壊後、経済のグローバル化のなかで足かせになる。日本の企業は国際競争力をいかに保持するのか、あるいは競争力をいかに回復するのかに心血を注いできました。BRICsと今日よばれる中国やインドを、あるいは米国やヨーロッパ諸国を相手に競争を余儀なくされる日本企業にとっては、それが最大の関心事であったといえます。
したがって、競争力回復のために標的にされた一つが企業社会でした。同じように、自民党の旧来の利益誘導型政治、そして社会保障制度がターゲットにされたといえます。
では、なぜ企業社会は日本企業にとって桎梏となってしまったのか。
労働者を企業につなぎ止めてきた結果、日本の競争力はかつて群を抜いていました。が、グローバル化のもとでは、収益性の高い部門にフレキシブルに労働力を集中させ、生産、販売できる体制が不可欠ですから、終身雇用はむしろ足かせになる。しかも、敗戦後の若い労働者で支えられてきた高度成長期とは異なり、この時期になると、彼らは中高年期に入っており、年功序列賃金がかえって重くのしかかってきたのです。これでは、日本の数分の一の賃金で労働者を雇えるアジア諸国と比較して割高とばかり、正規から非正規への置き換えが日本国内ですすむことになったのです。そしてグローバル化とともに安上がりな海外生産がふえる結果となりました。
同時に、この過程は、これまで日本の競争力を支えてきた国内の下請けの排除にもつながったことを意味しています。
こうやって、構造改革とよばれる日本での新自由主義の具体化を跡づけてみると、日本社会のなかでの企業の支配に行き着くのです。
ですから、言葉をかえていえば、新自由主義、構造改革路線をめぐる対決の核心は、大企業優遇の政治を温存し、消費税もあげる方向で構造改革を手直しするのか、それとも大企業に応分の負担を求め、構造改革をやめるのかどうか、という論点にある。
新自由主義に反対するならば、あるいは小泉構造改革路線に反対する立場ならば、大企業優遇をただすという方向に帰着するのではないでしょうか。
この点を欠いて、いくら新自由主義に反対と口でいったところでほんとうの敵と対決することにはならないのです。
この間の新しい展開は、日本ではじめて新自由主義、構造改革に反対する運動が生まれたことでした。たとえば反貧困ネットのように。全労連はもちろんですが、連合でさえ、非正規の問題を無視するわけにいかなくなって、大きな広がりをみせています。
蟹工船ブームが世間で話題になって、柄谷行人などはこれを揶揄し、水をさそうとしていますが、単純ではないにしても、今日の日本社会が矛盾をはらみ、不満が鬱積し、現状を脱しようとする意思がそこに働いていることをブームは示しているのではないでしょうか。
しかも、4月1日からはじまった後期高齢者医療制度は、当該の後期高齢者はもちろん、多くの国民から批判が集中し、制度が設計された当初からしてみるとその姿を大きく変更せざるをえませんでしたし、そのことによって新たな矛盾を生じるという自民党政治の政策的混迷もまた、構造改革路線の矛盾の露呈だと私は思います。
医療と介護の費用として2025年段階で11兆―14兆円の新たな税財源が必要になるとの試算結果を、政府の社会保障国民会議は23日、医療・介護・福祉分科会に示しました。新たな税財源を消費税率に換算すると3―4%に相当すると算出しています。「社会保障の財源確保」を口実にして消費税増税の論議を加速させる狙いです。同会議は5月にも、年金財源を「全額税方式」にした場合、消費税率は9.5―18%になるとの推計を公表したのです。
消費税増税によって応分の負担を回避しようとする大企業本位の立場を、明示的に河村官房長官も、社会保障国民会議もとっています。
そうであるならば、繰り返しますが、大企業優遇の政治を温存し、消費税もあげる方向で構造改革を手直しするのか、それとも大企業に応分の負担を求め、構造改革をやめるのか、これを我われは明確に問わねばなりません。
(「世相を拾う」08214)
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新テロ法延長の意味・または・民主党の動揺
アメリカの戦争戦略が世界のいたるところでうまくいかなくなっているなかで、米国は、日本にたいする派兵要求をいちだんと強めています。安倍首相が任期中に改憲をやるといっては頓挫し、その後のテロ対策特措法の延長さえ危ぶまれる状況にあったわけですから、なおのこと、日本にたいする米国の苛立ちと不満は相当のものだと考えないといけないでしょう。
ふり返れば、安倍氏の明文改憲主張が逆に国民の改憲反対運動に火をつけました。九条の会の活動をはじめ、世論の改憲反対の意思は確実に高まっていったのではないでしょうか。
それは、この間のメディアの世論調査にも表われています。読売でも、朝日・毎日でも同様の結果です。よく引き合いに出されるのは九条の会ができた2004年には、改憲賛成は65%(読売)でした。けれど、それ以後、改憲派の占める割合は徐々に低下し、今年4月には41.5%となって、ついに改憲反対派を下回ることになったのです。
こんな世論の動きに反応したのが民主党でした。思い出していただきたいのは、04年マニフェストで民主党は明確に改憲を主張していました。ところが、参院選前の07年マニフェストでは改憲主張を封印してしまったのです。同党のこんな変身は何も防衛問題にとどまりません。同じく参院選前に、従来、同党が新自由主義的政策を自民党と先を争っていたのに、これもまた、横においてしまった。そして昨今の右に左に揺れる同党。選挙前のいつもの行状といわなければなりません。
話を元に戻すと、安倍氏のあとを継いだ福田氏の難問の一つもここにあったはずです。改憲の青写真を描く上で手詰まりの状況のなかでの政権誕生でした。小沢氏との大連立密室協議はまさにこの過程のなかでの選ばれるべくして選ばれた選択肢の一つでした。現状でこそ自公で衆院は3分の2を上回りますが、今後、民主党が同意しなければ改憲条件の3分の2はとれないのですから。しかし、結局それも破綻。
ただ福田首相の選択肢は、もう一つありました。安倍氏のような明文改憲路線ではなく、解釈改憲を先にすすめる手法です。つまり、その手段が派兵恒久法でした。したがって、それは現局面での焦点ともいえるものです。
なぜ、派兵恒久法が焦点なのか。
麻生氏が国連の場で米国への忠誠を誓ったのも、先にふれた日本への不満と苛立ちに応えるためのものだと見て取れます。日米同盟の強化を強調し、集団的自衛権に踏み込むことによって、つまり自衛隊の海外派兵に言及することによって、日米関係を危うくしないという、ある意味で決意の表われでもあったでしょう。
当の米国では大統領選の最終盤です。オバマ優勢が伝えられていますが、マケイン・共和党=タカ派、オバマ・民主党=ハト派などと単純化してしまうと、日本にとっても、世界にとっても禍根を残すことになりかねません。私はどちらがなっても、ほとんど変わることはないだろうと予測しますが。
むしろ民主党は共和党と比較して、同盟国により負担を求める傾向が強いと説く識者もいるくらいです。
その上で、注目すべきはジョセフ・ナイがオバマのブレインに入っていることです。忘れもしませんが、ナイは、新ガイドラインをつくった人物。いっそう日本への要求、米国の肩代わりを求める圧力は強まると推測するのです。
今国会では、衆院をすでに新テロ法延長案が通過しました。特措法方式は、本来の米国の要求に応えるには間尺にあわないことははっきりしています。自民党は、特措法を重ねるごとに自衛隊の活動と役割をしだいに拡大していますが、それでも強い限定があるのにちがいはありません。
これをひとまず突破する手段が、派兵恒久法と位置づけられるでしょう。
いまの局面で、自民党からすれば民主党を抱き込むもっとも有力な手がかりが派兵恒久法でしょう。国連のお墨付きがあれば地上軍派兵もOKという、この面では自民党以上に右寄りともいえる対案をもつわけですから。
こうした解釈改憲を前面に押し立てて、米国の世界戦略に応えていく、その過程で民主党との協調を確立し、改憲への条件を構築していこうというのが自民党のいまの戦略だと思えます。
その上での、今回の新テロ法延長法案の提出であって、国会の中で自民党・公明党と民主党がどんな態度をとるのか、注目せざるをえません。
単なる給油法案という言葉で片づけてしまうのはやめたほうがいいかもしれません。一つひとつの動向が、改憲への道に直結しているのですから。新テロ法延長法案の審議の重さは、本来そこにあるのではないでしょうか。
(「世相を拾う」08213)
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追記;ガイドラインをめぐる日米の協議のもようが以下の東京新聞の記事で紹介されています。
【新防人考 変ぼうする自衛隊】
第四部 文民統制の真相 <5>ガイドライン
■悲劇の裏で同盟強化
グラウンドは怖いほど静かだった。
1995年10月21日、沖縄県宜野湾市の海浜公園で開かれた県民総決起大会。参加した8万5千もの人々は、米兵が起こした少女暴行事件への怒りと悲しみを共有していた。
ワイシャツの袖をまくり上げ、壇上に立った大田昌秀沖縄県知事は「幼い子どもの尊厳を守れなかったことをおわびしたい」と陳謝した。若者代表の女子高生が「軍隊のない、悲劇のない平和な島を返してください」と訴えると、涙ぐむ人もいた。
集会は米兵の綱紀粛正、日米地位協定の見直しや基地の縮小など、反基地運動への取り組みを決議して終えた。日米両政府が沖縄米軍基地の整理・縮小を協議する特別行動委員会(SACO)を設置するのは翌月のことだ。
「事件をきっかけに日米関係のあり方が見直される」。そんな沖縄の期待は見事に裏切られる。翌年四月、両政府は日米の軍事協力を極東からアジア太平洋に拡大する日米安全保障共同宣言を発表。同時に米軍と自衛隊が物や労力を融通し合う日米物品役務相互提供協定(ACSA)を締結、軍事同盟は格段に強化された。
実は、事件とは無関係に、日米関係を見直す動きがひそかに進んでいたのだ。
95年9月上旬、東京・霞が関。外務省の会議室で、折田正樹北米局長とジョセフ・ナイ米国防次官補が向かい合っていた。後に延期されたが、2カ月後に迫ったクリントン大統領訪日の際に発表する日米安保共同宣言の文言を詰めていた。
共同宣言は、日米防衛協力指針(ガイドライン)見直しに言及し、日米安保体制を再確認する内容だった。
この時期、ガイドラインの見直しが浮上したのは、北朝鮮による核開発危機がきっかけだった。核開発を進めていた北朝鮮は93年3月、核拡散防止条約(NPT)脱退を表明。米国は朝鮮半島有事が起きた際、自衛隊がどんな米軍支援ができるか、日本政府と非公式協議を繰り返した。
機雷掃海、米艦艇への洋上補給、負傷兵の捜索・救難。米国が示した支援要求は2千項目近くに上ったが、日本側の回答はことごとく「ノー」。怒った米側は、周辺有事で米軍支援が可能となるようガイドライン見直しを要求した。
折田氏は「朝鮮半島有事で日本は何もしないで済むはずがない。見直しは必要。これは日本の安全の問題だと思った」と回顧する。
大田知事は、米国の論文からガイドライン見直しの動きを早い段階からつかんでいた。ベトナム戦争当時、沖縄が米軍の前線基地と化し、地元の労働者が死体処理に従事させられた姿が脳裏に浮かんだ。
「周辺有事で日米が連携すれば、ベトナム戦争のような事態が再来しかねない」
沖縄の基地問題に注目が集まる中、日米両政府の作業は水面下で進んだ。「基地問題は重要だが、安保体制の充実もないがしろにできない」(当時の外務省幹部)との意識が働いていた。
96年4月17日、東京・元赤坂の迎賓館。クリントン大統領と橋本龍太郎首相が署名した日米安保共同宣言には「ガイドライン見直しを開始することで意見が一致した」と明記された。沖縄の少女暴行事件は、日米関係に何の変化も呼び込まず、自衛隊と米軍が一体化する最初の一歩がこの日、踏み出された。(肩書はいずれも当時) =おわり
<メモ>日米安保共同宣言 1996年4月、当時の橋本龍太郎首相とクリントン米大統領が署名した。冷戦期の日本防衛を主眼とした日米関係をアジア太平洋の広域的な同盟に移行させた。日米防衛協力指針(ガイドライン)見直しにつながった。
日米防衛協力のための指針(ガイドライン) 日米安保条約の円滑な運用のために作成された日米の軍事協力方針。新・旧2種類あり、冷戦後、97年改定された新ガイドラインは、日本防衛に加え、周辺有事の際の日米軍事協力に踏み込んだ。
*点線は管理人。
国民をないがしろ- 「国会戦術」
私たちはこれらの断片的な情報から判断する術しかもちえていないわけで、その限りでいえば、11月末投票の総選挙という想定は遅れそうな気配を私も感じるのです。
そうなると、解散、選挙突入をこそ現局面での最大の政治目標としてきた民主党にとっては、青写真が狂ってしまうということになりかねません。むしろ、そうならないように国会の場面で、審議そっちのけで、自民党と法案を通過させる算段を練り上げてきたのではないでしょうか。わずか2日間の新テロ法延長法案の扱いに端的なように。
一連のこの経過は、少なくとも民主党の思惑からは相当に狂い始めているのは事実で、ここに至り、民主党は「国会戦術」の見直しを検討しているようです(参照)。つまり、解散先送りの態度に自公政権がでれば、「対決」姿勢を強めるとか。でも、これってさかさまのカンジがしませんか。そもそも政党は個別課題でとるべき態度ははっきりしているものでしょうが、その態度を「敵」の出方でころころと変える、こう宣言しているようなものです。これは戦術の問題だと開き直るのでしょうか。たとえば、新テロ法延長法案にいったい民主党は賛成なのでしょうか、反対なのでしょうか。あるいは後期高齢者医療制度に反対なのか、賛成なのか。
同党のいま考えているところから判断すると、反対でもなく、賛成でもない、時と場合によって態度は変わるといっているようなものです。政権をとろうというのなら、自民党とこうちがうということを、有権者に堂々と訴える、このことが民主党に最も求められているのではないでしょうか。
さて、首脳会議に積極姿勢をみせている麻生氏です。
そこで中心課題になる金融危機打開ですが、その金融危機が国内景気を揺さぶり、ついに政府は10月月例報告で、景気の基調が弱まっているとその判断を下方修正しました。2カ月ぶりだといわれています。いうまでもなく、金融危機は米国や欧州だけでなく世界全体の実体経済を冷え込ませ、日本がその例外のはずもありません。
日本はこれまで、国民生活をないがしろにし、国内需要は弱いまま外需に依存してきました。日経社説(10月22日付)の「悪条件の第一は頼みの綱である外需の鈍化だ」という表現に依存体質がはっきり出ています。
日本経済は、簡略化していえば、小泉「構造改革」路線で、大企業のもうけはどんどん増えたのに、国民の暮らしはいっこうによくならず、国民にとっては「回復感」のない景気拡大が続いてきたといえます。不安定雇用の拡大や社会保障の削減によって国民の暮らしはむしろ悪化し、貧困と格差の拡大が日本社会に亀裂をもたらしているのです。
アメリカの金融危機とそれにともなう実体経済の悪化は、それまでの原油や食料品の価格上昇と負担増もあいまって、二重、三重に国民の暮らしを直撃しています。だから、今の不況や円高の犠牲が国民にしわ寄せされるのを断ち切る対策をとらなければ、暮らしは破たんする、こう推測されるでしょう。
銀行の貸し渋りや貸しはがしが心配されています。一方で、私たちは日本の大銀行がこんな環境にあることも知っておいてよいでしょう。1990年代の金融危機のあと、国民の税金から公的資金の投入を受け、税金もまけてもらいました。その結果、みずほ、三菱UFJ、三井住友の三大メガバンクだけでも年間3兆円もの大もうけをあげてきました。ところが金融危機がはじまるとこれらの大銀行は中小企業などへの貸し渋りや貸しはがしを強めていて、それが資金繰りの悪化や経営破たんを招いています。貸し渋りや貸しはがしを即刻やめさせることが日本社会にとっても緊急な課題です。
他方で、自動車や電機などの大企業が「構造改革」路線のもとで非正規など安上がりな雇用を増やし、輸出を拡大して大もうけを続けてきたことを私たちは知っています。これらの企業は、経済が悪化し始めると最初にやることが雇用を切り捨て、下請け企業にも単価の切り下げや発注削減を押し付けることです。大企業だけは生き残ろうという魂胆です。 すでにトヨタ自動車などで期間工の削減などが始まっています(参照)。雇用確保や下請け保護の社会的責任を果たさせられる政治が今、求められていると思います。
いま政府が検討しているのは、銀行への公的資金投入や大企業への設備投資減税、公共事業追加など、大企業向けの対策が中心です。そうではなく、いまもっとも急がれるのは不況や円高の犠牲が中小企業や国民にしわ寄せされるを阻止し、国民生活を守り、暮らしを立て直す抜本的対策をとることです。
応援すべきは大企業ではなく国民生活、これを基本にすえた政策を、どの党が主張し、実行に移すよう迫るのか、この点を今、しっかり見届けることが必要です。
国会の審議そっちのけで、「戦術」をちらつかせ、政局をもてあそぶことほど、それと対極に位置するものはないように私には思えます。
(「世相を拾う」08212)
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どうにも止まらない民主党
自衛隊の海外派遣に絡み、民主党の小沢一郎代表が「国連決議があれば海外での武力行使は可能だ」と主張していることに関し、同党の直嶋正行政調会長は20日の衆院テロ防止・イラク支援特別委員会で「民主党が政権を取ればそういう方針で作業に着手する」と述べ、政権交代後に必要な法整備をすることにより、政府の現在の憲法解釈を実質的に変更する考えを示した。
憲法9条に関する現行の政府解釈は、自衛隊が海外で武力行使することを禁じており、国連決議を前提に認めることには民主党内でも慎重論が強い。このため直嶋氏は「世論の支持や近隣諸国の理解が必要で(実際に派遣するかは)総合的に判断する」とも述べた。 直嶋氏の発言に関し、共産党の市田忠義書記局長は20日の会見で「民主党は日米同盟絶対という点で自民党と同じ土俵に乗っている」と批判した。 |
山本リンダなんて、私にとってどうでもよい存在なのですが、まあ彼女のかつての歌の歌詞がこれほどぴったり当てはまるのも、そんなにあるものではありませんから。民主党をとりまく環境はそんなものでしょう。
昨日、拙エントリーに山口二郎教授に登場してもらいましたが、山口氏の混迷ぶりは、たとえばこんな直嶋正行の言動のたぐいに一因があるのでしょう。では簡潔に。
再三のべているように、もともと自民党との政策的対決軸をもっていないのですから、こんな対応もおよそ推測がつくというものです。政権につくためには、そもそも違いがないのだから、ソフトランディングが必要との判断もある意味でうなづけるし、自民党との虚構のちがいを強調する時期は脱したという判断なのでしょう。自民党と差異がないことをこんどはアピールしなかればならないからです。
しかし、昨今の国会内での民主党のふるまいを今一度、ふりかえってみる必要がありそうです。民主党に、どこか自民党とはちがったものを期待している人ならば。そんな風潮も少なくないように伝えられているわけですから。
平和・リベラルなどという感触を同党に感じてきた人びとは、あらためてこの時期にそのこと自体を問う必要があるのではないでしょうか。
直嶋正行氏の言葉は、民主党の対応なんて状況しだいでフリーハンドなのだということを証拠づけたということです。
平然とこんな言葉を(直嶋氏が)語ることを民主党が許していることをこそ厳しくみるのです。
それにしても、民主党は、政権に近づいたと彼らが思い込めば思い込むほど、自民党にちかづいていくのですね。嗚呼、どうにも止まらない。
(「世相を拾う」08211)
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二大政党政治推進論者の破綻
あえてここでは推進論者というが、山口二郎氏のことである。
氏が、自民、民主の二大政党政治を念頭において、この間、自説を展開してきたことはよく知られている。
以下の週刊誌の記事においても、氏自身の立場をつぎのように明らかにしている。
この十数年間、政権交代可能な政党システムを作ろうと主張してきた 解散総選挙で何を問うのか |
と。また、その彼が、こう自らの心情を吐露している。素直にこの一文を読むかぎり、氏はもはや、二大政党推進のこれまでの立場にまったく自信喪失してしまったかのようにみえる。
最近の日本を見ていると、どの党が政権をとるかという問題よりも、そもそも日本で政党政治が意味あることをしているのかというより根本的な問題に我々は直面しているように思える。国会や選挙の場で自民党と民主党が角を突き合わせているが、構造改革路線が自民党でも否定された今や、二大政党の政策的な対立は見えにくい。むしろ、二大政党の政策対立なるものが社会から浮き上がっている。(同上) |
つまり、話を急げば、氏のこの混迷は、あたかもこの二つの政党の間に「政策的対立」を見出そうとし、あるいは存在するものとして自説を説いてきたところに起因している。別の言葉でいえば、氏が「政策的な対立」のなさを嘆き、自信喪失に陥ってしまったこと自体が、二大政党を対立するものであるかのように描き、国民に説いてきた氏のはたんを表している。
いよいよ自民党政治がゆきづまって、二つの政党の「交代」が実現の可能性をもつものとして我々の眼前に迫ってくれば、本来ありえない対立をあたかもあるかのように振る舞っているのだとすると、そうすることに無理がある。軋みが生じる。
その格好の証拠が、昨年の大連立騒動であった。
民主党という政党は、大連立の動きそのものを結局、小沢一郎すべてに責任をかぶせ小沢個別の問題として幕を引いてしまったが、民主党は元来、政権に近づけば近づくほど、党内の矛盾、あるいは有権者、支持者との矛盾がいっそう深まるものではなかったのか。参院選で反自民の姿勢を宣伝したものの、その姿勢と民主党の政策との乖離の埋めように腐心した結果の大連立(構想)だったのだから。
それだけではない。
最近の民主党の姿勢をみるがいい。
大げさにいえば、すべての政策課題で態度表明をあいまいにするか、先送りする(参照)。その繰り返しのように思う。
ところで、左派、共産党はこの衆院選にあたって、政権の担い手の選択ではなく、政治の中身の変革を、というスローガンをかかげ、そこに今回選挙戦の焦点をあてている。
政党としては当たり前の主張だろう。なぜなら、民主党のいう政権交代を例にとると、同党の強調する政権交代というものが、党首がかわるという意味での自民党内の交代と異なるものならば、どのように政治をかえるのか、有権者に示すことくらいのことはたやすいだろう。むしろ、そうしてこそ、ちがいも、争点もみえてくるわけで、有権者にとっては選択しやすいし、政党にとっても選ばれる可能性もまた広がることになるはずである。
けれども、今もって、この問いに民主党は答えられないでいる。
それどころか、論戦にさえ持ち込むことができずに、補正予算案に賛成し、新テロ法延長法案の採決を容認してしまうありさまだ。
いいかえると、自民党政治のゆきづまりとは、民主党にとっても同じことだ。なぜなら、自民党政治の本質を大企業・財界優先の政治、米国追従の政治というところに置くかぎり、この点では民主党もかわらないからである。
それでは、山口氏は、これまでの自説の展開を反省し、自己批判するのだろうか。結論から先にいえば、この一文は、結果的に左からの、共産党からの批判に抗しきれず、以下に示す部分では、ほとんど無条件にその批判を受け入れたものともいえなくはない。
権力を獲得して、一体何をするのか、どのような社会を作るのか、理念が伝わってこなければ、政党政治は国民から見放される。 |
それでも、「財源にこだわって、政策論争が矮小なものになっても困る」というくだりに民主党への氏の未練が透けてみえる。
しかし、言葉を返すようで悪いが、氏の懸念は杞憂にすぎない。
先にのべたところから容易に察することができるように、自民と民主の間で政策論争など起こりえないのだから。
むしろ私が心配するのは、氏は簡単に混迷から抜け出せず、いっそうその深みにはまるという予測が的中することだ。
それは、たとえば、「権力を獲得して、一体何をするのか、どのような社会を作るのか」、それを明示しないでは見捨てられるといいながら、片方で、「政権交代は政策転換を実現する手段ではなく、それ自体目的である」とあくまで政権交代至上とばかり断言する論理的矛盾を放っておいてはばからない無神経さを感じるからである。
(「世相を拾う」08210)
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新テロ法延長法案- 戦争の深みにはまるのか
新テロ法延長法案が重大な局面を迎えています。来年1月以降もインド洋での海自の給油活動を継続するという内容ですが、衆院委員会をたった2日間の審議で採決し、自・公、民主は、衆院を21日に通過させようとしています。
民主党は、早期解散のために採決を急ぐというのですが、これは本末転倒でしょう。米国のアフガニスタンでの戦争がいきづまり、現地政府をふくめて政治的解決を求める声は日増しに強まっているのに。戦争で事態は解決できない。ところが、米国は、日本の協力をさらに要求し、以下のように、アフガニスタンへ本土への自衛隊派遣を求めています(*1)から、事は重大です。こんな状況もふまえてみれば、給油活動の継続は、米国のすすめる戦争への加担をいっそう加速する道だということははっきりしています。
米国が日本に、アフガニスタンの復興支援活動として自衛隊ヘリコプターの派遣などを打診していたことが18日、分かった。
具体的には〈1〉CH47輸送ヘリによるアフガン国内の輸送〈2〉C130輸送機による海外からアフガンの拠点空港への輸送〈3〉地方復興チーム(PRT)への人的貢献――の3分野。インド洋での海上自衛隊の給油活動の継続に加えて、米側がアフガン本土での日本の貢献拡大に期待していることが改めて浮き彫りになった。 |
ところが、麻生首相は、航空観閲式で、給油活動にふれて「この活動から手を引く選択はない」とまで、いいきりました。
さらにいえば、新テロ法案をめぐる政府・自民党と民主党の間では、海外派兵の「恒久法」の検討や「海賊対策」のためソマリア沖への自衛隊派兵まで持ち出されていることも軽視することはできません。
共産党がこうした動きを批判しているのはいうまでもありませんが、さすがに社民党・福島党首も、民主党の姿勢と同党の対案について「ある意味、政府案よりもひどい中身だ」と批判しました。
政府も民主党も日米同盟を「不変」「第一」とする点では一致。これでは、運命共同体よろしく、アメリカの無法な戦争の深みにはまるほかはありません。
日本の果たすべき役割は、同じアジアの国として、戦争支援をやめアフガン問題の政治的解決のために努力することではないでしょうか。そのためのイニシャチブの発揮こそ必要でしょう。
この点で、自公と民主党の姿勢は強く批判されなければなりません。
自公政権からの「交代」を呪文のように繰り返すだけの言説もまた、きびしく問われているということです。
(「世相を拾う」08209)
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*1;「しんぶん赤旗」は、すでに7月に米国からの打診、働きかけがあったことを伝えています。
アメリカは七月に大統領特使を日本に派遣し、アフガン本土への自衛隊の派兵に加え、戦費を日本にも負担するよう要求しています。河村建夫官房長官は、「正式に要請があれば検討する」といっています(10・20主張)
教育には金を出さない。。
一週間ほど前のものだけれど、日本の教育費にふれた記事があった。
なかなか経済が上向きにならないなか、お子さんの教育費をどうねん出するかで、日頃頭を悩ませているご家庭も少なくないと思います。しかし、そもそも日本は、先進国の中でも教育費について家計負担の重い部類に入っているのです。経済協力開発機構(OECD)がこのほど発表した『図表でみる教育OECDインディケータ(2008年版)』という報告で、そうした実態が改めて浮き彫りになっています。
報告は2005(平成17)年段階でのOECD加盟国各国のデータを比較したものです。全教育機関に対する支出の状況を見ると、国や地方自治体などによる公財政の割合は加盟国平均で85.5%ですが、日本は68.6%と、比較できる26カ国中24位という低さでした。ちなみに25位は米国、26位は韓国です。
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日本の公的財政支出が最低という数字をみせつけられて衝撃をあらためて受ける人もいるだろう。公的支出の低さは、高校授業料の無償制度をとっている国がOECD加盟30カ国中26カ国あるのにたいして、無償でないのは、日本、韓国、ポルトガル、イタリアの4カ国という数字にも表れている。
大学で無償なのは14カ国、その他も多くは少額、返済のいらない給付制の奨学金を整備している。一方の日本。奨学金は7割が有利子(*1)だといわれている。昨年12月には、民間ローンにするため利率を引き上げ、もうけ口にしようと閣議決定されている。
無償化が世界の流れだということを、上記エントリーでのべたが、日本は、無償制の導入を提言した国際人権規約に留保の態度をとっていて、同じ立場をとるのはマダガスカルとルワンダしかない。しかも、国際人権規約は40年以上も前に批准されたものだ。
高い学費、卒業しても多額の借金返済がまっている。受益者負担、自己責任の名のもとに異常な日本の教育環境はつくられてきた。日本の高学費は日本を確実に衰退させている。将来の社会の担い手たる若い世代の育成には、社会的責任が必要である。
(「世相を拾う」08208)
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*1;日本育英会奨学金を有利子にした「奨学金事業の効率化と経費削減をすすめる独立行政法人化法案」には自公、民主だけでなく、社民党も賛成している。同法案は03年5月15日成立、04年4月から実施。
【関連記事】
家計を圧迫する教育費 (世界の片隅でニュースを読む)
追記;橋下大阪府知事が私学助成の600億円削減を言い出したのは周知のとおりです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/080209/lcl0802090116002-n1.htm
また、かつて私学助成については、石原都知事が、全国都道府県知事会議で「私学助成という、どう考えても憲法違反の制度がとられている」(毎日新聞)などと発言してきました(1999年)。上記のエントリーで、三浦朱門の「魚屋の息子が官僚になるようなことがあれば不幸になる」というあからさまな「階級差別」的発言を問題にしましたが、教育をすべての人に開放する視点を欠落させているという点で、橋下、石原にも三浦と気脈を通じる思想があるのではないでしょうか。
石原の発言は、「公金その他の公の財産は…公の支配に属しない慈善、教育…に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」(憲法89条)という規定に違反しているというものです。これは、公教育の大きな部分を占める私学の役割にあえて目をつぶる一方で、私的な教育などにたいする公権力の干渉を排除し、公共の利益に反する事業に公金を支出しないという89条の主旨をねじまげたものとしか私にはうつりません。
消費税増税と決別すべき時だ
率直にいえば社会保障のためには増税が必要ではと考える向きもあるのかもしれません。わが首相は「中福祉中負担」などとのべましたし、懐を痛めず社会保障などありえないという世論形成がすすんでいるとみなくてはならないようです。
今国会で、挑戦的な麻生所信表明演説を受け、小沢代表が代表質問をした際、当ブログは、以下のようにのべました(参照)。
消費税が導入されて20年になります。この20年で消費税の税収は188兆円といわれています(*1)。一方で、軍事費は、消費税導入時の3兆7000億円から年々ふえつづけ、19年間で増加額は累計で19兆6000億円になるのです。この間の法人税減収分が160兆5000億円ですから、あわせると180兆円となりますね。 額にかぎっていえば、消費税による税収は、法人税減税と軍事費にあてられ消えたといってもよいでしょう。 消費税が導入されて以降、結果として上にのべた数字をあとづけることができるのです。 |
一つの区分としてとったこの20年の間に、バブル崩壊ののち、企業がとったのは、国際競争力をつけるといって、そんな環境のなかでも利益を確保するに足る経営構造を構築することでした。リストラ、正規雇用から非正規への置き換えにはじまり、その結果、富の集中が際だち、貧困が広がる、ごく簡単に描けば、これが日本社会の構図ではなかったでしょうか。その上に、財界・大企業は上述のように税制面でも優遇されてきたわけですから、この間の経過を反転させて、応分の負担を大企業に求めることがあってよい、こう思うのです。
ところが、日本の政治の場面では、大企業に負担を求めたり、米国の負担が増える方向を提案すること自体が、禁句になっている。
民主党ですら、官僚支配の脱却はいえても、米国追随からの脱却はいえない。
ムダの排除を一般的にはいうが、大企業優遇税制をあらためよとか軍事費を削れということを、野党の民主党がいえたでしょうか。
結局、読売がこう社説であおるのは、いわゆる聖域をもうけることについて自民、民主で一致しているからにほかならないでしょう。その結果、消費税増税に財源を求めることになる。
社説はイギリスの経験(参照)、社会保障切り捨ての産んだ負の遺産に言及して、同じ轍を踏むなと促しています。ここまではよいのですが、消費税増税をリンクさせることなしに社会保障の維持ははたして不可能なのか。そこを議論すべきです。
国民に負担を求める前に、ムダがあるではないか。
軍事費を削ることはできないのか。
大企業優遇をあらためることはできないのか。
今の自民党政権にこれらのことはできないでしょうが、では交代しようとしている勢力にこれができるのか。
本格的政権交代などと打ち出す以上、これらに手をつけられるのかどうか、はっきりさせるべきでしょう。
でなければ、交代しても顔がかわって、心と体は同じということになりかねません。
まさに今、消費税増税と決別すべきときではないでしょうか。
(「世相を拾う」08207)
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追記;この社説が発表された17日、麻生首相になって経済財政諮問会議が初めて開かれています。この会議では、社会保障の財源問題も当然、議論されるわけで、社説はそこを視野に入れてのものでしょう。
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