森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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非核の会総会(福岡)で浅井基文氏が講演
生来、いろいろなものに興味をもつ私ですが、こんな案内が目にとまりました。
浅井基文さんが講演のため来福されるそうです(以下の略歴は同氏のホームページから)。
講演テーマは「核兵器廃絶の今日の流れと草の根の力」。
【浅井基文氏の略歴】
1941年7月 愛知県生れ
1963年3月 東京大学法学部中退
1963年4月 外務省入省
(国内勤務) アジア局、条約局など
国際協定課長(78年~80年)
中国課長(83年~85年)
地域政策課長(85年~86年)
(外国勤務) オーストラリア(71年~73年)
ソ連(73年~75年)
中国(80年~83年)
イギリス(86年~87年)
1988年4月 文部省出向(東京大学教養学部教授)
1990年3月 外務省辞職
1990年4月 日本大学法学部教授
1992年4月 明治学院大学国際学部教授
2005年4月 広島市立大学広島平和研究所所長
――――――――――――――――――――――――――
非核の政府を求める福岡県の会第18回総会
■日時 2006年6月10日(土) 14:30~
■会場 福岡国際会議場
■参加費 無料。どなたでも参加可
浅井基文さんが講演のため来福されるそうです(以下の略歴は同氏のホームページから)。
講演テーマは「核兵器廃絶の今日の流れと草の根の力」。
【浅井基文氏の略歴】
1941年7月 愛知県生れ
1963年3月 東京大学法学部中退
1963年4月 外務省入省
(国内勤務) アジア局、条約局など
国際協定課長(78年~80年)
中国課長(83年~85年)
地域政策課長(85年~86年)
(外国勤務) オーストラリア(71年~73年)
ソ連(73年~75年)
中国(80年~83年)
イギリス(86年~87年)
1988年4月 文部省出向(東京大学教養学部教授)
1990年3月 外務省辞職
1990年4月 日本大学法学部教授
1992年4月 明治学院大学国際学部教授
2005年4月 広島市立大学広島平和研究所所長
――――――――――――――――――――――――――
非核の政府を求める福岡県の会第18回総会
■日時 2006年6月10日(土) 14:30~
■会場 福岡国際会議場
■参加費 無料。どなたでも参加可
改憲という問題
この本の設定をみて、私は中江兆民の『三酔人経倫問答』をすぐに思い浮かべました。洋学紳士君と東洋豪傑君、それに南海先生による、西洋の列強のなかでの日本の外交政策をめぐっての問答。民権主義者と国権主義にたいする、南海先生の説く真の現実主義、この三者三様の問答の面白さを、かつて、この本では堪能しました。
かわって、この『改憲問題』という本は、一人の大学教師・狩田教授とそのゼミの学生による講義と問答(今流にディベートか?)で話がすすんでいきます。
私が1つの核心部分だと思っているのは、この本でもいくつかのところで取り上げられている長谷部恭男にたいする批判部分です。ご存知の方も多いと思います、長谷部は最近、『憲法とは何か』(岩波新書)を書いています。
著者愛敬はこう指摘します。長谷部は近年、絶対平和主義にたいして、それが「立憲主義=リベラリズム}と緊張関係にあるとして、「自衛のための必要最低限の実力組織の保持を認める」解釈を説いている。その際の、一切の軍備の放棄を定めた憲法九条に違反するという批判にたいして、長谷部は、九条を「準則(rule)」ではなく「原理(principle)」ととらえることをクリアした、と。
だが、この長谷部の理解には陥穽があった。長谷部の議論が実践的には「九条改定論を批判する論理としても機能する」面を認めつつも、つぎの2点に著者は疑問を投げかけています。それは、九条を「原理」としてとらえる長谷部の議論では、九条の規制力が「政治的マニフェスト」のレベルにまで弱まる、②九条が「準則」と了解されているからこそ、実際の政治過程で九条が「原理」として機能する側面を軽視すべきではない、のように要約できます。
この長谷部だけでなく、さまざまな論者の議論を紹介し、検証を加えた上で、著者愛敬は樋口陽一のつぎの言葉を引用します。
戦後憲法学は「非現実的」という非難に耐えながら、その解釈論を維持してきた。・・・その際、過小に見てならないのは、そういう「非現実的」な解釈論があり、また、それと同じ見地に立つ政治的・社会的勢力・・・・があったからこそ、その抑止力の効果を含めて、現在かくあるような「現実」が形成されてきたのだ、という事実である
愛敬のしめくくる言葉は、
この「事実」を軽視する九条論は、決して現代改憲に対する有効な対抗理論とはなりえない。
ここに、およそ60年の重みを私たちはかみしめる必要があると思います。
愛敬浩二『改憲問題』(ちくま新書)
マムシ似の花
髪切がいそうな花もさいておらず、さまよい歩いていると、マムシグサがぽつんと立っていました。
この名前は、マムシに似た、褐紫色の模様がある茎(ほんとは茎ではないらしい)に由来するそうです。けれど、ちょうどヘビが鎌首をもたげているような、この花(正確には仏炎苞)の形にもその名の由来があるのではないか、と私には思えます。それほど、格好がよく似ている。
しかも、マムシグサは、明るい森林や谷沿いのやや湿った場所に生育します。春に地下の球根から茎を伸ばし、にょきっと立つその姿を、マムシと間違えてもおかしくはない。いえ、ほんとにこの花の近くにはマムシがいるかもしれません。もっとも九州の低山地ではマムシグサのほうがほんもののマムシより早い時期にみられるようです。ともあれこのマムシグサは、マムシがいそうなところに生えているのです。
褐紫色の模様がある茎、花の姿・形、生えている環境、いずれもマムシにそっくりです。北海道から九州に分布する多年草。
髪切のなかの宝石
宝石はなぜ人の心を揺さぶるのでしょうか。その鮮やかな色彩や輝きか、それとも稀少性からか。おそらくは、そのどちらがかけても宝石ではないのでしょう。これらは宝石として成り立つための条件かもしれません。
カミキリの世界にも、この宝石を思わせる一群があります。サペルディニとカミキリ屋さんたちがよぶ、トホシカミキリ族のカミキリたちです。トホシカミキリの仲間は、その多くがカミキリにしては鮮やかなエリトラ(さやばね)をもっています。地味な色彩のカミキリが多いなかで、異色の存在です。いわゆる美麗種が多いのです。また、カミキリのなかで最も進化したグループともいわれています。サペルディニはちょうど、日本の蝶のうちでゼフィルスとよばれるミドリシジミ類と同じような位置を占めているように思います。
このうち、わりとよく見かけるのはヤツメカミキリやリンゴカミキリ類でしょう。いずれもサクラの木によくきます。また、ラミーカミキリ、シラホシカミキリ(写真)、ヨツキボシカミキリも九州ではよくみることのできるサペルディニです。
多田さんの「2つのたたかい」
このブログで紹介した免疫学者・多田富雄さんのインタビュー記事が目にとまりました(『日経新聞』夕刊、06年5月25日)。
記事によれば、多田さんは「いま、2つの相手と闘っている」。1つは、脳梗塞で体が不自由になったため、リハビリとの格闘。週2回、東大病院に通い歩行訓練をしているそうです。さらに発声も訓練する。生死をさまよった多田さんはその後、身体機能の回復をはかる上で、諸々の事情で思うようにいかなかった、リハビリを継続する大切さを知りました。
もう1つは、多田さんが願う機能の回復なのですが、「回復の効果が期待できない」という理由でリハビリを改悪する医療制度改悪との闘い。リハビリは機能回復だけでなく、社会復帰と人間らしさを取り戻すのに欠かせないのです。
多田さんはいう。「弱者切り捨て以外の何ものでもない。これで日本の医療は成り立っていくのでしょうか。私は本当に怒っているのです」。
生と死の境界にたってきた多田さんだから、その怒りは激しい。
つけくわえれば、小泉首相はみずからの「構造改革」の「仕上げ」として医療制度改悪を位置づけています。多田さんの「日本の医療は成り立つ」のかという問いには、この路線ですすみ続けるならば残念ながらノーとこたえざるをえません。首相の「構造改革」では、医療を担うのは国ではないのです。国の守備範囲に医療はない、開放すべき市場として医療があるのだから。まさに、「構造改革」は弱肉強食、格差拡大に開かれた路線なのです。
このブログで紹介しました。自己と「非自己」の科学? http://blog.goo.ne.jp/longicorn/d/20060506
記事によれば、多田さんは「いま、2つの相手と闘っている」。1つは、脳梗塞で体が不自由になったため、リハビリとの格闘。週2回、東大病院に通い歩行訓練をしているそうです。さらに発声も訓練する。生死をさまよった多田さんはその後、身体機能の回復をはかる上で、諸々の事情で思うようにいかなかった、リハビリを継続する大切さを知りました。
もう1つは、多田さんが願う機能の回復なのですが、「回復の効果が期待できない」という理由でリハビリを改悪する医療制度改悪との闘い。リハビリは機能回復だけでなく、社会復帰と人間らしさを取り戻すのに欠かせないのです。
多田さんはいう。「弱者切り捨て以外の何ものでもない。これで日本の医療は成り立っていくのでしょうか。私は本当に怒っているのです」。
生と死の境界にたってきた多田さんだから、その怒りは激しい。
つけくわえれば、小泉首相はみずからの「構造改革」の「仕上げ」として医療制度改悪を位置づけています。多田さんの「日本の医療は成り立つ」のかという問いには、この路線ですすみ続けるならば残念ながらノーとこたえざるをえません。首相の「構造改革」では、医療を担うのは国ではないのです。国の守備範囲に医療はない、開放すべき市場として医療があるのだから。まさに、「構造改革」は弱肉強食、格差拡大に開かれた路線なのです。
このブログで紹介しました。自己と「非自己」の科学? http://blog.goo.ne.jp/longicorn/d/20060506
丸山眞男をよむ
丸山眞男。これまでいろいろな意味で注目されてきた知識人であることは疑いようもありません。その評伝『丸山眞男』(著:苅部直)を読みました。
丸山はしばしば、自分とマルクシズムの関係について、マルクシズムの問題が重くのしかかっていたと回想しています。その世界観への「コンプレックス」があったというのです。この点について、この本では、「日本の近代という問題にとりくむ際に、そもそも講座派マルクス主義を踏み台として、思考を出発させたことに由来するのであった」と苅部はのべています。
丸山の表現を借りれば、丸山は「ムード左翼」であったというのですが、丸山は、マルクス主義の理論家・歴史家による『日本資本主義発達史講座』を読み、「目からウロコが落ちる思い」がしたというほどでした。
『日本資本主義発達史講座』は、日本における資本主義の性格をめぐる論争のなかでの、野呂や山田(盛太郎)、服部など「講座派」と呼ばれる学者たちによる仕事。
「講座派」は、農村部の地主・小作関係にあらわれる封建的な生産様式がみられる一方で、都市部における資本主義的な生産関係があり、この2つが不均衡な形で共存していることに日本の資本主義の特殊性を見出したのです。このような「いびつな経済構造」の上に、独自な絶対主義体制としての、「天皇制」の政治支配機構が成り立った歴史上の過程を明らかにしようとしたのでした。
丸山は、この「講座派理論」を前にして、「経済・政治・文化がたがいに連関する全体構造をとらえる点で、また、さまざまな思想に潜む政治イデオロギーをえぐりだす視覚を指し示す点で」、マルクシズムの近代日本の思想に与えた大きな衝撃を強調したのです。
こうした思想的「洗礼」をうけつつも、丸山は戦後、マルクシズムのなかに「人間の営みにおける『政治』の固有性」(苅部)が欠落していることをみて、きびしくマルクス主義を批判するようになりました。
のちに、「ぼくの精神史は、方法的にはマルクス主義との格闘の歴史だし、対象的には天皇制の精神構造との格闘の歴史だった」と丸山はのべています。
マルクス主義と格闘しながら、丸山が晩年までこだわった人間生活における「型」「形式」。しかし、激しく動きゆく時代に過敏に反応する一方で、丸山がかつてつかもうとした日本の全体構造は丸山にみえたのでしょうか。格闘のなかで、丸山のコンプレックスは解消したのでしょうか。
評伝では、日本の全体構造をとらえようと格闘する丸山とともに、シニカルに、またニヒリスティックに、相対的にふるまう丸山の姿をも私はかいまみるのです。
苅部直『丸山眞男』(岩波新書)
跳ね上がるコメツキ
これも髪切か?
いえ、皆さんはコメツキムシをご存知でしょうか。これは、コメツキの一種、ダイミョウコメツキです。カミキリムシとはどこが異なるか? 一目瞭然です。カミキリの長い触角にたいして、ダイミョウコメツキは写真のように、短い枝状のものが触覚のそれぞれの節からでています。
コメツキムシの名の由来は、体がひっくり返って起き上がろうとするときの様子が、ちょうど「米をつく」のに似ていることにあります。
甲虫の仲間は、仰向けになるとうまく起き上がれないものが多い。なかには、起き上がろうとして力つき、死んでしまうものもいるようです。
コメツキムシは仰向けで、いったん胸と腹の間を反らす。そうして元にもどすその勢い、反動で、パチンと跳ね上がることによって起き上がります。
このダイミョウコメツキは、カミキリ屋さんにとってみれば外道でしょうが、なかなか美しい。鮮やかな橙色と黒い紋様によって、一目でコレと分かります。図鑑では、5~6月にカエデなどの花に来る、とあります。
再び「招かれざる客」
客がつぎつぎに羽脱しています。そう、ブログで紹介した「招かれざる客」、アトモンマルケシカミキリ(写真)です。
招かれざる客という言葉がある以上、よんでもいないのに訪れる、来てほしくないのに来る事態が、世の中、往々にしてあることか。などと、自分でなぐさめながら、このカミキリを迎えているのです。あー、しんど。
ウェブのカミキリ図鑑「図鑑21世紀」によれば、このアトモンマルケシカミキリが入るケシカミキリの仲間は、以下のとおりとなっています。
ケシカミキリの「ケシ」は、確認できていませんが、芥子(ケシ)からくるのでしょうか。
つまり、ケシの実―あんパンの表面にのっかてるアレ、のように小さいということか? 実際、ケシカミキリの仲間はどれもほんとに小さいのです。
キッコウモンケシカミキリ Exocentrus testudineus Matsushita,1931
ミヤマケシカミキリ Exocentrus montilineatus Kusama et Tahira,1977
ガロアケシカミキリ Exocentrus galloisi Matsushita,1933
アトモンマルケシカミキリ Exocentrus lineatus Bates,1873
サトウケシカミキリ Exocentrus satoi Ohbayashi,1961
アマミノフ゛オケシカミキリ Exocentrus nobuoi nobuoi Breuning et Ohbayashi,1964
キカイシ゛マノフ゛オケシカミキリ Exocentrus nobuoi nonakai Makihara,1986
オキナワノフ゛オケシカミキリ Exocentrus nobuoi okinawaensis Breuning et Ohbayashi,1966
ハヤシケシカミキリ Exocentrus hayashii Samuelson,1965
クモガタケシカミキリ Exocentrus fasciolatus Bates,1873
リュウキュウクモガタケシカミキリ Exocentrus takakuwai Makihara,1982
ツシマケシカミキリ Exocentrus tsushimanus Hayashi,1968
ヨコグロケシカミキリ Exocentrus fisheri Gressitt,1935
シラオヒ゛ゴマフケシカミキリ Exocentrus guttulatus Bates,1873
トクノシマケシカミキリ Exocentrus marui Makihara,1986
ナカネケシカミキリ Exocentrus nakanei Makihara,1986
トゲナシモモフ゛トカミキリ Planeacanista japonica Hayashi,1959
ヨナグニシ゛ュウシ゛クロカミキリ Euryclytosemia nomurai Hayashi,1963
クロオヒ゛トゲムネカミキリ Sciades(Estoliops) fasciatus fasciatus (Matsushita,1943)
アマミクロオヒ゛トゲムネカミキリ Sciades(Estoliops) fasciatus nobuoi (Breuning et Ohbayashi,1964)
オキナワクロオヒ゛トゲムネカミキリ Sciades(Estoliops) fasciatus okinawanus N.Ohbayashi,1984
ヤエヤマクロオヒ゛トゲムネカミキリ Sciades(Estoliops) fasciatus yaeyamanus N.Ohbayashi,1984
サキシマトゲムネカミキリ Sciades(Estoliops) sakishimanus sakishimanus (Gressitt,1951)
オオシマサキシマトゲムネカミキリ Sciades(Estoliops) sakishimanus deguchii N.Ohbayashi,1984
トカラケシカミキリ Sciades(Miaenia) nakanei (Hayashi,1956)
クヒ゛ナガケシカミキリ Sciades(Miaenia) longicollis (Breuning et Ohbayashi,1964)
ヤエヤマケシカミキリ Sciades(Miaenia) brevicollis (Gressitt,1951)
ケシカミキリ Sciades(Miaenia) tonsus (Bates,1873)
ケス゛ネケシカミキリ Phloeopsis lanata (N.Ohbayashi,1976)
フタツメケシカミキリ Phloeopsis bioculata (Matsumura et Matsushita,1933)
イオウシ゛マケシカミキリ Phloeopsis iwojimana (Gressitt,1956)
イチローの三振する技術
『美はなぜ乱調にあるのか』の著者の、この文章の一言ひとことにだれもがうなずくのではないでしょうか。
このように完璧にみえる野球技術をもつイチローの、「僕は、まだ三振する技術を身につけていない」という一つの言葉からこの本の話ははじまります。
イチローは「もはやあなたには身につけるべき技術は何もないのではないか。なお獲得すべき技術があるとすればそれは何か」という問いに答え、先のように語ったのでした。
イチローの卓抜する技術とは何か。イチローの驚異的な能力はどこに由来するのか。それを、社会学者の大澤真幸は考察しています。これを解明するために、著者は、江夏豊の投球術とマンガ『巨人の星』を媒介にしながら、イチローの技術と能力に迫っていくのです。
鍵は、見ることのうちにあると考える大澤は、こういいます。
イチローにとっては、ボールは、ただの対象、ただの事物ではない。それは、生ける<他者>、魂を有する<他者>である。おそらく、<他者>としてのボールは、「この一球」としてそれに接する態度を前提としてたち現れる。「この一球を待つ」とは、投手が投ずる一球ごとに、固有名の担い手であるかのようにボールに接する態度である。われわれが固有名で呼ぶもの、それは、その対象が魂をもっている――ものとしてわれわれに見えている――場合だけではないか。
イチローの技術の中核、イチローの見る方法の根本をなす事態とは、ボールそれ自身が、イチローにとって一個の眼差しになっている、ということである。イチローがボールを見ている。このとき、(イチローにとっては)ボールもまた、イチローを見ているのだ。ボールが(彼を見つめている)眼差しであるがゆえにこそ、彼は異様な集中力をもって、それを凝視し続けることができるのだ
だが、ボールの眼差しをそう簡単に把握しきることはできないのです。
ボールの眼差しは、つまり、われわれの眼をとらえて離さない眼差しは、われわれの視線を拒否するようにもはたらく。われわれがある対象に眼差しを感じて、それを凝視しようとすると、つまりわれわれを見つめている眼、眼差しを凝視しようとすればするほど、かえって、それはただの対象、私の眼の受動的な対象にすぎない事物に見えてしまう。だから、<他者>の眼の能動性は、私の眼がそれをとらえようとして能動的に関わろうとすればするほど、退避してしまうように見える。<他者>の眼差しは、まさに大リーグボール3号と同じように反応するのです。
こうみてくると、大澤の結論の方向がしだいにみえてきます。彼はこう結論づけます。
自らを見つめる眼としてボールを捉えようとする者は、同時に、ボールを捉え損ねなくてはならない――missしなくてはならない――のである。つまり、精確に打とうとするそのことによって、空振りしなくてはならないのだ。これこそが、イチローの三振する技術である。
まさに、とらえようとして凝視すればするほど退却していく<他者>としてのボールとは、「神のような存在」にほかならず、その不可能性、神の不在を示しているのではないでしょうか。私はこの本を読んで、このブログでも紹介した池内了さんの『物理学と神』を想起せざるをえませんでした。
大澤真幸『美はなぜ乱調にあるのか』(青土社)
牛を殺す花?
牛を殺す花。何やらぶっそうな気配です。
実は、ウシコロシ(写真)という花があります。別名はカマツカ。この木が堅くて強いことにその名の由来があります。解説では、つぎのように書かれています。
木(材質)がかたく折れにくいので、鎌(かま)の柄(つか)に使ったことから名づけられたという。別名のウシコロシ・ウシノハナギの名の由来は、この木を曲げて、牛の鼻輪を作ったことによる説と、鼻輪を通す穴をあけるのに、この木を使ったことによる説がある
花のかたちをご覧ください。ウメやリンゴなどの花に似ていませんか? あるいは園芸種のピラカンサス(和名:タチバナモドキ)に似ているでしょう。これらは、すべてバラ科の樹木。
以前にこのブログで、白い花のカミキリとの相性のよさを紹介しました。そうです、この木も相性がよいのです。この時期では、カミキリ屋さんのねらい目の花の1つなのです。
ツルに天牛
春先、低山の伐採地でヤマブドウの枯れヅルをみつけました。案の定、そこにはアカネカミキリがいて、ツルをあちこち歩き回っています。きっと、いるぞ。揺ぎない確信がわいて、つぎの瞬間にはもう、ハンディタイプのノコギリに手をかけ、枯れヅルを50センチほどのサイズで切り落としていました。一部を割ってみると、いました、いました。けれど、それはツルを歩いていたアカネカミキリではなく、羽脱をまつアカネトラカミキリでした。アカネトラカミキリは、この山でこれまでみかけたことはありません。だから、普通種ではあっても、正直けっこう気持ちが高ぶったのです。
それからというもの、材箱に入れておいたこのヤマブドウの枯れヅルからはカリカリ、カリカリと木をかじる、けっして小さくない音が聞こえる毎日でした。その後、このヤマブドウからはなんと数十頭のアカネトラカミキリが羽脱。
ヤマブドウをホストにする主なカミキリは以下のとおりです。
アカネカミキリ、シロオビチビヒラタカミキリ、アカネトラカミキリ、ハセガワトラカミキリ(九州にはいない)
ヤマブドウは成長すると20mを超える蔓になる。実は ノブドウ と違い、食べられる。ジャムや果実酒として利用される。
つつましいケヤキ、そして「事件」
私の職場の周りにはわりと大きなケヤキの並木があり、この時期になると、その新緑をまばゆいくらいに感じます。日に日に若葉が繁っていくのが分かります。
あらためて振り返ってみると、福岡市では意外と街路樹としても使われているようです。このように街のなかでよく見かけるということとは別に、福岡市民の脳裏には、ぬぐい去ることのできない、ケヤキをめぐる記憶が刻まれています。
4年前、1つの投書からはじまったケヤキ・庭石事件です。ケヤキという樹木にとってはまったく迷惑な話です。ことあるごとに事件とのかかわりで「ケヤキ・・・」と報道され、「悪名高いケヤキ」という具合になりかねないのですから。
事件の詳細は省きますが、最近、福岡市は購入したケヤキ331本と庭石約7300トンを、利用するあてもないため、購入費用の5億9000万円を損失として05年度決算で処理しました。
ひどい話です。事件発覚当時から、使いみちもないことを追及され、あれこれと言い訳に回ってきた山崎市長ですが、結局は、何にも使うことができず、5億9000万円もの大金を捨ててしまったのです。
この問題にかぎらず、福岡市政は、金権まみれと腐敗の連続でした。この背景には、絶えることのない開発主義があると私は思います。
話を元にもどすと、ケヤキは、木目が美しく、堅くて摩耗に強いので、家具、建具等の指物に使われます。建築用材として古くから多用されているらしく、神社仏閣などにも使われる樹木。
でも、このケヤキの、なかでも花の話を私は滅多に聞いたことはありません。実際に、花は小さくて地味で、目立たないのだそうです。4月頃に葉の根元で小さく咲くらしい。
こんなつつましい生き方もあってよいのに、どうやら私たち人間の方が事件のなかに、ケヤキをひきずりだしてしまったようです。
因みに、ケヤキにも髪切は来ます。アカジマトラカミキリ、キンケトラカミキリなど。
本質を射抜け
きょう、ある集会で、スポーツ・ジャーナリストの谷口源太郎さんとお会いし、少し話をする機会をえました。
毎月の『放送レポート』で登場する、『日の丸とオリンピック』の著書がある方くらいは知ってはいましたが、お会いするとは思ってはいませんでした。
彼 「オリンピックそのものはどう思う?」
ボク「『反対する会』は、福岡市の招致立候補の1点で反対してる会ですよ」
と、ひととおり答えると、さらに彼の追求(及?)が。
彼 「それじゃあ、福岡に来なければいいの?」
ボク「いえいえ、福岡市は招致にふさわしくない。財政ははたん状態ですから。さっきの会はいろんな立場の人がいて、オリンピックそのものについて態度は表明してません」
彼 「東京と手をつなぐ運動が必要だな」
ボク、うんうんとうなずく。
ボク「ボクもその点、同感ですよ。基地再編にたいする運動とある意味で一緒ですよ」
彼、うなづく。
彼 「オリンピック本来の抱える問題をぜひ論議しないといけない。商業主義、金権腐敗」
と、たたみかけるようなお話。
おおむね意見が一致しており、ホッとするボク。
流石に鋭いな! 『放送レポート』5月号の彼の文章のタイトル、「『世界一』の狂気の流れの先に教育基本法改悪の落とし穴」だもんな。
本質を射抜くとはこういうことか。
毎月の『放送レポート』で登場する、『日の丸とオリンピック』の著書がある方くらいは知ってはいましたが、お会いするとは思ってはいませんでした。
彼 「オリンピックそのものはどう思う?」
ボク「『反対する会』は、福岡市の招致立候補の1点で反対してる会ですよ」
と、ひととおり答えると、さらに彼の追求(及?)が。
彼 「それじゃあ、福岡に来なければいいの?」
ボク「いえいえ、福岡市は招致にふさわしくない。財政ははたん状態ですから。さっきの会はいろんな立場の人がいて、オリンピックそのものについて態度は表明してません」
彼 「東京と手をつなぐ運動が必要だな」
ボク、うんうんとうなずく。
ボク「ボクもその点、同感ですよ。基地再編にたいする運動とある意味で一緒ですよ」
彼、うなづく。
彼 「オリンピック本来の抱える問題をぜひ論議しないといけない。商業主義、金権腐敗」
と、たたみかけるようなお話。
おおむね意見が一致しており、ホッとするボク。
流石に鋭いな! 『放送レポート』5月号の彼の文章のタイトル、「『世界一』の狂気の流れの先に教育基本法改悪の落とし穴」だもんな。
本質を射抜くとはこういうことか。
聞こえてくる職人の息づかい
書斎というには粗末な環境で、どこにでもあるような文具を使ってきた私には、『書斎の極上品』というタイトルはまったく似つかわしくありません。
6、7年前の話です。一時期、文房具に多少興味があり、こってもいると自分で勝手に考えていたため、何気に買ってしまった。その本は、塙ちとさんの『書斎の極上品』。だが、一読すると、これが面白い。
この本は、極上品とそれを買えるお店を紹介するという形式をとっています。けれど、読み進むにしたがって、極上品の裏にひそむ一流の職人の息づかいが聞こえてくるのです。
一例をあげましょう。「松煙墨」を紹介したところです。松煙墨をつくるには、古松を焚いて煤をとらなければなりません。そのために「この地(和歌山県大塔村=管理人)では、山のなかに四方を和紙で巡らせた障子部屋を10数部屋つくり、そのなかで生松を焚いて、『黒い米』と呼ばれた松煙を採取した」のです。
その伝統的手法を継承する、この本で紹介されている職人さんは語ります。
「ひとりでやれるように、部屋の大きさ、竈の大きさを決めました。量が少ないぶん、こまめに面倒を見て、しょっちゅう可愛がっているわけですよ」
こんなルポルタージュがつづくんです。読者自身がまるでその職人技をこの目でみて、語りあっているかのような錯覚にいつのまにか陥ってしまう。
著者はあとがきで、「この本に登場してもらった14の道具は、使うことによって何かが創造される"もの"なのである。それぞれの道具を実際に手足を使ってわがものとしたとき、また新たな展開が始まる。それが、道具を使う楽しさだ」という。であれば、職人芸は、道具を使うことによって創造される何かを創造する過程で働く触媒のようなものなのか。これを読めば、あなたも道具を使ってみたくなるはずです。
塙ちと『書斎の極上品』(小学館文庫)
オスは要らない? クラルアの世界
カミキリ屋さんたちがクラルア(Kurarua rhopalophoroides Hayashi)と通常よんでいる髪切がいます。和名は、クビアカモモブトホソカミキリ。
このカミキリもちょっと変わっています。カミキリムシでは世界でこの種のみ単為生殖なのです。
本種は、福岡県内では立花山や城山で過去、採集されていますが、その後、記録なしということです(『福岡県レッドデータブック』、写真)。立花山では山頂のセリ科やウシコロシの花上で採集されているらしいのです。けれど、私も立花山に登るのですが、その環境が残されているのかどうか? いずれにせよクラルアは福岡県では絶滅が危惧される種であることはまちがいなさそうです。
単為生殖
本来は有性生殖を行なう種であるにもかかわらず、雌雄の配偶子の合一によらずに雌の配偶子 (卵子)が単独で個体を生ずる現象で、単性生殖、処女発生ともいう。単為生殖には、減数分裂により染色体数が半分になっているときに生じる半数単為生殖 (アリ、ミツバチ、スズメバチなど)や、通常の染色体数のときに生じる全数単為生殖 (アブラムシ、カイガラムシ)などがある。
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