森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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厳罰を求めるという自由…。
アイザイア・バーリンが自由の概念を提起してきたことはよく知られている。積極的自由と消極的自由という二つの自由概念である。その上で、彼は消極的自由をより重視した。
自由が自分の周りになかったと認識されていたかつてとちがって、今日、どこにでもそれがあるようにあたかもみえて、自由そのものの価値も、自由への希求の意味も、後景に押しやられ、あらためて問われることがなくなったように思える。
しかし、日々派生する事象は自由の意味を私たちに迫らずにおかない。少なくとも、自由の価値が問われなくなった分、新しい形で自由とは何か、を問い続けることが要るように思う。
§Ⅰ
補助線をひく。ブッシュの演説(1、2)が波紋をよんだ。
私もこれにふれたが、戦前日本とアルカイダを同列視したからである。仔細は省く。
要するに、彼の発言は、イラク介入を合理化するためのものだ。そして、発言は、アメリカの自由、世界の自由を脅かす存在、それがアルカイダという基調で貫かれている。
思い起こすのは、イラク介入の口実だけれど、イラクは「ならず者国家」で、大量破壊兵器が存在する、というものだった。
バーリンにしたがえば、ブッシュがこのように語ってきた背景にもまた、消極的自由があるということかもしれない。自由を脅かす圧制から解放するという自由は、人類共通の価値であって、それを普遍化するために抑圧者とたたかうと刷り込ませようとしてきたのだった。
だが、それは、あらかじめ反転をふくんでいて、圧制からの消極的自由を先制攻撃も辞さず、積極的に実現しようという意思の表れだったともいえるだろう。
§Ⅱ
国家間というスケールで、こんな物言いで自由を語り、いくさの口実にする。
歴史をさかのぼれば、フランス革命だけでなく、自由をかちとるために幾多の血が流されてもきた。自由とは、だから、争いと背中あわせでもあるということだ。
バーリンがいたならば、これをどう考えるだろうか。おそらく彼の想いとは異なって、事態は逆説的に動いてきたのではないか。
そして、9・11テロ以後の事態は、しばしば「文明の衝突」としても語られる。ネオコンは、上に記した消極的自由を正義ととらえ、人類共通の価値に仕立てあげ、まさにその上で積極的自由ととらえてきたということである。
別のいいかたをすれば、この消極的自由を認めない者は、この自由以上の価値をたとえば宗教に認める者は、すべて自由の敵対者とされ、排除される対象になってきたのだ。同時多発テロ以降の歴史は、このことを私たちに教えてくれる。
この争いの不寛容を指摘することは容易だろう。
だが、それでは寛容であれば、事は解決するのか。多様性や異なる価値を認めれば、価値観の対立や争いはなくなるかといえばそうではない。
私たちは、このように解消しがたい相克に直面し、お互いが「真理」をめざしながら多元的な価値のなかに生きていることを思い知らされる。だから、考えられるのは、ひとまず価値をかっこでくくることも、共存の方法だということである。
§Ⅲ
さて、橋下弁護士が、テレビ番組に出演した際、弁護団の懲戒処分を弁護士会に求めるよう視聴者に呼び掛けた件で、こんどは、弁護団の一員である弁護士が、提訴する意向だという(ここ)。
山口県光市・母子殺害事件にかかわって、殺害した当時は少年だった犯人の死刑求刑をめぐって議論が今日まで続く。
原告の本村氏は、メディアにもしばしば登場した。そこで映し出されるのは、無念の表情を浮かべながらも、発する言葉は棘のような厳しさをはらみ、しばしば自らの思いをかみしめるような口調の氏であったが、一方で余りにも冷静すぎる(と私には思える)態度で犯人の死刑を氏は訴えつづけた。
氏の無念は察して余りある。
が、私たちはもとより彼にとってかわることはできない。そして、軽々しく犯罪者をゆるすということはできない。裏返しにいえば、それは、軽々に犯罪者を責めるべきものでもないということだ。私たちには、その資格がない。
唯一、糾弾し、責めることができる、あるいはゆるすことのできるのは、もはや存在しない犠牲者と、拡大してもその遺族だろう。
§Ⅳ
残虐な、悲劇的な事件であればこそ、容疑者に責任能力を認め、厳罰を科す以外に、遺族はもとより、そして私たちもまた、蒙った精神的苦痛は癒すことはできないだろう。しかし、厳罰に処したとして、遺族や私たちの精神的苦痛が晴れて解消されるだろうか。
繰り返していえば、厳罰を科すことができるのは、容疑者に責任能力を認める場合である。そうすると、分別をわきまえた者のとる行為がなぜあれほどの残虐非道をきわめたものになるのか、という疑念と不安がつきまとってくるのではないだろうか。
本来、解消すべきこの疑念と不安はどこまでも私たちのあとをついてくるにちがいない。
残虐行為(の疑念・不安)からの自由、厳罰を科す(ことを求める)自由というものがあるとすれば、その2つの相克にまた、私たちは直面している。
ひとまず自らの価値をかっこでくくるという態度は、この相克を乗り越えるための糸口を示してくれないのだろうか。
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PS;橋下氏が懲戒請求をよびかけた件については、専門家の「情報流通促進計画」;ヤメ蚊さんが詳しく一連のエントリーで言及されています。以下はその最初のもの。
橋下弁護士の口車に乗って光市事件弁護団の懲戒請求をしたあなた、取り下げるべきだとアドバイスします!
また、ヤメ蚊さんの事件にたいする考えは(その1、その2)に示されています。
妊婦たらい回しはなぜ起こる。
こうした事件が繰り返されるのは、それが構造的なものだということを示しているのではないでしょうか。
昨年も、同県で同様の事態に至り死亡につながりました。
今回は、たしかに交通事故に遭遇するという条件があったわけですが、本質的には事件の性格はかわらないと思えます。
いわゆるたらい回しは、容態が重篤、深刻なものとまず想起させます。記事のかぎりでは詳細はわかりませんが。
重篤、深刻なものであればあるほど、一般には人的体制も、医療設備も厚いものが求められるわけで、そうなると、受け入れ可能な医療機関は限られてくる。
受け入れを断った医療機関側にどのような理由があったのか定かではありません。ですが、おそらく以上のような理由があると推測できるのです。
先に、構造的な、といいました。
それは、奈良県が特殊ということを意味しません。そして、当該の受け入れを断った9カ所が特殊だということもおそらく意味しないでしょう。
全国で、たとえば今回と同様の事態に直面する可能性はどこにでもあるだろうということです。日本の現在の医療制度のなかでは、ある意味でこれを避けることはなかなかできそうにないということです。
最近は、医師数の絶対的不足についてメディアもとりあげる機会がふえ、認識は深まってきたように思います。
人的体制を根本的に見直し、地域医療が崩壊する現状をあらためる必要がある。とくに産婦人科の地域からの撤退によって、なかでも地方都市ではお産をすること自体が不安の元になっている。
こんな現状にいたったのは、これまでの低医療費政策に要因がある。この路線でよいのか否か、国民的な議論をおこなう機は熟していると思います。
また、私たちはこんな事件が起きると、えてして責任追及に走りがちです。しかし、それでは事態をあらためることはできません。原因を徹底して解明してこそ再発防止も可能になるというものです。
これまでの医療費削減を柱にした政策でよしとする人たちには、おそらく今の路線をつづけていくならば、こうなるだろうというよい見本があります。それが米国です。
米国は他山の石ではありません。じかにアメリカの医療がどういうものかふれる機会はそうめぐってきませんが、マイケル・ムーア作品『シッコ(Sicko)』がアメリカ医療の現状をするどく告発しています。
今回の事態もまた、犠牲者を生んだわけですが、日本のこうした現状の向こうにはアメリカの現状が陸つづきであるように思えてなりません。
行く方向を切り替えるかどうか、それが今求められているのではないでしょうか。
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【関連エントリー】
日本の医療のかたち;亡国論から立国論へ
そのほか、カテゴリー;社会保障のなかに医療問題を扱ったエントリーを公開しています。ご笑覧いただければ幸いです。
「難民とよばないで」;ネットカフェ難民考
お客様を「ネットカフェ難民」と呼ばないで──。最近の報道などでよく用いられるようになったこの言葉について、日本複合カフェ協会(JCCA)が使用を止めてほしいと訴えている。
なお、JCCAによれば、深夜にネットカフェを利用する人の中には定職に就くことが難しい人もいることは認めており、地域によってはその数が多いこともあるという。ただし、これを大きな社会問題だとする見方には疑問を投げ掛けるとともに、「お客様は難民ではない」(JCCA)と強調している
。業界団体がいうようにたしかに「お客様は難民ではない」だろう。でも、禅問答をやっていても仕方がない。
厚生労働省の今回の調査では、ネットカフェなどで週半分以上寝泊まりする「住居喪失不安定就労者」を「ネットカフェ難民」と定義づけている。
この定義の妥当性や客が難民かどうかという点に眼を奪われると、肝心の日常社会の一面が見えづらくなる。厚労省の定義による「ネットカフェ難民」という層の存在をまず見つめることだ。だから、厚労省の調査は、「ネットカフェ難民」という一面が公式に調査されたという点で評価しうるものだと思う。
ネットカフェ難民5400人 4分の1が20代 厚労省
24時間営業のインターネットカフェ、マンガ喫茶で寝泊まりし、日雇い派遣などで不安定な暮らしを強いられる若者の存在を労働組合などがトレースし、その実態を世に知らしめてきた。彼らの多くは、失業をきっかけに住居を失い、そのために就職が困難になるという悪循環にあることが指摘されてきた。
今回の調査では、ネットカフェなどで週半分以上寝泊まりする者を推計している。全国で約5400人いると厚労省は推計した。この数字に関してはさまざまな解釈が成り立つだろう。
当ブログでは、ネットカフェ難民という事象を社会の縮図とよんで、特別の条件下にある青年の問題ではないことを指摘してきた。社会の矛盾にさらされ、それを引き受けざるをえない不安定な層である。
「ネットカフェ難民」を生み出している「日雇い派遣」などの不安定雇用形態にも当面、社会保険加入の条件を開くべきだろう。多くが失業を発端とし、住居を奪われたわけだから、日雇い労働者への家賃などへの具体的な援助を要する。
選びようのない状態をつきつけられ、強いられるとはどういうことか、それを共有してはじめて事態は解決にむかうのかもしれない。
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【県連エントリー】
ネットカフェ難民という彷徨える者
ネットカフェ難民;社会の縮図としてネットカフェ
貧困を語るときの盲点
自衛隊「レンタル制度」は体のよいリストラか
防衛省が、民間企業の若手社員を自衛隊に2~3年の期限付きで入隊させる「レンタル移籍制度」の創設を検討している。
人材確保策の一環だが、背景には自衛隊の若手教育に対する企業側の期待もある。同省は、今年度中にも民間企業などに意向調査を行い、試行につなげたい考えだ。
自衛隊は精強な部隊を維持する上で若手隊員を確保する必要があるため、陸上自衛隊では2年、海上、航空各自衛隊では3年の期限で勤める「任期制自衛官」の制度を設けている。応募資格は18歳以上27歳未満。高校卒業者を中心に毎年1万人前後を採用し、数回の任期を経て、毎年5000~6000人が退職する。
しかし、最近は、景気回復に伴って民間企業志向が強まっているほか、大学進学率も高まり、高卒者の確保が年々難しくなっている。また、少子化に伴い、募集対象年齢の人口が減り、人材確保は将来的にさらに厳しくなると予想される。(リンク切れの場合はここ)
自衛隊が隊員確保に力を入れているのは、自治体広報板や街角でみかける広告、そして学校訪問などでおよそ推測がつく。
自衛隊のこうした実情と、企業側の意向が一つになったということか。が、一歩踏み込めば、「不要な人材」を自衛隊に送り込むという願ってもない企業側の理由も考えられぬことではない。
記事は「入隊期間が2~3年の長期に及ぶことや、自衛隊で学んだことが企業などに戻った時にどう生かせるかなど課題も多い」と伝えているが、2、3年の空白期間は企業にとって無視できないはず。で、カムバックはもとより考えていないと考えるのが順当だろう。
体のよいリストラと推測するのは、あながちまちがいではないだろう。
一旦こうした制度が定着すれば、企業で人材を確保し、使ってみて企業にとって「不要な人材」は自衛隊に入隊させるというシステムができあがることになる。
この安定的隊員確保システムは、「美しい国」づくりともちろん無関係ではありえない。
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PS;この問題について、水島朝穂・早稲田大学教授が自身のホームページ(平和憲法へのメッセージ)で詳しくのべられています。
自衛隊にも「レンタル移籍」 2007年8月20日
ぜひ、ご一読ください。
参考;朝雲ニュース (07年8月28日 16:25追記)
自民・民主投票者は「一定」;朝日・東大調査
7月の参院選で当選した自民、民主両党の議員は、「郵政解散」で自民が圧勝した05年衆院選で当選した議員に比べ、構造改革より旧来の「日本型システム」を維持する考えの強いことが、朝日新聞社と東京大学蒲島郁夫、谷口将紀両研究室が実施した共同調査で明らかになった。また、05年衆院選で自民に投票した人で今回の参院選でも自民に投票した人は「2人に1人」にとどまったことも分かった。
個々の政策に関する部分の調査は議員を対象にしたもので、国民の意識調査ではない。だから、議員の意識を、そのまま国民の意識にあてはめても正しくないだろう。
注目したのはむしろ次の点。自民党の大敗と民主党の一人勝ちは表裏の関係にあることも調査は明らかにしている。05年衆院選で自民、民主に投票した人の割合は、それぞれ40%、29%。約1200人を対象にした調査によるかぎり、それが今回の選挙では23%、42%となった。(右図をクリックすると拡大します)
別エントリー(下記)で、今回参院選は自民・民主の総和の中での変動と指摘したが、この特徴が本調査結果でも示されたと私は考える。これを確認するためには、前回各党に投票した人が今回、どの政党に投票したのかをトレースしなければならない。
本調査で、対象1200人超の限定された調査とはいえ、それが一定程度、明らかになった。
たとえば、前回05年衆院選で自民党に投票した人のうち民主以外の政党に今回投票した人は37人(前回自民党へ投票した人の7.6%にあたる)。同様に、民主党に投票した人は145人、29.8%にものぼっている。
前回自民投票者で今回他党に投票した人のうち、実に7割は民主党に投票している。
基本的には、小泉「旋風」によって前回衆院選で大勝した自民党だが、2回の選挙を振り返ると、自民+民主という一つの構造の中での変動とみてよいだろう。
そこで、以上のような投票結果に表れる有権者の意識、期待が今後、実際の政策に反映されることが必要である。以上の調査結果からも、その期待は今回は自民党はダメ、お灸をすえるという色彩が強かったと考えている。
そうであろうとなかろうと、自民党には政策転換が迫られることになる。民主党には政策転換をどう迫るかが問われる。
冒頭の議員の意識は、それぞれの党の政策決定にもちろん無関係とはいえない。調査が指摘するように、「日本型システム」を維持する考えが大勢を占めれば、その事実を無視することはできないだろう。それでも、政党の実際の政策決定と動向にそれが反映するとはいいきれない。
私は、「議員の意識を、そのまま国民の意識にあてはめても正しくないだろう」と先にのべたが、有権者の意思がどこにあるか、それが政策を決定する大きな要素になるだろう。
衆参でねじれるという一種の緊迫した状況下では、国民、有権者の意識状況は平時とくらべてなおさら無視できないと予測するからである。
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【関連エントリー】
参院選結果をながめてみる(上記別エントリー)
『もしも世界が100人の村…』でみる所得格差
ニュースは、日本の所得格差が最大になったことを伝えている。
厚生労働省が24日発表した2005年の「所得再分配調査報告書」による。同報告書は、ジニ係数が過去最大の0・5263で、初めて0・5を超えたことを指摘しているのである。
関連して、ジニ係数って何?という文章で、内田樹氏がこれに言及している。
ジニ係数は、格差社会がたびたび論じられるようになって、それなりに浸透して多くの方は一度は聞かれたことはあるだろう。
内田氏のエントリーではむろんジニ係数そのものについて解説はされていない。全体の所得がどのように分配されているのかを調べるとき用いられるこの指標の、分かりやすい解説をウェブサイト上で探してみた。富山大学・中村和之(*)氏のものが私には分かりやすかった。
氏は、『もしも世界が100人の村だったら』を引用してこう説明している。(右図をクリックすると拡大します)
数値例で説明しましょう。数年前、『もしも世界が100人の村だったら』という本が話題になったことを御記憶の方も多いと思います。そこに以下のような記述がありました。
「すべての富のうち6人が59%をもっていて みんなアメリカ合衆国の人
です 74人が39%を 20人が、たったの2%を分けあっています」3)
これによると、世界の人々のうち、保有する富でみた下位20%(20人)が世界全体の富の2%を持っているとされています。さらに、下から数えて94%(20人+74人)の人々が世界全体の富の41%(=2%+39%)を保有していることも分ります。この関係を図示すると、図1のような富の分布に関するローレンツ曲線を描くことができます
。この説明で、所得分布を表すローレンツ曲線の意味が理解できるだろう。
ジニ係数は、均等分布線(角度45度の直線)とローレンツ曲線で囲まれる弓形部分の、<上記45度の直線とx軸のつくる三角形=1/2>にたいする比で表される。
この比が大きくなれば、分布が均等でない、所得分布では格差が大きいことを示している。
ただし、ジニ係数は、たとえば世帯の属性のちがいを表現できないなどの、いくつかの注意すべき前提がある。それをふまえて、厚生労働省をながめてみればよい。
ただ、経年的に比較してジニ係数が最大値を示しているので、所得の分布がもっとも不均等になったということだ。
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*所得格差を測る指標 -ジニ係数とローレンツ曲線-
内田樹氏の貧困とは…。
新しい氏のエントリーを拝読して、氏がその立場に身を置いていることをあらためて感じた(ジニ係数って何?)。というより、いっそう(混迷の)深みにはまっている。
氏によれば、「日本でも格差がアメリカ並みに拡がっている」と書いている人と「日本は世界でも例外的に格差の少ない社会である」と書いている人と両方いる。そして、どっちもほんとという。
本人が「ほんと」だと思っていることは、その人にとっては「ほんと」である。
私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。
かつて「一億総中流」という認識がひろく流布しているときには(実際には天地ほどの所得差があったが)日本人は一億総中流気分であった 。
幻想である証左に、つぎの例をあげている。
所得200万円の人から見ると、所得が1億円の人も所得が10億円の人も「(雲の上の)同じ世界の人」である。
だが、同じその人は所得500万円の人を自分とは「(同じ地上の)別世界の人」だと思っている。
一方では9億円の所得差が「ゼロ」査定され、一方では「300万円」の所得差が「越えがたい階層差」として意識される。
格差というのは数値的なものではなく、幻想的なものであるというのはそのことである。
内田氏ほどの人が、格差という以上、それが相対的な概念であることを承知していないはずはないだろう。そして、1億円も10億円も、ローレンツ曲線で表すとすれば、その差異9億円がたいして意味をもたないことも明らかであるだろうに。
氏のブログは、自身がいうようにアクセス1000万を超える人気ブログだ。
そして、氏の文章は、学者然というより、むしろ学者の匂いすら一切感じさせない、柔らかな文体である。だから、人気なのかどうかは私には分からないが、高い人気を獲得していればこそ、その言動には責任は伴うだろう。
仔細にながめてみれば、素人の私からみても、ずいぶんと飛躍した内容を含んだものもあると思えてならない。一度、読者のみなさんにも読んでいただければ、たちまち分かろうというものだ。
氏のブログのタイトルには、「みんなまとめて、面倒みよう」という副題が添えられているが、彼の語るところからはそんな気配はとても感じられない。
格差や貧困にたいする彼の眼は醒めていて、しかもそれを拒絶しているとさえ思う。
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「プーチンになろう」。ブッシュにはなるまい
「プーチンのようになろう!」。22日付のロシアの大衆紙コムソモリスカヤ・プラウダは、筋骨隆々たるプーチン大統領(54)の写真にこんな見出しを掲げ、筋肉の部位ごとにどんなトレーニングを積めば大統領に近づけるかを解説する特集記事を掲載した 。
断っておきますが、マッチョな人を私は決して好きではありません。ただ、紹介したいのは、こんなメディアがあるということです。
マッチョな人はなにもプーチンだけに限らないわけです。が、彼がたまたまロシア大統領という地位にあるために、ニュースにもなる。ましてやプーチンの肉体について事細かに書こうとはさらさら思ってもいません。
つけ加えれば、「日焼けしてセクシーで機敏な男性が省庁のオフィスを埋め尽くしているのは、見るだけですてきなことだろう」という同紙の女性記者のコメントが私には理解できません。単に、彼女がマッチョ好きなのか、あるいはプーチン好きなのか、のどちらかなのでしょうが、一面的な思い入れにすぎません。
話はかわります。マッチョ好きでもない私があえて「プーチンになろう」という記事を紹介したのは、むろん魂胆があります。
そのもとはブッシュ大統領の発言です。
米大統領、戦前日本とアルカイダ同列視 歴史観に批判
イラクの泥沼化から展望を見出しえない米大統領は、こんな発言もありなのかもしれません。支持率低下、側近がつぎつぎに職を辞する事態の憂き目に遭っているブッシュ大統領。落城間近の政権とはこんなものなのでしょうか。
ただ、日本のアルカイダとの比較の良し悪しは別にして、私はブッシュ氏の発言の一部は納得できる部分がある。
記事が伝えるところでは、前後はひとまず脇において、こうのべている部分はどうなんでしょう。記事は(ブッシュ氏の発言に関して)こう伝えています。
大正デモクラシーを経て普通選挙が実施されていた史実は完全に無視され、戦前の日本は民主主義ではなかった、という前提
このうち、大正デモクラシーと歴史教科書が言及する事実はあったとしても、戦前の日本が民主主義だったとはいえないでしょう。ブッシュの語り口がどうかの問題はあるにせよ、戦前は民主主義ではなかったといってよいと私は思います。むしろ、戦前と敗戦をはさんで、戦後との明確な相違こそ、日本人はしっかり理解することが大事だと思うのです。むしろこの朝日記事にはその点でナショナリズムの匂いがしないでもありません。
それにしても、ブッシュの歴史観が一国の大統領のそれにふさわしいか否かと問われれば、私もノンというでしょう。
彼にとってはほとんどアポリアとなっているイラクの戦局打開を図りたい一心での発言でしょうが、米国民にむかって自らのイラク政策に誤りはなかったと、あらためて訴えて、いまの時点で奏功するとも思えません。
こうみてくると、わが国の首相とダブってみえてくるから不思議です。
政権についていたいという執念じみたものはあるわけでしょうが、しかし、たとえば危機管理のなさをあちこちで指摘されながら、事態打開の方法論が安倍首相からは明確に語られたことはありません。
だから、「プーチンになろう」と煽る人はいるのかもしれませんが、どうでしょう、ブッシュになろうという人がいるのでしょうか。そして同じように落ち目といわざるをえない安倍首相になろうとよびかける人はいるでしょうか。
日本の歴代首相あるいはアメリカ大統領のなかには、本人の意思とは別に、実績や言動その他で、二度と顧みたくはない人物がいるように思うわけです。
率直ないまの評価は、米国においてはブッシュが、日本では安倍首相がそのうちの一人になる可能性は大いにあるといわざるをえないのではないでしょうか。
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テロ特措法のゆくえは。
この延長問題が秋の臨時国会の最大の焦点となる。野党側が反対の姿勢をとっているため、日米両政府は焦りの色を隠せないでいる。
参院では野党が自公の議席を上回ったため一致して反対すれば参院では同法改正案は否決される。ただし、憲法59条2項によれば、衆院で3分の2以上の多数で再度、可決すれば、最終的に成立させることも可能とされる。この再議決で成立させた例は過去50年間ない。自民党とすれば参院での議席逆転の状況下で、同法改正案を成立させるには、この59条2項が頼みの綱だったともいえる。
一方で、この「禁じ手」を使えば、安倍政権にたいする国民の批判は沸騰することも予想された。
しかし、これも杞憂に終わった。期限切れまできょう23日をふくめて70日しかない。
首相の所信表明演説、各党の代表質問、予算委員会での審議をへて仮に衆院で可決しても、参院で審議に日程を要すると成立しない。野党の抗戦が予想され70日では無理なのである。
国会には「みなし否決」というしくみがあるらしく、法案を受け取って後、60日間で採決をしない場合、それは否決されたものとみなすわけだ。そうすると、参院で60日間に採決しない場合、衆院に再度回るという可能性もありえた。むろん、これは先にあげた「禁じ手」である上に、みなし否決という、二重の高いハードルをへるので、国会内の緊迫した状況、混乱はおそらく避けられなかっただろう。
この極端なケースの機会さえ費えたといえる。
伝えられるところでは、自公幹事長が来月10日召集で一致したという。
自民党にとってテロ特措法延長は米国からの至上命令であったはずだが、手続き上かいくぐって成立をさせる戦術はなくなったといえる。
大敗をうけて、防衛省人事に端的にみられるような「無政府性」は、いまの同党の組織の現状ではその対応に追われるので精一杯ということか。
安倍首相の内閣改造が奏功し、テロ特措法延長の見通しをもてる状況を切り開きうる可能性は低いといわざるをえない。
同法改正案のゆくえは、野党の不一致という状況を自民党が切り開くか、それとも国民の監視で野党一致の状況をしっかりとつくりあげるのか、どちらが強いのかにかかっている。
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自民・民主大連立の筋書き。
安倍晋三氏は内閣改造をもくろんでいるが、そのもったいぶった言動にもかかわわらず、推測されるのは新味のない改造ということだろう。
また、一方で、これだけの大敗なのに、一致して団結するという、自民党内の背水の陣の構えがいっこうに我々には伝わってこない。そこに、同党の窮状を私は率直に感じる。
自民党が選挙総括案をまとめたらしい。伝えられるかぎりでいえば、変哲のない総括案になっているといわざるをえない。
「広報戦略で完敗」「危機管理能力欠如」…自民参院選総括
総括案は参院選について、〈1〉内閣・党支持率が5月末から急落し、歯止めがかからなかった〈2〉自民支持層を6割しか固められず、支持者の4人に1人が民主党に投票した〈3〉無党派層の支持獲得でも民主党に大差をつけられた――と分析。
少しも驚くに値しない。自民と民主の総枠での変化という私のような立場をとるとすれば、自民支持層を6割しか固められず、支持者の4人に1人が民主党に投票した、という現象など大きな意味をもたない。ようは自民+民主という総枠でとらえるかどうかだ。
自民・民主の総枠でものごとを考えるのであれば、中川自民党幹事長の冒頭の発言は、推測しうる一つの選択肢であることは疑いようもないだろう。
自民・民主という枠組みで捉えようと捉えまいと、確実なのは、自民党の退潮傾向なのである。だから、ことを察知している自民党は公明党との連立を避けることはできなかったし、今回の参院選大敗をへた段階で、自民党中枢がどのような対応をとるのか、それがいかがなものかが注目されるのである。
中川氏はこれまでも大連立への誘い水的発言を辞さなかった。氏個人の来歴もあるいは一つの参考になると私は考えるが、彼は存外、アイデンティティに拘る人物ではないのかもしれない。よくいえば柔軟というのだろうか。
だが、とるべき選択肢が仮に複数あるにしても、中川氏のいう大連立は、いまの支配層の権益を根本的に損なう方向に動くということをけっして意味しない。いまの自民党政治を根本的に転換するものではない。
二大政党制を準備した勢力からすれば、大連立など想定の範囲なのであって、少しも痒くはないのである。
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PS;中川秀直氏のホームページをご覧ください。大連立に言及しています。
(大連立)マスコミの大局観が問われる
行政を告発;「おにぎりが食べたい」餓死事件の今
辞退届により生活保護を廃止された北九州市小倉北区の男性(当時52)が孤独死した問題で、市民団体「生活保護問題対策全国会議」(代表幹事・尾藤廣喜弁護士)の弁護士らが、保護行政の現場の責任者である同市小倉北福祉事務所長を、保護責任者遺棄致死と公務員職権乱用の容疑で、24日にも福岡地検小倉支部に告発する方針を固めた。同会議の弁護士によると、生活保護に関する行政の責任を巡り、刑事告発にまで発展する例は極めて珍しいという。
弁護士らが準備した告発状によると、亡くなった男性は肝炎などの病気があり、就労など自立のめどもなかったのに、同福祉事務所長は今年4月2日、現場の責任者としての職権を乱用し、男性に辞退届を提出させて保護を廃止。その後も廃止の取り消しや救護などをせずに放置し、死亡させたとしている。男性は7月10日に死後約1カ月の状態で見つかった。
辞退届については、強制的に書かされたことをうかがわせる男性の日記が見つかっていることなどから、「任意かつ真意ではなく、書かされたもの」としている。
同会議は「頼みの綱が断ち切られ死亡したことは明らか。新たな犠牲者が出ないよう刑事処分によって厳しく断罪されるべきだ」と主張している。
記事で伝えられる告発は、この事件の解明だけでなく、生活保護行政の今後にとって大きな意味をもつものだと思います。メモ的に簡潔に以下に言及しておきます。
「おにぎりが食べたい」と記された日記は、この事例の象徴でもあった。生死を境をさまようぎりぎりのところでのこの男性の叫びは、あらためて胸を打つ。
そして、本人の辞退届を出した背景に行政の圧力があることが事件の発覚以来疑われたが、調書の改ざんが指摘されてきた。
今回の告発は、この具体的な事実の解明の上にたったものだ。
明確な改ざんの事実。これは動かしがたい。
北九州市はこの死亡事件以前にも、05年、06年にも生活保護を受給できなかった男性が2人死亡している。市のこうした対応の裏には、生活保護申請を水際で遮断するよう指導してきた国および厚生労働省の姿勢がある(*)。同市と厚労省の責任は重い。
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PS;当ブログでは、この事件を以下のとおり扱ってきました。
「おにぎりが食べたい」その後
主治医が「普通就労可」とはいっていないと言明していたことを明らかにしました。
主治医は「市側には、症状が軽快し軽作業は可能とはいったが、普通就労ができる状態ではなかった」と説明していると伝えられています。
市が作成した症状調査票の「主治医の意見」について、実際の説明とは異なる内容が記載されていたことになります。
一票に託せず;生活保護「辞退」で死亡
*福祉事務所がこのような対応を行う背景として、いわゆる「123号通知」(厚生省社会局保護課長・監査指導課長通知 昭和56年11月17日社保第123号「生活保護の適正実施の推進について」)の存在があります。
内田樹氏の格差社会観って……。
そして、列記したいずれでも今はないけれど、ひとたび生活の歯車が狂うと、現在の生活からいずれかに転落するかもしれないという不安を抱き、息苦しさを感じる人は、少なくないだろう。転落への不安と背中あわせなのである。
だからこそ、自分だけは転落しまいとし、自分のことを考えてきた。他人のことなど考えられなかった。別のいい方をすれば、勝ち組に自らを位置づけようとしてきたのだ。これこそ、格差社会というものをいっそうの深みに追い込んだ一つの要因だとも思えなくはない。
格差社会をあれこれ定義しようと試みるより、こんな社会の断面が現実にころがっていることを、ひとまず共通の認識にしておくことが、私はむしろ大事だと思う。
内田樹氏がブログで格差社会について書いている(格差社会って何だろう)。疑問に思った点いくつかをあげる。
氏の格差社会観の核心はつぎのくだりにある。
「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」のことではないのか。
無理に定義づけようと思うと、こんな結果だ。何かしら変だ。
格差社会とよばれるものはたしかに所得格差が主たるもの(の一つ)かもしれないが、それは結果であって、たとえば雇用の機会や形態を、働く者が選び取りようのない現実が前提にあった。選べない現実を押し付けたのは、彼らの働く場所を「提供」する企業であった。
この社会では自分のいきざまを自分で決めることはできない。
その典型を、たとえばロストジェネレーションといわれた若者たちにみたのではなかったか。
内田氏はまた、格差社会はすべて金の問題だととらえている。氏のこんな表現があった。
パラサイトシングルというのも、フリーター・ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前サラリーマンも、要すれば「金がない」せいでそういう生活様態の選択を余儀なくされている 。
だが、金がなくて、パラサイトシングルやフリーター・ニートになったのではなかった。いろんな条件があったにせよ、彼らの多くもまた、それを選ばざるをえなかったのではなかったか。
そして、氏は心の問題、内面の問題として片づけようとしている。
人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律するならば、「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう。
これはいったい、勝ち組、負け組ですべてを分け、勝ち組に皆がなびいたこととどこが異なるのだろう。私からみると、そんな環境に置かれる社会に皆生きてきたのだが、それでも氏の言説にしたがえば、それぞれの度量衡にもとづいて判断したといわざるをえない。
たとえると、貧乏であるかどうかは、その人の気持ちの問題だといわんばかりの主張だともいえる。
第一、格差という相対的な概念を論じようとしているのに、自分なりの度量衡で計れとは滑稽ではないか。
現実はそれでもシビアだ。相対的貧困率の数字はいやがおうでも私たちの前に現われてくる。セーフティネットの水準だと考えてよい生活保護基準以下の所得の世帯がなぜ増加するのか。それは、その人たちの気持ちの問題ではないだろう。
氏の主張は、ようは自己責任論の枠組みを抜け出していないといってよい。自分なりの度量衡をもてとさけぶのは、自分で責任もての言い換えだと私にはみえてしまう。
日本の所得の再分配を見直せという主張に、左派だけでなく、さまざまな立場の人(*)が着目するようになった。税やその他のしくみをとおして、たとえば垂直的に富む人から貧しい人へ所得を振り分ける。富む人には応分の負担をしてもらうのである。
他者へのこうした眼差しを認めるか、そうでないのか、結果的にそれが格差社会を論じる際の分岐だろう。
他者への無関心は、氏の主張に見え隠れしているのではなかろうか。
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*たとえば橘木俊詔、広井良典など。
理不尽なクレーム。医療では…
理不尽なクレームは学校だけにむけられるのではありません。
人と人との関係が成立する場面では、およそどこでも起こるものだと心しなくてはなりません。
けれど、理不尽なクレームが理不尽なクレームとして問題になり、伝えられるのは、公共財という言葉でも表される要求やサービスにたいしてです。公共財ともいわれるサービスや要求とは、たとえば、この記事が伝える医療や教育です。
教育の場面での、モンスターペアレンツはしばしば話題になってきましたし、当ブログでもこれに言及(ここ)しました。
この記事が伝える医療の場面での理不尽なクレームや横暴、暴力については、少なくとも医療機関や医療関係者の間では以前から問題として議論されてきました。
記事が伝えるのは、大学病院における事例の集約にもとづくものでしょうが、何も大学病院だけにかぎらず、民間病院でも、あるいはクリニックでも日々、発生していると考えてよい。
暴力430件暴言990件という数字は、だから、一部にすぎないと思ってよいでしょう。
当ブログで何度もふれてきた地域の医療崩壊(ここ)。その医療崩壊の要因の一端に、医療機関から医師が立ち去っていくことがありました。医師が立ち去っていく、おそらく引き金の一つが患者との関係によるものです。医師は日々、患者のいのちの安全と直面するという、激しいストレスとともに、患者との関係に腐心しているのです。
すでにエントリーでふれたように、患者の側はえてして命はまちがいなく救われるという、一種の思い込みがある。ですから、医療の到達と患者の意識はつねに矛盾をはらんでいるといわざるをえません。
このギャップ、矛盾こそが理不尽なクレーム、横暴を生む原因だといってよいでしょう。
つきつめれば、死から免れることはできないという不安と、医療の不確実性について患者側と医療に従事する側との認識を一致させる努力がどうしても必要になる。そのために、理不尽なクレーム、横暴にあたる専門職をふくめた人的な配置をすすめないといけないでしょう。
それには、今の医療制度のあり方を根本から見直さざるをえない。制度上、ぎりぎりの人的体制を採るように強いる診療報酬制度の改善が要る。
これまで、自民党の集票組織となっていた医師会もいまや、医療従事者は圧倒的に少ない、安全・安心の観点からも従事者数が絶対的に少ないことはあらためるべきだ、と発言するようになった。参院選の武見敬三氏の落選は、医師会会員たる医師たちの意識の変化を反映したものだともいえるでしょう。メディアも医療の崩壊をとりあげるようになった今、税金のつかい道をふくめて医療をどのように成り立たせるのか、国民的な議論をすすめる条件は整っていると考えてよいのではないでしょうか。
理不尽なクレームや横暴の問題を解決するためにも、それが不可欠だと考えるのです。
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朝日社説;「千匹のハエ」とは…。
新藤兼人監督の経験をもとに、語りかけるようなこの社説の核心は、非人間的な戦争の醜さから目をそらすな、というところにあると思います。
だとしても、「千匹のハエ」の意味はいったい何か。何かの象徴なのでしょうが、率直にいってなかなか分かりにくい。亡くなった多数の兵士を指していると考えたブログもありました。累々と地面にころがる日本兵。こう考えたのでしょう。
むしろ、特定の何かのたとえではなく、戦争という非日常の現実全体をさしていると私は受け取るのです。
執筆者は、特攻隊、集団自決、大量殺戮(さつりく)……。戦争のそこかしこに「狂気」があります。新藤さんが見たハエもその一つでした、と書いているので、「狂気」の果てといってもよいのかもしれません。
我われに分かりにくい理由の一つは、たとえとなる「千匹のハエ」(という状態)をまず知っておかなくては、理解できないということです。ここに無理があります。
いまどきの中高生の中には、ハエそのものをみたこともない人がいないとも限りません。そして、千匹とはいわないまでも、ハエがたくさん集まった状態を経験しなくては、想像力もわかないというものです。
たくさん集まった異様なハエの集団。その不気味な光景を経験しないでは、そこから前にすすむことはできない。思考停止をきたす。想像力もそこでしぼんでしまう。
「千匹のハエ」という戦争の醜さの象徴が必ずしも成功していないのは、このためでしょう。
その経験を前提にいまどきの中高生に語りかけたことに無理があったのです。むろん社説子のいうところに異論はないのですが。
おそらく社説子にも戦争の経験はないのでしょう。私もふくむそうした人に戦争を語ることはなかなかむずかしい。
多くは、戦後生まれだから、その想像力はたかが知れている(ここ)とのべたのは、まさにこのことにかかわっています。
それでも戦争は、語られないといけないのでしょう。
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*全文は下記。またはこちら。
戦争という歴史―「千匹のハエ」を想像する
卒論1文字5円という商売
大学の卒業論文やリポートの執筆を有料で請け負う代行業者が登場し、波紋を広げている。
学生がインターネット上で見つけた資料をリポートなどに引き写す「コピー&ペースト」が教育現場で問題となっているが、これを上回る究極の「丸投げ」で、文部科学省は「事実とすれば、到底認められない行為」としている。
ネット検索大手のグーグルも、「こうした代行は不正行為にあたる」と判断、代行業者のネット上の広告掲載を禁止する措置に踏み切った。
「国立大の学生・院生を中心としたチームなので安心の品質」「6年で740件の代行実績」。ある代行業者のホームページ(HP)には、そんなうたい文句が並ぶ。別の業者のHPは「社員は学生時代に必要最低限の勉強量で優やAを取ってきた精鋭ぞろい」とアピールしている 。
こんな商売が出回るとは正直、思いもつきませんでした。
私はとっさにこう考えてしまいました。
400字詰め原稿用紙に200枚だとすると、8万字。そうすると、40万円か。嗚呼、どうしよう。
私の頃は、多くが日本育英会の奨学金を受けていましたから、理屈でいえば、親の所得がそう高くはない家庭の子弟が多かったということでしょう。今から数十年も前のこと、長髪でTシャツにジーパン、これがはやりでした。こうしたいでたちと実際の学生の生活は、少しもかけ離れたものではなかったように思います。例えば、私は、奨学金と家庭教師のアルバイトで、間借の支払いと日々の生活費をまかなうことに苦労をすることはなかったのかもしれません。結果的に私の環境は恵まれていたともいえるようです。
しかし、当時の私が仮に40万払えたでしょうか。無理です、無理でした。カネが残るなど、到底ありえませんでした。親にせびるのも心苦しいという思いが一時も離れたときはなかったように勝手に自分では少なくとも思っていました。
数十年経った今、果たして40万円、ポンと払える学生がどれだけいるのでしょう。おそらくそう多くはないのではないかと思うのです。
一方では、逆にこうも考えるのです。
学生になるための条件として、日本では今、少なくとも中流(それもその中の上の)家庭以上でないとそれを満たさないということです。国立大学を例にとると、かつてとはちがって、いまでは年間50万円以上の授業料を準備しなくてはなりません。
こんな条件を満たすのも、今の日本ではなかなか大変なことではないでしょうか。私は、心から学びたいと思っているすべての若者に教育は提供すべきだという考えに立っているので、この現状をけっして快く思いません。学びたいという意思をもつ若者に、国家はまず最大の援助をすべきだという立場をとりたいと思うのです。
この立場にたてば、二重の意味で、記事にあるような方向には賛成できません。
そもそも学ぼうという意思がどこにあるのか、問われるのはこの限りで学生以外にはありません。卒論という制度の良し悪しを仮に今、横におくとすれば、卒論に自らの4年間あるいは2年間の集大成を記すのは、自らが自らを表現する最も確かな方法でしょう。それを他にゆだねるというのは、自らの4年間を否定することにおそらく等しいといわざるをえません。
卒論の代行書きは、受験の代行、受講の代行などと陸続きの重みをもっていると私には映ります。こうなると、少なくとも教育とまったく異なる世界に大学教育が置かれてしまうことにつながりかねません。その兆しは、たとえば大学受験に一人の高校生が学校側の要請にこたえて、およそ考えられないほどの大学を受験し、合格し、最終的に高校の実績としてカウントされ、名をあげることにすでにみえています。そして、応分の「報酬」を受けるという、「資本主義日本の今日的姿」をそこに私は感じるわけです。
思想的には、社会的に認められるのは一部の「特権」を与えられた者でよい、その他はどんな形であれ、どんな経過をたどろうと我関せずという、国家による差別と分断を感じざるをえないのです。
日本という国家の中にあって、どんな役回りであれ、今後担っていかざるをえない若者に胸をはって教育を選び取ってもらうためにも、こんな方向と、これに賛成するものがあれば、反対の意思を強く表明することが要ると思うのです。
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