森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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ブログに何ができるのか
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『ウェブ進化論』をものした梅田望夫を時代の寵児とよんでも差し支えはないだろう。その梅田と、気鋭の小説家・平野啓一郎の対談に興味をもった。もっと突っ込んでいうならば、私の関心は、さきにのべた社会の変容をどのように平野がとらえるのかにあって、そこをつまびらかにしたいという思いにとらわれたのだった。その対談は、『ウェブ人間論』(新潮新書)に詳しく記されている。
そこで、私は、このエントリーのタイトルを「ブログに何ができるのか」としたのだが、それは裏を返せば、ブログでは何ができないのかを明らかにすることにほかならない。2人の対談はその理解を深めるのに大いに役立った。
平野が本書「はじめに」で、対談では「見解の相違が鮮明になることはあったし、議論がそれぞれのアイデンティティに触れるような場面では、緊張を孕むこともあった」と率直にのべるように、対談者2人の意見の相違があちこちで散見される。そこが面白い。
その象徴的な部分を一つあげておきたい。それは、ブログで何ができ、何ができないのかに大きくかかわっていると思うからだ。
まず平野はこのようにのべている。
独り語り型のブログって、他者の存在を切断した、一種の真空状態で紡ぎ出される言葉でしょう?
リアル世界では、他者の思惑に翻弄されて、自分の言いたいことがうまくいえない、あるいは場の雰囲気で喋らされているようなところがある、だから、独りになったときに吐き出す言葉こそが本当の自分なんだっていうのは、分かるんですけど、正しくないように思うんです。やっぱり、ある人がどんな人かっていうのは、結局、他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている。誰もいない場所であれば、どんなことでも言えるけれど、そういう人間は、ネット上で一見言葉によって実在しているように見えて、本当はどこにも存在していないんでしょう。
この問題提起に、梅田はつぎのように応えているのだが、二人の意見に大きな差異を見出すのは容易だ。
梅田 そういう面はたしかにあるんだけれど、島宇宙化していっても、ネット上でのオープンソースが一つの例ですし、それから趣味の世界でも、深まっていく創造の喜びをネット上で追求できますよ。
平野 趣味の島宇宙的なコミュニティに属するというのは、僕は基本的に微笑ましいことだと思いますけど、そこで得られる同じ島宇宙の住人からの承認っていうのは、なんていうか、見て見ぬような感じだと思うんです。
同じ音楽が好きな人と会えば、……会っているとそこを突破口にして相手のもうちょっと深いところに手が届きそうな感触もありますけど、それがネット上のやりとりだけの場合はどうなのかな、と。そうして認められることに他者からの人格的な承認の幻想を託して、現実は結局何も変わらないまま放置されているという状態が、他人にとって幸せなのかなと。
梅田 うーん。ネットとリアルをそこまで区別しなくてもいいと思うんだけれど……。じゃあたとえば、リアル世界の現実は何も変えないかもしれないけど、ネットの世界で補う、っていうのはどうですか。
・・・・・・
「リアルの世界って生きにくいな、こんなところでサバイブしていかなきゃいけないんだな、じゃあ仕方ないから生きるために知恵を身につけなくちゃ」と何とかやり過ごすことって、生きていくうえで重要なことなんじゃないのかな。
平野 今の世の中は、他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属していることの安住感というのは、その外側を存在させなくなってしまうんじゃないか。僕はやっぱり、現実が嫌な時には、改善する努力をすべきじゃないかと思いますけど。
梅田 努力して、自分に適した場所に移るということですよ。ネットの情報がそのきっかけになるということかもしれないでしょう。それはいけませんか。
平野 合わないから移る、というのはいいと思いますけど、変えるべき現状があって変えないというのはどうですか? これは、政治の問題まで含めてのことですが。
議論は交差していて、少しも交わってはいない。どこまでも空転している。
しかし、このやりとりの後で、梅田がつぎのように語っている。あまりに楽観的なといえるような梅田のものいいであると私は思う。
「リアルの現状は改善する方向へ努力しなさい」というテーゼより、「今の環境が悪いんだったら、他の合う場所を探して、そちらへ移れ」という方が時代に合った哲学のような気がしています。
これは一見、まともな主張のように受け取れるが、「他の合う場所に移る」条件が等しく与えられている場合にこれは妥当する。が、現実には移動できる条件が一様ではなく、異なっており、それが問題なのではないか。平野はむしろそこに言及しているのではないか。だから現状をかえなければならないのだ。
ブログに何ができるのかという問題の設定はこの点にかかわるだろう。より議論を精密にするためには、独り語り型のブログとおそらく対極にあると思われる政治ブログに絞らないといけないのだろう(こういってしまうと政治ブログを定義をしないといけないのだが、ここではそう自認するブログすべてのことととりあえずしておく)。
要するにいいたいことは、2人の対談で明らかなように、「他者に対して極端に無関心だし、不寛容になってしまっている。そうした時に、島宇宙的な世界に属」しないブログ世界をどうお互いにつくっていくか、ということに尽きる。それは、換言すれば、ともすればそうなりかねないブログの「島宇宙的な世界」と現実の社会との緊張関係をいかにお互いが保つかということだ。多くのブロガーが現実社会と対峙していることを知っているつもりだ。だが、そこをいったん踏み外すならば、それはおそらく政治ブログとはよべないだろう。なにより政治とは、現実社会の「他者とのコミュニケーションの中でどういう言動が出来るかということにかかっている」(平野)のだから。
―――――――――――――――
梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書)
![](https://blog.with2.net/img/banner_02.gif)
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mozaicは93年に登場したそうですが、Netscapeが普及したのが95年くらいですね。それで95年頃を「インターネット元年」と評する人がいるんでしょうか。
「2ちゃんねる」などでネットウヨの過激な言論がよく話題になりますけど、あの源流はネットニュースにさかのぼることができます。日本でそれが始まったのが88年くらいじゃないかと思います。それが、88年頃がインターネット元年ではないかと感じる理由です。
また、異なる組織に属する人との電子メールのやりとりは、90年頃からやってました。もちろん、当時はキャラクタベースのみでしたけど、本質は変わっていないと思います。
ご指摘を受け、思い起こしたのは、歴史学における時代区分です。その立場、考え方によって諸説に分かれますね。
私の表記は、本書の中の表記によりました。
たいへん参考になりました。今後とも宜しくお願いします。
>リアルの現状は改善する方向へ努力しなさい」というテーゼより、「今の環境が悪いんだったら、他の合う場所を探して、そちらへ移れ」という方が時代に合った哲学のような気がしています
は、ないですよね。後者が哲学のわけがない。
悪い環境を変えられない奴に、安堵するため逃避できる環境なんてあるわけがない。
で、私の場合、環境が悪いわけではないのですが、たまたま移った他の場所、それが形而上だったりしたものですから、ややこしくなってます。
どうも私の場合、「社会的エントリー」と「精神的エントリー」が対立してしまう。ひとつのブログのなかで混在すると矛盾なんですね。ちょうど内田樹が社会的にみると叩きのめしたくなったり、精神的にみると納得してしまったり、じゃあ両方納得してしまう私はどっちなんだ、という矛盾。まあ、これは個人で解決するなり、抱えこむなりすればいいのですが……。
ブログとして考えると「政治(社会)的ブログ」はブログ世界で終結できない。「哲学(精神)的ブログ」はブログ内で終結できる。と、思ってます。
どちらでもない「日記(島)ブログ」は……、どうなんでしょうね(笑)?
貴ブログにコメントさせていただきました。