森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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07年をタイムスリップする。
この破天荒はちょうど07年の激動を象徴し、表現しているかのようである。
年末のあわただしさに加えて、忙しかったのは、福田政権の薬害肝炎救済にかかわる対応で ある。日々くるくる変化するといっても過言ではない態度の変わりよう、振幅の激しさに正直驚いた。政府と党と官僚という三すくみの中でのぎりぎりの判断が働いた。まだ不透明な部分を残すとはいえ、原告団の当初からの要求、全員一律救済と国の責任の明確化が基本的にかなったのは、原告団のそれこそ血のにじむような、粘り強い運動以外にその要因は見当たらない。集会にいけば、あるいは宣伝行動には、常に九州訴訟団の山口美智子、福田絵里子、小林邦丘らの姿があった。この原告らの強い意思がむろん政治を動かし、さらに国を動かすという画期的な到達点を築いたのだ。
同時に、別の角度からもみてみる必要がある。参院選後の新しい政治状況である。
この間に、国民が政治を動かすことができる、確実に動かしていると思える、いくつかの出 来事をあげざるをえない。薬害肝炎訴訟はいうまでもなく、来年4月から予定されていた後期高齢者 制度では政府は修正を余儀なくされた。その内容を高齢者が知るやいなや怒りが起こり、そ れが全国に燎原の火のように広がって各地の老人クラブをも動かす規模と質の怒りの運動となったのだ。新た な負担強化と医療差別をそれがもたらすからである。
生活保護の切り捨ては、かかげられたものの、結果的におろされた。連合までが最低1000円 にという要求をかかげた最低賃金制は、その願いからはほど遠いが久しぶりに改定される。
このような政治状況は、一瞥すると、声をあげればそれが国を動かすという、分かりやすい構図にもみえる。着実に状況はかわりつつある。だから参院選で下された国民の審判の意味はあらためて大きい。国民は、改憲をさけび、構造改革の名で貧困と格差を押しつけてきた自民党にダメだしをしたのだ。参院選後の議席配置の変化が、政権担当者を交代させた。安倍首相が去り、福田康夫が新しく首相に就任した。この交代劇は、この秋の最大の課題であった給油活動の継続をめぐってのことである。米大統領ブッシュに会った時、すでに給油活動の継続は不可能であって、盟主に約束を果たせなかった安倍晋三は辞任を表明し、政権を投げ出す以上の方法がみつからなかったのである。その後も福田が新テロ特措法の成立をくり返し口にし、執拗に成立をねらう姿に、日米関係の異常さが投影されている。ここでも国民はテロ特措法を拒否し給油活動をストップさせたのだけれど、それは裏返しにすると、どんな反対に遭っても日米同盟にしがみつこうとする日米政府の姿を照らしだすことになった。その日米関係の異常さは、たとえば、IPCCやCOP13などを振り返れば、異常さを通り越し、滑稽ささえ手にとるように感じられるほどのものだ。
新しい政治状況は、政権与党やそれを支える階層がどのように動くかも、国民の前に示して くれた。大連立の動きである。これが実は、07年の日本政治の最大の功績かもしれない。
参院選は自民党が大敗し、民主党が大勝した。あえていえば、国民は自民を大敗させたが 、民主を勝たせたのではない。そんな国民の意識を察知したのが小沢一郎だった。小沢の 臭覚は、参院選での、集票のために自民党への対決姿勢を強めさせた。そこに、民主党にと っての矛盾があった。そもそもの同党の主張・政策と一致しない、対決姿勢など不安定その ものだろうから。同様に、自民党にとっても矛盾はいうまでもなく深まった。与野党逆転と いう国会の状況にあって、野党の結束が強まれば、自民の思惑を先行させる強硬な姿勢より も、選択肢は、譲歩に傾かざるをえない。今後、衆院選が控えていればなおさらのことであ る。新しい状況は政党間の矛盾をも深化させたわけである。大連立に福田が動き、小沢が動 いたし、背後の「支配層」もまた動いたのである。
自民党の大敗に端を発したのにかわりはないが、この政治状況がもたらした矛盾を端的に物 語ったのは、この大連立劇である。大連立は自民と民主の矛盾を打開すべく目論まれた。そ の劇場で奇しくも小沢は民主党の出自を自ら明らかにした。それは、引き続く自民党の退潮 傾向のなかで、長年つづいた自民党政治を支えていく勢力であることを国民の眼にみえる形 で示したという意味で歴史の重要な一ページだったといえる。そして、結局のところ、民主 党の「総意」は大連立に乗らないことを選んだし、選択せざるをえなかった。それは、新段階にすすんだ状況での同党の思惑がそうさせたのである。しかし、次期衆院選にむけて、それでも矛盾は拡大するだろう。
安倍晋三が改憲を語れば語るほど、民意はそれに目をそむけた。有権者にとっては、小泉改 革のもとで著しく変容した自らの生活と経済状況、職場環境や雇用、地域の「没落」こそが 解決すべき課題だったはずなのに、自民党はそこに明確な打開策を示しえなかった。それを 引受けたのが、民主党の対決姿勢だったといえる。長年の自民党政治のなかで醸成されてい た年金行政と政府の対応の生ぬるさと曖昧さ、そして不真面目さが国民のひんしゅくを買っ た。
「政治とカネ」が問われた一年だった。組閣の際、たとえば身体検査という言葉が定着した ように関心がそこに向かうようになったのは一歩前進というのが率直な感想だが、根本的解 決との距離感は相当ある。大元にある団体・企業献金に日本の政治がどう手をつけられるか どうかにこそ解決の道はある。
こうして一年を現在から過去にむかって時間をさかのぼってみると、自民党政治のゆきづまりが実感される一年と特徴づけることができそうだ。別の言葉でいえば、それは、国民が政治の主体者としてようやく登場しつつあるということである。それに抗うためのしかけが大連立の動きであった。ある意味でいうと、これは支配層の危機管理の一面だともいえる。この連立劇は、それまで政権保持のために有効に機能してきた小選挙区制と二大政党制の到達点と矛盾もまた反映している。
だから、この07年を引き継ぐ08年は、政権を支える勢力の矛盾がいっそう深まるという点で、そ して国民の運動がより進化するだろうという点で、またこの両者の攻防がいっそう激化する という予測において、いっそう激動の年になるだろう。
国民と財界・支配層との攻防、日米同盟と国民生活との間の矛盾という支配構造の根幹にかか わるところでのたたかいが避けられそうにないという意味で激動はさらに加速すると推測す る。
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『ダーウィンの悪夢』から日本の生活保護まで。
きょうの「サンデーモーニング」は格差と環境をテーマに特集を組んで、新自由主義の成り立ちとそのもたらしたものを振り返っていた。番組は、映画『ダーウィンの悪夢』をいわばナビゲーターとして、人類にとっての格差と環境の意味を問い、新自由主義というシステムを紹介したものだ。ふりかえってみると、とくに小泉改革以後、日本での新自由主義の露骨な具体化の段階に入った。新自由主義が求める「小さな政府」においては当然のことのように社会保障に眼がむけられ、削減の嵐が訪れる。日本もまた例外ではなかった。
社会保障分野での削減の結果、日本社会のなかで何が起こってきたか、そして何が起こりつつあるのか。
その意味で07年のもっとも象徴的な出来事は、「おにぎりが食べたい」と言い残して死んでいった男性の餓死事件だろう。メディアもいっせいに取り上げ、過酷な生保行政でそれまでも全国に知られていた北九州市の行政のあり方が問われることになった。この事件をもたらした要因が直接的には同市の際立った行政姿勢にあるにしても、国の生活保護の抑制政策、指導方針が根本にある。その生活保護のゆくえがいま焦点になっている。
社会保障は、日本国憲法25条の定める生存権を保障する方法として、以下のような柱をもっている。生活扶助や児童手当などの現金給付による所得保障が一つ。第二に、医療や福祉、教育、保育などにみられる現物給付といわれるサービスである。これらのサービスは現金給付でかえることはできない。そして、生存権を支えるための規制や社会的ルールである。
新自由主義は、たとえば第一の現金給付では、対象を限定しつつ抑制し、所得保障そのものを限定してきたように、そのほかについてもそれぞれ変えてきた。介護保険や障害者自立支援法でも明らかだが、二番目の現物給付は、利用者にサービスを買わせて、現金給付にきりかえていく方向に変えられた。第三のルールや規制にかかわっては、それをとりはらおうとする、最近の混合診療全面解禁を求める動きに典型的だろう(写真右;規制改革会議委員の松井道夫・松井証券社長)。
構造改革は社会保障の柱とされてきたものにねらいを定めて見直してきたのだが、その考え方は、社会保障を建物にたとえると、二階建てにするというものである。一階は、限定された公的保障の部分。そして、二階は、自由(競争)市場にゆだねる。二階部分に住むためには、利用者が契約し、サービスを買わなければならない。だから、こういった考えの前提には、社会保障全体をまず現金給付型に統一する方向がなければならない。「負の所得税」の考え方だ。こんな構造をめざして、構造改革路線はすすんできたのだ。
その矛盾が噴出したのが07年であるように思う。たとえば、生活保護の水準、つまり切り下げが取りざたされる一方、最低賃金制などの最低所得保障水準が一部改定されるなどの最近の動向はこれを反映している。租税を財源とする生活保護と保険財政をもとにした国民年金という最低所得保障、勤労者所得の最低水準を決める最賃だが、この三者の均衡が完全に崩れている。
もっとも生活保護水準を政府は絶対にあげられない。底辺を引き上げてしまうからである。
しかし、こうした新自由主義に反対する社会的運動が事態を切り開いている。餓死事件では国民の側の全国的な調査活動が契機となった。反貧困キャンペーンが新たな展望を与えている。そして参院選では、国民の新自由主義にたいする審判が示された。集票目当てで民主党は自民党との対決姿勢をとった。この姿勢を同党は簡単に崩すことはできない。そこに同党の矛盾があるのだが、本物かどうか国民は見極める必要がある。福田政権もまた、衆院選を控えていればこそ、国民の要求を無視はできない。
矛盾を明らかにしながら、参院選後の政治状況は、国会の構図をも縛っている。それは、社会保障にかかわるものでいえば、生活保護基準の見直しをかかげながら、いったん降ろしたこと、後期高齢者保険制度の見直しにも表れている。
私は、貧困は自己責任ではなく、自由権の侵害、要は不自由な状態に置かれているととらえる。社会保障をめぐってはいよいよ、25条にてらして最低保障、最低生活とは何か、その中身が問われてくるだろう。国民的合意をつくるための、活発な議論を期待したい。
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混合診療;全面解禁見送り。だけど…
政府の規制改革会議(議長・草刈隆郎日本郵船会長)は25日、第2次答申を決定し、求めていた焦点の混合診療の全面解禁を見送り、既存制度の拡充を求めるにとどまったそうです。しかし、すでに昨年10月から保険外併用療養費という制度ができていて、混合診療全面解禁にむけて条件は整備されていると思います。
これに関して、「coleoの日記;浮游空間」に以下を公開しました。
混合診療全面解禁見送りだが。条件づくりは終わっている。
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【関連エントリー】
混合診療解禁と松井道夫氏の言説。
偽装博士と高学歴ワーキングプア
ニセ学位で採用・昇進 全国4大学で4教員 文科省調べ(朝日新聞)
出所が疑わしい「ニセ学位」をもとに04~06年度に採用されたり昇進したりしていた教員が、全国の4大学に4人いたことが27日、文部科学省の初めての調査でわかった。同省は全大学・短大に厳正な対応を求める通知を送ったが、関係者は「判明したのは氷山の一角」として、追加調査の必要性を指摘している。 欧米や中国などには、ニセ学位を発行する「ディグリー・ミル」(学位工場)と呼ばれる組織がある。国内でも、インターネットなどで入手したニセ学位を示して大学の教員に採用されたり、教員採用後に経歴の箔(はく)付けで入手したりするケースも出ている。 |
今年を表す漢字は「偽」でした。ですから、このニュースは、まさに今年にふさわしいといえるでしょう。もっとも文科省がまさかそこを意識して公表したのではないでしょうが。
こんな偽装博士が暴かれるのは当然でしょうが、私が同時に考えたのは、オーバードクターといわれる社会問題です。このオーバードクター問題は、つまるところ日本の学術体制に警告を発するもの。こういわれて久しいのですが、事態は深刻です。
大学院で専門知識を身につけて博士課程を出た後、研究職につけずに行き場を失ったり、「ポスドク」(*1)とよばれる短期契約の研究員を繰り返すなど、若手研究者の不安定雇用が深刻化している。この現状で優秀な研究者の育成が危ぶまれるという、日本の科学技術の将来が懸念されるのです。
大学院博士課程を修了しても安定した研究職につくことができない若者の急増。「高学歴難民」「高学歴ワーキングプア」などともいわれます。根底には、政府の科学技術政策が生みだした矛盾があるのでしょう。ですが、若手研究者の今後は、日本の学術研究と社会の発展にかかわる大きな問題であるのはまちがいないでしょう。就職難や劣悪な待遇の現状があらためられる必要があると思うのです。
仮にポスドクで就職しても、数年で異動するため短期の成果にとらわれてしまい、一貫した研究テーマを持ち続けるには困難がともなう。私の学生時代は産学協同などの言葉がはやりましたし、この言葉は実際いまも生きており、貫かれているでしょう。たとえば火山噴火、地球温暖化など、社会的には重要な課題を研究する研究者が学問の世界で重視され、はたして社会的にみて十分な待遇といえる環境にあるのでしょうか。この現状をあらためるには、短期雇用で目先の成果ばかり追う効率化優先の政策を転換しないと解決しない。
偽装博士のふるまいはこうした現状が一方であるだけになお指弾されなければならないという思いは拭えません。しかしニセ学位を見抜けないところに、一方で即効性や効率性に汲々とする日本の教育行政が横たわっている気がします。
日本の教育にかける予算は著しく低く、例をあげると、大学の授業料は諸外国と比較し極端に高いことにもそれは反映しています。
オーバードクター問題では、大学や研究機関での教員・研究員の増員やポスドクの社会的地位向上、大学院教育の充実など、課題は山積しています。
まさに税金のつかいみちの問題です。同時に、膨大な経常利益をあげる大企業には、一定数の博士号所得者の採用を義務づけるくらいの、就職支援を政府・文科省はやってもよいのではないでしょうか。
オーバードクター問題も、そして偽装博士にも、端的に日本の教育の貧困がそこに現われていると思うのです。([世相を拾う]07006)
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*1;博士研究員。「ポスト・ドクトラル・フェロー」の略称。博士課程卒業後、大学や公的研究機関で、短期の任期つきで研究奨励金や給与などを受ける研究者をいいます。ポスドクは支援形態によって、プロジェクト雇用型、大学や公的研究機関雇用型などがあり、給与や社会保険の条件はさまざまといいます。このほか、そういう支援を受けられずに、研究以外の仕事で生活を支えながら研究を続ける「支援なしポスドク」も多数。
PS;coleoの日記;浮游空間に同主旨でエントリー。
お知らせ
- 厚労省の調査(平成19年労働組合基礎調査結果の概況)が発表されました。これにもとづき、春闘で温まるか。の関連部分について12月28日、追記しました。
消費税を考える
増税の核心は、もちろん消費税です。かつては消費税増税のために、直間比率なるものをもちだし、直接税にくらべ間接税の割合が低いといってきました。ところが、その後の「税制改革」によって所得税の累進率を下げ、法人税の減税をつづけたために、この口実をいまではもちいることができません。
そこで、目的税、しかも国民が反対しにくいだろうといって、社会保障目的税にと強調しています。
社会保障をどう支えていくのか、その議論はたしかに必要です。消費税で社会保障を支えようという考えは、所得の高低を社会保障や税制度で是正しようとする再分配の考え方に立てば、矛盾します。消費税の負担割合は所得の低い人ほど高くなるからです。
消費税という選択肢しか残されていないわけではありません。歳入、歳出を見直せば、あらためるべきものがある。そして、消費税を導入するには他に理由がある、と考えるのです。
自公だけでなく民主党も消費税を選択した今、それでよいのか、国民が判断しなければなりません。
以下に消費税に関連する本年のエントリーを列記しました。
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方便のつかいみち-社会保障目的の消費税増税 (12月26日)
消費税導入をあおる朝日社説 (12月21日)
消費税増税;気脈通じる自民、民主。 (11月26日)
社会保障目的などとごまかすな;消費税。 (10月16日)
大企業が消費税を歓迎するワケ (8月12日)
消費税増税が待っている;知ってる? 人頭税石 (7月5日)
春闘で温まるか。
日本経団連が発表した2008年版「経営労働政策委員会報告」は好調な企業業績と人材不足を反映して来春闘での労働条件改善に前向きな表現が目立つ。景気に弾みがつく賃上げを期待したい。 「皆さんは賃上げ容認と言うが基本スタンスは何も変わっていません」。経労委報告をまとめた草刈隆郎委員長(日本郵船会長)は過大な期待感を戒める。だが今年は「付加価値増加額の一部は総額人件費改定の原資とする」と、ベースアップは可能とする表現を盛り込んだことが特徴だ。 経営側の交渉指針となる経労委報告は06年版から大きく変わった。それまでの賃上げ拒否姿勢から「働く人の意欲を高める適切なかじ取りを」と容認論に転換した。07年版も「自社の支払い能力を基本として個別労使で決定すべきだ」と、一定の理解を示した。そして今年は賃上げ原資があることを示した。 |
賃上げ闘争のあり方として春闘がスタートしてもう50年にもなります。その春闘も最近は押されっぱなしで、労働組合の組織率も低下する一方。若い労働者を惹きつけるだけの魅力がそもそも労働組合にあるのかどうかも問われなければならないのでしょう。60年安保や70年安保を担ってきた組合活動家たちが労働組合の幹部として今も存在するとすれば、少なくとも当時と同じような活動のスタイルではダメだということははっきりしています。
すでに春闘という言葉すら知らないし、ましてや何たるかを理解している人はごく一部にすぎないことが容易に予想されます。
このところの新自由主義の嵐が吹き荒れるなかでは、賃上げをと心のなかでは思っていたとしても、表に出すのは遠慮する空気が率直にいってあった。労働組合自身が最初から賃上げ要求をささやかなものに「自粛」していたように私には思えます。
記事にあるように、「経営労働政策委員会報告」が賃上げに前向きな報告をまとめました。労働条件を定めていく上で方向づけをおこなってきた同委員会ですから、大企業の基本方向は賃上げにむかうのでしょうか。
あえて突っ込みを入れると、問題はその中身です。
記事でさえ、「今回の指針は経営側が来年の大幅賃上げを約束したものではない。賃金コスト切り下げ追求の本音はまったく変わっていない」と書かざるをえないのが、今の日本の財界の姿勢です。
ですから、一方で、こんな現実にもある。分かりやすくいえば、しっかりと利益を確保してきた財界・大企業は、その利益を役員や大株主に還元しているといってよい。企業の内部留保は一般に、設備投資、環境変動に備える資金積立、そして報酬・賃金にあてられる。ですが、報酬・賃金をみると役員の報酬は伸びているものの、労働者の賃金は低く抑えられてきたのが実態です(*1)。データ(右図)をみれば、諸外国と比較していかに日本が異常なのかがよく分かります。
ゆきすぎた内部留保をやめさせ、労働者の賃金を少なくとも欧米並みに伸ばすという要求はけっして無茶なものではないでしょう。
世界一の自動車会社になろうとするトヨタでさえ、日本での販売実績が悩みの種になっている事実に端的に表れているように、国内の購買力は落ちている。この間の賃金抑制、社会保障抑制の結果だといえるでしょう。庶民の懐は冷えすぎている。
だから、賃上げだといって単純に喜んではいられない。格差という一言だけでは抽象的で、内実が分からないものですが、では大企業の利益はどのような形で蓄えられ、また配分されているのか、そこをみてみると、日本のゆがみがいっそう際立つのです。
必要な設備投資、環境変動に備える資金積立は企業活動に欠くべからざるものでしょう。しかし、賃上げの原資はある。
報酬・賃金の配分を根本的に現状からあらためよ。
利益を生み出す労働者は、これぐらいのことは叫んでよいのではないでしょうか。([世相を拾う]07005)
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*1;役員報酬は、01年度・8239億円から05年度・1兆5453億円とほぼ2倍に。従業員・労働者は同様に比較すると、41兆6689億円から40兆2873億円と1兆3816億円も減少しています(数字は、いずれも資本金10億円以上の大企業のもの)。
データ・図はしんぶん赤旗(12・25)から引用。
PS;文中の組織率について、リンクしているのは厚労省調査の図(平成19年労働組合基礎調査結果の概況)。
朝日新聞(12・28)は、この調査に関してつぎのように伝えています。
労働組合に加入する組合員の総数が、07年6月末現在で前年比0.4%増の1008万人と、13年ぶりに増加に転じたことが27日、厚生労働省の調査で分かった。労組に入るパート労働者が増え、全体を押し上げた。労組の組織率も18.1%と、32年連続で減ってはいるが、前年比0.1ポイントの小幅減にとどまった。
方便のつかいみち-社会保障目的の消費税増税
政府は消費税増税が既定の路線であるかのようにいうし、自民税調、政府税調も同様で、まるで選択肢は他にないといわんばかりの合唱を繰り返している。そこに、民主党が加わった。
同党は消費税増税を公約にかかげることを決めたそうである。
同党の「08年度税制改革大綱」では、消費税を社会保障目的税にすることを前提に、「(将来的に)引き上げ幅や使途を明らかにして国民の審判を受け、具体化する」と明記している。
<民主税制大綱>消費税上げの検討を示唆 道路財源は一般化
筋道ははっきりしている。すでに11月、自民党と民主党が消費税増税で気脈を通じていることにふれたけれど(参照)、それがあらためて公にされたということである。こと消費税にかぎっていえば、「連立」はすでにできあがっている。しかも、民主党もまた社会保障目的税だという。
したがって、つぎに、社会保障目的税とはいったい何かということも重要な第二の論点にしなければならない。
社会保障を支える財源をどう確保するのかは解決しなければならない重要な問題である。社会保障関連費は一般会計の4分の1を占める。この間の構造改革がすすむなかで、政府は自然増分の抑制までうちだし、これが今日もつづいている。こんな背景があるし、舛添厚労相が社会保障費の抑制は限界にきていると繰り返しいうのは、「改革」という名で抑制をつづけてきた担当省の率直な思いといえるのかもしれない。社会保障制度の見直しによる歳出削減は現実的には相当の困難がともなうというわけである。別の言葉でいうのなら、「改革』路線は矛盾に直面しているといえる。最近の生活保護見直しの撤回、後期高齢者医療制度の見直しを思い起こせばよい。参院選後の状況がそれらを加速している。
だから、重要なのは、社会保障の財源を何によって、つまりどんな税金で支えるのかという話になる。政府は、真意なのかどうかは措くとして、それに消費税をあてようというわけだ。
歳入・歳出をすべて見直し、不要不急のものはないか、論議すればよいと思うのだが、政府は共産党などの野党が指摘するように、手をつけない「聖域」をつくってきた。当ブログでは、たとえばそれは歳出での軍事費、思いやり予算、歳入では企業減税、大資産家への優遇税制などを指している。どこに手をつけるか、国民が選択すべきときを迎えている。
つぎの点からも検討が必要だ。
社会保障を支えるには消費税の税率をあげるしかないと政府は考えているようだが、日本より社会保障という点で先行するヨーロッパが消費税を社会保障目的税として位置づけているかといえばそうではない。ヨーロッパでは、社会保障給付が伸びたときも、社会保険料(の引き上げ)で対応している。社会保険料こそ、その使途を社会保障に限るわけだから、社会保障目的のれっきとした財源である。消費税を増やして対応したのではない。いうまでもなく事業主の負担割合は日本より高い。
第二の重要な論点は、消費税を社会保障目的税にするとはいったい何かということである。
野口悠紀雄氏が自らのホームページで、すでに社会保障目的税化について厳しい批判をくわえている(消費税の増税目的税化は欺瞞)。氏の立場から、簡潔な説明で論点が整理されている。
氏の結論は「社会保障目的税化」とは、消費税増税を行ないやすくするための方便というものだが、これ以上の説明は要しない。氏の言葉を借りて、あえて付け加えれば、「消費税を社会保障費にあてる」と観念することの実質的な意味は、消費税の増税(の一部)を社会保障費増以外に用いるのを見えにくくすることなのである。
このように、政府の考えていることは、社会保障をやり玉にあげながら、実はそれ以外の歳出に結果的にふりむけることにある。
たとえば、これまで消費税の導入・増税によって公的負担の面で最大の恩恵を受けたのは財界だと結論づけることができる。1989年に導入された消費税の税収は累計で175兆円。この年以降、法人税率は42%から30%まで12%も引き下げられた。06年度までの法人課税の減収は合計で160兆円というのだから、消費税収の大部分が法人課税の減収に吸い込まれた形になっている。結局は、増税のゆくえとはこんなものである。
政府は国民を欺くことをやめよ。
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予算案の素描-深まる国民生活との亀裂
生活保護を受けようと役所に出かけたものの断られ、生きていく展望を探そうとしてもあたわず3年連続で続いた北九州市の孤独死。死亡した一人の男性が発した「おにぎりが食べたい」という言葉は、この国の現在を見事に象徴するものであった。同市の生活保護行政は、申請を拒む手法がすなわち「水際作戦」とよばれるように、強硬に住民を跳ね除けるなどたしかに際立っていたが、しかし全国から同様の孤独死事例が報告されることが、少なくはなかった。
北九州市では、生活保護行政を検証していた第三者委員会が最終報告を最近提出し、市長が定例会見で「深くおわびしたい」と謝罪したうえで、保護行政を担当した幹部職員を処分することを明らかにした(参照)。ひとまずの結節点だともいえるだろう。
この孤独死事件に端的に表される貧困の問題は、日本のいまを深く侵食している。ドキュメンタリー『ワーキングプア』がシリーズで放映され、全国から大きな反響があったのも、それが秀逸な番組であったからというだけではなく、視聴者それぞれが日常の、自ら見聞きする日本社会の暗部を十分に承知していて、そこに自身もいつ放り込まれるか、分からないという、他にたとえようのない実感があったればこそであった。
明日はわが身。生かしてくれと叫ぶかのような、日本に住む者の生活のありようを、頻発する各地の事件を連日報道する番組や記事をとおして、その度に誰もが男性の言葉を思い浮かべたにちがいない。
夏の参院選では貧困と格差が争点になった。そして有権者の厳しい批判が自公政権に浴びせられた。
だから、貧困と格差にどう向かい合うか、あるいは社会保障をどう支え充実を図るか-これは、この国の政治が手を差し伸べるべきもっとも喫緊の課題にちがいないのだが、福田政権の対応にはそれがみえてこない。
08年予算案が24日、発表された。総額83兆603億円に及ぶ。当の社会保障費だが、小泉政権下で自然増分の圧縮がはじまって以来、毎年連続して圧縮され、今回もまた自然増分2200億円が削られた。
財源はないのか。結論に誘導するために、財務大臣・額賀福志郎がいみじくも「橋渡し的な位置づけ」と予算の特徴をいってのけたように、消費税増税を前提にした今回の予算だといえる。日経新聞(12・25)は、「一般歳出2年連続増 社会保障費膨らむ」と政府の思惑どおりの見出しを立てているほどだ。
いうまでもなく、予算には、ときの政権のかじ取りの方向が描かれている。簡単にいえば、税金をどこにつかうか、税収はどこから見込むかということだ。この2つはもちろん密接に結びついているが、数年分の予算に連続する傾向をあらためて見直してみるとよい。
社会保障は一般財源の多くを占めるのは事実だが、しかし、当ブログが「聖域」とよんでいるものははたしてどのように扱われているか、それが読み取れる。たとえば、政府は「聖域なき防衛関係費の見直し」というが、例年と同様、ほぼ5兆円の規模になる。思いやり予算は累計で5兆3000億円に達した。
税収をどこから見込むかという点では、現在は法人税率30%なのだが、80年代半ばまでは43.3%だった。たとえば、このような大企業や大資産家にたいする減税もあって、空前の利益をあげていながら法人税税収は落ち込んだままだ。
福田政権は、社会保障目的をかかげて、消費税増税を国民に飲ませようとしている。しかし、「聖域」をそのままにするのではなく、大企業・大資産家への減税と軍事費を見直すことを優先すべきだ。
社会保障の財源を消費税でまかなおうとする考え方にそもそもの矛盾を含む。予算案は現状の国民生活の窮状にいっそう拍車をかけることになる。
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消費税導入をあおる朝日社説
Nスペ「自民VS民主 二大政党はどこに向かうのか」の語ったもの。
50分ほどの番組だった。けれど、率直な感想を先にのべると、平板な解説の域を出るものでなかった。分析の深みがなかった。NHK政治部部長・井上樹彦がナビゲーターを務めていたが、全体の構成はもちろんNHK政治部、とくに井上の認識を反映を示したものだろうが、同時に思ったのは、NHKにとどまらず、同様の認識がおそらく日本のメディア全体を覆っているということであった。
平板だと思うのは、現実に自民、民主の議席が多数を占める状況を所与の条件としてのみとらえている点にある。たしかに、自民、民主という二大政党のウエイトは現状の議席に表れているように大きいし、むろん無視できるものではないが、それだけでは、いまの膠着状態を説明できないだろう。
昨日の番組では、参院選の結果、国会でのいわゆる「ねじれ」が何も動かない状態をつくり出しているかのように説いていた。要は、参院で野党が自民を上回るという新たな展開に原因を求めていたのだった。
しかし、私は、表面上のそういう新たな展開があるにしても、これまで長年政権についてきた自民党が新しく抱え込んだ矛盾とともに、民主党もまた、「ねじれ」という新たな段階で矛盾に直面しているという、両党の二つの矛盾こそが今日の膠着状況を生んでいると思っている。その矛盾は、昨日のエントリーで示したように、直接的には国民が顕在化させたものである。
自民党の矛盾とは、端的には、この間の長期低落傾向がいっそう深まり、ついに参院で少数派に陥ったという矛盾だ。一方、民主党を考えてみると、小沢代表は先の参院選で、自民党との多くの政策的共通性をもっていて、実際も自民党に同調するというそれまでの同党の実態とは関係なく、徹底して自民党との対決姿勢を強調した上で、票をさらっって勝利したのであった。だから、今回の勝利はそもそも矛盾に満ちていたといえる。そんな経過で大勝した民主党は自民党との対決姿勢を降ろすことはできない。そうすると、同党の基本姿勢とは少なくとも乖離し、いっそう民主党のなかでねじれがおこり、きしみ始めるというものだ。
この両党の矛盾を解消するために、大連立にむけた福田・小沢の密室協議が仕組まれたのだ。矛盾からの脱却するための接点が大連立構想だったのである。
二院間の多数派が異なるという事実があって、法案が成立しないという膠着状態を前にして、政権を維持してきた自民党にとっては、容易ならざる事態だから、周知のように、参院選直後からすでに二院制の廃止論が出ている。番組のなかで、町村信孝(写真上)が「二重権力状態では政策が実現できない」とのべていたことにそれは象徴されている。
むしろ中谷元が語ったことが印象に残った。二大政党という政治のあり方に疑問が残る。選挙制度の改革が要る旨の発言だった。中谷の意見は、多様な選択が可能になる中選挙区制がいいということだ。もちろん中谷の考えは、動かない国会の現状から出発した短絡的な見方だといえないこともないが、しかし、与党のなかに小選挙区制をふくめて二大政党制に率直な疑問が呈されていることを私は重くみる。二大政党制によって維持しようとしてきた自民党政治の今日的困難を物語る一言だと考えるのだ。
こんな両党は矛盾を内部にはらみながら2008年の政治は動いていく。
この2つ(9・11選挙、参院選)の選挙での国民の、「変えてほしい」という消極的選択から、「何かを変える」という積極的選択をしうるか否かという問題である。参院選挙後の政治状況は、政治はかえうるという実感をもった人も少なくないだろう。だから、積極的選択を可能とする条件もまた広がっていると私は考えている。
昨日エントリーの末尾でこのようにふれたが、番組をみて思ったのはこのことだ。2008年はいよいよ積極的選択が求められる。政治の主体者は国民なのである。
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この国の07年政治-安倍退陣から大連立へ
首相は相変わらず気負いと気恥ずかしさを感じさせる新入生然とした顔つきで、今年は美しい国元年であり、夏の参議院選では憲法改正を訴えると語った。また野党の党首たちは、統一地方選と参院選で気もそぞろという顔を並べていたが、気負いばかりが空回りしている空疎さは十年一日の感があった。
この新年の空気は、はたして2007年を貫いたのであろうか、こんなことを年の瀬に考えてみるのだ。高村氏がのべるこの07年の新年の空気は、その後の大きな変動を予測しているようでもあったし、そうでもなかったようにも今となっては思える。
安倍氏は退陣した。が、その前後で何がかわったか。ほとんど何もかわっていないかのようにもみえる。少なくとも、民主党が事態を大きくかえ、日本の政治状況を以前とは著しくちがったと国民がとらえるだけのものを示しているとは到底思えない昨今の状況である。
たとえば、参院選で、いまここにある自民党政治ではダメだと思って、とりあえず民主党に投票した人たちは、福田氏と小沢氏が密室で会談したあの瞬間に見事に裏切られたわけである。なぜなら、いまの自民党のおこなう政治とは異なる政治を求めて、あるいはいまの政治はいやだと思って、自民党には投票せずに、結果的に民主党を勝たせたわけだからだ。
それはちょうど、自民党をぶっ壊すといって登場し、改革をやるのかやらないのかという命題を国民につきつけ、小泉のいう改革というものが自分の現在をもかえてくれるという淡い期待と幻想を抱かせたのと同じように。小沢氏は、国民のこういった意識や反応から学んで、参院選で支持を訴えてきたのである。政権交代こそあなたには必要だと。
だから参院選での民主党支持は、05年総選挙の小泉への圧倒的支持とおよそ同質のものとみてもよい。高村氏にならえば、「無党派は保守」なのだから。
二大政党というものについて私は批判的にみてきたが、二大政党制に賛成であろうと反対であろうと、実際に国民の前にあらわになったのは、自民党からの政権交代を訴えてきた民主党の党首の考えていることが、自民党とほぼ同じものであったということである。自民党が大連立を志向したのと、民主党(党首)が大連立を志向したのとは、そのアプローチはたしかにちがうのかも知れないが、いずれも自民党政治の延命を図るという点で、双方が一致した結果だとみてもまちがいではない。小選挙区制という選挙制度とも結合して、ちょうど大連立劇が象徴的なように、二大政党制という枠組みをとおして自民党政治の延命が図られてきた。
だから、ナベツネが何をいおうとどうでもよい。大連立を、たとえ小沢氏が先にいい出していようと、あるいは福田氏がいい出したとしても、それが小さな問題であることにかわりはない。福田、小沢が現実に会ったという事実、これが大事だといえる。
しかし、一方で、参院選の結果は、政治を具体的にかえつつあると私は思っている。あえていえば国民がかえている。
それは、参院選の結果に自民も民主も縛られ、両党はその行動を国民から規制されているからだ。自民党は従来の自民党、自民党然とした態度ではいけない、譲歩が必要だという、そして民主党は自民党への対抗軸を示さないといけないという、それぞれにとっては一種、困難な課題を国民は両党につきつけたのである。両党は矛盾のなかにあるといってもよい。両党の矛盾を顕在化させ、政治が変わっているのだ。いまの自民党政治を支える勢力にとってはこんな矛盾は当然、即刻解消しないといけないだろう。そんな状況のなかで、件の大連立構想がもちあがったのである。
結果的に、福田氏と小沢氏の密談が二大政党制の本質を、国民の眼前で鮮やかに示してくれた。これは今後、どのような変化をもたらすのだろうか。つまり、9・11選挙と参院選とは異なる選択をなしうるのかどうか、それが国民には問われてくるのだろう。
いい方をかえれば、この2つの選挙での国民の、「変えてほしい」という消極的選択から、「何かを変える」という積極的選択をしうるか否かという問題である。参院選挙後の政治状況は、政治はかえうるという実感をもった人も少なくないだろう。だから、積極的選択を可能とする条件もまた広がっていると私は考えている。
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PS;管直人氏は社民党大会で挨拶し、こうのべています。
次の衆院選で野党の連立政権をつくり切れなかったときには、いろいろな動きが再燃していくことも十分予想される
野党連立政権が不可能な場合という仮定ですから、彼が想定しているのは自民、民主の連立ということになるでしょう。小沢氏自身が大連立構想はまちがっていないといっているわけですし、この党の執行部というものは政権のあり方を問わずに政権につくことに関心が集中すると思わせる発言です。
【関連記事】
大連立構想で仲介役、森元首相が明かす(読売新聞)
大連立、持ちかけたのは小沢氏 渡辺会長、TV番組で(朝日新聞)
橋下徹弁護士とODA
弁護士とは人権を守るものと考える大方の人にとっては、こんな人物が弁護士を生業にしているのか、およそ信じられないということになる。橋下弁護士は、まず自らの人権意識を問われないといけないと思うが、同時に、買春をODAにたとえる彼の認識もお粗末だといわざるをえない。
そのODAについて、高村外相が21日、「2007年版政府開発援助(ODA)白書」を閣議で報告している。
報告されたのは2006年の日本のODA実績だが、1982年以来の世界第3位になったという。英国が日本を抜いた。
日本のODAについては、従来から、①米国が戦略上重視する地域への重点配分、②大企業の海外進出促進の手段として利用、③徹底した秘密主義―などが特徴点としてあげられてきて、ゆがんだあり方を指摘する声も多かった。
飢餓・貧困から抜け出せない国々への援助の改善は、緊急を要する課題だといえるが、日本の場合、人道支援の比重が低く、日本の大企業支援に注ぎ込まれている。国連首脳会議では05年、先進国がODAを国民総生産比で2015年までに0.7%へ引き上げる目標が確認されてきた。この目標には現状は遠く及ばない。内訳からみると、食料支援など人道援助の比重や医療・教育施設など社会インフラの比重が低い一方で、空港・港湾・ダムなど経済インフラ整備の比重が高いことが特徴としてあげられてきた。
また、2005年にはたとえばコスタリカへのODAで使途不明金が発覚し、会計検査院の報告書でも、国際協力機構(JICA)関連などで6件が「適性を欠く」と指摘していた。
高村外相は、今後、環境・地球温暖化対策やアフリカの開発支援、感染症対策などをあげる一方で、日本企業が直接投資を通じてレアメタルなどの重要資源にかかわる海外権益を所得し、長期的・安定的に調達先を確保できるように、ODAを活用し支援することを掲げた。ここに日本企業の経済活動の機会を確保し、権益獲得につなげようとする意図が端的に示されている。
さて橋下氏。
これを過去の発言として無視することは許されない。氏の発言は、日本人団体による中国広東省での集団買春騒動に関するもので、日本人による買春は中国へのODAみたいなものだと放送番組で発言した。この発言が、日本人の行為を免罪し、中国を冒涜するのは明らかで、放送特後から批判が相次いだという。
人権意識が疑われるような発言はこれだけではない。「能や狂言が好きな人は変質者」と発言したし、また、光市母子殺人事件で弁護士懲戒請求をあおり、大きな波紋をよんだ。最近の橋下氏への懲戒請求は、同事件と府知事選をめぐる状況をいっそう複雑にしていると思えるけれど、そうであっても、氏が900万自治体首長にふさわしい人物なのかどうかは、大阪府民は見極める必要があるだろう。
橋下氏の繰り返される一連の「過激」な発言には、人権意識欠如あるいは差別意識が通底しているように思う。
たとえば、能や狂言が好きという個人の嗜好を切り取って、他者とは異質のものと攻撃したり、逆に、買春という行為を免罪する片方で、政府援助という名で隣国との関係のあり方をことさら強調するのは、およそ自治体首長には不適格といわざるをえないと率直に思う。
これまでの氏の発言によるかぎり、地方自治の本旨にもとづき、地方自治体には「全体の奉仕者として公正に職務を執行する責務」があるとする立場からは、知事としての資格を氏はもちあわせていないと判断するからである。
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PS;「JANJANNEWS」が橋下発言を伝えています。
http://www.news.janjan.jp/government/0712/0712147217/1.php
この記事の中に、当時の経過を記した以下の記事が掲載されています。
====
橋下氏は前回5日(03年10月5日)の放送で、日本人団体による中国広東省珠海市での集団買春騒動に関して、「日本人による買春は中国へのODA(政府開発援助)みたいなもの」と発言。放送直後から批判が相次いでいた。番組側も橋下氏の発言は極めて不適切と判断。12日の放送で橋下氏とサブ司会者の海保知里アナウンサーが、発言の全面撤回と謝罪を行ったビデオを放送する予定だった。ところが、生放送が始まった後、橋下氏が突然、マイクの前に立ち、問題発言について謝罪。さらにこれ以上スタッフに迷惑をかけたくないから、番組から去らさせていただきますと涙を浮かべながら、スタジオを後にした。謝罪ビデオも予定通り放送された。生放送での降板宣言に、スタッフも『降板をこちらから強いたことはない』と困惑。問題の発言については「番組の(謝罪と撤回した部分の)通りです」としている。橋下氏は昨年5月にも「能や狂言が好きな人は変質者」などと発言し問題化。2度目のトラブルでもあり、本人が自主的に責任を取った格好だ
(スポーツニッポン03・10・13)
消費税導入をあおる朝日社説
朝日の社説は、あえて重要な点を欠落させている。
社説の核心は、①消費税の増税は避けられない、②消費税は福祉の財源に適している(*1)、の二つだと思う。以下にあげる消費税の「欠点」をうめるために、社説が提言するなかには、生活必需品の税率を下げるなどいくつかの修正が施されているが、消費税にたいする朝日の基本的認識をもちろん変えるものではない。
欠落しているのは、たとえば増税は避けられないというが、企業減税や思いやり予算などをまったく考慮していないことにも表れている。要するに、朝日もまた、この領域を「聖域」視していて、まったく政府の立場とかわりはしない。
税金をどこからとり、どこに配分するのかという問題は、いうまでもなくすぐれて政治的で、階級的である。
この間、構造改革という名で「がまん」が求められる一方で、増税を強いられてきたのは庶民であった。アウトラインをみるとおよそつぎのようなものだ。
所得税の累進性が弱められた。税率がフラット化されたわけである。そして、消費税増税によって、増税分は、企業減税にもっていかれた形になっている。また、最近の定率減税の廃止は記憶に新しいだろう。その際、廃止によって浮いた財源を、基礎年金財源として積み立てると政府はいいながら、積み立てられた額は予定を大幅に下回っていた事実も記憶に留めておいてよい。
いいたいのは、この間の自民党政治の税収奪-とあえていわせてもらう-が、庶民にむけられてきたということである。その一方では、財界・大企業や高額所得者への手厚い減税政策がとられてきたという事実である。
だから、あえて税制が今後、どのように変わっていくのかに無関心ではいられないのだ。
ふりかえってみると、小泉後を引き継いだ安倍前首相は、小泉氏がやらなかった消費税増税を参院選前にうちだした。けれど、選挙をひかえて、秋口から論議を開始するといって、消費税が争点になることをむろん避けてきた。福田首相は、就任後まもなく消費税増税も事実上明らかにしたし、政府税調・香西泰会長もこれに言及してきた。ただし、議論は、周知のように増税の理由づけのために、常に社会保障目的という言葉が付け加えられているという特徴がある。
消費税がどのようなものか明らかにするために、つぎの3つの点でみてみたい。
1.消費税はどのような税か
2.消費税導入は財界の念願であったこと
3.租税理念を変質させてきたこと
1点目については、当ブログで数回ふれてきた。簡単にくりかえすと、消費税は、人を選ばない。「平等」に扱う。なんとなくよいではないかと思えてしまうが、税を負担する力(担税力)は一様ではないので、税はこれでは困るのだ。フラット化したとはいえ、所得に応じて高くなる所得税と比較するとちがいは歴然である。
だから、消費税は逆進性が問題になる。所得の低い人ほど負担割合が高くなるということだ。
大企業にとっては、少しも痛くはない。消費税を負担するのは消費者。企業や業者は税負担者ではない。
そして、税収が大きいことも特徴だ。消費税は物価に上乗せされるため、物価を引き上げる。物価があがると、消費税の税収はまたあがるのだ。現にデータによれば、1990年度1%あたり税収は1.5兆円、2006年度にはこれが2.6兆円にはねあがっている。
戦後、日本の税体系はシャウプ勧告によって、直接税である所得税、法人税、相続税、富裕税を中心に、個別の間接税がそれを補完する形とされた。勧告は1950年のことだ。当時の政治状況が反映されていると思うことは、所得税を中心とする直接税が民主主義に対する国民の意識を高め、もちろん所得再分配の機能を高めるし、反インフレの作用をもつと考えられてきたことだ。一方で当時の取引高税のような間接税は廃止された。広く大衆から徴収されるため、重税感と税金を払うという感覚がともなわないために、当時は国民は政治から遠ざかると考えられたらしい。
勧告の発効にともない、すぐに財界では勧告の「直接税中心主義」への反発がはじまる。そして、1956年には政府税調答申で売上税が盛り込まれ、付加価値税にその後言及し、ついに竹下内閣のときに消費税が導入された。1989年である。
橋本内閣時代に税率が5%に引き上げられ今日に至っている。
この変遷のなかで、ちょうどシャウプ勧告から50年になる2000年、政府税調は消費税増税をうたう一方で、消費税導入以来、大きく減税されてきた法人税が「基幹税」からはずされている。当時、税調会長だった石弘光は、企業には選挙権がないと言い放っている。石は思惑を隠そうともせず、「何よりも重要なのは特定の人の税負担を重くするのではなく、できるだけ多くの人に何らかの形で負担してもらうことである」「どうせ税を支払わねばならないなら、痛みなく取ってもらいたいというのが、日本人の性癖」と強弁した。
いまや政府与党、財界だけでなく、野党の一部をも巻き込み消費税増税へひた走りつつある。朝日の社説もその潮流にのったものといえる。
かつては日本の税制の、直間比率(*2)をもちいて消費税導入が叫ばれた。いまや日本はヨーロッパ並みの直間比率である。5.5対4.5程度だといわれている。
こんな伏線もあって、社会保障目的というのだが、すぐに分かることだけれど、税金はどの支出にも巡り巡っていく。社会保障だけに限られるわけではない。
いったい消費税を社会保障目的税にしている国が世界にあるのか。
話をもどす。以上のように朝日社説は、歴史的にみて、消費税が財界が求めてきたものであること、さらに財界の負担を軽くし、庶民の負担を重くするところに意図があって、導入後は財界・企業の減税が連続している事実からも、目をそらしている。歴史はまさにこの税をめぐる攻防が政治的、階級的であることを教えている。
その意味で朝日は明確に支配層の側に立場を置いているといえる。
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*1;社会保障は、租税制度などと同じように、所得の高い者から低い者への所得移転の機能を持っています。この所得再分配が必要だとする立場からみると、消費税はこれとは反対の性質をもっています。すなわち、消費税は文中に記したように、低所得者ほど負担割合が高いのです。朝日は(消費税は)税収が安定しているため福祉の財源に適しているというのは、まったく的はずれでしょう。
*2;直接税と間接税の税収の割合。従来は、直接税7、間接税3といわれていました。消費税の導入の一方で、所得税の税率変更等でこの差が縮まっています。
PS;coleoの日記;浮游空間に同文を公開しています。
薬害肝炎。線引き崩さず全員救済退ける。
「被害者の全員救済」という願いは、かなわなかった。国側が最後まで救済範囲を限定する姿勢を崩さなかったことに、薬害C型肝炎訴訟の原告たちは失望し、和解協議打ち切りを宣言した。
20日午前、厚生労働省で会見した全国原告団代表の山口美智子さん(51)は「私たちが全面解決という最後の山を登ろうとしているのを、福田康夫首相は突き落とした。舛添要一厚労相も握っていた手を放した」と怒りで体を振るわせた。
原告・弁護団は19日を福田首相に政治決断求める期限としていたが、最後の望みをかけて、この日朝まで朗報を待った。これまでの5年間の闘いを振り返りながら、原告らは眠れないまま朝を迎えた。しかし、待っていたのは落胆だった。
製剤使用を知らせず、提訴の機会そのものを奪った上にこの仕打ちは許せるのだろうか。
薬害の被害者に何ら責任はない。血液製剤が投与された時期にかかわらず、感染とその被害を拡大した国・厚労省と製薬会社に大きな責任がある。国民の安全に責任を負うのは政府だ。
原告団の意思は、全員一律救済であって、明瞭であった。原告や被害者が願っているのは、①ウイルス性肝炎の感染拡大への国・製薬会社の責任の明確化と謝罪、②すべての被害者の救済、③真相の究明と薬害の根絶、である。
ウイルス性肝炎の大半は、医療行為に起因する医原性の感染です。感染被害を防ぎ、国民の生命の安全を確保することは国・厚労省の責任だ。放置すれば肝硬変や肝がんなど生命にかかわる。
舛添厚労相はこの朝、東京地裁が国などの法的責任を認めた期間から外れる被害者に対し、創設する基金を積み増す案を示した。全国弁護団の鈴木利廣代表は「全員一律救済の理念を理解しておられないようだ。札束でほおをたたくような案で、『要は金だろう』と矮小(わいしょう)化している」と痛烈に批判した。
政府は、全員救済ではなく、あくまでも線引きの姿勢を崩さなかった。鈴木弁護士の言葉が政府の姿をよくとらえている。
全員救済と薬害根絶という原則的立場をとれない政府に、はたして哲学があるとは到底思えない。たとえば米国にはどこまでも追随するし、これほど原理・原則を尊重をしない政治にほとんど呆れるばかりだ。
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【関連エントリー】
薬害肝炎訴訟;全員救済し命奪うな。
混合診療解禁と松井道夫氏の言説。
訴訟は、保険給付が認められていない診療と保険給付の診療の双方を受けた場合に、保険給付部分の診療分も含めて全額が患者負担になるのは不当だとして、患者が国に対して給付を受ける権利があることの確認を求めたものである。同地裁の定塚誠裁判長は、「混合診療を禁止する法的な根拠がない」とのべ、原告に保険の受給権があることを認める判決を下した。
判決後、これを待っていたかのように-私にはそうみえる、政府の規制改革会議からも「混合診療の全面解禁」を求める声が強まっている。
混合診療についていま一度ふれると、現行制度は保険診療と自由診療の併存を基本的に認めていないが、混合診療は併存可能になる。医療とは、初診から治癒まで多くの診療行為で成り立っている。混合診療とは、医療をこうした一連の流れとしてとらえた場合、一定の段階の診療(行為)までは保険でカバーし、それ以上は自由診療とするというものだ。だから、保険でカバーされない範囲は自費料金になる。金の有る無しがものをいう世界ともいえる。
このように私はとらえるのだが、混合診療の全面解禁を求める急先鋒の一人であろう松井証券社長・松井道夫氏(*1)が、朝日新聞(12・19)で自論を展開している。そこには、解禁を求める意図が語られているように思う。なぜ厚労省は解禁に反対するのだと考えますかという問いに、こうのべている。
医療サービスはあくまでも配給。しかも『供給者』は医師ではなく国家であり、統制しなければ国民皆保険制度は崩壊するとでも思っているのではないか。消費者・患者側の視点が見事に欠けている。
保険証一枚あれば誰もが必要な医療が受けられることが国民皆保険制度の原則で、しかも現物給付と混合診療禁止が国民皆保険制度を支える重要な柱であったはずだが、こうした立場と松井氏は明確に一線を画している。
消費者・患者側の視点が見事に欠けていると断じるのだけれど、この物言いは、単に医療サービスを受けるという意味での消費者や患者を指しているわけではない。なぜなら混合診療そのものが、すでにサービスを金で買うことを前提にしているからだ。繰り返すと、保険証一枚で必要な医療を受けるサービスを享受できることこそ、皆保険の根幹であったはずである。近年、一部負担金が拡大されることによって、経済的理由で受療する条件が遮られたり、あるいは医療を受けようとする意思が経済的理由で抑制されるわけで、この意味で、必要な医療が受けられるとはいえない状況にもある。しかし、それでも国民は基本的に何らかの保険に加入しており、給付を受ける条件がベースにある。
松井氏の主張は、モノやサービスを金で買うという消費者の権利を強調しているのであって、すべての人がサービスを受ける条件をいかにつくるかという視点はそこにない。消費という形で差異が生じる。
氏は、混合診療禁止で本当に困るのは経済的に余裕のない人たちだ 、とうそぶいている。
ほんとうにそうか。経済的に余裕のない人たちは、すでに一部負担金の拡大によって、受診が抑制されている。医療から遠のいている。生活保護も受けられず、医療機関にもかかれない人たちが存在する。生活保護基準以下で生活する世帯が400万を超えたといわれる今日、仮に混合診療解禁になれば、どんな事態がもたらされるか、火をみるよりあきらかではないだろうか。
必要なことは、混合診療の解禁などではなく、保険給付対象範囲の拡大と安全性が確認された新規治療や薬剤の承認期間を短縮し、保険収載を速やかに行うことである。
誰もが必要な医療が受けられることに私はこだわりたい。国民皆保険制度の原則ははずすべきではないと考える。
松井氏らが、患者の立場を強調しながら、すべての人が医療を受けられる方向になぜ目が向かないのかを強く疑う。
下記エントリーでのべたが、解禁すれば、単に保険診療と保険診療でない部分が区分されるというだけではすまない。保険診療が抑えられるのは必定だといえるし、そこにこそ日米保険業界の眼がむけられているといってよい。消費と選択のための市場を提供しようという魂胆である。
現物給付と混合診療禁止は、国民皆保険制度を支える重要な柱である。そこにこだわってみてもよいのではないか。議論はおそらく財源問題にいきつくのだろうが、それは国のかじとりの方向をどのように選択するのかという問題と同じだ。大いに議論すればよい。
混合診療の拡大・容認には断固反対したい。
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*1;07年1月から規制改革会議委員。
【関連エントリー】
米国の後を追うのか。「混合診療の解禁」
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