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在日米軍削減は同盟見直しなしではできない
小沢代表:在日米軍削減論「当たり前の話しただけ」 民主党の小沢一郎代表は27日、横浜市内で記者会見し、自身の在日米軍削減論が与野党に波紋を広げていることについて「ごく当たり前の話をしただけだ」と反論した。そのうえで「在日米軍の役割のうち日本の防衛に関係する部分は、できる限り日本が役割を果たせば、米軍の負担が少なくなり、それだけ在日米軍も少なくて済む」と改めて持論を展開した。 また、小沢氏が在日米軍削減論の中で言及した日本の防衛力強化に関連し、朝鮮半島や台湾有事などに自衛隊が関与する可能性については「私どもは他国の有事に参加することはあり得ない」と否定。削減の具体化については「政権をとって米国に具体的なことは聞いてみなければ分からない」と述べるにとどめた。 |
自身の発言にたいして、右からも左からも意見があがっているそうです。したがって、発言のつじつまあわせに腐心しているのが小沢民主党代表でしょうか。
そもそも、クリントン来日で日米同盟というものを強化するという一点で同意しながら、在日米軍削減をもちだすこと自体、まゆつばものではないでしょうか。日米同盟、つまり両国間の軍事同盟を指すこの「概念」は、日本の従属を前提にしているものだと私は思います。はっきりいえば、口で対等をといっても、日米同盟の強化で一致するということは、米国の戦略にすなわち従うということを意味するものでしょう。
事実、小沢氏の所論は、「安全保障の面で日本が役割を負担していけば、米軍の役割はそれだけ少なくなる」という奇妙なものです。これ自体が、すでに米国、現オバマ政権の思惑に沿ったものです。日本の負担強化、すなわち軍事費の方代わりこそ、米国が日本に求めていることなのですから。
ですから、小沢氏のいう「できる限り日本が役割を果たせば、米軍の負担が少なくなり、それだけ在日米軍も少なくて済む」というのは、私はまやかし以外の何ものでもないというに断じてよいと思うのです。
先日の麻生・オバマ会談で強調されたのは、重層的同盟ということでした。一言でいえば、これは、軍事同盟の強化ということでしょう。小沢氏の議論は、これと寸分のちがいもないように私には思えます。
軍事同盟の強化をうたう以上、日米の間に対等の関係はありえません。
対等の関係を真に望むのなら、軍事同盟そのものをまず見直すことからはじめなければなりません。
同盟関係を問わずして対等を語ることなど、まったくナンセンスだと私は思います。
(「世相を拾う」09044)
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在日米軍の削減をいうのだが。。
在日米軍の削減可能=「第7艦隊で十分」-小沢氏 民主党の小沢一郎代表は25日、在日米軍再編に関連し「日本が、自分たちにかかわることはなるべく自分たちできちんとやるという決意を持てば、米軍が部隊をそんなに日本という前線に置いている必要はなくなる。おおむね(海軍)第7艦隊の存在で十分じゃないか」と述べ、陸空軍や海兵隊などの削減は可能だとの考えを明らかにした。大阪市内で記者団に語った。 小沢氏は「安全保障の面で日本が役割を負担していけば、米軍の役割はそれだけ少なくなる」と指摘。「日本もきちんとグローバルな戦略を米国と話し合い、これまで以上に責任を果たしていかなくてはならない」と強調した。ただ、「日本の責任」が防衛力強化を指すのかどうかについては言及しなかった。 一方、同党の鳩山由紀夫幹事長は小沢氏の発言について、都内で記者団に「日本の軍事力を増強するという発想に立ったものではないと理解している」と語った。 |
記事の最後の鳩山由紀夫の発言。この2行は、まったく無意味の2行ということをかみしめなければなりません。
問題は、小沢一郎の日本の役割を協調する論旨であって、それは、オバマ政権の役割分担論に沿ったものでもあるということです。小沢氏はもちろん、日米軍事同盟を前提に語っているので、「安全保障の面で日本が役割を負担して」という具合に、それは、米国の肩代わりがすなわち役割分担を意味すると受け取っても、あながちまちがいではないようです。
「日本もきちんとグローバルな戦略を米国と話し合い、これまで以上に責任を果たしていかなくてはならない」という言葉がそれを裏づけています。
だからこそ、野党のなかからはこんな反応がでてくるのです。
民主・小沢氏の米軍削減発言をけん制=共・社
あたかも米軍削減に重点が置かれたかのような小沢氏の発言ですが、小沢氏がいうのは、たとえば米海兵隊の任務を日本が引き受けることをうたっているにすぎません。結局、オバマの望む(日本の)役割分担の拡大にほかならない。
私たちが望むのは、米軍への過剰な(日本の)財政負担であって、たとえば沖縄からの米軍の撤退です。米軍は撤退するが、それを日本が担うこととは、まったく異なる2つのものです。
以前に、日米同盟という言葉に拘って、以下のエントリーを書きました。
日米同盟または「サヨもどき」。
「日米同盟」って何。
そこで、つぎのように指摘しました。
日米同盟が使われなかったのは、日本国憲法と日米安保条約が併存するという条件があったればこそである。 日本憲法国のもとでは、日米安保条約は、日本が他国から侵略を受けた場合のみ、アメリカが日本を防衛することが取り決められてきた。米国と自衛隊の「武力行使」は一定の制限を受けてきた。集団的自衛権の行使が禁止され、日米安保条約を攻守同盟とすることはできなかったのである。 |
そうであるのなら、小沢発言のふくみも明確になります。つまり、発言は、米国との間の集団的自衛権の確立をはっきりと位置づけたものだとみてよいでしょう。
記事のように、[在日米軍の削減]がむしろ協調されるところに、この議論の危険性がすでに含意されているとみなkればならないのではないでしょうか。
(「世相を拾う」09043)
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不人気の自己責任
官房長官「申し訳ないが選挙は自己責任」 支持低迷受け 内閣支持率が低迷し、総選挙前の麻生首相交代を求める声が自民党内から出ていることについて、河村官房長官は23日の記者会見で、「選挙は政治家一人ひとりの自己責任だ」と反論し、首相の人気に頼らず自助努力で選挙に備えるべきだとの考えを示した。 河村氏は「小選挙区制は党の方針やリーダーへの支持に影響を受けることは間違いない。支持率が低く、政府としては申し訳なく思う」と述べる一方、「それぞれの候補者の発信力、政治姿勢、実績、将来性すべてを勘案して有権者は判断する」と指摘し、「候補者がこの難局をいかに乗り切るかを有権者は見ている。乗り切って、将来が開けてくる」と奮起を促した。 |
一般的にいえば、党首というものが政党の顔として受け取られるわけでしょうから、党首の一挙手一投足がその政党のイメージの良し悪しにつながるのは否定しがたいでしょう。麻生首相の答弁が物議をかもし、批判をあびて、翌日にはまったく正反対の釈明になっているというのに、私たちは慣れっこになってしまいました。つまり、麻生氏とは、答弁してもたびたび変わるわけですから、そもそも答弁の重みがない、こう受け止められていると考えてまちがいないでしょう。大事なのは、麻生氏の「直感」、すなわち答弁がことごとく世の中の思いや感情とかけ離れているということです。別のいいかたをすれば、はなはだ非常識なことをたびたび口にしてきたのが麻生氏だともいえるでしょう。
ですから、こんな首相のもとの政権や、こんな党首をあおぐ自民党というものが当然、不人気になってもおかしくはない。ただ、私は麻生氏をかばうつもりは毛頭ありませんが、自民党の不人気というものは、ある意味で宿命づけられたところがある。宿命という言葉をつかいましたが、小泉構造改革がいまや多くの人々を傷つけ、社会の隅々まで亀裂を生んでいるわけですから、政権を担ってきた自民党にたいする反発が根強いものになってきたのはうなづけるわけです。極端なことをいえば、麻生氏ならずとも、この自民党の不人気を起死回生とばかりに、転換できる人はまずない、こう思えるのです。
麻生氏は、こんな負の遺産を背負いながら登場したわけですが、しかし、先にのべた麻生氏の行状が自民党の不人気を加速していることもまた否定はできません。
河村氏の上の発言は、こんな状況をすべて承知の上でのものです。あとがない自民党と現政権。一人ひとりの当落を、渦中の政党が責任もてる状況にないのですから、こういうほかないでしょう。自己責任という言葉でもって、本来の責任のありかを隠しとおしてきたのが、ほかならぬ自民党でした。
しかし、以上のふりかえりからも分かるように、選挙というものが、当の自民党をとりまく情勢から無縁であろうはずがありません。あえていえば、麻生氏の不人気が、自民党候補者にとって不利に働くことはあっても、有利にはたらくことはまずないといってよいのかもしれません。そう考えると、選挙は自己責任と言い切る河村氏の発言に人を納得させる力はないのではないでしょうか。
内閣の一員たる河村氏が、自民党候補者にむかってこんな発言をしなければならない事態がすでに自民党の窮地を示すものだといえる。
はっきりしているのは、今日の(自民党の)不人気をもたらしたのは紛れもなく自民党自身の「自己責任」だということなのでしょうが。
(「世相を拾う」09042)
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朝日新聞「追想 加藤周一」について
朝日新聞が連載した「追想 加藤周一」は以下の5人の文章からなっています。当ブログのエントリーで一海知義を除く4つの「追想」をすでに扱いました(カッコ内は当ブログでエントリーを公開した日)。一海氏についても近々、とりあげるつもりです。
21日から3日間、青年たちの会合に参加してきました。彼らは、今現在のそれぞれの環境、立場のなかで平和を、また今日、日本を厚く覆っている貧困の問題を真剣にとらえようとしていました。どうでしょうか。彼らにとって、加藤の死によって(加藤と)同時代を生きる条件が損なわれたことは不幸なのだといえるのかもしれません。
樋口陽一 「時代読みつつ、"時流離れ"」 (2月17日)
池澤夏樹 「ユーモア含む鋭い語法」 (2月21日)
福岡伸一 「いつもはるかに遠い」 (2月22日)
高畑勲 「日本文化への警鐘と愛」 (2月20日)
一海知義 「鋭い感受性・深い洞察力」
「追想 加藤周一」- 福岡伸一が語る加藤
福岡がいいたかったことを先取りしていえば、
絶え間ない消長、交換、変化を繰り返しつつ、それでいて一定の平衡がたもたれているもの。それは恒常的に見えて、いずれも一回性の現象であること。そして、それゆえにこそ価値があること。
それを加藤を常に視野に入れていたということなのだろう。
分子生物学者である福岡ならずとも、「理科系人間」ならば、事象をこのように消長・交換・変化のなかでとらえ、世界が平衡をたもちつつ、なおかつ恒常的でけっしてなく、二度とは起こりえないものという把握は、それぞれの実感にもつながり、よく理解できることだろう。
私たちはしばしば、自然界の事象と、人間を介在する政治や社会の現象とは別物だろうと考えがちだが、上のように、消長・交換・変化のなかでとらえてみると、自然界と人間社会の現象が、ただ後者が一度、人間の脳をくぐり抜けたものであるという違いのほかに、区別できる要素はないといえる。あるいは、ブログ界での意見のなかに、人間社会の一面をとらえる、たとえば経済学などは科学ではないという暴論もあった。これは根底には、先にのべたように社会現象というものが人間の精神を経由するだけに複雑であって、それゆえあたかも自然科学とは異なり、そこに法則性がないように受け止められるからだろう。
回り道をしたが、福岡は一時期、文転を考えたそうである。私事ながら、理系に在籍しながら、私ももっぱら文系の書籍にかじりついていた。まるで本籍は理系、現住所経済学部のように。人間を経由する現象は、自然の事象とはまた違って、複雑で、とらえどころがないようにみえ、そこに面白さがある。
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「追想 加藤周一」- 普遍と特異をきり分けるということ
加藤と福永武彦、中村真一郎はかつて、マチネポエティクというグループを作って活動した。加藤の、その意味での同志であった福永武彦の子、池澤夏樹が加藤を評している(朝日2・12)。
最初に、福永武彦のことをのべると、彼の書いた『廃市』は私が一時期を過ごした地方の町を舞台にしている。福永自身は福岡の出身である。繊細で、静謐な彼の文章はよく知られていて、ここで評するには及ばない。こんな福永なのだが、加藤、中村と三人で著した『1946・文学的考察』に強い衝撃を私は受けた。そのときの印象を、別のエントリーでつぎのようにのべた。
敗戦直後の解放感も手伝ってか、血気にあふれ、自信迸る文体とでもいう以外に表現しようがないと、はじめて読んで思ったことを覚えている 追悼- 加藤周一の眼(12・15) |
福永も、中村ももちろん鋭かったが、とりわけ加藤は抜きんでていたと思う。そして、その加藤の特徴は以後も貫かれてきたのではなかろうか。
こんな父・福永との親交ある加藤に池澤は傾倒していたと「追想 加藤周一」(シリーズ第2回)で告白している。
加藤を読む多くの人は池澤と同じ境地にあると密かに思うのだけれど、池澤は加藤の『芸術論集』で加藤が扱った狂言に魅せられ、可能なかぎり舞台を見てまわったらしい。池澤の文章のこの部分を読んで、まさに同じような行動を自分がとったことを振り返り失笑してしまう。加藤の叙述はこのように、人を惹き付け、行動せしめる、強い力をもっている。それは、別の表現をすると、前回のエントリーでふれた加藤との距離感を読者が感じ取り、それを埋めようとする方向に意識が働くからにちがいないだろう。
池澤は、加藤の思想の源泉を、反戦と民主主義に求めている。同時に、この指摘に池澤の鋭さがあると私は思う。池澤は、加藤が自ら普通の人であったと述べたことに言及し、その加藤が普通であって、その上で、普遍であることと特異であることをはっきり分ける点で、加藤と他を峻別している。
そこからこそ普遍の思想が生まれるのではないか |
この池澤にまったく私は賛成する。
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「追想 加藤周一」- 高畑勲が語る。
高畑勲によれば、加藤周一は最も信頼できる導き手ということだ(「追想 加藤周一」、朝日2・18)。加藤が亡くなったとき、最初に思ったのはそのことだったし、おそらくこのシリーズの語り手5人(*1)はすべて高畑と同じように思っているといえるだろう。
以前のエントリー(参照)で、「資本主義の限界が語られはじめている今日、加藤ならばこれをどう考えるという具合に、物事をみる際の一つのコンパスのように考えてきたのだが、もうそれもできない」と書いたのだが、高畑はこのようにいう。
かけがえのない加藤氏は先達でありつづけ、おそらくこれからもそうであってくださると思う。なぜなら、氏の書かれたものはゆるぎなく、読み返すたびに新しいから。 |
なるほどそうなのだが、これから起こる出来事、つまり未来が現在に転化する際、それをどう読み解くのか、そのときの加藤の存在は私にとって、たえず準拠すべき指針のようなものであった。それを欠いた意味は大きい。
高畑の文章は、そのタイトルから明らかなように、日本あるいは日本文化にたいする加藤の視線を取り上げている。日本を相対的にながめ、世界のなかにそれを位置づけながら、日本の価値をそこから切り取る。まぎれもなく加藤は、この作業を見事に成し遂げた一人だといえるだろう。たとえば「日本文学史序説」のように。
より具体的にいうと、高畑が指摘するのは、日本文化を世界から切り分ける際の加藤の着眼である。加藤の眼は、世界のなかの日本の特殊性を見逃すことはなかった。例を高畑にならってあげると、「今=ここ」主義という言葉で加藤が特徴づけるように、日本文化は、此岸性・集団主義・感覚的世界・部分主義・現在主義で貫かれているということだ。もちろん加藤が「今=ここ」主義という言葉で日本文化を語るとき、批判的な立場からであるのは論をまたない。今日もまた、「今=ここ」主義が溢れかえるなかで私たちは生きている。政治の世界の今=ここ主義、そしてそれを批判の対象としてみているはずの批評の、これまた今=ここ主義。このように、いたるところに、繰り返し加藤の指摘した特殊性が存在するのだ。
こうした日本文化の特殊性をもっとも厳しく見、それでいて日本文化をもっとも愛し、価値を見いだしたのも加藤だといえる。
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*1;樋口陽一、池澤夏樹、福岡伸一、高畑勲、一海知義の5人。
【関連エントリー】
「今・ここ主義」の政治的意味
増長する・または・虚勢を張る奥谷禮子
だが、増長しているのだ。別の言葉でいえば、これは派遣切りをいっこうに厳しく規制できない、現政府の姿勢に起因しているのだ。
こんな奥谷の言葉で、いっそう労働者保護法の制定が必要だと実感する。
http://news.goo.ne.jp/article/php/business/php-20090216-04.html?fr=rk
いいたいことをいっている。整理しておくと、奥谷の主張の要点はつぎのようになる。
- 派遣労働者はもとより、期限つきの雇用関係の下で雇い止めが想定されていて、派遣切りは当り前
- 企業は必至に戦ってきたし、危機に際して、人件費の削減は当然
- (解雇された者の)生保受給によって働く意欲がなくなる
- 坂本哲志発言は正論
- 「ロストジェネレーション」というが、いくらでも脱却の機会はいくらでもあった
- 内定取り消しで違約金を払うのは、学生が内定を勝手に取り消すのに比してアンフェア
- 日本には無職と正社員というカテゴリーだけで派遣という労働形態は存在しなかった
- 雇用創出のために大企業の介入の素地をつくらなければならない
まあ、これだけの論点をまくしたてられると、雇用確保にたいする日本と西欧諸国のちがいが歴然としているなかで、少しも派遣切りを断罪し、雇用確保に乗り出そうとしない日本政府の不作為に威を借りていると想像したくなるというものだ。
以上の8つの論点を、このエントリーでは、つぎの4つに仮に区分しそれぞれについて少しのべてみたい。
Ⅰ.1、2、6について
雇用という関係がまずもって、使用する側としようされる側という非対称の関係であることは奥谷には眼中にないのだろう。圧倒的に弱い労働者だから、日本においても、労働者を守るために、使用者を校則する最低限の基準が労基法に定められているように。この非対称関係を奥谷は捨象している。
その上で、政府の調査でも、非正規社員の今報じられている大量解雇計画の6割以上が契約途中の解雇とされている。派遣社員であれ、期間社員であれ、有期雇用の契約途中の解除は、労働契約法で「やむを得ない事由」がある場合でなければできないと定められていて(17条1)、この法律でいう「やむを得ない事由」とは、「解雇権濫用法理における『客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合』以外の場合より狭いと解される」(労働契約法施行通達)というのが一般的解釈とされている。さらに、それを証明する責任は企業の側にあるのだから。「業績悪化」などという一般的な理由での解雇は違法であるというのが現行法による解釈だ。さらに契約満了による「雇い止め」や、大きな社会問題になっている一方的な内定取り消しも、その濫用は違法とされているのだから、奥谷のように当然だという根拠はまずないといえる。
Ⅱ.3、4、5について
このカテゴリーに共通するのは、派遣切りにあった者を、そうではない他と明確に峻別し、自らの責任に帰着させようとする点だ。こうした自己責任論は、構造改革の名のもとで競争をあおり、それについていけないものをすべて自分の責任だとして、差別と競争を強いておきながら、その一方で、差別と競争をバネに自らの利益確保を図ってきた大企業を銘財するものでしかなかった。
その際、競争に「敗れて」、湯浅誠のいうすべり台を転げ落ちて、ついに公的な援助、生活保護を受ける立場になった者にたいしても、また執拗に自己責任が問われ続けるのだ。こんどは、奥谷がいうように、生保を受けると、働く意欲がなくなる、働かないで保護費を得るのは、いかにも盗人といわんばかりの奥谷のつぎの言葉ではないか。
手取り一七万円を受け取って、保険もすべてタダ |
生活保護が、長期でえあろうと、短期の、あるいは緊急の措置であろうと、いわゆるセーフティネットの名にふさわしいものであるのなら、理由のいかんをとわず受給する者をまず救うというただ一点のために機能しなければならないのではないか。
奥谷の発言のなかにすでに偏見を含意しているといえそうだ。
Ⅲ.7について
まったくの暴論である。
奥谷の同業者でさえ、たとえばつぎのようにのべている。
以前の日本にも、江戸時代ごろから人足貸し、人貸しといった、建設業などを中心に労働力の派遣が行われてはい ましたが、二重三重の又貸し派遣が平気で行われたばかりか、法律の規定がないためにマージンも不当に多く差し引かれ(いわゆるピンハネ)、派遣される労働者の環境は劣悪でした。また、人貸しを行う業者にも怪しいところが多く、日本における"人貸し"は、長い間社会的に真っ当ではない商売として見られてきました。 http://www.haken-japan.com/tactic24.html |
われわれの知るところでは、派遣業という企業の形態をもちろん整えていなかったにしても、日本社会でも中間搾取が横行していた事実であって、ピンハネと言う言葉は多くが知っているものだろう。今日の派遣業も、つきつめていえば、派遣先からの収益と、派遣労働者への賃金の差に、派遣業者の存在するゆえんがあるわけなのだから。
奥谷は、あえて日本における派遣の歴史に目をつぶっているのか、無知なのか、いづれかだというほかないだろう。あえて「無職と正社員だけ」と強弁する責任は強く問われてしかるべきだ。
Ⅳ.8について
今日、譲歩していえば、小泉政権がとった政策に象徴されるような新自由主義的施策が日本社会のすみずみまで亀裂をもたらしている。そして、米国発ではあったが、金融危機が世界中にその影響が広がるにいたって、新自由主義の潮流がいかに国内経済に害悪をもたらしてきたのかも世間の知るところになった。
その意味で、奥谷とはまさに相反する方向から、新自由主義の是非が問われなければならないと思う。総選挙はその絶好の機会でもある。
あわせて、私が思うのは、奥谷に典型のように、そして同じように日本の財界のトップたる御手洗富士夫に象徴されるような、新自由主義の時流に乗っかって、横暴勝手の旗を振り続けてきた連中の、特別の責任を問う必要があるのではないかと思っている。彼らは、国家の政治・経済のシステムがいかにゆがもうと、自らの権益確保のために圧力をかけつづけ、政府を動かしてきたのだから。国民へのしわ寄せなど、何食わぬ顔で無視しつづけ、強いてきたのだから。
そして、奥谷の強弁も、自らに忍び寄る国民の強い抵抗を感じ取っていることの反映でもあるのではないか。彼らは、まさに存亡の危機に立たされているといってもよいのかもしれない。
私たちがまず考える必要があるのは、労働者の派遣をうまく商売として成り立たせようとすることでなく、労働者とは常に守られなければならない存在なのだということだ。
(「世相を拾う」09041)
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グアム移転協定- 法律で縛られた日本。新味ない小沢発言。
米海兵隊グアム協定が確認され、小沢党首とクリントンが会談し日米同盟の意義を再確認したわけだから。
目的は、日本の負担を法的にもはっきりうたわせ拘束することにあった。
米海兵隊グアム協定で明記されたのは、グアム移転費用のうち28億ドルを限度に日本が資金を提供すること。グアム移転は、普天間代替基地の完成にむけた進展として新基地建設を明確にしながら日本の資金面での貢献が条件だとしたことだ。
新基地建設と資金拠出が強く要求され、これに中曽根外相が署名したことになる。
だから、この協定は、これまでの日米間の合意-06年5月のロードマップでグアム移転や普天間に代わる新基地建設など沖縄での米軍再編が相互に切り離せないパッケージという合意を、法的に確認し、日本の行為を明記し、拘束力をもたせたといえる。
もちろん米国が要求する、直接的な財政貢献28億ドルをふくめた約62億ドルは日本国民の税金だ。今回は、このうちの直接的資金支援28億円を確認したものだが、おそらく際限なく米国の要求は強まるだろう。
当ブログでは、オバマ大統領になって、なおいっそう日本への負担強化が迫られると見立てたわけだが、新しい米政府の顔ぶれからも、そして今回の協定によっても、そのことがあらためて証明されたと思う。オバマ政権が誕生して、短期日のうちにクリントンが来日し、日本の負担を法的に明記させた意味は大きい。
クリントンは冒頭にのべたように、小沢一郎氏と会談した。
下記引用で、小沢氏は日米同盟についてこうのべている。
同盟は、一方が一方に従う従属の関係であってはいけない。お互いに議論し合い、よりよい結論を得て、結論は互いにしっかり守っていく関係でなければならない。 小沢氏と米国務長官の会談要旨 |
小沢氏は日米同盟を肯定している。それは、以下の認識にも端的に示されている。
両国が同盟国として世界戦略、日米の役割分担をきちんと話し合い、合意を得た上で個別の問題について対応することが大事だ。
日本人がたとえ困難でも責任は果たしていく覚悟がなかったからではないか。 |
この認識は、おそらくオバマ政権の役割分担論を支える議論ではないか。オバマ氏の米民主党政権は、役割分担を盾に、日本になおいっそうの負担を要求しているのが基本方向なのだから。
日本の政治状況はといえば、国際的な笑いものになるくらいの、滑稽な政権末期症状に陥った現政権の不作為が続いている。何もしない政府と、何一つ論戦で与党から圧倒的勝利を収めることのできない第二党。政権死守と政権交代のかけ声がまさに空回りしている。
明確になったのは、米政権の、よりいっそうの日本への軍事的肩代わりを求める姿と自民党政権の追随姿勢の繰り返しなのだから、これ自体をどうするのか、それを民主党も明確にすることが問われたわけだ。
下記の記事によるかぎり、小沢氏は、ほとんど米政権と同じ認識を会談のなかでらためてで表明したことになるのではないか。従属はだめだといった以外は、自民党政権との境界はあってないに等しいものではないか。
少なくとも私はそう実感する。
これだけの税金を使うくらいなら、それこそ雇用対策、国民生活擁護に回せくらいの発言があってもよいくらいだ。日本の現状はそれを求めている。
(「世相を拾う」09040)
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「追想 加藤周一」- 樋口陽一が語る。
朝日新聞が「追想 加藤周一」という企画を組んでいる。
同紙によれば、戦後日本を代表する知識人、「加藤周一の残した膨大な仕事の意味や、その人柄を、ゆかりが深かったり、その作品に影響を受け」た5人がそれぞれ追想するという魂胆らしい。
すでに3人の文章が掲載されていてそれを読んでみて、紙背から感じることができるのは、いずれもが加藤との距離感を強く意識しているということだ。樋口陽一も、池沢夏樹、福岡伸一も同じように加藤を相対化し、汲み尽くしえない加藤の知を語っている。
初回は樋口陽一(朝日2・11)。
あるときは小気味よく(「(粋とは)規範に媒介された感情」)、あるときはさりげなく重く(「過去が歴史なのではなく、現在を決定する過去が歴史なのである」)定義づける仕方。そういうすべてが、圧倒的な個性的「知」の体系に組み込まれ、その量と質をさらに大きくしてゆく、その反復。これが「加藤周一」なのだ。 |
こう樋口は加藤を表現する。加藤を読んだ人は誰もが実感する加藤の文体をよくいい表している。その上で、私が思うのは、この樋口の言い回しが、すでに加藤の相似形だということである。加藤を語るものがいつのまにか加藤になりきる。文体の上で。それだけ、表現がすなわち普遍性をもっているということなのだろう。硬質で簡潔、曖昧さを寸分も孕まない、研ぎ澄まされた明晰さ。余分なものを一切排除したところに加藤の特長の一つがあると私は思う。加藤の文体は、だから余剰という「加藤らしさ」を見事にそぎ落としている点で、普遍性をもつ。これはまさに加藤のものである。
加藤に接し、近づこうと思おうと思うまいと、いつのまにかこうして加藤になりきろうとするゆえんではないだろうか。
樋口がたとえばこういうとき、すでに帰らぬ加藤ではない、もう一人の加藤がそこに存在するようにさえ私には思える。
広げられた「文学」の概念は、社会・経済・政治にかかわる人間の思考にまで射程が及ぶだろう。それは戦後解放に専念した若き加藤周一が「政治的ラディカリズムと文学の古典的概念」の「共存」を掲げたことの、結果だったのではない。そうではなくて、すでにその前提だったことを改めて方法的に明示したものだった、と私は思う。 |
こうして私たちは加藤周一に接近しようとするのだが、そこに加藤はおらず、すでに先を歩んでいる。これが、3人が語る加藤との距離感なのだろう。
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村上春樹氏は何を語り何を語らなかったか。
ふれなければふれないで意見がでる。ふれればふれただけ、今度はその内容に関して意見がでる。あれだけの人気作家だから、二重三重に注目されるわけだ。
村上春樹さん:ガザ過剰攻撃に苦言 エルサレム賞授賞式で
村上春樹さん、エルサレム賞記念講演でガザ攻撃を批判
記事によるかぎり、村上氏はガザ攻撃に批判的な立場をとっている。彼は言葉を選んでいる。けれど、村上氏が批判したのは、爆撃という暴力そのものであって、イスラエル政府を(名指しで)批判はしていない。
氏が最終的にとった行動は、イスラエルの賞を授賞するということと、そのイスラエル政府がおこなった攻撃を批判するという2つのことだが、受賞しながら、授賞する相手の行為を批判するという、一見相矛盾する2つのこと、授賞と批判スピーチとを接続するものはいったい何か。
これは、一般化ということ以外にないだろう。村上氏は一般的な意味において受賞を肯定し、同時に一般的な意味において空爆を批判した。そう解釈するほかに、接続の意味を語れるものはない。この微妙な均衡を、氏は、氏の言葉で語って保持したということだ。
ようするに、イスラエル政府の攻撃ではなく、一般的な暴力的攻撃を批判したのだった。むろん村上氏は、そうではなくイスラエルの攻撃そのものを村上氏は批判したと人びとが受け止めることを想定している。しかし、それはそれ以上のものではけっしてなく、最後に残るのは、村上氏が攻撃したイスラエルを批判しなかったということだ。
暴力へのもっとも明確な反対な態度は、攻撃したのはイスラエルの政府なのだから、そのイスラエル政府を批判し、もって授賞を拒否するということだろう。逆に、イスラエルの今回の攻撃に反対であれば、そのイスラエルから授賞することの価値をどこに見いだすのか、それが問われなければつじつまがあわない。
そこを村上氏は言葉の表現でもって、2つのことを統一しくぐりぬけたと、私は思う。かろうじて体面は保たれたのだ。
だが、現実に、今回のガザ攻撃だけではなく非人道的な暴力が世界中で繰り返されていて、その暴力はことごとく具体的であるはずだ。暴力を一般的にいかに語ってみても、それ自体は無力である。言葉の力に価値を見いだそうとすれば、その言葉が現実をとらえていてこそはじめてそれが可能となるのではないか。
ようするに、今回の授賞スピーチにかぎっていえば、村上氏の言葉は、表現として、そして形式の上で統一されているが、その言葉は現実をとらえたものではないと断じることができる。受賞し、同時に批判スピーチをのべようとした時点で、村上氏の考え抜かれた言葉は、すでに生きたものではなかったといえるのではないか。
(「世相を拾う」09039)
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餓死を許さない社会、無関心な社会
いわゆる路上生活者の現状を私たちは公式発表によって知るのだろう。先に、ホームレスがあちこちで増えよう増えまいと、あたかもそれに無関心であるかのように世の中が動いていくとのべたのだが、強く意識するようになったのは、こうした現状が異常だという認識の欠如ということだ。日本は、少なくとも餓死者は出さない西欧諸国と比較すれば、その違いは歴然としている。おにぎりが食べたいといって命を断った北九州の痛ましい事例はその典型ともいえるだろう。
すでに少なく見ても公式発表の数だけの餓死予備軍がいるという日本の現実。その上、金融危機を口実にして経営維持のためのまさに調整弁として機能させられている、非正規雇用労働者の失業という最近の傾向は、日本が西欧諸国との対比でいよいよ際立っていることを強調しているように思う。
少なくとも西欧諸国では、スペインが日産の解雇を撤回させたし、ドイツでも、フランスでも解雇にたいして厳しい規制が措置されており、ドイツでは大企業数10社と政府が雇用確保のための共同声明を交わすという現実すらあるのだ。日本の政府の対応、国会の現状と対比すればその違いは、明々白々といえるのではないだろうか。つまり、日本は、100年に一度の不況だといいながら、実効ある措置を打ち出しも、とろうともしていないという意味で、昨日エントリーで私は不作為とこれをよんだ。
このままでは、今日、明日以後の一日一日がどうなるのか見通しがまったくないという意味で、生死の境界におかれている人びとといえるホームレスが、さらに増加するだろうという、大方の推測を前提にしながら、それにたいする何らの疑問も、抵抗も少なくとも目立った兆候として現れ得ない日本の現実を問わねばならないのではないか。年度末には失業者は一気に増えるという予測すらすでに発表され、その数は発表ごとに増加する方向で修正されてきている。
失業してもホームレスをうまない西欧と、失業がすなわちホームレスの行き付く軌道に乗り、自らの生存の危機にもつながりかねない立場におかれる日本との対照は、あまりにも鮮やかすぎるのではないか。
私たちは、ホームレスと日々遭遇しても、無関心を決め込むほかにない毎日を、つまり湯浅誠氏によればすべり台社会でよいのか否かをこの際、今一度問い返してみる、そうすることが求められている気が強くしてならない。
(「世相を拾う」09038)
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政治の不作為とキヤノンの癒着事件
理屈はこうではないのか。これまでさんざん安い賃金で、しかも無権利の状態に自らがおいた派遣労働者のおかげでまさに途方もない利益をあげてきたのが大企業であって、それならば彼らの雇用を守る責任があるだろうということだ。大企業はそれを一切ふれていない。ためこんだ利益は、少なくともその一部は、雇用を守るのにあててしかるべきないのか、こう強く思う。
共産党が大企業代表を国会によべと要求している。国会が雇用を守るという点で役割を果たす、いちばんの近道は大企業を参考人として国会によんで、その社会的な責任をただすことである。すべての党がこれは一致できるし、やろうと思えばすぐにでもやれることであって、そうしなくてはならないだろう。
それでも国会はそのようには動かない。私は、「かんぽの宿」追及はもちろん必要だと考えるが、そこにすべてを収斂させていくような戦術のかげで、しだいに雇用問題が後景に押しやられているような気がしてならない。年度末には、すくなくとも18万5000人の「失業者」がつくりだされるという推計すら公式に発表されているというのに。
ここに、口先では雇用を守れといいながら、それを具体的に解決する上では大企業に雇用責任を果たさせなければならないのに、実際、大企業に物申すということになると尻込みしている政党の姿が浮かんでくる。麻生首相も企業の責任に多少なりとも答弁のなかでふれてきたし、自民党・大島国対委員長ですら「経団連に政府としてものを言わなければならない」とのべてきた。大島氏の発言には政党としても、という点を欠落させている点で留保がつく。まさに、自民党も、民主党も大企業にモノがいえないのだ。
つまり、雇用を守るという点では本来、一致しうるはずなのに、大企業いいなり、優遇というこれまでの自民党政治の悪弊がそれを阻んでいる。民主党は、この点でちがいをみせてほしいのだが、それはできない相談というものだろう。政権を奪おうとするのだから、これまでの自民党政権の本質を内在的に批判できれば、もっとも打撃的であるはずである。しかし、それはできない。できないからふれないということだ。国会での対応をみれば一目瞭然だが、結局、雇用を守るという点で政府も、この2つの政党も不作為をいわなければならない。
キヤノンは派遣切りも率先して実行してきた。御手洗氏は派遣切りをいわばこの時期、当然のこととして発言してきた。
こうした働く者には比喩的にいえば冷酷な態度も厭わない一方で、自社の発注工事が脱税の舞台となってきたこと、異常なほどの親密な「個人的」関係をあえていえば社会的な、商取引において介在させること、つまり癒着というものに、御手洗氏がなんらの疑問ももたない人物であることも、われわれの前に明らかになった。苟も御手洗氏は経団連会長のはずだ。
二重の意味で鉄面皮のように私には思えるが、個人的なものもふくめて許し合える関係を重視し、大企業といういわば一つの階層の権益に固執する心性と、働く者を無権利に置き、モノのように扱えるという心性は表裏の関係であって、おそらく一つのものだろう。
キヤノンのこうした姿勢は、長年の自民党政治のなかで培われてきたともいえるのではないだろうか。経団連が、経済財政諮問会議のように首相をまじえた議論のなかでいっそう政治にも介入するようになって、この傾向は加速されてきたのではないか。たとえば、経団連のビジョンや政策が政府諮問機関の議論には必ずといってよいほど反映されるしくみが今日あるだろう。自社の中はもちろん、国の政治でも地方の政治でもその方向もゆがめるだけの力を財界・大企業はもっていることが重要だ。キヤノンは、それを身をもって証明していることになる。
そして、財界は今、道州制という方向で、国の仕事を最小国家的に限定し、地方政治に多くを押し付けようとしている。その上に、地方自治体の財政に介入し、企業の思い通りに開発政策や産業政策の道具にしようとしているのだ。
それだけに、財界・大企業の横暴や勝手、不正や無責任にたいして口をとざすことはできない。
今日の日本社会の抱える重要な課題の一つにちがいない、雇用を守るという課題で、すべての政党が大企業の参考人招致という手続き上はしごく簡単なことだが、一致する必要がある。参考人招致がおこなわれるか否か、日本の政治の力が試されている。
諸外国では、すでに安易な解雇を許さないという態度が常識化されているといってよいほどなのだから。
(「世相を拾う」09037)
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キヤノン工事疑惑- キヤノンも直接介入
「鹿島に発注を」造成工事でキヤノン、大分県に要請文送る キヤノンの工場建設を巡る法人税法違反事件で、脱税の舞台となった大分市の2事業所の用地造成工事について、キヤノンが事業主体の大分県土地開発公社に対し、鹿島への発注を求める「要請文」を送っていたことがわかった。 工事は要請通り、計約80億円の随意契約で鹿島が請け負っていた。鹿島はこの工事でも、東京地検特捜部に逮捕された大分市のコンサルタント会社「大光」社長・大賀規久容疑者(65)側にリベートを提供したとみられ、大賀容疑者の口利きを背景に「鹿島ありき」で業者選定が進んだことがうかがえる。 |
昨日のエントリーで、キヤノンと大賀氏の間の「親密な関係」が事件の前提にあることにふれました。
冒頭の記事は、キヤノン・御手洗氏と親密な関係にある大賀氏がいわば独占的にキヤノン発注工事の仲介を引き受け、一方で裏金づくりをさせながら、つまるところ鹿島に受注させるという一つの図式のなかに、キヤノンが直接的に介入したことを物語るものです。
発注先であるキヤノンが、事業主体たる公社に事実上の圧力を加える結果となったわけです。
記事によれば、「キヤノン誘致が前提の工事なので、意向を打診したが、あくまでも公社が主体となって鹿島を選定した」(久保隆専務理事・大分県土地開発公社)と語っているわけですが、記事の指摘するところによるかぎり、到底、私たちにはそう読み取ることはできないのではないでしょうか。むしろ、公社は受動的に、逆にキヤノンの、あるいは大賀氏の描くとおりに、思惑通りに鹿島を選択したということでしょう。キヤノンと大賀氏が主体的に鹿島を選択したという以外にないと。こう考えるのが、ふつうではないのかと思うのです。
いよいよキヤノンの介在ははっきりしてきました。御手洗氏がこれまでのべてきたように「迷惑している」というキヤノンの関与の仕方ではないことは明白です。
経団連が推進しようとしている道州制が、大企業の思惑どおりに地方自治体の財政にも食い入り、いっそうの財界・大企業のための開発政策や産業政策の道具に自治体を変えてしまおうとするものですから、そうなると、今回のような企業と自治体あるいはその外郭団体を介した、いっそうの癒着関係が深まるであろうことを懸念するわけです。
御手洗氏は、この事件をまるで第三者のような立場からコメントすることを直ちにやめ、事件にかかわった企業のトップとして、また、企業を率先して範を垂れるべき立場にある経団連会長としての立場からも、事実を明らかにし、そして自らの企業のとった対応について釈明する必要が少なくともあるのではないでしょうか。
(「世相を拾う」09036)
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キヤノン工事疑惑- 御手洗氏はどう語るか。
ここ数日、新聞各社がこの事件を取り上げるようになりました。
昨年の「毎日」のスクープ。以後、一部ではキヤノンの全面広告によって「毎日」は買収されたのか、という指摘もあったのですが、ここのきての各紙一斉の報道は、受注仲介の社長・大賀氏の逮捕という捜査の進展、状況の変化を反映しているといってよいでしょう。
社説:巨額脱税事件 裏金はびこる商慣習改めよ
大賀容疑者「御手洗家と200年の仲」、キヤノン関連仲介
上記の「毎日」社説によれば、鹿島・約5億円、九電工・約2億円に上る裏金が大賀容疑者にわたっていたということです。しかも、受注実績のあった別の大手ゼネコンに取って代わり、鹿島が受注したキヤノン絡みの工事は4件で総額824億円。
こうした、当たり前のように裏金を大企業が準備するのは、「「キヤノンの工事は大賀社長を通すのが決まり事になっていた。求められれば、裏金でも支払わざるを得なかった」というほどに、大賀氏がいわば受注の窓口を独り占めにしていたことを裏付けています。
一般的に考えると、キヤノンという大企業の工事を受注するのに、特定の人物を経なければならないということこと自体、すでにキヤノン(御手洗氏)と大賀氏の関係がただならぬものであることを想起させるものです。
贈収賄事件には、そこに親密な関係が必ず存在します。贈収賄が成立するためには、通常の商取引、受注と発注という関係以上の、別の関係性が前提としてなくてはならないのです。
上の2つの記事が指摘するように、大賀氏と御手洗氏は並々ならぬ関係です。単に「同郷のよしみ」にすぎないものとは誰もが思わないのではないでしょうか。発注する工事には、必ず特定の仲介者・大賀氏がいて、裏金を準備させるという図式が恒常化していることをキヤノンが察知していなかったのでしょうか。大賀氏の話では、その裏金がキヤノンの株購入に回ったというのですが、どこまでも疑念がつきまといます。
御手洗氏は「キヤノンも私も関与していない」と言い切っていますが、自社の工事を舞台に一度となくこんな不正が繰り返されることを重視しないですまされるものではないでしょう。日本の財界のトップは御手洗氏をおいて他にいないのです。
少し飛躍して私が考えるのは、御手洗氏の経団連が-橋下大阪府知事は自治体首長として道州制導入を吹聴していますが、さかんに道州制の旗をふっていることです。道州制は単に都道府県の再編ではありません。ねらいは、「官の役割をゼロベースで見直し」、「小さな政府、民主導の経済社会」をめざすということです。規制改革の推進や官業の民間開放を徹底するということです。国の仕事を外交・軍事・司法などに限定し、社会保障や福祉などの行政サービスは地方に押しつけ、自立自助の名で住民負担に切り替えるということになるでしょう。
つまり、自治体を財界・大企業のための開発政策や産業政策の道具に変えてしまおうというものですから、今回の事件に元県議会議長が介在し、企業誘致をもちあげてきたことはそのプロトタイプかもしれません。企業の思惑どおりに、工場を誘致させ、この工事に大企業が群がる。こんな図式を道州制が導くものだとすれば、それを今回事件に置き換えれば、その図式のなかに大賀氏が仲介役として「暗躍」したというわけです。
自社の事件とのかかわりを究明し説明する責任が御手洗氏には少なくともあるといえます。
その意味で、御手洗氏の「キヤノンも私も関与していない」という言葉にとどまらない、疑念に耐えうる説明と対応が必要です。御手洗氏が何を語るか、注目されるところです。
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【関連記事】
狙われた御手洗キヤノン 裏金問題は弾けるのか!? (前編)
この記事は、「『鹿島から御手洗氏周辺に流れた裏金は、受注の謝礼にしてはあまりに巨額。実は、06年の日本経団連の会長選に充当されたのではないか』(司法記者)との疑惑」という憶測発言を紹介しています。
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