森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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「日本が中国に負ける日」

そして、あらためてそう感じさせる報道にふれました。
自民党の中川昭一政調会長は26日、名古屋市での講演で、軍事費拡大を続ける中国について「軍事費が年15%、18%で成長している。あと15年で台湾がおかしくなったら、ここ(日本)は中国の何番目かの省になるかもしれない」と述べ、中国の軍拡が台湾有事に発展すれば、その影響が日本に及びかねないとの見方を披露した。 (朝日新聞2・26電子版)
中川氏は中国の軍事費について直接には言及しているのですが、この中川氏の発言について問われて、安倍首相はつぎのとおり答えたといいます。
昔よく日本は米国の何番目かの州、51番目の州になるんじゃないかと言われた。講演の一部の言葉をとって議論してもあまり意味がないんじゃないか(同上)
日本がアメリカの51番目の州というとき、日本のアメリカへの従属の深刻さをもちろん表しています。これをもちだす安倍氏の的をはずした回答は嗤われてしかるべきですが、中川政調会長の発言は東アジアの平和と安定をめざす努力にたいして水をさすものといえるでしょう。
世界各地で、平和な国際秩序をめざして自主的な地域共同体の動きが発展しています。地域共同体の動きは、ラテンアメリカ、アフリカで、そして東南アジアでの東南アジア友好協力条約(TAC)には世界の人口の53%を擁する諸国が参加する大きな流れになって「東アジア共同体」を展望する地点にいま、たっています。
朝鮮半島の非核化をめざす六カ国協議という枠組みもさまざまな曲折や逆行もありながら、北東アジア地域の平和と安定のための共同の外交的努力が払われているようです。
そこで、ではこれまでのアジアの歴史と現在の政治状況をふまえて、日本はどんな役割を果たせばよいのか、私は考えてみるわけです。
大ぐくりにいえば、つぎの点で日本はその役割を果たすべきだと考えます。
- 日本が過去におこなった侵略戦争と植民地支配を正当化をやめること
- アメリカ一辺倒でなく、日本の政府として、アジア諸国との平和の関係を探求すること
- 軍事偏重でなく、外交による問題解決に徹する姿勢を確立すること
- 国連憲章にもとづく平和秩序をまもること
外交的な努力は、回り道のようでも平和秩序を保つ唯一の道だといってよいでしょう。そのためには社会制度の異なる諸国の平和共存と異なる価値観をまず認めることです。そうしてはじめて対話と共存の緒につくことができると考えています。
ほとんど世界の常識になっている、世界有数の軍事力をもつ両国が、そっちの計算にはこれが入っていない、ごまかしだといってもはじまらないでしょう。あにはからんや中国はすぐさま、これに反論しました。
こう考えるならば、やはり中川氏の発言は対話と共存を視野に入れたものとはいえないでしょう。 日本は、憲法9条をもっています。そして世界で唯一の被爆国です。戦争放棄と核兵器廃絶という緊急の課題で日本が尽力する、ここにその役割があると思うのです。

伊吹発言-閣僚の過放牧と孤立を恐れる心理
問題発言だととりあげること自体が馬鹿馬鹿しく思えるほど、驚くような発言がつづく。中川秀直幹事長がタガを締めたのは、いったい何であったのか。
閣僚の過放牧状態。このように今の安倍内閣を表現できるのではないか。
当事者の伊吹文明氏当人の認識は、まことになげかわしい。
この一語に尽きる。いまどき、日本を単一国家などと認識しているとは時代錯誤もはなはだしい。アイヌ系住民や在日の朝鮮・韓国の人びとの存在はだれもが知っていることだろう。伊吹氏の認識は、マイノリティにたいするまなざしをもとより欠いている。
しかし、日本が単一民族で成り立っているというのは、ナショナリストの専売特許だと思われがちだが、ナショナリストにかぎらず日本人のマイノリティにたいする姿勢と通底しているところがはたしてないのだろうか。日本人の共同体意識をどことなくくすぐる発言と読み取れなくもない。この伊吹氏の発言を聞いて思ったのはそのことである。
たとえば、孤立を恐れる心理をどのように考えるのか。
マイノリティに対する態度は、孤立を恐れる心理と深くかかわっているような気がしてならない。ものごとをすべて内輪だけの島宇宙に帰してしまう傾向。別の言葉でいえば、楽屋落ちとはこのことを指しているのだろう。そして、政治でいえば、少数政党にたいする、その存在そのものをまるで否定するかのような思い上がりの態度。本人の主観は別に措くとしても、これらは左派・リベラルという言葉でくくられるブロガーのなかにさえあると率直に私は思う。
これらの心理は、誤解を恐れずにいえば、まさに「沈黙の螺旋」論で明らかにされた、あの心理に通ずるものだ。いうまでもなく「沈黙の螺旋」とは、エリザベス・ノエル・ノイマンが唱えた。
たとえばマスメディアが特定の意見を優勢と報じれば、それと異なる意見のものの沈黙を生み出し、その沈黙がメディアの報じた判断の正当性を裏付けるというものだ。特定の意見がらせん状に増殖し、当初の姿とは異なる多数派形成がつくられていく。
世論とは、論争的な争点に関して自分自身が孤立することなく公然と表明できる意見である。あるいは、世論とは孤立したくなければ、公然と表明しなくてはならない態度や行動である。
このきわめてシニカルな反語は、ナチズムの記憶と密接にむすびついている。
あえていえば日本のいまもまた、当時のドイツの言論状況と相似する。改憲への手続きがもう、そこに迫ろうとしているのに。
そして閣僚のこうした過放牧を許しているのは、二大政党制とよばれる国会の政党配置にあることはいうまでもない。

東京都知事選を楽しむ方法
と、不埒なタイトルをつけてしまいました。
けれど、私にはこの知事選の候補者選びの一つひとつが正直いって面白いのです。一面でいうと、これは従来の主要な選挙戦の候補者選びととくにかわったことでもないのですが。むしろ、各党の、これまでとほとんど変わっていない対応に失笑すらしているのです。
断っておきますが、私は東京都知事選を軽視しているのでも、無視しているのでもありません。日本の首都である東京都のトップを選ぶ選挙戦にどうして無関心でいられるでしょう。
こう考えているときに、非国民通信さんが重要な提起をされています。「誰が権力者にふさわしいか」と題した候補者選びの基準に関するエントリーです。そのなかで強調されているのは、他者へのまなざし、ということだと私は受け止めました。
私もささやかながら幣ブログで他者へのまなざしを度々いってきましたので、非国民通信さんの主張に賛成したいと思います。
非国民通信さん曰く、
一つの指針となるのは、自分と異なる弱者へのまなざしではないでしょうか。
ここで氏は2つのことをいっておられます。1つは、文字どおり自分とは異なる者、つまり他者へのまなざしということです。
いまひとつは、そのなかの特定の階層へのまなざしということです。マルクスならば、階級的視点ということになるのでしょう。
私は、日本の社会をみわたした場合、構造改革がもたらした日本の社会のゆがみ、とくに中・低層への徹底した「社会的排除」がおこなわれてきた結果、おおきな分裂をきたしはじめていることを別のエントリーでのべました。だからこそ、非国民通信さんの主張に同調するわけです。
分裂しはじめた日本を、端的にいえば教育基本法を改悪し、さらに改憲によって秩序を保とうとしようとしている安倍政権がある。そして、首都・東京では、弱者いじめをおこないながら都政そのものを私物化してはばからない石原がいる。
いずれも一般にいわれる想像力、つまり他者へのまなざし、とくに弱者へのまなざしは皆無だといってもよい。いまだに芥川賞選考委員に名を連ねている石原は小説家でありながら、彼の想像力はこの程度ものか、と驚かざるをえないのです(むろん賞そのものの評価がさまざまあるでしょうが)。
では、たいする候補者の選考はどうか。民主党の候補者選びが難航しているもようです。私にいわせればそれは最初からはっきりしていたことにすぎません。なぜなら、石原からも皮肉られているように、この4年間、すべての議案に賛成してきた、「与党」でもあったからです。それが豹変するのはどうでしょうか。はなはだ疑問。民主党の態度は、極論すればパーフォマンスにほかならないと思います。つけ加えれば、こんな態度は東京都に限らないということです。その意味で民主党のとる態度も法則的なのです。
当選可能かどうかは別にして、共産党などはすでに吉田万三氏を推すことを決めています。氏は足立区長を務めた人物です。足立区といえば、修学援助を受けている児童の割合が全国でも有数という低所得者、貧困者の多い地域だといわれています。その地域の首長を務めてきた吉田氏が都政においても住民の立場にたつというスタンスを明確していること自体は誰も疑わないでしょう。
何を強調したいかといえば、いま現在の矛盾が社会的弱者に集中しているなかで、弱者の立場に候補者、そして各政党会派がたちうるかどうか、これに尽きると私は思います。言い換えれば、階級的視点ということです。だれが何を主張し、何をやってきたのか、これをみれば、そこら辺りのことが、私たちにもよく理解できるでしょう。立場が分かるのです。
いかんせん、我われはブログの世界に生きる前に現実の社会に生きている。しかも、ブログの世界自体は、すでに弱者を前提にしてはじめて成り立つ。IT化のなかで、情報処理に未熟な人は大量の情報を選別できないでしょう。そうして習熟した人と格差は拡大する。ましてや、たとえばネット環境にない高齢者やその他の「情報弱者」を前提として、我われの世界があるということです。
多くのブロガーの方がたが実践されているように、ブログの世界からあえていったん離れ、地域などでの交流や運動を幣ブログで強調するのはそのためです。
こうしてこそ、ブログのなかの言説も、社会を反映した力強いものになるのでしょう。
社会的弱者へのまなざしとは、要するに我われにも問われていることにほかなりません。

キヤノンを告発-偽装請負=違法派遣は貧困と格差もたらす
衆院予算委員会は2月22日、公聴会を開きました。ここで、あの経団連会長を務める御手洗富士夫氏のキヤノン・宇都宮工場で働く大野秀之氏が、同社の偽装請負を告発しました。
御手洗経団連会長は、労働者派遣法の派遣社員を直接雇用にする期間制限を見直すよう政府・与党に圧力をかけていますが、「いつまでも、使い勝手よく、派遣労働のまま、低賃金で派遣企業がなんらの雇用責任も負わず、労働者を使用させろと、まるで奴隷のように働けといわれているように聞こえる」という大野氏の指摘は、何ものにもまさる、これに反論する現場の声です。
労働者派遣法は1986年に施行されました。弁護士・中野麻美氏によれば、職業安定法で違法とされた労働者供給事業の一部を、派遣元が労働者の雇用主として労働法上の責任をまっとうでき、派遣される労働者の権利をきちんと保障することが可能と考えられるスタイルを労働者派遣として合法化したものです。
99年にはそれまで26業種に制限されていたものを原則自由に。国会では自民、公明だけでなく、民主、自由(現民主)もさらに社民もこれに賛成したのです。これが今日、1700万人ともいわれる非正規雇用労働者を拡大する契機になりました。
そもそも労働者派遣法には根本的な欠陥があります。違法派遣にたいして派遣元事業主に許可取り消しや処罰が適用されることはあっても、派遣で生活する労働者にたいしては派遣先に何の責任も生じないというものでした。99年、03年の改定時に期間制限違反にたいする雇用責任が規定されるにとどまり、違法労働を告発すると、派遣先から就労を拒否され働き場を失うことにもなります。第三者からの労働者を受け入れるということは、派遣先が指揮命令権をもつ使用者として労働法上の責任をもち、また労働者派遣法にも拘束されなければならないはずです。
だが、この間の問題となっている偽装請負は、請負という形式をとりながら、労働法上の使用者としての責任を免れる、請負を偽装した違法派遣というべきものです。だから、労働者派遣法に則った「健全な」労働者派遣にくらべると派遣先にとってはまことに使い勝手のよい偽装請負がはびこることになったのです。
労働者派遣は第三者にたいして労務を供給するという形式をとり、商取引的性格をもつ、派遣元と派遣先の契約が成立します。労働者にとってはその契約に直接関与するわけではないので大きなリスクを引き受けることになるのです。一方で、労務の供給を受ける派遣先にとっては、自分の必要なときに供給を受け、また、排除することもできる、これほど使い勝手のよいものもない。規制緩和の名のもとに拡大されてきた労働者派遣、とくに偽装請負の実態は、まさに今日の貧困と格差をもたらした大きな要因といえるでしょう。
先の中野弁護士はこう語っています。
「格差」が問題になっているが、こうした中立的な言葉は、そのなかにある絶対的貧困化と差別を隠蔽してしまう。格差の大きな部分は雇用から生み出されるものだが、生活できない低賃金不安定雇用の拡大が社会的差別と暴力を生み出しているその現実を見る必要がある。それは人々を社会から排除するもので、世代を超えて拡大再生産されるものである(『賃金と社会保障』1429号)
まことに至言だといわざるをえません。
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【関連エントリー】
格差社会 -労働ダンピングで何が起こるか
分裂する「おれたちとあいつら」社会の統合
前エントリーで、分裂する社会についてふれました。
でも、分裂する社会を前に、支配層が手をこまねいてこのまま黙認しておくわけではむろんありません。「『再チャレンジ』策はだれを『救う』のか」でふれたのは、事実上、上流中心に社会を統合していくということでした。
支配層が社会的な秩序を保ち、安定的に政権を維持していくためには、いくつかの対策が考えられます。
その1つは、上の例のように上流を中心に社会的秩序を図っていくというものでしょう。そのためには上流を社会秩序の担い手として育成する必要があります。そして中下層にたいしては二大政党制をもちいて体制内化を図り、一方でそれに抵抗する勢力には治安維持体制を強めていく、分かりやすくいえばこのような方途をたどると理解できるでしょう。一連の構造改革によってこの基盤はつくられつつあるように思います。
もうひとつは、イデオロギー的な側面です。社会秩序を保つためのしかけは、私たちはこれまで「歴史教科書をつくる会」の活動にその典型をみることができると思います。地方議会への教科書採択をめぐり共同体意識を収斂させていくような圧力をどこでもみることができたのではないでしょうか。この「つくる会」だけでなく、最近の教育基本法改悪に際して、それに血道をあげてきた自民党議員など保守派も、この流れにつながると考えることができるでしょう。あえていえばこれは新保守主義的な統合の方向といえるかもしれません。
このような文脈で考えた場合、安倍政権のかかげる政策は、これら2つの面がお互いに拮抗しながらも共存している、と私はとらえたいと思います。
そこで、支配層にとって上流を社会秩序の担い手として育成する必要があるとのべましたが、そのためのしかけが、たとえば所得税の累進率の軽減と社会保障や教育での制度的格差だと思うのです。こうして上流への徹底した優遇配慮をおこないながら、社会の秩序維持と自らの権益確保が同じレールの上にあることを動機づけることが不可欠なのです。
小泉の構造改革5年間とその後の一連の動き、そして今年に入ってからの財界総理・御手洗富士夫の際立って目立つ動きの連関をこのように描きたいと思うのです。
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「おれたちとあいつら」の分裂社会はごめんだ
格差を是認する人たちの、このブログでいう絶対的貧困の中におかれている人たちをはじめ、いわゆる下流へのまなざし、共感のなさを一連のエントリーでも深く感じてきました。
『下流社会』の著者・三浦展はこうのべています。
日本でも、フリーターやニートと、大企業で働くビジネスマンが、すでに「おれたちとあいつら」のような関係になっていないとは言い切れない。
上流が下流のだらだらした生き方をどこまで許容しうるかという問題が起こりつつある。上流が下流の生き方を、自分にはできない自由な生き方として憧れることがなくなり、単に自堕落で無責任な生き方として否定するかも知れない。
このように三浦が語るとき、はたして彼の眼に下流はどのように映っているのでしょうか。読者のみなさんはどう思われるでしょうか。
叙述にしたがえば、なるほど大企業で働くビジネスマンの眼で日本の現状がとらえられ、そして今後予想されるであろうことがふれられています。けれど、このビジネスマンの眼こそ、実は三浦自身の眼ではないでしょうか。
下流を「だらだらした生き方」としてとらえ、「単に自堕落で無責任な生き方として否定」しようとしているのは、ほかならぬ三浦ではないか、と私は思うのです。
このような下流へのまなざしを欠いた、共感のなさ、あるいは否定しようという姿勢は、この三浦のような言論人だけではありません。冒頭にのべたようにエントリーへのコメントにもそれが散見されました。ということは、このような下流への共感のなさは、日本のいまの社会の中に一定のひろがりをもっていると考えないといけないでしょう。
くりかえしのべていますが、格差と貧困を考える上での最大の論点は、絶対的格差の解消だと私は考えるのです。
三浦が想定する日本の今後は、「おれたちとあいつら」に分裂した社会でしょう。そして、少なくとも構造改革をすすめた小泉前政権と、それを引き継いでいる安倍政権のかじとりをみていると、どうやらこの三浦がのべる分裂した社会を、一部の上流と、それ以外の中・下流にいっそうゆがめていく方向をめざしているといっても過言ではないようです。
ましてや、いよいよ財界が表に出て、大企業・財界への優遇をさらに政府・与党に迫り、政治に直接介入しようとする意思をあらわに表明していることを考えれば、その思いはなお強まるのです。
それをあらためるには、まず当面のいっせい地方選と参院選で、格差と貧困の打開策を示しうる政党・会派をえらび抜くことです。そのために国会と地方議会の監視を強め、選択されるのではなく、選択する自由を行使することです。
むろん、私は有権者としての一票を行使するだけでなく、地域のなかで広く多くの人びとと貧困と格差の問題で交流し具体的な行動が起きればなおよいと考えています。
たとえば北九州市は、生活保護申請を断られ孤独死にいたる事例が相次いだ、全国にも悪名高い生活保護行政がおこなわれてきました。市のとった対応は「水際作戦」とよばれました。けれど、新しく市長になった北橋健治氏は、これまでの生保行政を批判し、あらためるための調査をおこなうと表明しました。北橋氏の発言は評価されてよいと思います。今後、実際に発言どおりの行政の対応を望みたいものです。
つけ加えると、北橋市長は前民主党衆院議員でした。国会議員ですから、自らの地元の北九州の実情を知らないはずはなかったろうと思いますが、同氏が国会議員時代に生活保護行政に関してとりあげたことを寡聞にして知りません。そうであるなら、北橋氏が豹変したのでしょうか。世に、立場が変われば態度もかわるといいますが、そうなのでしょうか。そうであるかもしれませんが、北九州の生保行政をあらためようとする市民をはじめとした運動があったことを私は知っていますので、結論づければ、市民の運動が市政を動かしたと思うのです。全国的な調査団が組織され、行政との粘り強い折衝がこの間おこなわれてきたのです。北橋氏といえども、この一連の経過を無視することはできなかったのだと思います。
このように小さなことかもしれませんが、地域での貧困と格差をなくすための市民的な交流が具体的にもっと広がればいいと思います。そして、国会内、地方議会内の論戦と結合していくことが一歩、二歩であっても解消にむすびつく道だと考えるのです。

ウィキペディア頼み
ある記事に驚いた。
アメリカのある名門大学で、百科事典「ウィキペディア」を学生がテストやリポートで引用することを認めない措置を1月に決めたという記事だ。
日本史を教えるニール・ウオーターズ教授(61)は昨年12月の学期末テストで、二十数人のクラスで数人が島原の乱について「イエズス会が反乱勢力を支援した」と記述したことに気づいた。「イエズス会が九州でおおっぴらに活動できる状態になかった」と不思議に思って間違いのもとをたどったところ、ウィキペディアの「島原の乱」の項目に行き着いた。 (朝日新聞2・23電子版)
こんな経過があって、同大史学部では1月、「学生は自らの提供する情報の正確さに責任をもつべきで、ウィキペディアや同様の情報源を誤りの言い逃れにできない」として引用禁止を通知したという。
もともと百科全書は、知識の結集を図るのだから、多様な潮流をふくむ。まさに共同作業なのだから、そこに記述の統一性、正確さは保証されないだろう。ここを、学生達は認識すべきだった。
むしろ私が驚いたのは、大学の措置である。引用禁止はお世辞にも妥当とは思えない。引用は自説を説明し担保するためにある。そうすると、記事にあるように「自らの提供する情報の正確さに責任」がともなうのだから、その限りで参照文献が何であるかを問わないだろう。
ウィキペディアと他の百科事典の区別をつけようとは私は思わない。そして、ウィキペディアからの引用が学術研究にとって適切なのかどうか、その判断は引用者に委ねられている。そこで洋の東西を分けずリテラシーが問われている。
話はかわり思い出すのは、百科全書といえば、ディドロに連なる「百科全書派」だ。この「百科全書派」の方法論に学び続いたのだろうか、よく知られるように林達夫や加藤周一らが日本での百科事典編集にあたった。以下、引用。
フランス啓蒙思想の頂点に位置する『L'Encyclopedie, ou Dictionnaire raisonne des sciences, des arts et des metiers, par une societe de gens de lettres(百科全書、あるいは科学・芸術・技術の理論的辞典)』は、1751年から1772年にかけて、また1776年から1780年にかけて編集された大規模な百科事典であり、編集に携わったドゥニ・ディドロやジャン・ル・ロン・ダランベールをはじめとして、ヴォルテールやジャン=ジャック・ルソーなど、18世紀中頃の進歩的知識人を総動員して刊行された。
引用は、Wikipediaによった。かくいう私も毎度、ウィキペディアにお世話になっているのだが。
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「格差はどんな時代にもある」
不祥事がつづく安倍内閣への世間の風あたりが強い。当の首相と自民党中枢は黙って見過ごすことが、さすがにできないのだろう。ついに中川秀直幹事長がおよそ前時代的ともいえる態度でゆるんだタガを締めなおした。みようによっては恫喝だ。そして、見兼ねた前首相・小泉純一郎が激をとばしたという。曰く、
何をやっても批判される。いちいち気にするな。
前首相はつぎのようにもいっている。
『格差はどんな時代にもある』と、なぜはっきりと言わないんだ。自分は予算委員会で言い続けてきた。君たちは日本が近隣諸国より格差があると思うか ==朝日新聞2・21web版==
私が気になったのはこちらの発言だ。
「格差はどんな時代にもある」。これは格差がいつ、どこでもある、ということと同義だろう。たしかに、一般的な格差ならどこにでもあるだろう。問題になっているのは、くりかえすけれど、絶対的格差だ。たとえば、いま、ここにあるワーキングプア層の存在である。
「ワーキングプアとは何をもってプアというのでしょう」という、まるで地球の外から来たかのようなコメントを残してくれた人もいたが、2度放映したNHKばかりではなく、多くのメディア、数々の書籍でもとりあげられているのだから、それを見聞きし、読む、どんな立場の人であろうと、自らの周りにワーキングプアとよばれる人びとがいるのだ。ワーキングプアという概念も熟したのだ。
話を元にもどせば、小泉前首相の発言は、いま、ここにある絶対的格差を認めようとしない立場の表白だといえる。そんなものはどこにでもころがっている事象なのだし、関心を寄せる対象でもないのだから。ここはしかし、彼自身にふりかえってもらう必要がある。「格差があって何が悪い」という発言を自ら否定せざるをえなかったことを。
傍観者なら、性懲りもなく前首相が上のように強弁するのも、そして何をもってプアというのかという認識もまた、まさに喜劇とよぶだろうが、これほどの想像力の貧困が現にあることは日本にとって悲劇だといわざるをえない。これが新自由主義の核心か。

100万人リストラというアクセル
格差と貧困の現れにメディアも注目し報道するようになって、国民の関心も高まりました。昨日ふれたように、貧困と格差の拡大のなかで日本社会が大きく変容していることにともなって、いつなんどき自分も社会から排除されるのかという不安がつきまとうこともその一因かもしれません。 貧困と格差が拡大していった背景は正規雇用の減少と無関係ではもちろんありません。
データ(上図、クリックすると拡大します)をみると、正規雇用労働者が大きく減るのは1999年からです。1998年に3790万人の労働者は2005年3330万人と450万人ほど減っています。若年の労働者は1995年から減り始め、絶対数は580万人から280万人程度に減ってしまいました。
とくに以下の点に注目する必要があります。私は以前に「ワーキングプアと100万人の大リストラ」というエントリーを公開しましたが、あらためてふれたいと思います。ここで示したのは、2001年から1年間で100万人の大リストラがおこなわれていたという事実です。これが画期となっているということです。
だが、この大リストラに、労働組合もその本来の力を発揮できませんでした。従来の長期雇用体制がここで一気に崩れたのです。企業は、日本型雇用とよばれる「くびき」から解き放されるという劇的変化をとげたのでした。その結果、7年間で460万人も減少した正規雇用労働者。他方で非正規雇用労働者が400万人もふえるという「巨大な置き換え」が進行しました。1万人のリストラはアクセルとなって大きく雇用環境は変化しました。
たとえば、大学等を卒業した若者が「終身雇用」を前提として正規雇用として採用されていたそれまでの状況を一変させました。 青年労働者の正規雇用の激減と非正規雇用・失業の急増はその結果です。下図をご覧いただけば明らかなように、若者の世代では所得の格差が著しく拡大しているのがうかがえます。他の年代層に比べると所得格差は小さかったのですが、右肩あがりに数値が大きくなっています。だから、若者の非正規と失業が増えると、たとえば結婚している比率にみられる若者の深刻な貧困にも結びつくのです(格差社会-「努力すれば報われる社会」のうさん臭さ)。
その上にいま、構造改革は、本来、所得の集中を修正する再分配をむしろ弱めているのが実情です。社会保障や教育もリストラし、そして税制では低所得者に困難をいっそう押しつける改悪がおこなわれたのです。その意味で、国民は2つの困難に直面しているといえます。
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注;上図は、後藤道夫都留文科大学教授。下図は「社会実情データ図録」から(http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/4665.html)。
「再チャレンジ」策はだれを「救う」のか
「努力すれば報われる」という言説にふれて、多くの人が努力しても報われない環境にある。そして中・低(所得)層のこうした困難にもかかわらず、いっそうの負担を押しつけながら、上層を優遇しようとすることは、社会構造の再編の表れ、と私は続けました(格差・貧困と財界のエゴイズム)。
こうして財界・支配層の権益を確保し競争にうちかっていくのです。この点を少しみてみたいと思います。
貧困と格差の拡大のなかで日本社会は大きく変容してきました。たとえば若者の社会への帰属意識-家族、学校、会社など-の低下や犯罪の増加などがたびたび指摘されています。これは、従来の社会の秩序のあり方が大きく問われていることの反映でしょう。だから、税制、社会保障など一連の制度改定にもみられるような社会統合への動きは、保守支配層のこうした変容にたいする危機感の表れといえるかもしれません。一方で、国民の関心もこれにともない高まっています。
格差社会への、これほどの国民の強い関心は社会の変容のためだともいえるでしょう。
支配層の貧困・格差問題への対応のうち、「再チャレンジ」支援策は、以上の文脈で考えると安倍内閣の「目玉施策」なのでしょう。その方向はすでに「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2006」のなかで示されていました。例の「骨太の方針」です。
この方針は、以後10年の日本が挑戦すべき課題の1つに以下(注)をあげました。そこでは露骨に「中流層」-額面どおりなのか疑わしい、上流ではないのか-への支援がうたわれています。
引用した文章の前段にある「不均衡への克服」が象徴的に示すように、これは、支配層の貧困・格差問題への対応(の方向)を示しています。解決法は、「経済成長の果実」を活用することを基本と明記しています。その「果実」は構造改革のいっそうの推進を想定してのものにほかなりません。また、その過程で生じる「副作用」を否定していません。それには、「真の社会的弱者に絞り込んだ自立支援型のセーフティネットをきめ細かく構築」すべきだと指摘しています。
けれど、そもそも彼らは自立できないから「真の社会的弱者」というのではないでしょうか。だから、安倍首相は、『再チャレンジ』はセーフティネットではない、といったのです。
実際の「再チャレンジ」支援策で列記されているのは、自立が可能な条件下にある人びとが中心とされているようです。
「骨太の方針」がいうように、経済のみならず社会や政治の安定の基礎となる「健全で意欲ある中流層」への支援にこそ照準があてられています。
ここに社会統合への動きと核心めいたものをみるのです。

注;
国民生活に目を転じると、若年層を中心に教育や就業の状況にばらつきが大きくなるおそれ、雇用環境の激変等を背景とする将来に対する不安感の高まり、児童生徒や若者の凶悪犯罪による社会的な不安、都市と地方間での不均衡等の問題が生じている。この新たな不均衡の克服が我が国の第三の「挑戦」として求められる。
機会の平等や社会的セーフティネットなどの課題に対しては、健全で意欲ある中流層の維持こそが経済のみならず社会や政治の安定の基礎となるとの認識に立って、政府は最大限の努力で丁寧かつ誠実に対応していかなければならない。
問題の解決は「経済成長の果実」を活用することを基本とし、そのための構造改革を重点的に進めつつ、一方で、その副作用に対しては、真の社会的弱者に絞り込んだ自立支援型のセーフティネットをきめ細かく構築すべきである。経済成長と安全・安心の社会を両立させる21世紀型の「穏やかで豊かな日本社会」を拡大均衡の中で作っていかなければならない。
「格差があって何が悪い」という議論
小泉首相(当時)が「格差は広がっていない」とのべ、マスメディアが社会的な格差問題を取り上げはじめたのは05年末くらいからでした。そしてその後、小泉首相が「格差があって何が悪い」と居直ったのはよく知られています。
内閣府の説明によれば世帯の所得分布をしめすジニ係数はたしかに上昇しているが、それは、高齢者の比率が高まってきているからということと、世帯の規模が縮小していることから説明できるということを、同首相はその理由にしたものでした。
いったい高齢者の比率がふえたことによる格差の拡大は格差拡大ではないという説明がとおるのかどうか。常識的には理屈にあわない小泉氏の強弁としかいわざるをえないでしょう。政府の資料によって、ジニ係数が示す格差が拡大しているのですから、政府が考えてよいのは、所得税の累進率を少なくとも以前の80年代に戻すこととか、社会保障の給付部分で所得再分配を考慮してしかるべき、格差拡大を是正するためにこう考えるのではないでしょうか。
個々人の所得の分布が仮にかわらないと仮定して、直接税や社会保険料、さらに医療・介護や教育などを利用する際の自己負担がふえれば、とくに低所得者への打撃が大きくなるのは容易に理解されることです。
このようにふりかえってみると、小泉首相は、構造改革で格差を広げ、さらにさまざまな制度改悪によって自己負担をふやしたという意味で二重にまちがっていたということになるでしょう。
この小泉首相と同じように格差があって何が悪いと考えている人は意外に多いようです。昨日、一昨日のエントリー「格差・貧困と財界のエゴイズム」「格差社会-『努力すれば報われる社会』のうさん臭さ」にたいして意見をいただきました。その意見も「報われない人」がいることをいわば当然視するものの一つでした。しかし、これはつきつめていうと、横たわっている問題そのものから目をそらすものではないでしょうか。
いま切実な問題としてクローズアップされているのは、生活保護並みの生活すら送れない人、いわゆるワーキングプア層の拡大です。別の言葉でいえば、常識的な社会生活を送るのかどうかという「絶対的格差」の問題に日本はいま直面しているということです。ここに目をむける必要があると思うのです。本来、絶対的格差はあってはならない。憲法ではもともと、最低限の健康で文化的な生活を送る権利を保障しているのですから。
その上で、いわゆる相対的格差が生ずるというのなら理解されやすいのでしょうが。(相対的格差;富裕層と貧困層の所得格差など)
それでも、その相対的格差が、絶対的格差を同時に引き起こしていることにも目をむけることが必要だと私は思います(この点は、「格差・貧困と財界のエゴイズム」)。たとえば、規制緩和の結果、不安定雇用・低収入の労働者がふえ、一方では、正規から非正規への置き換えをやった企業の収益はふえたのです。絶対的格差はこの経過で拡大し、そのことで富裕層が広がったといえるでしょう。結局、構造改革は絶対的格差を拡大したのです。
「再チャレンジ」支援策は、自立支援を基本に置いたものですから、自立できそうにないほんとうの社会的弱者を視野に入れたものではないという意味で、絶対的格差を解消することにはならない。だから、安倍首相がのべたという「『再チャレンジ』はセーフティネットではない」という言葉はその限りで正しいといわなければなりません。
いかにしたら絶対的格差の解消にむかうのか、そのための議論が国会でも大いにされてしかるべきです。
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格差・貧困と財界のエゴイズム
努力すれば報われるという言説のいかがわしさ。これは、「報われた者」が権益を守り抜こうとするとき、その言動に鮮明に表れるようです。昨日のエントリーで、日本がはたして「努力すれば報われる」社会なのかについてふれ、現実には多くの人が努力しても報われない環境にあることをいくつか例をあげてみてみました。単に報われないばかりか、今日の日本の状況は、生きることさえ困難になり、将来の不安は極度に高まらざるをえないような時点にあることは否定しようのないものになっています。
端的にいえば、上でのべた現実にたいして、それを改善したり是正しようとする方向にむかうのではなく、個人の努力が足りないといって、自助努力と自己責任を迫ってきたのが新自由主義でした。別の面からこれをみるなら、財界・支配層が、中・低(所得)層の困難にもかかわらず、そこにまるで傷に塩をすり込むかのようにいっそうの負担を押しつけ、上層を優遇しようとすることは、財界・支配層の権益を確保し競争にうちかっていくための、社会構造の再編の表れといっても過言ではありません。あるいは階級構造の再編といってよいかもしれません。
あらためていいたいのは、「努力すれば報われる」という言葉のうらには、上層の「努力」による成果は、現実には「報われない人」びとの努力によって支えられ、もたらされたものであることです。たとえば、国際的には比較するのも恥ずかしくなるような最低賃金で働く労働者はその象徴的なものかもしれません。
高い収益、そして利潤と蓄積、これこそ支配層の追求する対象なのでしょうが、その代表格として経団連があることは論をまちません。つい最近、その経団連の御手洗富士夫会長が労働者派遣法にかみつきました。派遣社員を3年で正社員にする制限を見直せ、これが御手洗氏の主張です。彼は、3年たったら正社員にすると、たちまち日本のコストは硬直的になってしまう 、とのべたのです。これこそ、支配層の身勝手さを示す典型ではないでしょうか。
柳沢厚生労働大臣はさすがに、衆院予算委(16日)で、「派遣を製造業に広げたさいの、私どもの期間制限をした趣旨とは反している発言になる」と同氏の発言を批判せざるをえませんでした。
あくなき利潤の追求-ここに大企業・財界の論理が働いています。その結果、大企業は過去最高益をつづけています。たとえば、トヨタ自動車は、23兆円(売り上げ)、2兆円(営業利益)という06年度の見通しを明らかにしました。また、資本金10億円以上の大企業では、一人あたりの役員報酬が2800万円(05年度)といわれています。01年度は1400万円ですから4年間で倍加しています。
昨日みた年々、非正規がふえ、結婚もできない青年労働者がいる中・低層の実態とまさに対照的です。ここに、大企業・財界の横暴勝手、エゴイズムの一端をみる思いがします。

格差社会-「努力すれば報われる社会」のうさん臭さ
努力すれば報われる社会を、とはもっともらしい。そうであってほしいと誰もが思う。
安倍内閣もそう喧伝することしきりだが、もともとは、1999年の経済戦略会議答申にさかのぼらなければならない(「日本経済再生への戦略」)。そこでは、つぎのようにのべている。
日本経済の活力再生には、経済的・財政的に疲弊している地方の自立を促す制度改革が必要なほか、努力した者が報われる公正な税制改革や創造的な人材を育成する教育改革など個々人の意欲と創意工夫を十二分に引き出す新しいシステムの構築が不可欠である。
と、「頑張っても頑張らなくても結果がかわらない社会」に決別し、切磋琢磨し、競争することで成果に応じた正当な評価を受ける社会をこの答申はもちあげたのである。
以来、努力すれば報われるという言葉は、私たちが直面する実態から遊離して一人歩きしてしまった。そして、安倍首相のいう再チャレンジが可能な国づくりというのもこの延長に位置づけることができる。
努力すれば報われるというレトリックは、逆に、努力しなければ、報われ(ることは望んではなら)ないということと同じだ。むろん努力して報われる人もいるだろう。だが、現実につきつけられるのは、努力しても(働いても)報われない人が多数存在するということだ。
非正規雇用労働者の推移はそのことをはっきりと裏付けている。本川裕氏の「社会実情データ図録」から引用させていただくと、非正規雇用労働者の増加傾向は明白だ。どの年齢層も右肩上がりなのである(右上図)
。また、「正社員と非正社員の結婚している比率」は明らかに傾向が異なる。もちろん非正社員の比率がより低い。 (右下図) これらのデータは、非正規雇用がまさに政策的に増加させられた結果を示している。そして、非正規の結婚していない比率の相対的な高さは、彼・彼女らの賃金の低さを表現していることにほかならない。結婚できないのである。なによりも非正規雇用労働者は望むべくして非正規にとどまっているわけではない。自らの処遇を自ら決定などできない。かつての日本型雇用がくずれ、非正規など不安定雇用形態の労働市場の比重が急増した結果だ。
こうしてみると、さきの議論は、あたかも努力している人は収入の高い人のことを指し、低い収入なのは努力していないからだといっているようでもある。
耳障りよく、努力すれば報われる社会をと打ち出される際には、まず労働コストの削減が所与の条件としてあることを承知しておく必要がある。だから、こうした事実を前にしてもなお、再チャレンジ、再チャレンジとやかましく騒ぎ立てる内閣は、そもそも疑ってかからないといけない、いかがわしい内閣ということだ。
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柳沢氏の認識-産科の実態は少子化の反映か?
産科の実態は少子化の反映か。また、柳沢氏の発言が波紋をよんでいる。
産婦人科医が減っているのは出生数の減少で医療ニーズが低減した反映だと(朝日新聞2・16電子版)。
「女性は子どもを産む機械」発言に批判が集中している気配があるが、その発言だけではなく、私はこの人物の認識そのものが厚生労働大臣にふさわしくないと考えてきた(柳沢発言-もう一つの側面)。また、医師不足問題については、無資格助産事件判決で問われているもので言及しているので一読いただければありがたい。
すでに日本共産党が7日、「深刻な医師不足を打開し、『医療崩壊』から地域をまもる日本共産党の提案」という政策を発表しているが、柳沢氏はこれを読んでみたらどうか。自民党は、自民党政治の打破を訴える政党からこそ本来、学ぶべきだ。自民党政治を倒そうとしている政党が何を考えているのか、敵を知ってこそ自らの進むべき方向もまた決まるだろう。私ならこう考える。もっとも、今の時期に、他の政党が医師不足問題についての政策を出しているとは思えないが。
産科の今日の実態をもたらしている理由はその意味では明瞭だ。上の提言がいうように、そのおおもとには、政府・与党の社会保障切り捨て政治があります。政府は「医療費適正化」の名で医師数を抑制しつづけ、日本を世界でも異常な医師不足の国にしてきました。また、診療報酬の大幅削減、「行革」の名による国公立病院の統廃合など、国の財政負担と大企業の保険料負担を減らすために公的保険・公的医療を切り捨てる「構造改革」が、地域の「医療崩壊」を加速しているのだ。
朝日新聞で「大臣は、分娩(ぶんべん)施設数の減少が出生数の減少率より大きい事実を見落としている」と指摘されるほどの、柳沢氏の不勉強ぶりがこれでまた明らかになったといえる。厚生行政も労働行政も語る資格がそもそもないように思えてならない。
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【参考エントリー】
無資格助産事件判決で問われているもの
日本の子どもは「孤独」、誰がこうしたのか

国連児童基金(ユニセフ)は14日、先進国に住む子どもたちの「幸福度」に関する調査報告を発表した。それによると、子どもの意識をまとめた項目で、「孤独を感じる」と答えた日本の15歳の割合は、経済協力開発機構(OECD)加盟25か国29・8%と、ずば抜けて高かった。日本に続くのはアイスランド(10・3%)とポーランド(8・4%)だった。
また、「向上心」の指標として掲げた、「30歳になった時、どんな仕事についていると思いますか」との質問に対しては、「非熟練労働への従事」と答えた日本の15歳の割合は、25か国中最高の50・3%に達した。

== 以上、読売新聞2・14 ==
どの指標も、子どもの成長にとって日本の環境が好ましいものではないことを示唆しています。とくに、読売新聞も指摘する低所得層の子どもたち(読売記事では「貧困児童」)が相当数にのぼっており、今の格差社会とよばれる日本を映し出しています。
その影は、「孤独を感じる」と応えた子どもが加盟25カ国中ですば抜けて高かったこと、将来を楽観的にみるのではなく、「非熟練労働への従事」と答えた子どもたちが50%を超えるという最高値を示したことに、落とされている気がしてなりません。むしろ皮肉にも子どもたちは冷静にみているといえるのかもしれません。これはいま、ここに生き、勝ち組をあおる風潮の中でそれにむかって血道をあげる、あるいはあげざるをえない大人たちをあざ笑う結果であるようにも思います。
まさにこれは今日の日本への警鐘だと私はとらえます。
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ゴンベイさんからは、コメントでこの記事を紹介いただきました。ありがとうございました。
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