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太田光の藤田嗣治をみる眼
回顧展を機に藤田嗣治の戦争画が話題にのぼっているようだ。
「アッツ島玉砕」で有名な藤田だが、戦争画の是非をここで論じようとしているのではない。以前に、太田光の憲法観を私はとりあげ、安倍晋三のそれと比較した。そこには鮮やかな差異があって、それを落差という言葉で私は表した。むろん私は太田の視点を買うのだが、そんな経過もあるものだから、太田光が同じ著書で藤田に言及していることをいまスルーするわけにはいかない。
まず太田が藤田をどのように受け止めるのか、言及部分をみてみよう。
戦争画を描いた戦犯だと言われ、日本を追われるようにして、戦後フランスに渡った藤田嗣治という人の周辺の事情は知っていたけれど、実際に僕が絵を見たのは、ずいぶん後になってからなんです。藤田が描いた他の絵は見られても、「アッツ島玉砕」などの戦争画は、いまだに展覧会すらできない状態です。初めて画集で「アッツ島玉砕」を見たときは、衝撃的でした。まさに地獄絵図と言っていい。
(注・対談の後日、2006年3月28日から5月21日まで、東京国立近代美術館にて、生誕120年 藤田嗣治展~パリを魅了した異邦人~」が開催され、展示された百点あまりの作品のうち、藤田が日本を離れるきっかけとなった戦争画も一部公開された)
あの絵を、戦意高揚の絵だとして、藤田嗣治を戦犯だと言った人たちの感受性とは、一体何なのだろうと思います。あの絵からは、戦争はもう嫌だということしか伝わってこない。なのに、いまだに日本の美術界がそれを封印しているのは、彼を戦犯と言った人たちと同じ感性だということじゃないですか。(『憲法九条を世界遺産に』154ページ)
というわけだ。
この太田の評価にどうわれわれは反応するのか。
戦争画という以上、まずそれが定義されないといけないが、それを仮にここでは戦意高揚のために準備された絵画とする。
藤田は、陸軍報道部から要請をうけ描いた。そして、それを描くとき、国のために戦う一兵卒と同じだ、と藤田はいった。だから、先にあげた仮の定義にしたがえば藤田は戦争画を描いたことになる。そして、一兵卒として戦うという意識がたとえ純粋であったとしても、それは寸分ではあっても結果的に侵略に結びついているだろう。その反省がなければ、おそらく戦後にいながら、肉体と精神が分離されたといってもいい環境で生きてきたのだろう。だからこそ、この何とも居心地の悪い、分離した状態を脱したいがために、おそらく安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」をさけぶのだ。
一方で、太田は藤田の作品に厭戦の叫びをみたのだ。藤田が反戦の意思を絵画において示す方法があるとすれば、陸軍からの要請を断るか、要請を受けた上で反戦の意思が他者に受け止められるよう作品を描くことだろう。その描き方のいちいちをここでは問わない。
要するに、「アッツ島玉砕」を描いた藤田はその入り口で戦争に足を踏み入れ、出口において作品に厭戦の意味を込めたことになるだろう。ちょうど、一兵卒のふるまいと同じように。
だから、太田は一兵卒をみつめる眼差しと同じように、藤田にもその眼光を投げかけたのだ。
藤田を戦犯よばわりをしたものがいることはいま横に措くとして、ただわれわれが知りうるのは、藤田が陸軍の要請を受け、絵を描いたという重たい事実だけである。
【参考エントリー】
安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差
安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差2
安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差3
太田光の読み方 -田中優子編
田中がいおうとするのは書評末尾のつぎの言葉に尽きている。
「遺産」になってしまったものを現実の力にするには、また難関が待っているに違いない。 |
太田と中沢二人が憲法を世界遺産にしようというのを逆手にとって、田中は「遺産」、つまり日本国憲法がほんとうになくなってしまい、過去のものになってしまったら、たとえば文書としてのみ残ったとしたら、と仮定して語っている。そうなったら-カッコでくくられた遺産が再び-現実の規範になるのは困難だろう。その意味で九条は「二度と取り消しがきかない」ものだという太田・中沢の主張はほとんどうなづける。
田中はまた、つぎのように語っている。
時代の変化に従い、社会の実情に合わせて理想を改変しよう、という考えを「堕落」という。憲法九条問題は、人が堕落しないでいられるその仕組みを、社会が失ったところに立ち上がってきた。憲法九条の存在は唯一の俗を超えるものとして、私たちの生活の中に措定できるものなのかも知れない。だとするとこれすらも喪ってしまったとき、日本人の精神はどうなるのだろうか? |
だから文字どおりの遺産にしてしまってはならないということだ。
憲法九条を失うという喪失感は、おそらく戦前の日本の精神を失うという、まさに「堕落」の極限をへて時の権力者が実感したであろう敗戦後の喪失感と、対極のものである。安倍をふくめて戦前への回帰を唱える者が克服しようとする敗戦直後の喪失感は、二人がいうように「血が結び合う共同体への愛情」にこそその根源があるだろう。
『憲法九条を世界遺産に』が発売されて間もないうちにこれを私は読んで、太田光と安倍晋三の言説をいくつか比較し、「安倍晋三と太田光の落差」という文章にまとめてきた。最近は少なくないブロガーのみなさんが二人の著書を取り上げている。その多くは憲法九条の意義を説き、改憲への流れに抗おうとしている。
太田光の言説がこんなふうに書評で取り上げられて、そして語られ、また、その本がよく読まれるのは、彼がお笑い芸人として世に知られているばかりでなく、何かをいう人物だということが同時に知られているということの証であるだろう。太田に何かを期待する人は、その彼のいうところによって自らの立ち位置を確かめるにちがいない。また、太田の言動を快く思わない、あるいは思ってこなかったものは、その意味であらためて太田の存在を再確認し、それゆえこれまた自らの立ち位置を確認することになるだろう。なにしろお定まりの「太田死ね」の悪罵が集中するほどの、試され済みの人物なのだから。
田中の書評はこんなことを考えさせた。
『憲法九条を世界遺産に』をひとつの拠り所として、憲法の問題を考え、安倍政権をみ、そして自らの位置を確かめてみるのも決して悪くはない。
【参考エントリ】
安倍晋三と太田光の落差3
安倍晋三と太田光の落差2
安倍晋三と太田光の落差
トラックバックピープル・安倍晋三もよろしかったらご覧ください。
閑話休題 -2 太田光の想像力とローマ法王発言
ローマ法王ベネディクト16世の発言が物議をかもしている。
訪問先の母国ドイツの大学で行った講義で、東ローマ帝国皇帝によるイスラム批判に触れ、「(イスラム教開祖の)預言者ムハンマドが新たにもたらしたものを見せてほしい。それは邪悪と残酷だけだ」などと指摘したことが事の発端。法王はその上でイスラムの教えるジハードの概念を批判したらしい。
法王はその後、遺憾の意を表明したが、いまだに釈明に忙しそうだ。
法王の発言を聞いて太田光のある発言を思い出した。
「笑いが人を殺すこともある」という見出しで、太田がこういっている(『憲法九条を世界遺産に』)。(太田;太田光、中沢;中沢新一)
太田 まるで見分けがつかないほど似た者同士なのに、そこまでぶつかるかという血の紛争が世界の至るところで起きていますね。日蓮宗のお坊さんと浄土宗のお坊さんが、はっと気づいて笑えるような空気がなくなってしまうのは、すごく残酷なことだと思います。古典落語にあるような相手を許す笑いがなくなって、徹底的に相手を否定するという空気が充満しています。インターネットの書き込みなんて、「太田死ね」の連続ですから。 |
香山リカは、安倍晋三と太田光をどうみたか
香山リカが『朝日新聞』10日付で書評を書いている。
太田光と安倍晋三をくらべた上で、安倍にこう問うていて興味深い。香山の言葉を借りれば「破れかぶれなまでの勇気と決意」を示しているのは太田光である。
この破れかぶれなまでの勇気と決意を、論壇や政治家たちは、とくに奇しくも同じ時期に同じ新書という形態で「憲法改正」という自らの政治理念を述べた次期首相候補は、どう受け止めるのだろう。 |
安倍はまず、これに答えるべきだ。
香山がいうように同時期の2つの新書の出版はあたかもそうしてくれといわんばかりだが、香山ならずとも、誰もがこの二人を天秤にかけたいという、どうしようもない気持ちを抑えることはできないだろう。太田の日ごろの言動をよく知る人にとってはなおさらそうかもしれない。かくいう私も3回にわたってネタにしてしまった。
何がおもしろいのか。それは、あまりにも大きい二人の落差である。
実は、政治家、しかも自民党総理をめざそうという政治家と、そうではない、単なる一人のお笑いタレントの比較だから、普通は勝負は決まってる、とこう万人が思うに違いない。だが、話はそんなにうまくは運ばない。常識的に決まるであろう方向とは、事態がまるで違う方向にすすむ、ここにこそ滑稽の世界がある。だから、私は安倍を大いに嗤うのである。まさに「爆笑問題」がここにある。一度、『憲法九条を世界遺産に』を読んでみることをお薦めしたい。
安倍は、国民がもっとも知りたいと考えている問題、たとえば靖国参拝の是非-にいまでもふれようとはしていない。マスメディアにそのことを問われても、何くわぬ顔をしてしらを切っている。まさか素人を相手にそんな知らぬ存ぜぬの態度をとることは、首相になろうとする政治家に許されることではないだろう。だから私はこれまでのエントリーで太田と「安倍総理」の対談を提案したのだが、おそらく実現はしないだろう。
この安倍の「沈黙の姿勢」こそがすでに勝負のありかを暗示しているように私は思う。
勝負は決まってるのだ。
話をもどすと、香山は太田の日本社会に切り込む姿に共感を示しつつ、つぎのように書評を締めくくっている。
爆笑問題に、今後も「お笑いの世界」と「言論の世界」の両方で自由な活躍の場を与え続けることができるかどうか。私たちの社会の懐の深さが今こそ問われている。 |
なるほど、ときの権力者はつねに、最も弱くて、実は最も強い集団をおそれ、そこにこそ牙をむいてきた。言論の封殺にはじまり、ときに身体的拘束に及ぶ。
その意味で日本はいま岐路にたっているといってもよいだろう。世間もまた、「勝ち組・負け組」の競争をあおる風潮のなかにある。格差ができて当然、だめなものは滅びるしかないという発想とそれにもとづく社会のありかたは、香山のいう懐が深い、浅いという視点でみれば、浅い社会の特徴だろう。
安倍の登場は、そのベクトルをいっそう加速するにちがいない。その向きを変えることがわれわれに課せられている。
―――――――――――――――――
香山リカ;「笑い」を力に現代日本に切り込む
―『爆笑問題の戦争論』(幻冬舎)、『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)
安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差3
お笑い芸人・太田光をよく知る人も、それほどでない人も、彼が何かを語る人物だというのはよく知られているようだ。
この間に2度、太田を取り上げたが、ブログによせられた読者の反応は大きく2つに分かれた。
お笑い芸人・太田の新たな一面をみた人、また、彼をよく知っている人のなかには憲法に寄せる太田の思いをあらためて読み取った人もいるようだ。
一方で、彼を非難する人もいた。それは、彼を批判するのではなく、太田の主張すること、つまり憲法観や9条にたいする認識そのものに反発するものだと私は考えている。要は、この種の意見は太田でなくとも、だれがそのようにいおうと反対だと予想されるものが大半を占めていたように思う。
太田光のことを、この『憲法九条を世界遺産に』を読むまで私は正直ほとんど知らなかった。普段めったにテレビはみないが、たまたまみかけては私も彼にちょっとハッとさせられ、変わった奴がいるものだと思ってきた。
だが、たとえば、太田の主張するところは半端ではない。
本書のなかには、太田がこう主張する場面がある。
憲法九条は、たった一つ日本に残された夢であり理想であり、拠り所なんですよね。どんなに非難されようと、一貫して他国と戦わない。二度と戦争を起こさないという姿勢を貫き通してきたことに、日本人の誇りがあると思うんです。他国からは、弱気、弱腰とか批判されるけれど、その嘲笑される部分にこそ、誇りを感じていいと思います。(『憲法九条を世界遺産に』78頁)
あえてくりかえすと、太田はここで、頑固に憲法9条を守ろうとする姿勢をこそ世界に発信すべきだと主張している。そこに誇りを感じたい、そう口をとがらし熱く語る太田が読む人の脳裏に迫ってくるのではないか。
なぜ憲法9条を世界遺産にするのか、これを太田は語っている。
世界遺産をなぜわざわざつくるのかといえば、自分たちの愚かさを知るためだと思うんです。ひょっとすると、戦争やテロで大事なものを壊してしまうかもしれない。そんな自分たち人間の愚かさに対する疑いがないと、この発想は出てきません。人間とは愚かなものだから、何があってもこれだけは守ることに決めておこうというのが、世界遺産の精神ですよね。そんな規定がなくても守れるのなら、わざわざ世界遺産なんて言わなくてもいいわけです。(同書127-128頁)
たしかにこのように太田にいわれてみると、いたるところに人間の愚かさを証明するような議論がでてきかねない。
舛添要一は自民党の「新憲法草案」の準備にあたった人物だ。彼は9条改定の理由を「うそをつくのはやめようということですね、F15戦闘機やイージス艦を持つ自衛隊は軍隊ですよ」と語っている。<注1>
これは、現状がこうだからこれを追認し、改定によって現状を明文化しようという議論の典型だといえる。憲法9条2項のある意味で頑固な禁止の姿勢があったから、歴代の政府は自衛隊を「自衛のための最小限度の実力」として正当化してきたのが歴史の教えるところだろう。だからこそ、防衛費GNP比1%枠、武器輸出禁止三原則などの議論があり、集団的自衛権の禁止の議論があったはずである。
舛添の発言、そしてそこにある現状追認の姿勢は、見事に太田のいうところの対極にあることを直感できるだろう。
そこで、繰り返していえば、太田のいう誇りとは憲法9条を断固守ること、これを世界に発信することにあった。
いま一人、誇りという言葉を最近ひんぱんに使う人物がいる。安倍晋三だ。
安倍のいう誇りとは何か。『美しい国へ』によってみてみよう。この本の末尾にこんな一節がある。<注2>
わたしたちの国日本は、美しい自然に恵まれた、長い歴史と独自の文化をもつ国だ。そして、まだまだ大いなる可能性を秘めている。この可能性を引きだすことができるのは、わたしたちの勇気と英知と努力だと思う。日本人であることを卑下するより、誇りに思い、未来を切り拓くために汗を流すべきではないだろうか。(228頁)
これは、抽象的な言葉の羅列以外の何ものでもないと私は思う。太田の明確なメッセージとぜひ比較してもらいたい。
そこにはたとえようのない落差があるはずである。
注1;『朝日新聞』05年11月12日付
注2;安倍は同書で、「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ。そして教育の再興は国家の柱である。日本の高校生たちの回答は、わたしたちの国の教育、とりわけ義務教育に、大胆な構造改革が必要であることを示している」とのべ、教育「改革」とセットに国家主義を貫こうと主張している。
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安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差2
お坊ちゃん・安倍とあの「爆笑問題」太田光を不埒にも並べて、私は安倍を嗤った。こんどは太田をもちあげようと思う。結局、安倍を嗤ってしまうことになるか(笑)。
『憲法九条を世界遺産に』を読んでみて、太田の感性の鋭さに正直驚いている。テレビでたまたまみる太田のものいいに、はっとさせられることがあったが、なにしろテレビは「虚構の世界」、ついついつくられたものだろうと、高をくくっていたのは事実だ。
話は太田のいう「面白さ」についてである。お笑い芸人を自認する彼は、つぎのようにいっている。
僕らお笑いの人間は、面白いか、つまらないかを一つの判断基準にしています。漫才で、芸人がどれだけ頑張ってみせても、人が笑わなければ何の価値もない。面白いのか、つまらないのか、そのお笑いの判断基準でいえば、憲法九条を持っている日本のほうが絶対面白いと思うんです。これは確信できます。
明らかにこれは太田光の憲法九条アピールである。この部分が、太田の九条に寄せる思いの核心部分だと私は思うので、長い引用を許してほしいと思う。
無茶な憲法だといわれるけれど、無茶なところにすすんでいくほうが、面白いんです。そんな世界は成立しない、現実的じゃないといわれようと、あきらめずに無茶に挑戦していくほうが、生きてて面白いじゃんって思う。
憲法九条というのは、ある意味、人間の限界を超える挑戦でしょう。たぶん、人間の限界は、九条の下にあるのかもしれない。それでも挑戦していく意味はあるんじゃないか。いまこの時点では絵空ごとかもしれないけれど、世界中が、この憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。それなら、この憲法を持って生きていくのは、なかなかいいもんだと思うんです。
太田のいう「面白さ」とは価値をおくべきところぐらいの意味だろうが、私は、日本国憲法九条の価値と、世界のなかで日本が果たすべき「国際貢献」について、こんなに分かりやすく説いたものに出会ったことはない。これならおそらく誰でもに理解されるのではないだろうか。
太田のこの根源的な解釈はまさに光ってると感じる。
以上につづく中沢新一とのやりとりの中で、彼はつぎのようにもいっている。列記すると、
・この世に神様がいて、未熟な人間は俺のところまで来れないだろうというなら、いや、俺はそっちまで行って、超えてやるぞというくらいの人生じゃないと、つまらない。
・秩序と無秩序、最近はエントロピーといいますが、この社会はエントロピーが増大していくものだという。でも、僕としては、そうは思いたくない。人間は、秩序を構築できる生き物であると、少なくとも生きる態度として示したいと思う、その証が憲法九条だと僕は思っているんです。
どうだろうか。読者のみなさんはどうお考えだろうか。
安倍晋三のうすっぺらい憲法論-それは従来の改憲派の主張をまったく超えないものだが、
とくらべてみれば、そのちがいは歴然としている。
安倍晋三お坊ちゃんが自由民主党総裁になられた暁には、ぜひ太田光とこの九条だけでまず対談をやってほしいものだ。
あの眼光鋭い太田の追及に、浅薄な安倍がたじろぐ姿が眼にうかんでしまう。だが、結果はあまりにも明らかなので、おそらくこの企画は実現しないだろうけれども。
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安倍晋三と「爆笑問題」太田光の落差
中沢新一は、憲法9条を世界遺産にと提唱するいわば根拠をこう説いている。つまり、日本という国家は中沢の言葉を借りれば尋常でないというわけだ。「爆笑問題」太田光との対談でこのあたりのことが縦横無尽に語られている。
対談が学問的かそうでないかに関係なく、二人の対談を日常の生活にてらすとわれわれ国民を強くひきつけ、言葉の一つひとつが響いてくるのだ。
太田光はこういう。
戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向かい合えたのは、あの瞬間しかなかったんじゃないか。日本人の、15年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしようというアメリカの思惑が重なった瞬間に、ぽっとでてきた。これはもう誰が作ったとかいう次元を超えたものだし、国の境すら越境した合作だし、奇蹟的な成立の仕方だと感じたんです。
この太田の想像力豊かな把握と、わが安倍晋三・総理大臣候補の貧相な-と管理人は考える-認識とを比較願いたいと思う。
再三の引用で恐縮してしまうが、あの『美しい国へ』から引用しておこう。
安倍の日本国憲法にたいする認識の立脚点はここにあると考えている。「憲法前文に示されたアメリカの意思」という項でそれは語られている。
占領軍のマッカーサー最高司令官は、敗戦国日本の憲法を制定するにあたって、天皇の存置、封建制を廃止すること、戦争を永久に放棄させることの三つを原則にした。
とりわけ当時のアメリカの日本にたいする姿勢が色濃くあらわれているのが、憲法9条の「戦争の放棄」の条項だ。アメリカは、自らと連合国側の国益を守るために、代表して、日本が二度と欧米中心の秩序に挑戦することのないよう、強い意志をもって憲法草案の作成にあたらせた。
このように考える安倍は、(アメリカは)「『自国の安全を守るための戦争』まで放棄させようとしたのである。また、戦力を保持することはもちろん、交戦権すら認めるべきでないと考えた」とつづけていう。そして、例の“詫び証文”発言に結びつけてしまう。
安倍にとっては要するに、占領時代の刻み込まれた記憶は強烈なようで、「占領時代の残滓を払拭することが必要です。占領時代につくられた教育基本法、憲法をつくり変えていくこと、それは精神的にも占領を終わらせることになる」(「自由民主」2006年1月4、11日号)といってはばからない。
憲法と教育基本法は、耐えがたいアメリカの日本占領の刻印が残された、この残りかすであって消し去るのみだと安倍はいうのだ。
先の太田の発言と比べてみたらよい。この2つにはとてつもない開きがある。デリケートな、しかも太田がいう奇蹟的な歴史の瞬間に-ということは他にかえることができないことを示しており、そこが世界遺産となる根拠でもあるが-、生まれでたものにたいする-、あるいは「つくられたもの」とあえていってよいと管理人は考える-強い信頼を感じ取る太田。一方でまさに自虐的な安倍の史観。いうまでもなく管理人は太田に賛成する。
こんなアメリカの占領にたいして敵意を剥き出しにする安倍だが、アメリカを目の前にしたらどうだろう。アメリカからすると、最も御しやすい首相になるかもしれない。
小泉の政権のもとで、いっそうアメリカの傘の下におさまり、盟主にひれふしてきたが、安倍はそれを今度は自慢気にいうのだから始末が悪い。
たとえば『美しい国へ』で安倍が「お金だけの援助だけでは世界に評価されない」とぬけぬけといってのけ、紙幅をさいてのべる自衛隊の海外派兵はまさにアメリカの日本政府への強い要求にほかならなかった。いうまでもないが、この線上で憲法改定もあるではないか。まさにゆがんだナショナリストとは安倍のことをいう。対米追随はいっそう深みに入ることを想像することにかたくない。安倍の強がりはアメリカの後押しで成り立っている。
これが、太田光・中沢新一『憲法9条を世界遺産に』を読んで思ったことだ。太田光のこの本はむろん安倍を題材にしたものではないが、太田が安倍を語れば、われわれはおそらく爆笑するにちがいない。安倍は爆笑するに足る「政治家」である。
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太田光・中沢新一『憲法九条を世界遺産に』(集英社新書)
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