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[橋下市長]文化への補助金30万円をケチる異常
来月上方落語の六代目桂文枝を襲名する桂三枝さんが6日、大阪市役所に橋下徹市長を表敬訪問した。文楽協会への補助金の見直しなどを進める橋下市長の文化政策が話題になり、三枝さんが注文をつける場面もあった。
橋下市長が、「伝統芸能を軽視しているわけではない。税の使い方が市民の理解を得ていない」と改革への理解を求めた。
三枝さんは、上方落語協会の落語会「島之内寄席」への補助金30万円が今年度、凍結されたことについて、「文楽と違い、我々は時代に合わせて生きていくのが一番大事なこと。我々はどうか、ご心配なく」とした。
一方で、「税金は有効に使ってもらいたいし、頑張れるだけ頑張るのが芸人の務めだが、守らなければ続かない芸もある」と、文楽への姿勢を暗に批判した。
(2012年6月7日07時26分 読売新聞)
橋下市長に桂三枝さんチクリ「守らねば続かぬ」
桂三枝氏が苦言を呈しています。
税金は有効に使ってもらいたいし、頑張れるだけ頑張るのが芸人の務めだが、守らなければ続かない芸もある
もっともな言葉です。
氏の言葉に即していえば、守らないといけないのに守ろうとしないのが今の市長。その意思はみじんもないように思えてなりません。
桂三枝氏がいうのは、いいかえると行政の責任、役割をのべているものでしょう。
けれども結局、橋下市長は、芸を守ることより30万円を削減することに価値を置いたことになります。
「伝統芸能を軽視しているわけではない」とはいいますが、芸を育てる、支援するという行政の事業は30万円支出するに値しない存在、なくてもよいものになってしまっているということを証明してしまいました。
30万円は落語にたいする補助金ですけれど、彼のこの姿勢は、文楽や音楽団にたいする助成措置をめぐっても表面に出てきました。その際、彼が主張するのは、芸を守るのは協会、団員とつきはなし、そこに行政は関与しないということでした。これは行政の姿勢として、文化に温かいか冷たいかと大きく分けるとするなら、やはり文化に冷たい行政の範疇に入れざるをえないでしょう。
しかも、カットする際に、ここでも市民を盾にもちだし、「税の使い方が市民の理解を得ていない」などと、あたかも市民が30万円に拘っているかのように描き出すのですから、責任を転嫁していると指摘されても仕方がないように思えます。
人間はずっと文化・芸術に価値を置いてきました。ですから、30万円の補助金カットに拘り、文化や芸術になんら関心を示さない行政のトップのこの姿勢は、いかにも異常でグロテスクそのものではないかという思いを抱いてもおかしくはない。
ひょっとして彼は文化に対する特別の敵愾心を抱いているのかもしれません。
しかし、重ねていえば、文化を後押しする、これは行政の重要でかつりっぱな仕事のはずです。

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改憲をいう橋下氏は仰るとおり外国へ
橋下徹大阪市長は28日、憲法改正論議に関し「押し付け(憲法)とか無効という議論が起きる憲法を持っていること自体が恥。1度、国民でつくり直してみる過程が必要だ」と強調した。
市長は「今の憲法と変わらないかもしれないが、しっかり手続きを踏み直すことが必要だ。国民はばかじゃない。根本価値なんて変わるわけない」と述べ、改正しても憲法の基本理念は変わらないとの認識を示した。
市長率いる大阪維新の会は事実上の次期衆院選公約「維新八策」で、憲法改正要件の緩和を掲げている。(共同) [2012年5月28日22時1分]
橋下市長「憲法つくり直し必要」
手が込んだ物言いです。
- 国民でつくり直してみる過程が必要
- 国民はばかじゃない。根本価値なんて変わるわけない
発言の要点は記事でみるかぎりこの2点です。
作り直す必要があると主張する前提は、「押し付け(憲法)とか無効という議論が起こる」ということです。
確認しておきたいのは、これをそのまま受け容れている橋下市長の姿勢です。押し付けや無効という意見に仮に彼が反対であれば、反論すればよいことでしょうが、そうしないのはこれに同意しているということにほかなりません。しかも「恥」という言葉をもちい、押し付けられた憲法だから無効、国民の恥として、改憲手続きに国民を導こうとしているといってよいでしょう。
押し付け憲法とは、周知のとおりこれまで繰り返されてきた意見で、ですから彼がはじめていいだしたものではありません。ようするに、これまでたびたび(改憲勢力が)もちだしてきた押し付け論を、こんどは橋下という「新しい仮面」をかぶって主張し改憲に導こうという魂胆です。
新しいかのようにふるまいながら実はこれまでの改憲派とちっともかわらない。破壊されるのは旧来の政治でないばかりか、国民・有権者にその矛先が向けられているといってよいでしょう。彼の役割がいよいよはっきりしてきたように思います。
「国民でつくり直してみる」とか、「国民はばかじゃない。根本価値なんて変わるわけない」とかと、あたかも国民に寄り添うような口調ですが、そもそもつくり直す前提にあげた議論にたいする自分の姿勢すらはっきりさせない、あいまいでかつ薄弱な改憲の理由なのですから、信用するに足る態度とは毛頭いえません。
憲法の根本価値をかえない意思があれば、あえて改憲の手続きを言及する必要はないはずで、彼の日頃の言動を推しはかれば、押し付け論や無効論があるのなら、これを批判して当たり前のように思えます。
国民を持ち出して改憲の手続きに入るようそそのかしているといっても過言ではないのではないでしょうか。
橋下氏の姿勢にかかわって、心に残っている雁屋哲氏の主張を紹介します。
憲法嫌いの橋下氏を正確に射抜いています。
9条を選ぶなら自分が外国にいくと自らいっているのですから、あえて付け加えるならば、さっそく彼に手続きをとってもらいたいものです。
彼が心置きなく外国にいけるよう、私たちは揺らぎなく9条を選ぶ。
こう、あらためて声をあげなければなりません。さようなら。
極めつけは、ナショナリズムを煽ることである。
思い出して欲しい。
第一次大戦後、ドイツは、第一大戦敗戦の賠償金を取られて、経済的に苦しかった。
国民は、戦争に負けたことで自尊心を傷つけられていた。
今の日本人と同じくらい、逼塞感に落ち込んでいた。
そこに出て来たのが、ヒットラーだ。
ヒットラーは、ユダヤ人をドイツ国民の敵としての標的に掲げ、ついでゲルマン民族の優秀性を説いて、ナショナリズムを掻き立てた。
ヒットラーは無力の小グループであるユダヤ人を標的に選んだ。
橋下氏が攻撃の標的に選んだ公務員・大阪市の職員も、今の状態では無力である。(橋下氏に首根っこを押さえられているから反抗できない)
橋下氏の、国家斉唱時の起立要請は、ナショナリズムを掻き立てる、というよりナショナリズムを押しつける手段である。
ヒットラーは売れない画家で、軍隊では伍長止まりだった。
そのヒットラーが総統にまでなったのは、人々を扇動する能力に長けていたからだ。
橋下氏の経歴について私は良く知らない。
知っているのは、島田紳助氏のテレビ番組で人気者になったと言うことである。
橋下氏の口舌の技はなかなかの物で、攻撃しても一般市民は絶対安全という標的を探し出し、一般市民に、その標的に対する攻撃の仕方を教える扇動の技術は、扇動家の手本となるものである。
最近も、市の児童福祉施設の男性職員が子どもたちに入れ墨を見せ、2か月の停職処分を受けたが、市側の指導で長袖シャツで隠したまま職務を続けていることを問題視し
「入れ墨だけでクビにできないのなら、消させるルールを」と言った。
私も入れ墨は好きではない、と言うより大嫌いだが、その人が好きでしていることなら、口を挟むことではないと考えている。
しかも、その職員は職場で長袖のシャツを着て普段は入れ墨を隠しているのなら問題ないではないか。
隠していてもいけないと言うのなら、大阪市の職員は全員、全身くまなく入れ墨があるかどうか調べられることになる。
そして、あったら首になるか、その入れ墨を消さなければならない。
入れ墨を消すのは大変なことだ、焼き切らなければならないので、消したあとがケロイド状の傷跡になる。
私は何度か入れ墨を焼き切った後の人の肌を見たことがあるが、これはむごい物である。
そのようなむごいことを、平然と要求する人間が自分たちの市長であることを、大阪市民はどう思っているのだろうか。
市の職員倫理規則に入れ墨の規定はないが、橋下市長は関係部局への指示の中
で、「入れ墨をしたまま正規職員にとどまれる業界って、公務員以外にあるのか」
としているそうである。(この入れ墨関係の事実は、読売新聞電子版による)
これでは、入れ墨をした人間はまともな職に就いてはいけない、人間失格者みたいではないか。
うっかりすると、橋下氏に乗せられて「入れ墨をするなんてけしからん奴は、公務員にしておけん」と市民が入れ墨をしている公務員に対して攻撃的になる恐れがある。
絶対に反撃できない弱い立場の人間を敵として規定して、攻撃することを一般市民に煽り立てる政治的手法が恐ろしいのは、一般市民の中に「自分たちにとって目障りで、自分たちが攻撃しても反撃する能力のない弱い立場の人間を探し出して来て敵として規定し、自分たちの鬱憤晴らしのために、憎悪と敵意をぶつけて攻撃する」という精神構造を醸成するからである。
敵意と憎悪がはびこっている社会はこれは地獄だ。
橋下氏は一貫して敵を作って攻撃する政治手法をとっている。
それも自分より弱い人間ばかりを敵にする。
日本が橋下氏の目論むような方向に進むと、日本の社会は昆虫の社会になってしまう。
ほ乳類の社会では、例えば雌犬が迷子の子猫におっぱいを飲ませてやる、などと言う情が存在するが、昆虫の世界では、相手を攻撃するか、逃げるか、しかない。
反射神経の世界である。
大阪市の職員は、スズメバチに狙われたミツバチみたいな気持ちでいるのではないか。
さらに、今の日本の社会で本当に権力を握っているのはどう言う人間達か橋下氏は良く知っている。
橋下氏はそう言う人達を決して敵に選ばない。
と言うより、そのような人達に好まれることを選んでする。
日本の社会で本当に権力を握っている人達とは、「日の丸・君が代」を守り本尊とする人達である。
安倍晋三氏が、橋下氏に接近してきたところを見ると、橋下氏の意図するところがよく分かるような気がする。
?100度の寒気に日本が包まれたように感じる。
橋下氏は「国民が(今の)9条を選ぶなら僕は別のところに住もうと思う」と言っている。
それは大変良いことだ。
外国から日本を見ると、日本の本当の姿が良く分かる。
シドニーは如何ですか。
シドニーのアオリイカは旨い。
ご連絡頂ければ、アオリイカ釣りの良い漁場にご案内します。
ぼんやりと、頭を空にしてアオリイカ釣りなどするのは良いものですよ。
少なくとも、大阪市の職員を攻撃して回るより心が豊かになる。
おっと、扇動家だからアオリイカなどとからかっている訳ではありません。
雁屋 哲
橋下氏のこと
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橋下カジノ誘致発言はNO。大阪の将来は府・市民が決める
橋下市長は24日の定例記者会見で、福井県おおい町の大飯原発再稼働などについての考えを述べた。
――福井県の西川一誠知事が、(再稼働への慎重論が根強い)関西に対して発言しているが。
「立地県として、施設を抱え、いろいろと責任を負っている知事の発言は真摯に受け止めないといけない。ただ、僕なりに、しっかりと日本全体のこと、未来のことを含めて1年ちょっと考え抜いて、今の方針を出している」
――敵を作って議論していくスタイルについて、ワシントン・ポストが記事で分析しているが。
「バトルゲームのように次から次へといろいろな人(敵)が出てきてしまうが、政策の方向性を示して敵が出てこない方がおかしい。行政は全会一致でうまくまとめるが、政治は舵を切るものだから反対意見は出てくる。最後の解決は、話し合いか駆け引きか、それでも解決しなければ選挙になる」
――カジノ構想について改めて考え方を。
「増税は必要だが、消費税や所得税ではなく、カジノで楽しんでもらって金を吸い上げればいい。本当にうまく使えば、観光や集客だけでなく、所得再分配機能として有力なツールだと考える。カジノで遊んで一定の金額を行政が確保すれば、低中所得者に回すことができる」(2012年5月25日08時04分 読売新聞)
橋下市長「次から次へ敵が出てきてしまうが…」
世の中のものすべてを橋下市長は勝ち負けでみる、こういう習慣が身についていると断言するにふさわしいと思える発言です。
反対意見は出てくる。最後の解決は、話し合いか駆け引きか、それでも解決しなければ選挙になる
この辺りなんか、政治もゲーム感覚でとらえているといわれてもしかたがない認識です。そもそも行政の長として、こんなゲーム脳でよいのか、見識が問われてしかるべきです。
いやしくも民主主義のしくみの中に身を置くのなら、時間と手間がかかっても議論を尽してこそ、その観点で先頭に立ってこそ市長の役割を果たしうると考えられるのではないでしょうか。
政治をみる際にもこんな認識ですから、ましてやギャンブルを考えると、彼の親和性は最大限の針の振れ方になるとたとえてもよいようです。
市長は以前、大阪府知事時代につぎのような発言し問題になっていたくらいでした(参照)。
ちっちゃいころからギャンブルを積み重ね、勝負師にならないと世界に勝てない
カジノを誘致すれば大阪はどうなるのでしょうか。活気あふれる街になるとでもいうのでしょうか。
あるいは市長がいうように「カジノで遊んで一定の金額を行政が確保すれば、低中所得者に回すことができる」のでしょうか。でも、世界一といわれるマカオがすでにある中で、こんなものは幻想にすぎないといっていいように思えます。
反対に、依存症の社会的影響をこそ心配しなくてはならないと考えますが。
これまでにもさまざま語られているように多重債務がすでに社会的な問題になっている日本。
同じようにカジノ誘致によって、財産を失い自殺や路上生活者の増加などの悲劇をもたらす可能性は大きいと推測されます。この意味で大阪が不健康都市になるのはむしろ目にみえている、こう思えてなりません。
ギャンブルは負ける人がいるのが前提で組み立てられている世界。
だから、これを容認するだけでなく推進しようとする市長の態度は、そのまま競争原理と自己責任論にのっとった彼の政治姿勢にも連なっています。
橋下市長は以前、「政治判断もある種のギャンブル。先進国こそギャンブルが必要で、国民全員を勝負師にする必要がある」とのべていたことが伝えられています(参照)。
勝負師を押し付けられるのは、まっぴらごめんです。
どのような国に、あるいはどのような大阪にするのか、それは橋下市長が決めることではありません。
日本をどのような国にするかは国民が決めるもの。大阪をどのようにするのか、それは大阪府・市民が決めるものにほかなりません。
カジノ容認発言は断じて認められない、これが私たちの選ぶべき選択肢ではないでしょうか。
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[橋下市政]健康を奪い財政悪化招く敬老パス有料化
70歳以上の大阪市民が地下鉄・バスに無料乗車できる「敬老優待乗車証」(敬老パス)の一部有料化案について、橋下徹市長が23日、市議会委員会でその影響を尋ねられ、「(パスを使わず)歩くことで健康になる高齢者も出てくるのでは」と答弁した。
市議会内では、有料化で外出を控える高齢者が増えるのでは、という懸念も強く、「乱暴だ」との反発の声も上がった。
共産党の北山良三市議の質問に対し、「プラスになることもある。(パスのない)大阪府豊中市や八尾市のお年寄りは元気だ」などと答えた。北山市議は議会後、「パスを奪って『歩け』と言っているに等しい」と批判したが、橋下市長は「(有料化しても)すべての高齢者が閉じこもりにならない。冷静な議論をしたい」と意見を曲げなかった。
市は、見直しについて市民や市議会の意見を踏まえ、7月末に最終決定する。
(2012年5月23日22時10分 読売新聞)
橋下市長に「パス奪い歩けと言うのか」と批判
懸念されるのは、議会質問にもあるように、これまでバスをつかっていた高齢者が移動手段を利用しづらくなり外出する機会そのものが減る可能性です。外出の機会が減れば、高齢者のADL(日常生活動作)に悪影響を及ぼしかねないと考えるのが妥当だと思えます。
たとえば、長寿科学振興財団・国立長寿医療研究センターはつぎのようにのべています。
地域社会と積極的に関わりをもつ高齢者ほど健康余命が長いことが知られています。地域社会との関わりは「社会参加」、「社会活動」あるいは「社会的紐帯(ちゅうたい:固く結びつけるもの)」という領域とも共通しますが、その他にも「地域共生意識」、「近所づきあい」という要素を含んでいます。
……
高齢社会では制度、政策のみで安心した生活を送ることはできません。それらでカバーしきれない領域に高齢者や地域の力が必要なのです。その意味で「近所づきあい」にも目を向ける必要があります。
高齢者のふだんの「外出頻度」は総合的な健康指標の一つです。外出の機会が多い高齢者ほど身体・心理・社会的側面の健康度が高く、のちのちも健康度を維持しやすいという研究があります。
外出頻度の多寡(たか:量)にはいろいろな要因が影響しますが、地域での「近所づきあい」の有無もその要因の一つです。特に年齢が高くなり、からだが不自由になってくると近所周辺が外出先となります。そうした時期に「ご近所さん」があると外出の機会につながり「閉じこもり」が回避できるのです。
高齢社会において安心し充実して暮らす上で「地域社会」は重要な要素です。その意味で「地域共生意識」や「近所づきあい」は私たち自身が見直すべき課題といえるでしょう。
健康長寿ネット
「地域社会と積極的に関わりをもつ高齢者ほど健康余命が長いことが知られています」とした上で、引用のように外出の意義を認めています。外出の機会を減らすのではなく、増やしてこそ高齢者の健康を守れるのです。
「歩くことで健康になる高齢者も出てくる」と答える市長はどこにその根拠を求めるのでしょうか。またぞろ無責任な答弁を繰り返しているといわれてもしかたがありません。
高齢者の無料パスを取り上げることで、こうして高齢者の日常活動の低下を招くようになれば、高齢者の健康を守れないわけですから、その結果、医療費の増高にもつながります。財政支出削減を目的に提案している無料パス有料化のはずが、医療費の増大を引き起こすという逆説をはらんでいるともいえます。無料パスを有料化すれば健康悪化を招き、医療費を押し上げ財政悪化に導くというまさに負の循環が待っているとも推測されます。
この悪循環の中に高齢者を置いてよいのか。この是非が問われているのではないでしょうか。
全国にはない無料パスを今日まで継承してきたのであれば、それを維持できるようにするところにこそ地方自治体の存在意義があり、役割もまたあるように思えます。
住民の福祉の増進を図るためにも有料化案は撤回するのが地方自治法にのっとった態度だといえ、有料化で、健康をうばい、医療費も増大させ、財政も悪化させるという悪循環を選択するようなことはあってはなりません。
【関連エントリ】
「顔は僕を見て」という橋下市長の地方自治観

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橋下ツイートからみえる政治家の資質欠如
府庁移転問題では、昨年の東日本大震災でWTCビルの天井などが崩落する結果になって、耐震構造上の問題点が浮き彫りになりました。その結果、耐震補強にも多額の費用を要するという浪費を生むことになりました(2009年時点で耐震性にかかわり建築基準法の耐震基準を満たしていないことが指摘され、18.5億円かかるといわれていた)。もともと大阪の財界の意向をうけた同超高層ビルの建設ですが、府庁移転もできずにムダをつくるこの事態に、いまだ反省の弁を聞いたことがありません。放置したまま、今度は大阪市長に転身していること自体、厳しく問われてもよさそうなものですが、就任以来、メディアの多くはもちあげることばかりに腐心しているといってよいかもしれません。
その橋下氏のツイッターにかける意気込みは多くの人が知るところでしょう。
の会見でもかなり激しく、ときには口汚く聞こえる言葉をもちいて語っていると私には思えますが、それに倍して橋下ツイッターの世界はあきれてしまうくらいの凄さといってよいものです。
その橋下ツイッターを毎日新聞がとりあげ、そこに表れる橋下市長の人物像を3人の識者に聞いています。ツイートをとおして浮かび上がる人間像は、もちろん以上でふれた彼の無責任にもかかわらずにはいかないといえますし、3人は的確にとらえているように思えます。毎日の記事の末尾からとりあげると以下のとおり(東教授;東照二立命館大大学院教授、斎藤さん;斎藤環氏・精神科医)。
東教授は「他人への攻撃の多い橋下さんのツイッターを読んで、将来への希望や夢を持つことは難しいのでは。米国のオバマ大統領は、あまりネガティブなことはツイートしませんでした。政治家のメッセージで重要なのは、受け手に政治に参加したい、社会の役に立ちたい、と思わせることだと思います」。
斎藤さんは、これはツイッターに限ったことではないですが、と前置きして「橋下さんは目の前にある課題を変えるという『短期的な正当性』の主張ばかりで、政治家に求められる理念をじっくり語ったり、将来あるべき社会の姿を議論するということがない」と辛口の指摘をする。
だが同時に、最近は腰をすえた議論より「破壊的な言動が好まれる傾向もある」ともいう。
……
ツイッターに見る橋下・大阪市長 閉塞感解放する攻撃力
この2人の評価は同感できるもので、橋下ツイッターの特徴は以下のようになるのでしょう。
- 他人への攻撃の多く、将来への希望や夢を持つことは難しい
- 目の前にある課題を変えるという『短期的な正当性』の主張ばかり
- 理念や将来あるべき社会の姿をじっくり議論するということがない
裏返しにみると、この2人の評価は、彼の無責任ぶりを語っていることにほかならないとも思えます。将来を語ることもできず、したがって有権者に将来の希望や夢を与えることもできないというのですから。
しかし、そもそも、これって政治家の資質が欠如しているということを意味しているのかもしれません。

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撤回ではすまない。橋下「維新」は無責任集団か。
日本児童青年精神医学会という学術団体が同条例案について声明を出しました。
「家庭教育支援条例(案)」には,全文にわたって発達障害をめぐる重大な誤解があります。特に,第15条の「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因である」という記述、および第18条の「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できるものであり」という記述に問題があります。それらは発達障害を持つ当事者および家族に重大な不利益をもたらすのみならず、いわれなき社会的非難を浴びせる結果になることが強く懸念されるものです。この条例案は、発達障害に対する地道な臨床研究と脳科学的な病態解明により到達した『発達障害は生来的な脳機能発達の障害を病因とする』という世界的なコンセンサスを否定し、世界標準では完全に否定された発達障害心因論へと数十年時計を逆戻りさせるものであると言わざるをえません。かつては、発達障害の当事者とその両親は世間から「親の育て方が悪いから発達障害になる」、「子どもが甘やかされた結果だ」などと責められ続け、誤った責任を押し付けられたために多くの悲劇が引き起こされました。2005年に施行された「発達障害者支援法」は、発達障害に関する医学的研究の到達点である世界基準の定義に基づき、発達障害を生来の脳の機能的な問題が基盤にあると規定しています。この法律がこのような基盤に立って成立したことから、発達障害の当事者および家族は初めて希望を持って障害と取り組むことができるようになりました。大阪維新の会大阪市議会議員団が成立を目指した条例案は、このような発達障害研究と支援の取り組みがようやく到達することのできた水準を無視し、発達障害があたかも親の育て方によって生じるかのような大きな誤解へと逆戻りさせるものとなっています。このままでは、多くの発達障害児とその家族、関係者を困惑させる内容であると判断せざるをえません。
大阪維新の会大阪市会議員団が提出を予定した条例案に関する声明
発達障害にたいする偏見を助長し、歴史を過去に引き戻したのが条例案。核心を声明は的確に指摘しています。これまで集中した批判も多くは、同条例第15条の「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因である」という部分に関してでした。結果、「維新」は条例案を撤回しました。が、これでよいのか。撤回前後の「維新」の対応に関して日経新聞が報じています。
維新は火消しに躍起だが、その説明のずさんさが目に付く。HPの釈明は「巷(ちまた)に出回っている家庭教育支援条例案について」と題しているが、自ら報道陣に配布したものを「巷に出回っている」と責任を曖昧にした形だ。「5月議会には提出せず、さらに議論を尽くす」との説明にも早く幕を引きたいとの思いがにじむ。
維新が言うところの「既に条例案が提出された県議会」というのも実は判然としない。維新内部で名前が挙がった関東地方の地方議会事務局は取材に対し、「色々な報道機関から問い合わせがあるが、承知していない」と回答。再び美延幹事長に聞くと、「『ある県』がどの県なのか、実は私も正確には知らない」との答えが返ってきた。
辻市議にも真相をただしたが、「もう終わった話だからいいじゃん。話すことなんてありません」と真摯な説明はないまま。取材の中で、高橋教授との勉強会の中で出てきた資料が大元になったことは認めたが、「高橋先生から直接渡されたわけではない。(受け取ったのは)そのラインというか……」と不可解な説明に終始した。
「謎の条例案」撤回騒ぎ ガバナンスの低さに支援者離れも
無責任以外の言葉がみつかりません。
この地方政党は吟味もせずに議員提案ができるようになっているのですね。その点を日経は指摘し、ガバナンスがないと断じています。たしかに、件の思想調査でも、捏造されたデータをそのまま質問でもちいて、労働組合を攻撃したのはついこの間のことでした。
ですから、この「維新」にはそもそも公党として市民にも、また議会においても責任を果たせるような政党とはとてもいえないように思えてなりません。
当該議員の「もう終わった話だからいいじゃん。話すことなんてありません」との発言は鮮やかにそれを示しているのではないでしょうか。言語道断の発言で、厳しく(議員としての)姿勢が問われるでしょう。
一方で、この「維新」の代表を務める橋下市長。
市長もまた、先の思想調査問題同様、自分には関係ないとばかりに傍観者的な態度に終始しています。調査問題のときには、怪しいと思っていた旨の発言をし、今度は、「僕が市民の側に立った場合には『うるさい。大きなお世話だ』と多分言う」と語ったとか。
しかし、彼は仮にも公党の代表であるはず。自分は知らないですむのか。
おそらく「維新」は大阪府・市、そして堺市の議会がほとんどを占めるのでしょうし、それを考えると、大阪市の同党議員団の政策が代表の知らないまま決定されていくという過程が通常であれば理解しがたいものです。ここにも、これまで市長自身が関わった問題はもとより、調査問題においても共通する橋下氏の卑屈な態度というものを感じてしまいます。
ならば国会の多数派である民主党やこれまで長く政権についていた自民党はどうかと問われかねませんが、しかし、こうしたいくつかの議会活動から垣間見えるこの政党の動向は、公党としての体をなしていないのではないかという疑問がわいてむしろ当然と思わせるに十分なようです。日頃、他には徹底した非寛容の態度をとりつづける橋下市長ですが、同党という身内への寛容とそれは一体のもののようにみえます。どこまでも内に甘いといわないければならないようです。
この件でもやはり問われているのは「維新」と代表・橋下市長の文字どおり政治家としての見識です。代表としての橋下氏と「維新」は、そもそも議案提出手続きのイロハさえ理解していないような対応だけでなく、条例案そのものの根本にふれて厳しい批判がむけられているのですから、ただ撤回すればよいというのではない。条例案提出に至るまでの経過と対応について見解をまとめ、釈明してはじめて公党にふさわしい態度だといえるだろうと思えます。

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[橋下維新]政治塾ではまにあわぬ。即戦力がほしい
「維新塾」の受講生の感想だそうです。
「改革への熱い思いが湧いてきた」「人数が多すぎて議論ができない」??。大阪維新の会(代表=橋下徹・大阪市長)が次期衆院選に向けた候補者養成の場と位置付け、3月下旬に開講した「維新政治塾」には今、受講生の高揚と落胆が入り交じる。社会保障や外交・安全保障など、国政課題を学んでいる約2000人を半数程度に絞り込むまで、予定されている講義は5回。12日には第4回が開かれた。
「橋下改革の神髄に触れることができた」と話すのは大阪府内で介護の仕事に携わる40代男性だ。公務員制度改革などに共鳴し、「自らも大阪を変えたい」と参加した。1時間程度の講義をただ受けるだけでは物足りないと、受講する講師の著書を5、6冊買って予習して臨む。受講生の有志約10人で自主的な勉強会も計画している。「参加者全員が改革に熱い思いを持っている。明るい話題が少ない日本で元気になれる」と意欲を見せる。
維新政治塾:参加者に評価と落胆 神髄に触れた/人多過ぎ
これは、自分がカルチャーセンターに学びにいっている者の感覚であれば許されるのでしょうが、必ずしも「維新」側の思惑と整合がとれてはいないでしょう。何よりも「維新」は自らの野望を成し遂げるために、第一関門の候補者要請は火急の課題であるはず。したがって、つぎのような判断にも結び付くのではないかと思えます。
橋下徹・大阪市長が代表を務める大阪維新の会が、次期衆院選に向けた政権公約として6月にもまとめる「維新八策」への賛同や理解を基準に、他党の現職国会議員の擁立を検討していることが分かった。「維新政治塾」による候補者発掘に加えて現職議員の擁立を図り、目標とする「過半数の議席獲得」を実現する狙いだ。国政経験がない維新に、国会議員が加わるメリットもある。
維新幹部は毎日新聞の取材に「候補者を全員、維新塾から選ぶのは現実には厳しい。他に考え得るのは国会議員、官僚、地方議員らだ」と説明。その上で「維新八策に共鳴し、実行することを確約するのが条件となる」と述べた。維新八策は今年2月に「骨格」として提示されており、橋下氏はその後、「6月上旬までにまとめる」としている。
次期衆院選に向けて維新は、3月に開講した「維新政治塾」の受講生約2000人を、6月をめどに約800?1000人の「塾生」に絞り込む。現職国会議員については、公募や個別交渉などを検討している。
……
大阪維新の会:他党議員の擁立を検討…次期衆院選
次期選挙は流動的ながら、間近に行われる可能性もまったくないわけではないし、候補者擁立の作業は必ずしも容易ではないとみているということでしょうか。記事中のコメントが率直にのべています。
候補者を全員、維新塾から選ぶのは現実には厳しい。他に考え得るのは国会議員、官僚、地方議員らだ
政治塾から候補者を探すのは至難の業というわけですね。これはしかし、最初から分かり切ったことではなかったか。そもそも政治塾の開講自体が話題をさらおうとするものであったし、カネを集めの機会でもあった。受講者の中から候補者などと考えるのは少なくとも一義的なことではなくて、二の次、三の次であったとも思えます。何よりも「維新」自身の知名度を高めるための節に政治塾開講が位置づけられてきたのではないかと推測してしまうのです。
受講者側の候補者になるための第一段階の「必要条件」を
- 本人の出馬意思が「強くある」または「ある程度ある」者
- 選挙資金が「ある」または「ある程度ある」者
として考えると、記事によれば、それをクリアしていると思われる人は14%にすぎません。
他方で、議員としての資質がいうまでもなく問われるわけですから、この最初の必要条件を満たしたからといって、もちろん候補者になれるわけではありません。
資質の点でいえば、「維新」議員の行状の悪さについて大阪市職員から強い批判があがっていたのは記憶に新しいところです(参照)。現状でも疑問符がつく「維新」の地方議員。その上に、こうした平たくいえば粗製乱造で候補者をつくり、仮に議員になったとしても、前途多難だといえいるでしょう。かつ、こうした国会議員がふえることは日本の政治の質を低下させることはあっても上げることはまずないといえそうです。
とくに社会運動にかかわるのでもなく、有権者との接点のないまま議員になっても議員としての活動に制約があるのは当然でしょう。自民党や民主党にはタレントやすぽーつ選手あがりの議員も少なくありませんが、彼らが一目おかれるような議員活動をしているようには少なくとも私にはまったくみえてこない。
この日本の政治状況は、外国人には以下のようにみえているようです。
日本では哲学や理念が感じられない「偽りのポピュリズム(False Populism)」が広がりやすい。
外国人の目に映る日本政治は、実に奇妙なものだ。テレビを通じて有名になった“タレント”たちが、いとも簡単に政治家へと転身していく。こんなことは欧米ではまずない。一方で、政治家自身もテレビを利用し、自らの知名度を高めようとする。テレビは「偽りのポピュリズム」を増幅し、人々を間違った方向へと導く元凶である。
TVタレントから政治家への転身 外国人には実に奇妙との声
この記事にしたがえば、西欧と日本の決定的なちがいは有権者の政治へのスタンスのちがいに関連づけられているようにみえます。ようするに日本の有権者の候補者選択の幅により、つまり情報のよりどころがほとんどテレビに限られる結果、タレントが当選する可能性を広げているということになる。つけくわえれば、タレントの彼/彼女が何を思い、何を語り、何をしたのかは選択の外に置かれるわけです。当選のための戦力になる、いいかえると「知名度」のある人物が候補者に選ばれるのが日本と結論づけられるのではないでしょうか。
こうした文脈で考えると、「維新」の考える即戦力づくりも従来の域を一歩も出ていません。
この延長で議員が選ばれた結果、政治に何がもたらされるのか、それは今の国会の状況をみれば察して余りあるというものではないか。「維新」の現にすすめる政治塾も、候補者えらびも実は自民党、民主党がこれまでにやってきたことを繰り返しているにすぎないと考えるのです。

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歴史歪曲に手を貸す橋下市長
しかし、「近現代史がしっかり勉強できていない」という市長の認識にはたして科学的な根拠があるのでしょうか。むしろ検討チームの構成からはっきりするように、「つくる会」の流れにそった動きだとえなくもありません。また、あえて中国を比較の対象にあげることにも、これまでの歴史教育をあらためようとする橋下市長の意図が見え隠れしているようにも感じられます。
橋下徹大阪市長と松井一郎大阪府知事は、子どもたちが近現代史を学ぶ施設を大阪府市で設置する検討に入った。橋下氏は10日、代表を務める大阪維新の会の大阪市議らに対し、「新しい歴史教科書をつくる会」や元会員らによる教科書づくりに携わった有識者らに意見を聴く考えも示した。
橋下氏は9日、維新の会と公明の両市議団幹部と非公開で協議。出席者によると、橋下氏は「中国などに比べ、日本の子どもは近現代史がしっかり勉強できていない」と主張。その上で、歴史観や事実認定で意見が分かれる近現代史について「子どもらが両論を学べる施設」をつくる考えを明らかにしたという。
10日には複数の維新市議団幹部と再度協議し、展示内容などについて、扶桑社版や育鵬社版の歴史教科書編集に関わった有識者から助言を受けることで一致。近く、同市議団幹部が有識者に協力を依頼するという。
橋下市長ら近現代史学ぶ施設検討 つくる会系からも助言
橋下市長の今回の発言は、「維新」大阪市議団が「新しい歴史教科書」と「日本教育再生機構」のメンバーが執筆した育鵬社の教科書が「最も改正教育基本法の趣旨に沿った内容」と評価した上で、すでに昨年6月にもっていた、改正教育基本法と新学習指導要領に沿った中学校教科書を採択するよう求める要望書を市教委と議会への提出する方針(参照)を引き継ぐものだといえるでしょう。
しかし、国際社会は橋下市長とはまったく別の認識を示しているようです。
国連・子どもの権利委員会の勧告が日本政府に対する「最終報告」をまとめています(2010年6月15日)。
その中では、
- 日本の歴史教科書が、歴史的事件に関して日本の解釈のみを反映しているため、地域の他国の児童との相互理解を強化していないとの情報を懸念する
- 公的に検定されている教科書が、アジア太平洋地域の歴史的事件に関して、バランスの取れた視点を反映することを確保するよう勧告する
この報告にあるような視点こそが、むしろ唯一、アジアの諸国との共生をすすめ、国際社会と連帯できる道であるように思えてなりません。というのも、日本政府は、村山首相談話、日韓共同宣言(98年)、日中共同宣言、日朝ピョンヤン宣言(2002年)などで、侵略・加害、植民地支配の事実を認め、歴史教育でこうした事実を学び記憶して、二度と同じ過ちを繰り返さないことを国の内外に約束してきたのですから。
教育と教科書をめぐって日本軍「慰安婦」の記述は中学教科書からほとんど消され、日本の侵略・加害、植民地支配や沖縄戦、戦後補償の記述も後退するなど改悪されてきました。
子どもたちに必要なのは、過去の侵略と植民地支配の誤りを伝え、しっかりと日本国憲法に立脚することが国際社会の中で日本のとるべき道であることを理解できるようにすることではないでしょうか。
市長のいう「両論」という表現は、以上の立場とこれとは対極の憲法を敵視し、侵略戦争を肯定する立場とを同等に扱うということを表明することにほかなりません。それは国際社会からの孤立への一歩をいよいよ歩み出すものであって、だからこそ強く反対しないわけにはいきません。

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[橋下市長]現状打開を強権政治に委ねるわけにいかない
こんな状況ですから、なおさらメディアの憲法の扱いが気になったところです。その中で以下の記事が眼にとまりました。現下の状況を俯瞰しつつ、日本国憲法の意義を再確認しようとする好主張だったと思います。
信濃毎日新聞の社説です。
最近、2人の政治リーダーが気になる発言をしている。
……
いまの政治は政策を決める力を欠いている―。立場の違う2人だが、こうした認識では一致しているようだ。
政策決定力を失えば、政治とはいえない。歴史的とされた民主党政権だが、米軍普天間飛行場の移設問題を皮切りに政策を実行できない体質を露呈した。トップが代わっても展望が開けないところに、有権者のいら立ちがある。
だから橋下氏の断定調の発信に引き寄せられるのだろう。根っこは同じだ。無力化と強力なリーダー待望論との間を漂流しているのが、いまの政治の姿である。
こうした流れのなかでは、強いことや勇ましいことを言った方がいい、といった傾向に陥りやすい。それが権力の強化につながり、国民の権利を抑えるような主張になってくると要注意だ。
気になることがある。例えば「君が代起立条例」のある大阪府で、斉唱しているかどうか、府立高校の校長が教員の口元を“監視”する問題が起きている。
条例があるとはいえ、口元まで点検するやり方は、憲法が保障する思想、信条の自由に抵触しかねない。橋下人気が市民の権利を弱める結果を招くとすれば、強権政治へとつながる恐れがある。
……
「決められる政治」を求めるあまり、国民が自らの権利を権力者に委ねるような選択をすれば、国家の暴走を許すことになる。
政治劣化のなかで、あらためて憲法の条文を読み返してみたい。
憲法のいま 政治の劣化と強権の間
この主張がいう決定できる政治をお題目にかかげて、価値観の共有まで押し付けられてはかないません。しかし、記事の中の一人がそれを公然と口にしているのが現実です。
国会が決められない状況にあるのはどうしてか。それは以下のようにとらえられるのではないでしょうか。
小選挙区制度をもとに二大政党政治をめざしたが思惑どおりにはいかず、政権交代そのものが政治がかわるという有権者の期待に反した結果、事態は、衆院の多数派が次の参院選で惨敗を繰り返すという衆参の「ねじれ」が常態化することになったわけです。その上での国会審議の停滞を生んだということにほかならないでしょう。だから現状は、二大政党による小選挙区を中心にした選挙制度とも深く結びついていると考えざるをえないでしょう。(前出エントリ)
この現状を打開するために、登場してきたのが橋下市長のように思えます。「二大政党が機能していない現状を強権的に打開しようとする意思がみてとれる」(前出)のです。
フランスでは、緊縮財政に明確な反対の意思を示した国民がオランド氏を大統領に選びました。同氏は「フランス国民は変化を選択した。私は国に尽くしていく。変化は今始まる」と語ったそうです。ひるがえって日本ではどうなるのか、そうおのずと考えてしまうのです。
世論調査によれば、橋下「維新」への期待は依然、高いようです。たしかに日本でも有権者は変化を望んではいるのでしょう。しかし、フランスが現政権を左から乗り越えようとする主張を選んだといえるのでしょうが、橋下「維新」は右から現状を乗り越えようとするもので、政治の現状に国民が不満をもっているという点では同じであっても、仮に日本で橋下維新を有権者が選んだとすると、その選択の意味合いはもとより異なります。
この点で、信濃毎日が「強いことや勇ましいことを言った方がいい、といった傾向に陥りやすい。それが権力の強化につながり、国民の権利を抑えるような主張になってくると要注意」と強調しているのはジャーナリズムの一つの見識を示すものであって、大いにうなずけるところです。
政治の現状打開を強権政治に委ねるということがあってはなりません。
【関連エントリ】
「顔は僕を見て」という橋下市長の地方自治観
[橋下市長]民主主義の対極にある民主主義観
[橋下発言]異なる価値観ならば去れ

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節電と増税を踏み絵に再稼働を迫る橋下市長
関西電力大飯原子力発電所3、4号機(福井県おおい町)の再稼働に反対している大阪市の橋下市長は26日、市役所で報道陣に、「原発を再稼働させなくても(今夏の電力需要を)乗り切れるかどうかは関西府県民の努力次第。相当厳しいライフスタイルの変更をお願いすることになる。その負担が受け入れられないなら、再稼働は仕方がない」と述べ、節電策に住民の支持が得られない場合、再稼働を容認する意向を示した。
関西電力は今夏の電力需給について、ピーク時の7月に供給力が需要に比べて19・3%不足するとしたデータを発表している。
橋下市長は関電のデータの検証を求めているが、「検証を待っていたら対策が遅れる。今(関電が)出している数字を基に、今夏の節電策を考えざるを得ない」と述べ、再稼働しない場合を想定した今夏の節電策をまとめるよう関西広域連合に要請する考えだ。(2012年4月26日12時35分 読売新聞)
節電に住民支持ない場合は再稼働容認…橋下市長
大阪市の橋下徹市長は26日、関西電力大飯原子力発電所3、4号機の再稼働が認められない場合、代替エネルギー促進などにかかる行政コストの確保のため、「増税も検討しなければいけない」と述べた。
橋下氏は関西広域連合の7府県2政令市の首長による委員会で発言し、「もし再稼働を認めなければ(府県民に)応分の負担がある」とし、新たに発生する住民負担分を明示することを提案した。(2012年4月27日07時13分 読売新聞)
橋下市長「大飯原発の再稼働なければ増税も」
市長が語っているのは、つぎの2点です。
- 住民の節電への協力が得られないのなら再稼働はやむなし。
- 再稼働しないのなら増税を検討しなければならない。
これを裏返しにして住民側からみると、
- 再稼働すれば、節電も、増税もない
- 再稼働しない場合は節電と増税に耐えよ
ということになります。ようするに、市長発言は、再稼働への道程を前に住民に踏み絵を迫ることを意味するでしょう。
しかし、それでは昨日までの市長の態度は何であったのか、それが問われなくてはなりません。これまでの市長の姿勢は、(大飯原発の)再稼動の判断を決めた政府にたいして、安全性を判断したことに強く反発したものでした(参照)。
その上で、こうした事態を許してはならない、今の政権には国家管理がない旨、強調し、むしろ世論を煽っていたのですから、この「豹変」ぶりをそのまま受け取るわけにはいかないでしょう。
少なくとも表向きは昨日の前後で態度が丸きりかわったと受け止めるのが妥当なはず。だとすれば、その釈明を市長はしなければならないと考えても少しもおかしくはありません。
一方で、そもそも再稼動には(内心は)賛成であったが、それとは逆に反対する戦術に出たと考えても不思議ではないわけです。
いずれにせよ市長の態度は、前後で脈絡を欠く。常々、住民を口にする市長なのですから、まず説明してしかるべきでしょう。
市長発言は、自身のこうした態度の変更に加えて、住民に事実上、再稼動を選択する方向に誘導する意味をもっています。再稼動でもなくても節電は必要だとメディアが伝えるところではあります。が、発言は節電の責任を住民に転嫁するものにほかなりません。
その上で、再稼動と増税という2つの選択肢を準備し、再稼動へのインセンティブが働くようにあらかじめ仕組まれた設問そのものに、そもそも欺瞞を感じます。
「維新」の中央政治への進出が予定されている中での市長のこの発言は、再稼働の是非をめぐる自らの政治的責任を回避しようとするものであって、結局のところ、その責任を住民に押しつける結果になるように思えます。
ほとんど選びようのない設問をつきつけ回答を迫るという脅迫まがいの姿勢は、先に問題になった職員調査に通じるもの。
橋下首長はこの意味でもその無反省・無責任を厳しく指摘されなければなりません。

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人権思想が欠如する橋下市長ら
松井知事と大阪市の橋下市長は20日、同市浪速区の「大阪人権博物館(リバティおおさか)」を視察し、展示方法に疑問を呈し、今後同博物館を運営する財団への新たな補助金の拠出を見直す考えを示した。
同館は1985年に開館。府と市が出資する財団が運営しており、昨年度は府市で約1億2300万円の運営補助金を受けている。今年度も、府は約7150万円、本格予算編成を7月に控えた市は約1840万円の補助金を当初予算に計上している。
約1時間、視察した2人は報道陣に対し、世界に貧困や紛争に苦しむ子どもたちがいることを紹介した展示を例に挙げ、「社会にゆがみがあることを列挙しているが、まずは頑張っている子どもたちがいることを伝えるべきでは」(橋下市長)などと指摘した。
運営補助金について、松井知事が「公金を入れるとなると疑問符が付く」、橋下市長も「市税投入は一から考える」として再検討する考えを示した。
同館は、当時府知事だった橋下市長からの指摘を受け、昨年3月に展示を見直したばかり。財団側は「トップの感じたことは尊重すべきだ。改善できるところは改善したい」としている。
(2012年4月21日09時57分 読売新聞)
橋下市長「人権博物館への公金投入には疑問符」
ですから、この文脈で考えると、府知事や大阪市長の発言はさもありなんという印象はぬぐえません。むしろ人権とは、府知事・大阪市長がもっとも忌み嫌う、あるいは一顧だにしない無視すべき象徴なのかもしれないと思うくらいです。
しかし、これを、財政逼迫のなかでの一つの費用削減策だという受け止めるだけでは問題が小さくなってしまうように思えます。つまり、そう思うのは、助成金の多寡とか、削る削らないという視点でとらえてしまうと、本来、行政のトップである2人の首長の基本的な姿勢がそれにふさわしいか否かという本質的な問題を後景においやってしまうからにほかなりません。
もっといえば、彼らには人権を尊重するという根本の思想が欠如しているのではないか、それを恐れるのです。
住民のいのちと福祉に尽力するのが自治体であるはずです。それが自治体の使命であるのなら、住民一人一人の権利を守ることに敏感でなくてはなりません。
その点でどうでしょう。
「社会にゆがみがあることを列挙しているが、まずは頑張っている子どもたちがいることを伝えるべきでは」と橋下市長が語ったそうです。が、現実に人間として生まれながらに持っている権利が侵されている状況があるとすれば、それを正すのが自治体の仕事ではないのか。ゆがみは正さないといけない、それを率先するのが首長だと考えてほしいものです。
ただ、彼らの考えと人権という思想とは、まったく相容れず斥け合うという、磁石の両極のような関係にすでにあるのではと思わざるをえない、就任以後の言動があいついでいます。
つきつめていえば、人間を人間として、他者を他者として認め生きていく前提が人権だと考えるのなら、少なくとも彼らの言動から判断すると、彼らは首長・政治家として欠いてはならない要件をもちえていないということになる。
人権を無視や軽視する発言は認めるようなことがあってはなりません。
一人一人の人間の権利が何もしなくても守られるというのは正しくはないようだといいましたけれど、本来生まれながらにしてもつ権利が侵されている現実があるのを、黙ってみることなく、それを告発し問題を提起できるような行動を大事にしたいものです。

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橋下市長は理不尽と不平等をなくせるのか
「あいつは明らかに世の中を憎んでいた。社会的な理不尽や不平等に対する強い怒り。既存の勢力に対する激しい憤り、憎しみ。ものすごく大きなエネルギーを感じた」
既存の勢力とは、市長選後の彼の言動から判断すれば、労働組合をはじめ、私学学校、朝鮮学校、文楽協会、市音楽団、大阪フィル、地域振興会など枚挙にいとまがありません。なにしろ補助金を当たり前だと思ってたらだめだというのですから、多くは彼にいわせれば既得権者としてくくられかねないというものでしょう。労働組合は、不法な選挙活動に加え人事にも介入したと敵視し、その結果、特別顧問の野村修也弁護士によれば、ついに労組を刑事告発したそうです。
大阪市役所がどんな「戦場」なのかは、そこに行って戦ってみなければ分からない。11日、大阪市は公選法違反で組合幹部ら13人を刑事告発した。これに賛成でも反対でも構わないが、切迫した現場を踏まえて発言して欲しい。この3ヶ月で私が遭遇したのは、殺人未遂、覚醒剤、地下鉄火災、刺青などだ。
https://twitter.com/#!/NomuraShuya/status/191528708799078400
不祥事が仮にあったとしても、市役所という組織を「戦場」とたとえ、大改革にとりくんでいるかのように描くこと自体に、一種のナルシズムに近いものを感じてしまい、苦笑を禁じえません。
ともかく、たとえば捏造職員リストに象徴されるように市役所内をいまや内部告発・密告が飛び交う現状のようで、そんな組織が、ある時期の独裁政治に相通じるところであるのは、赤川次郎氏が鋭く指摘しているとおりです(参照)。ともかく、憲法に反する手段をも使って組織的な混乱を持ち込んだのが市長自身であることは、ここに至って明確ではないか、そう私には思えます。
そこで、紙上で語られた市長の理不尽と不平等にたいする強い怒りの件にもどると、そもそも理不尽をいうのなら、不法な手段を最初に選んだという行為はそれに該当しないのか。憲法に反するというそれは、最も重たい理不尽とはいえないのか。こんな強い疑問がわいてなりません。
不平等にしても同様。一つだけ例をあげれば、生活保護費の増高を理由に受給者の医療扶助額を減らすために、受診医療機関を指定する方針を市長がすでに発表しています(橋下市長、生活保護受給者受診病院に登録制、読売)。しかし、これは、どこの医療機関を選択するのか、それは受診する側の自由であるはず。ならば、生活保護受給者もまた、どの医療機関を選ぼうと選択する自由は等しく与えられないといけないといえます。そもそも不平等にたいする強い反発をもっているのであれば、方針に不平等をこうして持ち込むことを斥ける意識が働いて当然ではないか。
このように、理不尽や不平等にたいする市長の強い反発、あるいは憎悪があるとすれば、そもそも、それは反転し、実は市民自身にもむけられかねないものではないでしょうか。反転というのは、社会的な理不尽や不平等ではなく、まさに橋下市長からみるとそれは、自己的な理不尽と不平等、判断基準の中心はあくまで自分ということを示しているにちがいないからです。
それは、先の記事中で語られている市長の学生時代の逸話で、詐欺まがい(ではなく、詐欺そのもの)の行為をやってもなんともおもわないという心性に見事に表れています。
はたして橋下市長の登場で大阪から理不尽と不平等はなくなるのでしょうか。そして彼が率いる「維新」が国政選挙に進出したら、理不尽社会ともいわれる日本の現状が一変するのでしょうか。
そうではないだろうと思われます。
たとえば、大阪市からの企業移転が伝えられています(参照)。ここには、都市としての停滞の一面も表れているともいえます。こうした企業流出の背景には、大阪市をこれまで支えてきた商業や中小・零細の製造業が不景気の中、直撃を受けていることが背景にあると思われるところです。が、市長はこれにどう対処しようとしているのか。
その視点はやはり、ちがうのではないかと思えます。
市長が打ち出したり、あるいは検討されている主なものは、つぎのようです。
- カジノ都市構想
- モトクロス競技場の設置
- 道頓堀川に長さ1キロのプール建設
これらが、どこからみても外からの客を対象にしたものであって、地域に根ざした内発型の発展を期待できる構想でないことは明白でしょう。まず地域で利用してもらえ、地域そのものが活性化することなしに、停滞から浮上することは不可能でないかと懸念するわけです。むしろ大阪を壊すような気さえ呼び起こすものといえるでしょう。
これらは、誰もが利用できる条件や内容をともなわないわけで、結局、市長のまなざしが常日頃、どこに向けられているのかを端的に示すものではないでしょうか。社会的な理不尽や不平等にたいする強い怒りというものが寸分でも橋下市長にあるのなら、でてきようのない発想であって、これを受け容れるわけにはいかないのです。
詐欺行為をやって『どこが悪いんですか。気付かずに買うのはお人よしや』と平然といいきる橋下氏。この延長に現在があるとすれば、それは『どこが悪いんですか。選んだ人がお人よし』というに等しく、市民あるいは国民にそのツケが回るようなことはあってはならないのですから。

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「顔は僕を見て」という橋下市長の地方自治観
議会でのやりとりを読売新聞が紹介しています。市長の日常の発言から、本人の思想というものが透いて見えるような気がします。
職員の人事評価の厳格化を目指す大阪市の「職員基本条例案」について審議した市議会財政総務委員会で13日、「市長のお眼鏡にかなう人ばかり集めるのでは」と疑問を呈した市議に対し、橋下市長が「僕の顔色を見て組織を動かしてもらい、後は議会がチェックすればいい」と答弁する一幕があった。
同条例案は先月、市が提案したが、市議会で継続審議となった。この日、共産の山中智子市議が、24区長や局長など幹部の公募制が条例案に盛り込まれていることについて、「側近政治ではないか」と質問したところ、橋下市長は「(職員が)市長の顔色をうかがわなくて、誰の顔をうかがうんですか」と反論した。
橋下市長は条例案の運用について、「(公務員として適格性を欠く職員は)分限処分の制度を積極的に活用していく。メリハリをつけた組織にする」と述べ、市幹部にも方針を徹底するよう指示したことを明らかにした。
橋下市長は委員会終了後、発言の真意を報道陣に問われ、「全体の市民の声を聞き、市政の方向性を示すのは僕(市長)の役割。間違っているなら議会でチェックすればいい」と説明した。
(2012年4月14日17時51分 読売新聞)
橋下市長、職員は「僕の顔色見て組織動かして」
橋下市長がいうように、職員らが市長の顔をみてばかりで仕事をしたらどうなるのでしょう。行政という立場をひとまず離れて一般的に考えてみると、はたして組織はこのようになっているのかどうか。
小さい組織ならいざしらず、トップの顔色を常にうかがい、それによって自分の動き方を判断する会社など、まずないでしょう。組織といえるものであれば、社員は直接の上司に集中するはず。トップの顔色などをうかがっていちいち仕事をすることはむしろない。トップが直接、一社員に命令することももちろんない。これが通常の(組織の)指揮系統だと思いますが。
橋下市長にかかれば、そうではないようです。大阪市という組織というものは、常に市長に集中すべきもの。たとえるなら、市長を中心にした集権的組織とイメージできそうです。なので職員は、顔色をうかがうほどに細心の忠誠心とやらを暗黙のうちに常に要求されている。ですから、彼にとっては、公務員は国民に命令する立場なんて発言も当たり前でなんの矛盾もないということになるのかもしれません(参照)。
しかし、職員が第一義に考えないといけないのは、市長の顔色ではなく、むしろ住民の要求や意見、訴えではないのか。だから、あえていえば顔は、住民の側にむけないといけないのでしょう。
あらためて地方自治体の役割をふりかえってみると、
第1条の2 地方公共団体は、住民の福祉の増進を図ることを基本として、地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする。
と地方自治法には明記されています。
だから、この条文にしたがえば、やはり職員の目線が住民にむけられていてこそ自治体の役割が果たせるといえるのではないでしょうか。
市長のこのような思想は、異なる価値観ならば去れといった発言に一脈通じるところがあるように思います(参照)。
ですから、人事面でも、自分(=市長)に賛成しない職員がいたならば、あるいは顔色をみないで仕事をするようであれば、まさに議会での質問者がふれているようにメガネにかなわない人物として排除される可能性は高いとみざるをえません。
すでに彼の市長就任後、特別顧問・参与が増え50人になり、報酬も倍増したと伝えられています。日頃、住民の生活に直結するものであっても何のためらいもなく費用削減するにもかかわらず、一方でこの重装備が許されるのかという思いがないわけではありません。彼のよく使う表現でいえば、ガバナンスは、こうして取り巻きを厚くすることによって成り立っていますし、これに費用は惜しまない。平たくいえば自分の意に沿う人選で自分の思いのままに統治するという図式がここにあります。
その延長上で、おそらく職員の仕事を考えているにちがいはないだろうと思えます。職員も彼の指示どおりに、思いのままになるような組織づくりの構築をめざしているといえるのかもしれません。もとより、そこに住民を第一に考えるという視点を見出すことはできないでしょう。
都合のいいように民意をもちだしたり、市民が許さないとあたかも市民を尊重するかのような橋下氏の物言いです。しかし、たびたび彼が強調する白紙委任にしろ、職員にむけた市長の顔色を見てという発言も、いずれも彼に備わった住民軽視という基本的な姿勢と表裏のものではないかと思えます。いいかえると、それは、職員には市長の顔色しだいと萎縮させつつ、片方で公務員と住民の関係を命令・被命令の関係でとらえるものです。ようするに、集権的な市役所の組織づくりが他方で住民本位の地方自治を阻害してしまうもので首肯するわけにはいきません。
地方自治体は、住民のいのちと健康を守るためにあるのですから。

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原発と橋下市長
特定の公人や政党を「ヒトラー」「ファシズム全体主義」呼ばわりするのは、相当の根拠をもってからにしましょうね。特に現職の政治家や大学教授などの影響力の高い方が公の場で言うべき事ではない。どぎつい言葉だけが躍って、全く生産的でない。
http://twitter.com/#!/okitahiroyuki/status/190818485658599424
少し迂回しますけれど、「維新」議員がこんなことをのべています、この人は府議会議員のようで、代表の橋下市長への集中する批判に慮っての発言です。なるほどヒトラーだとか、全体主義だとか決めつけてしまう以上、それなりの根拠たるものが求められるという見解は一般論として否定することはできません。問題は、批判されている市長の言動がヒトラーだとかファシズムだとかにたとえるに足るかどうか、ということです。
この点でふりかえると、たとえば市長が価値観のちがうものは去れ、外国にいけといった発言はどうでしょう。これは、つまるところちがう意見の者は認めないというに等しいと考えるのが通常でしょう。仮にも市長なのですから、公共という場に身を置く人間であるはず。この一点だけでも、先の議員があげたたとえは必ずしもまちがいだとはいえないでしょう。
しかるに、では、こういう「維新」議員や市長は、どんな言葉を選んできたのでしょうか。
特定の公人や政党をたとえる際には「相当の根拠をもってから」にしろ
こういわれてしまうと、市議会での「維新」議員団のとった態度が思い浮かびます。この発言にしたがえば、偽造の疑いがある資料であれば、裏をとって質問をするという態度しか選びようがない、これが論理的ではないのか。まったく独りよがりな言説だといわれてもしかたがありません。
影響力の高い方が公の場で言うべき事ではない。どぎつい言葉だけが躍って、全く生産的でない。
市長の発言がこの枠組みから外れるとは思われませんが、その市長は、「現職の政治家や大学教授などの影響力の高い方」として想定されている人びと以上に、どぎつい言葉を連日、連発しているのが現実ではありませんか。
橋下市長も「維新」議員も、ともに他にたいする非寛容の一方で、内輪には徹底した寛容で固めるという点で、他にはみられない際立った政党として性格づけられるように思えます。
さて、その橋下市長。
大飯原発の再稼働に反対だと言明しています。市長もまた重要な人物であることを誰も疑わないでしょうから、冒頭の自党議員の発言に即して考えると発言の重みは否定しようがありません。
ところで、政府のもちだす基準そのものが安全が担保されたものとはいえない、再稼働ありきのにわかづくりの感があるのはメディアも指摘するわけで、安全が強化されたと確認できない現状で再稼働することを認めるとはならないでしょう。だから、橋下発言は、この限りで違和感が生じる余地はありません。
大阪市の橋下徹市長は13日、政府が関西電力大飯原子力発電所3、4号機の再稼働が必要と判断したことを受け、「民主党政権を倒すしかない。次の(衆院)選挙の時に(政権を)代わってもらう」と市役所で記者団に語り、民主党政権への対決姿勢を鮮明にした。
橋下市長はその理由について「(内閣府の)原子力安全委員会に大飯原発が安全なのかどうか、コメントをしっかり出させないといけない。(安全委は)ストレステストの一次評価の結果を了承したが、安全だとは一言も言っていない。民主党の統治のあり方は危険だ」と説明。そのうえで、「次の選挙では絶対(再稼働)反対でいきたい」と次期衆院選で争点に据える考えを示した。
安全委の班目春樹委員長は3月13日、同原発のストレステスト(耐性検査)1次評価について、「(経済産業省原子力安全・保安院による)審査手法に問題はない」と了承したが、安全性評価は不十分との見解を示していた。
(2012年4月13日22時50分 読売新聞)
大飯再稼働、橋下市長「民主政権倒すしかない」
その上、現政権の打倒まで踏み込んだ市長発言ですから、なかにはやんやの拍手を送る人がいるのかもしれません。
打倒というのですから、それは次期選挙で与党を少数に追い込むことを意味しています。なんとも勇ましい話です。
しかし、他方、こんなニュースも伝えられています(参照)。これが正しいとすれば、選挙戦術上、衆目を集めうるに足る論点として原発をとりあげたということになる。だとすれば、安全を確認し、不安を取り除きたいという現地の住民のみなさんの思いとは別に、自党の勢力拡大を目的にした宣伝といってもあながちまちがいではないということになるでしょう。
ですから、なおさら橋下市長には、まず再稼働に反対とすでに表明しているわけですから、その姿勢をずっと貫いてほしいものです。なによりも地元住民の意思を第一義的に尊重する立場を今後も維持するよう望みたい。
もっとも、現状は、あまりにも拙速な政府の対応に引きずられた格好です。原発稼働ゼロは、そこからの回復させるのには相当の力仕事になるために、現在稼働している泊原発の定期検査前に決着をつけたいという意向があると伝えられています。まさに、地元をないがしろにした承認しがたい姿勢です。だから、橋下氏にとっては格好の攻撃対象になっている。
橋下氏は、明確に再稼働反対を表明したわけですから、冒頭の議員の言葉にあるとおり「影響力の高い」立場にあるわけでしょうから、責任がともなう。氏は8要件(参照、*)というものを再稼働の条件にしているようです。別のことばでいえば、その要件が満たされなければ、再稼働に反対するということです。
ですから、そうであれば、仮に再稼働が政府の手によって現実のものになったとしても、橋下氏の態度は当然ながら今後も同じものでなければならないものだといえます。
橋下氏発言は重い。だから、その立場を選挙後も貫いてほしいものです。
* 再稼働について橋下市長はこうつぶやいています。「電気が足りない、原発が止まったままだと日本がダメになる、色んな理由で原発早期稼働を主張する人達がいる。そういう意見もあるだろう。しかし待って欲しい。動かすにしてもその手順と言うものがあるだろう。手順こそが民主主義そのものだ」。この限りで、現政権の拙速さを批判しているものと思えます。

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「議員活動の自由」と橋下市長の憲法観
この件は、エントリで強調したように、単にリストを捏造したことに矮小化してしまうと見誤ると私は考えてきました。別のいいかたをすれば、捏造があろうとなかろうと、調査をすることの是非が厳しく問われないといけないと考えるのです。思想調査を指示したこと、および調査をアンケートという形式で具体化し、実行したことが憲法に反する、これが橋下市長に今も問われているのではないでしょうか。
一方で、橋下市長は終始、当該の議員を弁護しつづけるようです。その際、組合は公務員の団体だからという「理由」を強調しています。これをそのまま受け容れてよいものかどうか、大いに疑問が残ります。
大阪市交通局の元嘱託職員(解雇)が、昨秋の大阪市長選で前市長の支援を求める労組名義の職員リストを捏造した問題で、元職員からリストを提供された地域政党・大阪維新の会の杉村幸太郎市議が12日の市議会で、「(議会で取り上げ)お騒がせしたことを市民や議会におわび申し上げる」と謝罪した。
他会派の議員から「組合がリスト作成に関与したと決めつけた」と維新市議団の責任を追及する声が上がったが、維新代表を務める橋下徹市長は「役所や公務員の悪口を言うのが議員の仕事。組合は公務員の団体で、個人攻撃をしたわけじゃないから問題ない」と反論した。(2012年4月12日18時43分 読売新聞)
捏造問題で維新市議謝罪…橋下氏「議員の仕事」
「役所や公務員の悪口を言うのが議員の仕事。組合は公務員の団体で、個人攻撃をしたわけじゃないから問題ない」というのが彼の主張。たしかに市労連の組合員は公務員に違いありません。ですが、市の職員という身分で公務員であることと労働組合員であることは同じものでないことは誰でも分かるのではないでしょうか。
同組合員ならば公務員ですが、市職員なら組合員とはならない。
なにより、労働組合は任意団体であるとはいえ、大阪市とはまったく別の、独立した団体であることは明白です。いくら市長といえども労働組合にたとえば業務命令を出すような理不尽をとおすわけにはいかない。
捏造がメディアにとりあげられた際、彼は下記のようにものべていました。
労働組合を税で支えられている集団だとは、すり替えもはなはだしいかぎりです。あえて付け加える必要もないのでしょうが、労組が組合員からの組合費で成り立っているのはいうまでもありません。
もし一般市民の事柄に関して事実誤認があれば、これは問答無用で謝罪をすべきであろう。しかし今回は、公務員の労働組合と役所に関することだ。市民から見れば、税で支えられている集団に変わりはない。杉村市議は役所と公務員の活動をチェックしていたのだ。
https://twitter.com/#!/t_ishin/status/186010086823571456
ここで、橋下市長は国会議員の発言の免責特権をとりあげています(*)。しかし、これとて、たとえば議員の発言で名誉棄損の被害を受けたと思うのなら、国にたいして損害賠償の請求が可能なはずです。
国会議員の院内活動については憲法上(51条)免責特権を与えられているほどだ。もちろん地方議員にはそこまでの保障はない。しかし、議員が役所をチェックするにあたって、その議会活動は最大限保障しなければならない。
https://twitter.com/#!/t_ishin/status/186009822100066305
だから、捏造をもとにして組合の関与と断定した当該議員の質問がその責任を問われないということを意味しないでしょう。この捏造リストを使用して質問したことについて即座に組合に謝罪すべきだったのです。
いうまでもなく、この捏造事件は、橋下市長自身が業務命令で指示した職員アンケート調査という思想調査と無関係ではありません。
この件では、すでに市特別顧問の野村弁護士がマスコミに公開の上、回収したアンケート用紙を廃棄したようですが、そんなものでおしまいにするような問題ではないと思えます。
橋下徹大阪市長の意向で職員の政治活動や組合活動の実態を調べた市特別顧問の野村修也弁護士は6日、職員に組合活動への参加歴などを尋ねたアンケートを未開封のまま廃棄した。
野村氏は市役所地下の駐車場で職員組合関係者が見守る中、封筒に入った回答をシュレッダーにかけたり、回答データを保存したDVDを金づちで破壊したりした。
記者団に「アンケート内容に微妙な部分があり、市長の業務命令と一体になって大きな負担感を与えてしまった。やり方にもう少し配慮すべきだった」と述べ、設問や橋下市長が業務命令で回答を義務付けた調査手法に問題があったことを認めた。
大阪市の職員アンケートを廃棄 「手法配慮すべきだった」
たとえばこの記事で同弁護士のコメントをみると、
- アンケート内容に微妙な部分があった
- 市長の業務命令と一体になって大きな負担感を与えた
- やり方をもう少し配慮すべきだった
この3点からなっています。調査用紙の処分は当然、市長とも協議した上での判断でしょうが、結局のところ、やり方を工夫すべきであったとコメントはいっているにすぎません。職員の思想・良心の自由にかかわる事項を全職員を対象にして回答を義務づける肝心の調査についての反省がまったくここにはありません。たしかに「微妙な部分があった」とはのべてはいますが、違憲について一言ものべていないことに注視しないわけにはいかない。
調査はいうまでもなく市長が指示したものです。野村弁護士のコメントでは、市長の業務命令にもふれざるをえませんでした。ところが、調査に拘束力をもたせて職員の思想・良心を聞き出そうとした市長の行為そのものにたいして、市長は、謝罪も反省も未だにしていません。
橋下市長が就任してはや5カ月が経過しました。当ブログではこの間、彼の言動が今後の日本の政治に与える影響は少なくないと考え、集中してエントリで扱ってきました。
気づかされるのは、彼の憲法観にはばしばしば首を傾げざるをえなかったことです。多くの人がご存知のように憲法9条を改定すべきだと彼は考えているようですし、教育や文化・福祉に大ナタを入れる際の発言の一つひとつが憲法を尊重するというそぶりは微塵も感じられないばかりか、それを敵視するかのようにさえ思えることが少なくありません。個人的には、そのどれもがとても法律家とは思えないほどのレベルで酷いものだと感想をもってきました。
まさに今、一つひとつ彼の言動には関心を寄せ、不当なものは不当として指摘することがますます重要にはなっても無関心であってよいという余地はないように思えます。
* 第51条 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。

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