森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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自衛隊のソマリア沖派遣を急ぐわけ
なかには、オバマ氏自身についてカッコいい、時代に敏感など、日本国民にインタビューして答えさせるなどの念の入れようです。これが日本社会の現実なのでしょうか。
不安に思ってきたのは、オバマ氏の、あるいは米国民主党のといってよいのかもしれませんが、対日政策の点です。世間の、ある意味で手放しのオバマ礼賛の風潮のなかで、すでにオバマ政権が前ブッシュ政権とほとんど変わらないと指摘する論者も生まれているようですが、私の不安は、むしろ麻生政権の外交・防衛問題での対応によって、いっそう増幅されているのが現状です。
たとえば、ソマリア沖への自衛隊の派遣。
海賊対策だといえば、一般人に危害を加えるという、海賊という言葉に内包される意味を前提にするとなるほど聞こえはよいが、はたしてそういうものなのでしょうか。
ソマリアの海賊対策を盾にとって、自衛隊というものがいかなるときでも、地球上のどこにでもでかけることが可能なようにするための、前例づくりのように私には思えます。地球儀を眺めてみれば分かるとおり、ソマリア沖での海賊の蛮行が日本への直接的な影響をあたえることはまずないといえます。そうではなく、海上での治安、人身の安全などは現行法では海上保安庁のもののはずです。自衛隊の行動は、それらの任務にてらし、海上保安庁の能力を超える場合に限定されてきたと解釈できるでしょう。しかも、日本近海が前提となる。だからこそ、いわば「遠征」に、(海上での)捜査権のある海上保安庁を同乗させるのでしょう。
一般に海賊の行為というものは犯罪行為であって、戦闘行為とは解釈されないでしょう。だから、警察活動の強化こそ求められているのでしょうが、そのために国際的な警備活動強化のための財政的・技術面での協力体制が今、求められていると解せます。
ほとんど唐突ともいえるようなソマリア沖への自衛隊派遣を、オバマ政権誕生のこの時期に浜田防衛相が表明する事態に思うのは、冒頭の不安にかかわっています。不安は、民主党オバマ政権が、よりいっそう日本にたいして「日米同盟」を盾にとって、日本の役割を強調し、肩代わりを求めるだろうということです。
今回の、わけのわからぬうちに自衛隊の行動範囲をなし崩し的に広めようとする麻生内閣の態度に、それを読み取ることが可能だと私は思います。
世界の趨勢にてらしても奇異な、どこまでも米国の顔色をうかがうような、日本の従属的な関係がこれでよいのか、いよいよ問われています。
(「世相を拾う」09028)
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【関連エントリー】
オバマのナイ起用に対する懸念
オバマ当選に思う
追記;シーファー駐日米国大使が、日本は貢献を求められるまで待つべきではなく、日本からイニシアチブを発揮して国際社会の協調行動に参加する意思を示すことが「強力なメッセージとなり、新政権と関係を始める上でこれ以上よい方法はない」と離任を前にのべたというのは示唆的です。
湯浅誠スピーチ- 社会を社会たらしめ、単なる人間の群れではない位相を
90年代は、野宿の問題は自己責任論で片付けられてきました。問題の本質を直視しないうちに、貧困がどんどん広がってしまって、中間層に迫っている。自己責任論で片付けているだけでは問題はむしろ悪化するばかりだと、昨年暮れからの派遣切りで明らかになりました。 もちろん一気に政治や社会の見方が劇的に転換することはありません。個別対応・社会運動・政治的な折衝に同時に取り組まないと事態は好転しません。 貧困とは、単にお金だけではなく、豊かな人間関係や精神的な自信までも失って、生きる希望を見いだしにくくなる状態です。そして知的な、技術的な要素も含まれます。高度な知的財産と技術を保有した人たちが、その“溜め”を社会全体のために底上げするようにして活用する。私は、そのような循環を夢想しています。 論壇の役割は研究と教育、そして知識の普及・還元があるでしょう。市民としての責任と言ってもいい。知識を普及し、他人と補い合って活用し合っていくことが、社会を社会たらしめ、単なる人間の群れではない位相を作り出すと思います。 (『朝日新聞』090129) |
簡潔ながら、含蓄深い。
貧困が自己責任という言葉でにべもなく処理されてきたのは今日だれでも気付くことなのでしょうが、たとえば「個別対応・社会運動・政治的な折衝に同時に取り組まないと事態は好転し」ない。これは、実践家でないと、語りえない言葉でしょう。
昨年、とくに顕著になった反貧困ネットワークの際立った行動は、湯浅氏が語るように、金融危機というある種特殊な条件によって表出した今日の資本主義の抱える問題をとらえ、告発してきました。それから、同じ年末の「年越し派遣村」の短期日の経験は、湯浅氏のいう「個別対応・社会運動・政治的な折衝」という三位一体の実践と、その力を私たちの前に鮮やかに示したのではないでしょうか。
派遣労働者が、派遣労働者でなくなった瞬間、自らのこれまでを相対化して、これまでの自分を振り返るのはなかなか困難をともなうようです。派遣村と同じような実践を通して、報告されるのは、そこに訪れた元派遣労働者がただちに過去の自分を、過去の自分の派遣労働と客観的に、相対化してみつめることができるとは限らない。派遣村でもおこなわれた相談に訪れたとしても、最初はとりとめのない話が続くというのです。そのうちに、相談する側と乗る側の壁がなくなったと、相談する側が感じ取ったその瞬間から、実は相談する側の、ほんとうの相談がはじまるというのです。分かりやすくいえば、最近は寒い日が続きますねという話しではじまり、一定の時間を経て、実は、自分の身上に話が及ぶというわけです。それから、明日からの生活のめどがまったくないこと、どうすればよいのか、という具合に。
考えてみると、派遣の実態は、個々の労働が寸断されている。相互の関係、位置を確かめるのはむずかしい。人間関係が成り立たない。孤立しているのでしょう。コミュニケーションが存在しない世界だともいえるでしょう。
これを、湯浅氏は、豊かな人間関係や精神的な自信までも失って、生きる希望を見いだしにくくなる状態としてとらえ、貧困の強い一面だと主張していると思えます。
つまり、反貧困のネットワークは、貧困をなくそうと主体的にかかわろうとする人ばかりではなく、現に解雇・派遣切りという被害にあった人がそのなかに入ってこそ、力をうる。そして波が広がる。関係がつくられる。この繰り返しが、個別対応・社会運動・政治的な折衝のレベルを引き上げていくのではないか。
「社会を社会たらしめ、単なる人間の群れではない位相を作り出す」作業の一つがここにあると私は思います。
(「世相を拾う」09027)
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たらい回し報道とメディア
生活保護相談者を「たらい回し」 伊東→熱海→小田原 生活保護を受けようと役所を訪れた相談者に対し、住民票がないことを理由に他の自治体に行くように仕向けたとして、NPO法人自立生活サポートセンター・もやいは28日、静岡県伊東、熱海両市に「生活困窮者のたらい回しをやめて」と書面で抗議した。 …… |
たらい回しという言葉は、メディアが率先して用いて、熟したそれになりました。その場合、私たちの多くが想起するのは患者のたらい回しということでしょう。カッコつきの「たらい回し」ではなく、最近まで純粋な、むきだしのたらい回しとして語られてきました。つまり、この言葉のもつ響きは最初からネガティブなもの。否定すべきものとして、医療機関の、医師の「たらい回し」がマスコミによって忌み嫌うものとして衆人の前にさらされてきたといえます。
結局、記事になれば、あらかじめマスコミは医療機関の、あるいは医師の行為を否定し、断罪すべきものとして扱っている、こう考えてまちがいはありませんでした。
しかし、批判の矢面にさらされてきた医療機関や医師の地道な反論がしだいに知られるようになり、いつのまにかカッコをつけて語らざるをえないところまで、マスコミが押し返されてきた、これが流れでしょう。
そして、現場での患者の受け入れが可能ならざる現実は、何よりも政府の社会保障切り捨て政策に結びつくことが次第に知られるようになって、カッコなしのたらい回しを目にすることはめったになくなり、せいぜいカッコつきの表現か、あるいは医療機関・医師側の主張のように受け入れ不能と記すのが趨勢になったのではないでしょうか。
対する冒頭の記事の場合は、どうでしょう。
記者はこれにカッコをつけています。一般に、単語にカッコをつけて表記するとき、我われはそこに特殊な意味を付加します。たいていは、カッコをつけることで、本来のその語のもつ意味とはまったく反対の意味をもつ場合になどのように。たとえば、税制「改正」と表記した場合、それは税制改悪をほとんど同義だと考えてよいように。意味が反転しているのです。
だとすると、冒頭の記事はどうでしょうか。
記者は、カッコつきで表現している以上、この場合の行政の姿勢を本来のたらい回しとは別物、異なるものだと少なくとも判断したということでしょうか。本人に聞いてみなくては、正直なところはっきりしませんが、あえてカッコをつけて標記していることをみれば、記者はいわゆるたらい回しとは別物を想起しているにちがいない、こう考えざるをえません。
この記者の判断は正しいのでしょうか。
私は、そう思いません。これこそたらい回しと断定してもよいと。
こう思うのです。
たらい回しとは、近づいてくる人、モノを拒絶し、排除すること。こう解釈すれば、記事が伝えるのはそれ以外の何者でもない。何かを求めて近づいてくる人に寄り添うのではなく、有無をいわさず否定する、コミットしないというあからさまな意思表示を示したところに、いくつかの行政の姿勢の共通点がある。
けれども、自治体、すなわち行政のとる姿勢というものは、地方自治法に示されている一つひとつに準拠しないといけないのでしょうから、そうすると、自治体は、本来、住民の健康と安全を守るべき存在、こう考えてよい。だとすると、この記事のような行政の態度は、本来の自治体のとるべき行動とは乖離していたと判断せざるをえません。
私たちは、たとえば生活保護に関して水際で受給申請を排除するような厚労省の指示が通達という形で徹底されてきた事実を知っています。すなわち、自治体は、先にのべたように、本来の自治体のとるべき指針が地方自治法に明記されているとすれば、それとは相反するような厚労省通知にこそ従順であったといわなければなりません。
結局、この記事が表現する「たらい回し」の事実は、厚労省の社会保障削減と密接に結合していて、その方向は、現場でカッコつきでない、真のたらい回しという行為で弱者を、(弱者の)希望するものから遠ざけ、排除するものにほかならないといえそうです。
こう考えると、マスメディアの仕事に、連続性、一貫性というものがあると考えられるのしょうか。
つまり、医師の(患者)受け入れ不能についても、この記事のように役所、いいかえると行政の困窮者排除も、同じたらい回しという言葉でくくって表現する。しかも、患者受け入れ不能も、この弱者の窓口からの排除も、根底には社会保障切り捨てが密接に絡んでいるという点で共通するにもかかわらず、片方にはカッコ抜きで正真正銘のたらい回しと表現し、一方ではまさに本来のたらい回しにもかかわらずカッコつきで表現するという矛盾はどう解消されるべきなのでしょうか。
メディアに求められているのは、いくつかの事象に通底する本質を明らかにし、それを読者に提示し、評価、判断を促すことにあると私は考えるのですが。
我われ自身の情報(の多く)が、極度にマスメディアから発信されるものによらざるをえないという、ある意味で決定的な陥穽をはらまざるをえません。
だから、このようにえてしてメディアとは、連続性、一貫性において不安定な存在でもあるということを知っておいて損ではありません。
(「世相を拾う」09026)
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消費税増税のエンジンを止めるために
私は、これまでのように、単に社会保障財源のための増税という強調の仕方ではなく、消費税増税のために社会保障の機能強化などをむしろ前面に押し出し、充実のために増税が必要だという強調の仕方に変わっていることについてのべましたが、同プログラムはそうした手法に則った文脈になっていると思います。
とはいっても、麻生首相の命運は2011年までは到底見通せるものではないことは衆目の一致するところではないでしょうか。だから、ある意味では無責任ともいえる。けれど、歴代の自民党政権は、消費税増税を国民に問うたことはありません。そうではなく、選挙の際には増税しないとのべ、争点にもせず、(消費税関連)法案を多数を借りて強行してきました(参照)。
しかし、あえて、政府が強行採決からちょうど20年になるその日に、消費税増税と実施のためのロードマップを閣議決定したことが、消費税増税という課題が政権を担う自民党にとっては、当面の重要な政治課題だという位置づけを示唆しています。別のいいかたをすれば、それだけの決意がそこに示されているとみてよいのかもしれません。
より正確にいえば、自民党が重要な政治課題として位置づけるのは、財界・大企業の強い要請に沿うためです。財界は、すでに「税・財政・社会保障の一体改革「提言」を08年10月2日に発表しています。つまり、財界・大企業にとってこそ、消費税増税は不退転でのぞむ課題なのです。ですから、安倍も、福田も消費税増税をのべ、そして麻生政権もまた、打ち出したというわけです。つまり、消費税増税は、財界・大企業を優遇する自民党政治の今日的な根幹政策といってもいいでしょう。麻生以後の政権もまた、消費税増税から逃れることはできないのです。政権交代が仮になった場合でも、民主党は早晩、消費税増税をいいだすにちがいないと推測します。
「中期プログラム」は消費税増税のための推進エンジンです。推進エンジンはただし、これにとどまりません。09年度の与党税制「改正」大綱です。ここでは、海外子会社の利益を非課税化する証券優遇税制の延長などを盛り込むなど、より露骨に優遇姿勢を強調しています。
「中期プログラム」と与党税制「改正」大綱と、09年度予算案はけっして脈絡がないものではありませんし、昨日の麻生氏の施政方針演説は、「中期プログラム」と「中期プログラム」という二つのエンジンを駆動させて、消費税増税までいきつこうとする自民党の意図をあらためて明確にしたものと指摘することができます。
財界・大企業が望むのは消費税増税という終着点です。そこでは、冒頭のプログラムに明記されているような国民に増税を強いる一方で、企業の税負担を抑えるための財源を確保しようというものです。これまでの輸出戻し税という優遇、法人税増税に眼がむかないようにし税負担を回避する手段-という消費税は、二重の意味で財界・大企業にとって欠かせないものとしてあるのです。
二つのエンジンが駆動できないようにしなければなりません。
それは、財界・大企業のこれまでのふるまいを直視することからはじまります。新自由主義諸政策と労働者派遣法の改悪は、極端な富の集中の要因として機能しました。
同様に、税制面では、この間の消費税(増税)が応能負担という点でみれば、いいかえれば払うべき者が応分の負担をする点でみても、いかにゆがみをつくってきたのか、審判をくだすのは国民ではないでしょうか。大企業にモノをいわなければなりません。
所得の再分配を認めるならば、これはただちに正さなければならない事態に日本は直面しています。
財界・大企業は応分の負担をせよ-こう迫って、実現させることが必要だと考えるのです。
(「世相を拾う」09025)
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*1; 日程表を簡略化すると、つぎのようになるのでしょうか(参考図)。図は、「消費税をなくす会」の『ノー消費税』から。
【関連エントリー】
消費税増税のための、与謝野氏の方便がここにある。
消費税増税- 口実を変えた政府
連合「ブーイング」サイト閉鎖- さもありなん。。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009012800062 (参照)
仮にも労働組合なのですから、労働者の、あるいは組合員の不満に耳を傾けるのは当然でしょう。しかし、組合は、それを要求として束ねて改善を迫ることに本来の役割の一つがあるのではないでしょうか。その意味で、不満を不満として受け止めるだけでは、もとより限界がある。
そうではなく、不満のなかにおそらくは個々の労働者が解決してほしいと内心、考えている個別の問題が存在する。それを政策化し、使用者に、あるいは行政に迫る、これが最も大事なことであったと思えます。
ですから、このニュースが伝えているところから判断すると、連合のやったことは、ほとんどマスメディアが往々にして企画する人気取りの番組程度と断じてしまっても、あながちまちがいではなかろうと思います。
ネーミングがそもそもおかしい。「全日本ご不満放出選手権 booing.jp」。いかにもという名前です。不満を放出させて以降、これにどう連合が対処したのか、不明ですが、記事の文脈からすると、手をつけきれないまま、不満は放っておかれたと推測できる。その意味で労働組合としては無責任のそしりを免れないと私は考えます。
これだけの景気悪化にあいまって、現に多数の労働者が首を切られています。大量首切りの様相はほぼ固まりつつあるのではないでしょうか。だから、将来への不安が高まる一方、もちろん不満も鬱積するのでしょうが、いま大事なことは、解決の道を当該の労働者とともに探っていくということでしょう。あえていえば、今こそ労働組合の本領発揮が求められているのではないでしょうか。
不満のなかには、連合を頼って連絡した人もあるでしょう。その声を連合はどのように受け止め、どのようにしようとしたのでしょうか。
労働者に寄り添うことが組合の生命線だとすると、連合の姿勢はそれとは異質のもので、その生命線を自ら放棄するような行動に出たと考えざるをえない。
連合に、闘えと迫るのはここでは措くとしても、労働者に寄り添え、こう迫らざるをえません。
それなしには労働組合として存在しないし、存在しても、それは労働組合に似て非なるものではないでしょうか。
年越し派遣村などで、形はともかく共同の機運も芽生えはじめている今日、連合にも一ふんばりを期待したいのですが。。
(「世相を拾う」09024)
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景気悪化、不況から身を守るために
社会保障関係事業の総波及効果は全産業平均よりも高く、「精密機械」や「住宅建築」と同程度となっている 社会保障分野、特に介護分野は労働集約的であることもあり、その雇用誘発係数は、収容産業のそれよりも高くなっており、社会保障関係事業には高い雇用誘発効果があることが分かる |
それならば、たとえば介護報酬を現状のままに止めていたのではつじつまが合わない。もちろん報酬改定を予定はしているのだが、改定幅が3%程度では間尺にあわないのだ。介護事業所も、介護労働者も余裕はみじんもないのが現状だろう。
介護という分野が独立した部門としてかつて出発するとき、介護労働者は、個々の働きがいや社会的使命感をくすぐるような言葉、宣伝文句をかけられ、仕事に就いてきたといえる。しかし、現実は、低賃金、過酷な労働に象徴されるように、そんなものでは少しもなかった。
前回のエントリーで、社会的承認の不在についてふれた。むしろ、介護労働者は形式的には承認された職種であったはずなのに、その扱いたるや、承認にふさわしいものとはけっしていえない。給料というものが、生活の糧であって、同時に、自分がどれだけ必要とされているのかという指標であるのなら、介護労働者は、社会から必要とされているとはとてもいいがたい扱いを受けているし、きたことになる。
だから、冒頭の厚労省の認識には私は賛成するが、言葉どおりに受け止めれば、たとえば雇用を確保することは、すなわち社会保障費の拡大を意味している。論点の一つはここにある。
話を冒頭に戻すと、つぎのような動きは、厚労白書の認識にもとづく具体化とも受け取れる。
失業者を保育所で雇用、資格取得も支援…厚労省検討 |
このような論立てをすると、たちまちそれでは社会保障費をまかなうために消費税をとなるのが、政府の言い分である。ふくらむ社会保障費をどうするのか、こういった問題意識自体は少しもおかしくはない。
しかし、最近では、消費税を単に社会保障のための財源にという従来からの宣伝だけではなく、メニューを示して社会保障の機能を高めるためにという触れ込みで消費税増税を叫んでいることに注目しなければならない(参照)。社会保障国民会議の議論をみよ。
国民が景気悪化、不況から身を守るための論点のいま一つは、健康を維持するためのセーフティネットにかかわる。
年越し派遣村の報告によっても、派遣切りにあった人が、派遣村のことを聞いて、日比谷公園まで遠距離を歩いてきた人もいるようだ。その日をどう乗り切るか、いわば命を賭けた毎日を解雇以降、味わった人が無理をしてでも派遣村に駆け込まざるをえなかった。雇用を確保する上での企業の責任に再三ふれてきたが、それを横におけば、彼ら労働者を救うのは本来、行政の仕事であってしかうべきだ。それを民間が、限界があるなかでもやらざるをえないところに、日本の「政治の貧困」がある。そこで必要なのは、生きていくための前提条件である雇用とともに、生命体の維持、つまり健康を彼らにとりもどすことだ。
日本医療政策機構は、
費用がかかるという理由で過去12カ月以内に「具合が悪いところがあるのに医療機関に行かなかったことがある」人の割合は、「高所得・高資産層」の18%に対し、「中間層」で29%、「低所得者・低資産層」では39% |
と調査結果を報告している。
前年にも同様の調査をおこない、ほぼ同じ結果だったという。つまり、経済格差が受診抑制をもたらしているのだ。
この結果から、非正規労働者の解雇によって、受診抑制が起き、彼らの健康が阻害されていることが容易に推測される。実際、派遣村に集まった人のなかには重症と判断される人もいたようだ。
一方的な解雇によって、職も住も奪われた人びとを救うために、彼らの受診機会を保障することが不可欠となっている。国民皆保険といいながら、住民票がないと、国民保険に入ることもできない。生活保護を受けるにもバリアがある。当面、住居が必要な人には緊急の避難所を、受診が必要な人には医療扶助でも可能な条件をつくるなど、段階的で柔軟な対応が行政に求められるのではないか。
社会保障を充実させるのは、差し迫った課題だと私は思う。高額な保険料が少なくない無保険者をつくる。いったん解雇された派遣労働者は、職も住も失う。それどころか、健康をなくし、明日の命も危うい事態に直面することになる。湯浅誠氏がいうすべり台という社会に我われはあるのだ。命も失いかねない解雇、派遣切りだという認識が必要ではないだろうか。
政府・厚労省の文脈からは、だから社会保障の機能を高め充実させるために消費税増税が要るということになる。しかし、経済格差がすでに受診抑制をもたらしている現実、すなわち健康格差を生み出している現実は、社会保障というものが、そもそも経済格差を強調する方向に左右するのではなく、所得の高低を修正し、高い方から低い方に左右するようなものにしなくてはならないことを示唆している。所得の低いものは受診するできない日本になってしまっているのだから。住居も定まらない、いわば底辺に落とし込まれた人たちは、そのことで保険をつくることも、生活保護を受けることすらままならないわけだから。
その意味では、明らかに高い所得の人びとも、低い所得の人びとも同じ税率でかかってくる消費税というしくみそのものを問わないといけない。
応能負担の原則を貫くことこそ、社会保障充実にふさわしい考え方だと私は思う。
(「世相を拾う」09023)
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雇用を減らして成長できるのだろうか
非正規労働者の得た賃金のうち多くは消費に向かう。賃金が低いわけだから、貯蓄に回す余裕などない。だから彼らの賃金を上げることは、さらに消費を高める効果があるということだ。
社説:マイナス成長 萎縮の連鎖を食い止めよう 経済の急激な下降を示す数値が相次いでいる。国際通貨基金(IMF)や国内の民間調査機関のほとんどが、日本がマイナス成長に陥ると予想している。日銀も経済見通しを修正して、08年度がマイナス1・8%、09年度がマイナス2・0%の予想に改めた。 |
ところが、派遣切りが横行するなかでは、消費需要は一時的に大幅に減るために、企業は、設備投資も控えるだろう。不況はいっそう深刻なものとなる。派遣切りで利益確保を追求しようとする企業の態度が不況をさらに深めるのだ。ここには負の循環がある。個々の企業が利益確保を目的に派遣切りや正社員の解雇をすすめると、消費が減退し、マクロ的にはそのことが不況をさらに深刻なものにし、全体として企業の業績も悪化するというものだ。
冒頭の経済見通しが日本のマイナス成長を指摘するのは、このためだ。
企業にとって、目標とする利益を確保するために最大限、思いどおりに、つまり使い勝ってよいように、非正規労働者は扱われてきた。最近までは、まさに非正規労働者は利益をあげるための欠いてはならない構成要素であったはずだ。けれど、もともと非正規労働者の配置は、誰でもできる仕事とされている。給料も高くない。一般に、給料というのは、使用する側からみると、企業がどれだけ必要としているのかという指標でもあるし、働く者からみると、それは、生活の糧でもある。実際には、最大限の利益追求が非正規労働者の存在なくして不可能であったという事実の一方で、働く側からみると、支払われる賃金が生活の糧というには最低水準であるはずの生活保護基準にも満たないという実態は、労働者に、いなくてもいいんだという実感を、つまり企業から自分は(おまえなんかの代わりは)いくらでもいると、はき捨てられるようにいわれているのと、同じ感覚を抱くにちがいない。自分が社会的に承認されていないと、主観的にはとらえざるをえない。企業の利益追求にとって不可欠であるという自分の存在とその扱いの差異に、社会的不承認をみてとるのだ。
そして、彼ら非正規労働者は本来、余剰の部分でもある。これを、以前のエントリーで産業予備軍と私は表現したが、現状以上の利益確保をも込めるときには、生産をあげるためにこの余剰部分から企業は労働力を吸収し、確保する。逆に、不況に直面すれば、その限りでで目標とする利益を確保するためには生産を縮小し、非正規切りを実行する。秘蹟労働者はまた予備軍という枠組みに戻される。一企業の行動はおよそこのようにえがけるのだろうが、一企業のこうした行動は社会全体からみれば、先にのべたようによけいに消費需要の低下を招くことになるわけだ。
引用した毎日社説は、最後のパラグラフでつぎのようにのべている。
民間企業はいっせいに緊縮に走っている。しかし、不安心理の増幅が連鎖すれば経済は萎縮(いしゅく)を続けるだけだ。こういう時期だからこそ、人々が感心するような商品やサービスを投入するなど、少しでも先行きが明るくなるような活動を期待したい。 |
結局、「合成の誤謬」という言葉を多くが知っているが、それが当たっているとすれば、個々の企業の現に取る行動はその範疇のなかにある。毎日は以上の表現にとどめているが、多額の内部留保を貯めこんでいて、自らの目標にのみ拘泥しつづけ、雇用確保を一顧だにしない企業の姿勢を問わないでは事態は改善しないのではないか。
(「世相を拾う」09022)
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山岡賢次氏は民主党の体現者または民主党の腰砕け。
こんな疑惑がどんな形で回収されようとしているのか、そこに私の関心はある。
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090124ddm041010098000c.html
結論をいえば、あれだけ4野党が共同して第二次補正予算案について徹底審議で臨む構えで一致していた矢先だけれど、一転、民主党は法案の26日採決を受け入れたのだ。これでは、共同をないがしろにし、党略を優先するといわれてもぐうの音も出ない。民主党の変わり身は早さには、しばしば驚かされてきたが、その繰り返しをまたもややってのけたということだ。真義にもとる。この党には、はたして共同の姿勢があるのか、それを問いたい。民主的とは到底いえないだろう。
民主党といえば、諸説存在することがあたかも同党の民主性を証明するかのような議論がある。同党を推す人からはしばしばそんな意見を聞く。しかし、考えてみるとよく分かるが、近代の政党であれば党の政策が二つあってはならなし、どの党にも意見のちがいは大なり小なりあっても政策は一つだ。この党は、分野ごとに一つにまとまるはずのものが、まとまらない。だから、個別の問題で政党の対応を記者たちに問われた場合、しばしば鳩山幹事長が先送り発言をするのはそのためだ。まとまらないのだ。一つの立場をのべれば、それが割れるのだ。こんな日常にあるのが、つまり民主党だともいえる。
さすがに今回の腰砕けには、共産党はもとより、国民新党も抗議している。当たり前の話だ。それぞれ主張が異なる政党が、国会対応方針も個々にみれば隔たりのある政党が、第二次補正予算の基本的な問題点について共通の土俵に立って、徹底審議を求めるというのだから。
徹底審議自体は、法案を審議するのが国会の役割の一つである以上、基本にせざるをえない立場だろう。
この民主党の態度変更を、自身はどのように説明するのだろう。
元に話を戻せば、ならば採決に合意するという変身には、山岡氏への(与党の)追及をかわそうとする魂胆がみえすいている。そんな自らの事情を、野党の共同より優先し、共同を反故にする姿勢は重大だととらえたほうがよい。
こんな思考方法、体質が同党にはある。
政権交代の主張に端的なように、「顔」や形だけにとらわれ、その中身を一切問わないという民主党支援者たちにも私は呆れるのだが、政局には敏感で、変わり身が早く、他者との、つまり他の政党との一致点など、そっちのけにしてはばからない政党が、政権をとっても危険きわまりないだろう。
政党を転々としているのが小沢氏、その小沢氏の側近が山岡氏。やはり山岡氏も転々としている。自民党から新生党、その後、新進党、自由党へと移り、民主党には03年から入った。これだけの履歴は何を語るのか。
山岡氏は、まさに民主党(が何者か)を体現する一人だと思っている。つまり、彼の履歴に意味があるとすれば、自民党から新生党、新進党、自由党、民主党の重なり合う部分、最大公約数的な部分以外にはないだろう。それは、これら5つの政党が些末の部分で異なってはいてもほとんど違和がないか、あるいは、四度も「転向」しても平然としておれるような人格の分裂を山岡氏が内包するのか、のいずれかだろう。つまるところ、山岡氏には胡散臭さが離れない。
同党の幹部の一人ひとりを追ってみると、山岡氏とどうような軌跡を描く人物が少なくない。
民主党が政局をみるに敏で、変身が早いのは、同党を支える幹部連中の一人ひとりの履歴に暗示されているし、その総合でもあるのではないか。
ともあれ、民主党と山岡氏は事実関係を説明しなければならない。
(「世相を拾う」09021)
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派遣村の経験とそれをめぐる攻防
事態はしかし、派遣だけにとどまることなく、正社員にも解雇予告が及んでいる。ここにいたって、非正規ではないから大丈夫だろうという希望的な観測はもはや通用しなくなった。それでも製造業だから、製造業の事情だからという意見が中にはあるのかもしれない。
けれど、景気は好転するどころか、より悪化するという観測を日銀が選択せざるをえないほど、日本を取り巻く状況もまた厳しくなっているというわけだから、製造業での深刻な雇用環境がそこだけにとどまるという保障はもちろんない。すでに、たとえば最近までにぎわっていた博多の歓楽街・中洲も、これまでの勢いはない。廃業が続く。店を訪れる客も、終電の時刻を気にしながら飲むというほどの、ある意味では世知辛いふるまいを国民に強いる状況に日本中がなっているということだ。
製造業のこうした雇用環境の悪化は周り回れば消費をにぶらせる。その結果、商業もサービス業も今後予測されるのは経営は芳しくなくなり、不景気が進行するだろうということだ。大企業ほどのドラスティックな首切りはないとしても、多くの業種に人員削減の波は広く、深くおしよせることにつながりかねない状況が、すぐそこにきているというわけだ。
ソニーの正職員の解雇が最近、報じられ、テレビのニュースでももちきりのようだ。労働者の声を伝えていて、それを視るかぎり、しだいに、景気の悪化見通しは浸透しているようで、いちようにうかがえるのは将来に対する不安だ。正職員も安閑としてはいられない。
それでも従順な日本国では、自分は派遣だから、派遣が解雇をいいわたされてもやむをえないと答える労働者もいないわけではない。正社員でさえ、こんな不景気だからと、いわば達観して意見をのべる者すらいた。こんな反応が日本国的なのだろうが。西欧では、もっと個々の要求ははっきりしていて、主張も明確だ。首切りには断固反対、こんな反応が一般的なのだろう。
こうした日本の報道番組に配置される世間の声というものは、もちろんメディアの番組制作者の意図がどこにあるのか、これに左右される。今日の事態を半ばやむをえないという受け止めもふくめて、制作者が肯定的にとらえるならば、財界・大企業の対応を受容すること、やむなしという着地点に思いが収斂されるような番組構成になる、と容易に想像できる。
ところで、派遣村が世に知られるようになるにつれて、派遣村という一つの運動にたいする巻き返しが起こっている。別のところでふれたように、そのこと自体、派遣村の経験の周囲に与えたインパクトの大きさを象徴しているのだが、先にあげたような受容的態度を報じる、別のことばでいえば消極的なものもふくめて、派遣村にたいする批判は日を追うごとに高まっているような気がしてならない。
巻き返しとは、単にネットの世界で派遣村への批判や中傷だけにとどまらない。つまり、新自由主義施策のはたんがいたるところで露呈するとともに、金融危機の世界的波及にたいして資本主義が打開策をいっこうに提起できないなかで、新自由主義ではない、別の道を歩くことが必要、選択せざるをえないという思いは、実際に塗炭の苦しみを味わった人びとばかりではなく、まさに多数の者の実感となって、その心をとらえつつある。これまで何ら疑うことなく新自由主義の推進派のあとにしたがってきた支配層と政権政党もその動揺は隠しきれないでいるのだ。小泉以後の安倍、福田、麻生という自民党と公明党政権の誕生と崩壊の過程そのものが、これを余すことなく示しているのではないか。それは、打ち出す政策と実際の対応一つひとつに現れているではないか。あえて繰り返せば、当ブログが再三、指摘してきたところだが、福田政権のたとえば、後期高齢者医療制度一つをとっても明らかなように「政策的譲歩」、修正は数えるに余りある。舛添氏のキャラクターがあるにしても、彼の発言は常に、国民を意識し、それに迎合的なものにならざるをえないことをとりあげても、明らかではないか。
こんななかで派遣村の実践的経験は、反貧困という旗頭が、新自由主義に抗し、それとは異なる道を歩みたいという者の共通の一致点でありえたのは疑いのないところだ。それだけに支配層は、それを恐れたのだ。貧困を強いてきたのが当の支配層であったという事実に立つならば、反貧困の立場とはつまるところ反支配に接合されるからである。
だから、坂本哲志をしてそう語らしめたのだ。だから、田中康夫をもってして、派遣村=共産党という強調を前面に押し出し、派遣村の経験から国民の眼をそらそうとしたのだ。田中康夫は派遣村という一つの特殊な経験のなかに、支配層に矛先がむかうという(支配層としての)危険性を敏感につかみとり、支配層の権益を保持しようとして、支配層の声を代弁したということに尽きる。
仮に田中が真に反貧困の思想をもち、反貧困の流れがあまねくひろがることが道理だと理解しているのであれば、その一致点で共同できる範囲で共闘するということだ。そこで引き回しが実際にあるのなら、それを球団すればいい。彼の言い分どおり、共産党が仮に主導権を確保しようとしたとしても、あるいはそれがいやでイニシアを握られたくないのなら、自ら加わり、その道理のなさを指摘し、ふるまいを制止すればよかったまでのことにすぎない。それが正しいのなら、田中の主張が支持される。
そうではなかった。田中はまさに派遣村の外で、事態を支配層と同様のまなざしでながめ、あれは共産党なのだとまるで犬のように吠えたにすぎない。いかにも滑稽ではないか。
私は、昨年からの新自由主義のはたんが急速に露呈し、支配層が労働者にしわ寄せする傾向が定着する一方での、反新自由主義、反貧困の運動を支え、担ったのは、どの階層であるのか、それを考えることがあるし、この問題は、すでに決着していると思っている。
すなわち、反新自由主義、反貧困の立場の強調は、端的にいえばそれを推進してきた財界・大企業への強い批判と責任の明確化の追及に示されると考える。
この際、分かりやすいのは米国の事態である。
米国では、軍隊に入る人の多くは失業者かそれに近い人だといわれている。当ブログでは、日本でも派遣切りが横行するなかで、自衛隊の勧誘が派遣切りを視野に入れていることにふれたのだが、米国では軍隊リクルートは失業者、マイノリティがねらい打ちにされる。
考えてみると、これは、おかしな話である。つまり、米国を実際に守っているのは、または自らの命を賭けて米国を「敵」から守っているのは、豊かさの恩恵とはほとんど無縁のほかならぬ貧困層である。彼らは、国家とか国民に何らの恩義も、借りもない人びとなのだが、彼らこそが命を賭けされられているのだ。ここに逆転した構図がある。
先に日本では不景気を乗り切るための方針として労働者の首切りを大企業が定式化したかのようだとのべたが、その路線は定まりつつある。考えると、新自由主義的諸施策を貫くことによって、多額の利益をあげ、内部に溜め込んできたのが財界・大企業だった。労働者の賃上げはなく、むしろ減少するなかでのことだから、労働者から搾り取る一方で、大企業だけが富を築いたといってよい。所得再分配の機能が低下し、労働者の取り分、割合は労働分配率という指標で明らかなように低下してきたのだった。結局、富が一部に集中するしくみが構築されたことになる。この構造は、市場を国内ではなく、むしろ海外に求めることと結合していた。そうした志向性が、金融危機が迫ると、逆に負の条件になった。影響の拡散を加速度的に国内に高めたのだ。
だから、財界や大企業がこの事態にいたって、働く者の働く者としての資格を解雇・首切りによって奪おうとすることに端的なように、景気がよいとされる時期には搾り取るとることによって、景気悪化が叫ばれると解雇・首切りという手段によって、つまり常に労働者を調整弁にするのが資本の論理だということを我われが把握することこそ、では別の道を歩こうとするとき重要なのではないか。
日本でも、米国同様、恩恵を受けるものは、身の安全を問われかねないなどという危険とは無関係であるし、その意味で自らの存在意義を問われてきたのはいうまでもなく労働者ではなかったか。つきつめていえば、代わりはいくらでもいるといわんばかりの扱いを受けてきたのは働く者以外には他になかったのだ。
こんな一部始終が広く伝播されることを恐れるのは支配層である。その契機を反貧困のとりくみが切り開き、金融危機のもたらした特殊な条件を逆に活かし、特殊な経験に高めたのが派遣村のとりくみだったと私は考える。
その衝撃が大きいからこそ、派遣村をめぐってイデオロギー面の攻防が続くだろう。
だから、派遣村を訪れた者は、国民の皆さん方とはちがう特殊な人たちだという、
あるいは、彼らは働く意思を持っていないという、彼らだけがなぜ支援されないといけないのかという、彼らは仕事を選んでいるから(仕事に就けないの)だというような、全体から異なる部分として分断し、差別するという、新自由主義のなかでもっとも繰り返されてきた、支配者の手法がこの時期に再び、採られていることに着目せざるをえない。
働く者が真実を知ることを最も恐れているのは、いうまでもなく時の世を支配している者なのだから。
彼らは、反貧困の広がりと指弾の対象が自らに及ぶことこそ最大の恐怖なのだから。
(「世相を拾う」09020)
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ワークシェアという言葉に振り回されるな
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090106-OYT1T00626.htm |
このように氏がのべると、もうすでに日本社会が、日本の企業が少なからず反応し、日本全体をながめると一つの方向が定まるかのようです(*1)。
日本では、ワークシェアリングは実際には定着しえてこなかったのが今日まででした。しかし、この不景気といわれるなか、仕事を分かち合い、雇用を守るのならば、と善意の理解が広まるふしがまったくないこともないようです。
けれど、一人ひとりの労働時間を減らして、仕事を分かち合って失業をなくす、これが本来のワークシェアの考え方だとすると、御手洗氏のいうワークシェアというのはカッコでくくる必要があるのでは。第一、御手洗氏に雇用を守るという視点が定まっているのでしょうか。氏の視野に、非正規労働者の雇用があるのでしょうか。あるのなら、非正規労働者の派遣切りがあろうはずはないからです。
ですから、非正規の雇用環境を考慮しない、「ワークシェア」なんてその名に値しないといってよいでしょう。
つまり、今日、御手洗氏の発言に端的なように、日本の財界・大企業が主張するワークシェアというのは、結局、労働者に賃下げを迫るものといえそうです。非正規は首を切るのが、つまり切り捨てる前提で、その上に正規労働者の賃金をいかに削るのか、この関心から発せられる言葉が日本流「ワークシェア」といえるでしょう。
その意味では、西欧諸国の、熟した言葉であるワークシェアと、日本のカッコつきのそれは似て非なるものです。オランダの経験はあまりにも有名ですが、一人当たりの労働時間は200時間短縮される一方、失業者は目だって減ったといわけるくらいです。いわゆるワッセナー合意。
対照的に、企業の利益確保・維持の観点が常に出発点にある日本では、いきおい総労働時間を維持しつつ、労働者一人あたりの賃金抑制にむかうのがオチで、まさに世界には受け入れられない日本式ではないでしょうか。
ようするに日本では、本来の雇用を拡大するのではなく、労働者の賃下げを徹底するための方便として機能させるのがワークシェアリングと理解されているのです。
(「世相を拾う」09019)
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*1;氏はこうものべています。http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090108-OYT1T00379.htm
春闘の前哨戦となる日本経団連主催の労使フォーラムが8日、東京都内のホテルで始まった。
消費税増税のための、与謝野氏の方便がここにある。
消費増税なら「政党交付金、議員歳費半分に」 経財相
まず、政党交付金、議員歳費を同列に扱う問題。政党交付金、つまり政党助成金は、もともと国民の税金で政党に助成する性格をもっているのですから、国民それぞれの支持政党とは関係なしに政党に配分される問題を指摘しないわけにはいきません。支持しない政党に、いくらかでも自分の税金が回るという不条理。これはどこまでも解決することができません。近代政治においては、いうまでもなく自ら支持する政党に自ら募金する、これが確立された原則でしょうから。
これと議員歳費を同列においてよいのか、疑問を私は率直にもつわけです。国民の立場にたった、国民のための議員活動に、極端なことをいえばいくら使っても国民がそれを評価すれば否というわけにはいかない。これが私の考え方です。問題は、ほとんど国民本位の立場とはいえず、往々にして国会で質問もしない議員にも同様の歳費があてがわれている矛盾、これをどう解決するかということでしょう。政党政治の今日、それは、おそらく個々の政党の、国民の目線との距離感に左右されると思うのですが、それぞれの政党の議員活動の位置づけが問われているといわなければならない。これを、政党助成金と同様の水準で扱うムリ、矛盾は、ほとんど明らかではないでしょうか。
こんな問題を、あたかもムダをなくすというただ一点でくくってしまい、つまり、政党交付金も、議員歳費もムダという余剰があるという認識でしょうが、それを生贄に消費税を増税しようとする魂胆を、第一に発言はふくんでいます。
欺瞞だと思うのは、まさに発言する氏が所属する自民党そのものが、これまで何事もなかったかのように多額の政党交付金をせしめ、そして議員歳費を受け取ってきたという事実です。消費税を増税しようとしまいと、政党交付金を受けることの是非の問題は存在する。また、自民党議員のなかには当選したものの、ほとんど質問にも立たない議員が少なくないという事実、つまり同党のこれまでの議員活動のありようと、国民の望む国会議員の活動のあり方にてらし、同党がどう受け止め、消化してきたのか、それが問われてしかるべきだということではないでしょうか。
与謝野大臣は、その意味で偽善家であることを自ら証明している、こういってしまうといいすぎでしょうか。
今回の発言自体も、どれほど実践し、あらためようとする腹積もりができているのか、といえばほとんど首をかしげたくなる程度のもののように思えます。
さらにえいば、なるほどムダがあるのなら、それは正した上で、にっちもさっちもいかないことが周知の事実となり、もはや財源を確保する上で、消費税以外にない、これが国民に十分に納得されなければならないでしょう。日本の政治シーンでは少なくともこんな状況はもたらされてはいません。
もっとも欺瞞的なのは、今でも聖域とよばれる手をつけてはならない部分は、なぜそうなのか国民に説明されることなく温存されているのですから。
消費税増税は、むしろ、そうした聖域を聖域として保持するための方便ではないでしょうか。すなわち、消費税に財源を求めることと、企業優遇税制を見直すことは、政治路線上鋭く対立するものとして定立させられてきたといえる。
別の言葉でいえば、税のとり方、この点で鋭い階級的対立があるのです。少なくとも日本の政治は、分かりやすくいえば、大企業の税を優遇しつつ、一方で大衆課税を強めることで推移してきたといえる。働く者への賃金抑制を強めることとあわせて、税の取り方で低所得者にシフトするという、いわば二重の意味で、再分配を弱めてきた結果が今日の貧困の極まりを端的に表現しているのでしょう。
与謝野発言は今日のこうした事態から目をそむけ、消費税増税を準備するための、体のよい発言と断ぜざるをえません。
つまり、税制上、極端な大企業優遇をつづけ、国民の少なくない部分を貧困に至らしめ格差を広げてきた自民党政治に無反省でありながら、こうした「お利口な発言」をなすことに強い疑念を私は抱きます。大企業や大資産家への課税を強化することに比べれば、与謝野氏のいう「ムダ見直し」の効果など足元にも及ばない。
企業減税から目をそらす、ここにこそ、財界・大企業が消費税増税を至上命題とする理由があるし、それを支えるという与謝野発言の真意があるのです。
(「世相を拾う」09018)
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財界政党は面白くない。。
その後は、ご存知のように、自ら優先政策というものを掲げて、それに基づき、政党の通信簿をつけるという手法で、自民党と民主党を評価し、傘下の企業に献金を斡旋するのでした。経団連の主張を自民、民主両党を呼びつけて、それぞれの政策に取り入れさせるという念の入れようでした。
その結果、日本経団連の発表によると、政治献金の総額は29億9000万円(07年分)。前年比3億9000万円増です。大半は自民党に流れています(29億1000万円)。トヨタ自動車は6400万円、御手洗富士夫経団連会長のキヤノンは8030万円(前年比131.4%)となっています。つまり、経団連という一つの大企業の集団が、斡旋という形をとって特定の政党に献金というこの構図が日本の政治をゆがめる要因になっているのは明らかです。別のことばでいえば、財界・大企業の主張を明確に示しながら、片方で献金の支出先を決めるというのですから、そこにバイアスがかからないはずがありません。結局、自民党はもちろん、民主党もまた、財界のこの戦略に乗せられているのは、誰もが察知せきるをえないことではないでしょうか。
日本の政治は、こんな形で、大企業・財界のいわばとりこになっているともいえそうです。
米国を経由した金融危機を契機とした世界的な不況といわれるなかで、貧困と格差が極まり、働く者に生きることも諦念させかねないような犠牲を迫る現実がある。この間、たとえば労働分配率という指標で示されるような労働者への分配が著しく少なくなるようにゆがめられ、富が一方の極、すなわち財界と大企業に集中するようなシステムが構築されてきました。ひらたくいえば、働く者の犠牲、働く者を絞りに絞ることによって企業は富を築いてきました。不況がいわれると、彼らは、それでも可能なかぎりの利益確保を前提に乗り切る方途を選び取り、その結果、労働者の労働者たる存在すら奪い取る手段に乗り出したのでした。
このような彼らのやり口を仮に横暴とよぶとするのなら、そんな横暴を思いのままにさせておくための、予めの策略こそが、企業献金でもあったといえそうです。
自民党が、財界に直接、何を要求しえたのか。そして、民主党もまた、野党らしくふるまえたのでしょうか。私には、少なくともそんな事実はないとしか思えないのです。
結局、自民党も、たとえば献金額では同程度とはいえないまでも民主党もまた、現実には財界政党となりはてた姿を私たちにさらしているのではないでしょうか。
ここに、私は日本政治の、どうしようもないていたらくの一つを感じるのです。
予測値で10万人になりなんとする解雇(予定)者がいるというのに、ほとんど霞ヶ関の枠内で解決できない日本の政治状況が、それを端的に示しているといえるのではないでしょうか。
財界政党というのは、ちっとも面白くありません。
(「世相を拾う」09017)
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二つの党大会と西松建設献金問題
下記の報道によれば、西松建設は周到な手法を準備し、大がかりな裏金づくりと違法献金をつづけていたようだ。
同時に、私が目を奪われるのは、かかわっている政治家の顔ぶれである。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090118-00000007-yom-soci
http://news.livedoor.com/article/detail/3980337/
もう一つの可能性という以上、現状の日本ではない日本をむろん展望している。
今ある日本ではない、もう一つの日本では、こんな大企業と政界との癒着のしくみを断ち切るような日本でなければならない。すなわち、今日の違法献金を生み出す要因となっている企業献金を一切認めない日本であってほしいと強く思う。
大企業は今、まさにその社会的責任というものが問われている。
先を争うような派遣切り。それだけではなく、予想にたがわず正規職員切りに乗り出している。世界的不況を口実に。しかも、それが日本ではなく、米国発であるということを、最大限に利用して、あたかも不可避の、あるいはやむをえないものとして労働者の首切りを是認させようとしていることを注視せざるをえない。
しかし、一つ例をあげ、重ねていえば、大企業は地方自治体から誘致にあたって多額の補助金を得ている。つまり、当該住民の税金がそれに充てられている。それだけではなく、企業のつくり出す製品は地域の消費志向が高まらない限り、売り上げは伸びない、モノが売れないのだ。この間、日本の国内消費を高めようにも、正規から非正規労働者への置き換えがすすみ、相対的に低所得者がつくり出され、所得も減らされれば、モノを買うにも買えない。結局、不況がすすむと、そのツケが大企業にも回ってきたのだ。ようは、国内消費を高めることは、回り回って企業の経営活動にも結びつくわけである。
日本の大企業は、回り道のようであっても、国内消費を高め経営にも結びつけるというのではなく、短期的にみれば、もっとも安易な、労働者にそのツケを回すという手段を選択したのであった。
こうして社会的責任を果たそうとしない日本の大企業の姿勢というものは、西松建設に端的なように、政治(家)との癒着という個別、特殊な関係を結ぶそれと接合している。社会的な責任というものを認識するのならば、個別の贈与と反対贈与を期待する自己完結的な癒着など選ぼうはずはないからである。
昨日、政権を争うといわれる自民党と民主党の党大会が終わった。華々しく政権交代を一方がうたえば、他方は責任政党としての存在感を強調した。とってかわろうとする側も、守ろうとする側も、しかし、こうして献金リストに名を連ねているのはなぜか。
おそらく、それは、政権交代や死守ということが、国民という主体とは無関係なものであるからにちがいない。献金を大企業からもらって、国民を大事にする政治というものができるのか。それは、ここ数カ月の事態の推移を直視すれば、およそ誰にも分かろうというものだ。つまり、大企業は自らのために、働く者を常々、切る用意があるということだ。モノとして扱う覚悟ができあがっているのだ。
これに抗おうとすれば、金を一方でもらっていては不可能だろう。だから、名を連ねている政治家のいったい誰が、大企業を追及しえているのか。
繰り返していえば、党大会を終え、さあこれから「対立」という時期に、一方の党首もからむ西松問題が再燃していることに私は注目するが、メディアが伝える政権交代も、「対立」も、一歩、政治の表層から中に踏み込むと、姿を隠し、そんな表向きの「対立」とは無関係な、溶解したところに政治家の群れがあるということを示している。
だから、どんな日本をつくろうとしているのか、これを私たちはあらためて問わねばならないのではないか。あえて彼らが語ろうとしないのには、訳があるだろう。何もかわらないか、または、彼らがつくろうとしている日本とは、結局、そこに国民が不在ということが大いに予想されることなのだから。
(「世相を拾う」09016)
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国民無視でも増税をというに等しい朝日社説
税制改正関連法の付則に消費税増税を明記することは、法案がとおれば増税を基本方向として確認するということにほかなりません(昨日エントリー)。手続き上、国民に是非を問わないこうしたやり方をまず問わなければならないでしょう。そのまま認めてしまえば、民主主義も何もあったものではありません。
社説は、明記自体の問題に一切ふれていません。むしろ、明記することは当然のこととして、自民党内の意見が分かれていようと、決意を示せと、増税推進の立場を鮮明にしているのです。
いうまでもなく、自民党はこれまで、消費税増税を国民に問うたことはありません。そうではなく、選挙の際には増税しないとのべ、争点にもせず、(消費税関連)法案を多数を借りて強行してきた、これが事実でしょう。こうした消費税導入とその後の税率改定の一連の経過を考えるならば、今回の明記方針が、国民の審判を仰がないという意味で、その繰り返しというばかりでなく、付則に増税方向を盛り込むという手続き自体、国民の意見をいわば無視するものといってもよいでしょう。付則は拘束力をもつのです。
消費税増税が不可避だと朝日新聞はいいます。
不況から脱出した暁には、福祉を安定させるために、その費用を国民が増税で広く負担することは避けて通れない |
この朝日の認識の是非はひとまず横に置くとしても、不可避か否か、国民の間で意見が分かれるところでしょう。不可避とは、歳入歳出を徹底して見直した結果でなければ、いえるものではないでしょう。第一、税のとり方と税の配分で、選択肢がないならば、その中身を提示し、消費税増税の審判を仰ぐものでしょう。不可避を朝日が決めるわけではありません。もちろん消費税増税を是とするか否とするか、朝日はどちらか一つの立場をとりうるし、とるでしょう。けれど、政治が国民の審判を仰がないで、国民の間の議論を経ずに、増税を強行しようとすれば、その不正を政治に問うのがその際も、ジャーナリズムではないでしょうか。
私たちは、朝日新聞の綱領を知っています。
その綱領には、第一項、同二項にこう謳っています。
不偏不党の地に立って言論の自由を貫き、民主国家の完成と世界平和の確立に寄与す。
正義人道に基いて国民の幸福に検診し、一切の不法と暴力を排して腐敗と闘う。 |
実際の朝日の言論は、この社説の主張をみるかぎり、綱領との乖離を思わざるをえません。すでに、このエントリーで朝日が明確に消費税増税の旗幟を鮮明にしたことをのべました。
朝日は、そこから飛躍して、今度は国民無視でも増税のスタートに自公政権も立たせようとしている、こう表現できるのではないでしょうか。
この姿勢の背景には、やはり消費税増税が今日の自民党政治を支える財界・大企業の要求であって、その財界・大企業にモノがいえないような非対称の関係が形づくられているからです。
その意味で朝日は、ジャーナリズム精神をどこかに置き忘れてしまったのです。
(「世相を拾う」09015)
消費税増税- 口実を変えた政府
これに、菅直人氏が以下のように反応しているようです。あいかわらずの政局をからめた反応です。
菅氏の期待がどうであろうと、消費税増税を付則に盛り込むという意味を考えないといけません。だから、菅氏が最初に言うべきは「国民に増税の是非を問うべきだ」ということであり、同時に、民主党は消費税増税にどんな態度をとるのか明示するということではないでしょうか。これに、菅氏がどんな態度をとるかを私は知りたいのです。
つまり、税制改正法案の付則に盛り込むということは、法案がとおれば増税を基本方向として確認するということにほかなりません。
民主・菅氏「消費税で与党混乱」 自民の造反期待
さて、繰り返し主張される消費税増税。
かつては、消費税増税は社会保障財源のためという口実を全面におしたてていました。そもそも新自由主義的構造改革は、消費税の割合を高め税構造を大きく変えることを、高コスト構造からの転換の一環として位置づけてきたのでした。財政を持続可能なものにしていくために、5年間で1兆1000億円の社会保障費の削減がかかげられてきたのは周知のとおりです。こうした社会保障費削減と抱き合わせで、一方では07年12月の与党税制改革大綱では税体系の抜本的改革が明示され、消費税は主要な財源とすることがうたわれています。
しかし、社会保障国民会議が設置されます。福田首相のときです。
社会保障国民会議の議論は、それまでの議論とは若干、趣を異にしているように思えます。
これまで少なくない消費税関連のエントリーを当ブログでも記してきましたが、あらためてこのエントリーで、社会保障国民会議の設置前後での、消費税増税論者たちの議論の変化に着目し整理しておきたいと思います。
すなわち、設置以後は、社会保障と財源の関係から持続可能性を強調した従来の削減路線から、社会保障の機能強化を強調した論旨、論点に変化しているということです。財政再建を理由に社会保障費削減を主張しながら、持続可能性のために消費税増税を正当化し使用とする方法では展望を見いだせず、社会保障の機能を強化するために消費税増税が必要だという主張への変化です。
たとえば、こんなふうに。
「制度の持続可能性」を確保していることは引き続き重要な課題ではあるが、同時に、今後は、社会経済構造の変化に対応し、「必要なサービスを保障し、国民の安心と安全を確保するための"社会保障の機能強化"に重点を置いた改革を進めていくことが必要である(中間報告) |
その後の麻生首相の「中福祉・中負担」発言もこの流れに沿ったものであって、社会保障国民会議の最終報告(08年11月)「機能強化」のための追加財源分を消費税率で換算した数値が示されたことで、機能強化という理由で消費税増税を正当化しようとする方向は明確になったといえるでしょう。経団連はすでに昨年10月、「税・財政・社会保障制度の一体改革に関する提言」を発表しています。その基本は、上記「機能強化」論と同じ地点に立っています。
必要な箇所に財源を重点的に振り向け、制度の安定的向上、綻びの解消を図るべきである |
などに端的に表現されているのではないかと思います。
ですから、今後は、消費税は社会保障に使われないと単純化するわけにはいかず、政府・自民党、そして財界のいう、機能強化ということを問い直さなければならないということです。
消費税増税の口実に、社会保障の機能強化をいっているのですから、では機能強化とはいったい何か、社会保障が充実をするのか、それを問うことが必要になります。詳細をふれることができませんが、私は、中間報告、最終報告を読む限り、これまでの医療改革の名であげられていたものの繰り返しのようにしか思えません。機能強化というふれこみで、あたかも国民よりの社会保障充実を図るかのような装いですが、じっくり点検してみる必要がります。
増税への障壁をできるだけ低くしようと強調されている社会保障の機能強化論。それを阻止するためには、社会保障拡充とそれにふさわしい財源をどのように確保するのか、そこで国民的な合意を形づくることが求められています。その方向は、貧困のこれだけの深まりのなかで明らかなのでしょうが。
すなわち、貧困と格差を拡大させてきた自民党政治からの転換、つまり社会保障と財源の関係でいえば、歳入歳出のあり方を見直すこと、つまり税のつかいみちと税をどこからとるのか、所得税の累進性強化・法人税課税の強化、ムダな公共事業や防衛費の見直しは欠かせない論点ではないでしょうか。もちろん、公費と事業主負担を高めることが不可欠だといえるでしょう。
冒頭に戻ると、麻生政権の消費税増税明記方針は以上の経緯をふまえたものであるのは論をまちません。さて、社会保障を充実させる上で、消費税増税が不可避なのかどうか、消費税増税にどんな態度をとるのか、これを各党に問わねばなりません。
(「世相を拾う」09014)
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